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《八月の狂詩曲(ラプソディー)》

映画《この子を残して》と映画《夢》

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(長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

 

映画《この子を残して》と映画《夢》

 映画《生きものの記録》が「第五福竜丸」事件を契機に製作されたことについてはすでにふれたが、その約二ヵ月前には「原子力潜水艦ノーチラス号」の進水が行われており、間もなくソ連でもそれに対抗するために「原子力潜水艦Kー19」の製造に成功するなど、「核技術」の戦争兵器への応用が各国において進められた。

 こうして、多くの科学者が「国益」の名のもとにその開発に従事するようになり、一九六二年のキューバ危機では地球が破滅するような核戦争が勃発する危機の寸前にまでいたることになる。

 さらに、一九七九年には「原子力の平和利用」というスローガンのもとに建設されたスリーマイル島の原発で大事故が起き、核兵器と同じ原理で成立している原子炉の危険性が再びクローズアップされることとなった。

 木下恵介監督が長崎で原爆に遭った自分たち家族のことを描いた医師・永井隆の『この子を残して』の映画化を決意するのは、このような時代の流れとも深く関連しているだろう。

 注目したいのは、この時は黒澤監督が「原爆映画は、被爆者以外には他人ごとだ、客なんか来やしない」と映画化の企画に反対していたことである(1)。この言葉からは《生きものの記録》の失敗が骨身にこたえていたばかりでなく、そのような映画をとおして「現実」をきちんとみつめようともしない「観客」に対する強い不信感も感じられる。

 しかし、一九八三年に公開された映画《この子を残して》(脚本・木下恵介、山田太一)は、原寸の三分の二の縮尺で浦上天主堂を建て直し、町並みも忠実に再現した大オープンセットで映画を撮影することにより、失われたものの大きさと悲しみを映像をとおして視覚的に描き出すことに成功している(2)。しかも、広島に原爆が落とされたという噂が入ってくるようになった終戦直前の八月七日の日常的な生活から描くことで、市民の生命と平和な生活が一瞬にして奪われることの悲惨さを明らかにしている。

 この映画ではさまざまな人々の悲しみが描かれているが、ことに自分の娘(十朱幸代)の死を孫たちに告げることをためらっていた祖母のツモ(淡島千景)が、孫の誠一とともに被爆地で娘の骨を拾う場面からは、深い悲しみが伝わってくる。

 *   *   *

  実は、『長崎の鐘』や『この子を残して』書いた医師の永井隆氏が、自らも被爆しながらも病人を献身的に治療していたことは以前から知っていた。

 それらの著作を私が読んでいなかったのは、「神は戦争を終結させるため、あなた方の命を犠牲として求められたのです」と語ったという言葉をどこかで読んで、戦争の問題を「神」のせいにすることはおかしいと強い反発を感じたためだと思える。

 しかし、木下恵介監督の映画《この子を残して》は、永井隆という医師の内面にも深く関わるこの問題にも迫りえていた。すなわち、合同慰霊祭の時に信者代表として永井隆が先の文章を弔辞で読むと、信者たちから「異議あり!」との鋭い怒りの声が飛ぶ場面が描かれていた。

 しかも、このテーマはそこで終わったのではなく、映画の終わり近くで孫・誠一の教育のことで隆と義母のツモが言い争う場面と密接につながり、言いたいことがもう一つあると続けたツモは、すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪であると語って、合同慰霊祭の時の隆の弔辞を批判するのである。

 娘の緑だけでなく多くの近親者を失っていた祖母ツモの戦争責任に関する発言は重く、それは戦争を推進していた高級軍人や政治家だけでなく、威勢のよい発言で国民を戦争へと駆り立てる一方、敗戦後のことには責任を持とうとしなかった林房雄や小林秀雄などの「知識人」にも関わるだろう(3)。

 *   *   *

  拙著では「盟友・木下監督がこの映画を公開したことが、黒澤監督に映画《夢》だけでなく、その翌年に封切られた映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》(原作・村田喜代子『鍋の中』、脚本・黒澤明)》の製作を決意させたようにも思える」と書き、長崎の被爆をテーマとした映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》の内容を簡単に紹介していた。

 なぜならば、この映画でも夏休みに長崎を訪れた孫たちの眼をとおして、原爆によって夫を失った祖母の深い悲しみと怒りがたんたんと描かれていたからである。

 ただ、「すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪である」と語ったツモの重たい言葉は、富士山に建てられた原発が事故で爆発するシーンが描かれている映画《夢》の子供を連れた母親の批判と深く結びついていると思える。

 「放射能は目に見えないから危険だと言って、放射性物質の着色技術を開発したってどうにもならない、知らずに殺されるか、知ってて殺されるか、それだけだ」と続けた原発の関係者の男は、「ぐじぐじ殺されるより、一思いに死ぬ方がいいよ」と結んだ。

 すると幼い子供たちを連れた母親は、次のように鋭く政治家や官僚などの責任を問い質していたのである。

 「でもね、原発は安全だ! 危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はない、絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした奴等は、ゆるせない! あいつら、みんな縛り首にしなくちゃ、死んでも死に切れないよ!」。

 *   *   *

  映画《この子を残して》が過去の記録というだけでなく、現代にも訴える力を持っているのは、映画の後半で成人して記者となりベトナムや中東の戦争の報道にも携わるようになった息子・誠一(山口崇)の視点から、進駐軍の厳しい検閲にも関わらず、病気で寝込むようになりながらも次々と原爆についての記録を書き残した医師・永井隆(加藤剛)の記憶が描かれているためであると思える。

 この映画のラストシーンでは、『長崎の鐘』がようやく出版された後で父が亡くなったという息子・誠一の言葉が語られる。

 その直後に、柱時計を指さしながら戦争を二度と起こしてはならないと告げた父の姿に被さるように、八月九日一一時二分に投下された原爆により浦上天主堂や町が被爆する映像が流され、「ちちをかえせ、ははをかえせ、としよりをかえせ、こどもをかえせ」という言葉で始まる峠三吉の詩とともに被爆後の人々の苦しみが実写も含めた映像が流され、圧倒的な説得力で観客に迫ってくる。

 

*1 横堀幸司、『木下恵介の遺言』朝日新聞社、2000年、203頁。

*2 木下恵介、DVD《この子を残して》、松竹、2013年。

*3 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

 

イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

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イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

 4月29日に書いたブログ記事では「ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました」と記した。

  その時に考えていたのは、《パリ、テキサス》(1984年)や《ベルリン・天使の詩》(1987年)を撮ったドイツのヴィム・ヴェンダース監督が、長崎で原爆を被爆した祖母と孫達との心の交流を描いた《八月の狂詩曲(ラプソディー)》をきわめて高く評価していたことである。

映画《ベルリン・天使の詩》などの詳しい記憶はすでに薄れてしまったが、ドキュメンタリー的な手法で映画のストーリイを描いていたのが印象に残っていた。

そのヴェンダース監督は、1991年に行った黒澤監督との対談で、「黒澤映画に描かれる、木々の緑の美しさと雨のシーンは圧倒的だと、常々思っていましたが、今回も、雷に打たれた2本の木のシーンやラストの雨のシーンで黒澤映画の魅力が発揮されていました。映画史を振り返っても、黒澤さんほど美しく緑と雨を撮った監督はいないんじゃないかと思います」と語っていた(『03 Tokyo calling』6月号)。

 この言葉を受けて黒澤監督は「じつは、日本もいいロケ地がどんどんなくなっていてね、(中略)たとえば、川なんかでも護岸工事やっているから、自然の川はほとんどない」と語り、さらにヴェンダース監督の《夢の果てまで》にも出演した俳優の笠智衆にも言及していた(『大系 黒澤明』講談社、第4巻、524頁)。

*    *   *

イェンドレイコ監督も映画の後半で翻訳者のスヴェトラーナ・ガイヤーが久しぶりに故郷のウクライナに帰還したときのことを詳しく描き、そこで身体の弱った祖母をいたわりつつ同行した孫の目をとおして、祖母の体験の深い意味を描いている。

 そのようなシーンの一つが、かつてガイヤーが両親と過ごしたコウノトリの飛んでくる泉のあった別荘を探そうと孫娘と故郷の村を訪れるが、見つからなかったという場面である。

 その場面からは、かつてデルスが愛した森に彼の墓を作ったが、1910年に訪れたときには開発が進んで見つけることができなかったことが描かれていた映画《デルス・ウザーラ》の冒頭のシーンが思い起こされた。

 このシーンからはヴィム・ヴェンダース監督と同じようにイェンドレイコ監督も黒澤監督から強い影響を受けていたのではないかと感じられたのである。

 

黒澤映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》

映画《夢》の翌年に封切られた映画《八月の狂詩曲》(原作・村田喜代子『鍋の中』、脚本・黒澤明)では、夏休みに長崎を訪れた孫たちの目をとおして、アメリカで大富豪となった親戚に招かれて有頂天になっている両親たちと原爆によって夫を失った祖母の悲しみが描かれている。

しかも、ここで黒澤は孫たちの両親がハワイに移住した親戚の気分を害することを恐れて、祖父が原爆で亡くなったことも隠していたことをその子供たちの会話をとおして明らかにすることで、原爆を投下した責任のあるアメリカ政府だけでなく、そのアメリカの心証を害することを恐れて原爆の被害の大きさを隠蔽してきた日本政府や戦後の日本人の問題をも映像を通して描き出していたのである。

すなわち、「おかしいと思わない……お父さんたち何故、お祖父ちゃんの事、かくすのかしら」と尋ねられた縦男は「良く言えば、錫次郎さんやクラークさんに対する思いやり……悪く言えば、外交的かけひきと、打算……はっきり言えば、せっかく掴んだ大金持ちとの付合いに水をさす様な事はしたくないのさ」と答える(最終巻、五一)。

それに対して、たみが「お祖母ちゃんは御輿……ただかつがれてるだけ?」と反発し、みな子も「いやーね!」と相打ちをうつと、縦男は「仕方がない……それが大人のリアリズムだ」と批判するが、このような縦男の見方はムィシキンに共感して打算的な大人を批判した『白痴』のコーリャの視点とも重なるであろう。

しかも、登場人物に日系二世のアメリカ人であるクラーク(リチャード・ギア)を加えることによって黒澤は、海外からの視野も取り入れることで、祖父の死亡を隠していた両親の忠雄と良江に、「俺たち、少しみっともなかったかな……そうは思わないかい」、「そうね……なんだか、恥かしいわ」という会話をさせ、認識の深まりを示していたのである。

さらに、普通に語られれば紋切り型のメッセージとして受け取られかねない祖母の次のような台詞(セリフ)も、ハワイの親戚に手紙で本当のことを書いたために咎められた孫の縦男をかばって、思わず語られる本音であるために観客にも説得力を持っている。

「ばってん……本当の事ば書いて何んで悪か……馬鹿か! 原爆ば落しとって、そいば思い出すとがいやって? いやなら、思い出さんでもよかけど……こいも知らんとは言わせん! ピカは戦争やむるために落したって言うて、戦争の終ってもう四十五年もたつとに、ピカはまだ戦争ばやめとらん! まだ、人殺しば続けよる!」(Ⅶ・五四)。

この言葉はドストエフスキーが、「恩人」の改宗を知らされたムィシキンの口をとおして、当時の西欧列強を「キリストによってではなく、またもや暴力によって人類を救おうとしています!」と本音で批判していたことを思い起こさせる。

そして、映画《白痴》において、三船敏郎の「眼」をクローズアップすることで、ロゴージンの殺意とムィシキンの恐怖を描いていた黒澤は、ここでも原子爆弾のキノコ雲に人間を見つめる殺意のこもった「眼」を感じていた祖母が、雷とその雲に似た雨雲を見たことで、再びその日の恐怖を思い出して走り出すという最後のシーンを描いている。

こうして《八月の狂詩曲(ラプソディー)》は、映画《生きものの記録》の主人公喜一が主観的に感じていた原爆の「恐怖」を、孫たちが、祖母が感じた「恐怖」を追体験するような形で描くことで、核兵器の危険性をわかりやすく伝えることに成功していた。