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本居宣長

安倍首相の年頭所感「日本を、世界の真ん中で輝かせる」と「森友学園」問題

「首相年頭所感を読み解く」と題した東京新聞の1月6日の「こちら特報部」は、「日本を、世界の真ん中で輝かせる」という文言に注意を促して、「まず国内に目を向けて」と批判する文章を掲載していました。

ただ、安倍首相がすでにヘイト的な発言を繰り返す作家との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)を出版していたことを考えるならば、この言葉は安倍首相の思想と深く結びついていると思えます。

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たとえば、下記のツイッターは、国定教科書「日本ヨイ国 強イ国 世界ニカガヤク エライ国」の表現が、「世界の真ん中で輝く日本を」と語った安倍首相の思考方法と「完全に一致」と指摘していました。  →https://twitter.com/Mightyjack1/status/816284529535000576

この指摘を受けて次のように記しました。

〈「日本ヨイ国、 キヨイ国、 世界ニ 一ツノ神ノ国」という文章も「神の国」発言をした森喜朗元首相だけでなく、「日本会議」の影響下にある安倍政権の思想と完全に一致していると思えます。〉

〈日本が「世界の真ん中」という認識も、本居宣長から「日本が『漢国(カラクニ)』などとは比較できないすぐれた国」であると教えられて、「もっともすぐれた国は天地生成のときから位置が違う」ことを示す図を『古事記伝』の附録に描いた服部中庸の世界認識に似ています〉。

そして、日本を礼賛した文章が続いている国定教科書の右頁の文章からも稲田防衛相が精読している『生命の實相』の記述――「夫唱婦和は日本が第一」、「無限創造は日本が第一」、「一瞬に久遠を生きる金剛不壊の生活は日本が第一」、「無限包容の生活も日本が第一」「七德具足の至美至妙世界は日本が第一」などが浮かんでくることを指摘しました。

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一方、共同通信は1月1日の記事で「安倍晋三首相は1日、昭恵夫人や実弟の岸信夫外務副大臣らと共に作家百田尚樹氏のベストセラー小説が原作の映画「海賊とよばれた男」を東京・六本木の映画館で観賞した」ことを報じていました。

安倍首相と夫人との考えの違いが報道されることが多かったので、安倍夫人は「家庭内野党」を自称しているものの、実態は「家庭内離婚」に近いのではないかと考えていたので、この時は二人が一緒に映画「海賊とよばれた男」を見たとのこの記事には違和感がありました。

しかし、2月17日に「東京新聞」の「こちら特報部」は、【国有地払い下げ】問題を特集して、「幼稚園では『教育勅語』 差別問題も」「保護者『軍国』じみている」などの見出しとともに、HPに掲載された安倍夫人の挨拶や、手紙、寄付の払い込み取扱書などの写真を掲載していました。 https://twitter.com/jdroku/status/832742847749042176

「教育勅語」を教えることで有名な塚本幼稚園を訪れた安倍首相夫人が、この幼稚園の方針を讃えたばかりでなく、「安倍晋三記念小学校」の名誉校長にも就任していたことをロイターなどのマスコミも取り上げ始めています。

このことであきらかになったのは、「家庭内野党」を自称していた安倍夫人が、戦前的な価値観の復活を目指す「日本会議」の「国会議員懇談会」特別顧問を務める安倍首相の熱心な支援者だったことです。 以下に、そのことを示す写真の掲載されたツイッターのリンク先を示し、その後で関連記事へのリンク先を示しておきます。

https://twitter.com/Reuters/status/806953007245979648

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『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

菅野完著『日本会議の研究』と百田尚樹著『殉愛』と『永遠の0(ゼロ)』

百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想

「アベノミクス」と原発事故の「隠蔽」

百田尚樹氏の『殉愛』裁判と安倍首相の手法

「日本会議」の歴史観と『生命の實相』神道篇「古事記講義」

(2017年2月21日、改稿し題名を変更。2019年1月9日、改訂し改題)

 

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時』(新潮社、2014年)を「書評・図書紹介」に掲載

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の公刊は、私が予期していなかったような様々な反応を呼びましたが、昨日、発行された『ドストエーフスキイ広場』には、小林秀雄のドストエフスキー論をめぐる論考などが収められています。

比較文学者の国松夏紀氏には、論点が多く書評の対象としては扱いにくい拙著を書誌学的な手法で厳密に論じて頂きましたが、同じ頃に公刊された山城むつみ氏の『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』の書評は私が担当しました。

『ドストエフスキイの生活』で「ネチャアエフ事件」に言及した文章を引用しながら、小林秀雄の『悪霊』論と「日中戦争の展開」との関係に注意を促しつつ、「急速にテロリズムに傾斜していった」ロシアのナロードニキの運動と、「心の清らかで純粋な人々が、ほかならぬアジアを侵略し植民地化して、まさしくスタヴローギンのように『厭はしい罪悪の遂行』に誘惑されて」いった「昭和維新の運動」との類似性の指摘は重要でしょう。

ただ、私が物足りないと観じたのは、フランス文学者であるだけでなくロシア文学にも通じており比較の重要性を認識していたはずの小林秀雄が、なぜ日本語の「正しく美しきこと」は「万国に優」るとして比較を拒絶し、「異(あだし)国」の「さかしき言」で書かれた作品を拒否した本居宣長論に傾斜していくようになるかが見えてこないことです。

また、「コメディ・リテレール」での「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」という小林秀雄の発言にも言及されていますが、同じような問題は、湯川秀樹博士との対談では、「道義心」の視点から「原子力エネルギー」の問題を鋭く指摘していた小林が、数学者との岡潔との対談では、核廃絶を実践しようとしたアインシュタインをなぜか批判的に語っていることにも見られるでしょう。

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と断言していた小林秀雄の「富と罰」の意識は、原爆や原発事故の問題に対する日本の知識人の対応を考えるうえでも重要だと思われます。

福島第一原子力発電所事故後の日本を考える上でも重要な著作ですので、一部を注で補うような形で書評を掲載します。