高橋誠一郎 公式ホームページ

『罪と罰』

「講座  『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を「新着情報」のページに掲載

リンク→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

  3月4日に標記の題名で<世田谷文学館友の会>の講座を行うことになりましたので、講座のリード文と日時などを「おしらせ」123号より、「新着情報」のページに転載しました。

<世田谷文学館友の会>の講座では、これまでにも、2013年2月19日に「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」という題名で、2014年6月27日には、「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」という題名でお話しする機会を頂きました。

今年は「憲法」のない帝政ロシアで1866年に書かれたドストエフスキーの『罪と罰』が発表されてから150年に当たり、スペインのグラナダで『罪と罰』をメインテーマとした国際学会(IDS)が開催されます。

それゆえ、今回の講座では新聞『日本』の記者でもあった正岡子規と夏目漱石や島崎藤村との関係などに注目しながら、評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)を書いた北村透谷を主人公の一人とした藤村の『春』や日露戦争直後に上梓された『破戒』などとその時代を分析することにより、『罪と罰』が日本の近代文学に与えた深い影響と現代的な意義についてお話したいと考えています。

(参考図書:高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)。

大阪からの危険な香り――弁護士ルージンと橋下徹氏の哲学

〈「道」~ともに道をひらく~〉というテーマで大阪で行われた先日の産学共働フォーラムの一般発表発表で私は、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏が、高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であると描いていたことを比較文明学的な視点から確認しました。

リンク商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

しかし、2015年11月22日に行なわれる大阪府市長ダブル選挙についての各社世論調査では、政界引退を表明している橋下徹・大阪市長が率いる「大阪維新の会」系の松井府知事と吉村候補が有利との選挙予測が出たとのことです。

他府県のことなので、あまり関与すべきではないとも考えて発言を控えていましたが、国政選挙にも関わることなので、このブログでも取り上げることにしました。

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実は、〈なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義〉と題したこのブログの記事でルージンという弁護士について論じた際に思い浮かべたのは、権力を得るためには何をしてもよいと考えているかのように思える弁護士の橋下氏のことでした。

「経済学の真理」という視点から「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張したルージンは、ドゥーニャとの結婚の邪魔になるラスコーリニコフを排除するために、策略をもってソーニャを泥棒に陥れようとしていました。

一方、地方行政のトップであり、かつ法律を守るべき立場の弁護士でもある橋下氏が、公約を覆して府民や市民の多額の税金を費やして自分の有利になるような選挙を行うことが正当化されるならば、民主政治だけでなく学校教育の根本が揺らぐようになる危険性があると思われます。

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かつての日本では、約束を守ることや誠実さが人間に求められていましたが、そのような価値観が大きく変わり始めていると感じたのは、大学で『罪と罰』の授業を行い始めてから10年目のころでした。

その授業で私はラスコーリニコフの「非凡人の理論」が、後にヒトラーによって唱えられる「非凡民族の理論」を先取りしている面があり、その危険性をポルフィーリイに指摘させていたことに注意を促していました。

しかし、20世紀の終わりが近づいていた頃から、ヒトラー的な方法で権力を奪取することも許されると、ヒトラーを弁護する感想文が出てきたのです。人数としては100人ほどのクラスに数名ですから少ないとは言えますが、そのように公然と主張するのではなくとも内心ではそのように考える学生は少なくなかったのではないかと思えるのです。

「今の日本の政治に一番必要なのは、独裁ですよ」と語ったとも伝えられる橋下徹市長の手法は、まさにこのような学生たちの主張とも重なっているようにも感じられます。

「島国」でもある日本では「勝ち馬に乗る」のがよいという価値観も強いのですが、ヒトラーが政権を取った後のドイツや岸信介氏が商工大臣として入閣した東條英機内閣に率いられた日本がその後、どのような経過をたどって破滅したかに留意するならは、ギャンブル的な手法での権力の維持を許すことの危険はきわめて大きいと思われます。

原子力艦の避難判断基準の見直しと日本の「原子力の平和利用」政策

「東京新聞」の朝刊(11月7日)に「原子力艦も5マイクロシーベルト超に 避難判断基準原発と統一」との見出しで、下記の記事が掲載されていました。

比較的小さな出来事のようですが、安倍政権の「安全保障」政策を検証する上でも重要な出来事と思えますので、以下に引用します。

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米海軍横須賀基地(神奈川県横須賀市)に配備されている空母など原子力艦で事故が起きた際の避難判断基準を定めた国の災害対策マニュアルが、近く改訂されることになった。住民が避難や屋内退避を始める放射線量を毎時五マイクロシーベルト超に引き下げる。これまでは原発事故の二十倍の同一〇〇マイクロシーベルトだった。

有識者や関係省庁による作業委員会の初会合が六日、基準を原発の災害対策指針と合わせることが合理的との結論で一致した。国の中央防災会議の課長クラスによる会議を一カ月以内に開き、マニュアルを改訂する。横須賀市が基準の見直しを求めていた。

作業委の初会合は東京・永田町で開催。河野太郎防災相は「基準が原発と違っていることは論理的におかしい」と指摘した。

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この記事を読んで私が思い出したのは、地震大国という地勢的な条件や1954年の「第五福竜丸」事件など原水爆の悲惨さから目をそらして、日本が原子力大国への道を歩み出し始めた1955年の「原子力基本法」成立前後のことでした。

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(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

このことについては拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の第二章「映画《生きものの記録》と長編小説『死の家の記録』」で次のように考察していました。

〈アメリカ政府の「原子力の平和利用」政策に呼応するように一九五五年に「原子力潜水艦ノーチラス号」を製造した会社の社長を「原子力平和利用使節団」として招聘した読売新聞社の正力松太郎社主は、映画《生きものの記録》が公開されたのと同じ一一月からは「原子力平和利用大博覧会」を全国の各地で開催し、「原子力発電」を「平和産業」として「国策」にするための社運を賭けた大々的なキャンペーンを行った。

この結果、原水爆反対運動は急速に冷え込むこととなり、「民衆」の本能的な怖れや一部の良心的な科学者たちの激しい反対にもかかわらず、一二月一九日には「原子力基本法」が成立した。「原子力基本法」を成立させた日本政府は、「原子力の平和利用」を謳いながら、再び経済面を重視して原子力発電の育成を「国策」として進めるようになり、原子力発電の危険性を指摘した科学者を徐々に要職から追放しはじめた。〉

原子力艦の避難判断基準が「原発と違っていることは論理的におかしい」と指摘した河野太郎防災相の発言はきわめて正当なのですが、私たちは敵と戦うことを目的としている原子力空母が日本の基地に配置されていること自体を「間違っている」と厳しく批判しなければならないでしょう。

「東京新聞」の解説記事では、<原子力空母>について「原子炉で核燃料を燃やすことで動く航空母艦。原子炉の仕組みは普通の原発とほぼ同じ。燃料の交換が少なくてすみ、安定した航行ができるとされる」と説明されています(太字は引用者)。

しかし、敵への威嚇だけでなく交戦を目的としている以上、<原子力空母>が攻撃されて甚大な被害を蒙り、原子炉が破損することも十分に考えられるのです。

そのような事態をも考慮しないのであれば、太平洋戦争以降のアメリカ軍の戦略や安倍政権の「安全保障」政策も、「戦艦大和」を「不沈戦艦」とした旧日本軍と同じような安全神話の上に成り立つ危険な戦略であると思われます。

 

岸・安倍両政権の「核政策」についての記事

リンク安倍首相の「核兵器のない世界」の強調と安倍チルドレンの核武装論

リンク→原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

リンク→「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」

リンク→「安全保障関連法案」の危険性――「国民の生命」の軽視と歴史認識の欠如

 

なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

一、小林秀雄の『罪と罰』論と弁護士ルージン考察の欠如

熱気に包まれた小林秀雄の『罪と罰』論を何度か読み直すうちに、小林秀雄の評論からは『罪と罰』の重要なエピソードや人物が抜け落ちていることに気づきました。たとえば、小林秀雄の『罪と罰』論では、原作ではきちんと描かれていたラスコーリニコフやソーニャの家族関係はほとんど言及されていません。

さらに、ポルフィーリイとの対決をとおしてその危険性が鋭く示唆されている「非凡人の理論」は軽視されており、功利主義的な考えを主張してラスコーリニコフと激しく対立する弁護士ルージンにはほとんど触れられていないのです。

しかし、『罪と罰』という題名を持つこの長編小説の主人公であるラスコーリニコフが、元法学部の学生であるばかりでなく、犯罪者の心理について考察した彼の論文が法律の専門誌にも掲載されていると記されていることに留意するならば、妹ドゥーニャの婚約者であり、ラスコーリニコフと激論を交わすなど長編小説の筋においても重要な役割を果たしている弁護士のルージンについてふれないことは、小説の理解をも歪めることになるでしょう。

二、弁護士ルージンの「新自由主義的な」経済理論

ここでは『罪と罰』の記述に注意を払いながら、ラズミーヒンの反論をとおしてルージンの経済理論の問題点に迫ることにします。

注目したいのは、ルージンが衣服の例を出しながら、「今日まで私は、『汝の隣人を愛せよ』と言われて、そのとおり愛してきました。だが、その結果はどうだったでしょう? …中略…その結果は、自分の上着を半分に引きさいて隣人と分けあい、ふたりがふたりとも半分裸になってしまった」と主張していることです。

 そして、ルージンは「経済学の真理」という観点から「安定した個人的事業が、つまり、いわば完全な上着ですな、それが社会に多くなれば多くなるほど、その社会は強固な基礎をもつことになり、社会の全体の事業もうまくいくとね。つまり、もっぱらおのれひとりのために利益を得ながら、私はほかでもないそのことによって、万人のためにも利益を得、隣人にだって破れた上着より多少はましなものをやれるようになるわけですよ」と説明していたのです。

さらに、彼は「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張し、「実に単純な思想なんだが、…中略…あまりにも長いことわれわれを訪れなかったのです」と結んでいました(2・5)。

三、ラズミーヒンの批判と「アベノミクス」のごまかし

一方、この場に居合わせてルージンの経済理論を聞いたラズミーヒンは「あなたが早いとこ自分の知識をひけらかしたかった気持ちは大いにわかる」が、「近ごろではその全体の事業とやらに、やたらいろんな事業家が手を出しはじめて、手あたりしだい、なんでもかでも自分の利益になるようにねじ曲げてしまうし、あげくはその事業全体を形なしにしてしまう状態ですからね」とルージンの理論を厳しく批判していました(太字は引用者)。

このようなラズミーヒンの説明は、「アベノミクス」やレーガン大統領の頃の経済理論であるレーガノミクスの理論的な支柱となった「トリクルダウン理論」の批判につながると思われます。

すなわち、「トリクルダウン理論」でも、結婚式などで用いられるシャンパングラス・ツリーの一番上のグラスにシャンパンを注ぐと、あふれ出たシャンパンは、次々と下の段のグラスに「滴り落ち」るように、最初に大企業などが利益をあげることができれば、次第にその利益や恵みは次々と下の階層の者にも「滴り落ちる」と説明されているのです。

しかし、頂点に置かれてシャンパンを注がれるグラス(大企業)は、大量のシャンパン(金)を注がれてますます巨大化するものの、それらを内部留保金として溜め込んでしまうのです。それゆえ、下に置かれたシャンパングラス(中小企業)や個人には、ほとんどシャンパン(金)が「滴り落ち」ずに、ますます貧困化していく危険性が強いのです。

そして、経済学の分野でも、「実証性の観点からは、富裕層をさらに富ませれば貧困層の経済状況が改善することを裏付ける有力な研究は存在しないとされている」だけでなく、レーガノミクスでは「経済規模時は拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という『双子の赤字』を抱えることになった」ことも指摘されています。

このように見てくるとき、ドストエフスキーは後にソーニャを泥棒に仕立てようとする悪徳弁護士のルージンに、現代の「新自由主義」な先取りするような考えを語らせることにより、「富める者」の富を増やすことで貧乏人にもその富の一部が「したたる」ようになるとする「アベノミクス」のごまかしを暴露しているようにさえ思えます。

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(序)――「安倍談話」と「立憲政治」の危機

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

講演「黒澤明監督の倫理観と自然観」の感想が桝谷裕氏のブログに

《生きものの記録》に関する記事をネットで探していたところ、「黒澤明監督とドストエフスキー」と題するブログ記事で俳優の桝谷氏が講演の感想を書かれていたのを見つけました。

そのブログ記事では私の講演の要点が適確にまとめられているだけでなく、その後の質疑応答や岩崎雅典監督の映画の紹介も記されていました。だいぶ時間が経ってはいますが、人名などの誤植を一部改めた形で、お礼の意味も込めてこのブログに転載させて頂くことにします。(行替えなどを変更させて頂いた箇所は/で示しています)。

リンク→「黒澤明監督の倫理観と自然観」

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「黒澤明監督の倫理観と自然観――《生きものの記録》から映画《夢》へ」/という講演会に行きました。(「地球システム・倫理学会」研究例会)/高橋誠一郎氏(元東海大学教授、現桜美林大学非常勤講師)。

黒澤明監督がドストエフスキーの影響を強く受けていたことを中心に、黒澤明監督の自然観、倫理観について話されました。

1ドストエフスキーの「罪と罰」の人類滅亡の悪夢と、映画「夢」の「赤富士」と「鬼哭」

2原爆を描いた映画「生きものの記録」とその時代

3映画「デルス・ウザーラ」における環境倫理

4映画「夢」における黒澤明監督の倫理観と自然観

おわりに ラスコーリニコフの復活と映画「夢」の第八話「水車のある村」

「地下室の手記」で主人公は、弱肉強食の思想や統計学、さらには功利主義など、近代西欧の主要な流れの哲学と対決している、というイギリスの研究者(ピース)の指摘を紹介されました。殺害を正当化する(近代西欧の思想に影響されている)ラスコーリニコフに、流刑地のシベリアで人類滅亡の悪夢を見せることで、弱肉強食の思想や、自己を絶対化して自然を支配し他者を抹殺する非凡人の理論の危険性を示唆していると話されました。

黒澤明監督がドストエフスキーについて「生きていく上でつっかえ棒になることを書いてくれてる人です」と話していたこと。

第五福竜丸事件を受けて製作され、1955年に公開された「生きものの記録」を撮った黒澤明監督が、核の利用を鋭く批判していたこと。

「核っていうのはね、だいたい人間が制御できないんだよ。そういうものを作ること自体がね、人間が思い上がっていると思うの、ぼくは」 「人間は全てのものをコントロールできると考えているのがいけない。傲慢だ。」/と語り、まるで福島の出来事を予感していたかのよう。

1953年にアメリカatoms for the peaceということが言われ、それに呼応するかのように日本は原子力利用に向かって動き出し、/「生きものの記録」が公開された1955年は、日本で「原子力基本法」が成立した年(原子力元年といえる年)でした。「生きものの記録」は興行的には振るわなかったそうです。 「直視しない日本人」ということも黒澤明監督が言っていたとも紹介されました。

主に「夢」を中心に、シーンごとに、ドストエフスキーの思想、自然観、「罪と罰」、ラスコーリニコフとの対応を話されました。 正直言って「夢」は私にとってとらえどころのない作品ですが、新たな視点で見直してみたいです。

会場は主に研究者の方々。質疑応答で、核の問題からチェルノブイリ、福島へ。また映画「デルス・ウザーラ」から自然観、少数民族の問題、アイヌの話。宗教観まで話は広がりました。

福島のその後を映画に撮られている岩崎雅典監督も会場にいらして、撮影の中で見えてきた福島の様子問題をお話してくださいました。「福島 生きものの記録 シリーズ3~拡散~」が6月日比谷図書館で上映されるそうです。(6/25、26、29)

観念的な話ではなく、人間の本質と、今目の前で起きている具体的出来事が常に結びついた話でした。

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筆者の桝谷裕氏のブログには、11月28日(土)に行われる「父と暮せば」(作井上ひさし)の一人語りなどの《公演予定》も記されていますので、以下にブログのアドレスも記載しておきます。

黒澤明監督とドストエフスキー 桝谷 裕 -yutaka masutani …

yutakamasutani.blog13.fc2.com/blog-entry-628.html

なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

一、家庭小説としての『罪と罰』

長編小説『罪と罰』にはラスコーリニコフの犯罪をめぐる主な筋の他に、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャをめぐる筋やマルメラードフ家の物語があると指摘した川端香男里氏は、この小説が「一家族の運命の浮沈を描く」イギリスの「『家庭小説』の伝統に由来」してもいると記しています。

この指摘は『罪と罰』を考察する上できわめて重要だと思われます。なぜならば、ラスコーリニコフは犯行後に妹のドゥーニャと話した後で「もしおれがひとりぼっちで、だれからも愛されることがなかったら、おれだってけっしてだれも愛しはしなかっただろうに! こんなことは何もなかったろうに!」(六・七)と考えているからです。

しかも、母親のプリヘーリヤは「ねえ、ドゥーニャ、わたしはおまえたちふたりをつくづく見ていたけど、ほんとにふたりとも瓜(うり)二つだねえ、顔がというより、気性がさ」(三・四)と語っているのです。

それゆえ、ラスコーリニコフの行動や「良心」観に迫るためには、ラスコーリニコフを厳しく追い詰める予審判事のポルフィーリイや、ラスコーリニコフの先行者ともいえるスヴィドリガイロフだけでなく妹ドゥーニャの言動をも詳しく分析する必要があるでしょう。

たとえば、ドストエフスキーは本編の終わり近くで「兄さんは、血を流したんじゃない!」と語った妹のドゥーニャに対してラスコーリニコフに、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい、」と問わせたばかりでなく、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁させていました。

この会話に注目するならば、ラスコーリニコフの「殺人」は単に犯罪としてだけでなく、「戦争」とも比較して考察する必要性がでてくると思われます。

二、テキストの自分流の解釈の危険性――小林秀雄の『罪と罰』論

一方、文芸評論家の小林秀雄は戦前に書いた「『罪と罰』について Ⅰ」において、「(非凡人には――引用者注)その良心に従つて血を流す事が許されてゐるといふ所謂超人主義の思想が、ラスコオリニコフの口から語られる時、何等浪漫的な色彩を帯びてゐない」と書き、「彼は己の思想に退屈してゐる」という解釈を示していました〔四三〕。

さらに「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と続けた小林は〔四五〕、「罪と罰とは作者の取り扱つた問題といふよりも、この長編の結末に提出されている大きな疑問である、罪とは何か、罰とは何か、と、この小説で作者が心を傾けて実現してみせてくれてゐるものは、人間の孤独といふものだ」と記して、『罪と罰』を「孤独」の問題に矮小化していたのです〔六一〕。

このような小林秀雄解釈は、満州事変以降に厳しい思想弾圧が始まり、不安に陥っていた知識人の間でたいへん流行しました。しかし、そのような解釈は、ドゥーニャなどとの関係を重視せずに殺人を犯したラスコーリニコフの自意識や心理に焦点をあてて『罪と罰』を読み解くことでのみ成立しえたのです。

ただ、検閲が厳しかった戦前の『罪と罰』論には同情の余地がありますが、問題は小林が戦後も同じような『罪と罰』の解釈をしていただけでなく、「評論の神様」のように祭り上げられた彼の評論が教科書や大学の入試でも取り上げられたことにより、テキストや小説の構造を軽視し小説を「主観的に面白く」読み解いてもそれが流行すればよいと思い込むような学生だけでなく研究者がでてきたことです。

「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と書き、「殺人」を犯したラスコーリニコフの深い後悔の念を否定した小林の解釈は、「戦争の問題」に対して軍人や政治家に弁解の余地を与えただけでなく、3.11の原発事故のあとでも政治家や財界人にこの問題を深く反省しなくともよいかのような幻想を与えていることにもつながっているのではないかと思えるのです。

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(序)――「安倍談話」と「立憲政治」の危機

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

1954年の3月1日にアメリカ軍による水爆「ブラボー」の実験が行われました。この水爆が原爆の1000倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、160キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員が被爆しました。

この事件から強い衝撃を受けた黒澤明監督は「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えて映画《生きものの記録》の脚本「死の灰」(黒澤明、橋本忍、小國英雄)を書き始めました。

水爆実験に同じような衝撃を受けた本多猪四郎監督が同じ年の11月に公開したのが映画《ゴジラ》でした。この映画を久しぶりに見た時に感じたのは、冒頭のシーンが第48回アカデミー賞で作曲賞、音響賞、編集賞などを受賞したスティーヴン・スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)を、映像や音楽の面で先取りしていたことです。

《ジョーズ(Jaws)》の内容はよく知られていると思いますが、観光地で遊泳していた女性が大型の鮫に襲われて死亡するが、事態を軽く見せるために「事実」を隠そうとした市長などの対応から事件の隠蔽されたために、解決が遠ざかることになったのです。

一方、映画《ゴジラ》の冒頭では、船員達が甲板で音楽を演奏して楽しんでいた貨物船「栄光丸」が突然、白熱光に包まれて燃え上がり、救助に向かった貨物船も沈没するという不可解な事件が描かれていました。伊福部昭作曲の「ゴジラ」のライトモチーフは、一度聴いたら忘れられないような強いインパクトを持っているが、その理由を作曲家の和田薫はこう説明しています。

「円谷英二さんから特に画を観させてもらったというエピソードがありますよね。あの曲は低音楽器を全て集めてやったわけですが、画を観なければ、ああいう極端な発想は生まれません」(『初代ゴジラ研究読本』、122頁)。

この言葉は映像と音楽の深い関わりを説明していますが、実は、長編小説『罪と罰』でも、若き主人公が「悪人」と見なした高利貸しの老婆のドアの呼び鈴を鳴らす場面も、あたかも悲劇の始まりを告げる劇場のベルのように響き、読者にもその音が聞こえるかのように描かれているのです。

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ゴジラはなかなかその姿をスクリーンには現わさず、観客の好奇心と不安感を掻きたてるのですが、遭難した漁師の話を聞いた島の老人は大戸島(おおどしま)に伝わる伝説の怪獣「呉爾羅(ゴジラ)」の仕業ではないかと語り、昔はゴジラの被害が大きいときには若い女性を人身御供として海に捧げていたが、今はその代わりにお神楽を舞っているのだと説明します。

暴風雨の夜に大戸島に上陸して村の家屋を破壊し、死傷者を出した時にも「ゴジラ」はまだその全貌を現してはいないのですが、島に訪れた調査団の前に現れた「ゴジラ」の頭部を見た古代生物学者の山根博士(志村喬)は、国会で行われた公聴会で発見された古代の三葉虫と採取した砂を示しながら、おそらく200万年前の恐竜だろうと次のように説明します。

「海底洞窟にでもひそんでいて、彼等だけの生存を全うして今日まで生きながらえて居った……それが この度の水爆実験によって、その生活環境を完全に破壊された。もっと砕いて言えば あの水爆の被害を受けたために、安住の地を追い出されたと見られるのであります……」。

ここで注目したいのは、山根博士が古代の恐竜「ゴジラ」が水爆実験によって、安住の地を奪われたために出現したと説明していることです。その説明はビキニ沖での水爆実験によって、「第五福竜丸」事件を引き起こした後も、冷戦下で互いに核実験を繰り返す人間の傲慢さを痛烈に批判し得ているばかりか、黒澤監督が映画《夢》の第六話「赤富士」で予告することになる福島第一原子力発電所の大事故の危険性をも示唆していたと思えます。

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『罪と罰』のあらすじはよく知られていますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害したあとの苦悩が描かれています。

現在の日本でも「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈した文芸評論家・小林秀雄長編小説の『罪と罰』論が影響力を保っているようですが、ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと批判をしていたことです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが分からなかったラスコーリニコフが、シベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになる過程が描かれているのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、ロシア文学者の井桁貞義氏は、スラヴには古くから「聖なる大地」という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

そして、ソーニャの言葉に従って、大地に接吻してから自首したラスコーリニコフはシベリアの大地で「人類滅亡の悪夢を」見た後で、自分が正当化していた「非凡人の理論」の危険性を実感するようになることです。

この意味で『罪と罰』で描かれている「呼び鈴」の音は、単にラスコーリニコフの悲劇の始まりを告げているだけではなく、「覚醒」と「自然観の変化」の始まりをも示唆しているように思えます。

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(序)――「安倍談話」と「立憲政治」の危機

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

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(『罪と罰』の表紙、ロシア版「ウィキペディア」より)

いよいよ明日からドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を比較文学の手法で読み解く大学の講義が始まりますが、昨日、成立した「安全保障関連法」によって、私たちは戦後日本に70年間かけて定着してきた立憲主義、平和主義、民主主義が根本から覆される危険と直面しています。

日本ではドストエフスキーは後期の長編小説に焦点をあてることで、犯罪者の心理や男女間の異常な心理的葛藤を描くことに長けた作家であるというような見方が文芸評論家の小林秀雄以降、深く定着しているように見えます。

しかし、これはドストエフスキーを侮辱し、彼の作品を矮小化する解釈だと私は考えています。なぜならば、「憲法」がなく、「言論の自由」も厳しく制限されていたニコライ二世のいわゆる「暗黒の30年」に青春時代を過ごしたドストエフスキーは、「言論の自由」や「人間の尊厳」、開かれた裁判制度の大切さを文学作品を通して民衆に訴えかけようとしながら、1848年のフランス2月革命の余波を受けた緊迫した状況下で捕らえられ、偽りの死刑宣言の後でシベリアに流刑されるという厳しい体験をしていたのです。

長編小説『罪と罰』が雑誌に発表された年に生まれた哲学者のレフ・シェストフ(1866~1938)は、ドストエフスキーがシベリアに流刑されてから思想的に転向して、人道主義からも決別したという解釈を1903年に刊行した『悲劇の哲学』(原題は『ドストエフスキーとニーチェ』)で記し、この本が1934年に日本語に翻訳されると満州事変以降の厳しい思想弾圧が始まり、不安に陥っていた知識人の間でたいへん流行しました*1。

しかし、これから詳しく分析していくように、厳しい検閲を考慮して推理小説的な筋立てで「謎」を組み込むなど、随所にさまざまな工夫をこらしてはいますが、そこに流れる人道主義や正義や公平性の重要性の認識は強く保たれていると思われます。

たとえば、青年時代からプーシキンなどのロシア文学だけではなく、ゲーテやディケンズ、シェイクスピアに親しみ、流刑地で読んだ『聖書』やシベリアからの帰還後に親しんだエドガー・アラン・ポーの作品やユゴーの『レ・ミゼラブル』からの影響は『罪と罰』にも強く見られるのです(リンク→3-0-1,「ロシア文学研究」のページ構成と授業概要のシラバス参照)。

長編小説『罪と罰』は「憲法」のない帝政ロシアで書かれた作品ですが、最初にも記したように9月19日に成立した「安全保障関連法」によって、現在の日本は「憲法」が仮死状態になったような状態だと思われます*2。『罪と罰』にはその頃に起きた出来事や新聞記事も取り込まれていますので、現代の日本の状況と切り結ぶような形で授業を行えればと考えています。ただ、ドストエフスキーはこの小説で読者を引き込むようなさまざまな工夫もしていますので、比較文学的な手法でその面白さも指摘しながらこの長編小説を読んでいき、ときどき感じたことや考えたことなどをこのブログにも記すようにします。

*1 池田和彦「日本における『地下室の手記』――初期の紹介とシェストフ論争前後」R・ピース著『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版、2006年。

*2 〈安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」〉参照。

(2015年9月23日。「長編小説『罪と罰』を読み解く(1)――なぜ今、『罪と罰』か」より改題)。

 

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

映画《静かなる決闘》から映画《赤ひげ》へ――拙著の副題の説明に代えて

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(《静かなる決闘》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を公刊したのは昨年のことになりますが、副題の一部とした黒澤映画《静かなる決闘》があまり知られていないことに気づきました。

ドストエフスキーの長編小説『白痴』を原作とした黒澤映画《白痴》の意義を知るうえでも重要だと思えますので、ここでは映画《赤ひげ》に至るまでの医師を主人公とした黒澤映画の内容を簡単に紹介しておきます。

*   *   *

1965年に公開された映画《赤ひげ》((脚本・井手雅人、小國英雄、菊島隆三、黒澤明)では、長崎に留学して最先端の医学を学んできた若い医師の保本登(加山雄三)と「赤ひげ」というあだ名を持つ師匠の新出去定(三船敏郎)との緊迫した関係が「患者」たちの治療をとおして描かれていることはよく知られています。

しかし、黒澤映画において「医者」と「患者」のテーマが描かれたのはこの作品が最初ではなく、戦後に公開された黒澤映画の初期の段階からこのテーマは重要な役割を演じていました。

たとえば、映画《白痴》(1951年)では沖縄で戦犯とされ死刑になる寸前に無実が判明した復員兵が主人公として描かれていましたが、1949年に公開された映画《静かなる決闘》(原作・菊田一夫『堕胎医』、脚本・黒澤明・谷口千吉)でも、軍医として南方の戦場で治療に当たっていた際に悪性の病気に罹っていた兵士の病気を移されてしまった医師・藤崎(三船敏郎)を主人公としていたのです。

しかも、最初の脚本では『罪なき罰』と題されていたこの映画では、自殺しようとしていたところを藤崎に助けられ見習い看護婦となっていた峰岸(千石則子)の眼をとおして、最愛の女性との結婚を強く願いながらも、病気を移すことを怖れて婚約を解消した医師が苦悩しつつも、貧しい人々の治療に献身的にあたっている姿が描かれていました。

さらに、その前年の1948年に公開された映画《酔いどれ天使》(脚本・植草圭之助・黒澤明)でも、どぶ沼のある貧しい街を背景に、闇市に君臨しつつも敗戦によって大きな心の傷を負って虚無的な生き方をしていたヤクザの松永(三船敏郎)と、「栄達に背を向けて庶民の中に」根をおろした開業医の真田(志村喬)との緊張した関係が描かれていました。

医師の真田は暴力的な脅しにも屈せずに、肺病に冒されていた松永の心身を治療して何とか更生させようとしていたのですが、真田の願いにもかかわらず、組織のしがらみから松永は殺されてしまいます。

しかし、《酔いどれ天使》の結末近くでは、肺病に冒されてこの病院に通っていた若い女子学生(久我美子)が、「ねえ、先生、理性さえしっかりしてれば結核なんてちっとも怖くないわね」と語り、医師の真田が「ああ、結核だけじゃないよ、人間に一番必要な薬は理性なんだよ!」と応じる場面があり、未来への希望も描かれていたのです。

長編小説『白痴』の主人公は、小林秀雄の解釈などではその否定的な側面が強調されていますが、ドストエフスキーはムィシキンに「治療者」としての性質も与えていました。それゆえ、医師を主人公としたこれらの映画は、長編小説『白痴』をより深く理解する助けにもなると思われます。

(2015年12月9日、図版を追加)

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)

「映画《惑星ソラリス》をめぐって」を「映画・演劇評」に掲載

黒澤監督とタルコフスキー監督のドストエフスキー観に迫った堀伸雄氏の二つの論文に強い知的刺激を受けて書いた論文「映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観」が、黒澤明研究会の『会誌』第33号に掲載されました。たいへん遅くなりましたが、「映画・演劇評」のページに転載します。

この論文では映画《惑星ソラリス》とドストエフスキーの『罪と罰』との関係だけでなく、『おかしな男の夢』とのつながりにも言及しました。

注では記しませんでしたが、その考察に際しては「ドストエーフスキイの会」第215回例会で「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」という題で発表された大木昭男氏の考察からも強い示唆を受けています。

ドストエフスキーが1864年に書いたメモで、人類の発展を「1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代」の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると語っていたのです。

この指摘は長編小説『白痴』の映画化にも強い関心をもっていたタルコフスキーのドストエフスキー観を理解するうえでも重要でしょう。

 

リンク→映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観

リンク→大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン」を聴いて

リンク→《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」