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復員兵と狂犬――映画《野良犬》と『罪と罰』

復員兵と狂犬――映画《野良犬》と『罪と罰』

 

映画《野良犬》(脚本・黒澤明、菊島隆三)が公開されたのは、第二次世界大戦が終わってから四年後で、日本がまだ連合国の占領下にあった一九四九年のことであった。

この映画と同じ年に生まれた私がまだ子供の頃には、手足を失った傷痍軍人が路上で金銭を乞う姿がときどき見られたので、終戦後間もない混乱した時期の都市を舞台にしたこの映画からは、敗戦直後の日本の状況が直に伝わってきた。

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 映画《野良犬》は「狂犬」のシーンで始まるが、それは日露戦争直後の一九〇六年一月に発表された夏目漱石の短編小説『趣味の遺伝』の冒頭の次のような文章を思い起こさせる。

 「陽気の所為で神も気違になる。『人を屠(ほふ)りて餓えたる犬を救へ』と雲の裡より叫ぶ声が、逆しまに日本海を撼(うご)かして満州の果迄響き渡った時、日人と露人ははつと応へて百里に余る一大屠場を朔北(満州)の野に開いた」。

そして漱石は、「狂った神が猛犬の群に『血を啜れ』、『肉を食(くら)へ!』と叫ぶと犬共も吠えたてて襲う」と続けていたのである。

 映画《野良犬》のシナリオで注目したいのは、満員のバスでピストルをすられた新人刑事(三船敏郎)と、そのピストルをピストル屋から買い取って次々と凶悪犯罪をかさねる遊佐(木村功)という若者の二人の復員兵が、ともに戦争から帰った日本で自分の全財産ともいえるリュックサックを盗まれていたという共通の過去を描いていることである。そのことが、二人の若者の息詰まるような対決をいっそう迫力のあるものとするとともに、混迷の時代には窮地に追い込まれた人間が、犯罪者を取り締まる刑事になる可能性だけではなく、「狂犬」のような存在にもなりうることを示していた。

 この映画の二年後に公開された映画《白痴》でも黒澤明監督は、ドストエフスキーの原作の舞台を日本に置き換えるとともに、主人公を沖縄で死刑の判決を受けるが冤罪が晴れて解放された復員兵としており、敵と見なした国を敗北させることで自国の「正義」を貫こうとする戦争の問題を復員兵の問題をとおして深く考察しようとしている。

 注目したいのは、ドストエフスキーが長編小説『白痴』の冒頭でも、思いがけず莫大な遺産を相続した二人の主人公の共通性を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした若者と、その大金で愛する女性を所有しようとした若者の二人の友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたるロシア社会の問題を浮き彫りにしていたことである。

 こうして、映画《野良犬》や映画《白痴》からはドストエフスキーの作品全体を貫く「分身」のテーマが色濃く感じられるが、そのテーマは後期の映画《影武者》(一九八〇)にも受けつがれている。

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 「分身」のテーマと方法は『白痴』だけでなく、『罪と罰』でも多用されていた。酔っぱらった娘のあとを追い回す紳士を妨げようとして途中で止め、「あんなやつらは、お互い取って食いあえばいい」と呟いた『罪と罰』のラスコーリニコフは、「狭苦しい檻」のような小部屋から抜け出して老婆を殺害する。

このようなラスコーリニコフの思想的な問題点は、現代の新自由主義的な経済理論の持ち主で、白を黒と言いくるめる狡猾な中年の弁護士ルージンや、自己の欲望を正当化して恥じない地主のスヴィドリガイロフなどとの対決をとおして、『罪と罰』では次第に暴かれていくのである。

 その意味で興味深いのは、映画《野良犬》が「それは、七月のある恐ろしく暑い日の出来事であった」という文章から始まるガリバン刷りの同名の小説をもとにして撮られていたことである(堀川弘通『評伝 黒澤明』、毎日新聞社、二〇〇〇年)。

 実は、クリミア戦争での敗戦から一〇年後の混迷の首都ペテルブルグを舞台にした長編小説『罪と罰』(一八六六)も次のような有名な文章で始まっていた。「七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮れどき、ひとりの青年が、S横丁にまた借りしている狭くるしい小部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした」(江川卓訳)。

 

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敗戦を喫して西欧の新しい思想がどっと入ってきたことで価値観が混乱したロシア社会では殺人事件も多発するようになったが、ドストエフスキーはこのような時代を背景に自分を「ナポレオン」のような「非凡人」であるとみなして、法律では罰することのできない「高利貸しの老婆」を殺害することをも正当化した『罪と罰』のラスコーリニコフの行動と苦悩を描き出していた。

  映画《野良犬》でも、ショーウインドウに飾られている服を見て、あんな美しい服を一度着てみたいと語った自分のせいで復員軍人の青年がピストル強盗まで思い詰めたことを明かした若い踊り子は、「ショーウインドウにこんな物を見せびらかしとくのが悪いのよ」と語り、若い刑事から戒められるとふて腐れて、「みんな、世の中が悪いんだわ」と言い訳していた。

 若い踊り子(淡路恵子)は、「悪い奴は、大威張りでうまいものを食べて、きれいな着物を着ているわ」とも語っているが、この言葉は一九六〇年に公開された《悪い奴ほどよく眠る》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、小國英雄、菊島隆三、橋本忍)との繋がりをよく物語っているだろう。

映画《野良犬》を公開した後のインタビューで黒澤明監督は、父親の世代と息子たちの世代との対立を描いたツルゲーネフの『父と子』について、「はじめてバザロフがニヒリストとして文学史上に登場したが、むしろ実際にはそれ以後になってニヒリストがこの社会にあらわれた」と語り、ロシアにおけるニヒリズムの問題についての深い理解を語っていた(『体系 黒澤明』第一巻、講談社、二〇〇九年)。

  こうして映画《野良犬》は、個人の自由がほとんどなかった戦前から、個人の「欲望」が限りなく刺激される社会へと激しく変貌した日本の社会情勢の中で、価値観を失った若者たちのニヒリスティックな行動を、鋭い時代考察のうえに主人公たちの行動や考え方を描き出していたドストエフスキーの『罪と罰』の深い理解を踏まえて鮮やかに映像化していたと思える。

 『罪と罰』とは異なり、この映画では追われる側の遊佐(木村功)の内面描写は少ないが、ピストルを奪われるという負い目を背負った若者の激しい苦悩や行動は、三船敏郎の名演技で浮かび上がる。さらに、ラスコーリニコフを精神的に追い詰めていくだけでなく、彼に自首を勧めて、「復活」への可能性を示唆した名判事ポルフィーリイのようなしぶい佐藤刑事の役柄を、志村喬が好演して映画を盛り上げていた。

 しかも、黒澤映画における『罪と罰』のテーマは、当時は無給でしかも将来の身分的な保証もなかったインターン制度のもとで、貧民窟に住んでいた貧しい研修医の竹内(山崎努)が、高台の豪邸に住む富豪(三船敏郎)を憎んで、彼の息子の誘拐を図るが誤ってその運転手の息子を誘拐するという事件を描いた映画《天国と地獄》(一九六三)にも現れており、黒澤のドストエフスキー作品への関心の深さが感じられる。

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  黒澤明監督が晩年の一九九〇年に公開した映画《夢》(脚本・黒澤明)の第四話「トンネル」では、復員した将校の「私」が戻ってくると、トンネルの闇の中から突然に軍用犬だったらしいセパードが口からよだれを垂らし、眼を異様に光らせて飛び出してくるシーンが描かれている。

しかもこの狂犬は、「トンネル」から現れた死んだ兵隊たちが主人公の「私」に説得されて「トンネル」の彼方へと去ったあとでも、再び「トンネルの闇から飛び出して」来て、「すさまじい唸り声を上げて私に向って」身構えるのである。

 国民を戦争へと駆り立てた軍国主義の象徴であると思われる「狂犬」が、再び現れて主人公の復員兵を威嚇している場面で終わるこのシーンの意味はきわめてきわめて重い。

(2013年11月24日、改訂)

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