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2016年

正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

Bungakukai(Meiji)

(『文学界』創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

フランス文学者の寺田透は「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、…中略…子規の好奇心に満ちた多様性といふことである」と書いていましたが、寺田が指摘した明治27(1894)年には正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』第74号に次のような追悼記事が掲載されました。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

『「小日本」と正岡子規』の「解説」で浅岡邦男氏はこの追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いと記しています。たしかに、詩人の透谷が『文学界』の記者でもあったことに注意を促しながら、「遂に羽化して穢土の人界を脱す」と記し、子規の号でもある「ほととぎす」という単語を用いて「芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶ」とも記されているこの追悼文が、子規の文章である可能性はきわめて高いと思われます。

しかも、この年には子規が1892年に書き上げていた小説「月の都」が新聞『小日本』に連載されていましたが、透谷も同じ1892年の10月に『国民の友』に発表した評論「他界に対する観念」で、「物語時代の『竹取』、謡曲時代の『羽衣』、この二篇に勝(まさ)りて我邦文学の他界に対する美妙の観念を代表する者はあらず」と書き、「人界の汚濁を厭(いと)ふ」て、「共(とも)に帰るところは月宮なり」(200)と記していたのです。

さらに透谷の「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892)には「嘗()つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀()みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述がありますが、正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていたのです。

それゆえ、北村透谷の追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いとの記述を見つけたときは、子規と透谷との文学観の類似性にたいへん昂奮しました。

それは子規が文学作品における「虚構」という方法についても理解していることを示唆していると思えたからでした。つまり、すぐれた文学作品における「虚構」は、読者を昂奮させる「でたらめ」ではなく、むしろドストエフスキー作品に現れているように、なかなか見えにくい「事実」を明らかにするための方法といえるでしょう。

しかも日露戦争直後の1906年に長編小説『破戒』を自費出版することになる島崎藤村は、正岡子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説「花枕」についての感想も述べていたのです。

その藤村は1908年には長編小説『春』で、1893年1月に星野天知らと『文学界』~1898年1月)を創刊してその精神的な指導者となった北村透谷との友情やその死について描くことになります。

病身にもかかわらず木曽路の山道から美濃路へと徒歩で旅し、新聞『日本』に連載された紀行文「かけはしの記」を「信濃なる木曾の旅路を人問はゞ/ たゞ白雲のたつとこたへよ」という歌で結んでいた子規と、「木曾路(きそじ)はすべて山のなかである。…中略…一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」という印象的な文章で始まる長編小説『夜明け前』を書くことになる島崎藤村との出会いは日本の近代文学にとってもきわめて重要だったと思われます。

それゆえ、二人の出会いの光景を想像した時には、透谷の自殺から芥川龍之介の自殺に至る厳しい日本の近代文学史が走馬燈のように浮かんでくるような感慨に打たれたのです。

子規の「歌よみに与ふる書」と文芸評論家・小林秀雄

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(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫)

新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」で正岡子規が、「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」と記していたことについて、司馬氏は「歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし」たところころに「子規のすご味がある」と書いていました。

一方、小林秀雄はよく知られているように、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」し、「原子力エネルギー」の問題でも「反省なぞしない」ことが明らかになったのです。

それゆえ、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視して経済優先の政治が行われるようになった日本をみながら強く感じたのは、「事実をきちんと見る」ためには、「評論の神様とも言われる」小林秀雄のドストエフスキー観をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

2014年に『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)を上梓したのは、私がその頃、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていたためだと思われます。

それゆえ、以下に拙著(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年、第五章〈「君を送りて思ふことあり」――子規の眼差し〉より第一節の一部を抜粋して掲載します。

*   *   *

〈「竹ノ里人」の和歌論と真之――「かきがら」を捨てるということ〉より

秋山真之のアメリカ留学の前に子規が「君を送りて思ふことあり蚊帳〔かや〕に泣く」という句を新聞『日本』に載せたことを紹介した司馬氏は、「子規ほど地理的関心の旺盛な男はめずらしく、世界というものをこれほど見たがる人物もすくないと真之はかねがねおもっている。しかし皮肉なことに、運命はその後の子規を病床六尺に閉じこめてしまった」と続けていました(二・「渡米」)。

(中略)

閉ざされた空間の「子規庵」でガラス戸越しに見える庭の草木や風景を詠いながらその詩境を深めていたことに注意を促した俳人の柴田宵曲は、「ガラス障子にしたのは寒気防ぐためが第一で、第二にはいながら外の景色を見るためであった。果たしてあたたかい。果たして見える」と子規が記していることに注意を促していますが*3、子規は「ガラス戸」という洋語を用いて「ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ」という歌などを詠んでいたのです。

『坂の上の雲』では「庭のみえるガラス戸のそばに、小石を七つならべてある」ことにふれて、俳句仲間がその石を「満州のアムール河の河原でひろうたものぞな」と持ち帰ってくれたものであることが説明され、「七つの小石を毎日病床からながめているだけで、朔風(さくふう)の吹く曠野(こうや)を想像することができるのである」と書かれています。

子規に「古今(こきん)や新古今の作者たちならこの庭では閉口するだろうが、あしはこの小庭を写生することによって天地を見ることができるのじゃ」と語らせた司馬氏はこの後で、「竹ノ里人」の雅号で新聞『日本』に発表された「歌よみに与ふる書」という一〇回連載の歌論について「事をおこした子規は、最初から挑戦的であった」と書き、次のように詳しく考察しています。

「その文章は、まずのっけに、/『ちかごろ和歌はいっこうにふるっておりません。正直にいいますと、万葉いらい、実朝(さねとも)いらい、和歌は不振であります』/ という意味を候文で書いた。手紙の形式である。/『貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候』/という。歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし、和歌の聖典のようにあつかわれてきた古今集を、くだらぬ集だとこきおろしたところに、子規のすご味がある」。

しかし、「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」と主張した「子規への攻撃が殺到」します。

「子規の恩人である陸羯南などは、短歌にも一家言があり、『日本』の社長として子規の原稿に横ヤリなどは入れないが、しかし子規の論ずるところにはっきりと反対であった。また『日本』の社内には歌を詠んだり歌に関心のある記者が多い。これらが、ぜんぶといっていいくらいに子規の論に反対であった」。

そのような厳しい批判にもひるまずに子規は持論を展開したのですが、司馬氏は子規の歌論の意味を、「英国からもどって」きた真之との会話をとおして分かり易く説明しています。

すなわち、「あしはこのところ旧派の歌よみを攻撃しすぎて、だいぶ恨みを買うている。たとえば旧派の歌よみは、歌とは国歌であるけん、固有の大和言葉でなければいけんという。グンカンということばを歌よみは歌をよむときにはわざわざいくさぶねという。いかにも不自然で、歌以外にはつかいものにならぬ」と子規は語ったのです。

司馬氏は子規が外国語を用いることや「外国でおこなわれている文学思想」を取り入れることが、「日本文学を破壊するものだという考えは根本があやまっている」と主張し、「むかし奈良朝のころ、日本は唐の制度をまねて官吏の位階もさだめ、服色もさだめ、唐ぶりたる衣冠をつけていたが、しかし日本人が組織した政府である以上、日本政府である」と続けたと描いています。

一方、「日本人が、日本の固有語だけをつかっていたら、日本国はなりたたぬということを歌よみは知らぬ」という子規の歌論を聞き、彼が書いた新聞の切り抜きを読んだ真之は、「升サンは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている。あしも、それを考えている」と語ります。

そして真之は、古い伝統を持つスペイン海軍とアメリカ海軍を比較しながら、遠洋航海に出た軍艦には、「船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる」と指摘して、「作戦のもとになる海軍軍人のあたま」も、「古今集ほど古くなくても、すぐふるくなる」ので、「固定概念(かきがら)」は捨てなければならないと主張したのです(二・「子規庵」)。

この記述に注目するとき、子規の俳句論や和歌論は古今東西の海軍の戦術を丹念に調べてそれを比較することで最良の戦術を求めようとした真之の方法についてだけでなく、イギリスに留学した夏目漱石やロシアに留学した広瀬武夫の見方にも深く関わると思われます。

リンク→「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

(2016年2月4日。〈正岡子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ〉を改訂、改題)。

「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

Ⅰ、「物質への情熱」――小林秀雄の正岡子規論

小林秀雄に正岡子規の「歌よみに与ふる書」を論じたエッセイ「物質への情熱」があります(『小林秀雄全集』第一巻)。

この冒頭で「正岡子規に『歌よみに与ふる書』といふ文章がある事は誰でも知つてゐる。そのかたくなに、生ま生ましい、強靱な調子を、私は大変愛するのだが」と記した小林秀雄は、「読んでゐて、病床に切歯する彼の姿と、へろへろ歌よみ共の顔とが、並んで髣髴と浮んで来るには少々参るのだ」と続けていました。

さらに、「惟ふに正岡子規は、日本詩人稀れにみる論理的な実証的な精神を持つた天才であつた」と記した小林秀雄は、「どんな大きな情熱も情熱のない人を動かす事は出来ないのかも知れない。子規の言葉は理論ではない、発音された言語である」との理解を示していました。

ただ、このエッセイに戸惑いを覚えたのは、冒頭近くで正岡子規の主張に対しては「到底歌よみ共には合点が行かぬと私は思ふ。少くとも子規が難詰したい歌よみ共には通じまいと思ふ」と書き、「『歌よみに与ふる書』は真実の語り難いのを嘆じた書状である。果して他人(ひと)を説得する事が出来るものであらうか」とも記した小林が次のように続けていたことです。

「詩人は美しいものを歌ふ楽な人種ではない。在るものはたゞ現実だけで、現実に肉薄する為に美しさを頼りとしなければならぬのが詩人である。女に肉薄するのに惚れるといふ事を頼りにするのが絶対に必要な様なものである」。

Ⅱ、「歌よみに与ふる書」と『坂の上の雲』

正岡子規が新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」については、司馬氏も長編小説『坂の上の雲』でふれています。私はこの箇所こそが『坂の上の雲』の中核となっていると考えています。

リンク→子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ

なぜならば、『坂の上の雲』単行本の第4巻のあとがきでは、「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記し、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていると記されています。このような「事実」の隠蔽に対する怒りが、膨大な時間をかけつつ自分で戦史を調べてこの長編小説を書かせていたのだと思えるのです。

一方、よく知られているように、小林秀雄は敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」したのです。

それゆえ、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていた私は、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視した政治が行われるようになった日本をみながら、「事実をきちんと見る」ためには「評論の神様とも言われる」文芸評論家・小林秀雄の方法をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

Ⅲ、「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の正岡子規観

注目したいのは、小林秀雄が正岡子規論に「物質への情熱」という題名を付けたことに強い違和感を記していた寺田透が、『子規全集』第二巻に「従軍発病とその前後」という題の「解説」を書き、そこで子規の「多様性」に注意を促していることです。

「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、無論これは全部についても言へることだが、子規の多産であり、その病軀にもかかはらぬ健康であり、さらにこれが江戸時代の俳句と子規のそれを区別するもつとも明瞭なことだが、子規の好奇心に満ちた多様性といふことである。」

ここで言及されている明治27年には、日清戦争が勃発し、この翌年に子規は病身をおして従軍記者となるのですが、この時期についてはこのHPの「正岡子規・夏目漱石関連簡易年表」を引用することによって、この時期と子規との関連を簡単に説明しておきます。

*   *   *

1894(明治27) 子規、2月、上根岸82番地(羯南宅東隣)へ転居。2月11日『「小日本』創刊、編集責任者となり、月給30円。小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。3月 挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。5月、北村透谷の自殺についての記事を書く。7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。7月29日、清国軍を攻撃。8月1日、清国に宣戦布告。9月黄海海戦で勝利、11月、旅順を占領。

1895(明治28) 子規、3月、日清戦争への従軍許可がおりる。4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。「陣中日記」を『日本』に連載。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、一時重態に陥る。7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。」

*   *   *

日本にとってばかりでなく、子規にとってもたいへんな年であったことが分かりますが、「たとへば次の新年の句二句すら、題材が富士であり筑波であるにもかかはらず、陳腐さより、時代の新しさを感じさせる」とし、〈ほのほの(原文ではくりかえし記号)と茜の中や今朝の不二〉と〈白し青し相生の筑波けさの春〉の二句を紹介した寺田は、こう記しています。

「これらの句からは、藩境などといふもののなくなつた国土を、自由に走つて行ける眼と心の喜びと言つたものが直覚されるといふことは言はずにゐられない。」

そして、子規が独身であるにも関わらず、〈古妻のいきたなしとや初鴉〉という「虚構」を記した句も書いていることを注目した寺田は、「この春には春雨の題で、〈春雨のわれまぼろしに近き身ぞ〉/深々として不気味な句を作者は作つた」ことを紹介して、「これも、誰もまだ作ることのできなかつた句だと言へよう」と子規の句の「多様性」に注意を促していました。

さらに、〈あちら向き古足袋さして居る妻よ〉という句を評して、「この明るさは、現実に縛られず、その上に別種の世界をくりひろげる空想のそれだといふことである」とも寺田は書いていました。

子規に関していろいろな著書を調べていた際に、最も刺激を受けた子規論の一つが「虚構」をも許容する子規の「多様性」を指摘した寺田透のこの「解説」だったのです。

「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」との持論を展開した子規には、「虚構」をも許容する「多様性」があったという寺田の指摘は非常に重要だと思えます。

なぜならば、1908年に長編小説『春』で、北村透谷との友情やその死について描くことになる島崎藤村(1872~1943)は、北村透谷(1868~1894)の追悼記事を書いた可能性の高い子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説『花枕』についての感想も述べていたのです。

子規が小説「曼珠沙華」で部落民に対する差別の問題をも描いていることを考えるならば、後に長編小説『破戒』を書くことになる藤村が子規と会っていたことの意味は大きいでしょう。

リンク→正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

(2016年2月3日。〈「事実をよむ」ことと「虚構」という方法〉より改題し、大幅に改訂)

 

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先日、「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」という題名の論稿をアップしました。

ただ、それは「翻訳と文学」とい特集に応じて書いた論文でしたので、「様々なる意匠」を論じて小林秀雄氏の「陶酔といふ理解の形式」を指摘していた箇所は省いていました。

寺田氏の指摘は、エッセイ〈「様々な意匠」と隠された「意匠」〉でも論じた小林の「隠蔽という方法」にも深く関わります。それゆえ、ここではまず司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』との出会いを簡単に振り返ったあとで、寺田透氏の指摘を踏まえて前回の論文ではあまり深く論じることのできなかった「隠蔽という方法」についてもより深く考えたいと思います(以下、敬称を略す))。

Ⅰ、「様々なる意匠」に「隠された意匠」

幕末から明治初期の混乱の時期の日本を題材にした『竜馬がゆく』などの小説を読んだ時に私が感じたのは、クリミア戦争敗戦後の価値の混乱したロシアの問題点を鋭く描きだしていたドストエフスキーの『罪と罰』(1866)の文明論的な広い視野と哲学的な深い考察が受け継がれているということでした。

さらに、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いたドストエフスキーが、次作の『白痴』ではこのような危機を救うロシアのキリスト(救世主)を描きたいと考えて、混迷のロシアで「殺すなかれ」と語った主人公・ムィシキンの理念も『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬に強く反映されているとも考えていました。

一方、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──主人公)には現れぬ」と記した文芸評論家の小林秀雄は、「『白痴』についてⅠ」でも「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と記し、一九六四年の『白痴』論では、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していました。

それゆえ、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論から一時期、強い影響を受けていたものの、原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じた私は、一九二九年のデビュー作「様々な意匠」で小林秀雄が「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していることに深く納得させられもしました。

しかも、「様々な意匠」は次のように結ばれていました。

「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。」

改めてこの文章を読んだ私は強い違和感を覚えました。なぜならば、司馬遼太郎は「様々な意匠」が書かれた時期を「昭和初期」の「別国」と呼んでいますが、この時期には「尊皇攘夷思想」という「意匠」が、政界や教育界だけでなく文壇の考えをも支配していたのです。

そして、前回、アップした〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉で詳しく分析したように、小林秀雄も「尊皇攘夷思想」を讃美するような記事を書いていたからです。

そのことに留意するならば『竜馬がゆく』における司馬の痛烈な批判の矛先は、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張つつ、自分の「意匠」を「隠して」いた戦前の代表的な知識人の小林秀雄にも向けられているのではないでしょうか。

『竜馬がゆく』第二巻の「勝海舟」では、その頃の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったばかりでなく、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判されていたのです。

Ⅱ、「様々なる意匠」と「陶酔といふ理解の形式」

「様々なる意匠」を論じた寺田氏の論稿を読んで驚かされたのは、すでに氏がここで「こころの震えを感じながら」小林秀雄の「陶酔といふ理解の形式」を指摘していたことでした。少し長くなりますが、「様々なる意匠」の文章を引用しておきます。

「一体最上芸術家の仕事で、科学者が純粋な水と呼ぶ意味での純粋なものは一つもない。彼等の仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豊富である。この豊富性の為に、私は、彼等の作品から思ふ処を抽象することが出来る、と言ふ事は又何物を抽象しても何物が残るといふ事だ……。かうして私は。私の解析眩暈の末、傑作の豊富性の底を流れる、作者の主調低音をきくのである。この時私の騒然たる夢はやみ、私の心が私の心を語り始める。この時私は私の批評の可能性を悟るのである」。

少し引用が長くなりましたが、この後で寺田はこう分析しています。

「この文章のなかにもこまかに注意すれば小林氏の資性をあきらかにする次のような事実が見られる。即ち、かれに批評の可能性を獲得させるべく、対象の宿命的基調にかれを溺れさせるものは、…中略…混乱を惹起させる対象の『豊富性』でもなく、それによって惹起されるかれの『眩暈』の仕業だということ。一種の酩酊だということ。自己嫌悪ではなく、自己陶酔ということ。/ どこかでかれは『陶酔といふ理解の形式』と言っている。…中略…やはりかれは一種のナルシスだったのである。僕は、こころの震えを感じながら、今。そういうことができる。」(昭和三十年二月)

実は、私が小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』論を何度も読み返すなかで「苦い思い」で感じていたのも、ここで描かれているのはドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』の分析ではなく、それらを強引に自分の解釈に引き寄せたものであり、新たな「創作」としての『新罪と罰』や『新白痴』であるということでした。

問題なのは、小林秀雄がそのことを自覚していたと思われるにもかかわらず、数学者・岡潔との対談などに明確に現れているように、自分の解釈が正しいとあくまで主張し、それ以外の読み方をする者を「不注意な読者」と断じていたことです。

Ⅲ、「様々なる意匠」と「隠蔽という方法」

「様々なる意匠」における「陶酔といふ理解の形式」に注意を促していた寺田透は『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、小林の「隠蔽という方法」をも示唆していました。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

寺田が示唆していた小林の「隠蔽という方法」は、小林秀雄の歴史観にも深くかかわります。

たとえば、1940年に書いた『わが闘争』の書評で小林は「これは天才の方法である、僕はこの驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた、僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした」とヒトラーを賛美していました。

このような初出における記述は『全集』に収められる際に変えられていたのですが、このことを果敢に指摘していた菅原健史氏の考察を紹介した箇所を拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)から引用しておきます。

〈初出時と『全集』との文章の差異を克明に調べた菅原健史は、『全集』では「天才のペン」の前に、《一種邪悪なる》という言葉が加筆されていることを指摘し、そのために『全集』に依拠した多くの研究者が、戦時中から小林がヒトラーを「一種邪悪なる天才」と見破っていたとして小林の洞察力を賞讃していたことに注意を促している。〉

大きな問題は、寺田透がすでに示唆して小林秀雄の「陶酔といふ理解の形式」や「隠蔽という方法」がきちんと反省されなかったために、岸信介氏の満州政策や安倍晋三氏の雁発再稼働の「道義的な責任」も、「黙過」されることになったと思われることです。

 

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司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

(2016年2月1日改訂。2月6日、関連記事を追加) 

〈司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって〉を「主な研究」に掲載

先日、論文〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉を「主な研究」に掲載しました。

しかし、論文のテーマを明確にするために、その後、節の題名を変更するとともに、〈司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって〉と〈司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって〉の二つに分割しました。

今回は、まず「司馬遼太郎と小林秀雄(1)」を「主な研究」に掲載します。

構成/ はじめに

1,情念の重視と神話としての歴史――小林秀雄の歴史認識と司馬遼太郎の批判

2、小林秀雄の「隠された意匠」と「イデオロギーフリー」としての司馬遼太郎

 

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

リンク→「様々な意匠」と隠された「意匠」

リンク→作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→(書評)山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

 

「アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

TPP(環太平洋パートナーシップ協定)では、やはり農業や牧畜などに限っただけでも大幅な譲歩を強いられていたことが明らかになったことを以前の記事で記しました。

その秘密交渉にあたっていた甘利明TPP担当大臣が、〈甘利大臣の嘘と「告発」の理由〉と題した『週刊文春』(2月4日号)の記事によって辞任に追い込まれるという事態になりました。

一方、一面でこのニュースを取り上げた今朝の「東京新聞」は、「良い人とだけ付き合っていたら選挙に落ちる」という甘利大臣の言葉を大見出しで報じるとともに、「政治とカネ断てぬ自民」という題で「前時代的とも思える古い自民党の体質」との関連を指摘する辛口の記事も掲載していました。

さらに2面でも「アベノミクスの要退場 首相問われる任命責任」、5面に〈「口利き」解明〉をという社説を載せた「東京新聞」が、3面、6面、30面、31面でも大きく取り上げていたのが目に付きました。

甘利明経済再生相の辞任は、権力の圧力に屈しなかった『週刊文春』のジャーナリスト魂の勝利であると思われますが、御用新聞と化したかのように甘利大臣を擁護していた読売新聞や産経新聞はどのような反応をするのでしょうか。

後任には「金目でしょ」のセリフで有名になった石原伸晃大臣が任命されたとのことですが、ここにも安倍首相の経済感覚が現れていると思われます。

*   *   *

このような流れを読み取ったかのようなタイミングで〈「カネ・醜聞 甘利爆弾炸裂――「安倍カレンダー」総崩れの危機〉との記事を載せた『サンデー毎日』(2月7日号)は、「安倍官邸崩壊の始まり」という見出しで、「浜矩子アホノミクスを叱る!」というインタビュー記事を載せています。

マイナンバー制度導入や「軽減税率」だけでなく、自民党政治の問題点にも鋭く切り込んだ矩子・同志社大学教授へのインタビューは、説得力のあるものになっています。

このブログ記事では、「改憲」を明言した安倍首相の目指す方向性が「未来」ではなく、祖父の岸信介氏も入っていた東条英機内閣のような「国家神道」の復活を目指している可能性を指摘してきました。

現代の新聞記者にも明治時代の新聞記者・正岡子規のような気概をもって、「良い人とだけ付き合っていたら選挙に落ちる」という感覚でTPP秘密交渉を担当した甘利大臣の元でまとまったTPPや、安倍政権の危険な実態に鋭く切り込んでほしいと願っています。

*   *   *

 

関連記事一覧

〈忍び寄る「国家神道」の足音〉

「アベノミクス」の詐欺性(2)――TPP秘密交渉と「公約」の破棄

TPPと幕末・明治初期の不平等条約

菅原文太氏の遺志を未来へ

 

「なぜ今、『罪と罰』か」、関連記事一覧

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(『罪と罰』の表紙、ロシア版「ウィキペディア」より)

このシリーズも思いがけず長いものとなりましたので、「なぜ今、『罪と罰』か」の関連記事一覧を掲載します。

なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

なぜ今、『罪と罰』か(5)――裁判制度と「良心」の重要性

なぜ今、『罪と罰』か(6)――教育制度の問題と長編小説『破戒』

なぜ今、『罪と罰』か(7)――教育制度の問題と長編小説『破戒』(2)

なぜ今、『罪と罰』か(8)――長編小説『破戒』における教育制度の考察と『貧しき人々』

なぜ今、『罪と罰』か(9)――ユゴーの『レ・ミゼラブル』から『罪と罰』へ

なお、始めた際にはこのシリーズの(序)として、〈「安倍談話」と「立憲政治」の危機〉という記事を置いていましたが、『罪と罰』との直接的な関係は薄いので元の題名に戻し、リンク先を変更しました。

なぜ今、『罪と罰』か(9)――ユゴーの『レ・ミゼラブル』から『罪と罰』へ

前回はまず、『罪と罰』で「法律」の問題を深く考察することになるドストエフスキーが、言論の自由がほとんどなかったニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で「教育制度」の問題を深く考察していたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことに注意を促しました。

その後で文芸評論家の小林秀雄が『貧しき人々』など前期の作品をほとんど論じていないことや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したことの問題点を指摘しました。

*   *   *

コゼット

(少女・コゼットの絵、ユーグ版より。図版は「ウィキペディア」より)

一時期、熱心に読んでいた小林秀雄のドストエフスキー論に疑問を抱くきっかけになった一因は、フランス文学者にもかかわらず、小林氏がシェストフには言及する一方で、『罪と罰』や『白痴』を書く際にドストエフスキーが強く意識していたユゴーの『レ・ミゼラブル』については、ほとんど沈黙していたことにもあると思われます。

『白痴』のムィシキンについて、「使嗾する神ムイシキン! けっして皮肉な読みではありません。ムイシキンは完全に無力どころか、世界の破滅をみちびく役どころを演じなくてはならない」と記した亀山郁夫氏も、戦後、実証的な研究がなされて、ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観についても、多くの文献が出ていたにもかかわらず、このことにはまったく言及していません。

ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観を著名な二人がまったく無視していたのは、その発言に言及することは自分の解釈を根底から崩すことになる危険性があることを察知していたためだろうと私は考えています。

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実は、初めてのヨーロッパへの旅行で1862年に出版されたばかりのこの作品をフィレンツェで手に入れたドストエフスキーは、街の見学も忘れて読みふけっていました。

そして、兄ミハイルとともに発行した雑誌『時代』の9月号に掲載された『ノートルダム・ド・パリ』の翻訳の序文でドストエフスキーは、「(ユゴーの)思想は十九世紀のあらゆる芸術の根本的な思想」であると高く評価し、それは「状況や数世紀にもわたる停滞、社会的偏見の圧迫によって不当に押しつぶされた者、滅亡した者の復興」であると説明し、「ユゴーはこうした〈復活〉のイデアの我らの世紀の文学において最も重要な伝道者である」と記していたのです。

さらに、結婚後に出発したヨーロッパ旅行の際に『レ・ミゼラブル』を読んだ妻のアンナは、夫が「この作品をとても高く評価していて、楽しみながら何度も読み返して」いたばかりでなく、「この作品に描かれた人物たちの性格のいろんな面を私に指摘し、説明してくれた」と日記に記していました。

このようなアンナ夫人の記述に従うならば、このときドストエフスキーは主人公のジャン・ヴァルジャンだけでなく、裕福な学生の恋人から身重の身で捨てられ、娘を育てるために自分の豊かな髪や歯などを徐々に売って、ついには売春婦にまで身を落とすことになったファンティーヌの悲劇やその娘コゼットについても妻に語っていたと思われるのです。

*   *   *

注目したいのは、明治時代の評論家・北村透谷が評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)において、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と書いていたことです。

この記述を初めて読んだ時には、「憲法」がなく言論の自由も厳しく制限されていた帝政ロシアで書かれた長編小説『罪と罰』に対する理解力の深さに驚かされたのですが、透谷とその時代を調べるうちに、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、権力者の横暴を制止するために「憲法」や「国会」の開設を求める厳しい流れの中での苦しい体験と考察の結果でもあったことが分かりました。

実は、自由民権運動に対する厳しい圧迫が続く中で、民権運動が下火になった状況下で過激化した大井憲太郎らのグループが、朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をして資金を得ようとした際に、透谷も友人の大矢正夫から参加を求められていたのです。

しかし透谷は、「目的」を達するためとはいえ、強盗のような「手段」を取ることには賛成できずに、苦悩の末、頭を剃り盟友と決別し、その後、ユゴーのごとき文学者となろうとしていました。

このような透谷の思いは、「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892年)における「嘗(か)つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀(よ)みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述にも現れています。

その透谷の追悼記事を新聞『小日本』に書いた可能性の高い俳人の正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていました。

しかも、1897年に子規と会った作家の佐藤紅緑(こうろく)は、ミリエル僧正の逸話に強い関心を示していた子規が、物騒であるとは感じつつもミリエル僧正にならって人が入ってくることができるように「裏木戸の通行を禁止」せずに、そのままにしてもいると語っていたことを証言しています。

このことは俳人の正岡子規も『レ・ミゼラブル』において核心ともいえる重要な役割を果たしていた「良心」の問題を深く認識していたことを示していると思えます。

なぜならば、透谷よりも1年前に松山で生まれた子規も、自由民権運動が盛んな頃に政治への関心を強めて1882年の12月には北予青年演説会で演説し、翌年の1月には「国会」と「黒塊」とを重ねて国会の意義を訴える「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行っていたからです。

そして、それを校長から咎められたことで松山中学を退学し、上京して東京帝国大学に入学した子規は、北村透谷が雑誌『平和』を創刊した年の12月1日に東京帝国大学を中退して新聞『日本』に入社していました。

*   *   *

作家の司馬遼太郎氏は夏目漱石の長編小説『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記し、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘しています(『本郷界隈』)。

そして、1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことを指摘した司馬氏は、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注意を促し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと記しているのです。

この説明は『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退したラスコーリニコフを主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ていると思えます。

母親のプリヘーリヤは手紙の中で、妹のドゥーニャが首都に法律事務所を開こうとしている弁護士ルージンと結婚すれば、ラスコーリニコフもやがて法律事務所の「共同経営者にもなれるのじゃないか、おまけにちょうどお前が法学部に籍を置いていることでもあるしと、将来の設計まで作っています」と書いていました。

ロシアの官等制度のもとでは八等官になると世襲貴族になれたので、この意味においては貧しい境遇から七等文官にまで独力で出世したルージンは、ラスコーリニコフの輝かしい未来像の一つだったはずでもあったのです。

しかし、ドストエフスキーは首都に法律事務所を開こうとしていたルージンが、「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか」を見るためには、「やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べたことを、ラズミーヒンに「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判させています。

このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ているように私には思えるのです。

リンク→日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

  (続く)

 

追記: 〈『罪と罰』における「良心」をめぐる劇〉と題した次回の考察で、このシリーズをひとまず終える予定です。

ただ、このシリーズも思いがけず長いものとなりましたので、次のブログ記事には〈「なぜ今、『罪と罰』か」関連記事一覧〉を掲載します。

また、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で詳しく考察しましたが、私は司馬遼太郎氏も実は小林秀雄の厳しい批判者の一人だったのではないかと考えています。

それゆえ、次回の考察を行う前に〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉と題した評論を「主な研究」に掲載することにしたいと思います。

なお、このシリーズでは詳しい引用文献などは示しません。拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2002年)や『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)などの注に記した文献を参照して頂ければ幸いです。

 

なぜ今、『罪と罰』か(8)――長編小説『破戒』における教育制度の考察と『貧しき人々』

前回は校長が「教育勅語」に記された「忠孝」の理念を強調する一方で、「憲法」に記された「四民平等」の理念にもかかわらず差別的な考えを持っていたことや、郡視学の甥・勝野文平がつかんだ情報を用いて丑松を学校から放逐しようとしていたことを確認しました。

*   *   *

『破戒』で日本における差別の問題を取り上げた藤村は、その一方で「人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』(引用者注――キシニョフ、キシナウとも記される。モルドバ共和国の首都。1903年にポグロムが起きた)で殺される猶太人(ユダヤじん)もなからうし、西洋で言囃(いひはや)す黄禍の説もなからう」とも記して、国際的な状況にも注意を促していました(第1章第4節)。

この意味で注目したいのは、若きドストエフスキーが言論の自由がほとんどなく「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で、女主人公ワルワーラの「手記」において「権力者としての教師」の問題や寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」という差別に深くかかわる問題を描いていたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことです。

*   *   *

田舎で育ったために学校生活にまったく慣れていなかったワルワーラが学校生活の寂しさから、最初のうちは予習もできなかったために、怒りっぽかった女の先生たちから、「教室の隅っこに膝をついて坐らされ、食事も一皿しか貰えない」というような罰を受けたのです。

このような体罰の問題については、『死の家の記録』(1860~62)でより深く考察されることになるのですが、すでにドストエフスキーは『貧しき人々』で、田舎育ちで学校生活に慣れなかったワルワーラを、教師たちが学習の進度を邪魔する「できない子」として体罰を与えるとき、「教室」という一種の「閉ざされた空間」において「いじめ」の問題が発生することを描いていました。

「ワルワーラの手記」では、そのことが次のように記されています。「女生徒たちはあたくしのことを笑ったり、からかったり、あたくしが質問に答えていると横から口をはさんでまごつかせたり、みんなでいっしょに並んで昼食やお茶にいくときにはつねったり、なんでもないことを舎監の先生に告げ口したりするのでした」。

級友たちも「秩序」の受動的な破壊者である「できない子」を批判することで、「権力」を持つ教師に気に入られようとし始めるのです。ワルワーラは「一晩じゅう校長先生や女の先生や友だちの姿が夢にあらわれ」たと書いていますが、それは学校の日常生活の中で次第に追いつめられた彼女の心理状態をもあらわしているでしょう。

しかも、『貧しき人々』の構造で注目したいのは、プーシキンの作品に出会ったことでより広い世界に目覚めるようになる「ワルワーラの手記」がこの作品の中核に置かれることで、それまで自分を「ゼロ」と考えていた中年の官吏ジェーヴシキンが、ワルワーラとの文通や貸し与えられたプーシキンの作品によって、自分の価値を見いだすようになるだけでなく、社会的な意識にも目覚めていく過程も描かれていることです。

たとえば、九月五日付けの手紙では夕暮れ時のフォンタンカの通りを歩く貧しい人々と華やかなゴローホワヤ街やそこを馬車で通る金持ちの人々とを比較したジェーヴシキンは、大金持ちの耳に「自分のことばかりを考えるのは、自分ひとりのために生きていくのはたくさんだ」とささやく者ものがいないことがいけないのであると記しています。

注目したいのは、この作品でも「国庫の利益をなおざりにした」として解雇された元役人ゴルシコーフが、「請負仕事をごまかした商人」と争って、「こね」や「財産」のない者が裁判に勝つことはきわめて難しかったにもかかわらずこの裁判に勝ったものの、それまでのストレスからあまりの興奮に、突然亡くなってしまったという顛末が描かれていることです。

この小説は悲劇的な結末を迎えますが、それは、裁判の公平さや権力の暴走を防ぐことのできるような「憲法」の重要性を、イソップの言葉で読者に示唆するためだったと思えるのです。

(リンク→高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年)

それゆえ、私は初めて『貧しき人々』を読んだ時には、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」にこのような小説を発表していた若きドストエフスキーに、「薩長藩閥政府」から「憲法」を勝ち取ろうとしていた日本の自由民権論者たちとの類似性すら感じていたのです。

*   *   *

一方、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ1932年に発表した評論「現代文学の不安」で文芸評論家の小林秀雄は、芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定する一方で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記して、ドストエフスキーの作品を知識人の不安や孤独に焦点をあてて読み解いていました。

しかも、前期と後期の作品との間に深い「断層」を見て、『罪と罰』の前作『地下室の手記』を論じつつ、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していた哲学者のシェストフから強い影響を受けていた小林は、前期の作品をほとんど無視し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したのです。

「報復の権利」を主張したブッシュ元大統領が始めたイラク戦争の翌年の2004年に、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する著作を発表した小説家の亀山郁夫氏も主人公たちに犯罪者的な傾向を強く見て、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」という独創的な解釈を示しました(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上、285頁)。

さらに亀山氏は前期の作品との継続性も指摘して、『貧しき人々』のジェーヴシキンをも悪徳地主である「ブイコフの模倣者」であり、「むしろ悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」でもあると断定したのです(上、72頁)。

このようなセンセーショナルな解釈は読み物としては面白いものの、その作品で主人公たちの「不安」をとおして「教育制度」などについても深く考察していたドストエフスキーの作品を矮小化していると私は感じました。

さらに大きな問題はこのような主観的な解釈が、「憲法」のない帝政ロシアで検閲を強く意識しながらも、「裁判の公平」や「言論の自由」をイソップの言葉で果敢に主張していたドストエフスキー作品の意味を読者から隠す結果になっていることです。

*   *   *

これらの小林氏や亀山氏のドストエフスキー論と比較するとき、明治時代の北村透谷や島崎藤村は、なぜ文明論的な視野と骨太の骨格を持つ『罪と罰』に肉薄し得ていたのでしょうか。

次回は、ドストエフスキーが弁護士ルージンとラスコーリニコフなどの対決をとおして「法律」の問題を深く考察していることを踏まえて、再び帝政ロシアの時代に書かれた『罪と罰』における「良心」の問題を考えて見たいと思います。

なぜ今、『罪と罰』か(7)――教育制度の問題と長編小説『破戒』(2)

 

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(映画《二十四の瞳》、壺井栄原作、木下恵介監督。1954年 松竹大船。図版は「ウィキペディア」より)

前回は「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の状況がどのようなものとなったかが、長編小説『破戒』の第2章でかなり詳しく描かれているだけでなく、校長が郡視学の甥の若い教員・勝野文平を使ってなんとか丑松を学校から放逐したいと考えていたことも記されていることを確認しました。

*   *   *

第5章では明治6年(1873)国の祝日とされた天長節(天皇の誕生日)の式典をめぐって、教頭のような地位にあった丑松と校長の関係が次のように描かれています。

「主座教員としての丑松は反(かえ)って校長よりも男女の少年に慕はれていた。丑松が『最敬礼』の一声は言ふに言はれぬ震動を幼いものの胸に伝へるのであつた。やがて、『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。その日校長の演説は忠孝を題に取つたもので、例の金牌(きんぱい)は胸の上に懸つて、一層(ひとしお)その風采を教育者らしくして見せた。」

このあとで、郡視学の甥・勝野文平をわざわざ呼び止めた校長が、「時に、どうでした、今日の演説は?」と尋ねて、「御世辞でも何でも無いんですが、今まで私が拝聴(うかゞ)った中(うち)では、先(ま)づ第一等の出来でしたらう」という返事を得たと記した藤村は、こう続けています。

「校長は、やがて思ふことを切出した。わざわざ文平を呼留めてこの室へ連れて来たのは、どうかして丑松を退ける工夫は無いか、それを相談したい下心であつたのである。」

さらに、第14章で校長が「この鍾愛(きにいり)の教員から、さまざまの秘密な報告を聞くのである。男教員の述懐、女教員の蔭口(かげぐち)、その他時間割と月給とに関する五月蠅(うるさい)ほどの嫉(ねた)みと争いとは、是処(ここ)に居て手に取るやうに解(わか)るのである」と記した藤村は、勝野文平が「学校に居られないばかりぢや無い、あるいは社会から放逐されて、二度と世に立つことが出来なくなる」かも知れないような丑松の出自についての情報を語ったと続けていました。

ここで注意を払っておきたいのは、「正教・専制・国民性」の「三位一体」が強調された「ロシアの教育勅語」により、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」に青春を過ごしたドストエフスキーが、すでに第一作『貧しき人々』の女主人公ワルワーラの「手記」において「何から何まで時間割で」決っていた当時の寄宿学校の問題点を鋭く描いていたことです。

このことの意味と長編小説『罪と罰』との関連については次回考えることにしますが、『破戒』でも天長節の日に「忠孝」という「教育勅語」の理念を広めようとしていた校長が、その一方で四民平等が唱えられ、「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた1871(明治4)年の「解放令」のあとでも昔ながらの差別感を持ち続けており、自分の気に入らない丑松を学校から放逐する策略を裏で行っていたことが記されていたのです。

福沢諭吉は、自由民権運動と国会の開設への要求が高まりを見せていた明治一二年(一八七九)に書いた『民情一新』でニコライ一世が、「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしたばかりでなく、西欧の「良書を読むを禁じ、其雑誌新聞紙を見るを禁じ」、大学においては「理論学を教へ普通法律を講ずる」ことを禁じるなど「未曽有〔みぞう〕の専制」を行ったと厳しい批判をしていました(太字は引用者)。

福沢の批判を考慮するならば、自由民権運動の高まりによって、「薩長藩閥政府」から「憲法」を1889年に勝ち取っていた日本でも、その翌年に「教育勅語」が渙発されたことによって、次第に帝政ロシアに近い教育体制へと後退をし始めていたのです。

*   *   *

少し脱線することになりますが、若い勝野文平を使って丑松を放逐しようとする校長の策謀や苦悩する丑松を助ける土屋銀之助の働きは、松山中学を舞台に「マドンナ」に惚れたために「うらなり」を放逐しようとしていた文学士の「赤シャツ」と「のだいこ」の策略を見抜いた「坊っちゃん」が「山嵐」とともに彼等を成敗して去って行くという夏目漱石の『坊つちやん』の構造も連想させられます。

『破戒』が自費出版されたのが1906年3月で、『坊つちやん』が『ホトトギス』の付録として載ったのが4月1日とのことですので、直接的な関係はないようですが、二人の文学者の当時の教育制度への批判がうかがえるように思えます。

さらに脱線を重ねることになりますが、小さな島の学校に1938年に赴任した若い大石先生と子供たちの触れ合いを描いた壺井栄の小説『二十四の瞳』(1952)では、夏目漱石の弟子・鈴木三重吉の影響下に事実を写生するように教えた「生活綴方運動」を教育の場で実践して六年生の文集『草の実』を編み、「生徒の信望を集めていた」教員が、「一朝にして国賊に転落させられた」という出来事も描かれています。

興味深いのはこの原作をもとに映画《二十四の瞳》(松竹大船、主演女優:高峰秀子)を1954年に公開した木下恵介監督が、池部良・桂木洋子・滝沢修などの俳優により、島崎藤村の『破戒』を原作とする映画を1948年に公開していたことです。

残念ながら映画《破戒》を見ていないので、詳しく論じることはできませんが、そのことからは『破戒』から『二十四の瞳』に至る教育制度の題点に対する木下監督の深い理解が感じられます。

追記:いずれ木下恵介監督の映画《破戒》についても記したいと思いますが、You Tubeに「予告」が掲載されていたことが分かりましたので、そのリンク先を取りあえず記しておきます。

リンク→破戒(予告) – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=Po8Jmry4728

(2016年1月27日。青字の箇所を追加。2017年4月18日、改訂)