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小林秀雄

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

前回のブログ記事では触れませんでしたが、小林秀雄氏が『ヒロシマわが罪と罰』についての沈黙を守った最も大きな理由は、この書物ではこのころ世界を揺るがしていたアイヒマンの裁判のことにも言及されていたからではないかと私は考えています。

ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフに、非凡人は「自分の内部で、良心に照らして、流血をふみ越える許可を自分に与える」(下線引用者)のだと説明させていました。

一方、著者の一人のG・アンデルスは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画にあずかり、この計画を実行にうつした人間」であるアイヒマンが、「自分は“テロの機構の中の一本の小さなネジ”にすぎなかった、そして、ヒトラーへの忠誠の誓いを誠実に実行したにすぎなかったのだと、“良心にかけて”証言しているのだ」と原爆パイロットのC・イーザリーに説明していたのです(244-5頁)。

さらにG・アンデルスは、ケネディ大統領に送った1961年1月13日付けの書簡で、アイヒマンの裁判のことにも言及しながら、原爆パイロットのC・イーザリーを次のように弁護していました。

「ちがいます。イーザリーは決してアイヒマンの同類ではありません。それどころか、まさにアイヒマンとはまったく対蹠的な、まだ望みのある実例なのです。自己の良心の欠如をメカニズムに転嫁しようとするような男とちがって、イーザリーは、メカニズムこそ良心にとっておそるべき脅威であるということを、はっきりと認めているのです。そして、そのことによって彼は、今日における道徳的な根本問題の核心を、ほんとうに突いているのです。」(218-9頁)

*   *

一方、「非凡民族」という思想にもつながるラスコーリニコフの「非凡人の理論」の危険性を軽視していた小林氏は、鼎談「英雄について」でヒトラーを「小英雄」と見なしていました。

さらに、1940年に書いた『わが闘争』の書評では「これは天才の方法である、僕はこの驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた、僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした、(以下略)」とヒトラーを賛美していたのです。

問題はこのような初出における記述が、『全集』に収められる際に変えられていることです。このことを果敢に指摘した菅原健史氏の考察を拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』から引用しておきます。

〈初出時と『全集』との文章の差異を克明に調べた菅原健史は、『全集』では「天才のペン」の前に、《一種邪悪なる》という言葉が加筆されていることを指摘し、そのために『全集』に依拠した多くの研究者が、戦時中から小林がヒトラーを「一種邪悪なる天才」と見破っていたとして小林の洞察力を賞讃していたことに注意を促している。

しかも菅原は、初出では引用した個所の直前には「彼(引用者注──ヒトラーのこと)は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く、そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる」という記述があったが、その部分は『全集』では削除されていることも指摘している。〉

数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)について考察した〈「不注意な読者」をめぐって(2)〉では、小林秀雄氏が「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と語り、小説の構造の秘密を「かぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから」と主張していたことを紹介した後で、私は次のような疑問を記していました。

〈小林氏は本当に「作者」が「隠していること」を「かぎ出した」のだろうか、「狡猾なところがある」のはドストエフスキーではなく、むしろ論者の方で、このように解釈することで、小林氏は自分自身の暗部を「隠している」のではないだろうか。〉

「“テロの機構の中の一本の小さなネジ”にすぎなかった」と主張したアイヒマンの「良心」の問題にも鋭く迫っていた『ヒロシマわが罪と罰』は、小林氏の「良心」解釈の問題点をも浮かび上がらせているように感じます。

リンク→『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』(東京創元社)

リンク→『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

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「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2015年6月18日、写真と副題を追加。2016年1月1日、関連記事を追加)

 

映画《白痴》とポスター

 

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(松竹製作・配給、1951年、図版は「ウィキペディア」より)。

 

大学の講義のための参考資料として、上記のポスターをHPに掲載していました。

しかしこのポスターを見ているうちに、私の内にあった強い違和感の理由に気づきましたので少し記しておきます。

*   *

よく知られているように、黒澤明監督の映画《白痴》(1951)は、残念ながら、当初4時間32分あった映画が、映画会社の意向で長すぎるとして2時間46分にカットされたこともあり、日本ではあまりヒットしませんでした。

しかし、日本やロシアの研究者だけでなく、「ドストエフスキーの最良の映画」として映画《白痴》を挙げたタルコフスキーをはじめとして本場ロシアの多くの映画監督からも絶賛されました。

その理由はおそらく彼らが原作をよく知っていたために、カットされた後の版からでもこの映画が原作の本質を伝え得ていることを認識できたからでしょう。実際、拙著で詳しく検証したように、上映時間が限られるために登場人物などを省略し、筋を変更しながらも、黒澤明監督はオリジナル版で驚くほど原作に近い映像を造りあげていたのです。

収益を重視した会社の意向でカットされた後の版でも、ナスターシャ(那須妙子)を妾としたトーツキー(東畑)や、さまざまな情報を握って人間関係を支配しようとしたレーベジェフ(軽部)、さらにエパンチン将軍(大野)やイーヴォルギン将軍(香山)の家族も制限されたかたちではあれ、きちんと描かれていました。

*   *

一方、小林秀雄氏は1934年から翌年にかけて書いた「『白痴』についてⅠ」において、この長編小説について「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断定し、多くの重要な登場人物については、ほとんど言及していないのです。それは小林氏の『罪と罰』論について論じた際にも記したように、これれらの重要な登場人物の存在は、彼の論拠を覆す危険性を有していたからでしょう。

つまり、小林氏は多くの重要な登場人物については「沈黙」を守る、あるいはかれらwお「無視」することにより、自分の読みに読者を誘導していたと私には思えるのです。

映画《白痴》のために作成されたはずの上記のポスターは、黒澤氏の映像を用いつつも、ナスターシャをめぐるムィシキン(亀田)とロゴージン(赤間)の三角関係を中心に考察した小林秀雄氏の解釈に従った構図を示していたのです。

*   *

視覚に訴えることのできるポスターは、単なる文章よりも強い影響力を持ちやすいと思えます。おそらく会社側の意向に沿って製作されたと思われるこのポスターは、黒澤映画《白痴》よりも、小林氏の『白痴』論のポスター化であり、そのことがいっそう観客の映画に対する違和感を強めたのではないかとさえ思えるのです。

 

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→「不注意な読者」をめぐってーー黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「人間の進歩について」と題して1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談で、文芸評論家の小林秀雄氏は「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく批判していました。

それゆえ、原爆の投下に関わってしまったことを厳しく反省したパイロットの苦悩が描かれている著作『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』については、小林氏も「道義心」の視点から高く評価するのが当然だと思われるのです。

では、なぜ小林氏は原爆の問題を考える上で重要なこの著作に全く言及していないのでしょうか。その理由の一つは、原爆パイロットと書簡を交わしていたG・アンデルスが1960年7月31日付けの手紙で、東条内閣において満州政策に深く関わった経済官僚から大臣となった岸信介氏を次のように厳しく批判していたためだと思われます。

*   *

「つまるところ、岸という人は、真珠湾攻撃にはじまったあの侵略的な、領土拡張のための戦争において、日本政府の有力なメンバーの一人だったということ、そして、当時日本が占領していた地域の掠奪を組織し指導したのも彼であったということがすっかり忘れられてしまっているようだ。こういう事実がある以上、終戦後アメリカが彼を三年間監獄に入れたということも、決して根拠のないことではない。誠実な感覚をそなえたアメリカ人ならば、この男、あるいはこの男に協力した人間と交渉を持つことを、いさぎよしとしないだろうと思う。」

歿後30年を契機に小林氏と満州との関わりが明らかになってきましたが、座談会では、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」と語りつつも、秘かに「良心の呵責」を覚えていたと思われる小林氏にとって、岸氏の話題は触れたくないテーマの一つだったと考えられるのです。

*   *

読者の中には、小林氏が言及していない著作との関係を考察してもあまり意味はないと考える人もいるでしょう。たしかに普通の場合は、人は自分が関心を払っていないテーマについては語らないからです。

しかし、文芸評論家の小林秀雄氏の場合は異なっているようです。長編小説『罪と罰』の筋において中年の利己的な弁護士ルージンとラスコーリニコフとの論争が、きわめて重要な役割を担っていることはよく知られています。また、このブログでは悪徳弁護士ルージンの経済理論と安倍政権の主張する「トリクルダウン理論」との類似性を指摘しました。→「アベノミクス」とルージンの経済理論

一方、小林氏の『罪と罰』論ではルージンへの言及がほとんどないのですが、それは重要な登場人物であるルージンの存在は、彼の論拠を覆す危険性を有していたからでしょう。つまり、小林氏はルージンについての「沈黙」を守る、あるいは「無視」することにより、自分の読みに読者を誘導していたと私には思えるのです。

リンク→小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

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アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2016年1月1日、関連記事を追加)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)――『カラマーゾフの兄弟』とイワンの苦悩

『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(1962年、筑摩書房)のドイツ語の原題は、『Off limits fu¨r das Gewissen――der Briefwechsel zwischen dem Hiroshima―Piloten Claude Eatherly und Gu¨nther Anders(良心の立ち入り禁止――広島パイロット、クロード・イーザリーとギュンター・アンデルスとの文通)』とのことで、「罪と罰」という単語は入っていません(ウムラウトの表記が分かれて示されています)。

それゆえ、文芸評論家の小林秀雄氏がこの著作に言及していなくても不自然ではないという解釈も可能です。

しかし、 [BOOKデータベース]によれば、この本の内容は下記のように紹介されていました。

【 “1945年8月6日、広島の上空で約45分間旋回した後、僚機エノラ・ゲイ号に向けて、私は「準備OK、投下!」の暗号命令を送りました。…”

後年、地獄火に焼かれる広島の人々の幻影に苦しみつづけ、〈狂人〉と目された〈ヒロシマのパイロット〉と哲学者との往復書簡集。それは、病める現代社会を告発してやまない。ロベルト・ユンクの精細な解説「良心の苦悩」を付す。】

*   *

よく知られているように長編小説『カラマーゾフの兄弟』では、自殺したスメルジャコフに自分が殺人を「使嗾」していたことに気づいたイワンが「良心の呵責」に激しく苦しむことが描かれています。

残念ながら、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と断言していた小林秀雄の『罪と罰』論が広まって以降、日本ではドストエフスキーはあまり倫理的な作家とは見られていないようです。

しかし、高校の時に『罪と罰』と出会って主人公の感情の分析の鋭さや文明論的な広い視野に驚き、続いて『白痴』では「殺すなかれ」という高い理念を語る主人公像に魅せられていた私は、自分が殺人を「使嗾」していたかもしれないことに気づいたイワンの「良心の呵責」を描いた『カラマーゾフの兄弟』にきわめて高い倫理性を見ていました。

「良心の苦悩」と名付けられた解説でロベルト・ユンクは、「広島でのあのおそるべき体験の後、イーザリーは何日間も、だれとも一言も口をきかなかったという話が伝えられている」と記し、さらにこう続けています。

「広島と長崎への原爆投下に参加したパイロットたちを、英雄視して祭り上げようとする風潮が終戦直後に起こったとき、こうした風潮の誘惑に抵抗したのは、ただひとりイーザリーだけであった。」(268~269頁、引用は1987年出版のちくま文庫による)。

それゆえ、この本を読んだ時にはイーザリーの苦しみに『カラマーゾフの兄弟』のイワンの苦悩を重ねて読み、表題に「罪と罰」というドストエフスキー作品のテーマを組み込んだ編集者の見識に感心していたのです。

リンク→小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

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アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2016年1月1日、関連記事を追加)

〈「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観〉を「主な研究」の頁に掲載

文芸評論家の小林秀雄氏は、黒澤映画《白痴》が公開されてから1年後に書き始められた『白痴』論の末尾で次のように記していました。

「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。〈後略〉」。

「不注意な読者」という句を小林氏は以前から愛用していたが、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、この表現が1951年に映画《白痴》を公開していた黒澤明監督に向けられている可能性が強いこと指摘しました。

文芸評論家の小林秀雄氏と数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)からも同じような印象を受けましたので、両者の『白痴』観に絞って考察することで、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点に迫りたいと思います。

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→「不注意な読者」をめぐって――黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

講演「黒澤明監督の倫理観と自然観――映画《生きものの記録》から映画《夢》へ」に向けて

 

 5月23日(土曜)に行われる「地球システム・倫理学会」の研究例会では、「黒澤明監督の倫理観と自然観――《生きものの記録》から映画《夢》へ」という題名で講演を行います。

リンク→「地球システム・倫理学会」研究例会(5月23日)のお知らせ

講演の準備に取り組む中で黒澤明・小林秀雄関連年表にいくつかの重要な事項が抜けていたことに気づきました。「核兵器・原発事故と終末時計の年表にリンクするとともに、黒澤明・小林秀雄関連年表に下記の事項を追加しました。

また、黒澤明とタルコフスキーという二人の名監督の深い交流とその意義をめぐる堀伸雄氏のすぐれた論文が二誌に掲載されましたので*、両者の交友と作品の事項も追加しました。

リンク→年表7、黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

*   *

1945年 【ロックフェラー財団会長レイモンド・フォスディックが原爆投下の知らせを聞いて「私は良心の呵責に苦しんでいる」と手紙に記す】。

1962年8月 『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』、筑摩書房。(アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」を所収)。

1965年 小林、数学者の岡潔と対談「人間の建設」(『新潮』10月号)でアインシュタインを批判。

1973年 黒澤、モスクワで映画監督タルコフスキーとともに《惑星ソラリス》を見る。

1986年 【5月 タルコフスキーの映画《サクリファイス》上映】。

 

(* 堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」『黒澤明研究会誌』第32号、および「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」『ドストエーフスキイ広場』第24号)。

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時』(新潮社、2014年)を「書評・図書紹介」に掲載

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の公刊は、私が予期していなかったような様々な反応を呼びましたが、昨日、発行された『ドストエーフスキイ広場』には、小林秀雄のドストエフスキー論をめぐる論考などが収められています。

比較文学者の国松夏紀氏には、論点が多く書評の対象としては扱いにくい拙著を書誌学的な手法で厳密に論じて頂きましたが、同じ頃に公刊された山城むつみ氏の『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』の書評は私が担当しました。

『ドストエフスキイの生活』で「ネチャアエフ事件」に言及した文章を引用しながら、小林秀雄の『悪霊』論と「日中戦争の展開」との関係に注意を促しつつ、「急速にテロリズムに傾斜していった」ロシアのナロードニキの運動と、「心の清らかで純粋な人々が、ほかならぬアジアを侵略し植民地化して、まさしくスタヴローギンのように『厭はしい罪悪の遂行』に誘惑されて」いった「昭和維新の運動」との類似性の指摘は重要でしょう。

ただ、私が物足りないと観じたのは、フランス文学者であるだけでなくロシア文学にも通じており比較の重要性を認識していたはずの小林秀雄が、なぜ日本語の「正しく美しきこと」は「万国に優」るとして比較を拒絶し、「異(あだし)国」の「さかしき言」で書かれた作品を拒否した本居宣長論に傾斜していくようになるかが見えてこないことです。

また、「コメディ・リテレール」での「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」という小林秀雄の発言にも言及されていますが、同じような問題は、湯川秀樹博士との対談では、「道義心」の視点から「原子力エネルギー」の問題を鋭く指摘していた小林が、数学者との岡潔との対談では、核廃絶を実践しようとしたアインシュタインをなぜか批判的に語っていることにも見られるでしょう。

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と断言していた小林秀雄の「富と罰」の意識は、原爆や原発事故の問題に対する日本の知識人の対応を考えるうえでも重要だと思われます。

福島第一原子力発電所事故後の日本を考える上でも重要な著作ですので、一部を注で補うような形で書評を掲載します。

終末時計の時刻と回避された「核攻撃命令」

安倍政権は沖縄で再び住民の意思を全く無視した形で辺野古の基地建設を強引に進めていますが、本日の「東京新聞」朝刊は1962年の「キューバ危機」の際には、沖縄が核戦争の戦場になる危険性があったという衝撃的な事実を伝えています。

 

冷戦下、米沖縄部隊に核攻撃命令 元米軍技師ら証言

2015年3月14日 「東京新聞」

冷戦下の1962年、米ソが全面戦争の瀬戸際に至ったキューバ危機の際、米軍内でソ連極東地域などを標的とする沖縄のミサイル部隊に核攻撃命令が誤って出され、現場の発射指揮官の判断で発射が回避されていたことが14日、同部隊の元技師らの証言で分かった。

キューバ危機で、核戦争寸前の事態が沖縄でもあったことが明らかになったのは初めて。ミサイルは、核搭載の地対地巡航ミサイル「メースB」で、62年初めに米国施政下の沖縄に配備された。運用した米空軍第873戦術ミサイル中隊の元技師ジョン・ボードン氏(73)=ペンシルベニア州ブレイクスリー=が証言した。(共同)

  *   *   *

2月4日に書いたブログ記事「小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計」では、世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえた「終末時計」の時刻が、「残り3分」になったと発表されたことに関連して、小林秀雄の原子力エネルギー観の問題を指摘しました。

1948年の湯川秀樹との対談「人間の進歩について」で、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」を強調しながら批判していた小林秀雄は、日本を取り巻く核廃絶の運動が衰退する流れに沿うかのように原子力エネルギーの危険性に対する指摘をパッタリとやめていたのです。

ことに核戦争が勃発する寸前にまで至っていた1962年の「キューバ危機」から3年後に行われた数学者の岡潔との対談では哲学者ベルグソンの視点に立ってアインシュタインを批判していました。

しかし、日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識したアインシュタイン(1879~1955)は、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指し、それは「ラッセル・アインシュタイン宣言」として結実していたのです。一方、哲学者ベルグソン(1859~1941)は原爆の危険性を知らずに亡くなっていました。

「原子力エネルギー」の問題を「道義心」の視点から批判していた小林秀雄は、当然、アインシュタインが持った危機感を共有していたと思えるのですが、1965年の対談からはその危機感のかけらも感じられないのです。

日本の代表的な知識人である小林秀雄の現実の危険性を直視しない姿勢が、今日の原発大国・日本にもつながっていると思われます。

(2016年2月17日。リンク先を追加)

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

リンク→自民党政権の「核の傘」政策の危険性――1961年に水爆落下処理

リンク→岸・安倍両政権と「核政策」関連の記事一覧

小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

アメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、2015年01月22日に、核戦争など人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえた「終末時計」が、「残り3分」になったと発表しました。

私自身が文学を研究する道を選んだ大きな動機は、「人類滅亡の悪夢」が描かれている『罪と罰』などをとおして戦争の危険性を訴えるためだったので、「終末時計」がアメリカに続いてソ連も原爆実験に成功した1949年と同じ「残り3分」になったことに強い衝撃を受けています。

それゆえ、「ウィキペディア」などを参考に「核兵器・原発事故と終末時計」の年表を作成しましたので、年表Ⅶとして年表のページに掲載します。

リンク→年表Ⅶ、核兵器・原発事故と終末時計

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(広島と長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲、1945年8月、図版は「ウィキペディア」より)

*  *

日本における反原爆の運動と原発事故の問題については、前著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で考察しました。

しかし、1965年に行われた数学者の岡潔氏との対談「人間の建設」についての言及が抜けていたのでそれを補いながら、小林秀雄の「原子力エネルギー観」と歴史観との関連について簡単に記しておきます。

*  *

1947年に創設された終末時計は東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として、当初は「残り7分」に設定されましたが、文芸評論家の小林秀雄のすばらしい点はその翌年8月に行われた湯川秀樹との対談「人間の進歩について」で、「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の問題を「道義心」を強調しながら批判していたことです。

しかし、年表をご覧頂ければ分かるように、日本を取り巻く核廃絶の環境はその頃から急速に悪化していき、そのような流れに沿うかのように小林秀雄の原子力エネルギーの危険性に対する指摘は陰を潜めてしまうのです。

リンク→http://zero21.blog65.fc2.com/blog-entry-130.html(湯川秀樹博士の原子力委員長就任と辞任のいきさつ)

たとえば、米ソで競うように水爆実権が繰り返されるようになる1953年から1960年までは最悪の「残り2分」となり、1962年の「キューバ危機」では核戦争が勃発する寸前にまで至りました。それを乗り越えたことにより「終末時計」は「残り12分」に戻ったものの、相変わらず「残り時間」がわずかとされていた1965年に小林秀雄は数学者の岡潔と対談しています。

ことにこの対談で哲学者ベルグソン(1859~1941)にも言及しながら物理学者としてのアインシュタイン(1879~1955)と数学者との考え方の違いについて尋ねた箇所は、この対談の山場の一つともなっています。

しかし、「(アインシュタインが――引用者注)ベルグソンの議論に対して、どうしてああ冷淡だったか、おれには哲学者の時間はわからぬと、彼が答えているのはそれだけですよ」という発言に現れているように、小林の関心は両者の関係に集中しているのです(『人間の建設』新潮文庫、60頁)。

小林秀雄はさらに、「アインシュタインはすでに二十七八のときにああいう発見をして、それからあとはなにもしていないようですが、そういうことがあるのですか」とも尋ねています(太字は引用者、68頁)。

しかし、日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識したアインシュタインは、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指し、それは彼が亡くなった1955年に「ラッセル・アインシュタイン宣言」として結実していたのです。

リンク→ラッセル・アインシュタイン宣言-日本パグウォッシュ会議

湯川博士との対談では「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の危険性を小林が鋭く指摘していたことを思い起こすならば、ここでもアインシュタインの「道義心」を高く評価すべきだったと思えるのですが、そのような彼の活動の意義はまったく無視されているのです。

*  *

その理由の一端は、「歴史の一回性」を強調し、科学としての歴史的方法を否定した1939年の「歴史について」と題する『ドストエフスキイの生活』の次のような序で明らかでしょう。

「歴史は決して繰返しはしない。たゞどうにかして歴史から科学を作り上げようとする人間の一種の欲望が、歴史が繰返して呉れたらどんなに好都合だらうかと望むに過ぎぬ。そして望むところを得たと信ずるのは人間の常である」〔五・一七〕。

さらに、評論家の河上徹太郎と1979年に行った「歴史について」と題された対談でも、「煮詰めると歴史問題はどうなります? エモーション(感情、感動、編集部注)の問題になるだろう」と河上に語りかけた小林は、「なんだい、エモーションって……」と問われると、「歴史の魂はエモーショナルにしか掴めない、という大変むつかしい真理さ」と説明しているのです。

たしかに、「エモーション」を強調することで「歴史の一回性」に注意を促すことは、一回限りの「人生の厳粛さ」は感じられます。しかし、そこには親から子へ子から孫へと伝承される「思想」についての認識や、法律制度や教育制度などのシステムについての認識が欠けていると思われます。

「歴史の一回性」を強調した歴史認識では、同じような悲劇が繰り返されてしまうことになると思われますし、私たちが小林秀雄の歴史観を問題にしなければならないのも、まさにその点にあるのです*

*  *

そのような問題意識を抱えながらベトナム戦争の時期に青春を過ごしていた私は、伝承される「思想」や法律制度や教育制度などのシステムについての分析もきちんと行うためには、「文学作品」の解釈だけではなく、「文明学」の方法をも取り入れてドストエフスキー作品の研究を行いたいと考えたのでした。

それから半世紀以上も過ぎた現在、人類が同じような問題に直面していることに愕然としますが、学生の頃よりは少しは知識も増え、伝達手段も多くなっていますので、この危機を次世代に引き継がせないように全力を尽くしたいと思います。

*  *

注 *1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

重大な問題は、戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたことである。

この言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示したのである。(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2015年6月4日、注を追加。6月11日、写真を追加)

 

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

『永遠の0(ゼロ)』の第2章で百田氏は長谷川に、「あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない」と語らせていました。

しかし、政治家や高級官僚が決めた「国策」に対してその問題点をきちんと考えることをせずに、「わしたち兵士にとっては関係ない」として「考えること」を放棄し、「国策」に従順に従ったことが、満州や中国、韓国だけでなく、ガダルカナルや沖縄、さらに広島と長崎の悲劇を生んだのではないでしょうか。

若い頃に学徒動員で満州の戦車部隊に配属された作家の司馬遼太郎氏は、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とことを証言しています。そして、自分もそのような教育を受けた「その一人です」と語った司馬氏は、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

こうして司馬氏は、「愛国心」を強調しつつ、「国家」のために「白蟻」のように勇敢に死ぬことを青少年に求める一方で、このような「国策」を批判した者を「非国民」として投獄した戦前の教育観を鋭く批判していたのです。

*   *

文芸評論家の小林秀雄は一九三九年に書いた「歴史について」と題する『ドストエフスキイの生活』の序で、「歴史は決して繰返しはしない。たゞどうにかして歴史から科学を作り上げようとする人間の一種の欲望が、歴史が繰返して呉れたらどんなに好都合だらうかと望むに過ぎぬ」と記して、科学としての歴史的方法を否定していました〔五・一七〕。

しかし、人が一回しか生きることができないことを強調したこの記述からは、一種の「美」は感じられますが、親から子へ子から孫へと伝えられ、伝承される「思想」についての認識が欠けていると思われます。

たとえば、絶大な権力を一手に握ったことで「東条幕府」と揶揄された東条英機内閣で商工大臣として満州政策にも関わっていた岸信介氏は、首相として復権した1957年5月には「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」とさえ国会で答弁して、「放射能の危険性」と「核兵器の非人道性」を世界に訴えることなく、むしろその「隠蔽」に力を貸していたのです。

そのような祖父の岸氏を敬愛する安倍首相は戦前の日本を高く評価しているばかりでなく、岸内閣の元で進められた「原子力政策」を福島第一原子力発電所事故の後でも継続しようとしており、安倍政権が続くと満州事変から太平洋戦争へと突入した戦前の日本と同じ悲劇が「繰り返される」危険性が高いと思われるのです。

過去を美しく描いて「過去の栄光」を取り戻そうとするだけでは、問題は何も解決できません。今回は「核兵器」の限定使用の危険性が高まっている現在の状況を踏まえて、「平和学」的な意味での「積極的平和主義」の視点から、日本の「自衛隊」が何をすることが世界平和にもっとも効果的かを考察することにします。

* 「『終末時計』残り3分に」 *

まず注目したいのは、アメリカの科学誌『原子力科学者会報』が、2015年01月22日に、核戦争など人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえ、残り時間を「0時まであと何分」という形で象徴的に示す「終末時計」が、再び残り3分になったと発表したことです。

このことを伝えた「The Huffington Post」紙は、コストや安全性、放射性廃棄物、核兵器への転用への懸念などをあげて「原子力政策は失敗している」ことを強調し、核廃棄物に関する議論などを積極的に行うよう求めています。

1947年に創設された終末時計は東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として、当初は「残り7分」に設定されていましたが、ソ連も原爆実験に成功した1949年からは「残り3分」に、米ソで競うように水爆実権が繰り返されるようになる1953年1960年までは最悪の「残り2分」となりました(下の表を参照)。

その後、核戦争が勃発する寸前にまで至った「キューバ問題」を乗り越えたことから「終末時計」は「残り12分」に戻ったものの、アメリカ・スリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故で状況が悪化した「終末時計」は、ようやくアメリカとソ連が戦略兵器削減条約に署名した1991年に「残り17分」にまで回復しました。

ソ連が崩壊したことで冷戦が解消されたことでしばらくはそこに留まったのですが、皮肉なことにソ連が崩壊してアメリカが唯一の超大国となったあとで時計の針が再び前に動き、「福島第一原発の事故後の2012年には終末まで5分に進められた」。そして、今回は悪化する地球環境問題などを踏まえて、1949年と同じ「残り3分」にまで悪化しているのです。

終末時計

 

*   *

『永遠の0(ゼロ)』で百田氏は「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう」と語った長谷川に、「だが誰も戦争をなくせない」と続けさせていました。

たしかに、これまでの人類の歴史には戦争が絶えることはありませんでした。しかし、「終末時計」の時刻が示している事態は、「武力」では何も根本的な解決ができないことを何よりも雄弁に物語っているだけでなく、「核兵器」が用いられるような戦争がおきれば、《生きものの記録》の主人公が恐れたように地球自体が燃え上がってしまうということです。

一方、アメリカ軍に「平和」の問題を預けていた日本政府は冷戦という状況もあり、これまでは「核兵器の廃絶」に積極的には動いてきませんでした。このことが世界における「放射能」の危険性の認識が深まらなかった一因だと思われます。

また、今日の「日本経済新聞」(デジタル版)は、「日本の火山、活動期入りか 震災後に各地で活発との見出しで、「国内の火山活動が活発さを増している」ことを報じています。

それゆえ私は、「自衛隊」が世界で尊敬される組織として存在するためには、「防衛力」は、自国を「自衛することができるだけの力」にとどめて、巨大な自然災害から「国民」を守るだけでなく、広島や長崎における「放射能」被害の大きさ学んでそれを世界に伝える「部隊」を設立して、世界各国の軍関係者への広報活動を行うべきだと考えています。

*   *

むろん、このようなことは沖縄の住民など「国民の声」を聞く耳を持たないばかりでなく、地球を創造し日本列島を地殻変動で形成するなど、人間の科学力では予知し得ないような巨大なエネルギーを有している「自然への畏怖の念」も感じられない安倍政権では一笑にふされるだけでしょう。

しかし、現在の地球が置かれている状況を直視するならば、「核の時代」では戦争が地球を滅ぼすという「平凡な事実」をきちんと認識して、核兵器の廃絶と脱原発への一歩を「国民」が勇気を持って踏み出す時期に来ていると思います。