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小林秀雄

「他人をほめる技術」と「けなす技術」――小林秀雄の芥川龍之介・批判とアランの翻訳などをめぐって

「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。」「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい。」

(小林秀雄、「文学の伝統性と近代性」、昭和11年)(写真は二・二六事件)

「批評の神様」とも称される文芸評論家の小林秀雄(一九〇二~八三)は「国民文化研究会」の主宰者で、後に「日本会議」の代表者の一人にもなる小田村寅二郎の招きに応じて昭和36年から昭和53年にわたり5回の講演を九州で行っていました。

その際に行われた学生との対話を収録した『学生との対話』(新潮社、2014年)の「解説」を書いた編集者の池田雅延は、「永年、批評文を書いてきて、小林秀雄が到達した境地は、『批評とは他人をほめる技術である』でした」と記し、それは「小林秀雄が早くからめざしていたことの当然の帰結といってよいものでしたと続けています(「問うことと答えること」、194頁)。

実際、小林秀雄は一九六四年に発表した「批評」というエッセイで次のように記していました。

「自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものではない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評は人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。」

たしかに「人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ……」と指摘しているこの文章を読むと一見、そうかとも納得させられるようになります。

しかし、この文章に強い違和感を覚えるのは、評論「現代文学の不安」でドストエフスキーについて、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記した小林が、その一方で芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と激しくけなしていたからです。

そして、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた」と規定した小林は、「多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と続けていました。

このエッセイが書かれたのは上海事変が起き、満州国が成立した一九三二(昭和七)年のことでした。その翌年には日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内でも京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んでいました。そのことに留意するならば、2・26事件が起きた昭和11年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセイで中野重治などを批判しつつ、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書くとともに、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」と記すようになる小林が、芥川を批判することで早くも時勢に順応しようとしていたことが感じられます。(写真は二・二六事件)

(「ウィキペディア」より)

しかも、それは芥川龍之介に対してのみのことではありませんでした。1934年9月から翌年の10月まで連載した「『白痴』について1」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」と強調した小林は、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」。

さらに、1937年に発表した「『悪霊』について」では「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と断言していました。

こうして、読者を「注意深い読者」と普通の読者、「不注意な読者」の三種類に分類して、自分の読み方に従う読者を「仔細に読んだ人」と称賛する一方で、自分の読み方とは異なる読み方をする者を「不注意な読者」と「けなして」いたのです。

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*  *

このような傾向は『学生との対話』にも現れています。「僕たちは宿命として、日本人に生まれてきたのです。(……)日本人は日本人の伝統というものの中に入って物を考え、行いをしないと、本当のことはできやしない、と宣長さんは考えた。」と語った小林は、「考古学」に基礎を置いた歴史観をこう「けなして」いました(太字は引用者、95頁)。

「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ。」(「信ずることと考えること」、127頁)。

一方、小林秀雄の「宿命論」的な考えを批判するような思想を述べていたのがフランスの哲学者アランでした。「……人が宿命論を信ずれば、それだけで宿命は本物になってしまう。(……)いっそう明白なことは、民衆の全体が戦争が不可避だと信じれば、現実にそれはもう避けがたい。あまり人がしばしば通った道ではないが、辿る(たど)るのにそうむずかしくはない道がある。それは戦争を避けることが出来るということが真実になるためには、まず戦争が避け得ると信ずる必要があるという結論に到達するための道筋である。」

このことを堀田善衞は『若き日の詩人たちの肖像』のアランの翻訳をめぐる議論でこう指摘しています。「これね、翻訳あるんだけど、その翻訳ね、翻訳じゃないんだ、検閲のことを考えて、一章ごっそりないところや、削ったところなんか沢山あって、あれ翻訳じゃないんだけど、小林秀雄さんがあの翻訳のこととりあげて、良い本だ、っていうらしいことを書いていたの、あれいかんと思うんだけど……」

そして、こう続けられているのです。「その翻訳だと、戦争も生活の一つだ、地道に立向かって行け、ってことになるんだ、逆なんだ、本当は小林さんはこの原書を読んでないってことはないと思うんだけど」。

この言葉は宿命論的な考えに対する批判を省いてアランの戦争論を理解していた小林秀雄に対する鋭い批判となっているでしょう。

(2019年5月28日、加筆)

堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

先ほど、「ドストエーフスキイの会」の例会発表が終わりましたので、配布したレジュメの一部をアップします。

  *   *   *

発表の流れ

序に代えて 島崎藤村から堀田善衞へ

a.島崎藤村の『破戒』と『罪と罰』

b.堀田善衞の島崎藤村観と長編小説『若き日の詩人たちの肖像』

c.『若き日の詩人たちの肖像』と島崎藤村の長編小説の類似点

 1、長編小説『春』における主人公と同人たちとの交友、自殺の考察

 2、明治20年代の高い評価

 3、『破戒』と同様の被差別部落出身の登場人物

 4、「復古神道」についての考察

d.「日本浪曼派」と小林秀雄

 

Ⅰ.「祝典的な時空」と「日本浪曼派」

a.「祝典的な時空」

b.「死の美学」と「西行」

c.大空襲と18日の出来事

d.『方丈記』の再認識

e.『若き日の詩人たちの肖像』の続編の可能性

 

Ⅱ.『若き日の詩人たちの肖像』の構造と題辞という手法

a. 卒業論文と「文学の立場」

b.『広場の孤独』と二つの長編『零から数えて』と『審判』

c.「扼殺者の序章」の題辞

「語れや君、若き日に何をかなせしや?」(ヴェルレーヌ)

 

Ⅲ、二・二六事件の考察と『白夜』

a. 第一部の題辞

「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた。空は一面星に飾られ非常に輝かしかつたので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(米川正夫訳)

b. 河合栄治郎「二・二六事件の批判」

c.主人公の「生涯にとってある区分けとなる影響を及ぼす筈の、一つの事件」

d.「成宗の先生」の家の近くで『白夜』の文章を暗唱した後の考え

e.ナチス・ドイツへの言及

 

Ⅳ.アランの翻訳と小林秀雄訳の『地獄の季節』の問題

a. 第二部の題辞

「人を信ずべき理由は百千あり、信ずべからざる理由もまた百千とあるのである。人はその二つのあいだに生きねばならぬ」(アラン)。

「資本主義は、地上の人口の圧倒的多数に対する、ひとにぎりの先進諸国による植民地的抑圧と金融的絞殺とのための、世界体制へとまで成長し転化した。そしてこの獲物の分配は、世界的に強大な、足の先から頭のてつぺんまで武装した二、三の強盗ども(アメリカ、イギリス、日本)の間で行なはれてゐるが、彼らは自分たちの獲物を分配するための、自分たちの戦争に、全世界をひきずりこまうとしてゐるのだ。」(レーニン)

b. レーニンへの関心の理由

c.留置所での時間と警察の拷問

d.ほんとうの御詠歌と映画《馬》

e.アランの『裁かれた戦争』の訳と小林秀雄の戦争観

f.詩人プラーテンの「甘美な詩句」と小林秀雄訳のランボオの詩句

g.小林秀雄訳のランボオ『地獄の季節』の問題点

h.「人生斫断家」という定義と二・二六の将校たちへの共感

 

Ⅴ、繰り上げ卒業と遺書としての卒業論文――ムィシキンとランボー

a.第三部の題辞

「むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなき物に思ひなして、京にはあらじ」(『伊勢物語』作者不詳)。

「かくて誰もいなくなった」(アガサ・クリスティ)

b.時代を象徴するような題名と推理小説への関心

c.美しい『夢の浮橋』への憧れ

d.遺書としての卒業論文

e.真珠湾攻撃の成果と悲哀

f.小林秀雄の耽美的な感想

g.「謎」のような言葉

h.ムィシキンとランボーの比較の意味

i.長編小説における『悪霊』についての言及と小林秀雄の「ヒットラーと悪魔」

 

Ⅵ.『方丈記』の考察と「日本浪曼派」の克服

a.第四部の題辞

「羽なければ空をもとぶべからず。龍ならば雲にも登らむ。世にしたがへば、身くるし。いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし、たまゆらも、こころをやすむべき。」(鴨長明、『方丈記』)

「陛下が愛信して股肱とする陸海軍及び警視の勢力を左右にひつさげ、凛然と下に臨み、身に寸兵尺鉄を帯びざる人民を戦慄せしむべきである。」(公爵岩倉具視)

b.アリャーシャの『カラマーゾフの兄弟』論と「イエス・キリスト」論

c.国際文化振興会調査部での読書と国学の隆盛

d.「復古神道」とキリスト教

e.小林秀雄の『夜明け前』観と「近代の超克」の批判

f. 出陣学徒壮行大会での東条首相の演説と荘厳な「海行かば」の合唱

g.国民歌謡「海行かば」と保田與重郎の『萬葉集の精神-その成立と大伴家持』

h.審美的な「死の美学」からの脱出と『方丈記』の再認識

 

終わりに・「オンブお化け」と予言者ドストエフスキー

a.ドストエフスキーとランボーへの関心

b.『若き日の詩人たちの肖像』における「オンブお化け」という表現

「死が、近しい親戚か、あるいはオンブお化けのようにして背中にとりついている」

「未来は背後にある? 眼前の過去と現在を見抜いてこそ、未来は見出される」(『未来からの挨拶』の帯)。

c.過去と現在を直視する勇気

 

主な参考文献と資料

高橋誠一郎『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』

――「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」『広場』

 ――狂人にされた原爆パイロット――堀田善衛の『零から数えて』と『審判』をめぐって(『世界文学』第122号、2015年12月)

――小林秀雄のヒトラー観、「書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって〕など。

『堀田善衛全集』全16巻、筑摩書房、1974年

堀田善衞・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』

竹内栄美子・丸山珪一編『中野重治・堀田善衞 往復書簡1953-1979』影書房

池澤夏樹, 吉岡忍, 宮崎駿他著,『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』集英社

橋川文三『日本浪曼派批判序説』、講談社文芸文庫、2017年。

福井勝也「堀田善衞のドストエフスキー、未来からの挨拶(Back to the Future)」他。

山城むつみ「万葉集の「精神」について」など、『文学のプログラム』講談社文芸文庫、2009年。

ケヴィン・マイケル・ドーク著/小林宜子訳『日本浪曼派とナショナリズム』柏書房, 1999

松田道雄編集・解説『昭和思想集 2』 (近代日本思想大系36) 筑摩書房, 1974

鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』

鈴木昭一「堀田善衛諭――「審判」を中心として」『日本文学』16巻2号、1967

黒田俊太郎「二つの近代化論――島崎藤村「海へ」・保田與重郎「明治の精神」、鳴門教育大学紀要、『語文と教育』30観、2016年

中野重治「文学における新官僚主義」『昭和思想集』

井川理〈詩人〉と〈知性人〉の相克 ―萩原朔太郎「日本への回帰」と保田與重郎の初期批評との思想的交錯をめぐって」、『言語情報科学』(14)

(6)「臨時召集令状」と「万世一系の国体」の実体

「赤紙」で召集されるまでの時期に書き始められたのが「西行」だったのですが、この頃の自分の考えを堀田は『方丈記私記』の(一)でこう記しています。

「その頃、日本中世の文学、殊に平安末期から鎌倉初期にかけての、わが国の乱世中での代表的な一大乱世、落書に言う、『自由狼籍世界也』という乱世に、たとえば藤原定家、あるいは新古今集に代表されるような、マラルメほどにも、あるいはマラルメなどと並んで(と若い私は思っていた)、抽象的な美の世界に凝集したものを、この自由狼籍世界の上に、『春の夜の夢の浮橋』のようにして架構し架橋しえた文明、文化の在り方に、深甚な興味を私はもっていた。」

その一方で「鴨長明氏、あるいは方丈記や、発心集などの長明氏の著作物や、その和歌などには、実はあまり気をひかれるということがなかった」堀田は、「三月十日の大空襲を期とし、また機ともして、方丈記を読みかえしてみて、私はそれが心に深く突き刺さって来ることをいたく感じた」のです。

「しかもそれは、一途な感動ということではなくて、私に、解決しがたい、度合いきびしい困惑、あるいは迷惑の感をもたらしたことに、私は困惑をしつづけて来たものであった。」

そして、十万人以上の死者を出した空襲のあとで十八日に焼け野原になった地域を訪れた作者は、その廃墟で多くの人々が「土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました。まことに申訳ないことでございます」と小声で呟く、「奇怪な儀式のようなもの」を見るのです。 

その光景に衝撃を受けて、「信じられない、/信じられない」と呟きながら焼け跡を歩いた作者は、こう考えるようになります。

「しかしこういうことになるについては、日本の長きにわたる思想的な蓄積のなかに、生ではなくて、死が人間の中軸に居据るような具合にさせて来たものがある筈である」(三)。

こうして、「三月十日の東京大空襲から、同月二十四日の上海への出発までの短い期間」、「ほとんど集中的に方丈記を読んですごした」作者は、「『方丈記』が精確にして徹底的な観察に基づいた、事実認識においてもプラグマチィックなまでに卓抜な文章、ルポルタージュとしてもきわめて傑出したものであることに、思い当たった」のです(一)。

そして、「現場というものには、如何なる文献や理論によっても推しがたく、また、さればこそ全的には把握しがたい人間の生まな全体」があり、鴨長明は「何かが起ると、その現場へ出掛けて行って自分でたしかめたいという、いわば一種の実証精神によって」動かされた人物と規定しているのです (四)。

『若き日の詩人たちの肖像』は三月十日の大空襲の前で終わっているのですが、それでもその変化の一端は「平安末期の、あの怖ろしいほどの乱世にぶつかった鴨長明なども、どうにも仏教という母なる観念だけでは律しきれぬ『事実の世紀』にぶつかっていた、ということになりはせぬか」と若者が考えるようになったことが記されています。

『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」

そして、その頃に流行していた国学者の「平田篤胤でこりていたので、イデオロギーの側から日本を求めることはやめにした」主人公は、「日本が、いちばん猛烈な目に逢っていたと男に思われる平安末期から鎌倉初期にかけての時代にたちもどって丹念に調べてみることに専念し出した」のです。

 その後で「羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。/ 世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」という『方丈記』の有名な文章を引用した作者は、『若き日の詩人たちの肖像』でも「『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった」と記しているのです。

この長編小説の終わり近くでは「赤紙」と呼ばれる「臨時召集令状」の文面を読んだ主人公が、「生命までをよこせというなら、それ相応の礼を尽くすべきものであろう」と思ったと記されており、こう続けられています。

写真の出典は奈良県立図書情報館。

「これでもって天皇陛下万歳で死ねというわけか。それは眺めていて背筋が寒くなるほどの無礼なものであった。尊厳なる日本国家、万世一系の国体などといっても、その実体は礼儀も知らねば気品もない、さびしいような情けないようなものであるらしかった。」

第一部の題辞で『白夜』』の冒頭の文章を引用していた堀田善衞はこの長編小説の後で発表した短文「『白夜』について」(1970年)でこう記していました。

「ドストエーフスキイの後期の巨大な作品のみを云々する人々を私は好まない。それはいわばおのれの思想解明能力を誇示するかに、ときに私に見えて来て、そういう『幸福』さが『やり切れなく』なって来るのだ。」

「赤紙」を受け取った後の出来事を描いた『方丈記私記』が1970年7月号から翌年の4月号まで『展望』に連載され1971年に出版されていることに注目するならば、この作品は『白夜』の問題意識を濃厚に受け継いでいると思えます。

『若き日の詩人たちの肖像』が明治百年が華やかに祝われた1968年に出版されていることに留意するならば、主人公のこのような批判が戦前と同じような死生観や国家観を持ちつつ戦後に復権していた小林秀雄や林房雄に対しても向けられていることは確実でしょう。

(2019年5月7日、改題と改訂、写真とリンク先の追加)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

(2)「海ゆかば」の精神と主人公

(3)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

→(4)「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

(5)『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

 

→ 小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(5)――『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

5、『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

前回で一応の区切りにしようと思っていましたが、やはり大空襲にあった後での『方丈記』の再発見が「死の美学」の克服につながったことにもふれておくことにしました。

堀田が卒業論文「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を急いで書き上げたことについては前回も触れましたが、「卒業論文を書く、卒業をするということは、それはすでに兵役に行くということであり、その人生の中断がそのまま死につながるということ」でした。

『若き日の詩人たちの肖像』では登場人物の「汐留君」が、「卒業論文のことがきっかけとなり、まことに堰(せき)を切ったように」、『伊勢物語』にふれながら「身をもえうなきもの(用なき者)と思い捨てたあの人の気持ちに、自分がほんとうになれないなら、詩なんか止しゃいいんだ。それが詩人の覚悟ってものだよ」と語りだしたのは、当時の日本において卒業論文とは遺書のようなものだったからです。

えうなきこととして、本当は思い捨てているからこそ、定家のあの歌のはなやぎとあそびが、本当に夢の浮き橋のようにしてこの世の上に架かるんだ。新古今に架かってる、あの夢の浮き橋の、そのために支払われている痛切なもののわからん奴なんか、そんなもんビタ一文の値打ちもないんだ。身をもって支払わなきゃならんのだよ。現実なんかビタ一文の値打ちもないよ!」(太字の個所は原文では傍点)。

そして、この言葉を聞いた若者は、平安末期、鎌倉初期の藤原定家の日記である「『明月記』に語られていた怖ろしいほどな乱世に、どうしてあんなにも、まったくウソのように美しい『夢の浮稀』なんぞが架橋されえたものか、それらのことまでがいっぺんでわかったような気がした。それは、これからの乱世を生きて行くについて、まことに決定的な指針を与えられたような気」がしたのでした。

こうして、召集が近づくなかで、戦争が続き災害も起こっていた暗い中世の詩人たちの研究にも没頭し、卒業後に国際文化振興会調査部に就職した主人公は、そこで「平安朝末期の怖るべく壮烈な乱世と、たとえば新古今集などにあらわれている不気味なほどに極美な美学との関連についての原稿を書きはじめ」、書きあがった原稿を「明治元勲のお孫さんの副部長を通して、元の駐英大使の坊ちゃんである批評家」に見てもらうと雑誌にのることになったのです。

 それが同人誌『批評』に掲載された「ハイリゲンシュタットの遺書」や連載「西行」などの文章なのですが、『若き日の詩人たちの肖像』で「富士君」のあだ名で登場する作家の中村真一郎は堀田の文章を論じつつ、満州事変から太平洋戦争の時期の若者の死生観がわずか5歳ほどの間隔で全く異なっていることをこう指摘しています。

「兄の年代の人たちにとっては、毎日は生の連続であり、何を計画するにも、一応、死というものは遠い未来のことであった。もし死が彼等を脅やかすとすれば、それは外部から理不尽に、生を遮るものとしてやってくるもの――たとえば官憲の干渉――であった。」

「いとおしむべき確実な生と、残酷にそれを吹き消そうとする死との、この対立は、私たちに直結する次の年代の人たちがやがて戦後に発表しはじめた文章にも見られない。私には、私たちの次の年代の人たちは、生と死との対立に対する驚きはもう失ってしまって、死と戯れることで恐怖から遁れ出ているように見えた。」

そして、堀田の「未来について」というエッセーを引用して、「あの昭和ふた桁の二十歳にとっては、(……)そのおぞましい死を超克するものとして、芸術、美があったのである」と説明しているのです。

『堀田善衞全集』の編者・栗原幸夫も「西行」について論じつつ、「時代は、日本の敗色歴然としてはいても、いや、それだからこそますます狂的におしすすめられる戦争と神懸かり的な狂信の時代でした。この時代の基調となる色彩は『死』」であったことを指摘して、こう続けています。

「これらの作品には日本浪曼派ふうの、というより保田輿重郎の文体の影響が歴然としています。(……)今日、『西行』というこの未完の作品を読んでみると、作者は(……)むしろ天皇制に身を投じているという趣の方がつよく感じられます。」

しかし、堀田が「私たちの年代の課題を正に生きつづけながら、私たちの年代を今や突破して、より普遍的なところへ出て来ている、といってもいい」とし、彼の「独自な経験」を描いてみせるのが『方丈記私記』である」と記した中村と同じように、栗原も次のように『方丈記』の大きさを指摘しています。

「当時、一種の流行現象として青年たちを捉えていた日本浪曼派の審美的な『死の美学』から自力で脱出した時、堀田善衞は間違いなく『戦後』を担う作家への道を歩みだしたのです。そしてこの堀田青年の内部の変貌は、おそらく戦争の末期、というよりも戦争の最後の年のごく短い時間のうちにおこったのだったろうと、私には思われます。」

堀田善衛、方丈記私記、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(4)――「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

はじめに、『若き日の詩人たちの肖像』の時代の「祝典的な時空」

自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる昭和11(1936)年の二・二六事件に遭遇した主人公が「赤紙」で召集されるまでの重く暗い日々が若い詩人たちとの交友をとおして克明に描かれています。

しかし、この時期には「祝典的な時空」という華やかな側面もありました。すなわち、「天皇機関説」事件が起きた昭和10年には神武天皇の即位を記念する「祝典準備委員会」が発足し、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』でふれたように、それから5年後の昭和15年には、「内務省神社局」が「神祇院」に昇格して、「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」の祝典が盛大に催されたのです。

(出典は「「ウィキペディア」)

皇紀の末尾数字を取ってゼロ戦と名付けられた戦闘機などによる真珠湾攻撃の大戦果などを踏まえて、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした堀場正夫は、昭和17年に出版したドストエフスキー論に『英雄と祭典』という題名つけましたが、それはこの著がそのような祝典的な雰囲気の中で著わされていたことをも物語っているでしょう。

評論家の橋川文三は『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」(太字は原文では傍点)あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促し、「私が『耽美的パトリオティズム』と名づけたものの精神構造と、政治との関係が改めてとわれねばならない」と記しています。

それゆえ、ここではまず『若き日の詩人たちの肖像』の複雑な構造に迫る前に主人公の視線をとおしてこの時代の雰囲気を概観することで、この長編小説における「耽美的パトリオティズム」の批判の一端に迫りたいと思います(本稿では、敬称と注を略した)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

一、真珠湾の二つの光景

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃の成果を知った主人公が「ひそかにこういう大計画を練り、それを緻密に遂行し、かくてどんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と感じたと書かれています。

しかし、それに続いて「それは掛値なしにその通りであったが、そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなっていた」ことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と記した作者は、軍神に祭られても「親御さんたちゃ、切ないぞいね」という一緒に住むお婆さんの言葉も記しているのです。

しかも、年が明けて1月になり主人公の仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てきたことを記した著者は、「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」という主人公の思いを記していますが、この批判は文芸評論家の小林秀雄にも向けられていると思えます。

なぜならば、「文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した」時に、「僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」と「三つの放送」で書いた小林は、元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃の航空写真を見た印象を「戦争と平和」というエッセーでこう記していたからです。

「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであらう。さういふふとした思ひ付きが、まるで藍色の僕の頭に眞つ白な水脈を曵く様に鮮やかに浮かんだ。真珠湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の命中により、嘗て物理学者が子細に観察したそのままの波紋を作つて拡がつたのだ。そしてさういふ光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかつた筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去つた彼等の心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様に美しく映つたに違ひない。」

そして、「冩眞は、次第に本当の意味を僕に打ち明ける様に見えた。何もかもはつきりしているのではないか」と書いた小林は、トルストイの『戦争と平和』にも言及しながら、「戰は好戰派といふ様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戰だから起こるのである」と結んでいたのです。

 ここには写真には写っていない特殊潜航艇に乗り込んで特攻した乗組員の心理も考察している『若き日の詩人たちの肖像』の主人公の視点と、海の底に沈んだ特殊潜航艇のことには触れずに航空写真を見ながら「爆撃機上の勇士達」の気分で戦争を描いた小林との違いが明確に出ていると思えます。(続く)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

(3、増補版)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

(4)「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

(5)『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

(6)「臨時召集令状」と「万世一系の国体」の実体

          (2019年4月21日、改訂。6月14日、リンク先を追加)

書評〔飛躍を恐れぬ闊達な「推論」の妙──「立憲主義」の孤塁を維持していく様相〕を読む

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

 拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)の書評が『図書新聞』4/13日号に掲載された。→http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/ … 

 評者は『溶解する文学研究 島崎藤村と〈学問史〉』(翰林書房、2016)などの著書がある日本近代文学研究者の中山弘明・徳島文理大学教授で、〈学問史〉という新視点から島崎藤村を照射する三部作の筆者だけに、島崎藤村についての深い造詣に支えられた若干辛口の真摯な書評であった。

 以下、その内容を簡単に紹介するとともに、出版を急いだために書き足りなかったことをこの機会に補記しておきたい。

     *   *   *

 まず、「積年の諌題、『罪と罰』が太い糸となっていることは事実だが、それといわば対極の徳富蘇峰の歴史観への注視が、横糸になっている点にも目を引く」という指摘は、著者の問題意識と危機意識を正確に射ている。

 また、次のような記述もなぜ今、『罪と罰』論が書かれねばならなかったについての説明ともなっていると感じた。

 〔この魯庵が捉えた「良心」観から、通説の通り、透谷と愛山・蘇峰の著名な「人生相渉論争」を俎上にのせると同時に、著者はユーゴーの『レ・ミゼラブル』の受容へと展開し、蘇峰の「忠孝」観念と、「教育勅語」の問題性を浮かび上がらせ〕、〔自由を奪われた「帝政ロシア」における「ウヴァーロフ通達」と「勅語」が共振し、その背後に現代の教育改悪をすかし見る手法を取る〕。

 明治の『文學界』や樋口一葉にも言及しつつ、〔木下尚江が、透谷の『罪と罰』受容を継承しながら、暗黒の明治社会を象徴する、大逆事件を現代に呼び戻す役割を果たし、いわゆる「立憲主義」の孤塁を維持していく様相が辿られていくわけである〕との指摘や、『罪と罰』と『破戒』の比較について、「はっとさせられる言及も多い」との評価に励まされた。

 ただ、『夜明け前』論に関連しては辛口の批判もあった。たとえば、昭和初期の日本浪漫派による透谷や藤村の顕彰に言及しながら、「『夜明け前』が書かれたのが抑圧と転向の時代であり、その一方で昭和維新が浮上していた事実はどこに消えてしまったのだろうか」という疑問は、痛切に胸に響いた。

 昭和初期には「透谷のリバイバルが現象として起こって」おり、「亀井勝一郎や中河與一ら日本浪漫派の人々は透谷や藤村を盛んに顕彰してやまなかった」ことについての考察の欠如などの指摘も、問題作「東方の門」などについての検討を省いていた拙著の構成の弱点を抉っている。

 それは〔同時代の小林秀雄の「『我が闘争』書評」への批判を通じて、『罪と罰』解釈の現代性と「立憲主義」の危機を唱える〕のはよいし、「貴重である」が、「小林批判と寺田透や、堀田善衞の意義を簡潔に繋げていくのは、やはり違和感がある」との感想とも深く関わる。

 実は、当初の構想では第6章では若き堀田善衞をも捉えていた日本浪漫派の審美的な「死の美学」についても、『若き日の詩人たちの肖像』の分析をとおして言及しようと考えていた。

 しかし、自伝的なこの長編小説の分析を進める中で、昭和初期を描いたこの作品が昭和60年代の日本の考察とも深く結びついていることに気付いて、構想の規模が大きくなり出版の時期も遅くなることから今回の拙著からは省いた。

 小林秀雄のランボオ訳の問題にふれつつ、〔堀田善衞が戦時中に書いた卒論で「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を論じていたことを考慮するならば、これらの記述は昭和三五年に発表された小林秀雄のエッセー「良心」や彼のドストエフスキー論を強く意識していた〕と思われると記していたので、ある程度は伝わったのではないかと考えていたからである。

 自分では説明したつもりでもやはり書き足りずに読者には伝わらなかったようなので、なるべく早くに『若き日の詩人たちの肖像』論を著すように努力したい。

 今回は司馬遼太郎に関しては「神国思想」の一貫した批判者という側面を強調したが、それでも司馬遼太郎の死後の1996年に勃発したいわゆる「司馬史観論争」に端を発すると思われる批判もあった。これについては、反論もあるので別な機会に論じることにしたい。

 なお、『ドストエーフスキイ広場』第28号に、拙稿「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」が掲載されているので、発行され次第、HPにもアップする。

 著者の問題意識に寄り添い、かつ専門的な知識を踏まえた知的刺激に富む書評と出版から2ヶ月足らずで出逢えたことは幸いであった。この場を借りて感謝の意を表したい。

*   *   *

 追記:5月18日に行われる例会で〔堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に〕という題目で発表することになりました。 リンク先を示しておきます。→第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

     (2019年4月8日、9日、加筆)

 

小林秀雄の文学論と「維新」の危険性――次作にむけて

序 新著を書き終えて

ブルガリア・ドストエフスキー協会の主催による国際シンポジウム(2018年10月23日から26日)の企画の打ち合わせや発表の準備のために、発行を急いでいた拙著の脱稿は大幅に遅れたが、ようやく上梓することができた。

ここでは拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)執筆までの私の小林秀雄についての考察の歩みを振り返り、次作の方向性を確認しておきたい。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社  

一、「評論の神様」小林秀雄への懐疑

敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから戦時中の言動を厳しく追及された文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は、「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた。

これに対して作家の坂口安吾は1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」としながらも、小林が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判した(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

しかし、1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した小林は、徐々に評論家としての復権を果たし、「評論の神様」と賛美されるようになる。

1949年生まれの私は、このような時期に青春を過ごし、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは私も一時期、強い影響を受けた。しかし、原作の文章と比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じるようになった。

それゆえ、フランス文学者の鹿島茂氏は作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と書いているが、私も同じような感慨を強く抱いた。

二、方法の模索

文壇だけでなく学問の世界にも強く根をはっていた小林秀雄のドストエフスキー論と正面から対峙するには、膨大な研究書や関連書がある小林秀雄を批判しうる有効な手法を模索せねばならず、予想以上の時間が掛かった。

ようやくその糸口を見つけたと思えたのは、小林秀雄の『白痴』論とはまったく異なったムィシキン像が示されている黒澤映画《白痴》をとおして長編小説『白痴』を具体的に分析した拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を2011年に出版した後のことであった。

すなわち、『罪と罰』と『白痴』の連続性を強調するために小林秀雄は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と書いていた。しかし、シベリアから帰還したことになると、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解する上で欠かせない、ムィシキンのスイスの村での体験――マリーのエピソードやムィシキンが衝撃を受けたギロチンによる死刑の場面もなくなってしまうのである。

「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかしそれは、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

一方、黒澤明は復員兵の亀田(ムィシキン)が死刑の悪夢を見て絶叫するという場面を1951年に公開した映画《白痴》の冒頭で描くことで、長編小説『白痴』のテーマを明確に示していたのである。

福島第一原発事故後の2014年に出版した『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、長編小説『白痴』に対する彼らの解釈の違いばかりでなく、「第5福竜丸」事件の後で映画《生きものの記録》を撮った黒澤明監督と、終戦直後には原爆の問題を鋭く湯川秀樹に問い詰めていながら、その後は沈黙した小林との核エネルギー観の違いにも注意を払うことで、彼らの文明観の違いをも浮き彫りにした。

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三、「維新」という幻想――夏目漱石の維新観と『夜明け前』

ただ、黒澤明は評論家ではなく、映像をとおして自分の考えを反映する映画監督であった。そのために、黒澤明の映画をとおして小林秀雄のドストエフスキー論を批判をするという方法では小林秀雄の問題点を指摘することはできても、言論活動である小林秀雄の評論をきちんと批判すること上ではあまり有効ではなかった。

一方、2010年にはアメリカの圧力によって「開国」を迫られた幕府に対して、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」というイデオロギーを叫んでいた幕末の人々を美しく描いたNHKの大河ドラマ《龍馬伝》が放映され、2015年には小田村四郎・日本会議副会長の曽祖父で吉田松陰の妹・文の再婚相手である小田村伊之助(楫取素彦・かとりもとひこ)をクローズアップした大河ドラマ《花燃ゆ》が放映された。

さらに、「明治維新」150年が近づくにつれて「日本会議」系の政治家や知識人が「明治維新」の意義を強調するようになった。そのことを夏目漱石の親族にあたる半藤一利は、漱石の「維新」観をとおしてきびしく批判していたが、それは間接的には小林秀雄の歴史認識をも批判するものであった。

→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

それゆえ、私は拙著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』では、『罪と罰』を邦訳した内田魯庵や、明治時代に『罪と罰』のすぐれた評論「『罪と罰』の殺人罪を書いた北村透谷、そして、『罪と罰』の筋や人物体系を詳しく研究することで長編小説『破戒』を書き上げた島崎藤村などをとおして、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点を明らかにしようとした。

その第一の理由は彼らの読みが深いためだが、さらに、「明治維新」が強調される現代の政治や社会の状況が、「神祇官」が設置された明治初期の藩閥政府による独裁政治や、「大東亜戦争」に突入する暗い昭和初期と似てきているからである。明治政府の宗教政策や文化政策の問題点を正確に把握していた北村透谷や島崎藤村などの視点と手法で『罪と罰』を詳しく読み解くことは、「古代復帰」を夢見て、武力による「維新」を強行した日本の近代化の問題点と現政権の危険性をも明らかにすることにもつながると考えた。

拙著では小林秀雄の『罪と罰』論が本格的に考察されるのはようやく第6章にいたってからなので、迂遠な感じもするのではないかとの危惧もあったが、献本した方々からの反応は予想以上によかった。それは、幕末から明治初期に至る激動の時代に生き、平田篤胤没後の門人となって「古代復帰の夢想」を実現しようと奔走しながら夢に破れて狂死した自分の父を主人公のモデルにした島崎藤村の大作『夜明け前』を最初に考察したことがよかったのではないかと思える。

実は、『夜明け前』の主人公の青山半蔵が「明治維新後」には「過ぐる年月の間の種々(さまざま)な苦い経験は彼一個の失敗にとどまらないように見えて来た。いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか(後略)」と考えるようになっていたとも島崎藤村は記していたのである(『夜明け前』第2部第13章第4節)。

そして、明治の賛美者とされることの多い作家の司馬遼太郎も、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と続けていた(太字は引用者、『竜馬がゆく』文春文庫)。

https://twitter.com/stakaha5/status/907828420704395266

こうして、島崎藤村の作品に対する小林秀雄の評論をも参照することにより、「天皇機関説」事件によって明治に日本が獲得した「立憲主義」が崩壊する一方で、「弱肉強食」を是とするドイツのヒトラー政権との同盟が強化されていた昭和初期に評論家としてデビューした小林秀雄のドストエフスキー論には、幕末の「尊王攘夷」運動にも通じるような強いナショナリズムが秘められていることを明らかにできたのではないかと考えている。

そして、それは「政教一致」政策を行うことでキリスト教の弾圧を行ったばかりでなく、仏教に対する「廃仏毀釈」運動を行っていた「明治維新」を高く評価している現在の政権の危険性をも示唆通じるだろう。

https://twitter.com/stakaha5/status/816241410017882112

四、堀田善衞の小林秀雄観

ただ、小林秀雄が戦後に評論家として復活する時期の言論活動についての考察まで含めると発行の時期が大幅に遅れるので今回は省いた。

「評論の神様」として復権することになる小林秀雄の評論の詳しい検証は、稿を改めてドストエフスキーの『白夜』だけでなく、『罪と罰』や『白痴』にも言及しながら、昭和初期の日本を詳しく描いた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』の考察などをとおして行うことにしたい。

なぜならば、堀田は明治の文学者たちの骨太の文学観を踏まえて、「昭和維新」を掲げた2・26事件を考察することにより、戦後の「明治維新」の称賛の危険性をも鋭く示唆していたからである。

最後に、拙著で考察した小林秀雄の文学解釈の特徴と危険性を箇条書きにしておく。

1,作品の人物体系や構造を軽視し、自分の主観でテキストを解釈する。

2,自分の主張にあわないテキストは「排除」し、それに対する批判は「無視」する。

3,不都合な記述は「改竄」、あるいは「隠蔽」する。

これらの小林秀雄の評論の手法の特徴は、現代の日本で横行している文学作品の主観的な解釈や歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていると思われる。

https://twitter.com/stakaha5/status/1100621472278536193

(2019年3月11日改訂。2022年2月12日改訂、13日改題)

鹿島茂著『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』を読む(未完)

ドーダの人、小林秀雄(朝日新聞出版)

一、「教祖」から「評論の神様」へ

敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は戦時中の言動を厳しく追及された。

小林とは親しかった作家の坂口安吾もその翌年に発表した「教祖の文学――小林秀雄論」で、小林を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判していた。

ISBN4-903174-09-3_xl

しかし、座談会での追及に対して「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた小林は1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、そして黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した。

こうして、戦後にドストエフスキー論の執筆を再開した小林秀雄は、「団塊の世代」に属する鹿島茂氏が青春を送った「1960年・70年代までは、小林神話がいまだ健在で、大学の入学試験にはかならずと言っていいほど彼の文章が出題」されるようになっていたのである(13頁)。1980年には小林秀雄信者の教員が、「最も晦渋な(というよりも意味不明な)『様々なる意匠』」が出題して、「信者でもない一般の高校生・予備校生に『神様の大切なお言葉を解読せよ』と迫っていた」。

それゆえ、小林秀雄と同じフランス文学者の鹿島氏は、作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と続けた。

この意味で注目したいのは、鹿島氏が1987年に、ドストエフスキーを魅了したユゴーの大作『レ・ミゼラブル』を当時の木版画を掲載することで当時の社会情勢をも示しつつ、分かり易く詳しく解説した『「レ・ミゼラブル」百六景』(文藝春秋)を出版していたことである。

「レ・ミゼラブル」百六景

その鹿島氏が2016年に出版した本書『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(以下『ドーダの人、小林秀雄』と略す)をこれから少しずつ考察することにしたい。

(2019年3月3日、書影を追加。3月10日改訂、2022年2月13日改題)

「明治維新」150年と小林秀雄の『夜明け前』論

 『世界文学』の「時代と文学Ⅰ」特集号に、「明治維新」の問題を考察した標記のエッセイが掲載されました。

journal126(書影は『世界文学』126号、2017年)

以下にそのエッセイを転載します。

   *   *   *

2018年1月1日の年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出した安倍首相は、「これまでの身分制を廃し、すべての日本人を従来の制度や慣習から解き」放ったと「明治維新」を讃美していました。

  これに対して夏目漱石や司馬遼太郎についての造詣が深い作家の半藤一利は、夏目漱石の用語などを分析してこの言葉が使われだしたのは明治14年の政変の前年頃からであることを指摘し、「薩長政府は、自分たちを正当化するために」、「『維新』の美名」を使いだしたのではないかと指摘していました。(→ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 – 東洋経済オンライン

  実際、夏目漱石は弟子の森田草平に宛てた手紙で島崎藤村の長編小説『破戒』を、「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞しましたが、『罪と罰』からの強い影響が指摘されているこの長編小説では、「忠孝」についての演説を行う一方で、明治維新で唱えられた「四民平等」に反して被差別部落民の主人公に対する「差別」的な発言を繰り返していた校長や教員、政治家たちの言動が詳しく描き出されているのです。

 こうして藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、明治4年に出された「解放令」以降も現代のヘイトスピーチを連想させるような激しい言葉などによる差別が実質的には続いていたことを明らかにしていたのです。

 さらに藤村は、「治安維持法」の発布から言論の自由が厳しく制限されるようになる時期には、武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった頃に平田派の国学者となった自分の父・島崎正樹を主人公のモデルとした長編小説『夜明け前』を雑誌に連載していました。

 この長編小説で主人公の気持ちだけでなく「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」という寿平次などの批判的な言葉も記した島崎藤村は、新政府の政策に絶望して「いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか」という半蔵の深い幻滅を描いていたのです。

 こうして、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて「異教」と見なしたキリスト教だけでなく仏教をも弾圧して「廃仏毀釈」運動などを行っていた主人公は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死します。

 自分の信じる宗教を絶対化して他者の信じる仏像などを破壊する廃仏毀釈を強引に行い、親類からも見放されて狂人として亡くなった半蔵の孤独な姿の描写は、シベリアの流刑地でも孤立していた『罪と罰』のラスコーリニコフの姿をも連想させるような深みがあります。

 一方、文芸評論家・小林秀雄は明治時代に成立していた「立憲主義」が「天皇機関説」論争で放棄されることになる前年の1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

 そして、「天皇機関説」事件の翌年に行われた『文学界』合評会の「後記」では、古代復帰を夢見て破滅した主人公の気持ちに焦点をあてて、「成る程全編を通じて平田篤胤の思想が強く支配してゐるといふ事は言へる」と『夜明け前』を解釈していたのです。

 長編小説に記された登場人物の体系を軽視して、きわめて情念的で主観的に作品を解釈するこのような小林の批評方法は、「信ずることと考えること」と題して行われた1974年の講演会の後の学生との対話でより明確に表れています。

 そこで「大衆小説的歴史観」と「考古学的歴史観」を批判した小林秀雄は、「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」と語って平田派的な歴史観を主張していたのです(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年、127頁)。

 注目したいのは、今年2月に雑誌『正論』に掲載された評論で、「感服したのは、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢(あふ)れている事」だと記した小林の『夜明け前』論を引用した評論家の新保祐司が、小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」には「紛れもなく『日本』があると感じられる」と賛美して、「戦後民主主義」の風潮から抜け出す必要性を主張していました。

 しかし、「明治維新」を賛美した安倍政権下の日本では、韓国や中国の人々にばかりでなく、福島の被爆者や沖縄県民や意見を異にする人々に対する激しいヘイトスピーチが再び横行するようになっているのです。

 この意味で注目したいのは、2・26事件の前日に上京した若者を主人公とし、「暗黒の30年」と呼ばれる時期に書かれたドストエフスキーの『白夜』の冒頭の文章が第1部の題辞として用いられている堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』が、政府主催による「明治百年記念式典」が盛大に行われた1968年に発行されていたことです。

 登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせていました。

 小林秀雄が「『白痴』についてⅠ」で「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを批判していたことに注目するならば、「立憲主義」を敵視する復古主義的な傾向が再び強くなり始めていた年に刊行された『若き日の詩人たちの肖像』は、小林秀雄の『夜明け前』観に対する厳しい批判をも秘めていると思われます。

(本稿では敬称は略した。『世界文学』128号、2018年、78~79頁)

「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

(2019年2月24日、リンク先を追加)

教育制度と「支配と服従」の心理――『破戒』から『夜明け前』へ

日露戦争の最中に詩「君死にたまふこと勿(なか)れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)」を書いた与謝野晶子が、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したとして激しく非難されるという出来事が起きたのは明治三七年のことでした。

このような日本の状況を北村透谷の評論をとおして深く観察していたのが、日露戦争直後の明治三九(一九〇六)年に『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』を自費出版する島崎藤村でした。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

この長編小説において藤村は、帝政ロシアで起きたユダヤ人に対する虐殺に言及しながら、現代の「ヘイトスピーチ」を思わすような「憎悪表現」による激しい「差別」をなくそうと活動していた先輩・猪子蓮太郎の教えに反して、自分の出自を隠してでも「立身出世」せよという父親の「戒め」に従って生きることとの葛藤を「良心」に注目しながら詳しく描いたのです。そして藤村は、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた教育現場の問題点を、「忠孝」の理念を強調した校長の演説や彼らの言動をとおして明らかにしていました。

夏目漱石が『破戒』を「明治の小説として後世に伝うべき名篇也」と森田草平宛の手紙で激賞していたことを想起するならば、憲法が発布された頃に青年期を迎えていたこれらの作家は、第一回帝国議会の開会直前に渙発された「教育勅語」の問題を深く理解していたように思えます。

しかも、『三四郎』の連載から二年後の明治四三年には「大逆事件」で幸徳秋水などが死刑となりましたが、この時に修善寺で大病を患っていた漱石は、農奴の解放や言論の自由、裁判制度の改革などを求めて捕らえられて偽りの死刑宣告を受け、「刑壇の上に」立たされて死刑の瞬間を待つドストエフスキーの「姿を根気よく描き去り描き来ってやまなかった」と記したのです。

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(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

この時、ドストエフスキーは皇帝による恩赦という形でシベリア流刑となっていたのですが、「かくして法律の捏(こ)ね丸めた熱い鉛(なまり)のたまを呑(の)まずにすんだのである」と続けた漱石の表現からは、「憲法」を求めることさえ許されなかった帝政ロシアで、農奴の解放や表現の自由を求めていた若きドストエフスキーに対する深い共感が現れていると思えます。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

 クリミア戦争敗戦後の「大改革」の時期にシベリアから帰還したドストエフスキーは兄とともに総合雑誌『時代』を創刊しましたが、そこには自国や外国の文学作品ばかりでなく、司法改革の進展状況やベッカリーアの名著『犯罪と刑罰』の書評など多彩な記事も掲載されていました。新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する卑劣な弁護士ルージンとの激しい議論も描かれている長編小説『罪と罰』は、監獄での厳しい体験や法律や裁判制度について、さらに社会ダーウィニズムなどの新しい思想の真摯な考察の上に成立していたのです。

『罪と罰』を邦訳した内田魯庵も、主人公の自意識の問題だけでなく、制度や思想の問題点も鋭く描き出していたこの長編小説との出会いによる自分の「文学」観の変化とドストエフスキーへの思いを大正四年に著した「二葉亭四迷余話」でこう書いています。

「しかるにこういう厳粛な敬虔な感動はただ芸術だけでは決して与えられるものでないから、作者の包蔵する信念が直ちに私の肺腑の琴線を衝(つ)いたのであると信じて作者の偉大なる力を深く感得した。(……)それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった」。

そのことを想起するならば、漱石の記述には「大逆事件」をきっかけに日本で言論の自由が奪われて、「憲法」がなく皇帝による専制政治が行われていた帝政ロシアと同じような状況になることへの日本への強い危惧が示唆されていると言えるでしょう。

 実際、「治安維持法」の改正によって日本では昭和初期になると、共産主義者だけでなく「立憲主義」的な価値観を持つ知識人も逮捕されるようになるのですが、その時期に藤村が連載したのが父・島崎正樹をモデルとしてその悲劇的な生涯を描いた歴史小説『夜明け前』でした。

武力を背景として「開国」を要求した黒船の来航に揺れてナショナリズムが高まった時期に、日本を「万(よろず)の国の祖(おや)国」と絶対化した平田篤胤の考えを信じて、キリスト教や仏教を弾圧した平田派の国学者となった島崎正樹は、先祖の建立した青山家の菩提寺に放火して捕らえられ狂死していたのです。

放火は人に対するテロではありませんが、自分が信じる宗教を絶対化して仏教徒にとっては大切な「寺」に放火するという半蔵の行為からは、「非凡人」には「悪人」を「殺害」する権利があると考えて「高利貸しの老婆」の殺害を正当化したラスコーリニコフの苦悩と犯行が連想されます。

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(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

極端な「国粋主義」との関連で注目したいのは、ドイツ民族を絶対化したナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において、自らを「非凡人」と見なしたヒトラーが「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことに注意を促すとともに、「権威主義的な価値観」に盲従する大衆の心理にも迫っていたことです(日高六郎訳、東京創元社、1985)。

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(『自由からの逃走』、図版は英語版「ウィキペディア」より)

すなわち、心理学の概念を用いながら人間の「服従と支配」のメカニズムを分析したフロムによれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです。

しかも、第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、ヒトラーがなぜ権力を握りえたのかを明らかにしたフロムは、自分の分析の例証としてドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していました。

注目したいのは、『罪と罰』においてドストエフスキーがラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」と規定させているばかりでなく(三・五)、「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)とも語らせていたことです。

こうして、ラスコーリニコフに自分の「権力志向」と大衆の「服従志向」にも言及させることで「権威主義的な価値観」の危険性を見事に表現していたドストエフスキーは、エピローグの「人類滅亡の悪夢」をとおして「自分」や「自民族」を「非凡」と見なして「絶対化」することが大規模な戦争を引き起こすことをすでに示唆していたのです。

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江川卓訳『罪と罰』上中下(岩波文庫)

一方、「天皇機関説」事件で日本の「立憲主義」が崩壊する前年の昭和九年に、内田魯庵や北村透谷とは正反対の危機から眼をそらすような『罪と罰』論を展開したのが、文芸評論家の小林秀雄でした。彼は司法取締官ポルフィーリイや弁護士ルージンなどとラスコーリニコフとの激しい議論についての考察を省くことにより、「超人主義の破滅」や「キリスト教的愛への復帰」などの当時の一般的なラスコーリニコフ解釈では『罪と罰』には「謎」が残ると断言しました。(『小林秀雄全集』、新潮社、第六巻)。

こうして、自分の主張に合わないテキストの記述は無視しつつ時流に迎合して「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」との結論を記した小林秀雄は、自分の主張とは合わない解釈をする者に対しては、「権威主義的な」態度で「不注意な読者」と決めつけていたのです。

このような小林のドストエフスキー論の問題点は、北村透谷の『罪と罰』論なども踏まえつつ、小林の『破戒』論や『夜明け前』論を考察することによりいっそう鮮明に浮かび上がらせることができるでしょう。

以下、本書では「写生」や「比較」という方法を重視した明治の文学者たち評論や小説だけでなく彼らの生き方や、明治における法律制度や自由民権運動にも注意を払いながら、『罪と罰』の受容を分析することにします。

そのことにより日中戦争から太平洋戦争へと向かう時期に書かれた小林秀雄のドストエフスキー論の手法が、現代の日本で横行している歴史修正主義だけでなく、「公文書」の改竄や隠蔽とも深くかかわっていることも明らかにできると思います。

(注はここでは省き、旧かなと旧字は、現代の表記に改めた。2018年10月16日、改題と改訂)

 一、「国粋主義」の台頭と『罪と罰』の邦訳