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《白痴》

小林秀雄の『虐げられた人々』観と黒澤明作品《愛の世界・山猫とみの話》

 

一、 《愛の世界・山猫とみの話》から《赤ひげ》へ

 戦時中の一九四三年一月に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本が主に黒澤明監督の手に成るものであったことは「ブログ」に記したが、この映画にはその後の黒澤明監督作品を予想させるような、テーマとシーンが見られた。

 ことに注目されたのは、例会発表でも指摘されたように、両親と七歳で死別して曲馬団に売られ、その後も様々な職業を転々とするなかで時には凶暴性を発揮したり、何ヶ月も口を利かずに「山猫」とみとあだ名された少女の形象には、映画《赤ひげ》で行われることになる『虐げられた人々』の少女ネリーの見事に映像化がすでになされたいたことである。

 私は映画《赤ひげ》(一九六五)におけるお粥の入った茶碗を少女おとよが壊すシーンと映画《白痴》におけるナスターシヤが花瓶を壊すシーンを比較して、心に傷を負った彼女たちの行動が見事に描き出されていることを指摘して、黒澤明監督の『虐げられた人々』と『白痴』理解の深さを指摘していた(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、九三~九八頁)。 

 つまり、ワルコフスキー公爵の実の娘でありながら、母親を捨てて死に追いやった父親の援助を拒んで幼くしてなくなった少女ネリーの人物造形は、火事で孤児になった後で無理矢理に「貴族」トーツキーの妾とされていたが、莫大な持参金を拒んで自立しようとして苦しんだ長編小説『白痴』のナスターシヤ像の先駆的な役割を担っていると思われるのである。

 映画《赤ひげ》は一九五一年に公開された映画《白痴》から、はるか後年に撮られていることもあり、黒澤明監督の『虐げられた人々』の理解が深まったのは、映画《白痴》を撮った後であるという解釈も可能であった。しかし、映画《愛の世界・山猫とみの話》が一九四三年一月に公開されていたことは、映画《白痴》を撮ることになる黒澤明監督が、すでにこの時点で『虐げられた人々』のネリー像の重要性を理解していたことを強く示唆していると思われる。

 この点に留意するとき、なぜ映画《白痴》の後で撮られた映画《生きる》(一九五二)では余生がわずかなことを知った主人公の前に、メフィストフェレスを自称する作家が犬を連れて現れることが描かれているのかも理解できる。

二、『虐げられた人々』の構成と粗筋

 四部とエピローグからなる本格的な長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でも、語り手である主人公のイワンがみすぼらしい老人とその老犬の死に立ち会うという印象的な場面から始まり、その孫娘ネリーの出生の謎をめぐって物語が展開されているのである。

 映画《愛の世界》や《赤ひげ》の理解にも関わるので、あまり知られていない『虐げられた人々』の粗筋をまず簡単に紹介しておきたい。

 この長編小説では少女ネリーをめぐる出来事と孤児となったイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる物語が並行的に描かれて行くが、物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ネリーの父ワルコフスキー公爵の詐欺的な言動によるものであることがはっきりしてくる。

 すなわち、ネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていたのである。

 一方、一五〇人の農奴を持つ地主で主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も、九〇〇人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきて、イフメーネフ家を訪れて懇意になると自分の領地の管理を依頼し、さらに五年後には新たな領地の購入とその村の管理をも任せたことから始まる。

 積極的にイフメーネフに近付いて、自分の領地の管理を任せてその能力に満足したと語っていた公爵は、後に自分の領地の購入に際してイフメーネフが購入代金をごまかしたという訴訟を起こし、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだ。そのために、裁判に敗けて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのである。

 こうして、少女ネリーの悲劇が描かれている長編小説『虐げられた人々』は、クリミア戦争敗戦後のロシアを揺るがせていた二つの大きな問題、農奴制の廃止と資本主義の導入の問題点を浮き彫りにして、混沌とした時代の雰囲気や「大改革」の時代の課題を描き出していたといえるだろう。

 

 

三、映画《愛の世界・山猫とみの話》における「鬱蒼とした森」の描写

 長編小説『虐げられた人々』が連載された雑誌『時代』は、農奴制の廃止や言論の自由を求めたために捕らえられて死刑の判決を受けた後でシベリア流刑へと減刑されていたドストエフスキーが、刑期を終えて首都に帰還してから兄ミハイルとともに創刊した雑誌である。

 クリミア戦争の敗戦により農奴制の問題が認識されて、農奴解放などが行われた「大改革」の時代に首都に戻ったドストエフスキーは、「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」とし、「欧化」でも「国粋」でもない、第三の道として「大地主義」の理念を掲げるとともに、文盲に近い状態におかれていた「農民」に対する教育の重要性とともに、「知識人」が「農民の英知」を学ぶ必要性も唱えていた。

 そのような「農民の英知」の一つは、「森や泉」に深い敬意を払う民衆の自然観だろう。たとえば、木下豊房氏は『貧しき人々』や『虐げられた人々』、さらに『百姓マレイ』などにも言及しつつドストエフスキー家の領地であったダロヴォーエの森について書いたエッセー「フェージャの森」で、「都会の作家といわれるドストエフスキーの深奥には、実は豊かなロシアの自然と大地(土壌)が横たわっている」と指摘している(『ドストエフスキー その対話的世界』、成文社、二〇〇二年、二九七~三〇〇頁)。

 さらに、論文「思い出は人間を救う――ドストエフスキー文学における子供時代の思い出の意味について」(『ドストエーフスキイ広場』、第一六号、二〇〇七年)では、具体的に『虐げられた人々』の文章にも言及しているので、《愛の世界》との関わりを具体的に示すためにも、まずはその文章を引用しておく。

 「ニコライ・セルゲーヴィチ(引用者注――イフメーネフのこと)が管理人であったワシリエフスコエ村の庭園や公園は何と素晴らしかったことか。私とナターシャはこの庭園へよく散歩にでかけたものだった。庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森があって、私たち二人の子供は一度、道に迷ってしまったことがあった……美しい黄金時代! 人生がはじめて、秘密めいて、誘惑にみちた姿で現れ、それを知ることは、何とも甘美であった」。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》から強い印象を受けた場面の一つは、少女救護院で自分をいじめた園児と激しい喧嘩をして脱走して、最初は歌を歌いながら自然の美しさに見とれ、自由を謳歌していた少女とみを描いた後で、次第に暗くなってくると道に迷って森から出られなくなったとみにとっては森が巨大な妖怪の住む無気味な世界へと一変したことが描かれていることである。

 この美しい森から無気味な森への変化は、自然の変化を深く理解して見事な道案内人の役を果たしたデルスが、眼を悪くしたあとでは自然を恐れるようになったことが描かれている映画《デルス・ウザーラ》をも思い起こさせる。

 しかも、畑仕事が厭で怠けていた少女とみは、映画の最後では畑仕事に喜んで従事している場面が描かれているが、それは文部大臣によって京都帝国大学の憲法学者滝川教授が罷免された事件を題材にして、敗戦直後の一九四六年に公開された映画《わが青春に悔なし》(脚本・久板栄二郎、黒澤明)のシーンを思い起こさせる。この映画でも父の教え子でジャーナリストになっていた野毛を敬愛して彼の元に走って同棲生活を送るようになった娘の幸枝が、野毛がスパイ容疑で逮捕され獄中で死亡した後では、野毛の実家へと行って彼の母親(杉村春子)を手伝って黙々と大地を耕すシーンがドキュメンタリー的な手法で描かれていたのである。

 農民を指導して野武士の群盗たちと戦い百姓たちを守った七人の侍の雄々しい戦いが描かれている映画《七人の侍》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)の最後のシーンでも、戦いに勝ったあとで百姓たちが行っていた田植えの場面がクローズアップされていた。そして「いや……勝ったのは……あの百姓たちだ……俺たちではない」と語った指導者の勘兵衛は、さらに「侍はな……この風のように、この大地の上を吹き捲って通り過ぎるだけだ……土は……何時までも残る……あの百姓たちも土と一緒に何時までも生きる!」と続けているのである(『全集 黒澤明』第四巻、九五頁)。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》は「国策映画」として製作されたために、表現は制限されてはいるが、ここには一九五四年に公開された映画《七人の侍》に見られるような黒澤明監督の「大地主義」への深い理解がすでに現れているように思われる。

 

四、小林秀雄の『虐げられた人々』理解と映画《赤ひげ》

 『虐げられた人々』においては「庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森」があったことが描かれていたが、「大地主義」の時期の代表的な作品である『罪と罰』では、本編におけるペテルブルグの「壮麗な眺望の謎」に対応するように、シベリアにおける「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎も読者の前に呈示されていた。

  映画《夢》の分析において詳しく考察することになるが、この「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎を理解したことが、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの精神的な「復活」へとつながることが『罪と罰』では示唆されている。

  しかし、今もドストエフスキー論の「大家」と見なされている文芸評論家の小林秀雄は一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、『罪と罰』の「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いて、ラスコーリニコフの「復活」を否定していた(『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、五三頁。引用に際しては、旧漢字は新し漢字になおした)。

 このような小林秀雄の理解には、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、ニーチェとともにドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定したシェストフからの強い影響があるだろう(拙著、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、二〇〇二年、一二六頁参照)。

  しかも、ドストエフスキー自身は『虐げられた人々』について、後に次のような厳しい評価を下していた。

 「『虐げられし人々』の時もさうだつた。雑誌には是非長篇が要る。何を置いても成功させねばならぬ。そこで僕は四部から成る長篇を一つ提供したわけだ。プランはずつと前から出来てゐるから、わけなく書けるし、第一部はもう書き上げてあるなどと言つて兄を安心させてゐたが、みんな出鱈目だつた。僕は金が欲しくて働いたのだ。僕の小説中に動いてゐるのは人形であつて、生き物ではない」。

 『地下室の手記』によって前期と後期のドストエフスキー作品との間に深い断層を見たシェストフの見解を受け入れていた小林秀雄は、「ドストエフスキイの生活」で作家自身の言葉を引用することで、『地下室の手記』以前に書かれた『虐げられた人々』も失敗作とみなした。その一方で、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定した作家と見なした小林は、『白痴』論では「たゞ確かなのはこの時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、ナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定したのである(「『白痴』についてⅠ」)。

 たしかに、急いで書いたこともあり、主人公のイワンをはじめ多くの人物造形がそれほど成功裏に描かれているとは言えないだろう。しかし、ドストエフスキーは謙遜的に記してはいるものの、この小説では幼いながらも高い誇りを持った虐げられた少女ネリーの形象がきわめていきいきと描かれていたばかりでなく、大地主の横暴さや法律の問題など当時の問題を浮き彫りにしており、ここで提起された多くの問題は『罪と罰』以降の長編小説で深められており、ことに『白痴』では誇り高い少女ネリーとナスターシヤの間にはあきらかな連続性が認められるのである。

 しかし、映画《白痴》が一九五一年に公開された翌年の一九五二年から「『白痴』についてⅡ」を書き続けた小林は、長い間中断した後で一九六四年に付け加えた第九章では長編小説の結末について次のように記した。

 「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」。そして小林は、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである」と続けていたのである(傍線引用者、三三九~三四〇頁)。

 このような小林の断定的な解釈について、私はエッセー「『不注意な読者』をめぐって」で、この時小林秀雄が強く意識していたのは、名指しをしてはいないが、映画《白痴》で病んだナスターシヤを看護しようとしたムィシキンに光をあてながら長編小説『白痴』の映画化をしていた黒澤明監督である可能性が高いという仮説を記した(『ドストエーフスキイ広場』、第二二号)。

 誌面の都合上、詳しい理由を記すことはできなかったが、私が注目したのは映画《白痴》を撮った黒澤明監督による映画《赤ひげ》の制作開始記念パーティが一九六三年一〇月六日に行われていたことである(『大系 黒澤明』第四巻、八二〇頁)。

 様々な事情のために映画《赤ひげ》の撮影は大幅に延びて、公開は一九六五年四月三日になったが、『虐げられた人々』の少女ネリーの形象が採り入れられているばかりでなく、精神的な医師としてのムィシキンの精神を受けついでいるとも思える医師「赤ひげ」とその若い弟子を主人公にした映画のことは、小林秀雄の耳にも入っていたと思える。

 自分の『白痴』論を真っ向から否定するような映画《白痴》を撮った黒澤明監督による新しい映画の公開が、自分のドストエフスキー論の土台を覆す危険性を含んでいることを敏感に感じた小林秀雄が、「不注意な読者」を批判する断定的な文章を加えて、急遽『白痴について』(角川書店、一九六四年)を上梓したのではないかと私は考えている。

 小林秀雄の『白痴について』を批判する評論を黒澤明監督は書いてはいない。しかし、一九七五年にロシアで撮った映画《デルス・ウザーラ》が日本で公開された後で、若者たちと行った座談会で黒澤明監督は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語っているのである(黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、二八八頁)。

 このような発言にはロシアで映画を撮ることになったことで、黒澤映画《白痴》をきわめて高く評価するとともに、自分でも映画《罪と罰》(一九六九年)を撮っていたクリジャーノフ監督などととの会話をとおして、自分の『白痴』理解の正しさと「大地主義」の時期の重要さを再確認したためと思われる。

 ただ、それはすでに新しいテーマなので稿を改めて書くことにしたい。

 

 (本稿は『黒澤明と小林秀雄――長編小説『罪と罰』で映画《夢》を読み解く』と題して来年の三月に発行する予定の著作の第四章〈映画《赤ひげ》から《デルス・ウザーラ》へ――黒澤明監督と「大地主義」〉(仮題)に収録する予定である)。

映画《白痴》から映画《生きる》へ

リンク「映画・演劇評」タイトル一覧Ⅱ

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(映画《生きる》の「ポスター」、製作:Toho (c) 1952。図版は「ウィキペディア」による)

 

映画《生きる》とイッポリートの可能性

長編小説『白痴』において重要な役割を果たしているイッポリートについてのエピソードは映画《白痴》ではまったく描かれてはいない。しかし、その翌年に公開された映画《生きる》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)について、黒澤は「しみじみと感情を堪えて」というエッセーでこう書いている。

 「ぼくはときどき、ふっと自分が死ぬ場合のことを考える。すると、これではとても死に切れないと思って、いても立ってもいられなくなる。もっと生きているうちにしなければならないことが沢山ある。僕はまだ少ししか生きていない。こんな気がして胸が痛くなる。《生きる》という作品は、そういう僕の実感が土台になっている。この映画の主人公は死に直面してはじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかったのである」。

 このような黒澤の言葉に注意を払うならば、体調を壊して病院に行ったことで隣り合わせた人物から胃癌の詳しい症状を聞かされ、自分の余命がほとんどないことを知って、「死刑の宣告」を受けたように苦しむ定年退職前の市民課の課長・渡辺の苦悩と、新しい生きがいを見つけた喜びをモノクロのトーンでしっくりと描いた映画《生きる》は、長編小説『白痴』におけるイッポリートのテーマを受け継いでいると思える。

 実際、子供のためだけに三〇年も務めてきた自分の人生を振り返って自暴自棄になり、やけ酒を飲んでは無断欠勤を繰り返すようになった渡辺は、飲み屋で知り合った小説家から、「人間、生きることに貪欲にならなくちゃ駄目です」と説得されて、ダンス・ホールやストリップ劇場などを案内されたが、いっこうに癒されずに深い絶望感を味わう。

 しかし、自宅へと朝帰りをする途中で、市役所を辞職したいので急いで判がほしいという若い部下のとよと出会い、自宅で書類に判を押した渡辺は、市役所が退屈だったと語る部下が、自分にも密かに「ミイラ」というあだ名を付けていたことを知って思わず久しぶりの笑いを浮かべた。そして、イッポリートが美しく生命力にあふれたアグラーヤに密かに強い関心を抱いていたように、とよの生き生きとした姿に強く惹かれた渡辺も彼女を映画館や食事に誘うようになる。

 自分との付き合いにしか喜びを見いだせない渡辺にとよは、自分が工場で作っているウサギのおもちゃを喫茶店で渡して「何か作ってみたら」と諭した。するとしばらくそれを手にとって見つめていた主人公は、不意に「やる気になればできる」とつぶやき、おもちゃを手にとって急いで階段をおり始める。その時に、退出する男の後を追うように、若者たちの陽気なハッピー・バースデイの合唱が始まり、階段を登ってくる若い乙女とすれ違うのである。

 この場面で響く乙女の誕生日を祝う若者たちの陽気な歌声は、それまで市役所での仕事を嫌々こなしてきた「ミイラ」のような初老の男が、あたかも「復活」して真に生き始めるのを祝福する歌のように感じられるのである。前年度に撮られた《白痴》における前半の山場が、精神的な復活を計ろうとしていた妙子(ナスターシヤ)の誕生祝いだったことを思い起こすならば、続けて撮られた二つの映画の類似性は明らかだろう。

 しかも、《生きる》の後半では、葬儀の会葬者たちの会話をとおして、亡くなった市役所の課長が「胃癌と闘いながら」、市民たちの強い願いでありながら官僚的なたらい回しにあっていた公園の建設に邁進して、それを成し遂げていたことが明らかになってくる。

 警官の証言では公園で行き倒れのように亡くなっていたと思われていた男が、雪の降る公園で「命短し、恋せよ乙女」という歌をブランコにのって、しみじみと満足そうに歌っていたことが明らかになる。すると通夜の席で課員たちは次々と「僕も生まれ変わったつもりで」などと語り、改革への意欲が盛り上がったのだった。

 しばらくするとその時の興奮と感激を忘れたかのように職員たちが再び惰性に流された仕事ぶりに戻っていく。課長の遺志を継ごうとしながらもそのような職場にむなしさを感じていた一人の職員が、渡辺の行動で実現した公園に行く。そこで楽しげに遊ぶ子供たちの姿を見つけて、彼が渡辺のしたことの意義を感じるところで映画は終わるのである。

 こうして、なかなか「他者」からは理解されなかった主人公の行動の描写や、部下たちの「記憶」が重ね合わされることで、生前の渡辺の意義が浮かび上がってくるという映画《生きる》の構造は、映画《白痴》のエピローグにおける薫と綾子の「記憶」をめぐる会話を強く思い起こさせる。

 このように見てくるとき、映画《生きる》において黒澤が描いたのはイッポリートが望みながら死期を告げられたことで断念してしまった「他者を変え、そして生かす思想」の実現であるといっても過言ではないと言えるだろう。

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、272~275頁より。なお、前の文章との関連を示すために言葉を補い文体を少し直した他、注は省略した)。

『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》 ――ソーニャからナウシカへ

  はじめに

前回の「映画・演劇評」では、当時のソヴィエトの検閲の厳しさに注意を促しながら、このような時代に撮られたレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》の素晴らしさを指摘した。 ただ、エピローグで主人公のラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」などの夢の描写が行われなかったこともあり、原作の『罪と罰』で描かれている深みが出ていないとの不満も残っていた。

そのためもあったのだろうが、初めて《風の谷のナウシカ》で「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」と科学文明の終焉が描かれているのを見たときには、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると感じた。

  1,「大地との絆」

核ミサイルが発射されて全世界が壊滅状態になった後の世界を描いた作品には、フランクリン・J・シャフナー監督の《猿の惑星》(1968年)や、ジェームズ・キャメロン監督の《ターミネター》Ⅰ・Ⅱ(1984年、1991年)などがある。

《風の谷のナウシカ》の場面でことに『罪と罰』との関わりを感じたのは、核戦争後に発生した「腐海の森」から発生する有毒ガスで、生き残った人々の生存も危うくなる中で、「土壌の汚れ」の原因を突き止めようとするナウシカの出現を予言する次のような言葉が語られていたからである。

「その者青き衣(ころも)を/ まといて金色(こんじき)の野に/ おりたつべし」/ /「失われた大地との/ 絆(きずな)を結ばん」

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

一方、『罪と罰』においてドストエフスキーは、戦争で敵を殺しても罪に問われないように、自分も「悪人」を殺しただけだと考えていたラスコーリニコフにたいしてソーニャに次のように語らせていた。 「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

よく知られているように、後にレイチェル・カーソンは名著『沈黙の春』において、「害虫」を殺虫剤によって抹殺しようとした人間の行為が「土壌の世界」を汚染し、植物だけでなく、食物連鎖により鳥や野生動物、さらには人間にもより深刻な被害を生み出したことを明らかにしている。 家族を養うために売春をしていたソーニャは、一見、か弱いだけの女性のようにも見えるが、先の言葉に注目するならば、ソーニャの素朴な考えは、カーソンの思想を先取りしていたともいえるだろう。実際、ソーニャという愛称はギリシア語で「英知」を意味するソフィアという名前から作られており、このことはドストエフスキーが彼女を民衆的な英知を持つ女性として描いていたことを示唆していると思える。

この点で興味深いのはドストエフスキーが若い頃参加していたサークルに、後に「ロシア植物学の父」と呼ばれるようになるアンドレイ・ベケートフがおり、彼は『罪と罰』が発表されることになる『ロシア通報』に、「ヨーロッパ・ロシアの気候」(1858)という論文を発表して、現在の環境問題を先取りするような指摘をし、さらには「弱肉強食の思想」の危険性を明らかにする「生態学」的な思想をもすでに表明していたことである。(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、「第10章 他者としての自然――生命の輝き」参照)。

2,ナウシカの怒りとラスコーリニコフ

ソーニャとナウシカの類似性を指摘するだけで『罪と罰』と《風の谷のナウシカ》との内的な関連を強調することに我無理があるが、ラスコーリニコフとナウシカの類似性も加えることで説得力が増すだろう。

《風の谷のナウシカ》の冒頭では、巨大な「王蟲」に襲われる騎士を救い、さらに騎士のつれていたキツネリスに噛まれた際にも、その小動物の不安を察知して怒らなかったナウシカの優しさが描かれている。

そのことで、墜落する飛行機に捕虜として囚われていた小国ペジテの王女ラステルに対する残虐な体刑の痕を見付け、さらに急襲してきたトルメキア帝国の兵士によって父親が殺害されたことを知って怒りのあまり敵兵を斬すシーンでのナウシカの激しい怒りと悲しみが浮かび上がる。

このシーンが冒頭で描かれることで、ラステルの兄アスベルや、自分の国を滅ぼされた小国ペジテの人々に復讐をやめるように必死に呼びかけるナウシカの言葉に説得力が生まれるのである。

一方、高利をむさぼる高利貸しの老婆を「憎しみ」から殺害する『罪と罰』のラスコーリニコフにはこのような行動は見られない。しかし、ドストエフスキーは彼が自己中心的な若者ではなく、在学中には貧しい肺病患者の学友を助けたことや火事の際には自分が火傷をおいながらも二人の子供を助けたことをエピローグの裁判の場面で明かしている。 。

3.「やせ馬が殺される夢」と「王蟲」の子供が殺される夢

ことに注目したいのは、『罪と罰』ではラスコーリニコフが「高利貸しの老婆」を殺す前に見た夢で、子供の頃に酔っぱらいの馭者が力まかせにやせ馬を鞭うっているのを見て、やせ馬に駆け寄って守ろうとしたシーンを見ることが描かれていることである。

《風の谷のナウシカ》でもナウシカが夢の中で、子供の頃に「王蟲」の子供が殺されそうになっているのを見て「殺さないで」と叫ぶのを再び見るシーンが描かれており、それはナウシカが自分の危険もかえりみずに傷ついた「王蟲」の子供を守るという《風の谷のナウシカ》の感動的なラストシーンへと直結しているのである。 この二つの夢の類似性は単なる偶然かもしれない。

しかし、宮崎監督が尊敬していた漫画家の手塚治虫は『罪と罰』を「常時学校へも携えていき、ついに三十数回読み返してしまった」と記していた(『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、二〇〇八年)。

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

宮崎監督も「ドストエフスキーの『罪と罰』は正座するような気持ちで読みました」と書いていた。

『本への扉』

(図版は「アマゾン」より)

 さらに、宮崎が対談した黒澤明監督もドストエフスキーの長編小説『白痴』を映画化した《白痴》を撮っていたばかりでなく、その他の映画からもドストエフスキー作品への深い理解が感じられる。それらのことにも留意するならば、ナウシカが見る「王蟲」の子供が殺される夢には、ラスコーリニコフが見た「やせ馬が殺される夢」が反映されているといえるかもしれない。  

おわりに

本稿では、漫画『風の谷のナウシカ』(『アニメージュ』徳間書店、1982年2月号~1994年3月号)は考察の対象からははずした。 アニメ映画が公開された後も書き続けられ、SF的な手法でテレパシーや念動力、幽体離脱などが描かれ、不安や絶望などの感情が込められている結論が書かれたこの漫画の世界には、ソヴィエトの崩壊からユーゴスラヴィアの悲惨な内戦に到る時期の混乱が強く反映していると考えるからである。

人間の社会や人間と自然の関係は、《もののけ姫》(1997)でより深く考察されていると思えるので、この問題については稿を改めて考えたい。

(2013年9月18日改訂、2019年1月4日加筆)

映画《赤ひげ》と映画《白痴》――黒澤明監督のドストエフスキー観

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(図像は、facebookより引用)(拙著の書影は「成文社」より)

 

一九世紀の混迷したロシアで展開された物語を、第二次世界大戦の終戦直後の混乱した日本に大胆に置き換えた黒澤明監督の映画《白痴》(一九五一年)は、上映時間をほぼ半分に短縮されたこともあり、日本では多くの評論家から「失敗作」と見なされた。

しかし、黒澤自身は「僕はこれをやったことで大きな勉強をさせて貰った、といった気持ですね。一般的な評価は、失敗作だということになってるけれど僕はそう思わないんだ。少なくともその後の作品で内面的な深みをもった素材をこなしていく上で、非常にプラスになったのじゃないかな」(『THE KUROSAWA 黒澤明全作品集』、東宝株式会社事業部出版事業室、一九八五年)と語っていた。

たとえば、山本周五郎原作の『赤ひげ診療譚』を原作とした映画《赤ひげ》(一九六五年)で二木てるみが演じた少女おとよの役について黒澤は、「あの話は原作にはなかったが、書いているうちにドストエフスキーの『虐げられた人々』を思い出し、その中のネリにあたる役を、しいたげられた人々のイメージとして入れた」と語っているが、それは映画『白痴』における妙子(ナスターシャ)の役など多くのドストエフスキー作品にも通じるだろう。

すなわち、蜆売りの母親が行き倒れて葬式を出してもらったために娼家で働くことになったが、体を売ることを拒んだために激しく折檻され、高熱を出しながらも必死に床のぞうきんがけをしていた一二歳くらいの少女おとよを見た主人公の「赤ひげ」は、力ずくでおとよを養生院に引き取った際に、「なんのために、こんな子供がこんなに苦しまなくちゃならないのだ。この子は体も病んでいるが、心はもっと病んでいる。火傷のようにただれているんだ」と若い医師の保本登に語るのである。

実際、必死に看病をする保本にも一言も口をきこうとはしなかったおとよは、保本から差し出されたお粥の茶碗を邪険にはねのけて、茶碗を壊してしまうのである。この描写は妙子(ナスターシャ)の「誕生日のお祝い」の場面で高価な花瓶を壊した亀田(ムイシュキン)のことを東畑(トーツキイ)が厳しく批判すると、妙子がこんなものは私も壊そうと思っていたといって、対になっていたもう一つの花瓶をも壊すというシーンを思い起こさせる。

『白痴』の原作では花瓶を壊すシーンは、後半の大きなクライマックスの場面であるアグラーヤとの婚約発表の場で描かれているのだが、黒澤はこの場面を前半の山場に移すことによって心ならずも愛人とされていた妙子の東畑に対する反発と自暴自棄な心理状態をも見事に表現していたのである。

さらに、黒澤は映画《白痴》において主人公をムイシュキンとドストエフスキーとを重ね合わせた人物として描き出していた。すなわち、沖縄戦の後で戦犯として死刑の宣告を受けたが、銃殺寸前に嫌疑が晴れて刑は取りやめになったという体験をしていた亀田は、綾子(アグラーヤ)からその時の気持ちを尋ねられると、もし生き延びることができたら、「その一つ一つの時間を……ただ感謝の心で一杯にして生きよう……ただ親切にやさしく……そういう思いで胸が破けそうでした」と語っていたのである。

実は、捕虜を殺害していなかったのに戦犯として処刑された日本兵を主人公とした《私は貝になりたい》が現在ヒットしているが、この脚本を書いた橋本忍は、黒澤の映画《『羅生門》や《生きる》《七人の侍》などにも脚本家として参加していたのである。しかも保坂正康が「解説」で書いているように、「BC級戦犯裁判」では「上官が命令したことを認めないで部下に責任を押しつけ」るなどすることもあったために、「無実でありながら絞首刑」になった者も多くいた(朝日文庫)。

この意味で注目したいのは、妙子に「あなたと同じ眼つきを何処かで見たと思った」が、それは彼と「一緒に死刑台に立たされ」、先に銃殺された若い兵士の眼つきだったと語った亀田が、「あなたは、一人で苦しみすぎたんです。もう、苦痛がないと不安なほど……。あなたは病人です」と続けていることである。

このセリフや綾子(アグラーヤ)が、亀田を一見「滑稽」に見えるが、「一番大切な知恵にかけては、世間の人たちの誰よりも、ずっと優れて」いる人物と見なしていたことに注目するならば、黒澤はここで亀田を失敗には帰したが、必死で妙子を治癒しようとした者として描いているように思える。

なぜならば、『白痴』においてはムイシュキンを治療したスイスの医師シュネイデルばかりでなく、クリミア戦争のセヴァストーポリ激戦で負傷兵の治療に活躍した外科医のピロゴーフ、さらにはイポリートがその「弁明」で触れているその分け隔てない対応によって強い印象を残した監獄病院の医師のガーズなど、「治療者のテーマ」は大きな位置を占めていたのである。

ただ、《白痴》においてはこのテーマは示唆されるだけにとどまっていたが、《赤ひげ》では壊した茶碗の代わりを買うために、おとよが養生所から密かに抜け出して乞食をして稼ぐというシーンや、おとよを引き戻しに来た娼家の女性を養生所の賄いの女性たちがみんなで追い返すシーンなどをとおして、温かい看病に心身を癒されたおとよが、たくましく成長を始めることが描かれている。

一方、原作の『白痴』と同じように映画においても、赤間(ロゴージン)によって妙子は殺害され、その死を知った亀田が赤間とともに見守り、再び「白痴」に戻ってしまうという悲惨な結末が描かれている。しかし、黒澤はラストのシーンで亀田を見舞った薫(コーリャ)に、「僕……あの人がとてもいい人だったって事だけ覚えていくんだ」と語らせ、それを聞いた綾子も「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語らせている。

記憶をテーマとした二人の会話は、『カラマーゾフの兄弟』の結末での亡くなったイリューシャの石の前でのアリョーシャとコーリャたちの会話をも彷彿とさせ、映画《白痴》がドストエフスキーの全作品をも視野に入れていることが感じられるのである。

さらに、一九五四年に水素爆弾の実験によって日本の漁船が被爆した「第五福竜丸事件」がおきると、「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだとして、映画《生きものの記録》(一九五五年)を製作していた黒澤は、晩年のオムニバス形式の映画《夢》(一九九〇年)でも原爆の問題を取り上げていた。

そして、その翌年に封切られた《八月の狂詩曲(ラプソディー)》では、夏休みに長崎を訪れた孫たちの目をとおして、原爆によって夫を失った祖母の悲しみを伝えている。ことに、原爆のキノコ雲に人間を「見つめる目」を感じていた祖母が、その雲に似た雨雲を見たことで、再びその日の恐怖を思い出して走り出すという最後のシーンからは、ドストエフスキーがムイシュキンをとおして考察した「殺すこと」の問題が、現代に引き寄せられた形でより根源的に考察されていることが感じられるのである。

(『ドストエーフスキイ広場』第一八号、二〇〇九年)

 

(本稿はエッセー〈「虐げられた女性」への眼差し――黒澤明監督の映画『白痴』をめぐって〉を改題したものである。なお、長編小説と区別するために映画の題名は《》内に記した)。(2017年5月7日、図版を追加)