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映画《白痴》とポスター

映画《白痴》とポスター

 

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(松竹製作・配給、1951年、図版は「ウィキペディア」より)。

 

大学の講義のための参考資料として、上記のポスターをHPに掲載していました。

しかしこのポスターを見ているうちに、私の内にあった強い違和感の理由に気づきましたので少し記しておきます。

*   *

よく知られているように、黒澤明監督の映画《白痴》(1951)は、残念ながら、当初4時間32分あった映画が、映画会社の意向で長すぎるとして2時間46分にカットされたこともあり、日本ではあまりヒットしませんでした。

しかし、日本やロシアの研究者だけでなく、「ドストエフスキーの最良の映画」として映画《白痴》を挙げたタルコフスキーをはじめとして本場ロシアの多くの映画監督からも絶賛されました。

その理由はおそらく彼らが原作をよく知っていたために、カットされた後の版からでもこの映画が原作の本質を伝え得ていることを認識できたからでしょう。実際、拙著で詳しく検証したように、上映時間が限られるために登場人物などを省略し、筋を変更しながらも、黒澤明監督はオリジナル版で驚くほど原作に近い映像を造りあげていたのです。

収益を重視した会社の意向でカットされた後の版でも、ナスターシャ(那須妙子)を妾としたトーツキー(東畑)や、さまざまな情報を握って人間関係を支配しようとしたレーベジェフ(軽部)、さらにエパンチン将軍(大野)やイーヴォルギン将軍(香山)の家族も制限されたかたちではあれ、きちんと描かれていました。

*   *

一方、小林秀雄氏は1934年から翌年にかけて書いた「『白痴』についてⅠ」において、この長編小説について「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断定し、多くの重要な登場人物については、ほとんど言及していないのです。それは小林氏の『罪と罰』論について論じた際にも記したように、これれらの重要な登場人物の存在は、彼の論拠を覆す危険性を有していたからでしょう。

つまり、小林氏は多くの重要な登場人物については「沈黙」を守る、あるいはかれらwお「無視」することにより、自分の読みに読者を誘導していたと私には思えるのです。

映画《白痴》のために作成されたはずの上記のポスターは、黒澤氏の映像を用いつつも、ナスターシャをめぐるムィシキン(亀田)とロゴージン(赤間)の三角関係を中心に考察した小林秀雄氏の解釈に従った構図を示していたのです。

*   *

視覚に訴えることのできるポスターは、単なる文章よりも強い影響力を持ちやすいと思えます。おそらく会社側の意向に沿って製作されたと思われるこのポスターは、黒澤映画《白痴》よりも、小林氏の『白痴』論のポスター化であり、そのことがいっそう観客の映画に対する違和感を強めたのではないかとさえ思えるのです。

 

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→「不注意な読者」をめぐってーー黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

 

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