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「忍び寄る『国家神道』の足音」と井上ひさし《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》

「忍び寄る『国家神道』の足音」と井上ひさし《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》

闇に咲く花、アマゾン(図版は「アマゾン」より)

忍び寄る「国家神道」の足音〉という題名は今年1月23日付けの「東京新聞」朝刊「こちら特報部」の特集記事から引用したものですが、そこで「安倍首相は二十二日の施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した。夏の参院選も当然、意識していたはずだ」と書いた特集記事はこう続けていました。

「そうした首相の改憲モードに呼応するように今年、初詣でにぎわう神社の多くに改憲の署名用紙が置かれていた。包括する神社本庁は、いわば『安倍応援団』の中核だ。戦前、神社が担った国家神道は敗戦により解体された。しかし、ここに来て復活を期す空気が強まっている。」

そして記事は「神道が再び国家と結びつけば、戦前のように政治の道具として、国民を戦争に動員するスローガンとして使われるだろう」と結んでいたのです。「戦争法」だけでなく「改憲」さえも強行しようとしている安倍政権の危険性を、井上ひさし氏の劇《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》はすでに予告していたように思えます。

30年ほど前に書いた井上ひさし氏の《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》について書いた劇評を再掲します。

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「昭和庶民伝・第二部」にあたるこまつ座の劇《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》(井上ひさし作)もやはり記憶の喪失をテーマにしていた。

この劇では戦争が終った直後の一神社を舞台に物語は進んでいく。主人公の一人である神主の牛木公麿はかつては境内に捨てられていた赤ん坊をひろってわが子として育て、今も近所の主婦達の内職の場を提供するだけでなく、糊口を凌ぐためには神社の品を売り払ってヤミ米を買い、彼女達にも与える程、人が好く、心やさしい人物であるが、戦時中は国の政策を素朴に信じ、若者達を戦場へと送り出す役割を担っていたのだった。

この人物設定は前作の登場人物である実直で愛国的な傷痍軍人の源一郎を想起させるが、しかし大きな違いの一つは、前の劇が太平洋戦争に突入する直前だったのに対し、ここでは戦後の混乱がようやく収まり再び秩序が戻りつつある時期に設定されていることである。それゆえ、劇では源一郎と脱走兵正一の対立とは別の、しかし現在に生きる我々に直接係わってくる次元で神主の公麿と息子健太郎との対立が描かれている。

劇はヤミ米の買い出しから戻った主婦達と神主のやりとりで観客を笑わせたり、戦死した健太郎が実は捨子だったと彼の友人に語る神主の言葉でほろっとさせたりしながら進んでいくが、南方で戦死した筈の健太郎が戻って来るところから佳境に入っていく。彼は戦場で傷を負い、記憶喪失に陥って治療を受けていたのだ。名ピッチャー健太郎の帰還は父ばかりではなく、友人や知り合いの人々すべてを歓喜させる。だが彼の到着を追うようにして、無実の彼にC級戦犯の容疑がかけられていることが知らされ、それを聞いた健太郎は再び記憶を失う。

父はこのまま治療せずに審理から逃れさせようとするが、しかし彼と元バッテリーを組んだ医者の稲垣は、ともかく治してから山奥に隠すと請け合い、治療に専念して再び彼の記憶を呼び戻すことに成功する。

だが、父が「記憶を失って赤ン坊になるか、正気に返って怯えながら生きるか、そのどっちかしかないんだから、可哀想な子だ」と嘆きながら、山奥へ隠そうとしている所に捜査官が録音機を持って現れスイッチを入れると、語られたばかりの健太郎の言葉が再び発せられる。

「父さん、ついこのあいだおこったことを忘れただめだ、忘れたふりをしちゃなおいけない。……」「……過去の失敗を記憶していない人間の未来は暗いよ。なぜって同じ失敗をまた繰り返すにきまっているからね。神社は花だ。道ばたの名もない小さな花……」。

ここでもまた記憶のテーマが語られているのだが、井上氏は録音機という手段を用いることによってこのテーマを無理なく繰り返し、強調することに成功しているが、さらにそれは自分の声を聞く健太郎の心理と結びつけられて悲劇的だが感動的な結末へと導かれているのだ。

すなわち、最初健太郎は健忘症を装おおうとするが、しかし自分の声に励まされるようにして、自分の考えを最後まで述べるのである。

「花は黙って咲いている。人が見ていなくても平気だ。…中略…花と向かい合っていると、心がなごんで、たのしくなる、これからの神社はそういう花にならなくちゃね。花は心を落ちつかせる色をしているよ。(一瞬の、微かな怯え。しかし立ちなおって浄く明るく)ぼくは正気です」。

こうして健太郎は無実でありながら戦時中の日本人の罪を背負ってグアムで死刑になるのだが、この劇を『闇に咲く花』と名付けた井上氏は、健太郎のうちに人間の罪を背負って十字架に架けられたとされるキリストのイメージがだぶっていたのかもしれない。

見終えた後の印象は重苦しいものであったが、それはこの作品の持つテーマが現在に生きる我々とも深く結び付くものだったからだろう。殊に最近の日本の報道や風潮は、都市の外観だけをそのままに、一気に大正末へとタイムスリップしてしまったような感すら抱かせる。

劇団「夢の遊眠社」主宰の野田秀樹氏は「日本は主権在民といいながらも、この四十年間で天皇制にかわる思想の核というものをつくりきれなかったことが明らかになった、という気がします」と語っているが確かにそうだろう。一度の強い風でメッキは剥げ落ち、借り物の衣装や地表を覆っていたかに見えた根のない草木は吹き飛んだのだ。

だが、少なくとも「明らかになった」ことはよいと思える。私たちは飾り立てた自分の姿だけではなく、裸の自分の姿もしっかりと見据えておく必要があるのだ。盆栽や鉢植えの草木ではなく、戸外の自然の中で、激しい風雨や厳しい冬の寒さの中で大地に根を張るような草木をこそじっくりと育てるべきなのだろう。その時にこそ草木は美しい「花」を咲かせるだろう。

〈この劇評は同人誌『人間の場から』(第13号、1989年)に掲載された「見ることと演じること(4)――記憶について」の前半の箇所である。なお、本稿では文体レベルの簡単な改訂を行った〉。

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30年前に書いたこの劇評を読み直して感じたのは、自然を愛する心優しい神主とその息子の苦悩を描いたこの劇が、宗教学者の島薗進氏と政治学者の中島岳志氏が、現在の日本の危機的な状況を踏まえて、熱く深く語り合った対談『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) のテーマと深く関わっていることです。

来る選挙での野党の統一を求めている多くの方々だけでなく、自然を愛する心やさしい神主の方々や仏法を信じる公明党の党員の方々に、いまこそ観て頂きたい劇です。

(2017年2月22日、一部改訂して図版を追加)

 

 

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