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改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

 

二〇一一年の一二月に、長い歳月をかけて撮影され三年間という長い期間にわたって放映されたスペシャル・ドラマ『坂の上の雲』が終了した。

 莫大な予算をかけて制作されたドラマのクライマックスにあたる旅順の攻防や日本海海戦のシーンは壮大で目を見張るものがあり、また戦争の悲惨さの一面も伝えられていた。

 私は毎回は見ていなかったのでよい視聴者とは言えないが、それでも『坂の上の雲』についての研究書を書いた者の責任として、重要な場面が放映される回は見たし、終わりの頃の数回は欠かさずに見た。

最終回を見終わって思いだしたのは、『坂の上の雲』を「なるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品」であると語り、その理由を「うかつに翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね」と説明していた司馬遼太郎の言葉である(司馬遼太郎『「昭和」という国家』、NHK出版、一九九八年、三四頁)。

 

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  強い違和感を覚えたのは、原作に付け加えた「子規庵点描」のシーンで、英国から帰国した夏目漱石に軍人となった秋山真之を讃えさせているところから完結に至るシーンであった。たとえば、「ポーツマス講和条約」のシーンでは、「坊さんになって戦没者を供養せにゃならん」とまで苦悩した真之が、子規の墓参をした後で、兄の好古と釣りをした際に「おまえはよくやった」と慰められるという場面が付け加えられている。

 一方、原作では戦後に秋山真之が「人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった」と司馬氏は書いていた。前述のシーンが付け加えられることで真之の苦悩の深さや戦争についての本質的な考察が和らげられてしまっていると思える。

 さらに、原作の構造との決定的とも思えるような違いは、この後でナレーターによって全六巻からなる単行本『坂の上の雲』の第一巻の「あとがき」に記されている次のような司馬の文章が朗々と読み上げられたことである。

 「維新後、日露戦争までという三十余年は、文化史的にも精神史のうえからでも、ながい日本歴史のなかでじつに特異である。/これほど楽天的な時代はない。/ むろん、見方によってはそうではない。庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない」(下線引用者、司馬遼太郎『坂の上の雲』、単行本第一巻、文春文庫では第八巻)。

 そして、このナレーションはドラマの冒頭で毎回示される松山城の坂道を駆け上る若い主人公たちの姿とも重なり、視覚的な効果を生んでいた。それゆえ多くの視聴者は、長編小説『坂の上の雲』では戦争をも厭わなかった「日本人の気概」や「明治の栄光」が描かれていると理解したと思える。

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  注意を払わねばならないのは、この「あとがき」のある第一巻で描かれていたことと、第五巻以降で描かれている内容が大きく異なることである。

 すなわち、第一巻では江戸幕府の崩壊後に賊軍とされた松山藩士の息子として生まれたために、銭湯の風呂焚きや助教などをしつつ苦学して、士官学校に入って頭角を現した秋山好古や、兄の経済的な援助によって上京し、正岡子規といっしょに学んだあとで無料で学べる海軍兵学校に入って学ぶようになる秋山真之などの若々しい青春時代が描かれていた。

 一方、単行本第五巻の「あとがき」で「少年のころの私は子規と蘆花によって明治を遠望した」と記し、日露戦争の終結後に徳冨蘆花(一八六八~一九二七)が日露戦争の際に反戦論を唱えていたトルストイを訪ねていることを紹介した司馬は、次のように記していた。

 「明治十年代から日露戦争にいたる明治のオプティミズムはたしかに特異な歴史をつくりえたが、しかしどの歴史時代の精神も三十年以上はつづきがたいように、やがて終熄期をむかえざるをえない。どうやらその終末期は日露戦争の勝利とともにやってきたようであり、蘆花の憂鬱が真之を襲うのもこの時期である」(下線引用者、文春文庫、第八巻、「あとがき五」)。

 つまり、スペシャル・ドラマ『坂の上の雲』の最終回にナレーターによって読み上げられた文章は、司馬自身のものではあってもまったく違う時代についての記述が引用されていたのである。

 そのことは『坂の上の雲』の主人公の一人であり、『歌よみに与ふる書』で「歌は事実をよまなければならない」と記した正岡子規の精神をも侮辱するものであるといえるだろう。

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  大河ドラマ《坂の上の雲》におけるナレーションは、「庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件」があっても、「国民」は国家に尽くしたことが「明治の栄光」につながったと視聴者に錯覚させる結果になり、それは選挙における自民党の勝利にも影響を与えたとさえ思える。

  「原作の改竄」の問題は現在にまで影響しており、多くの国民が今も「庶民は消費税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、福島第一原子力発電所の大事故とその後の事態に苦しんでいても」、「国民」が国家に尽くすことが「平成の栄光」につながると錯覚していると思えるのである。

  多くの国民が安くない視聴料を払って楽しむとともに正確な報道を期待しているNHKに、自分たちのイデオロギーにあったような番組を強要する安倍政権には、「特定秘密保護法案」を提出する資格には欠けると思えるがどうだろうか。

小林秀雄の『虐げられた人々』観と黒澤明作品《愛の世界・山猫とみの話》

 

一、 《愛の世界・山猫とみの話》から《赤ひげ》へ

 戦時中の一九四三年一月に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本が主に黒澤明監督の手に成るものであったことは「ブログ」に記したが、この映画にはその後の黒澤明監督作品を予想させるような、テーマとシーンが見られた。

 ことに注目されたのは、例会発表でも指摘されたように、両親と七歳で死別して曲馬団に売られ、その後も様々な職業を転々とするなかで時には凶暴性を発揮したり、何ヶ月も口を利かずに「山猫」とみとあだ名された少女の形象には、映画《赤ひげ》で行われることになる『虐げられた人々』の少女ネリーの見事に映像化がすでになされたいたことである。

 私は映画《赤ひげ》(一九六五)におけるお粥の入った茶碗を少女おとよが壊すシーンと映画《白痴》におけるナスターシヤが花瓶を壊すシーンを比較して、心に傷を負った彼女たちの行動が見事に描き出されていることを指摘して、黒澤明監督の『虐げられた人々』と『白痴』理解の深さを指摘していた(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、九三~九八頁)。 

 つまり、ワルコフスキー公爵の実の娘でありながら、母親を捨てて死に追いやった父親の援助を拒んで幼くしてなくなった少女ネリーの人物造形は、火事で孤児になった後で無理矢理に「貴族」トーツキーの妾とされていたが、莫大な持参金を拒んで自立しようとして苦しんだ長編小説『白痴』のナスターシヤ像の先駆的な役割を担っていると思われるのである。

 映画《赤ひげ》は一九五一年に公開された映画《白痴》から、はるか後年に撮られていることもあり、黒澤明監督の『虐げられた人々』の理解が深まったのは、映画《白痴》を撮った後であるという解釈も可能であった。しかし、映画《愛の世界・山猫とみの話》が一九四三年一月に公開されていたことは、映画《白痴》を撮ることになる黒澤明監督が、すでにこの時点で『虐げられた人々』のネリー像の重要性を理解していたことを強く示唆していると思われる。

 この点に留意するとき、なぜ映画《白痴》の後で撮られた映画《生きる》(一九五二)では余生がわずかなことを知った主人公の前に、メフィストフェレスを自称する作家が犬を連れて現れることが描かれているのかも理解できる。

二、『虐げられた人々』の構成と粗筋

 四部とエピローグからなる本格的な長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でも、語り手である主人公のイワンがみすぼらしい老人とその老犬の死に立ち会うという印象的な場面から始まり、その孫娘ネリーの出生の謎をめぐって物語が展開されているのである。

 映画《愛の世界》や《赤ひげ》の理解にも関わるので、あまり知られていない『虐げられた人々』の粗筋をまず簡単に紹介しておきたい。

 この長編小説では少女ネリーをめぐる出来事と孤児となったイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる物語が並行的に描かれて行くが、物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ネリーの父ワルコフスキー公爵の詐欺的な言動によるものであることがはっきりしてくる。

 すなわち、ネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていたのである。

 一方、一五〇人の農奴を持つ地主で主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も、九〇〇人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきて、イフメーネフ家を訪れて懇意になると自分の領地の管理を依頼し、さらに五年後には新たな領地の購入とその村の管理をも任せたことから始まる。

 積極的にイフメーネフに近付いて、自分の領地の管理を任せてその能力に満足したと語っていた公爵は、後に自分の領地の購入に際してイフメーネフが購入代金をごまかしたという訴訟を起こし、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだ。そのために、裁判に敗けて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのである。

 こうして、少女ネリーの悲劇が描かれている長編小説『虐げられた人々』は、クリミア戦争敗戦後のロシアを揺るがせていた二つの大きな問題、農奴制の廃止と資本主義の導入の問題点を浮き彫りにして、混沌とした時代の雰囲気や「大改革」の時代の課題を描き出していたといえるだろう。

 

 

三、映画《愛の世界・山猫とみの話》における「鬱蒼とした森」の描写

 長編小説『虐げられた人々』が連載された雑誌『時代』は、農奴制の廃止や言論の自由を求めたために捕らえられて死刑の判決を受けた後でシベリア流刑へと減刑されていたドストエフスキーが、刑期を終えて首都に帰還してから兄ミハイルとともに創刊した雑誌である。

 クリミア戦争の敗戦により農奴制の問題が認識されて、農奴解放などが行われた「大改革」の時代に首都に戻ったドストエフスキーは、「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」とし、「欧化」でも「国粋」でもない、第三の道として「大地主義」の理念を掲げるとともに、文盲に近い状態におかれていた「農民」に対する教育の重要性とともに、「知識人」が「農民の英知」を学ぶ必要性も唱えていた。

 そのような「農民の英知」の一つは、「森や泉」に深い敬意を払う民衆の自然観だろう。たとえば、木下豊房氏は『貧しき人々』や『虐げられた人々』、さらに『百姓マレイ』などにも言及しつつドストエフスキー家の領地であったダロヴォーエの森について書いたエッセー「フェージャの森」で、「都会の作家といわれるドストエフスキーの深奥には、実は豊かなロシアの自然と大地(土壌)が横たわっている」と指摘している(『ドストエフスキー その対話的世界』、成文社、二〇〇二年、二九七~三〇〇頁)。

 さらに、論文「思い出は人間を救う――ドストエフスキー文学における子供時代の思い出の意味について」(『ドストエーフスキイ広場』、第一六号、二〇〇七年)では、具体的に『虐げられた人々』の文章にも言及しているので、《愛の世界》との関わりを具体的に示すためにも、まずはその文章を引用しておく。

 「ニコライ・セルゲーヴィチ(引用者注――イフメーネフのこと)が管理人であったワシリエフスコエ村の庭園や公園は何と素晴らしかったことか。私とナターシャはこの庭園へよく散歩にでかけたものだった。庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森があって、私たち二人の子供は一度、道に迷ってしまったことがあった……美しい黄金時代! 人生がはじめて、秘密めいて、誘惑にみちた姿で現れ、それを知ることは、何とも甘美であった」。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》から強い印象を受けた場面の一つは、少女救護院で自分をいじめた園児と激しい喧嘩をして脱走して、最初は歌を歌いながら自然の美しさに見とれ、自由を謳歌していた少女とみを描いた後で、次第に暗くなってくると道に迷って森から出られなくなったとみにとっては森が巨大な妖怪の住む無気味な世界へと一変したことが描かれていることである。

 この美しい森から無気味な森への変化は、自然の変化を深く理解して見事な道案内人の役を果たしたデルスが、眼を悪くしたあとでは自然を恐れるようになったことが描かれている映画《デルス・ウザーラ》をも思い起こさせる。

 しかも、畑仕事が厭で怠けていた少女とみは、映画の最後では畑仕事に喜んで従事している場面が描かれているが、それは文部大臣によって京都帝国大学の憲法学者滝川教授が罷免された事件を題材にして、敗戦直後の一九四六年に公開された映画《わが青春に悔なし》(脚本・久板栄二郎、黒澤明)のシーンを思い起こさせる。この映画でも父の教え子でジャーナリストになっていた野毛を敬愛して彼の元に走って同棲生活を送るようになった娘の幸枝が、野毛がスパイ容疑で逮捕され獄中で死亡した後では、野毛の実家へと行って彼の母親(杉村春子)を手伝って黙々と大地を耕すシーンがドキュメンタリー的な手法で描かれていたのである。

 農民を指導して野武士の群盗たちと戦い百姓たちを守った七人の侍の雄々しい戦いが描かれている映画《七人の侍》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)の最後のシーンでも、戦いに勝ったあとで百姓たちが行っていた田植えの場面がクローズアップされていた。そして「いや……勝ったのは……あの百姓たちだ……俺たちではない」と語った指導者の勘兵衛は、さらに「侍はな……この風のように、この大地の上を吹き捲って通り過ぎるだけだ……土は……何時までも残る……あの百姓たちも土と一緒に何時までも生きる!」と続けているのである(『全集 黒澤明』第四巻、九五頁)。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》は「国策映画」として製作されたために、表現は制限されてはいるが、ここには一九五四年に公開された映画《七人の侍》に見られるような黒澤明監督の「大地主義」への深い理解がすでに現れているように思われる。

 

四、小林秀雄の『虐げられた人々』理解と映画《赤ひげ》

 『虐げられた人々』においては「庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森」があったことが描かれていたが、「大地主義」の時期の代表的な作品である『罪と罰』では、本編におけるペテルブルグの「壮麗な眺望の謎」に対応するように、シベリアにおける「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎も読者の前に呈示されていた。

  映画《夢》の分析において詳しく考察することになるが、この「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎を理解したことが、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの精神的な「復活」へとつながることが『罪と罰』では示唆されている。

  しかし、今もドストエフスキー論の「大家」と見なされている文芸評論家の小林秀雄は一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、『罪と罰』の「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いて、ラスコーリニコフの「復活」を否定していた(『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、五三頁。引用に際しては、旧漢字は新し漢字になおした)。

 このような小林秀雄の理解には、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、ニーチェとともにドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定したシェストフからの強い影響があるだろう(拙著、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、二〇〇二年、一二六頁参照)。

  しかも、ドストエフスキー自身は『虐げられた人々』について、後に次のような厳しい評価を下していた。

 「『虐げられし人々』の時もさうだつた。雑誌には是非長篇が要る。何を置いても成功させねばならぬ。そこで僕は四部から成る長篇を一つ提供したわけだ。プランはずつと前から出来てゐるから、わけなく書けるし、第一部はもう書き上げてあるなどと言つて兄を安心させてゐたが、みんな出鱈目だつた。僕は金が欲しくて働いたのだ。僕の小説中に動いてゐるのは人形であつて、生き物ではない」。

 『地下室の手記』によって前期と後期のドストエフスキー作品との間に深い断層を見たシェストフの見解を受け入れていた小林秀雄は、「ドストエフスキイの生活」で作家自身の言葉を引用することで、『地下室の手記』以前に書かれた『虐げられた人々』も失敗作とみなした。その一方で、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定した作家と見なした小林は、『白痴』論では「たゞ確かなのはこの時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、ナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定したのである(「『白痴』についてⅠ」)。

 たしかに、急いで書いたこともあり、主人公のイワンをはじめ多くの人物造形がそれほど成功裏に描かれているとは言えないだろう。しかし、ドストエフスキーは謙遜的に記してはいるものの、この小説では幼いながらも高い誇りを持った虐げられた少女ネリーの形象がきわめていきいきと描かれていたばかりでなく、大地主の横暴さや法律の問題など当時の問題を浮き彫りにしており、ここで提起された多くの問題は『罪と罰』以降の長編小説で深められており、ことに『白痴』では誇り高い少女ネリーとナスターシヤの間にはあきらかな連続性が認められるのである。

 しかし、映画《白痴》が一九五一年に公開された翌年の一九五二年から「『白痴』についてⅡ」を書き続けた小林は、長い間中断した後で一九六四年に付け加えた第九章では長編小説の結末について次のように記した。

 「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」。そして小林は、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである」と続けていたのである(傍線引用者、三三九~三四〇頁)。

 このような小林の断定的な解釈について、私はエッセー「『不注意な読者』をめぐって」で、この時小林秀雄が強く意識していたのは、名指しをしてはいないが、映画《白痴》で病んだナスターシヤを看護しようとしたムィシキンに光をあてながら長編小説『白痴』の映画化をしていた黒澤明監督である可能性が高いという仮説を記した(『ドストエーフスキイ広場』、第二二号)。

 誌面の都合上、詳しい理由を記すことはできなかったが、私が注目したのは映画《白痴》を撮った黒澤明監督による映画《赤ひげ》の制作開始記念パーティが一九六三年一〇月六日に行われていたことである(『大系 黒澤明』第四巻、八二〇頁)。

 様々な事情のために映画《赤ひげ》の撮影は大幅に延びて、公開は一九六五年四月三日になったが、『虐げられた人々』の少女ネリーの形象が採り入れられているばかりでなく、精神的な医師としてのムィシキンの精神を受けついでいるとも思える医師「赤ひげ」とその若い弟子を主人公にした映画のことは、小林秀雄の耳にも入っていたと思える。

 自分の『白痴』論を真っ向から否定するような映画《白痴》を撮った黒澤明監督による新しい映画の公開が、自分のドストエフスキー論の土台を覆す危険性を含んでいることを敏感に感じた小林秀雄が、「不注意な読者」を批判する断定的な文章を加えて、急遽『白痴について』(角川書店、一九六四年)を上梓したのではないかと私は考えている。

 小林秀雄の『白痴について』を批判する評論を黒澤明監督は書いてはいない。しかし、一九七五年にロシアで撮った映画《デルス・ウザーラ》が日本で公開された後で、若者たちと行った座談会で黒澤明監督は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語っているのである(黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、二八八頁)。

 このような発言にはロシアで映画を撮ることになったことで、黒澤映画《白痴》をきわめて高く評価するとともに、自分でも映画《罪と罰》(一九六九年)を撮っていたクリジャーノフ監督などととの会話をとおして、自分の『白痴』理解の正しさと「大地主義」の時期の重要さを再確認したためと思われる。

 ただ、それはすでに新しいテーマなので稿を改めて書くことにしたい。

 

 (本稿は『黒澤明と小林秀雄――長編小説『罪と罰』で映画《夢》を読み解く』と題して来年の三月に発行する予定の著作の第四章〈映画《赤ひげ》から《デルス・ウザーラ》へ――黒澤明監督と「大地主義」〉(仮題)に収録する予定である)。

ムィシキンの正確な映像化――ボルトコ監督のDVD《白痴》を見て

映画《白痴》、ボルトコ86l

(図版は「アマゾン」より)。(図版は「成文社」より)

2003年に全10回のシリーズとしてロシアのテレビで放映され、翌年にはモンテカルロ・テレビ祭テレビシリーズ・プロデューサーアワードや最優秀男優賞を受賞して話題となっていたボルトコ監督のテレビ映画《白痴》がDVDとして、2010年に日本でも販売された。

「ドストエフスキーの代表作を、忠実に再現した唯一無二の、完全再現ドラマ」と広告文でうたっているだけに、半分にカットされる前の黒澤映画《白痴》の倍以上の510分という長時間をフルに生かして、原作の複雑な人間関係を見事に映像化している。

ただ、「忠実に再現した」ことが強調されてはいるものの、長編小説のテーマを明確にし、観客を一気に『白痴』の世界に引き込むための工夫もなされている。たとえば、長編小説を読み親しんできた読者は、一瞬、冒頭のシーンに驚かされるだろう。なぜならば、DVDではナスターシヤの部屋を訪れたトーツキイは自分が彼女に犯した過ちを認めつつも、手切れ金代わりに莫大な持参金を提示することで新しい女性との結婚を望んでいることを伝える一方で、エパンチン将軍もオペラ《椿姫》の主人公の父親のように、娘たちの幸せのために身を退くようにと強く頼んだのである。

そして、ナスターシヤに密かに高価な真珠を贈っていたエパンチンをトーツキイがからかいながら去っていくシーンの後で、カメラは彼らを二階から見下ろした後で、ナスターシヤが鏡に十字を描く姿を映し出した。

こうして、このテレビ映画はトーツキイによる過去の記憶に苦しむだけでなく、今また、若い男との愛のない結婚を迫られる誇り高い女性の苦悩を、最初に分かりやすく観客に示すことでこの長編小説の主要なテーマを示し、なにゆえにムィシキンが彼女の写真を見たときに、激しい衝撃を受けたのかを説明し得ていたのである。

さらに、次のシーンでは一転してムィシキンがエパンチン将軍の屋敷を訪れる場面が描かれ、彼のみすぼらしい身なりを見た召使いが、本当に公爵なのかを疑いつつ、取り次ぐべきかどうかを迷っている場面から始まる。そして正式な待合室ではなく、召使いの部屋で話し込んだムィシキンが、ロシアの裁判と比較しつつ、フランスで見た死刑の光景を詳しく語りながら、「殺すなかれ」と語ったイエスの理念を熱っぽく語る姿が映し出される。

それゆえ、タイトル・バックで十字架にかけられたイエスの像を映し出しているこの映画をとおして、観客はナスターシヤの人物像がドストエフスキーがドレスデンの美術館で見て深い感銘を受けたティツィアーノの宗教絵画《懺悔(ざんげ)するマグダラのマリヤ》と結びついているばかりでなく、ムィシキンという主人公もエミリー・シニョールが描いた絵画《罪の女を赦すキリスト》とも結びついていることを視覚的に実感できるのである。

事実、ナスターシヤを演じたヴェレツェワは、暗い過去を背負った影のある絶世の美女を見事に演じているし、ムィシキン公爵を演じたミローノフも、瞑想がちではあるが、聞き手を引き込むような話し方をし、魅惑的な笑顔を浮かべる若者を熱演している。

こうして、面会を待っている間にタバコを吸い始めたムィシキンが吐く煙とともにペテルブルグに向かう列車での回想のシーンがようやく始まり、マシュコフが演じる激しい情熱を持ちつつもそのエネルギーを使う方向性を見いだせなかったロシアの商人ロゴージンや、「反キリスト」とも呼ばれるしたたかな官吏のレーベジェフとの出会いが描かれて、一気に原作の世界へと観客を引き込んでいくのである。

そして、エパンチン将軍との会見の際には、ムィシキンが何度もポケットに手を入れて手紙を取り出そうとするのを将軍が留めるシーンをとおして、雑事に巻き込まれまいとするやり手の実業家としてのエパンチンの性質だけでなく、ムィシキンもまたロゴージンと同じような莫大な遺産の相続者であることに注意を促して、二人の置かれている状況の類似性と、その後の遺産の使い方の比較をとおして、両者の違いを浮き彫りにしえている。

さらに、秘書のガヴリーラがアグラーヤへの手紙を書く場面も映像化することで立身出世を企む彼の意図や、そのような彼に対するボッティチェリの絵画《春》に描かれた「三美神」のように美しいエパンチン家の三人の娘たちや母親の反応をとおして彼女たちの個性もきちんと描かれている。さらに、原作では目立たないが、常に赤ん坊を抱いてる姿を強調することで、ロシアのイコン《ヴラジーミルの聖母》やラファエロの傑作《システィーナの聖母》を連想させるレーベジェフの娘ヴェーラの優しい眼差しも描写されている。

しかも、ムィシキンが相続した遺産を狙ったスキャンダルや、ホルバインの絵画《キリストの屍》とイッポリートが語る哲学的で重いテーマなど黒澤映画《白痴》では省略されていたエピソードや、さらには時間を圧縮するために少しエキセントリックな印象も呼び起こしたアグラーヤとナスターシヤの緊迫した関係もじっくりと描かれている。

そして、日本ではあまり注目されていないがこの長編小説では、教皇への復讐心を抱いた皇帝の「カノッサの屈辱」や、自分の「恩人」がカトリックに改宗したという知らせを聞いて激しく動揺したムィシキンによる厳しいカトリック批判の演説も描かれていた。

このように見てくるとき注目したいのは、この映画ではムィシキンが立ち止まって、権力や欲望に支配されるロシアから立ち去って、山に囲まれたスイスで静かな瞑想生活をおくるべきではないのかと考える場面がたびたび描かれていることである。

実は、長編小説『白痴』では劇作家グリボエードフの『知恵の悲しみ』からの引用が度々なされているが、長い外国生活から戻ったこの劇の主人公の若者は、旧態依然としたロシアの状況を西欧派的な視点から厳しく批判し、「発狂した」との噂を立てられて絶望し、再び外国へとすぐに戻ってしまっていたのである。

若い頃にこの劇から強い影響を受け西欧派の作家としてデビューしていたドストエフスキーは、シベリア流刑以降には、ロシアにある自分の領地からあがる税金によって外国で優雅な生活をおくりつつ、ロシアの政治制度を批判する貴族には、次第にきびしい眼をむけるようになる。

それゆえドストエフスキーは『白痴』で、「知恵」の問題を主題としつつ、グリボエードフの喜劇『知恵の悲しみ』の主人公とは正反対に、そのままロシアに留まれば自分が破滅することになるかもしれないことを深く知りつつも、最後までそこに留まってなんとか虐げられた女性を救おうとし、ついには再び精神を病んだ若者を描き出していたのである。その姿は自分の危険性を顧みずにエルサレムの神殿を訪れて、最後は生け贄の「子羊」のように十字架で処刑されたイエスとも重なる。

こうしてDVD《白痴》は、ロシアの「キリスト公爵」を創造しようとしたドストエフスキー自身の意図を、かなり忠実に映像化し得ているといえるだろう。

(『ドストエーフスキイ広場』第20号、2011年。2014年1月21日、副題など一部改訂。2017年5月7日、図版を追加)

『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

はじめに

昨日の深夜に書いた映画《ドストエフスキーと愛に生きる》についてのブログ記事では次のように書いた。

〈ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました。〉

ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て

この記述だけではわかりにくいと思えるので、今回は「贖罪」という訳語についての感想を記しておきたい。

一、『罪と贖罪』という訳

翻訳者ガイヤーが長編小説『罪と罰』という題名を『罪と贖罪』と訳しているとの説明からは、衝撃に近い感銘を受けた。なぜならば、「罰」というロシア語の単語を「贖罪」と訳すことは、一見、大学でロシア語を学び始めて間もない学生でも分かるような「誤訳」のように見えるからだ。

ガイヤー訳の『罪と罰』が日本ではまだきちんと紹介されてはいないので、断言することは難しい。しかし、ヴァディム・イェンドレイコ監督は、このドキュメンタリー映画に1923年に公開されたロベルト・ウイーネ監督の映画《ラスコーリニコフ》から主人公が「斧」を探す場面を挿入することで、外国人の観客にもガイヤーの『罪と罰』理解の深さを示唆しえていた。

この場面についてガイヤーは、多くの観客はここでラスコーリニコフが殺害のための「武器」である斧を見つけ出したことに「恐怖」ではなく、主人公の気持ちに寄り添って「ほっと」したのではないかと語り、ドストエフスキーが『罪と罰』で示唆した「非凡人の理論」の危険性が、きちんと伝わっていなかった可能性を指摘しているのである。

『罪と罰』のエピローグでは自分の理論に従って殺人を犯した主人公ラスコーリニコフのシベリアでの重たい時間や「人類滅亡の悪夢」が描かれていることに留意するならば、スターリンの粛正やナチスによるユダヤ人の虐殺、さらには原爆の二度にわたる投下などが行われた第二次世界大戦を踏まえるならば、「贖罪」という訳こそが「殺人者」ラスコーリニコフの心情に寄り添うだけでなく、原作の間違った理解を避ける「適訳」だと思える。

二、小林秀雄の二つの『罪と罰』論

このことを強く感じたのは、私が自分のドストエフスキー論の集大成とも考えている『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』をなんとか脱稿して、「あとがき」の文章をこの時期に考えていたためでもあるだろう。

「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけともなるほどの影響を受けた。

しかし、小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』のムィシキンの解釈を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

たとえば、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していた〔四五〕。

この評論ががこれから日本が戦争に向かおうとしていた時期に書かれていることを考慮するならば、このような結論もやむを得なかったと思える。ラスコーリニコフが行った「正義の犯罪」をシベリアで悔いたと解釈することは、軍部に対する批判と見なされて逮捕され、拷問を受ける危険性もあったからである。

問題は戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「物語は以上で終つた。作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである。恐らく作者は、自分の事よりも、寧ろ読者の心持の方を考へてゐたかとも思はれる」と、戦前と同じような見解を小林が記していることである〔二五〇〕。

 三、小林秀雄とガイヤーの歴史認識

「『罪と罰』についてⅡ」からはそのような認識の深まりは感じられなかったが、「歴史について」という題で評論家の河上徹太郎と1979年に行った対談で、「歴史をエモーショナルに掴む、と君は言うが、歴史の『おそろしさ』を知り抜いた上での発言と解していいのだな」と河上から確認されると、小林は「まさしく、そうだよ。歴史に向かってはこれとエモーショナルに合体できる道は開けている、と僕は信じている。それは合理的な道ではない。端的に、美的な道だと言っていいのだ」と断言していた。

しかし、まだ『全集』には収録されていないようだが 1940年に「英雄を語る」と題して行った鼎談で、同人の林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問われた小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けると、この言葉を受けて林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる。天皇陛下を戴いて諸共に皆んな滅びてしまへば宣いと覚悟してゐる」と応じていた。

二人が語っていたような歴史認識が日本を無謀な戦争へと駆り立てたと思えるが、小林秀雄にはこのことの反省をしているようには見えないばかりか、「『白痴』をやってみるとね、頭ができない、トルソ(頭と手足を持たない胴体だけの彫像、編集部注)になってしまうんだな」とし、「「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ」と強調している言葉からは、ドストエフスキーのテキストをきちんと読み解こうとするのではなく、あくまで自分が創作した「物語」を守ろうとする姿勢が感じられる。

《ドストエフスキーと愛に生きる》から私が深い感銘を受けた理由の一つは、小林秀雄の『罪と罰』論とのガイヤー訳の『罪と罰』における「罪」の認識の差を実感しただけでなく、ドイツ人に戦争への反省をも迫るような『罪と贖罪』という題名の訳を翻訳者のガイヤーが提案していたばかりでなく、そのようなあまり売れそうもない重たい題名の訳書の出版に踏み切った出版社の勇気と気概を知ったためでもあった。

そこには「国家」への「奉仕」が求められる一方で、「個人」の自立が切り捨てられたナチス・ドイツへの鋭い批判が感じられ、福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論をふまえて脱原発に踏み切ったドイツと、未だに事故が収束しておらず、使用済み核燃料の問題が解決されていなにもかかわらず、政府や官僚の主導により原発の再稼働や輸出を始められようとしている日本との違いに現れているようにも感じられる。

fc2_2013-09-21_18-19-44-152(く黒澤映画《夢》「赤富士」)

(画像はブログ「みんなが知るべき情報/今日の物語」より。http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/7da039753df523c21dcd451020f1e99c …

 イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と関係の深い映画)

リンク映画・演劇評」タイトル一覧Ⅱ

Shubun_poster

(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、作成: Shochiku Company, Limited © 1950。図版は「ウィキペディア」による)

タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と…)

1、黒澤映画

長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

映画《静かなる決闘》から映画《赤ひげ》へ――拙著の副題の説明に代えて

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎

「第五福竜丸」事件と映画《生きものの記録》

「黒澤明監督の倫理観と自然観」の要

小林秀雄の『虐げられた人々』観と黒澤明作品《愛の世界・山猫とみの話》 

映画《羅生門》から映画《白痴》へ

復員兵と狂犬――映画《野良犬》と『罪と罰』

映画《白痴》から映画《生きる》へ 

長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》 

映画《赤ひげ》と映画《白痴》――黒澤明監督のドストエフスキー観 

 黒澤映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》 

映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

 

2,黒澤映画と…

「季節外れの問題作」《生きものの記録》とアニメ映画《風の谷のナウシカ》

映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観

映画《母と暮せば》を見て

 映画《この子を残して》と映画《夢》

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

ムィシキンの正確な映像化――ボルトコ監督のDVD《白痴》を見て

映画ポスター・三題――《白痴》、《ゴジラ》、《生きものの記録》

劇中歌「ゴンドラの唄」が結ぶもの――劇《その前夜》と映画《白痴》 

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》 

映画 《福島 生きものの記録》(岩崎雅典監督作品 )と黒澤映画《生きものの記録》

タイトル一覧Ⅱ (ゴジラ関係、宮崎駿映画、演劇など)

リンク先タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と関係の深い映画)

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)  

タイトル一覧Ⅱ (Ⅰ、映画、1,ゴジラ、2,宮崎映画、3,その他 Ⅱ、演劇関係)  

、映画

1,ゴジラ

映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念

 映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

 映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽

2、宮崎映画

黒澤明と宮崎駿(2)――《七人の侍》から《もののけ姫》へ

黒澤明と宮崎駿(1)――ロシア文学と民話とのかかわりを中心に

『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》   ――ソーニャからナウシカへ 

アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法 

 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風

 《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影 

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

『もののけ姫』の大ヒットと二一世紀の地球環境 

3,その他

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

ブルガリアの歴史と首都ソフィア――黒澤映画《生きる》

映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観 

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

『白夜』の鮮烈な魅力――「甘い空想」の破綻を描く 

、演劇

想像力の可能性――もう一つのドストエフスキー劇

帝政ロシアの農民と安倍政権下の日本人――トルストイ原作《ある馬の物語》

安倍政権下の日本の言論状況とフォーキンの劇《語れ》

「忍び寄る『国家神道』の足音」と井上ひさし《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》

「記憶」の痛みと「未来」への希望 ――井上ひさし《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る

現代の日本に甦る「三人姉妹」の孤独と決意――劇団俳優座の《三人姉妹》を見て 

蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて 

ブルガリアのオストロフスキー劇 

日本におけるオストロフスキー劇とドストエフスキー劇の上演 

詩人プレシチェーエフ――劇作家オストロフスキーとチェーホフをつなぐ者

劇《石棺》から映画《夢》へ モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

 

イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

リンク「映画・演劇評」タイトル一覧

リンク映画・演劇評」タイトル一覧Ⅱ

イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

 4月29日に書いたブログ記事では「ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました」と記した。

  その時に考えていたのは、《パリ、テキサス》(1984年)や《ベルリン・天使の詩》(1987年)を撮ったドイツのヴィム・ヴェンダース監督が、長崎で原爆を被爆した祖母と孫達との心の交流を描いた《八月の狂詩曲(ラプソディー)》をきわめて高く評価していたことである。

映画《ベルリン・天使の詩》などの詳しい記憶はすでに薄れてしまったが、ドキュメンタリー的な手法で映画のストーリイを描いていたのが印象に残っていた。

そのヴェンダース監督は、1991年に行った黒澤監督との対談で、「黒澤映画に描かれる、木々の緑の美しさと雨のシーンは圧倒的だと、常々思っていましたが、今回も、雷に打たれた2本の木のシーンやラストの雨のシーンで黒澤映画の魅力が発揮されていました。映画史を振り返っても、黒澤さんほど美しく緑と雨を撮った監督はいないんじゃないかと思います」と語っていた(『03 Tokyo calling』6月号)。

 この言葉を受けて黒澤監督は「じつは、日本もいいロケ地がどんどんなくなっていてね、(中略)たとえば、川なんかでも護岸工事やっているから、自然の川はほとんどない」と語り、さらにヴェンダース監督の《夢の果てまで》にも出演した俳優の笠智衆にも言及していた(『大系 黒澤明』講談社、第4巻、524頁)。

*    *   *

イェンドレイコ監督も映画の後半で翻訳者のスヴェトラーナ・ガイヤーが久しぶりに故郷のウクライナに帰還したときのことを詳しく描き、そこで身体の弱った祖母をいたわりつつ同行した孫の目をとおして、祖母の体験の深い意味を描いている。

 そのようなシーンの一つが、かつてガイヤーが両親と過ごしたコウノトリの飛んでくる泉のあった別荘を探そうと孫娘と故郷の村を訪れるが、見つからなかったという場面である。

 その場面からは、かつてデルスが愛した森に彼の墓を作ったが、1910年に訪れたときには開発が進んで見つけることができなかったことが描かれていた映画《デルス・ウザーラ》の冒頭のシーンが思い起こされた。

 このシーンからはヴィム・ヴェンダース監督と同じようにイェンドレイコ監督も黒澤監督から強い影響を受けていたのではないかと感じられたのである。

 

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

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スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

はじめに

1936年に発表した「『罪と罰』を見る」と題した映画評を「ピエール・シュナアルといふ人の作つた『罪と罰』の映画を薦められて見た」という文章から書き出した小林秀雄は、スタンバーグ監督の《罪と罰》を文士たちが「ソオニャがラスコオリニコフを掴へて『アメリカに逃げて頂戴な』などといふ『罪と罰』はない」と批判したことを紹介している。

そして、文士たちがこの映画を「原作に忠実でないからいけない」と「嘲笑」しているが、「スタンバアグの作がをかしければ今度のものだつてをかしい筈だ。少くとも『罪と罰』といふ小説に関して文学者らしい定見を持つてゐるならば」と続け、その理由を「狙つてゐる処は同じだからだ。一と口で言へば犯罪の心理学だ」と説明した小林は、「両方ともラスコオリニコフとポルフィイリイとの心理的対決といふものが一篇の中心をなしてゐる。そしてこの心理的対決の場面が今度の映画では前の映画より上手に出来てゐる」が、「人間の罪とは何か、罰とは何かと、考へあぐんだ人の思想など這入りこむ余地はないのだ」と記して、映画という表現手段の限界を指摘していた〔四・二二四~二二六〕。

 

1,映画《罪と罰》における「良心の呵責」の描写

黒澤監督は『蝦蟇の油――自伝のようなもの』(岩波文庫)で、1929年までに観た「映画の歴史に残る作品」として、1925年のデビュー作《救ひを求むる人々》から、米国映画最古のギャング映画と言われる《暗黒街》(1927)、さらに《非常線》(1928)と《女の一生》(1929)の四本のスタンバーグ作品を挙げている。

ドイツ系ユダヤ人のスタンバーグ監督(1984~1969)は、『ウィキペディア』によれば、1931年に外人部隊に所属するトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)とモロッコの酒場の歌手アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)との出会いと激しい愛を描いた映画《モロッコ》で有名になったとされる。

「弱肉強食の思想」を唱えていたヒトラーの内閣が1933年に成立したことによりヨーロッパで大戦争が近づくなか、デビュー作からスタンバーグ監督の映画を高く評価していた黒澤が、自分が深く尊敬していたドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を映画化したこの《罪と罰》を非常に注意深く観ていただろうことは間違いないだろう。

上映時間が84分の映画《罪と罰》(脚本:S・K・ローレン、ジョゼフ・アントニー、DVD、コスミック出版)では、残念ながら、時間的な制限からマルメラードフやその妻カテリーナの登場する場面は省略されており、ラズミーヒンやスヴィドリガイロフ像にも深みが欠けている。

また、当時の文人たちが批判したように、ソーニャの形象にもラスコーリニコフが血を流して大地を汚したと語り、大地に接吻するように諭した厳しさは欠けており、それゆえラスコーリニコフの告白を聞いて激しく動揺したソーニャが逃げるように頼む場面からはメロドラマ的な印象さえ受ける。

しかし、ラスコーリニコフの家族関係やルージンの卑劣さはきちんと描かれており、ソーニャが『聖書』のラザロの復活を読むシーンは迫力がある。彼のことを心配して取り乱したソーニャを見たラスコーリニコフが、自首を決意する流れも説得力を持っており、シベリアで彼が己の「罪」を深く「悔悟」して復活することも示唆されていると思える。

原作の登場人物や筋の一部を削除した代わりにスタンバーグ監督は、ラスコーリニコフ(ピーター・ローレ)と予審判事ポルフィーリイとの対決をとおして、「非凡人の理論」の危険性を浮き彫りにするとともに、「良心の呵責」に苦しむようになる主人公の内面にも迫っていた。

ことに、ペンキ職人のミコルカに罪をなすりつけて自分は逃げ出してもよいのかと問いかけることで浮き彫りにしていたラスコーリニコフの「良心の呵責」の問題は、いつの時代でも「国策」の一端を担うことになる「知識人」の「良心」の問題に深く関わっているだろう。

主役を演じたピーター・ローレは小柄で丸みを帯びた体型をしていることもあり、原作に描かれている主人公像との違いに戸惑ったが、ラスコーリニコフの苦悩や怒り、恐れなどの感情を表現力豊かに示して名演であった。

2,スタンバーグ監督の《罪と罰》と黒澤映画《夢》

映像的な面で興味深かったのはラスコーリニコフのベッドの上の壁に飾られているナポレオンの肖像画で、それと対比的に示されていたベートーベンの肖像画の意味が最初はよくわからなかった。しかし、ラスコーリニコフの部屋を訪れたポルフィーリイに、ナポレオンを尊敬していて彼に捧げようとして書いた第五交響曲「英雄」を、彼が皇帝になったことを知ってベートーベンが献辞をやめていたと語らせている場面で、この肖像画が「非凡人の理論」の批判としての意味を有していたことを知った。

このような映像的な処置は原作から離れており、大胆すぎるように思えた観客は多かったと思えるが、ドストエフスキーも原作で予審判事ポルフィーリイに、「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれない」と語らせることで「非凡人の理論」の危険性を指摘していた。

 ニーチェのドストエフスキー理解から影響を受けたと思われるヒトラーは、『わが闘争』(第一部、1925年、第二部、1926年)において、「すべての発明はある一人の人の創造の結果である」と書き、「ワイマール憲法」を否定して自分の独裁を正当化していた。

さらに、他民族への憎しみを煽りたてたばかりでなく「非凡人の理論」を「民族」にも当てはめて、「人種の価値に優劣の差異があることを認め(中略)、永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と主張して、「復讐」の戦争へと自国民を駆り立てた(高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、2000年、第9章参照)。

そのことを考えるならば、1935年に公開されたこの映画でスタンバーグ監督は、1940年に公開されるチャップリンの《独裁者》に先駆けて、「非凡人の理論」の危険性を描き出していたと思える。

スタンバーグ監督の《罪と罰》と比較するとき、不安の時代に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論にはルージンの人間像や行動についての言及や、「非凡人の理論」をめぐる考察が決定的と思えるほどに欠けているのである。

黒澤明は『罪と罰』の映画化を行ってはいないが、1951年に長編小説『白痴』の見事な映画化を行うことで、映像をとおして小林秀雄の『白痴』論を痛烈に批判していた。

「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」とし、エピローグにおける「人類滅亡の悪夢」の描写にもあまり注意を払っていなかった小林秀雄が、戦後も基本的にはこのような解釈を変えなかったことに対して黒澤明は深刻な危機感を覚え、そのことを考え続けたことが映画《夢》の第四話「トンネル」や第六話「赤富士」に反映しているのではないだろうか。

映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽

1,映画《ゴジラ》から映画《ジョーズ》へ

 映画《ゴジラ》の冒頭のシーンを久しぶりに見てまず感じたのは、1954年に製作されたこの映画が、大ヒットして第48回アカデミー賞で作曲賞、音響賞、編集賞などを受賞したスティーヴン・スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)を、映像や音楽の面で先取りしていたことである。「ウィキペディア」の記述によりながら、まず映画《ジョーズ(Jaws)》の内容を確認しておく。

 この映画では浜辺に女性の遺体が打ち上げられた後で、「鮫による襲撃」と判断した警察署長はビーチを遊泳禁止にしようとしたが、観光での利益を重視した町の有力者がこれを拒否したために少年が第2の犠牲者となり、少年の両親が鮫に賞金をかけたことからアメリカ中から賞金目当ての人々が押し寄せて大騒動となる。

  そのような中で呼び寄せられた鮫の専門家の海洋学者フーパーは、最初の遺体を検視して非常に大型の鮫による仕業と見抜くが、事態を軽く見せるために「事実」を隠そうとした市長などの対応から事件の解決はいっそう遠ざかることになった。

 一方、映画《ゴジラ》の冒頭では、船員達が甲板で音楽を演奏して楽しんでいた貨物船「栄光丸」が突然、白熱光に包まれて燃え上がり、救助に向かった貨物船も沈没するという不可解な事件が描かれる。  

 遭難した漁師の話を聞いた島の老人は大戸島(おおどしま)に伝わる伝説の怪物「呉爾羅(ゴジラ)」の仕業ではないかと語るが、ゴジラもなかなかその姿をスクリーンには現わさず、観客の好奇心と不安感を掻きたて、暴風雨の夜に大戸島に上陸した巨大な怪物は村の家屋を破壊し、死傷者を出して去る。

 襲われた島の調査を行って「ゴジラ」と遭遇し、その頭部を見た古代生物学者の山根博士(志村喬)は、国会で行われた公聴会で「ゴジラ」について、発見された古代の三葉虫と採取した砂を示して、おそらく200万年前の恐竜だろうと語り、「海底洞窟にでもひそんでいて 彼等だけの生存を全うして今日まで生きながらえて居った……それが この度の水爆実験に よって その生活環境を完全に破壊された もっと砕いて言えば あの水爆の被害を受けたために 安住の地を追い出されたと見られるのであります……」と述べる。

 しかし、博士の推論に与党議員の委員は、「博士! どうしてそれが 水爆に関係があると 断定できるのですか!?」と激しく反論し、山根が「ガイガーカウンターによる放射能検出定量分析によるストロンチューム90の発見」によると語ると、その事実の公表を迫る小沢議員(菅井きん)と、公表は「国際情勢」にかかわるだけでなく「国民」を恐怖に陥れるので禁止すべきとした与党議員の激しい議論が繰り広げられる。

 

 大山「私は 只今の山根博士の報告は 誠に重大でありまして 軽々しく公表すべきでないと思います」

小沢婦人議員「何を云うか! 重大だからこそ公表すべきだ!」

と 野次が飛ぶ

大山「黙れ!! (と睨んで)と云うのは あのゴジラなる代物が水爆の実験が産んだ落とし子であるなどという……」

小沢婦人議員「その通り その通りじゃないか!」

大山「そんな事をだ そんなことを発表したらたゞでさえうるさい国際問題が一体どうなると思うんだ!」

小沢婦人議員「事実は 事実だ!」

 2,映画《ゴジラ》と「第五福竜丸」事件

 この場面について、「ゴジラは核実験で蘇ったのではないか?……と古生物学者の山根博士がその仮説を口にしただけで、与野党の政治家が紛糾する国会の場面。激しく言い合いになる政治家の後ろで声なく座っている山根博士や、大戸島の住民遺族の無言の表情を映画は映し出す」と書いた切通理作氏は次のように指摘している。

 「その後、劇中でははっきり名指しされていないが、核実験を起こしたとおぼしき大国の視察団が、ゴジラの対策会議に後ろの席で座って立ち会うさまを提示する。

 客観的に提示されているからこそ、第五福竜丸事件と同じ年の日本が置かれた立場と、映画の出来事が想像上でリンクしてしまう」(コラム「60年目の新発見 新聞報道とゴジラ」『初代ゴジラ研究読本』洋泉社MOOK、2014年、148頁)。

 この指摘は重要だろう。実際、電車のシーンで若い女性が「いやあねえ……原子マグロだ 放射能雨だ その上に今度はゴジラと来たわ」と語ると、男は「そろ〱疎開先でも探すとするかな……」と応じるなど、この映画は当時の世相をも反映していた。

しかも、徐々に明らかになってきたように、その年の3月1日にビキニ環礁で行われたアメリカの水爆「ブラボー」の実験は、この水爆が原爆の一千倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、160キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員や、南東方向へ525キロ離れたアイルック環礁に暮らしていた住民も被爆していたのである(前田哲男監修『隠されたヒバクシャ──検証、裁きなきビキニ水爆被害』凱風社、2005年。および、高瀬毅『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』平凡社、2014年参照)。

 3,映画《ゴジラ》と「情報の隠蔽

 興味深いのは、映画では山根博士が「水爆の洗礼を受けなおも生命を保つゴジラの抹殺は無理」と考えていたことが描かれていたが、本多監督も科学者芹沢を演じた平田昭彦との対談で、「第1代のゴジラが出たっていうのは、非常にあの当時の社会情勢なり何なりが、あれ(ゴジラ)が生まれるべくして生まれる情勢だった訳ですね。その頃、やっぱり原爆というのが、原爆の実験が始まったという事を聞いて、これはもうこんな事をいつまでも続けていては、というような事がきっかけで、ゴジラというものの性格が出て、ものすごく兇暴で何を持っていってもだめだというものが出てきたらいったいどうなるんだろうという、その恐怖」と語っていたことである(「対談 ステージ再録 よみがえれゴジラ」、前掲書、『初代ゴジラ研究読本』、69頁)。

 この言葉は映画《ゴジラ》の翌年に公開されることになる黒澤映画《生きものの記録》の趣旨をも説明しているといえるだろう。しかし、アメリカが「原子力の平和利用」政策を打ち出し、『読売新聞』が「ついに太陽をとらえた」と銘打った特集記事を載せるとともに、「原子力平和利用博覧会」を各地で開催すると、日本における「核エネルギー」にたいする見方はがらりと変わった。

しかも、日本政府は「核の恐怖」に対抗するにはやはり「核兵器」の力が必要として、「核の傘」政策を打ち出していたが、映画でも政府は「力」には「力」の政策を取り、大戸島沖の海上でフリゲート艦の艦隊による爆雷攻撃を実施して、ゴジラの抹殺をはかった。

 そして、大々的な爆雷攻撃でも傷つくことなく、日本に上陸したゴジラが首都の防衛線である「5万ボルト鉄塔作戦」を破って侵入すると、自衛隊(この映画での名称は「防衛隊」)は山根博士の「ゴジラに光を当ててはいけません。ますます怒るばかりです!」との忠告にもかかわらず、野戦砲、機関銃、戦車隊、ジェット戦闘機によるロケット弾などで攻撃を加え続けた。

 ここで注意を払いたいのは、前述のように、ゴジラが水爆の実験で蘇った可能性を示唆した山根博士の報告に対して、国会で与党議員がそのような情報を公表したら、「国際問題」が複雑化するばかりでなく、「国民」を「恐怖に陥れる」ことになるとして公表の禁止を求めていたことである。  

 この言葉に留意するならば、多くの自衛隊員はゴジラが水爆事件の結果、蘇ったことを知らずにゴジラと戦っていたことになる。さらに、福島第一原子力発電所の事故に際しては、放射能の広がりを表示できるSPEEDIというシステムを持ちながら情報が「隠蔽」されていたが、この映画でもゴジラが放射能を帯びていることを知らされなかったために、ほとんどの国民が風の向きも考慮せずに逃げ惑っていたことになる。

4,「ゴジラ」の怒りと「大自然」の怒り

 しかも、古代の怪獣ゴジラが攻撃に対して怒りから放射能を帯びた体の色を不気味に変色させながら、放射性物質を含んだ白熱光を吐き、鉄塔やビルを溶かすシーンが描かれていた。それは本多猪四郎監督が黒澤監督の演出補佐として参加した映画《夢》(1990年)の第五話「赤富士」で、富士に建設された原子力発電所の大事故で富士が山肌を真っ赤に染めて爆発するシーンをも連想させる。

 山根博士がゴジラは「あの水爆の被害を受けたために 安住の地を追い出された」と語っていたことを思い起こすならば、怪獣ゴジラの怒りは核エネルギーという自らの科学力を信じた人類の傲慢さのために苦しむ大自然の怒りの象徴のようにも見えるだろう。

 この言葉は少し大げさに聞こえるかもしれない。しかし、最初、貨物船などが原因不明の沈没事故を起こした可能性として海底火山の爆発も示唆されていたが、海底調査の結果、地殻変動で形成された日本列島が再び沈没する可能性があることを示唆した科学者を主人公として、1973年に長編小説『日本沈没』を書いた作家の小松左京によって、1974年に「ゴジラ祭り」が行われたことを本多監督は語っていた(66頁)。  

 このことを思い起こすならば、1954年に公開された映画《ゴジラ》における「ゴジラ」の怒りは、映画《日本沈没》(1973年)の大自然の脅威や映画《夢》における「大自然」の怒りを先取りしていると思えるのである。

5,終わりに

 最後に、伊福部昭作曲の「ゴジラのライトモチーフ」について語った作曲家の和田薫の言葉を引用して終わることにしたい。

 「円谷英二さんから特に画を観させてもらったというエピソードがありますよね。あの曲は低音楽器を全て集めてやったわけですが、画を観なければ、ああいう極端な発想は生まれません」(前掲書、『初代ゴジラ研究読本』、122頁)。

 映画《ジョーズ(Jaws)》のライトモチーフが、ゴジラのライトモチーフと同じように、一度聴いたら忘れられないインパクトを持っている理由を和田氏のこの言葉は説明しているように思える。

 

映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

1,近代の文明観と「自然の支配」

前回の「映画《ゴジラ》考Ⅰ」では、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)との比較をとおして、両作品が「事実」の隠蔽の危険性を鋭く示唆していたことを指摘した。それとともに、関東大震災から50年目の1973年に発表されたSF作家・小松左京の長編小説『日本沈没』にも言及することで、怪獣ゴジラの怒りは核エネルギーという自らの科学力を信じた人類の傲慢さのために苦しむ大自然の怒りの象徴のようにも見えると書いた。

映画《ゴジラ》を映画《ジョーズ》や長編小説『日本沈没』と比較することで、このような結論を引きだすのは強引だと感じられる読者も少なくないだろう。

しかし、黒澤監督のもとでチーフ助監督を務めた経験もある森谷司郎監督は、深海潜水艇わだつみで日本海溝の調査に赴いた田所博士(小林桂樹)と操縦士の小野寺(藤岡弘)が、海底に異変が起きていることを発見し、続いて東京大地震、富士山噴火、そして列島全体が沈没するという壮大なテーマの原作を、同じ1973年に映画化していた(脚本:橋本忍)。

ここで注目したいのは、日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉が、西欧文明の優越性を主張したバックルの文明観に依拠しながら、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていたことである。

このような福沢の文明観について歴史学者の神山四郎は、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していた(『比較文明と歴史哲学』)。

このような文明観が原発の推進を掲げる現政権や日本の経済界などでは受けつがれたことが、地殻変動により形成されていまもさかんな火山活動が続き地震も多発している日本列島に、原爆と同じ原理によって成り立っている原子力発電所を建設させ、福島第一原子力発電所の大事故を引き起こしたといえるだろう。

今回は運良く免れることができたものの、東京電力の不手際と優柔不断さにより関東一帯が放射能で汚染され、東京をも含む関東一帯の住民が避難しなければならない事態とも直面していたのである(真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して )。

2,映画《ゴジラ》とソ連の若者たちの原爆観

「第五福竜丸」事件が起きた翌年に映画《生きものの記録》を制作し、後にシベリアの原住民を主人公とした《デルス・ウザーラ》をソ連で撮影することになる黒澤明監督は、『虐げられた人々』や『死の家の記録』などで重要な役割を担っていたドストエフスキーの文明観や彼が雑誌『時代』で唱えた「大地主義」の重要性を深く認識していた。

 本稿の視点から興味深いのは、1981年に行われた俳優・平田昭彦との対談で原爆の問題の重要性を指摘した本多監督が、映画《夢》で補佐をすることになる盟友黒澤明の言葉を紹介していることである。

 「そうすると、今は情勢は非常に変わってますけれども、もうひとつ緊迫してますね。この間も黒澤明君とも、彼とは山本嘉次郎監督の助監督をやったりした頃からの友達ですけれど、黒澤君と久しぶりに会って話したとき、ソビエトの若い人達の話を聞いてゾッとしたというんです。(中略)ソビエトの若い連中は世界の核弾頭はソ連の方を向いている、怖い怖い、あと10年保つか? なんてボソボソ話してる。それがこっちへ来るとね、ソビエトの核弾頭はみんなこっちを向いていると言って恐怖をあおるような、そういう情勢になってる。」(『初代ゴジラ研究読本』洋泉社MOOK、2014年、69-70頁)。

こうして、あまり語られることのないソ連から見た核弾頭の問題に対する若者たちの実感を詳しく伝えた後で、本多監督はこう結んでいた。

「これを何とか話し合いができるようなところへね、ゴジラが出てこなきゃいけない。僕はそういうものがね、作品として描けるようになるならね、思いきって作りたいですけれども、やっぱりゴジラはただただ暴れるだけの話じゃなくて、そんなようなひとつの情況の中に生まれるべくして生まれてこないと、どうも嘘のような気がするね)」

この黒澤の証言と本多の考察は、きわめて重要だろう。実は、私が映画《ゴジラ》を初めて観たのはソ連で行われた日本の映画祭の時であったが、ソ連でも日本映画に対する関心はきわめて高く、映画《ゴジラ》もなんとか入場券を買うことができたものの満席の状態だった。

「広島・長崎」に続いて「第五福竜丸」の被爆という悲劇的な体験をしたにもかかわらず、アメリカの「核の傘」に入ることを選んだ日本では、1962年に起きたキューバ危機の後では「核戦争」の危機感が薄らいだように見える。しかし、アメリカに対抗して核実験を行い、多くの核兵器を所有していたソ連の若者たちは、核兵器によって攻撃されることを強く意識していたのである。

3, 映画《デルス・ウザーラ》とタルコフスキーの映画《サクリファイス》

1990年10月に行われたノーベル賞作家のガルシア・マルケスとの対談で黒澤監督は、ソ連の官僚による情報の「隠蔽」の問題についてふれながら原発事故の危険性についてこう語っていた( 『大系 黒澤明』第4巻、513頁)。

「ソビエトっていうのはペレストロイカで今日のように解放されたから言うけどね、あすこは前にウラルで廃棄物の大変な事故が起こったのにそれを隠してたわけ。それがどんなにひどいものだったかということは、今度チェルノブイリの事件が起こってから初めて公表したけれども、そういう具合に内緒にしている、ひどいことがたくさんあるんですよ」。

黒澤監督がきわめて確信をもって言えたのはなぜだろうかと疑問を持っていた私は、それは映画《デルス・ウザーラ》を撮影した時に映画関係者と歓談する中でこれらの情報や知識を得たのではないかと考えていた。今回、本多監督の対談を読んでそれが裏づけられたように感じている。

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(図版は『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』東洋書店より)。

たとえば、《デルス・ウザーラ》を撮影した際に、ドストエフスキーの作品や黒澤監督の映画を高く評価していた映画監督のタルコフスキーが黒澤監督を歓迎していた。タルコフスキーが後に核戦争をテーマとした映画《サクリファイス》(1986年)を製作していることを考慮するならば、シベリアで会った二人の巨匠が映画の手法についてだけではなく、ウラルの核廃棄物の問題や「核戦争」という文明論的なテーマについて語りあった可能性が強いだろうと思える*。

なぜならば、映画《サクリファイス》の主人公は長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを演じたことのある俳優であったが、若きドストエフスキーが流刑されていたセミパラチンスクも後に核実験場となり、その問題についてはジャーナリストや映画人は知っていたと思えるからである。

 4,科学者・芹沢と『白痴』のムィシキン 

少し映画《ゴジラ》の筋から離れてしまったが、本多監督が対話した相手が山根博士の弟子で自分が発明したオキシジェン・デストロイヤーによってゴジラを滅ぼすことになる科学者の芹沢を演じた俳優の平田昭彦であったことを最後に思い起こしておきたい。

オキシジェン・デストロイヤーを発明した芹沢については、山根博士の娘・恵美子(河内桃子)とその恋人・尾形秀人(宝田明)との会話をとおして、戦争で片眼の視力を失ったことから、山根博士の娘との結婚を断念していたことが語られる。その芹沢は、自分が発明した危険な兵器が悪用されることを恐れて、その作成方法を記した書類を燃やしただけでなく、兵器の制作方法を知っている自分も莫大な富や名誉などに惑わされてその制作方法を明かすようになることを恐れて「ゴジラ」とともに滅ぶことを選ぶ。

ドストエフスキーの研究者の私には、芹沢のそのような自己犠牲的な決断には、トーツキーのような利己的なロシア貴族たちの罪も背負って亡んでいったムィシキンを映画化した黒澤映画《白痴》の主人公・亀田の精神にも通じるところがあると感じる。

映画は芹沢がゴジラとともに亡くなったことを知った山根博士が「暗然たる面持ちで」つぶやく次のような台詞で終わる。

「……だが……あのゴジラが 最后の一匹だとは思えない……もし……水爆実験が続けて行われるとしたら……あの ゴジラの同類が また世界の何処かへ現われ来るかも知れない」。

* 堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」『黒澤明研究会誌』第32号参照。

(2015年5月6日、注と『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』の図版を追加。6月18日、訂正と「ゴジラ」のポスターの追加)。