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『罪と罰』

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

はじめに 映画《赤ひげ》とマンガ『アドルフに告ぐ』

映画《赤ひげ》でブルーリボン賞の助演女優賞を受賞した二木てるみ氏を招いての例会で最も印象に残ったのは、黒澤明監督による演技指導の際にアウシュビッツの写真を見せられたと語っていたことでした。

なぜならば、その時に手塚治虫がマンガ『アドルフに告ぐ』(1983年~85年、『週刊文春』)で、アウシュビッツのことについても詳しく描いていたことを思いだしたからです。

アドルフに告ぐ 〈1〉 文春文庫 (新装版) アドルフに告ぐ 〈2〉 文春文庫 (新装版) アドルフに告ぐ 〈3〉 文春文庫 (新装版) アドルフに告ぐ 〈4〉 文春文庫 (新装版) 

(書影は「紀伊國屋書店のウェブ」より)

しかも、映画《デスル・ウザーラ》の後で『赤き死の仮面』の企画がたてられた際に、黒澤監督は手塚治虫に美術監督を頼んでいたのです。ここでは子供向けのマンガ『罪と罰』の構造とその特徴を考察することで、黒澤明監督の手塚治虫観の一端に迫ることにします。

一、『赤き死の仮面』の企画とマンガ『罪と罰』の映画的手法

黒澤明監督が手塚治虫の全集を持っていたと語った手塚治虫の息子の手塚真氏は、二人の深い信頼関係をこう証言しています。少し長くなるが引用します。

『天才の息子』アマゾン(書影は「アマゾン」より)

(手塚真『天才の息子―ベレー帽をとった手塚治虫』、ソニーマガジンズ、二〇〇三年)。

 「父と黒澤さんはひと世代ほど違いますが、お互いに世界に通用する日本の作家として敬意を表していました。ふたりは一緒に仕事をしたいと考えていたようでした。実際『赤き死の仮面』という企画で、黒澤監督は父に美術監督を頼んできました。」

「キューブリック以来の、国際的な監督からの依頼で今度は父も期待していました。これはエドガー・アラン・ポーの原作を映画化するというもので、歴史的な背景を持ちながら幻想的な映画になる予定でした。黒澤明がポーの原作を使い、手塚治虫が美術監督というのでは、いやでも期待します。」

そして、キューブリック監督から「次に制作するSF映画(『2001年宇宙の旅』)の美術監督を引き受けて欲しい」とのオファーの手紙を受けた際に、手塚治虫が「僕には食べさせなければならない家族(社員)が100人もいるのでそちらには行けない」と断っていたことを紹介した手塚氏はこう続けていました。 

「しかし残念なことにこの企画は世界のどこでも実現せず、黒澤監督は代わりに『影武者』を作ることになりました。黒澤さんは脚本ができると、真っ先に父の元に送ってきて、感想を聞きたいと言われたそうです。大変な信頼を寄せていたのでしょうね。」

それは、映画《夢》(1990)の構造がなぜ、『罪と罰』の構造と似ているのかという問題にもつながると思えます。それゆえ、『赤き死の仮面』という壮大な企画をたてた際に、なぜ黒澤監督が手塚治虫に美術監督を頼んだかを知るヒントの一つは、手塚治虫がマンガ『罪と罰』を戦後の1953年に描いていたことにあると思えます。

実は、手塚は『罪と罰』を「常時学校へも携えていき、ついに三十数回読み返してしまった」と記していました(『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、二〇〇八年)。アシスタントたちの証言でも、長編漫画に関して『ぼくの基本は『罪と罰』なんです』などと語っていたのです(「元アシスタント座談会 われら手塚学校卒業生」『一億人の手塚治虫』JICC出版社)。

黒澤哲哉氏はマンガ『罪と罰』の特徴として、「描かれている人びとが単なる群衆や雑踏ではなく、それぞれに個性があり役者としてキャラの立っている」“演劇的”モブシーンを挙げて、「学生時代、役者として舞台に立った経験があり『罪と罰』の舞台ではペンキ屋を演じたという手塚は、この時代、多分に演劇を意識していたのだろう」と指摘しています(「虫ん坊」、「コラム 手塚マンガ あの日あの時」)。

実際、犯人に間違えられたペンキ屋のニコライが逮捕される場面も、「ああいう虫も殺さない顔をしてて人を殺すのかぇ」、「ヘエーエ、あのばあさまがねェ。おそろしや、おそろしや」などの台詞とともに、一頁全部を使ってさまざまな民衆の姿や声が、ドストエフスキー小説のポリフォニー性を指摘したバフチンのカーニバルについての理論を思い起こさせるように細かく描き出されているのです(マンガ『罪と罰』、角川文庫、一九九六年、二五頁。なお、マンガの台詞はコマ割りの都合上たびたび行替えされているので、ここでは引用の際に、ワンセンテンスは一行とし、読点と句点を付けた)。

 (書影は「手塚治虫 公式サイト」より)

また、このマンガではラスコーリニコフが階段を上って「高利貸しの老婆」を殺しに行く場面から逃げ出すまでの場面が一一頁にわたって縦割りのコマ割りで描かれるなど、登場人物の動きが具体的に分かるように描かれています。

ただ、マンガ『罪と罰』はドストエフスキーの『罪と罰』を子ども向けに翻案してマンガ化した作品ですので、基本的には忠実に描いていますが、原作とは異なる点も一部あります。

そのもっとも顕著な例が、登場人物のスヴィドリガイロフをラスコーリニコフの妹ドゥーニャを家庭教師として雇う地主ではなく、女主人のマルファに仕える下男として描き、彼を暴力的な手段で革命を起こそうとしている男として視覚化していたことです。

それゆえ、最初に読んだ際にはそのような変更に強い違和感を覚えて、やはり子供向けのマンガだと感じていました。しかし、ドストエフスキーの長編小説『白痴』を沖縄からの復員兵を主人公として1951年に映画化していた黒澤監督の理解をとおして読み直したときに、手塚がこのマンガで「自然支配の思想」と「非凡人の理論」の危険性についての深い理解を示していることに気付きました。

おそらく、マンガ『罪と罰』におけるドストエフスキー理解の深さは、黒澤監督が手塚治虫に『赤き死の仮面』の美術監督を依頼したかの理由の一端をも物語っていると思われます。

二、草花から受けた印象と「やせ馬が殺される夢」のマンガ化

ドストエフスキーは犯行の前日にペテルブルグの郊外をさまよったラスコーリニコフが草花を見て、「他の何よりも長い時間、それに見とれていた」と書いた後で、彼が子供の頃に父親とともに見た「やせ馬が殺される夢」を描いていました。

映画《夢》のためのノートで「やせ馬が殺される夢」の一節を引用した黒澤監督はこの夢の重要性を指摘していました。それは第一話「日照り雨」や第二話「桃畑」で見事に映像化されているように、草花の印象と結びつけられて記されている「、ラスコーリニコフが子供の頃に故郷の村で体験したことや農村の景色をも連想させたからだと思えます。

手塚治虫のマンガ『罪と罰』では、ラスコーリニコフの見る夢が描かれていないので、「やせ馬が殺される夢」も省略されているのですが、ドゥーニャと弁護士ルージンとの婚約を伝えた母親の手紙では、「私は毎日森や野山をながめてはおまえのことを思い出しています」という文章と共に、丸一頁を使って村の景色が描かれ、三段別れている次の頁の上段では野原に咲く花が描かれ、「こちらは一面にアザミの花が咲きましたよ。おまえに見せたいくらい……」という言葉が添えられています。

そして、小屋とウサギたちが描かれている次のコマの「おまえが小さいときよく遊んだ小屋も草やつたでおおわれてそのまま立っています」という台詞に続いているのです(五五~五六頁)。

これらの絵と文章が「やせ馬が殺される夢」の前に見とれた草花の絵画化であることは明白でしょう。これらの場面は「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉が」なぜ囚人たちにとってそれほど重要な意味を持つのかを忘れてしまっていたラスコーリニコフが、長い時間をかけてシベリアの大地で「復活」することへの重要な示唆となっていたのです。

三、小林秀雄の「良心」理解と手塚マンガの最終シーン

『罪と罰』のもう一つの大きな主題である「非凡人の理論」の危険性は、権力者からの自立や言論の自由などで重要な働きを担っている「良心」についての司法取調官ポルフィーリイとの議論やスヴィドリガイロフとの対決などをとおして考察されていました。

日本で初めて『罪と罰』の翻訳を行った内田魯庵は、そのことをよく認識しており明治45年には、この長編小説の大きな筋の一つは「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る経路」であると指摘していました(「『罪と罰』を読める最初の感銘」)。

そして、『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』で主人公の「良心の呵責」の問題も描いていた島崎藤村も、ドストエフスキーについて「あれほど人間を憐んだ人も少なかろう」と書き。「その憐みの心が」、「貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう」と記していました(『春を待ちつつ』、かな遣いは現代表記に改めた)。

一方、文芸評論家・小林秀雄は明治時代に成立していた「立憲主義」が「天皇機関説」論争で放棄されることになる前年の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と「謎」を強調しつつ、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、エピローグにはラスコーリニコフが「きびしく自分を裁きはしたが、彼の激した良心は、だれにでもありがちなただの失敗以外、自分の過去にとりたてて恐ろしい罪をひとつとして見出さなかった」と書かれ、さらに「おれの良心は安らかだ」という彼の独り言も記されていることを踏まえたものだといえるでしょう。

しかし、ラスコーリニコフに対して「非凡人と凡人の区別をどうやってつけたものですかな」と問いかけていた司法取調官のポルフィーリイは、「その他人を殺す権利を持っている人間、つまり《非凡人》というやつはたくさんいるのですかね」と問い質していました。

そして、「悪人」と見なした者を殺した人物の「良心はどうなりますか」という問いに「あなたには関係のないことでしょう」といらだたしげに返事したラスコーリニコフに対しては、「いや、なに、人道問題として」と続けて、「良心を持っている人間は、誤りを悟ったら、苦しめばいい。これがその男への罰ですよ」という答えを得ていました(三・五)。

この返事に留意しながら読んでいくと本編の終わり近くで、「良心の呵責が突然うずきだしたような具合だった」(六・一)と書かれている文章と出会うのです

しかも、ドストエフスキーが農奴を殺しても「良心」の痛みを感じなかったスヴィドリガイロフに自殺の前夜に悪夢を見させていたドストエフスキーが、エピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いていることに留意するならば、この長編小説では誤った過激な「良心」理解と民衆とも共有できるような広い「良心」理解の二種類の「良心」理解が描かれていると考えるべきでしょう。

つまり、小林秀雄は自分流の結論を導くために、新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いていたのです。

一方、手塚治虫のマンガ『罪と罰』では、弁護士ルージンの卑劣な行為やポルフィーリイとの「非凡人」をめぐる激しい議論もきちんと描かれています。そして、その議論を踏まえて、スヴィドリガイロフとの次のような会話が記されているのです。

すなわち、マンガ『罪と罰』の結末で「ぼくァ、あなたの論文を読んだんです」と語ったスヴィドリガイロフは、「そして決めたんですよ。あなたを同志にしようと……」と語ります。

ラスコーリニコフから断られると、さらに「かくさないでください。ぼくとあなたとはどうも似ているところがありますね」と続けたスヴィドリガイロフは、最終的に断られると「それならば、ぼくはきみを反動者として制裁する」と宣言してピストルを発射するのですが致命傷には到らず、革命の合図を見て立ち去ります。

この後でソーニャに老婆の殺害を告白したラスコーリニコフは、学生の暴動を見て、「ぼくのように自分を天才だと思っているやつが……」、「何人もいるんだスヴィドリガイロフもそのひとりだ……」と語って、己の「非凡人の理論」の誤りを認めるのです。そして、「すぐ町の広場へいらっしゃい。そして地面に接吻して大声で『ぼくが犯人はぼくだ!』というのよ」というソーニャの言葉に従って広場に行きます。

暴動が始まり大混乱となった広場で自身の罪を大声で告白する箇所は、多くの民衆が描かれている迫力のあるモブシーンで描かれ、最後の場面では自首しに警察に向かう主人公の後ろ姿が余韻を持って描かれているのです。

 

おわりに

このように見てくる時、少年向けに書かれた漫画でわずか一二九頁に、『罪と罰』の主な筋と主要な登場人物を描き出したばかりでなく、エピローグの内容をも組み込んでいる手塚治虫の手腕と『罪と罰』理解の深さには驚かされます。

手塚治虫は「戦後七〇年に考える」と題して開かれた「アドルフに告ぐ展」のための文章でこう記しています。

「僕は戦中派ですから、戦争の記録を、僕なりに残したいという気持ちがありました。戦後も40年以上たちますと戦争のイメージが風化してくるんですよ。僕も、そう長い先まで仕事ができないので、今のうちに描いておこうと思ったんです」。(出典はhttp://tezukaosamu.net/jp/manga/282.html … )

アドルフに告ぐ展

(黒澤明研究会編『研究会誌』)、No.39号、2018年、80~85頁、一部改訂して転載)

映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観

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はじめに

かねてからタルコフスキー(一九三二~一九八六年)の映画には関心を持っており、映画《惑星ソラリス》は授業でも紹介していたが、なかなか詳しく調べる暇がなくそのままになっていた。それゆえ、タルコフスキー監督に関する多くの文献をとおして両者が会った年月を確認し、両監督の映画の深い関わりを明らかにした堀伸雄氏の「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」(『黒澤明研究会誌』(第三二号)からは強い知的刺激を受けた。

さらに『ドストエーフスキイ広場』(第二四号)に掲載された「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉― 黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」を読んだことで、ドストエフスキーの研究者ではない堀氏が長編小説『白痴』に示している深い理解の原因の一つが、黒澤明監督だけでなくドストエフスーをも深く尊敬していたタルコフスキー映画の理解にあることに気づいた。

それゆえ、本稿では堀氏の論文にも言及しながら映画《惑星ソラリス》を中心に考察することで、黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観とその意義に迫ってみたい。

一、 黒澤監督と映画《惑星ソラリス》

「『惑星ソラリス』を中心に、物質性と精神性について」と題する論文でタルコフスキーは、「文芸作品の映画化」という側面から黒澤映画《白痴》などに次のように言及していた。

〈文芸作品の映画化は、映画監督が作品から離れて、なにか新しいものを作り出したときにのみ成功するのだと、私は信じています。(中略)最良の映画化とは、原作とは別の新しい何かなのです。シェイクスピアとドストエフスキーの最良の映画は、黒澤の『蜘蛛巣城』(マクベス)と『白痴』です。しかし黒澤はきわめて多くのものを破壊しました。全く新しいものを創造するために、舞台を現代に移しさえしています。例えば、ドストエフスキーの小説を逐語的に言いかえたり、図解したりしようとする映画監督よりも黒澤は、ドストエフスキーに近いことがわかるのです。文芸作品の映画化自体は、純粋の意味では、意味がないと思います〉*1。

ここでタルコフスキーは主人公を日本人とし、登場人物の数を減らして筋にも変更を加えつつも、長編小説『白痴』の本質を描いた黒澤映画の創作方法を見事に指摘しているといえるだろう。

しかし、ポーランドの作家スタニスワフ・レムのSF小説『ソラリス』を原作とした映画《惑星ソラリス》は、一九七二年にカンヌ国際映画祭審査員特別賞などを受賞したものの原作者からは酷評された。

その理由を原作者のレムは次のように語っている。「タルコフスキーは私の原作にないものを持ち込んだのです。つまり、主人公の家族をまるごと、母親やらなにやら全部登場させた。それから、まるでロシアの殉教者伝を思わせるような伝統的なシンボルなどが、彼の映画では大きな役割を果していたんですが、それが私には気に入らなかった」*2。

実際、レムの原作『ソラリス』では、ようやく、地球からの緊張に満ちた飛行を終えて宇宙ステーション「プロメテウス」に到着した心理学者のクリス・ケルヴィンが耳にしたのは、「単語の一つ一つが、鋭く飼い猫の鳴き声のような音で区切られていた」機械的な音声による案内であり、「控え目に言っても、奇妙なことだ。誰か新しい訪問者が到着した。しかもほかならぬ地球から来たのだ、とあれば、生きている者は誰でも発着場に駆けつけるのが普通ではないか」と感じたと描かれている*3。

さらに、主人公が宇宙ステーションで最初に出会ったサイバネティックス学者のスナウトは、クリスの到着に取り乱して「ギバリャンはどこだ?」という質問に答えないばかりか、天体生物学者のサルトリウス以外の誰かを見かけても「何もするな」という奇妙な警告を発するというきわめて緊迫した状況で始まる。

こうして、レムのSF小説では「知性を持つ巨大な存在」である「ソラリスの海」と人間との意志疎通の試みが大きなテーマであり、クリスは「ソラリスの海」によって主人公の記憶の中から実体化して送り出された「自殺した妻」ハリーとも出会うことになる。

一方、澄んだ水の流れとそこに揺らめく藻、そして草の情景から始まる映画《惑星ソラリス》では、原作にはない地球上での風景や家族とのやりとりが描かれており、それに対応するようなシーンで終わる。

それゆえ、訳者の沼野充義氏は「愛を超えて」と題した『ソラリス』の解説で、「(タルコフスキーの映画では――引用者注)シンボルは母から、母なるロシア、大地(地球)へつながっていき、映画は小説とは根本的に違うイデオロギー的意味を担うにいたる」と説明している*4。

たしかに原作と映画から受ける印象はかなり異なり、自分の原作にロシアの家族の物語を挿入された原作者レムの不満は理解できる。しかし、映画《惑星ソラリス》のテーマは、ロシア文学者でもある沼野氏の解釈のように、ロシア的な特殊なものに収斂されるのだろうか。むしろこの映画はドストエフスキー作品のように、きわめて深く個人の内面を描きつつ、普遍的なテーマをめざしているのではないのだろうか。

この意味で注目したいのは、映画《デルス・ウザーラ》の撮影のために当時のソ連に滞在していた黒澤監督が、一九七三年にタルコフスキーとともに映画《惑星ソラリス》を観たあとで、導入部の地球の自然描写の巧みさの中に、科学の進歩は人間を一体、どこへ連れていってしまうのかという根源的な恐ろしさを表現していると評価し、他の監督には見られない並はずれた感性に大いなる将来性を感じたと述べていたことである*5。

このような理解の背景にあるのは、この映画が提起している文明論的な課題の重視であろう。かつてソラリスで奇妙な体験をした宇宙飛行士のアンリ・バートンは、主人公のクリスが「ソラリスの海」の謎を解くために「非常手段として海に放射線を当ててみるか…」と語ると、たとえ研究にしても「手段を選ばぬやり方には反対だ。道徳性に立脚した研究でなければ…」と語り、「不道徳でも目的は遂げられます。ヒロシマのように」と主人公のクリスが反論するとバートンが「君は何を言うんだ。おかしいぞ」と激怒する場面が描かれているのである*6。

黒澤映画《デルス・ウザーラ》の冒頭の場面でも、沿海州を調査した隊長アルセーニエフが、探検隊のガイドをしてくれた森に詳しいデルスの墓を一九一〇年に訪れるが、開発によって工事が進み、その埋葬地さえも分からなくなっているというシーンが描かれている*7。

黒澤監督は記者会見でこの映画の理念についてこう語っていた。「人間は自然に対して好き勝手をしている。しかし、本当に自然を怒らせてしまったら、とんでもないことになる。…中略…環境汚染は海面だけでなく、海底にも及んでいる。今地球が危機に瀕している。今人類には環境を守ることが課題となったのだ。科学をそのために使わなければ自然は滅び、それとともに人間も滅びる。『デルス・ウザーラ』は二〇世紀初めの話だが、私の思いはそこにある」*8。

このような黒澤明の発言には『作家の日記』において、「森林がどんどん伐採されて影をひそめるおかげで、ロシアの気候はまるっきり別なものになろうとしています、水分を保持するところがなくなり、どこにも風をふせいでくれるものはありません」と木々が気候に与える影響について書き記していたドストエフスキーからの影響も見ることが可能だろう。

残念ながら日本では小林秀雄の解釈以降、ドストエフスキーの作品における骨太の文明論的な構造は軽視されるような傾向が今も続いている。しかし、ドストエフスキーは若い頃参加していたサークルの指導者であり、後に「ロシア植物学の父」と呼ばれるようになるアンドレイ・ベケートフとの交友を続けていた。そのベケートフは一八六〇年に「自然界の調和」という論文で、「勝者と敗者以外に何もない世界」を描き出していた社会ダーウィニストたちを批判するとともに、「自然界の調和は普遍的必然性の法則の表明」であると主張していた*9。『罪と罰』で「自然支配の思想」や「弱肉強食の思想」など近代西欧文明の問題点に鋭く切り込んだドストエフスキーには、このような文明論的な視野があるといえるだろう。

さて、映画はその後宇宙ステーション「プロメテウス」で物理学者ギバリャンが謎の自殺を遂げ、残った二人の科学者も何者かに怯えていることを描いた後で、クリスの前に数年前に自殺した妻ハリーが現われるという場面が描かれる。

この妻について映画《惑星ソラリス》では、旅立つ前に主人公のクリスが過去の思い出となる書類やかつての妻の写真を燃やすという地上のシーンで何回か示唆されていたが、妻の自殺に良心の呵責を覚えていたクリスは、「ソラリスの海」によって彼の記憶を物質化して送られた「妻のハリー」と出会うことにより、自分の内面を直視することになる。

それゆえ、映画《惑星ソラリス》の何度も現れる「妻」のシーンから、『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフが「高利貸しの老婆」を殺す前後に見るさまざまな「悪夢」を連想した私は、冒頭の藻のシーンからもラスコーリニコフが殺害の前に「花に見とれ」つつも、その意味を理解できずに立ち去ったという文章を思い浮かべたのである*10。

さらに、『罪と罰』の若き主人公は、酔っ払った少女をつけ回す中年の男を見つけて、警官を呼ぼうとしたあとで、数学の確率論を思い出し、今救ってもどうせ同じような結果になると考えてあきらめる一方で、今、すぐ大金が必要だとして「高利貸しの老婆」殺しを実行していた。

作品を読んでいない方には関係が分かりにくいかもしれないが、研究のためならば「非常手段として海に放射線を当ててみるか」と提案していた映画《惑星ソラリス》の主人公・クリスの考え方は、殺人を犯す前の『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフの思考法ときわめて似ているのである。

そのようなクリスに対して研究の続行を主張しつつも、「海を破壊すること」につながるような方法を拒絶していた宇宙飛行士のバートンは、それ以上の会話は無意味と考えて説得をあきらめるが、車で帰宅するバートンが高速道路で次々とトンネルを通過しながら考え込むシーンはきわめて印象的であり、映画《夢》の第四話「トンネル」のイメージとも重なる。バートンを「幻覚」を見た者のようにみなしてその主張を軽視していたクリスは、ソラリスでバートンの見た「幻覚」の意味を理解することになる。

このように見てくるとき、映画《惑星ソラリス》は『罪と罰』からの影響が非常に強いのではないかと思えるが、実際、堀氏の記述によれば「タルコフスキーの妹のマリーナと結婚した映画監督のアレクサンドル・ガルドン」も、「タルコフスキーの中には、常にドストエフスキーがおり、彼の作品には研究し、学び、考え、苦悩する芸術家ドストエフスキーが形を変えて現れる、つまり、タルコフスキーを通じてドストエフスキーが表現されている」と語っていたのである*11。

二、映画《惑星ソラリス》と『おかしな男の夢』、そして『白痴』

映画《惑星ソラリス》を初めて観た時に『罪と罰』とともに思い浮かべたドストエフスキー作品は、夢の中で他の惑星に行くというSF的な短編小説『おかしな男の夢』であった。この短編については、映画《夢》で実現されなかった「数学の不得意だった学生の私が、天使に導かれて地球から脱出しまた帰還して影と合体」するという話が描かれていたエピソード「飛ぶ」との関連で三井庄二氏の論文「現実と非日常の時空を超えた往還」(『会誌』第三〇号)にも言及しながら拙著でも簡単に触れていた*12。

三井氏は前号の論文の第九章で、タルコフスキーの映画『僕の村は戦場だった』における「イワン少年の見る叙情的な夢のシーン」にも言及している*13。一方、「まったく夢の中では、おれの理性にまったく理解しがたいことが起こるのである」と記された『おかしな男の夢』でも、夢の中で自殺した主人公は墓に埋葬された後で、広大な宇宙を旅して、地球と同じような星に着くのである*14。

そこはエデンの園のような理想郷で、主人公は彼らが「樹々と言葉をかわしていたと言っても、たぶん、あながちおれの誤りではあるまい!」と感じたばかりでなく*15、「なにかもっと積極的な手段によって、空の星と接触を保って」おり、「彼らは自然を讃え、大地を、海を、森を讃えた」とさえ確信したのである。

しかし、少し先を急ぎすぎたようなので、少し後戻りして主人公が自殺をしようとする動機などを確認しておく。

大作『罪と罰』の前に書かれた『地下室の手記』は、「わたしは病的な人間だ……わたしは意地悪な人間だ」という印象的な言葉で始まっていたが、『おかしな男の夢』も「おれはおかしな男だ。やつらはみんないまおれのことを気違いだと言っている。もしおれがやつらにとって、昔のままのおかしな男でないとすれば、それはつまり格が上がったというものである」という特徴的な言葉で始まっている。

こうして主人公の「自意識」や「自尊心」の問題に注意を促したドストエフスキーは、「この世界が存在しようとしまいと、あるいは、どこにもなにもないにしても、おれにとってはどっちみち同じことだ」と感じた主人公が、「素晴らしいピストルを買い込んで、その日のうちに弾丸(たま)をこめておいた」と記したあとで、ある少女と出会った夜のことを描いているのである。

ピストルを買い込んでから二ヶ月間も引き出しにしまい込んでいた主人公は、ある晩、暗い夜空を見上げて一つの星を見つめながら今晩こそ自殺を決行しようと考える。しかし、そんなときに「頭をスカーフで包み、薄い服を一枚身につけているだけで、全身ぐしょ濡れになっていた」八歳ぐらいの少女が、「おかあちゃん! おかあちゃん!」と必死に叫びながら、「おれの肘をつかんだのだった」。

「母親を助けるなにかの手だてを見つけるために、彼女は駆け出してきたものに相違ない」と理解しつつも、怒鳴りつけて追い払ってしまった主人公は、又借りをしている部屋に戻るとピストルを取り出してテーブルに置いた後で、安楽椅子に腰をかけたままで思いがけず眠ってしまう。

ドストエフスキーはその後で夢の中で「エメラルドのような輝きを放っている小さな星」に向かって飛び続けた主人公がその星を見つめながら「自分が見棄ててきた、なつかしい古巣の地球に対する、どうにも抑えがたい感激的な愛情」にとらわれたと書き、「あのとき自分が侮辱を与えた哀れな女の子の面影が、ちらりと目の前にひらめいた」と描いている。

この記述は惑星ソラリスで「なつかしい古巣の地球」で自殺させた妻に対する記憶にさいなまれるようになるクリスの良心の呵責をも説明しているように思える。

さらに、理想的な時代から戦争に明け暮れるようになるまでの人類の歴史を夢の中で主人公に体験させたドストエフスキーは、夢から覚めた主人公が「おれはこれから出かけて行って、たゆみなく、絶えず説きつづけるつもりだ」と決意し、「なによりも肝心なのは――自分を愛するように他人をも愛せよということで、これがいちばん大切なことなのだ」と思ったと描いている。

そして、「ところでおれは例の小さな女の子を探し出した……。さあ出発だ! それではいよいよ出かけるとしよう!」とこの短編は結ばれているのである。

「他者との関係」を失い「自殺」するというテーマは、『悪霊』などで中心的なテーマとしてたびたび描かれているが、この描写から私が連想したのは、長編小説『白痴』で主人公ムィシキンの敵対者となる重要な登場人物のイッポリートのことであった。

自殺し損なったイッポリートは悪意に駆られてさまざまなことを企み、それが悲劇を生むことになるのだが、ドストエフスキーはこの長編小説で別な可能性も示唆していたのである。

映画《白痴》ではこのイッポリートのエピソードは全く描かれていないが、拙著ではこの人物を主人公としながら、その可能性を閉ざすことなく描いたのが映画《白痴》(一九五一年)の翌年に公開された映画《生きる》であるという考えを記した。

先に挙げた論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」で堀伸雄氏も同じような見解を記していたが*16、それはおそらくタルコフスキーに関する主要な邦訳文献を読み込み、考察した結果だと思われる。

ロシア文学者の井桁貞義氏は第一回国際タルコフスキー・シンポジウムの挨拶で、「私にとって残念なことは、タルコフスキーがドストエフスキーの『白痴』を映画化するプランを、ついに実現できなかったこと」と述べていた*17。このことを紹介した堀氏は、「タルコフスキーの思想遍歴と監督生活の日常については、彼が遺した貴重な二つの書籍から読み取ることができる。ひとつは、彼の人生観・芸術観・映画観などを俯瞰的に叙述した『映像のポエジア』であり、他方は、彼自らが『殉教録』と名付けた日記である」と紹介している。さらに、タルコフスキーが一九七〇年四月三〇日の日記で、「ドストエフスキーは、私が映画で作ってみたいと思っていることのすべての核になるかもしれない」と書かれていることに注意を促した堀氏は、映画《惑星ソラリス》の後もタルコフスキーがいかに『白痴』の映画化に向けて終始、執念を燃やし続けていたかを文献をとおして明らかにしている*18。

残念ながら、タルコフスキーは『白痴』の映画化には成功しなかったが、ドストエフスキーが強い関心を持っていた詩人プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』をオペラ化したムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の演出に携わっていた*19。

僭称者のテーマに強い関心を持ったドストエフスキーは、長編小説『悪霊』にこの問題を組み込んでいるが、プーシキンは歴史上の実在の人物をモデルとして権力者の「良心の呵責」の問題を描いたこの作品で、権力の獲得を目指したラスコーリニコフの先駆者とも呼ぶべき若き修道僧グリゴーリーに、彼が見た次のような夢について語らせていた*20。

「わたしは急な梯子をつたわって、塔に登った夢を見ました、モスクワが蟻塚のように見えました、下の広場では人民がひしめき、わたしを指さして笑うのです、わたしは恥ずかしくも恐ろしくもなりました。そして、まっさかさまに落ちると見て、ハッと目がさめました」。

その話を聞いた同室の老僧ピーメンは、それは若者の見る夢だとして、年代記を書いていたこともあり、イワン雷帝の幼い息子ドミトリーがゴドゥノフによって暗殺されたことを伝えた。その時、ピーメンはグリゴーリーの夢に強い権力へのあこがれを読み取り、その戒めとしてゴドゥノフのことを語ったと思われる。

しかし、皇子ドミトリーが生きていれば自分と同じ年齢になることを知ったグリゴーリーは僧院を出奔してリトアニアに逃げ、カトリック教徒のポーランド貴族の娘と結婚して改宗し、自分こそが生き残った皇子ドミトリーであると僭称して、ポーランド軍を率いてロシアに攻め込むことになるのである*21。

オペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の演出に際して、皇帝(ツァーリ)となることを受け入れたゴドゥノフが、民衆の中にいた少年を見てはっとする場面を描いていたタルコフスキーは、修道院の「場」では、グリゴーリーとピーメンとの会話の背後で皇子ドミトリーが暗殺される場面を演じさせていた。それは偽ドミトリーとしてツァーリの座につき一時は権力を有するが、ほどなく亡ぶことになるグリゴーリーの将来をも示唆していたといえるだろう。しかもタルコフスキーはこのオペラの終幕ではモスクワに攻め込もうという偽ドミトリーの呼びかけに幻惑されて従う民衆を見た聖愚者にロシアの危機を語らせていた。

私自身としては、ゴドゥノフの子供達たちが自殺したと知らされ僭称者が皇帝になったことを祝うように強要された民衆が、「黙して答えず」と結ばれていた原作の方がその後の歴史を暗示して引き締まっていると感じている。しかし、このオペラの結末のシーンからはタルコフスキーが、「殺すなかれ」という理念を唱えていた長編小説『白痴』の主人公ムィシキンの悲劇を強く意識していたことは確実だと思われる。なぜならば、自分の恩人がカトリックに改宗していたということを知らされ、激しい衝撃を受けたこともあり主人公が元の「白痴」に戻ってしまうこの長編小説の結末も、ロシアの精神的な危機が強く示唆されているからである*22。

最後にもう一度映画《惑星ソラリス》に戻るが、「無重力になった宇宙ステーション内の図書館で抱き合って宙に漂うクリスとハリー」のシーンの直前に「少年時代の主人公が乗っていたと思われるブランコが雪に覆われた丘の上でかすかに揺れるショットがある」。そのことに注意を促したロシア文学者の相沢直樹氏は、そこに黒澤映画《生きる》との関連を見て、そのシーンは「クロサワへのオマージュだったかも知れない」と書いている*23。

黒澤監督がタルコフスキーと一緒に試写室で『惑星ソラリス』を観た後にウォッカで乾杯し、一緒に『七人の侍』だけでなく『生きる』のテーマなどを歌ったという、黒澤和子さんからの証言も踏まえた堀氏の興味深い記述にも留意するならば*24、そのシーンは実際に「クロサワへのオマージュだった」可能性が高いと思われる。

 

追記:

ブログに記したように、考察に際しては「ドストエーフスキイの会」第215回例会で「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」という題で発表された大木昭男氏の考察からも強い示唆を受けています。

ドストエフスキーが1864年に書いたメモで、人類の発展を「1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代」の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると語っていたのです。

この指摘は長編小説『白痴』の映画化にも強い関心をもっていたタルコフスキーのドストエフスキー観を理解するうえでも重要でしょう。

*1 月刊「イメージフォーラムNO80追補・増補版」七七頁。鴻英良訳による。引用は『会誌』第三二号に掲載の堀伸雄論文より)。

*2 スタニスワフ・レム、沼野充義訳『ソラリス』国書刊行会、二〇〇四年、三六〇頁。

*3 同右、八頁。

*4 同右、沼野充義「愛を超えて」(訳者解説)、三六〇頁。

*5 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、九七頁。

*6 DVD《惑星ソラリス》、アイ・ヴィ・シー、二〇〇二年。

*7 DVD《デルス・ウザーラ》、オデッサ・エンタテインメント、二〇一三年。

*8 ウラジーミル・ワシーリエフ、池田正弘訳『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』東洋書店、六~七頁。

*9 トーデス、垂水雄二訳『ロシアの博物学者たち』、工作社、一九九二年、一〇一頁。

*10 高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、二〇〇〇年、一九九頁。

*11 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、一一五頁。

*12 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、二〇一四年、二〇一頁。

*13 三井庄二「『七人の侍』に見る伝統文化と歴史観」(『会誌』第三二号)。平和時の叙情的な映像と戦時の過酷な日々が対比されている『僕の村は戦場だった』の夢からは、『戦争と平和』において突撃のシーンの前に見るペーチャの夢も連想される。

*14 小沼文彦訳『おかしな男の夢――幻想的な物語』、『ドストエフスキー全集』第一三巻、一九八〇年、筑摩書房。以下もこの訳からの引用による。

*15 前掲書『「罪と罰」を読む(新版)』では、この記述に注意を促しつつ、ソーニャという存在との類似性を指摘した。

*16 堀伸雄、前掲論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」、三二頁。

*17 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、一一四~一一五頁。

*18 堀伸雄、前掲論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」、四一頁。

*19 都築政昭氏の『プーシキンの恋 自由と愛と憂国の詩人』(近代文芸社、二〇一四年)では、波乱に満ちたプーシキンの生涯だけでなく、主要な作品も詳しく紹介されている。『ボリス・ゴドゥノフ』については一八三頁から一九四頁参照。

*20 プーシキン、佐々木彰訳『ボリス・ゴドゥノフ』(『世界文学体系』第二六巻)、筑摩書房、一九六二年、二〇九頁。

*21 DVD『ボリス・ゴドゥノフ』(『DVDオペラ・コレクション』)、デアゴスティーニ・ジャパン、二〇一一年。

*22 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、二〇一一年、二三四~二五二頁。

*23 相沢直樹『甦る「ゴンドラの唄」 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』、新曜社、二〇一二年、三一二頁。

*24 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、九六頁。

 

ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る

補充兵として参戦した主人公の心理をとおして真正面から「戦争」を問い質した大岡昇平の作品を、ドストエフスキー的な方法によって見事に舞台化した鐘下脚色による俳優座の《野火》からは強い感銘を受けた。

激しい飢餓と闘いながらレイテ島を放浪していて、島の若い男女と偶然に出会い、女を撃ち殺して男にも照準を合わせた主人公の心理と行動を大岡は、「男が何か喚いた。片手を前に挙げて、のろのろと後ずさりするその姿勢の、ドストエフスキイの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った」と描いていた。

戦後に帰国して妻と再会した主人公の感触についても大岡は、「しかし何かが私と彼女との間に挟まったようであった」と書いていた。それはリーザたちを殺した後で母親や妹と再会したラスコーリニコフが感じた距離感をも連想させられる。

こうして、『野火』には、「殺すこと」の問題を極限まで掘り下げた『罪と罰』からの影響が強く見られるが、鐘下氏の脚色からもドストエフスキー作品の深い理解がうかがえる。

たとえば、ラスコーリニコフを見守るソーニャの視線が強調されていた『罪と罰』のエピローグと同じように、原作では結末近くの章になって描かれる主人公の妻が、劇では冒頭から登場して最後まで主人公の行動を見続けるのである。

『野火』において発狂した主人公の内面の声として描かれていた箇所は、「狂兵」という主人公の分身を登場させることで声の具象化が行われており、舞台で演じられる人間関係にさらなる緊張感と深みを与え得ていた。

タガンカ劇場の劇《罪と罰》では初めにラスコーリニコフの行動を擁護した小学生の書いた作文を朗読することで、問題の現代性を明確な形で示していた。

劇団俳優座のこの劇でも「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び欺(だま)されたい人達を私は理解できない。以下略…」という主人公の言葉を、劇の冒頭で主人公自身に語らせただけでなく、劇の最後では妻にも朗読させることで『野火』の現代性を浮かび上がらせていた。

(『ドストエーフスキイ広場』第16号、2007年。再掲に際して少し手を入れた。太字は引用者。2022年7月29日誤記を訂正)

映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

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(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、作成: Shochiku Company, Limited © 1950。図版は「ウィキペディア」による)(拙著の書影は「成文社」より)

 

映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

ドストエフスキー研究者の新谷敬三郎氏は『白痴』に描かれているスキャンダラスな新聞記事の背景について、それまで厳しく「言論の自由」が規制されていた一八四〇年代のロシアとは異なり、クリミア戦争後に「言論がにわかに大衆化した」一方で、価値観が混乱していたこの六〇年代には、個人の中傷記事が載る新聞や雑誌が横行していたことを指摘し、「作者はそういう現象を念頭に置いて、この記事を作品に挿入したのであろう」と説明している。

このような「ゴシップ記事」の問題に注目するとき、映画《白痴》の前年に公開された映画《醜聞(スキャンダル)》(脚本・黒澤明、菊島隆三)においても、「発行部数をふやすために、誇大で興味本位の性記事や私生活の暴露記事を売り物にする」雑誌社によって、スキャンダラスな記事の対象とされたために苦悩する若者たちの物語が描かれていたことに気づく。

*   *

三船敏郎が演じる山岳画家の青江は、山歩きに疲れた有名な声楽家の美也子(山口淑子)を善意からオートバイに乗せて宿まで送り、そこで彼が描いていた山を一緒に見上げようとした。しかし寄り添うようなポーズになったその瞬間を写真家に撮られて、ゴシップ記事を売り物にする雑誌『アムール』にでっち上げの記事とともに掲載された。

雑誌社が「清純な声楽家」の「愛欲秘話」や「情炎のアリア!」などの宣伝文句で、ポスターやサンドウィッチマンなどを使ってこの記事と写真を大々的に広告したために、この雑誌は売り上げを伸ばした。

一万部の増刷を決定した社長は、自分の書いた記事が「虚偽の記載」や中傷で告訴されることを心配した記者には、そんなことで裁判になったことはないし、むしろそうなったらよい宣伝になるので「あと一万部増刷するね」と語り、偽りの報道に怒って雑誌社に乗りこんできた山岳画家の青江に殴られると、様々な報道機関に自分が暴力の被害者であることを強調して、「僕ア、あくまでも言論の自由のために闘うよ」と宣言し、さらに宣伝に力を入れたために「スキャンダル」は拡大したのである(Ⅲ・一〇~一一)。

絵画の道に進もうとしていた若き日の黒澤明を彷彿とさせるような正義感の強い山岳画家の青江も、自分が「暴力を振るったのは確かに悪い」が、「あの雑誌の記事は、ありゃ何だい。暴力以上じゃないか」と批判していた。

*   *

長編小説『白痴』ではムィシキンは中傷記事に抗して自分の恩人への疑いを晴らすためにガヴリーラに調査を依頼していたが、映画《醜聞(スキャンダル)》で青江に裁判に訴えれば勝てると自ら売り込んできたのが、弁護士の蛭田(志村喬)で、いつかは真実が明らかになると信じていた青江は、蛭田を信用して裁判を始めた。

この映画に出てくる弁護士の蛭田と『罪と罰』に出てくる酔っぱらいのマルメラードフとの類似性についてはすでに公開時に映画評で述べられていた(Ⅲ・三二一)。 たしかに善良だが酒に弱いという点や、「俺は犬だ! 蛆虫だ!」と自分のことを自虐的に語る台詞は、マルメラードフを思い起こさせる。

しかし、依頼人を裏切ることになる弁護士という人物設定に注目するならば、蛭田の人物像は『白痴』におけるレーベジェフにも近いと思える。

なぜならば、人はよいが酒好きの弱い人間であった弁護士の蛭田は、簡単に雑誌社の社長に買収されてしまい、青江たちの裁判は次第に不利な状況へと追い込まれていくことになるからである。

一方、「世間の噂」が静まるまでじっと我慢をしようとしてリサイタルをも中止にしていた声楽家の美也子は、裁判でかえって青江が追い込まれていくのを見て、自らも原告の一人となり雑誌社の社長を訴えた。

*   *

一方、ムィシキンの前に初めて姿を現した際に「喪服に身を包み」、「乳飲み子」を抱いていたレーベジェフの娘ヴェーラは、「この頃は夜はだいたい泣き暮らして、私たちに聖書を読んで聞かせるのです。だって母が五週間前に亡くなったばかりですから」と父について語っていた(二・二)。

このことに注意を払ったイギリスの研究者・ピースは、《キリストの屍》などをめぐるロゴージンとの重苦しい会話について考えながら歩いていた際に、乳飲み子を抱いて立っていたヴェーラのことを思いだして、「あの子はなんとかわいい、愛らしい顔をしていたことか」(二・五)とムィシキンが考えていたことにも注意を促していた。

彼女が胸に抱いている幼子が自分の妹であり、母親がその子を産んで亡くなっていることを想起するならば、このようなヴェーラのイメージは、無垢のままで子供を生んだとされる幼子イエスをとマリアを描いたラファエロの《システィーナの聖母》とも重ねられているだけでなく、ロシアのイコン《ウラジーミルの聖母》も意識して書いているといえるだろう。

映画《白痴》では舞台を日本に移したことで、ムィシキンが語るマリーやロバのエピソードなど『新約聖書』の逸話が削られ、ロゴージンの母親は「毎日仏様ばかり拝んでいる」女性へと変えられていた。

しかし、この映画ではクリスマスの「樅の木」や「清しこの夜」の合唱など、キリスト教的な雰囲気も伝えられることで、蛭田の娘の「聖母マリア」的な性格も描かれており、次第に窮地に追い込まれていく主人公たちの危機を救ったのが重度の肺病を患いつつも「純真な心」を持ち、父の回心を願い続けていた蛭田の善良な娘・正子(桂木洋子)だったのである。

このように見てくるとき、蛭田(レーベジェフ)に「さぎ師」という「レッテル」を貼るのではなく、彼がまだ純真な心を失ってはいないことも描き出していた《醜聞(スキャンダル)》は、蛭田の娘・正子の形象をとおしてヴェーラの見事な映像化を果たしているといっても過言ではないように思える。

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、133~137頁より。なお、前の文章との関連を示すために言葉を補ったり削除した他、注は省略した)。(2017年5月7日、図版を追加)

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

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スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

はじめに

1936年に発表した「『罪と罰』を見る」と題した映画評を「ピエール・シュナアルといふ人の作つた『罪と罰』の映画を薦められて見た」という文章から書き出した小林秀雄は、スタンバーグ監督の《罪と罰》を文士たちが「ソオニャがラスコオリニコフを掴へて『アメリカに逃げて頂戴な』などといふ『罪と罰』はない」と批判したことを紹介している。

そして、文士たちがこの映画を「原作に忠実でないからいけない」と「嘲笑」しているが、「スタンバアグの作がをかしければ今度のものだつてをかしい筈だ。少くとも『罪と罰』といふ小説に関して文学者らしい定見を持つてゐるならば」と続け、その理由を「狙つてゐる処は同じだからだ。一と口で言へば犯罪の心理学だ」と説明した小林は、「両方ともラスコオリニコフとポルフィイリイとの心理的対決といふものが一篇の中心をなしてゐる。そしてこの心理的対決の場面が今度の映画では前の映画より上手に出来てゐる」が、「人間の罪とは何か、罰とは何かと、考へあぐんだ人の思想など這入りこむ余地はないのだ」と記して、映画という表現手段の限界を指摘していた〔四・二二四~二二六〕。

 

1,映画《罪と罰》における「良心の呵責」の描写

黒澤監督は『蝦蟇の油――自伝のようなもの』(岩波文庫)で、1929年までに観た「映画の歴史に残る作品」として、1925年のデビュー作《救ひを求むる人々》から、米国映画最古のギャング映画と言われる《暗黒街》(1927)、さらに《非常線》(1928)と《女の一生》(1929)の四本のスタンバーグ作品を挙げている。

ドイツ系ユダヤ人のスタンバーグ監督(1984~1969)は、『ウィキペディア』によれば、1931年に外人部隊に所属するトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)とモロッコの酒場の歌手アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)との出会いと激しい愛を描いた映画《モロッコ》で有名になったとされる。

「弱肉強食の思想」を唱えていたヒトラーの内閣が1933年に成立したことによりヨーロッパで大戦争が近づくなか、デビュー作からスタンバーグ監督の映画を高く評価していた黒澤が、自分が深く尊敬していたドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を映画化したこの《罪と罰》を非常に注意深く観ていただろうことは間違いないだろう。

上映時間が84分の映画《罪と罰》(脚本:S・K・ローレン、ジョゼフ・アントニー、DVD、コスミック出版)では、残念ながら、時間的な制限からマルメラードフやその妻カテリーナの登場する場面は省略されており、ラズミーヒンやスヴィドリガイロフ像にも深みが欠けている。

また、当時の文人たちが批判したように、ソーニャの形象にもラスコーリニコフが血を流して大地を汚したと語り、大地に接吻するように諭した厳しさは欠けており、それゆえラスコーリニコフの告白を聞いて激しく動揺したソーニャが逃げるように頼む場面からはメロドラマ的な印象さえ受ける。

しかし、ラスコーリニコフの家族関係やルージンの卑劣さはきちんと描かれており、ソーニャが『聖書』のラザロの復活を読むシーンは迫力がある。彼のことを心配して取り乱したソーニャを見たラスコーリニコフが、自首を決意する流れも説得力を持っており、シベリアで彼が己の「罪」を深く「悔悟」して復活することも示唆されていると思える。

原作の登場人物や筋の一部を削除した代わりにスタンバーグ監督は、ラスコーリニコフ(ピーター・ローレ)と予審判事ポルフィーリイとの対決をとおして、「非凡人の理論」の危険性を浮き彫りにするとともに、「良心の呵責」に苦しむようになる主人公の内面にも迫っていた。

ことに、ペンキ職人のミコルカに罪をなすりつけて自分は逃げ出してもよいのかと問いかけることで浮き彫りにしていたラスコーリニコフの「良心の呵責」の問題は、いつの時代でも「国策」の一端を担うことになる「知識人」の「良心」の問題に深く関わっているだろう。

主役を演じたピーター・ローレは小柄で丸みを帯びた体型をしていることもあり、原作に描かれている主人公像との違いに戸惑ったが、ラスコーリニコフの苦悩や怒り、恐れなどの感情を表現力豊かに示して名演であった。

2,スタンバーグ監督の《罪と罰》と黒澤映画《夢》

映像的な面で興味深かったのはラスコーリニコフのベッドの上の壁に飾られているナポレオンの肖像画で、それと対比的に示されていたベートーベンの肖像画の意味が最初はよくわからなかった。しかし、ラスコーリニコフの部屋を訪れたポルフィーリイに、ナポレオンを尊敬していて彼に捧げようとして書いた第五交響曲「英雄」を、彼が皇帝になったことを知ってベートーベンが献辞をやめていたと語らせている場面で、この肖像画が「非凡人の理論」の批判としての意味を有していたことを知った。

このような映像的な処置は原作から離れており、大胆すぎるように思えた観客は多かったと思えるが、ドストエフスキーも原作で予審判事ポルフィーリイに、「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれない」と語らせることで「非凡人の理論」の危険性を指摘していた。

 ニーチェのドストエフスキー理解から影響を受けたと思われるヒトラーは、『わが闘争』(第一部、1925年、第二部、1926年)において、「すべての発明はある一人の人の創造の結果である」と書き、「ワイマール憲法」を否定して自分の独裁を正当化していた。

さらに、他民族への憎しみを煽りたてたばかりでなく「非凡人の理論」を「民族」にも当てはめて、「人種の価値に優劣の差異があることを認め(中略)、永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と主張して、「復讐」の戦争へと自国民を駆り立てた(高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、2000年、第9章参照)。

そのことを考えるならば、1935年に公開されたこの映画でスタンバーグ監督は、1940年に公開されるチャップリンの《独裁者》に先駆けて、「非凡人の理論」の危険性を描き出していたと思える。

スタンバーグ監督の《罪と罰》と比較するとき、不安の時代に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論にはルージンの人間像や行動についての言及や、「非凡人の理論」をめぐる考察が決定的と思えるほどに欠けているのである。

黒澤明は『罪と罰』の映画化を行ってはいないが、1951年に長編小説『白痴』の見事な映画化を行うことで、映像をとおして小林秀雄の『白痴』論を痛烈に批判していた。

「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」とし、エピローグにおける「人類滅亡の悪夢」の描写にもあまり注意を払っていなかった小林秀雄が、戦後も基本的にはこのような解釈を変えなかったことに対して黒澤明は深刻な危機感を覚え、そのことを考え続けたことが映画《夢》の第四話「トンネル」や第六話「赤富士」に反映しているのではないだろうか。

『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

はじめに

昨日の深夜に書いた映画《ドストエフスキーと愛に生きる》についてのブログ記事では次のように書いた。

〈ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました。〉

ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て

この記述だけではわかりにくいと思えるので、今回は「贖罪」という訳語についての感想を記しておきたい。

一、『罪と贖罪』という訳

翻訳者ガイヤーが長編小説『罪と罰』という題名を『罪と贖罪』と訳しているとの説明からは、衝撃に近い感銘を受けた。なぜならば、「罰」というロシア語の単語を「贖罪」と訳すことは、一見、大学でロシア語を学び始めて間もない学生でも分かるような「誤訳」のように見えるからだ。

ガイヤー訳の『罪と罰』が日本ではまだきちんと紹介されてはいないので、断言することは難しい。しかし、ヴァディム・イェンドレイコ監督は、このドキュメンタリー映画に1923年に公開されたロベルト・ウイーネ監督の映画《ラスコーリニコフ》から主人公が「斧」を探す場面を挿入することで、外国人の観客にもガイヤーの『罪と罰』理解の深さを示唆しえていた。

この場面についてガイヤーは、多くの観客はここでラスコーリニコフが殺害のための「武器」である斧を見つけ出したことに「恐怖」ではなく、主人公の気持ちに寄り添って「ほっと」したのではないかと語り、ドストエフスキーが『罪と罰』で示唆した「非凡人の理論」の危険性が、きちんと伝わっていなかった可能性を指摘しているのである。

『罪と罰』のエピローグでは自分の理論に従って殺人を犯した主人公ラスコーリニコフのシベリアでの重たい時間や「人類滅亡の悪夢」が描かれていることに留意するならば、スターリンの粛正やナチスによるユダヤ人の虐殺、さらには原爆の二度にわたる投下などが行われた第二次世界大戦を踏まえるならば、「贖罪」という訳こそが「殺人者」ラスコーリニコフの心情に寄り添うだけでなく、原作の間違った理解を避ける「適訳」だと思える。

二、小林秀雄の二つの『罪と罰』論

このことを強く感じたのは、私が自分のドストエフスキー論の集大成とも考えている『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』をなんとか脱稿して、「あとがき」の文章をこの時期に考えていたためでもあるだろう。

「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけともなるほどの影響を受けた。

しかし、小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』のムィシキンの解釈を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

たとえば、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していた〔四五〕。

この評論ががこれから日本が戦争に向かおうとしていた時期に書かれていることを考慮するならば、このような結論もやむを得なかったと思える。ラスコーリニコフが行った「正義の犯罪」をシベリアで悔いたと解釈することは、軍部に対する批判と見なされて逮捕され、拷問を受ける危険性もあったからである。

問題は戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「物語は以上で終つた。作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである。恐らく作者は、自分の事よりも、寧ろ読者の心持の方を考へてゐたかとも思はれる」と、戦前と同じような見解を小林が記していることである〔二五〇〕。

 三、小林秀雄とガイヤーの歴史認識

「『罪と罰』についてⅡ」からはそのような認識の深まりは感じられなかったが、「歴史について」という題で評論家の河上徹太郎と1979年に行った対談で、「歴史をエモーショナルに掴む、と君は言うが、歴史の『おそろしさ』を知り抜いた上での発言と解していいのだな」と河上から確認されると、小林は「まさしく、そうだよ。歴史に向かってはこれとエモーショナルに合体できる道は開けている、と僕は信じている。それは合理的な道ではない。端的に、美的な道だと言っていいのだ」と断言していた。

しかし、まだ『全集』には収録されていないようだが 1940年に「英雄を語る」と題して行った鼎談で、同人の林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問われた小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けると、この言葉を受けて林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる。天皇陛下を戴いて諸共に皆んな滅びてしまへば宣いと覚悟してゐる」と応じていた。

二人が語っていたような歴史認識が日本を無謀な戦争へと駆り立てたと思えるが、小林秀雄にはこのことの反省をしているようには見えないばかりか、「『白痴』をやってみるとね、頭ができない、トルソ(頭と手足を持たない胴体だけの彫像、編集部注)になってしまうんだな」とし、「「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ」と強調している言葉からは、ドストエフスキーのテキストをきちんと読み解こうとするのではなく、あくまで自分が創作した「物語」を守ろうとする姿勢が感じられる。

《ドストエフスキーと愛に生きる》から私が深い感銘を受けた理由の一つは、小林秀雄の『罪と罰』論とのガイヤー訳の『罪と罰』における「罪」の認識の差を実感しただけでなく、ドイツ人に戦争への反省をも迫るような『罪と贖罪』という題名の訳を翻訳者のガイヤーが提案していたばかりでなく、そのようなあまり売れそうもない重たい題名の訳書の出版に踏み切った出版社の勇気と気概を知ったためでもあった。

そこには「国家」への「奉仕」が求められる一方で、「個人」の自立が切り捨てられたナチス・ドイツへの鋭い批判が感じられ、福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論をふまえて脱原発に踏み切ったドイツと、未だに事故が収束しておらず、使用済み核燃料の問題が解決されていなにもかかわらず、政府や官僚の主導により原発の再稼働や輸出を始められようとしている日本との違いに現れているようにも感じられる。

fc2_2013-09-21_18-19-44-152(く黒澤映画《夢》「赤富士」)

(画像はブログ「みんなが知るべき情報/今日の物語」より。http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/7da039753df523c21dcd451020f1e99c …

 イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

復員兵と狂犬――映画《野良犬》と『罪と罰』

 

映画《野良犬》(脚本・黒澤明、菊島隆三)が公開されたのは、第二次世界大戦が終わってから四年後で、日本がまだ連合国の占領下にあった一九四九年のことであった。

この映画と同じ年に生まれた私がまだ子供の頃には、手足を失った傷痍軍人が路上で金銭を乞う姿がときどき見られたので、終戦後間もない混乱した時期の都市を舞台にしたこの映画からは、敗戦直後の日本の状況が直に伝わってきた。

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 映画《野良犬》は「狂犬」のシーンで始まるが、それは日露戦争直後の一九〇六年一月に発表された夏目漱石の短編小説『趣味の遺伝』の冒頭の次のような文章を思い起こさせる。

 「陽気の所為で神も気違になる。『人を屠(ほふ)りて餓えたる犬を救へ』と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を撼(うご)かして満州の果迄響き渡った時、日人と露人ははつと応へて百里に余る一大屠場を朔北(満州)の野に開いた」。

そして漱石は、「狂った神が猛犬の群に『血を啜れ』、『肉を食(くら)へ!』と叫ぶと犬共も吠えたてて襲う」と続けていたのである。

 映画《野良犬》のシナリオで注目したいのは、満員のバスでピストルをすられた新人刑事(三船敏郎)と、そのピストルをピストル屋から買い取って次々と凶悪犯罪をかさねる遊佐(木村功)という若者の二人の復員兵が、ともに戦争から帰った日本で自分の全財産ともいえるリュックサックを盗まれていたという共通の過去を描いていることである。そのことが、二人の若者の息詰まるような対決をいっそう迫力のあるものとするとともに、混迷の時代には窮地に追い込まれた人間が、犯罪者を取り締まる刑事になる可能性だけではなく、「狂犬」のような存在にもなりうることを示していた。

 この映画の二年後に公開された映画《白痴》でも黒澤明監督は、ドストエフスキーの原作の舞台を日本に置き換えるとともに、主人公を沖縄で死刑の判決を受けるが冤罪が晴れて解放された復員兵としており、敵と見なした国を敗北させることで自国の「正義」を貫こうとする戦争の問題を復員兵の問題をとおして深く考察しようとしている。

 注目したいのは、ドストエフスキーが長編小説『白痴』の冒頭でも、思いがけず莫大な遺産を相続した二人の主人公の共通性を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした若者と、その大金で愛する女性を所有しようとした若者の二人の友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたるロシア社会の問題を浮き彫りにしていたことである。

 こうして、映画《野良犬》や映画《白痴》からはドストエフスキーの作品全体を貫く「分身」のテーマが色濃く感じられるが、そのテーマは後期の映画《影武者》(一九八〇)にも受けつがれている。

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 「分身」のテーマと方法は『白痴』だけでなく、『罪と罰』でも多用されていた。酔っぱらった娘のあとを追い回す紳士を妨げようとして途中で止め、「あんなやつらは、お互い取って食いあえばいい」と呟いた『罪と罰』のラスコーリニコフは、「狭苦しい檻」のような小部屋から抜け出して老婆を殺害する。

このようなラスコーリニコフの思想的な問題点は、現代の新自由主義的な経済理論の持ち主で、白を黒と言いくるめる狡猾な中年の弁護士ルージンや、自己の欲望を正当化して恥じない地主のスヴィドリガイロフなどとの対決をとおして、『罪と罰』では次第に暴かれていくのである。

 その意味で興味深いのは、映画《野良犬》が「それは、七月のある恐ろしく暑い日の出来事であった」という文章から始まるガリバン刷りの同名の小説をもとにして撮られていたことである(堀川弘通『評伝 黒澤明』、毎日新聞社、二〇〇〇年)。

 実は、クリミア戦争での敗戦から一〇年後の混迷の首都ペテルブルグを舞台にした長編小説『罪と罰』(一八六六)も次のような有名な文章で始まっていた。「七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮れどき、ひとりの青年が、S横丁にまた借りしている狭くるしい小部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした」(江川卓訳)。

 

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敗戦を喫して西欧の新しい思想がどっと入ってきたことで価値観が混乱したロシア社会では殺人事件も多発するようになったが、ドストエフスキーはこのような時代を背景に自分を「ナポレオン」のような「非凡人」であるとみなして、法律では罰することのできない「高利貸しの老婆」を殺害することをも正当化した『罪と罰』のラスコーリニコフの行動と苦悩を描き出していた。

  映画《野良犬》でも、ショーウインドウに飾られている服を見て、あんな美しい服を一度着てみたいと語った自分のせいで復員軍人の青年がピストル強盗まで思い詰めたことを明かした若い踊り子は、「ショーウインドウにこんな物を見せびらかしとくのが悪いのよ」と語り、若い刑事から戒められるとふて腐れて、「みんな、世の中が悪いんだわ」と言い訳していた。

 若い踊り子(淡路恵子)は、「悪い奴は、大威張りでうまいものを食べて、きれいな着物を着ているわ」とも語っているが、この言葉は一九六〇年に公開された《悪い奴ほどよく眠る》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、小國英雄、菊島隆三、橋本忍)との繋がりをよく物語っているだろう。

映画《野良犬》を公開した後のインタビューで黒澤明監督は、父親の世代と息子たちの世代との対立を描いたツルゲーネフの『父と子』について、「はじめてバザロフがニヒリストとして文学史上に登場したが、むしろ実際にはそれ以後になってニヒリストがこの社会にあらわれた」と語り、ロシアにおけるニヒリズムの問題についての深い理解を語っていた(『体系 黒澤明』第一巻、講談社、二〇〇九年)。

  こうして映画《野良犬》は、個人の自由がほとんどなかった戦前から、個人の「欲望」が限りなく刺激される社会へと激しく変貌した日本の社会情勢の中で、価値観を失った若者たちのニヒリスティックな行動を、鋭い時代考察のうえに主人公たちの行動や考え方を描き出していたドストエフスキーの『罪と罰』の深い理解を踏まえて鮮やかに映像化していたと思える。

 『罪と罰』とは異なり、この映画では追われる側の遊佐(木村功)の内面描写は少ないが、ピストルを奪われるという負い目を背負った若者の激しい苦悩や行動は、三船敏郎の名演技で浮かび上がる。さらに、ラスコーリニコフを精神的に追い詰めていくだけでなく、彼に自首を勧めて、「復活」への可能性を示唆した名判事ポルフィーリイのようなしぶい佐藤刑事の役柄を、志村喬が好演して映画を盛り上げていた。

 しかも、黒澤映画における『罪と罰』のテーマは、当時は無給でしかも将来の身分的な保証もなかったインターン制度のもとで、貧民窟に住んでいた貧しい研修医の竹内(山崎努)が、高台の豪邸に住む富豪(三船敏郎)を憎んで、彼の息子の誘拐を図るが誤ってその運転手の息子を誘拐するという事件を描いた映画《天国と地獄》(一九六三)にも現れており、黒澤のドストエフスキー作品への関心の深さが感じられる。

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  黒澤明監督が晩年の一九九〇年に公開した映画《夢》(脚本・黒澤明)の第四話「トンネル」では、復員した将校の「私」が戻ってくると、トンネルの闇の中から突然に軍用犬だったらしいセパードが口からよだれを垂らし、眼を異様に光らせて飛び出してくるシーンが描かれている。

しかもこの狂犬は、「トンネル」から現れた死んだ兵隊たちが主人公の「私」に説得されて「トンネル」の彼方へと去ったあとでも、再び「トンネルの闇から飛び出して」来て、「すさまじい唸り声を上げて私に向って」身構えるのである。

 国民を戦争へと駆り立てた軍国主義の象徴であると思われる「狂犬」が、再び現れて主人公の復員兵を威嚇している場面で終わるこのシーンの意味はきわめてきわめて重い。

(2013年11月24日、改訂)

『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》 ――ソーニャからナウシカへ

  はじめに

前回の「映画・演劇評」では、当時のソヴィエトの検閲の厳しさに注意を促しながら、このような時代に撮られたレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》の素晴らしさを指摘した。 ただ、エピローグで主人公のラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」などの夢の描写が行われなかったこともあり、原作の『罪と罰』で描かれている深みが出ていないとの不満も残っていた。

そのためもあったのだろうが、初めて《風の谷のナウシカ》で「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」と科学文明の終焉が描かれているのを見たときには、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると感じた。

  1,「大地との絆」

核ミサイルが発射されて全世界が壊滅状態になった後の世界を描いた作品には、フランクリン・J・シャフナー監督の《猿の惑星》(1968年)や、ジェームズ・キャメロン監督の《ターミネター》Ⅰ・Ⅱ(1984年、1991年)などがある。

《風の谷のナウシカ》の場面でことに『罪と罰』との関わりを感じたのは、核戦争後に発生した「腐海の森」から発生する有毒ガスで、生き残った人々の生存も危うくなる中で、「土壌の汚れ」の原因を突き止めようとするナウシカの出現を予言する次のような言葉が語られていたからである。

「その者青き衣(ころも)を/ まといて金色(こんじき)の野に/ おりたつべし」/ /「失われた大地との/ 絆(きずな)を結ばん」

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

一方、『罪と罰』においてドストエフスキーは、戦争で敵を殺しても罪に問われないように、自分も「悪人」を殺しただけだと考えていたラスコーリニコフにたいしてソーニャに次のように語らせていた。 「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

よく知られているように、後にレイチェル・カーソンは名著『沈黙の春』において、「害虫」を殺虫剤によって抹殺しようとした人間の行為が「土壌の世界」を汚染し、植物だけでなく、食物連鎖により鳥や野生動物、さらには人間にもより深刻な被害を生み出したことを明らかにしている。 家族を養うために売春をしていたソーニャは、一見、か弱いだけの女性のようにも見えるが、先の言葉に注目するならば、ソーニャの素朴な考えは、カーソンの思想を先取りしていたともいえるだろう。実際、ソーニャという愛称はギリシア語で「英知」を意味するソフィアという名前から作られており、このことはドストエフスキーが彼女を民衆的な英知を持つ女性として描いていたことを示唆していると思える。

この点で興味深いのはドストエフスキーが若い頃参加していたサークルに、後に「ロシア植物学の父」と呼ばれるようになるアンドレイ・ベケートフがおり、彼は『罪と罰』が発表されることになる『ロシア通報』に、「ヨーロッパ・ロシアの気候」(1858)という論文を発表して、現在の環境問題を先取りするような指摘をし、さらには「弱肉強食の思想」の危険性を明らかにする「生態学」的な思想をもすでに表明していたことである。(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、「第10章 他者としての自然――生命の輝き」参照)。

2,ナウシカの怒りとラスコーリニコフ

ソーニャとナウシカの類似性を指摘するだけで『罪と罰』と《風の谷のナウシカ》との内的な関連を強調することに我無理があるが、ラスコーリニコフとナウシカの類似性も加えることで説得力が増すだろう。

《風の谷のナウシカ》の冒頭では、巨大な「王蟲」に襲われる騎士を救い、さらに騎士のつれていたキツネリスに噛まれた際にも、その小動物の不安を察知して怒らなかったナウシカの優しさが描かれている。

そのことで、墜落する飛行機に捕虜として囚われていた小国ペジテの王女ラステルに対する残虐な体刑の痕を見付け、さらに急襲してきたトルメキア帝国の兵士によって父親が殺害されたことを知って怒りのあまり敵兵を斬すシーンでのナウシカの激しい怒りと悲しみが浮かび上がる。

このシーンが冒頭で描かれることで、ラステルの兄アスベルや、自分の国を滅ぼされた小国ペジテの人々に復讐をやめるように必死に呼びかけるナウシカの言葉に説得力が生まれるのである。

一方、高利をむさぼる高利貸しの老婆を「憎しみ」から殺害する『罪と罰』のラスコーリニコフにはこのような行動は見られない。しかし、ドストエフスキーは彼が自己中心的な若者ではなく、在学中には貧しい肺病患者の学友を助けたことや火事の際には自分が火傷をおいながらも二人の子供を助けたことをエピローグの裁判の場面で明かしている。 。

3.「やせ馬が殺される夢」と「王蟲」の子供が殺される夢

ことに注目したいのは、『罪と罰』ではラスコーリニコフが「高利貸しの老婆」を殺す前に見た夢で、子供の頃に酔っぱらいの馭者が力まかせにやせ馬を鞭うっているのを見て、やせ馬に駆け寄って守ろうとしたシーンを見ることが描かれていることである。

《風の谷のナウシカ》でもナウシカが夢の中で、子供の頃に「王蟲」の子供が殺されそうになっているのを見て「殺さないで」と叫ぶのを再び見るシーンが描かれており、それはナウシカが自分の危険もかえりみずに傷ついた「王蟲」の子供を守るという《風の谷のナウシカ》の感動的なラストシーンへと直結しているのである。 この二つの夢の類似性は単なる偶然かもしれない。

しかし、宮崎監督が尊敬していた漫画家の手塚治虫は『罪と罰』を「常時学校へも携えていき、ついに三十数回読み返してしまった」と記していた(『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、二〇〇八年)。

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

宮崎監督も「ドストエフスキーの『罪と罰』は正座するような気持ちで読みました」と書いていた。

『本への扉』

(図版は「アマゾン」より)

 さらに、宮崎が対談した黒澤明監督もドストエフスキーの長編小説『白痴』を映画化した《白痴》を撮っていたばかりでなく、その他の映画からもドストエフスキー作品への深い理解が感じられる。それらのことにも留意するならば、ナウシカが見る「王蟲」の子供が殺される夢には、ラスコーリニコフが見た「やせ馬が殺される夢」が反映されているといえるかもしれない。  

おわりに

本稿では、漫画『風の谷のナウシカ』(『アニメージュ』徳間書店、1982年2月号~1994年3月号)は考察の対象からははずした。 アニメ映画が公開された後も書き続けられ、SF的な手法でテレパシーや念動力、幽体離脱などが描かれ、不安や絶望などの感情が込められている結論が書かれたこの漫画の世界には、ソヴィエトの崩壊からユーゴスラヴィアの悲惨な内戦に到る時期の混乱が強く反映していると考えるからである。

人間の社会や人間と自然の関係は、《もののけ姫》(1997)でより深く考察されていると思えるので、この問題については稿を改めて考えたい。

(2013年9月18日改訂、2019年1月4日加筆)

長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》

 はじめに

私がロシア文学の研究を始めたのは、ブログにも記したように「他人を殺すことは自分を殺すことになる」という深い思想を、主人公の身体や感情だけでなく、他者との関わりの中で明らかにした長編小説『罪と罰』や『白痴』に強く魅せられたからであった。

2年間のブルガリアでの留学を終えた後で、私が「初期ドストエフスキー作品の研究」というテーマでロシアに留学したのは、当時のソ連では宗教的な内容をも含む後期の作品を考察するのは難しいと考えたことが一番の理由であった。しかし、『貧しき人々』という作品の内容とその構造の意外な面白さに魅せられてもいた私は、ドストエフスキー作品の全体像を把握するためには、初期作品からきちんとその傾向と深まりを分析すべきだとも考えていた。

そのような意図で留学した私が、218分という長さのレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》から感じたのは、帝政ロシアの厳しい検閲下で作品を創作したドストエフスキーのように、体制は異なっても厳しい検閲下にあったソヴィエトでもドストエフスキー作品の意義をなんとか伝えようとする強い意志であった。

 

1,ロシア社会と映画《罪と罰》

ロシアで生活して感じたのは、同じくギリシア正教を受容していたブルガリアと比較すると宗教を宣伝することは禁止されていたにせよ、ロシアの方が宗教的にはより寛容ではないかということであった。

私がドストエフスキー作品の研究をしたいと告げると学科では最初は怪訝な顔をされたが、それでもゼミの教員を紹介してもらえたし、私が『罪と罰』や『白痴』の研究を目指していることを知ると、自宅に食事に招待して研究への助言をしてくれたり、ドストエフスキー関係の映画や演劇を紹介してくれる研究者が現れたが、かれらは皆、ドストエフスキー作品から精神的な支えを得ていた敬虔な正教の信者であった。

宗教的な宣伝が禁じられていたソヴィエトで公開されたレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》では、『聖書』に描かれているラザロの復活の場面をソーニャが読む場面や主人公ラスコーリニコフに十字架を渡すシーンなどは省略されている。

しかし私が驚いたのは、ラスコーリニコフがソーニャの部屋で見付けた『聖書』が、彼が高利貸し老婆とともに殺したリザヴェータから贈られた本であることを告げる場面や、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかと問い質す場面や、自分は有害な老婆を殺したにすぎないと主張するラスコーリニコフに自首を決意させることになるソーニャの次のような言葉もきちんと映画で描写されていたことである。

「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

精神分析学者のフロイトに先だって無意識の分野に注目したドストエフスキーは、長編小説『罪と罰』において重要な役割を果たしている「やせ馬が殺される夢」や「殺された老婆が笑う夢」、そして最後の「人類滅亡の悪夢」などのラスコーリニコフが見る夢を詳しく描いていたが、当時のソ連では夢の解釈はフロイト主義として厳しく批判されており、この映画でも検閲を配慮してと思われるがすべて省かれていた。

しかし、ラスコーリニコフが見た「殺された老婆が笑う夢」をあたかも目撃していたかのように、彼の枕元に現れた地主のスヴィドリガイロフが語る彼の妻・マルファの幽霊の話は、ほぼ原作通りに再現されており、他者にたいする自分の欲望を正当化して、ラスコーリニコフの妹にも現代のストーカーのように付きまとっていたスヴィドリガイロフの孤独と苦悩も浮き彫りにされていた。

長編小説『罪と罰』も推理小説的な構造を持っているが、初めから犯人やトリックを明かしつつ、むしろ犯人の心理や動機に迫るという構造なので、『罪と罰』の粗筋の紹介もかねて、ここでは2部から成る映画《罪と罰》の特徴を簡単に記すことにする。

 

2、映画《罪と罰》の構造とその特徴

映画はいきなり観客を19世紀のペテルブルグの居酒屋へと誘う。すなわち、主人公のラスコーリニコフ(タラトルキン)が酔っぱらった元役人のマルメラードフから貧乏の辛さと借金の苦労を訴えかけられる場面から映画は始まり、犯行の下見のために高利貸しの老婆のアパートを訪れたときの彼の回想をはさんで、役所をリストラされたために娘のソーニャを売春婦にしてしまったことを嘆くマルメラードフの独白と激しい苦悩をラスコーリニコフが聞く場面で、ようやくタイトルが入るのである。

こうして、クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》は、19世紀のロシア社会の状況をきちんと踏まえた上で、「出口」がない状況に追い込まれていた主人公の状況や苦悩を、元役人のマルメラードフとの会話を通してまず示唆していた。

この映画構成の見事さは、「悪人」とみなした「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフと予審判事ポルフィーリイとの3回にわたる息詰まるような対決だけではなく、マルメラードフの家族の悲劇をきちんと具体的に描くことで、家族を養うために売春婦に身を落としたソーニャの苦悩をとおして、兄の立身出世のために中年の弁護士ルージンとの愛のない結婚を決意したラスコーリニコフの妹ドゥーニャの苦悩をも浮かび上がらせていることだろう。

たとえば、事故にあって重傷を負ったマルメラードフを彼の部屋に運んだラスコーリニコフは、そこで元5等官の娘で最初の結婚で3人の子供をもうけた後で夫に死なれて、再婚してソーニャの継母となったカテリーナの強い自尊心とののしりながらも夫に示す複雑な愛情、そして深い苦悩を目の当たりにする。そこに駆け込んで来た「燃えるように赤い羽根をつけた」ソーニャからは運命的な出会いを感じ、母から届いたなけなしのお金を法事のために渡して戻ることが描かれている(第2部第7節)。

結婚のために上京してきた妹のドゥーニャと母が、ラスコーリニコフの狭苦しい部屋で兄の友人のラズミーヒンをまじえて緊迫した会話を交わしているところに、突然、ソーニャが現れる場面からは、黒澤映画《白痴》でガーニャの家族が結婚をめぐって激しく論争しているところにナスターシヤが突然登場する場面を想起させる。

日本ではドストエフスキーの作品に描かれている家族を解体して個人に焦点をあてることで、主人公の孤独に迫るという解釈の流れがあるが、黒澤映画《白痴》と同じようにクリジャーノフ監督の映画《罪と罰》も家族間の軋轢にも注意を向けることで、主人公の苦悩をいっそう明瞭に描き出しているといえよう。

しかも、この場面はラスコーリニコフによってその利己主義的な考えを暴露され、婚約を解消された悪徳弁護士のルージンが、その復讐のためにマルメラードフの法事の席で、虐げられた貧しいソーニャに金を施すふりをして、ひそかに彼女のポケットに大金を入れてソーニャを泥棒にしようとする場面へと直結しており、侮辱されて部屋からも追い出されたカテリーナは、「正義」にも絶望して、ついに発狂して亡くなるのである。

ことに、ラスコーリニコフと予審判事のポルフィーリイ(スモクトゥノフスキー)との対決は見事に映像化されており、クリジャーノフ監督はこの3回にわたる息詰まるような対決をとおして、「英雄」には「悪人」を殺す権利があるとするラスコーリニコフの「非凡人の理論」に潜む危険性をも明らかにしていた。

そして、地主のスヴィドリガイロフが兄ラスコーリニコフの秘密を知っていると語って妹のドゥーニャに迫る密室での息詰まるような場面までを一気に描くことで、この映画は追い詰められた主人公の不安感を浮き彫りにする。

自分を見つめるソーニャ(ベードワ)の真摯な眼差しに促されるようにラスコーリニコフが自首をするという印象的な場面で映画は終わる。

彼の精神的な復活が描かれているエピローグが省略されていたのは残念だったが、観客の身体的な疲労をも考慮に入れるならば、賢明な方針だったとも思える。緊迫した映画の流れで218分の長さも感じられず、見終わってから深く考えさせられる映画である。

 

(台詞の引用は、佐藤千登勢『映画に学ぶロシア語――台詞のある風景』東洋書店、2008年より。クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》については、「長編小説『罪と罰』で映画《夢》を解読する」『黒澤明研究会誌』第29号、2013年3月に一部発表)。

モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

はじめに

今回は私が留学生の引率として1985年6月から10ヵ月間モスクワに滞在した時に見た演劇について記します。演劇の専門家ではないので、モスクワの演劇の全体像を描き出すことはできませんので、ここではドストエフスキー関係の劇を中心にモスクワ演劇の動向を簡単に紹介します。

一、

モスクワの演劇のレパートリーで、まず私の目を惹いたのは、想像以上に古典物が多く演じられていることであった。チェーホフの作品は相変わらず、人気が高いのは当然であるが、この他にもアレクセイ・トルストイの歴史劇、レフ・トルストイの三部作(この内『死せる屍』は三つの劇場で上演されていた)が演じられていた。また日本ではほとんど知られていないが、レフ・トルストイやチェーホフへの道を開いたA・オストロフスキーは18本の戯曲が上演され、しかもそれらの何本かは、同時に二箇所の劇場で演じられていた。

それとともに古典小説の劇化もまたかなり積極的になされていることが私の興味を惹いた。少し振り返っただけでもトルストイの『アンナ・カレーニナ』や、『クロイツェル・ソナタ』、ツルゲーネフの『その前夜』などが浮かんで来る。その他レスコフやシチェドリンの作品もまたレパートリーを飾っている。そしてもちろんドストエフスキーもその例外ではない。

私が大学院生の時に留学の機会を得て初めてソヴィエトを訪れた時、モスクワでは、ドストエフスキーの劇はザワートスキイの『ペテルブルクの夢』(『罪と罰』に基づく)が大当たりし、エーフロスの『兄弟アリョーシャ』(『カラマーゾフの兄弟』に基づく)が話題を呼んでいた。また『ステパンチコヴォ村とその住民』がモスクワ芸術座に掛かり、小さなスタジオでは『貧しき人々』が二人だけで演じられていた。

これらの劇ことに『ペテルブルクの夢』は、予想に反して私に強い印象を与えた。それまで小説の映画化などで原作が損なわれるのを何回も見てきた私は、あまり劇に期待をかけてもいなかったのだ。だがザワートスキイは、巧みな演出と鋭い問題意識で観客の心を捉え、それまでドストエフスキーの孤独な読者であった私は、見知らぬ多くの観客達と共通の気分に浸りながら、このような形でのドストエフスキーの受容もありえることを再確認していた。

確かに劇化や映画化に際しては、原作の著しい短縮は避けられえず、それゆえ原作を損なうこともありえる。だが演出家が深く作品を理解し、その主題を鋭く提示するとき、小説は舞台においてもそのリアリティーを主張しえるのである。そして私はその後、ドストエフスキー自身が若い時、演劇に凝り、戯曲を書き、自分でも演じたことがあることを知った。私のドストエフスキー理解には大きな欠落があったのである。

私が日本に帰ってからモスクワの舞台では、リュビーモフの『罪と罰』や、フォーキンの『俺も行く、俺も行く』(『地下室の手記』と『おかしな男の夢』に基づく)が人間存在の根底に迫る鋭い演出でソヴィエト演劇の枠を大きく広げた(なお、これらの劇に関しては、ルドニーツキイの論文「理念の冒険」に詳しい。残念ながら、リュビーモフはあれからモスクワを去り、以上の劇の内で現在も演じられているのは、『ペテルブルクの夢』一本になってしまった。

だが、ソヴィエト演劇界におけるドストエフスキーの受容は留まることなしに、これまでの成果を踏まえながら、更に新たなる模索をしているといえよう。たとえばモスソヴィエト劇場ではザワートスキイの業績を受け継いだホームスキイの『カラマーゾフの兄弟』が、十年以上のロング・ランを続ける『ペテルブルクの夢』と並んで上演されている。タガンカ劇場では『空想家の手記』(『白夜』と『地下室の手記』に基づく)が初演されており、モスクワ芸術座では『おとなしい女』が、そしてソヴィエト軍劇場の小舞台では『白痴』が演じられている。

二、

モスクワの友人がこの頃劇場の券を手に入れるのが大変むずかしくなったと言った。何故かと問うと恐らくテレビに飽きたらなくなって劇場に来る人々が増えたのだろうと言う。確かにモスクワの劇場は券が安いこともあって(高いものでも七〇〇円位)求め易く、少しよい劇になると、なかなか手に入らず、チケット売り場を求め歩いてもらちがあかず、キャンセルを期待して二時間程前から劇場の前に並ぶことになる。だが驚くべきことには、そこにも既に例の行列ができており、何枚でるかわからない券を延々と待っているのだ。ただこの行列だけは特別で元来劇好きの者ばかりが並んでいるので時には話に花が咲いたりもする。そして苦労して出会った劇との対面には感慨も深いのである。

大きな劇場が、最近いずれも小舞台を別に持つようになった理由の一つは、このような観客数の増加もあるだろう。だが演劇人に語らせると、小舞台の流行は、単に量の問題から来るのではなく、質の問題とも深く関わっていると言う。すなわち小舞台では多少、実験的なこともでき、そこで成功したものを大舞台に懸けることもできる。そしてそれとともに小舞台では俳優と観客の間に距離的なものから来る一種の緊張感も生まれるのだ。

ソヴィエト軍劇場における『白痴』もそうした劇の一つである。期待が大き過ぎただけに劇を見た後は、軽い失望感に襲われたが、それでもこの劇も小舞台の長所を生かしていたとは言える。例えばナスターシヤ・フィリポヴナの提言で、彼女の家に集まった面めんが、誰にも言えなかった心の秘密を語る場面では、単に舞台の上のことではなく観客の一人一人に問いかけるだけの鋭さを有していた。

同じことがタガンカ劇場の旧舞台で演じられた『空想家の手記』にも当てはまる。ここでも場内の空間的狭さは、欠点とはならず、舞台と観客とを結び付ける働きをしている。この劇は一見まったく異なっているように見える二つの作品を空想家という共通項によって統一したものだが、演出家はロマンチストと絶望者という全く相反する二人の主人公を、彼らの分身を登場させることによって説得力豊かに結び付けている。例えば、劇中で女主人公達が語る次のような言葉は、二人の主人公の同質性をまざまざと証明している。

「だって、あなたのお話はまるでご本でも読んでいらっしゃるようなんですもの」(『白夜』)、「あなたはなんだか……まるで本でも読んでいるような話し方をするんですもの」(『地下室の手記』、ともに米川正夫訳)。

さらにリュビーモフは劇『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ作)や、トリーフォノフの『交換』において、悪魔や黒い服を着た仲買人の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していた。

そして、『空想家の手記』でも黒い服を着た分身も盛んに観客に話しかけてはいたが、残念ながらこの分身はことに第一部の『白夜』においては劇から浮いて、ロマンチックな恋を冷ややかに見つめる解説者に成り下がっていた。発想がユニークなだけに突っ込みの足りなさが惜しまれた。

モスクワ芸術座(支部)で演じられた『おとなしい女』は以前レニングラードで上演されていたものだが、主演のボリ-ソフのモスクワ移転に伴ってモスクワでも見られるようになった。

この劇も又、小舞台的な、と言うよりも、小舞台向きの劇だと思える。舞台は妻の自殺の場面が、観客に息を飲ませる位で、他には特に凝った装置はない。しかし初めはぼそぼそとしたボリーソフの声は、次第に力が入り、時には彼の話を直に聞かされていると錯覚する程の迫力を帯びた。

ところで私はこの劇場を見終わってから、なぜか劇『クロイツェル・ソナタ』を思い起こし、これらの劇が今モスクワの劇場で上演されることに興味を覚えた。周知のように『おとなしい女』は、自殺した若い妻の遺骸の脇での高利貸しの男の考えを記したものであり、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』もまた妻との精神的つながりを失い、嫉妬から彼女を殺した中年の男の告白である。これら両作品に共通しているのは、愛と性にたいする根本的な反省と洞察であると言えよう。これらの作品の劇化は、離婚が頻発するなかで新しい家族像を模索するソヴィエト社会を反映しているように思える。

三、

モスソヴィエト劇場で演じられた二つの劇は、大舞台のよさを十二分に生かしていた。『ペテルブルクの夢』では、舞台後方に金貸しの老婆が住む古びた建物が再現され、ラスコーリニコフの殺人に至る場面や逃走の場面では、実際に彼が階段を登ったり降りたりする状況がリアルに描かれ、緊迫感を盛り上げている。だがそれとともにザワートスキイもまた観客を単なる観客としてほおってはおかず、事件の目撃者に引きずりこむ。劇が始まる前に、真っ暗な場内に左右から差し込んだ光は、舞台ではなく観客席の真ん中に突き刺さる。舞台に現れたラスコーリニコフも、また舞台には留まらずに、丁度花道のように作られた道を通って、観客席の六列目まで入り込み、そこで自分の考えを述べるのである。更に殺人を犯す前にも彼は観客席に入り込み、そこで隠されていた斧を取り出す。こうししてザワートスキイは緊迫した劇づくりで観客を引き付け、彼らの前にラスコーリニコフの犯罪を暴露するのである。

ホームスキイの『カラマーゾフの兄弟』では、観客は客席に足を踏み入れた途端に劇の世界に入り込むことになる。すなわち舞台には既に居酒屋が存在し、そこでは或る者はギターを弾き、他の者は女を膝に抱いて口説いているのである。そしてホームスキイは、ザワートスキイの問題意識を更に押し進め、スメルジャコフにかなり焦点をしぼって殺すことの意味を問うている。

 舞台作りの上ではザワートスキイが最後のエピローグでは、たぎる霧の中に巨大な十字架をあたかも世界の救済のごとくに浮かび上がらせ、観客をあっと言わせたが、ホームスキイは、居酒屋の場面を一転させて僧院の一室に変えた。するとそれまで天井を形成していたすのこ状の板が半回転して壁となり、そこにはキリストを抱いたマリアの像が無彩色で描かれていた。少なくともこれらの劇を見た範囲では、ソヴィエトにおいても単に宗教を否定するのではなく、そのよい部分は吸収しようとする新しい流れを感じた。

なおこのことに関連して思い起こされるのは、ドストエフスキーの作品による劇『俺も行く、俺も行く』を演出したフォーキンの『語れ』である。この劇は党の在り方を問題にしているのだが、終わり近くで上からの指導を批判し、下からの意見がなければだめだと主人公に語らせながら、最後に相変わらず十年一日のごとくに決まりきった報告書を読みあげる女性のノートを取り上げ、「(自分の声で)語れ」と言った時には、観客の熱い共感が湧き起こった。これまでこのエルモーロワ劇場の券はほとんどいつでも取れたのだがこの劇については、券を手に入れるのがむずかしかった。また今回は見ることができなかったのだが、ロック・ミュージカルなどで若者達に絶大な人気を持つレン・コンソモール劇場が、『良心の独裁』を初演している。この劇は今モスクワで最も人気のある劇の一つであり、ここでは『悪霊』のスタブローギンが登場し、良心の在り方が問題になっているとのことである。

ドストエフスキー研究者のグラーリニクは、その論文で「ドストエフスキーを克服する」のがかつての課題であったが、今では「ドストエフスキーを理解する」ことが必要であると述べ、カリャーキンも『罪と罰』を分析しながら、「どんな『良心』も『知性』を欠いては、あるいはどんな『知性』も良心を欠いては、世界を理解し、改造することはできない」と結論しているが、極めて間接的ではあるが、これらの劇もまた現在のソヴィエトにおけるドストエフスキーの受容を物語っているように思える。

こうしてソヴィエトにおいてもドストエフスキー理解の深まりは、直接的に劇にも反映しドストエフスキー劇以外の劇にも影響を及ぼしていると言えよう、ソヴィエトのドストエフスキー劇がどのような地平を開くのかこれからも注意深く見つめたいと思う。(本稿では肩書きは省略した)。

初出は『人間の場から』第9号、1987年11月1日。その後『ドストエーフスキイの会 会報』第103号、1988年、および『場 ドストエーフスキイの会の記録』Ⅳに再掲。HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更した)。