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(4)眼が真っ黒に塗りつぶされた羊の絵――参謀の「魔法の杖」と内閣官房の闇

(4)眼が真っ黒に塗りつぶされた羊の絵――参謀の「魔法の杖」と内閣官房の闇

この映画では新聞社の社会部に匿名で送られてきた「医療系大学の新設」に関する極秘公文書の表紙に描かれた「真っ黒に眼が塗りつぶされた羊」の絵が、重要な役割を果たしている。

すると神崎の妻・伸子は「羊の形」が幼い娘のために書いた羊の絵とそっくりだが、やさしそうに笑っていた羊とは違い、沈黙に耐えているような苦悩を感じて夫の机の鍵を渡す。引き出しを開けた吉岡は、そこに全く同じ羊の絵と極秘公文書を見つけ、さらにその下には、重要な個所にはマークが付けられている本を発見した。それは化学兵器生物兵器の実験が行われていたアメリカ陸軍の実験施設で1968年に起きたダグウェイ羊事件と呼ばれる羊の大量死事件についての本だったのである。知らせを受けて駆け付けた杉原(松坂)も、「真っ黒に眼が塗りつぶされた羊」の絵から強い衝撃を受け、吉岡(シム)に協力することを決意したのだった。

1931年(昭和6年)に「満州事変」を起こし翌年には満州国を建国した日本は、「五族協和」などの美しいスローガンを掲げたが、実際には過酷な植民地政策を行っていた。それを批判されると国際連盟から脱退しした日本は、1939年には陸軍が満州国境でノモンハン事件を起こして1940年の東京オリンピックは幻に終わっていた。

 Poster Olympische Sommerspiele Tokio 1940.jpg

映画できわめて重要な役割を果たしているこの「羊」の絵をとおして、オリンピックを翌年に控えた現在の日本と昭和初期の危険な類似性を分析することにする。

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 満州国の国境付近で1939年に起きたノモンハン事件について、研究者のクックス氏から戦前の日本では国家があれだけの無茶をやっているのに国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったと指摘された司馬遼太郎は、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。…中略…『ノモンハン』が続いているのでしょう」と応じていた(「ノモンハンの尻尾」『東と西』朝日文庫)。

戦車兵だった司馬がノモンハン事件に強い関心を持ったのは、日本ではこの事件のことが全く報道されていなかったためである。軍による「嘘」や情報の「隠蔽」は、太平洋戦争時の「大本営発表」でいっそう顕著になるが、すでにこの頃から起きていたのであり、それはオリンピックを前年に控えた現在、内閣官房長官が記者会見で行う「情報」の質を予告していたように見える

米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は「日本は憲法で報道の自由が記された現代国家だ。それでも日本政府はときに独裁国家をほうふつとさせる振る舞いをしている」と批判しているが、敗戦から70年経った現在、安倍政権与党の自民党と公明党の議員だけでなく、官僚たちが再び「沈黙を強いられた羊」と化してしまったかのように感じ、この眼が真っ黒に塗りつぶされた「羊」は、現在の日本人の姿をも象徴しているように思えた。

誠実な官僚だった神崎の自殺は、司馬が書こうと長年準備していた幻の長編小説『ノモンハン』にも深く通じているところがある。

劇作家・井上ひさし氏との対談で「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」で、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と語り、戦闘に参戦した連隊長の証言をも記していた。

すなわち、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよ」と命じられたことを伝えた須見新一郎元大佐は、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と厳しく批判したのである(『国家・宗教・日本人』)。

 「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いている(『この国のかたち』・第一巻)。

こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は『坂の上の雲』での考察を踏まえて、「昭和初期」の日本の問題にも鋭く迫る大作となることが十分に予想された。しかしこの長編小説の取材のためもあり行った元大本営参謀の瀬島龍三との対談が、『文藝春秋』の正月号(1974年)に掲載されたことが、構想を破綻させることになった。

すなわち、この対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えていた(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

実際、『永遠の0(ゼロ)』で重要な働きをなしている元海軍中尉で「一部上場企業の社長まで務めた」武田貴則のモデルとなっている瀬島龍三は、戦後に商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになり、1995年には「日本会議」の前身である「日本を守る国民会議」顧問の役職に就いているのである。

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須見元連隊長との関係について記した元編集者の半藤一利氏は、「かんじんの人に絶縁状を叩きつけられたことが、実は司馬さんの書く意欲を大いにそぎとった」のではないかと推測している。

研究者の小林竜夫氏も須見元大佐がこの長編小説の主人公だったのではないかと考え、「須見のような人物を登場させることはできなく」なったことが、小説の挫折の主な理由だろうと想定している(『モラル的緊張へ――司馬遼太郎考』)。たしかに、惚れ込んだ人物を調べつつ歴史小説を書き進めていた司馬のような作家にとって主人公を失うことは大きい。小説は「書かなかった」のではなく「書けなくなった」のである。

Japanese soldiers creeping in front of wrecked Soviet tanks.jpg

幻となったオリンピックの前年に起きたノモンハン事件と比較するとき、映画『新聞記者』の台本の執筆者たちがどの程度、司馬を意識したかは分からないが、「自殺」という問題をとおして、戦前から現在にいたる日本社会の病理にも迫ろうとしていたように思える。

 

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