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映画《夢》

映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

1,近代の文明観と「自然の支配」

前回の「映画《ゴジラ》考Ⅰ」では、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)との比較をとおして、両作品が「事実」の隠蔽の危険性を鋭く示唆していたことを指摘した。それとともに、関東大震災から50年目の1973年に発表されたSF作家・小松左京の長編小説『日本沈没』にも言及することで、怪獣ゴジラの怒りは核エネルギーという自らの科学力を信じた人類の傲慢さのために苦しむ大自然の怒りの象徴のようにも見えると書いた。

映画《ゴジラ》を映画《ジョーズ》や長編小説『日本沈没』と比較することで、このような結論を引きだすのは強引だと感じられる読者も少なくないだろう。

しかし、黒澤監督のもとでチーフ助監督を務めた経験もある森谷司郎監督は、深海潜水艇わだつみで日本海溝の調査に赴いた田所博士(小林桂樹)と操縦士の小野寺(藤岡弘)が、海底に異変が起きていることを発見し、続いて東京大地震、富士山噴火、そして列島全体が沈没するという壮大なテーマの原作を、同じ1973年に映画化していた(脚本:橋本忍)。

ここで注目したいのは、日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉が、西欧文明の優越性を主張したバックルの文明観に依拠しながら、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていたことである。

このような福沢の文明観について歴史学者の神山四郎は、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していた(『比較文明と歴史哲学』)。

このような文明観が原発の推進を掲げる現政権や日本の経済界などでは受けつがれたことが、地殻変動により形成されていまもさかんな火山活動が続き地震も多発している日本列島に、原爆と同じ原理によって成り立っている原子力発電所を建設させ、福島第一原子力発電所の大事故を引き起こしたといえるだろう。

今回は運良く免れることができたものの、東京電力の不手際と優柔不断さにより関東一帯が放射能で汚染され、東京をも含む関東一帯の住民が避難しなければならない事態とも直面していたのである(真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して )。

2,映画《ゴジラ》とソ連の若者たちの原爆観

「第五福竜丸」事件が起きた翌年に映画《生きものの記録》を制作し、後にシベリアの原住民を主人公とした《デルス・ウザーラ》をソ連で撮影することになる黒澤明監督は、『虐げられた人々』や『死の家の記録』などで重要な役割を担っていたドストエフスキーの文明観や彼が雑誌『時代』で唱えた「大地主義」の重要性を深く認識していた。

 本稿の視点から興味深いのは、1981年に行われた俳優・平田昭彦との対談で原爆の問題の重要性を指摘した本多監督が、映画《夢》で補佐をすることになる盟友黒澤明の言葉を紹介していることである。

 「そうすると、今は情勢は非常に変わってますけれども、もうひとつ緊迫してますね。この間も黒澤明君とも、彼とは山本嘉次郎監督の助監督をやったりした頃からの友達ですけれど、黒澤君と久しぶりに会って話したとき、ソビエトの若い人達の話を聞いてゾッとしたというんです。(中略)ソビエトの若い連中は世界の核弾頭はソ連の方を向いている、怖い怖い、あと10年保つか? なんてボソボソ話してる。それがこっちへ来るとね、ソビエトの核弾頭はみんなこっちを向いていると言って恐怖をあおるような、そういう情勢になってる。」(『初代ゴジラ研究読本』洋泉社MOOK、2014年、69-70頁)。

こうして、あまり語られることのないソ連から見た核弾頭の問題に対する若者たちの実感を詳しく伝えた後で、本多監督はこう結んでいた。

「これを何とか話し合いができるようなところへね、ゴジラが出てこなきゃいけない。僕はそういうものがね、作品として描けるようになるならね、思いきって作りたいですけれども、やっぱりゴジラはただただ暴れるだけの話じゃなくて、そんなようなひとつの情況の中に生まれるべくして生まれてこないと、どうも嘘のような気がするね)」

この黒澤の証言と本多の考察は、きわめて重要だろう。実は、私が映画《ゴジラ》を初めて観たのはソ連で行われた日本の映画祭の時であったが、ソ連でも日本映画に対する関心はきわめて高く、映画《ゴジラ》もなんとか入場券を買うことができたものの満席の状態だった。

「広島・長崎」に続いて「第五福竜丸」の被爆という悲劇的な体験をしたにもかかわらず、アメリカの「核の傘」に入ることを選んだ日本では、1962年に起きたキューバ危機の後では「核戦争」の危機感が薄らいだように見える。しかし、アメリカに対抗して核実験を行い、多くの核兵器を所有していたソ連の若者たちは、核兵器によって攻撃されることを強く意識していたのである。

3, 映画《デルス・ウザーラ》とタルコフスキーの映画《サクリファイス》

1990年10月に行われたノーベル賞作家のガルシア・マルケスとの対談で黒澤監督は、ソ連の官僚による情報の「隠蔽」の問題についてふれながら原発事故の危険性についてこう語っていた( 『大系 黒澤明』第4巻、513頁)。

「ソビエトっていうのはペレストロイカで今日のように解放されたから言うけどね、あすこは前にウラルで廃棄物の大変な事故が起こったのにそれを隠してたわけ。それがどんなにひどいものだったかということは、今度チェルノブイリの事件が起こってから初めて公表したけれども、そういう具合に内緒にしている、ひどいことがたくさんあるんですよ」。

黒澤監督がきわめて確信をもって言えたのはなぜだろうかと疑問を持っていた私は、それは映画《デルス・ウザーラ》を撮影した時に映画関係者と歓談する中でこれらの情報や知識を得たのではないかと考えていた。今回、本多監督の対談を読んでそれが裏づけられたように感じている。

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(図版は『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』東洋書店より)。

たとえば、《デルス・ウザーラ》を撮影した際に、ドストエフスキーの作品や黒澤監督の映画を高く評価していた映画監督のタルコフスキーが黒澤監督を歓迎していた。タルコフスキーが後に核戦争をテーマとした映画《サクリファイス》(1986年)を製作していることを考慮するならば、シベリアで会った二人の巨匠が映画の手法についてだけではなく、ウラルの核廃棄物の問題や「核戦争」という文明論的なテーマについて語りあった可能性が強いだろうと思える*。

なぜならば、映画《サクリファイス》の主人公は長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを演じたことのある俳優であったが、若きドストエフスキーが流刑されていたセミパラチンスクも後に核実験場となり、その問題についてはジャーナリストや映画人は知っていたと思えるからである。

 4,科学者・芹沢と『白痴』のムィシキン 

少し映画《ゴジラ》の筋から離れてしまったが、本多監督が対話した相手が山根博士の弟子で自分が発明したオキシジェン・デストロイヤーによってゴジラを滅ぼすことになる科学者の芹沢を演じた俳優の平田昭彦であったことを最後に思い起こしておきたい。

オキシジェン・デストロイヤーを発明した芹沢については、山根博士の娘・恵美子(河内桃子)とその恋人・尾形秀人(宝田明)との会話をとおして、戦争で片眼の視力を失ったことから、山根博士の娘との結婚を断念していたことが語られる。その芹沢は、自分が発明した危険な兵器が悪用されることを恐れて、その作成方法を記した書類を燃やしただけでなく、兵器の制作方法を知っている自分も莫大な富や名誉などに惑わされてその制作方法を明かすようになることを恐れて「ゴジラ」とともに滅ぶことを選ぶ。

ドストエフスキーの研究者の私には、芹沢のそのような自己犠牲的な決断には、トーツキーのような利己的なロシア貴族たちの罪も背負って亡んでいったムィシキンを映画化した黒澤映画《白痴》の主人公・亀田の精神にも通じるところがあると感じる。

映画は芹沢がゴジラとともに亡くなったことを知った山根博士が「暗然たる面持ちで」つぶやく次のような台詞で終わる。

「……だが……あのゴジラが 最后の一匹だとは思えない……もし……水爆実験が続けて行われるとしたら……あの ゴジラの同類が また世界の何処かへ現われ来るかも知れない」。

* 堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」『黒澤明研究会誌』第32号参照。

(2015年5月6日、注と『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』の図版を追加。6月18日、訂正と「ゴジラ」のポスターの追加)。

イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

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イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

 4月29日に書いたブログ記事では「ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました」と記した。

  その時に考えていたのは、《パリ、テキサス》(1984年)や《ベルリン・天使の詩》(1987年)を撮ったドイツのヴィム・ヴェンダース監督が、長崎で原爆を被爆した祖母と孫達との心の交流を描いた《八月の狂詩曲(ラプソディー)》をきわめて高く評価していたことである。

映画《ベルリン・天使の詩》などの詳しい記憶はすでに薄れてしまったが、ドキュメンタリー的な手法で映画のストーリイを描いていたのが印象に残っていた。

そのヴェンダース監督は、1991年に行った黒澤監督との対談で、「黒澤映画に描かれる、木々の緑の美しさと雨のシーンは圧倒的だと、常々思っていましたが、今回も、雷に打たれた2本の木のシーンやラストの雨のシーンで黒澤映画の魅力が発揮されていました。映画史を振り返っても、黒澤さんほど美しく緑と雨を撮った監督はいないんじゃないかと思います」と語っていた(『03 Tokyo calling』6月号)。

 この言葉を受けて黒澤監督は「じつは、日本もいいロケ地がどんどんなくなっていてね、(中略)たとえば、川なんかでも護岸工事やっているから、自然の川はほとんどない」と語り、さらにヴェンダース監督の《夢の果てまで》にも出演した俳優の笠智衆にも言及していた(『大系 黒澤明』講談社、第4巻、524頁)。

*    *   *

イェンドレイコ監督も映画の後半で翻訳者のスヴェトラーナ・ガイヤーが久しぶりに故郷のウクライナに帰還したときのことを詳しく描き、そこで身体の弱った祖母をいたわりつつ同行した孫の目をとおして、祖母の体験の深い意味を描いている。

 そのようなシーンの一つが、かつてガイヤーが両親と過ごしたコウノトリの飛んでくる泉のあった別荘を探そうと孫娘と故郷の村を訪れるが、見つからなかったという場面である。

 その場面からは、かつてデルスが愛した森に彼の墓を作ったが、1910年に訪れたときには開発が進んで見つけることができなかったことが描かれていた映画《デルス・ウザーラ》の冒頭のシーンが思い起こされた。

 このシーンからはヴィム・ヴェンダース監督と同じようにイェンドレイコ監督も黒澤監督から強い影響を受けていたのではないかと感じられたのである。

 

『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

はじめに

昨日の深夜に書いた映画《ドストエフスキーと愛に生きる》についてのブログ記事では次のように書いた。

〈ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました。〉

ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て

この記述だけではわかりにくいと思えるので、今回は「贖罪」という訳語についての感想を記しておきたい。

一、『罪と贖罪』という訳

翻訳者ガイヤーが長編小説『罪と罰』という題名を『罪と贖罪』と訳しているとの説明からは、衝撃に近い感銘を受けた。なぜならば、「罰」というロシア語の単語を「贖罪」と訳すことは、一見、大学でロシア語を学び始めて間もない学生でも分かるような「誤訳」のように見えるからだ。

ガイヤー訳の『罪と罰』が日本ではまだきちんと紹介されてはいないので、断言することは難しい。しかし、ヴァディム・イェンドレイコ監督は、このドキュメンタリー映画に1923年に公開されたロベルト・ウイーネ監督の映画《ラスコーリニコフ》から主人公が「斧」を探す場面を挿入することで、外国人の観客にもガイヤーの『罪と罰』理解の深さを示唆しえていた。

この場面についてガイヤーは、多くの観客はここでラスコーリニコフが殺害のための「武器」である斧を見つけ出したことに「恐怖」ではなく、主人公の気持ちに寄り添って「ほっと」したのではないかと語り、ドストエフスキーが『罪と罰』で示唆した「非凡人の理論」の危険性が、きちんと伝わっていなかった可能性を指摘しているのである。

『罪と罰』のエピローグでは自分の理論に従って殺人を犯した主人公ラスコーリニコフのシベリアでの重たい時間や「人類滅亡の悪夢」が描かれていることに留意するならば、スターリンの粛正やナチスによるユダヤ人の虐殺、さらには原爆の二度にわたる投下などが行われた第二次世界大戦を踏まえるならば、「贖罪」という訳こそが「殺人者」ラスコーリニコフの心情に寄り添うだけでなく、原作の間違った理解を避ける「適訳」だと思える。

二、小林秀雄の二つの『罪と罰』論

このことを強く感じたのは、私が自分のドストエフスキー論の集大成とも考えている『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』をなんとか脱稿して、「あとがき」の文章をこの時期に考えていたためでもあるだろう。

「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけともなるほどの影響を受けた。

しかし、小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』のムィシキンの解釈を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

たとえば、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していた〔四五〕。

この評論ががこれから日本が戦争に向かおうとしていた時期に書かれていることを考慮するならば、このような結論もやむを得なかったと思える。ラスコーリニコフが行った「正義の犯罪」をシベリアで悔いたと解釈することは、軍部に対する批判と見なされて逮捕され、拷問を受ける危険性もあったからである。

問題は戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「物語は以上で終つた。作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである。恐らく作者は、自分の事よりも、寧ろ読者の心持の方を考へてゐたかとも思はれる」と、戦前と同じような見解を小林が記していることである〔二五〇〕。

 三、小林秀雄とガイヤーの歴史認識

「『罪と罰』についてⅡ」からはそのような認識の深まりは感じられなかったが、「歴史について」という題で評論家の河上徹太郎と1979年に行った対談で、「歴史をエモーショナルに掴む、と君は言うが、歴史の『おそろしさ』を知り抜いた上での発言と解していいのだな」と河上から確認されると、小林は「まさしく、そうだよ。歴史に向かってはこれとエモーショナルに合体できる道は開けている、と僕は信じている。それは合理的な道ではない。端的に、美的な道だと言っていいのだ」と断言していた。

しかし、まだ『全集』には収録されていないようだが 1940年に「英雄を語る」と題して行った鼎談で、同人の林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問われた小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けると、この言葉を受けて林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる。天皇陛下を戴いて諸共に皆んな滅びてしまへば宣いと覚悟してゐる」と応じていた。

二人が語っていたような歴史認識が日本を無謀な戦争へと駆り立てたと思えるが、小林秀雄にはこのことの反省をしているようには見えないばかりか、「『白痴』をやってみるとね、頭ができない、トルソ(頭と手足を持たない胴体だけの彫像、編集部注)になってしまうんだな」とし、「「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ」と強調している言葉からは、ドストエフスキーのテキストをきちんと読み解こうとするのではなく、あくまで自分が創作した「物語」を守ろうとする姿勢が感じられる。

《ドストエフスキーと愛に生きる》から私が深い感銘を受けた理由の一つは、小林秀雄の『罪と罰』論とのガイヤー訳の『罪と罰』における「罪」の認識の差を実感しただけでなく、ドイツ人に戦争への反省をも迫るような『罪と贖罪』という題名の訳を翻訳者のガイヤーが提案していたばかりでなく、そのようなあまり売れそうもない重たい題名の訳書の出版に踏み切った出版社の勇気と気概を知ったためでもあった。

そこには「国家」への「奉仕」が求められる一方で、「個人」の自立が切り捨てられたナチス・ドイツへの鋭い批判が感じられ、福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論をふまえて脱原発に踏み切ったドイツと、未だに事故が収束しておらず、使用済み核燃料の問題が解決されていなにもかかわらず、政府や官僚の主導により原発の再稼働や輸出を始められようとしている日本との違いに現れているようにも感じられる。

fc2_2013-09-21_18-19-44-152(く黒澤映画《夢》「赤富士」)

(画像はブログ「みんなが知るべき情報/今日の物語」より。http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/7da039753df523c21dcd451020f1e99c …

 イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

復員兵と狂犬――映画《野良犬》と『罪と罰』

 

映画《野良犬》(脚本・黒澤明、菊島隆三)が公開されたのは、第二次世界大戦が終わってから四年後で、日本がまだ連合国の占領下にあった一九四九年のことであった。

この映画と同じ年に生まれた私がまだ子供の頃には、手足を失った傷痍軍人が路上で金銭を乞う姿がときどき見られたので、終戦後間もない混乱した時期の都市を舞台にしたこの映画からは、敗戦直後の日本の状況が直に伝わってきた。

*   *   *

 映画《野良犬》は「狂犬」のシーンで始まるが、それは日露戦争直後の一九〇六年一月に発表された夏目漱石の短編小説『趣味の遺伝』の冒頭の次のような文章を思い起こさせる。

 「陽気の所為で神も気違になる。『人を屠(ほふ)りて餓えたる犬を救へ』と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を撼(うご)かして満州の果迄響き渡った時、日人と露人ははつと応へて百里に余る一大屠場を朔北(満州)の野に開いた」。

そして漱石は、「狂った神が猛犬の群に『血を啜れ』、『肉を食(くら)へ!』と叫ぶと犬共も吠えたてて襲う」と続けていたのである。

 映画《野良犬》のシナリオで注目したいのは、満員のバスでピストルをすられた新人刑事(三船敏郎)と、そのピストルをピストル屋から買い取って次々と凶悪犯罪をかさねる遊佐(木村功)という若者の二人の復員兵が、ともに戦争から帰った日本で自分の全財産ともいえるリュックサックを盗まれていたという共通の過去を描いていることである。そのことが、二人の若者の息詰まるような対決をいっそう迫力のあるものとするとともに、混迷の時代には窮地に追い込まれた人間が、犯罪者を取り締まる刑事になる可能性だけではなく、「狂犬」のような存在にもなりうることを示していた。

 この映画の二年後に公開された映画《白痴》でも黒澤明監督は、ドストエフスキーの原作の舞台を日本に置き換えるとともに、主人公を沖縄で死刑の判決を受けるが冤罪が晴れて解放された復員兵としており、敵と見なした国を敗北させることで自国の「正義」を貫こうとする戦争の問題を復員兵の問題をとおして深く考察しようとしている。

 注目したいのは、ドストエフスキーが長編小説『白痴』の冒頭でも、思いがけず莫大な遺産を相続した二人の主人公の共通性を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした若者と、その大金で愛する女性を所有しようとした若者の二人の友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたるロシア社会の問題を浮き彫りにしていたことである。

 こうして、映画《野良犬》や映画《白痴》からはドストエフスキーの作品全体を貫く「分身」のテーマが色濃く感じられるが、そのテーマは後期の映画《影武者》(一九八〇)にも受けつがれている。

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 「分身」のテーマと方法は『白痴』だけでなく、『罪と罰』でも多用されていた。酔っぱらった娘のあとを追い回す紳士を妨げようとして途中で止め、「あんなやつらは、お互い取って食いあえばいい」と呟いた『罪と罰』のラスコーリニコフは、「狭苦しい檻」のような小部屋から抜け出して老婆を殺害する。

このようなラスコーリニコフの思想的な問題点は、現代の新自由主義的な経済理論の持ち主で、白を黒と言いくるめる狡猾な中年の弁護士ルージンや、自己の欲望を正当化して恥じない地主のスヴィドリガイロフなどとの対決をとおして、『罪と罰』では次第に暴かれていくのである。

 その意味で興味深いのは、映画《野良犬》が「それは、七月のある恐ろしく暑い日の出来事であった」という文章から始まるガリバン刷りの同名の小説をもとにして撮られていたことである(堀川弘通『評伝 黒澤明』、毎日新聞社、二〇〇〇年)。

 実は、クリミア戦争での敗戦から一〇年後の混迷の首都ペテルブルグを舞台にした長編小説『罪と罰』(一八六六)も次のような有名な文章で始まっていた。「七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮れどき、ひとりの青年が、S横丁にまた借りしている狭くるしい小部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした」(江川卓訳)。

 

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敗戦を喫して西欧の新しい思想がどっと入ってきたことで価値観が混乱したロシア社会では殺人事件も多発するようになったが、ドストエフスキーはこのような時代を背景に自分を「ナポレオン」のような「非凡人」であるとみなして、法律では罰することのできない「高利貸しの老婆」を殺害することをも正当化した『罪と罰』のラスコーリニコフの行動と苦悩を描き出していた。

  映画《野良犬》でも、ショーウインドウに飾られている服を見て、あんな美しい服を一度着てみたいと語った自分のせいで復員軍人の青年がピストル強盗まで思い詰めたことを明かした若い踊り子は、「ショーウインドウにこんな物を見せびらかしとくのが悪いのよ」と語り、若い刑事から戒められるとふて腐れて、「みんな、世の中が悪いんだわ」と言い訳していた。

 若い踊り子(淡路恵子)は、「悪い奴は、大威張りでうまいものを食べて、きれいな着物を着ているわ」とも語っているが、この言葉は一九六〇年に公開された《悪い奴ほどよく眠る》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、小國英雄、菊島隆三、橋本忍)との繋がりをよく物語っているだろう。

映画《野良犬》を公開した後のインタビューで黒澤明監督は、父親の世代と息子たちの世代との対立を描いたツルゲーネフの『父と子』について、「はじめてバザロフがニヒリストとして文学史上に登場したが、むしろ実際にはそれ以後になってニヒリストがこの社会にあらわれた」と語り、ロシアにおけるニヒリズムの問題についての深い理解を語っていた(『体系 黒澤明』第一巻、講談社、二〇〇九年)。

  こうして映画《野良犬》は、個人の自由がほとんどなかった戦前から、個人の「欲望」が限りなく刺激される社会へと激しく変貌した日本の社会情勢の中で、価値観を失った若者たちのニヒリスティックな行動を、鋭い時代考察のうえに主人公たちの行動や考え方を描き出していたドストエフスキーの『罪と罰』の深い理解を踏まえて鮮やかに映像化していたと思える。

 『罪と罰』とは異なり、この映画では追われる側の遊佐(木村功)の内面描写は少ないが、ピストルを奪われるという負い目を背負った若者の激しい苦悩や行動は、三船敏郎の名演技で浮かび上がる。さらに、ラスコーリニコフを精神的に追い詰めていくだけでなく、彼に自首を勧めて、「復活」への可能性を示唆した名判事ポルフィーリイのようなしぶい佐藤刑事の役柄を、志村喬が好演して映画を盛り上げていた。

 しかも、黒澤映画における『罪と罰』のテーマは、当時は無給でしかも将来の身分的な保証もなかったインターン制度のもとで、貧民窟に住んでいた貧しい研修医の竹内(山崎努)が、高台の豪邸に住む富豪(三船敏郎)を憎んで、彼の息子の誘拐を図るが誤ってその運転手の息子を誘拐するという事件を描いた映画《天国と地獄》(一九六三)にも現れており、黒澤のドストエフスキー作品への関心の深さが感じられる。

*   *   *

  黒澤明監督が晩年の一九九〇年に公開した映画《夢》(脚本・黒澤明)の第四話「トンネル」では、復員した将校の「私」が戻ってくると、トンネルの闇の中から突然に軍用犬だったらしいセパードが口からよだれを垂らし、眼を異様に光らせて飛び出してくるシーンが描かれている。

しかもこの狂犬は、「トンネル」から現れた死んだ兵隊たちが主人公の「私」に説得されて「トンネル」の彼方へと去ったあとでも、再び「トンネルの闇から飛び出して」来て、「すさまじい唸り声を上げて私に向って」身構えるのである。

 国民を戦争へと駆り立てた軍国主義の象徴であると思われる「狂犬」が、再び現れて主人公の復員兵を威嚇している場面で終わるこのシーンの意味はきわめてきわめて重い。

(2013年11月24日、改訂)