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黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

はじめに 映画《赤ひげ》とマンガ『アドルフに告ぐ』

映画《赤ひげ》でブルーリボン賞の助演女優賞を受賞した二木てるみ氏を招いての例会で最も印象に残ったのは、黒澤明監督による演技指導の際にアウシュビッツの写真を見せられたと語っていたことでした。

なぜならば、その時に手塚治虫がマンガ『アドルフに告ぐ』(1983年~85年、『週刊文春』)で、アウシュビッツのことについても詳しく描いていたことを思いだしたからです。

アドルフに告ぐ 〈1〉 文春文庫 (新装版) アドルフに告ぐ 〈2〉 文春文庫 (新装版) アドルフに告ぐ 〈3〉 文春文庫 (新装版) アドルフに告ぐ 〈4〉 文春文庫 (新装版) 

(書影は「紀伊國屋書店のウェブ」より)

しかも、映画《デスル・ウザーラ》の後で『赤き死の仮面』の企画がたてられた際に、黒澤監督は手塚治虫に美術監督を頼んでいたのです。ここでは子供向けのマンガ『罪と罰』の構造とその特徴を考察することで、黒澤明監督の手塚治虫観の一端に迫ることにします。

一、『赤き死の仮面』の企画とマンガ『罪と罰』の映画的手法

黒澤明監督が手塚治虫の全集を持っていたと語った手塚治虫の息子の手塚真氏は、二人の深い信頼関係をこう証言しています。少し長くなるが引用します。

『天才の息子』アマゾン(書影は「アマゾン」より)

(手塚真『天才の息子―ベレー帽をとった手塚治虫』、ソニーマガジンズ、二〇〇三年)。

 「父と黒澤さんはひと世代ほど違いますが、お互いに世界に通用する日本の作家として敬意を表していました。ふたりは一緒に仕事をしたいと考えていたようでした。実際『赤き死の仮面』という企画で、黒澤監督は父に美術監督を頼んできました。」

「キューブリック以来の、国際的な監督からの依頼で今度は父も期待していました。これはエドガー・アラン・ポーの原作を映画化するというもので、歴史的な背景を持ちながら幻想的な映画になる予定でした。黒澤明がポーの原作を使い、手塚治虫が美術監督というのでは、いやでも期待します。」

そして、キューブリック監督から「次に制作するSF映画(『2001年宇宙の旅』)の美術監督を引き受けて欲しい」とのオファーの手紙を受けた際に、手塚治虫が「僕には食べさせなければならない家族(社員)が100人もいるのでそちらには行けない」と断っていたことを紹介した手塚氏はこう続けていました。 

「しかし残念なことにこの企画は世界のどこでも実現せず、黒澤監督は代わりに『影武者』を作ることになりました。黒澤さんは脚本ができると、真っ先に父の元に送ってきて、感想を聞きたいと言われたそうです。大変な信頼を寄せていたのでしょうね。」

それは、映画《夢》(1990)の構造がなぜ、『罪と罰』の構造と似ているのかという問題にもつながると思えます。それゆえ、『赤き死の仮面』という壮大な企画をたてた際に、なぜ黒澤監督が手塚治虫に美術監督を頼んだかを知るヒントの一つは、手塚治虫がマンガ『罪と罰』を戦後の1953年に描いていたことにあると思えます。

実は、手塚は『罪と罰』を「常時学校へも携えていき、ついに三十数回読み返してしまった」と記していました(『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、二〇〇八年)。アシスタントたちの証言でも、長編漫画に関して『ぼくの基本は『罪と罰』なんです』などと語っていたのです(「元アシスタント座談会 われら手塚学校卒業生」『一億人の手塚治虫』JICC出版社)。

黒澤哲哉氏はマンガ『罪と罰』の特徴として、「描かれている人びとが単なる群衆や雑踏ではなく、それぞれに個性があり役者としてキャラの立っている」“演劇的”モブシーンを挙げて、「学生時代、役者として舞台に立った経験があり『罪と罰』の舞台ではペンキ屋を演じたという手塚は、この時代、多分に演劇を意識していたのだろう」と指摘しています(「虫ん坊」、「コラム 手塚マンガ あの日あの時」)。

実際、犯人に間違えられたペンキ屋のニコライが逮捕される場面も、「ああいう虫も殺さない顔をしてて人を殺すのかぇ」、「ヘエーエ、あのばあさまがねェ。おそろしや、おそろしや」などの台詞とともに、一頁全部を使ってさまざまな民衆の姿や声が、ドストエフスキー小説のポリフォニー性を指摘したバフチンのカーニバルについての理論を思い起こさせるように細かく描き出されているのです(マンガ『罪と罰』、角川文庫、一九九六年、二五頁。なお、マンガの台詞はコマ割りの都合上たびたび行替えされているので、ここでは引用の際に、ワンセンテンスは一行とし、読点と句点を付けた)。

 (書影は「手塚治虫 公式サイト」より)

また、このマンガではラスコーリニコフが階段を上って「高利貸しの老婆」を殺しに行く場面から逃げ出すまでの場面が一一頁にわたって縦割りのコマ割りで描かれるなど、登場人物の動きが具体的に分かるように描かれています。

ただ、マンガ『罪と罰』はドストエフスキーの『罪と罰』を子ども向けに翻案してマンガ化した作品ですので、基本的には忠実に描いていますが、原作とは異なる点も一部あります。

そのもっとも顕著な例が、登場人物のスヴィドリガイロフをラスコーリニコフの妹ドゥーニャを家庭教師として雇う地主ではなく、女主人のマルファに仕える下男として描き、彼を暴力的な手段で革命を起こそうとしている男として視覚化していたことです。

それゆえ、最初に読んだ際にはそのような変更に強い違和感を覚えて、やはり子供向けのマンガだと感じていました。しかし、ドストエフスキーの長編小説『白痴』を沖縄からの復員兵を主人公として1951年に映画化していた黒澤監督の理解をとおして読み直したときに、手塚がこのマンガで「自然支配の思想」と「非凡人の理論」の危険性についての深い理解を示していることに気付きました。

おそらく、マンガ『罪と罰』におけるドストエフスキー理解の深さは、黒澤監督が手塚治虫に『赤き死の仮面』の美術監督を依頼したかの理由の一端をも物語っていると思われます。

二、草花から受けた印象と「やせ馬が殺される夢」のマンガ化

ドストエフスキーは犯行の前日にペテルブルグの郊外をさまよったラスコーリニコフが草花を見て、「他の何よりも長い時間、それに見とれていた」と書いた後で、彼が子供の頃に父親とともに見た「やせ馬が殺される夢」を描いていました。

映画《夢》のためのノートで「やせ馬が殺される夢」の一節を引用した黒澤監督はこの夢の重要性を指摘していました。それは第一話「日照り雨」や第二話「桃畑」で見事に映像化されているように、草花の印象と結びつけられて記されている「、ラスコーリニコフが子供の頃に故郷の村で体験したことや農村の景色をも連想させたからだと思えます。

手塚治虫のマンガ『罪と罰』では、ラスコーリニコフの見る夢が描かれていないので、「やせ馬が殺される夢」も省略されているのですが、ドゥーニャと弁護士ルージンとの婚約を伝えた母親の手紙では、「私は毎日森や野山をながめてはおまえのことを思い出しています」という文章と共に、丸一頁を使って村の景色が描かれ、三段別れている次の頁の上段では野原に咲く花が描かれ、「こちらは一面にアザミの花が咲きましたよ。おまえに見せたいくらい……」という言葉が添えられています。

そして、小屋とウサギたちが描かれている次のコマの「おまえが小さいときよく遊んだ小屋も草やつたでおおわれてそのまま立っています」という台詞に続いているのです(五五~五六頁)。

これらの絵と文章が「やせ馬が殺される夢」の前に見とれた草花の絵画化であることは明白でしょう。これらの場面は「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉が」なぜ囚人たちにとってそれほど重要な意味を持つのかを忘れてしまっていたラスコーリニコフが、長い時間をかけてシベリアの大地で「復活」することへの重要な示唆となっていたのです。

三、小林秀雄の「良心」理解と手塚マンガの最終シーン

『罪と罰』のもう一つの大きな主題である「非凡人の理論」の危険性は、権力者からの自立や言論の自由などで重要な働きを担っている「良心」についての司法取調官ポルフィーリイとの議論やスヴィドリガイロフとの対決などをとおして考察されていました。

日本で初めて『罪と罰』の翻訳を行った内田魯庵は、そのことをよく認識しており明治45年には、この長編小説の大きな筋の一つは「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る経路」であると指摘していました(「『罪と罰』を読める最初の感銘」)。

そして、『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』で主人公の「良心の呵責」の問題も描いていた島崎藤村も、ドストエフスキーについて「あれほど人間を憐んだ人も少なかろう」と書き。「その憐みの心が」、「貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう」と記していました(『春を待ちつつ』、かな遣いは現代表記に改めた)。

一方、文芸評論家・小林秀雄は明治時代に成立していた「立憲主義」が「天皇機関説」論争で放棄されることになる前年の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と「謎」を強調しつつ、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、エピローグにはラスコーリニコフが「きびしく自分を裁きはしたが、彼の激した良心は、だれにでもありがちなただの失敗以外、自分の過去にとりたてて恐ろしい罪をひとつとして見出さなかった」と書かれ、さらに「おれの良心は安らかだ」という彼の独り言も記されていることを踏まえたものだといえるでしょう。

しかし、ラスコーリニコフに対して「非凡人と凡人の区別をどうやってつけたものですかな」と問いかけていた司法取調官のポルフィーリイは、「その他人を殺す権利を持っている人間、つまり《非凡人》というやつはたくさんいるのですかね」と問い質していました。

そして、「悪人」と見なした者を殺した人物の「良心はどうなりますか」という問いに「あなたには関係のないことでしょう」といらだたしげに返事したラスコーリニコフに対しては、「いや、なに、人道問題として」と続けて、「良心を持っている人間は、誤りを悟ったら、苦しめばいい。これがその男への罰ですよ」という答えを得ていました(三・五)。

この返事に留意しながら読んでいくと本編の終わり近くで、「良心の呵責が突然うずきだしたような具合だった」(六・一)と書かれている文章と出会うのです

しかも、ドストエフスキーが農奴を殺しても「良心」の痛みを感じなかったスヴィドリガイロフに自殺の前夜に悪夢を見させていたドストエフスキーが、エピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いていることに留意するならば、この長編小説では誤った過激な「良心」理解と民衆とも共有できるような広い「良心」理解の二種類の「良心」理解が描かれていると考えるべきでしょう。

つまり、小林秀雄は自分流の結論を導くために、新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いていたのです。

一方、手塚治虫のマンガ『罪と罰』では、弁護士ルージンの卑劣な行為やポルフィーリイとの「非凡人」をめぐる激しい議論もきちんと描かれています。そして、その議論を踏まえて、スヴィドリガイロフとの次のような会話が記されているのです。

すなわち、マンガ『罪と罰』の結末で「ぼくァ、あなたの論文を読んだんです」と語ったスヴィドリガイロフは、「そして決めたんですよ。あなたを同志にしようと……」と語ります。

ラスコーリニコフから断られると、さらに「かくさないでください。ぼくとあなたとはどうも似ているところがありますね」と続けたスヴィドリガイロフは、最終的に断られると「それならば、ぼくはきみを反動者として制裁する」と宣言してピストルを発射するのですが致命傷には到らず、革命の合図を見て立ち去ります。

この後でソーニャに老婆の殺害を告白したラスコーリニコフは、学生の暴動を見て、「ぼくのように自分を天才だと思っているやつが……」、「何人もいるんだスヴィドリガイロフもそのひとりだ……」と語って、己の「非凡人の理論」の誤りを認めるのです。そして、「すぐ町の広場へいらっしゃい。そして地面に接吻して大声で『ぼくが犯人はぼくだ!』というのよ」というソーニャの言葉に従って広場に行きます。

暴動が始まり大混乱となった広場で自身の罪を大声で告白する箇所は、多くの民衆が描かれている迫力のあるモブシーンで描かれ、最後の場面では自首しに警察に向かう主人公の後ろ姿が余韻を持って描かれているのです。

 

おわりに

このように見てくる時、少年向けに書かれた漫画でわずか一二九頁に、『罪と罰』の主な筋と主要な登場人物を描き出したばかりでなく、エピローグの内容をも組み込んでいる手塚治虫の手腕と『罪と罰』理解の深さには驚かされます。

手塚治虫は「戦後七〇年に考える」と題して開かれた「アドルフに告ぐ展」のための文章でこう記しています。

「僕は戦中派ですから、戦争の記録を、僕なりに残したいという気持ちがありました。戦後も40年以上たちますと戦争のイメージが風化してくるんですよ。僕も、そう長い先まで仕事ができないので、今のうちに描いておこうと思ったんです」。(出典はhttp://tezukaosamu.net/jp/manga/282.html … )

アドルフに告ぐ展

(黒澤明研究会編『研究会誌』)、No.39号、2018年、80~85頁、一部改訂して転載)

ブルガリアの歴史と首都ソフィア――黒澤映画《生きる》

Ⅰ. ギリシャ正教の受容とブルガリア

a.ブルガリア帝国における聖書のスラヴ語訳

ミュシャ、ボヘミア大ミュシャ、ブルガリア

ムハ(ミュシャ)画、「スラヴ叙事詩」、第3作「大ボヘミア(現在のチェコ)におけるスラヴ的典礼の導入」と、第4作「ブルガリア皇帝シメオン(在位:893~927年)。」(図版は「ウィキペディア」より)

b. 現代のブルガリアと首都ソフィア

ブルガリアの地図ブルガリア、ソフィア

(出典は「ウィキペディア」)

ブルガリア、ソフィア大学ブルガリアSt_Clement_of_Ohrid

(ブルガリア・ソフィア大学と聖クリメントオフリドスキー出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

Ⅱ. ツルゲーネフの『その前夜』と黒澤映画《生きる》

a.バルカンの独立運動とブルガリア

ブルガリアのオストロフスキー劇

b.クリミア戦争とツルゲーネフの『その前夜』

c.『その前夜』と日本の演劇

松井須磨子の写真は→http://geijyutuza100.blog.fc2.com参照。

ゴンドラの唄/鮫島有美子 – YouTube

d.「ゴンドラの唄」と黒澤映画《生きる》

Ikiru_poster

(映画《生きる》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

映画《白痴》から映画《生きる》へ

 

黒澤明と宮崎駿(1)――ロシア文学と民話とのかかわりを中心に

黒澤明、宮崎駿、アマゾン、大『本への扉』

(図版は「アマゾン」より)

 

目次

はじめに ロシアの民話と文学――黒澤映画と宮崎アニメの原点

Ⅰ.アニメ映画《雪の女王》と宮崎駿アニメ――『罪と罰』との関わりを中心に

Ⅱ.《生きものの記録》から《風の谷のナウシカ》へ――《モスラ》を媒介として

Ⅲ. 「やせ馬」が殺される夢と「天馬」の話――黒澤・宮崎両監督の対談をめぐって

Ⅳ.《七人の侍》から《もののけ姫》へ――《せむしの仔馬》を媒介として

おわりに 『森は生きている』と《千と千尋の神隠し》、そして『罪と罰』

*   *   *

 

はじめに ロシアの民話と文学――黒澤映画と宮崎アニメの原点

a. 黒澤映画《白痴》と宮崎監督の『イワンのばか』観

イワンのばか、アマゾン(図版は「アマゾン」より)

b.「おおきなかぶ」の話と《千と千尋の神隠し》の「河の神」

107411_mid宮崎駿、千と千尋(図版は「アマゾン」より)。

c. 宮崎駿監督の《七人の侍》観と《もののけ姫》

Ⅰ. アニメ映画《雪の女王》と宮崎駿アニメ――『罪と罰』との関わりを中心に

a. アンデルセン原作の『雪の女王』とアニメ映画《雪の女王》

b. 傲慢なカイとやさしいゲルダの物語

Снежная_королева_(кадр)287-8

(アニメ映画《雪の女王》より。図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

『雪の女王』 (1957年・ソ連) 予告編 – Dailymotion動画

c. 「氷の宮殿」と「死の家」――『罪と罰』のロシア民話的な構造

バーバ。ヤガーの絵

バーバ・ヤガー(ヤーガとも記す)(イヴァン・ビリビン画。図版は「ウィキペディア」より))

d. 「夢」の重要性――語り手としての「夢の精」ルポイ

Ⅱ.《生きものの記録》から《風の谷のナウシカ》へ――《モスラ》を媒介として

a. 映画《ゴジラ》と《生きものの記録》

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(図版は露語版「ウィキペディア」より)(東宝製作・配給、1955年、「ウィキペディア」)。

b.《生きものの記録》から映画《モスラ》へ

モスラの歌 – YouTube ▶ 2:33

モスラ、幼虫

(図版はともに「ウィキペディア」より)

映画《モスラ》

c. 映画《モスラ》と《風の谷のナウシカ》

オウム、ジブリ博物館グッズ

(出典はジブリ博物館のフィギュアより)

d.  映画《生きものの記録》と《風の谷のナウシカ》

e. 『罪と罰』の「やせ馬が殺される夢」と「王蟲の子供の殺される夢」

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)

f.「大地」への接吻と「失われた大地との絆」

 

黒澤明と宮崎駿(2)――《七人の侍》から《もののけ姫》へ

Ⅲ. 「やせ馬」が殺される夢と「天馬」の話――黒澤監督と宮崎監督の対談をめぐって

a.「やせ馬」が殺される夢と重馬の話

b. 木曽馬と蒙古の馬の話

c. 軍馬と「黄金の馬」アハルテケの話

Ⅳ.《七人の侍》から《もののけ姫》へ――アニメ映画《せむしの仔馬》を媒介として

220px-Seven_Samurai_poster2宮崎駿、もののけ姫

(東宝製作・配給、1954年、図版は「ウィキペディア」より)

(обложка DVD издания аниме «Принцесса Мононокэ»Материал из Википедии )

a. 武具と馬銜(はみ) の話――新しい時代劇への構想

七人の侍 – YouTube (馬から矢を射るシーン、2分13秒より)

馬とヤックル(図版は「Facebook」より)。

b. 長編アニメ映画《せむしの仔馬》(邦題「イワンと仔馬」)

イワンと仔馬、アマゾン青いブリンク

《せむしの仔馬》と《青いブリンク》(図版は「アマゾン」より)

せむしの仔馬火の鳥、せむしの仔馬

「金色の馬と2頭の黒馬」、ビリビン『火の鳥』(図版は「ウィキペディア」より)

c. アニメ《イワンと仔馬》で描かれているロシアの風俗と白樺の木

白樺創刊号(図版は「ウィキペディア」より)

レビタン 白樺の林

イサーク・レヴィタン「白樺の林」。図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

d.《もののけ姫》の世界と現代の地球環境

%e3%82%82%e3%81%ae%e3%81%ae%e3%81%91%e5%a7%ab(図版は「Facebook」より)。

e. 《もののけ姫》と映画《夢》の自然観

夢(図版は「アマゾン」より)

わりに 『森は生きている』と《千と千尋の神隠し》、そして『罪と罰』

森は生きている(図版は「アマゾン」より)

「想像力の可能性――もう一つのドストエフスキー劇」を掲載

モスクワで観たドストエフスキー劇についてはすでに掲載していましたので、エドワルド・ラジンスキイの《ドストエーフスキイの妻を演じる老女優》の短い劇評も掲載します。

想像力の可能性――もう一つのドストエフスキー劇

モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

フォーキンの《語れ》とトフストノーゴフの《ある馬の物語》の劇評を掲載

権力を背景に語られた高市早苗氏の「電波停止」発言にテレビはひれ伏しているかのような姿勢を示していますが、大新聞もそれをきちんと批判することができていません。

このような日本の政府やマスコミの状況を見ている中で思い出したのがロシア帝国やソ連の厳しい検閲下でイソップの言葉を用いながら批判していたドストエフスキーの作品やソ連の演劇のことでした。

今回はペレストロイカの時期にエルモーロワ劇場で上演されたフォーキンの劇《語れ》と、トフストノーゴフが演出したトルストイの『ホルストメール』を劇化した《ある馬の物語》の劇評を掲載しました。

安倍政権下の日本の言論状況とフォーキンの劇《語れ》

帝政ロシアの農民と安倍政権下の日本人――トルストイ原作《ある馬の物語》

井上ひさし《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》、《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》、《頭痛肩こり樋口一葉》の劇評を掲載

今、読み返すと井上氏の演劇は現在の日本の状況を見事に先取りしていただけでなく、未来への可能性も示していたように思えます。

同人誌『人間の場から』に「見ることと演じること」と題して掲載した1988年頃の劇評を再掲します。

 

「記憶」の痛みと「未来」への希望 ――井上ひさし《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》

「忍び寄る『国家神道』の足音」と井上ひさし《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

映画《羅生門》から映画《白痴》へ

リンク→3,「映画・演劇評」のページ構成

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(日本版の映画《羅生門》のポスター(パブリック・ドメイン)、図版は「ウィキペディア」。および、槙田寿文氏所有の旧東ドイツ版のポスター。図版は「日本経済新聞」のデジタル版より)。(拙著の書影は「成文社」より)

 

映画《羅生門》から映画《白痴》へ

小林秀雄の『白痴』解釈と映画《白痴》のカーニバル的手法

長編小説『白痴』の粗筋を「ムイシュキン公爵は子供の時癲癇にかゝつて以来、廿六の歳まで精神病院の患者であつたが、半ば健康を取戻してペテルブルグに帰つて来ると、捨てられた商人の妾ナスタアシャと将軍の娘アグラアヤと同時に恋愛関係に落ち、彼は二人の女に同じ様に愛を誓う。一方ナスタアシャに惚れて十万留(引用者注──ルーブル)で彼女を買はうといふラゴオジンといふ男が事件にからまる」(下線引用者)と紹介した小林秀雄は、その結末についてはこう解釈していた。

「繰り広げられた絵は飽くまでも異常である。…中略…繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」。

一方、ソ連の人文学者バフチンがカーニバルを「転換と交代、死と再生のパトスを基礎とした祝祭的時空間」と規定したことを紹介した新谷敬三郎は、映画《白痴》では原作にはなかった氷上のカーニバル・シーンを挿入することで、この文学理論が提起される以前に「カーニバル化の見事な表現」を行っていたことを指摘している*28。

しかも映画《白痴》では、複雑な筋を単純化するためにアデライーダの婚約者やアグラーヤの花婿候補のラドームスキーなどが省略されているが、このカーニバル・シーンでは新しい恋敵として登場するラドームスキーの役も兼ねた香山(ガヴリーラ)が、イッポリート的な言動もすることで、『白痴』の筋を壊さないような工夫もされていたのである。

長編小説『罪と罰』と『白痴』の方法

経済上の理由から大学を退学しなければならなくなった若者の苦悩を描いた『罪と罰』において推理小説的な手法を用いて、主人公の心理や当時のロシア社会を描き出していたドストエフスキーは、長編小説『白痴』においても登場人物たちのさまざまな視点からムィシキンを描き出していた。

たとえば、エパンチン家のアグラーヤはムィシキンを進歩的な考えを持つ教師のように敬愛し、ナスターシヤは自分を救ってくれる「救世主」のように見なしたのである。

しかし、エパンチン将軍は世間知らずの「まったくの子供」と見なし、秘書のガヴリーラにいたってはムィシキンを「仮面」をかぶった「ペテン師」とさえ疑っていた。

こうしてドストエフスキーは、ムィシキンに対するロゴージン、アグラーヤとナスターシヤ、さらにはガヴリーラやトーツキーなど、さまざまな登場人物の見方をも示すことで、ムィシキンという人物の本当の姿へと肉薄する手法、すなわちポリフォニー(多声)的な方法で描くことで、読者にも彼が「何者」であるかを考えさせるように描いているのである。

私たちにとって興味深いのは、映画《白痴》の前年に公開された《羅生門》(脚本・橋本忍、黒澤明)では、そのような視点がすでにきちんと示されていたと思えることである。

小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤映画《羅生門》

文芸評論家の小林秀雄は一九三二(昭和七)年に発表した評論「現代文学の不安」で、「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定した。

その一方で、ドストエフスキーについて「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記した小林は、「『憑かれた人々』は私達を取り巻いてゐる。少くとも群小性格破産者の行列は、作家の頭から出て往来を歩いてゐる。こゝに小説典型を発見するのが今日新作家の一つの義務である」と続けていた〔『小林秀雄全集』第1巻〕。

しかし、よく知られているように短編「羅生門」(一九一五)において価値が混乱した戦乱の世で老婆の着物を盗むことも厭わない下人の荒々しいエネルギーを描きだした芥川龍之介(一八九二~一九二七)は、短編「藪の中」(一九二二)では「一つの事件」を三人のそれぞれの見方をとおして描いていた。こうして芥川は、客観的に見えた「一つの事件」が全く異なった「事件」に見えることを明らかにして、現代の「歴史認識」の問題にもつながるような「事実」の認識の問題を提起していたのである。

芥川のこれら二つの短編を組み合わせるとともに木樵の証言も加えた黒澤も、ドストエフスキーが『罪と罰』のエピローグで、主人公ラスコーリニコフの「復活」を描いていたのと同じように、映画《羅生門》の最後の場面では赤ん坊の服を盗むことも厭わない下人と対比しながら、苦しい生活ながらも捨てられた赤ん坊を育てようとする木樵とその言葉を信じようとする旅法師の姿を描いていた(Ⅵ・四九~七一)。

こうして戦乱で荒廃した都を舞台に「我欲に走る」ようになった人間像とともに、人間に対する深い信頼をも描いた映画《羅生門》は、悲惨な戦争でうちひしがれていた観客に感動を与え、一九五一年九月のヴェネチア映画祭ではグランプリを獲得した。

映画監督のクレイマンは、「多義性のイデアは(漢字を用いてきた)日本の芸術的思惟に古来存在した」もので、「この映画を見たあと、観客は殺人の探偵小説的謎解きをではなく、真実と存在、世界のなりたちの非一義性に関する”ドストエーフスキイ的”思想を持ち帰るのだ」と述べて高く評価している*30。

(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2014年より。再掲に際しては、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』より、小林秀雄の『白痴』理解の問題点を指摘した箇所と、長編小説『罪と罰』のエピローグの解釈の問題を加筆し、文章を一部改訂して「小見出し」を補った。なお、注の出典は省いた)。

リンク→小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤明

(2017年5月7日、図版を追加)

映画ポスター・三題――《白痴》、《ゴジラ》、《生きものの記録》

リンク→3,「映画・演劇評」のページ構成

 

映画ポスター・三題――《白痴》、《ゴジラ》、《生きものの記録》

はじめに

今年三月の「ドストエーフスキイの会」例会は、「『創造は記憶である』 黒澤映画におけるドストエフスキーとバルザックの受容」という題名で槙田寿文会員に発表をお願いした。その際に発表者紹介のためにサイトを調べていたところ、二〇一〇年九月一四日付の日本経済新聞に掲載された「黒澤に喝采 海外ポスター 現地で製作、国際色豊かな一五〇枚収集」と題された槙田氏の文章と旧東ドイツ版の「羅生門」のポスターの載っている記事を見つけた*1。ポスターという切り口からの黒澤映画論から強い知的刺激を受けた。

その後、「黒澤明監督の倫理観と自然観――映画《生きものの記録》から映画《夢》へ」という題で講演をした際に、パワーポイントでポスターを映写したところ好評であったために、槙田氏のように苦労して蒐集した貴重なポスターではないが、「ウィキペディア」で「パブリック・ドメイン」となっているものを探して大学の講義の予習用に私のHPにも掲載するようにした。ここでは映画《白痴》、映画《ゴジラ》、そして映画《生きものの記録》の三点のポスターについての感想をエッセイ風に記してみたい。

一、原作との違和感――映画《白痴》のポスター*2

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映画《白痴》のポスターをHPに掲載していたが、このポスターを見ているうちに私の内にあった強い違和感の理由が、原作との解釈の違いにあることに気づいた。

ドストエフスキーについて「生きていく上につっかえ棒になることを書いてくれてる人です」と語っていた黒澤監督は、敗戦後間もない一九五一年に、激戦地・沖縄からの「復員兵」を主人公として、この長編小説の筋や人間関係を活かした映画《白痴》を公開した。

残念ながら、映画会社の意向で長すぎるとしてオリジナル版のほぼ半分にカットされたこともあり、日本ではあまりヒットしなかったが、日本やロシアの研究者だけでなく、「ドストエフスキーの最良の映画」として映画《白痴》を挙げたタルコフスキーをはじめとして本場ロシアの多くの映画監督からも絶賛された。

その理由はおそらく彼らが原作をよく知っていたために、カットされた後の版からでもこの映画が原作の本質を伝え得ていることを認識できたからだろう。実際、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』で詳しく検証したように、上映時間が限られるために登場人物などを省略し、筋を変更しながらも、黒澤明監督はオリジナル版で驚くほど原作に近い映像を造りあげていた。

収益を重視した会社の意向でカットされた後の版でも、ナスターシャ(那須妙子)を妾としたトーツキー(東畑)や、さまざまな情報を握って人間関係を支配しようとしたレーベジェフ(軽部)、さらにエパンチン将軍(大野)やイーヴォルギン将軍(香山)の家族も制限されたかたちではあれ、きちんと描かれていたのである。

一方、文芸評論家の小林秀雄は一九三四年から翌年にかけて書いた「『白痴』についてⅠ」において、この長編小説について「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断定し、多くの重要な登場人物についてはほとんど言及せずに、主人公をめぐる激しい憎悪の末の悲劇的な結末に焦点をあてて解釈していた。

このような小林の『白痴』論に注目するとき、ナスターシャ(那須妙子)をめぐるムィシキン(亀田)とロゴージン(赤間)の三角関係を演じた三人の主要な俳優を並べ、その下に那須妙子の孤独な姿を大きく描いた黒澤映画《白痴》のポスターは、主要な登場人物の緊迫した関係を示唆するような構図を示し得ていない。

視覚に訴えることのできるポスターは、単なる文章よりも強い影響力を持ち得る。主役の亀田(ムィシキン)を復員兵とすることで原作の深い意義に迫っていた黒澤映画の独自性を反映していないこのポスターからは、むしろ小林氏の『白痴』論からの影響が強く感じられ、そのことがこの映画に対する理解を妨げたのではないかとさえ思えるのである。

二、水爆の危険性の告発――映画《ゴジラ》のポスター*3

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一九五四年に原爆の千倍もの破壊力を持つ水爆「ブラボー」の実験がビキニ沖の環礁で行われたために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、一六〇キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員が被爆した。この事件を契機に撮られた映画《ゴジラ》については、講義でも言及していたのでそのポスターを探していたが、日本語版の「ウィキペディア」にはないのであきらめかけていたが、念の為にロシア語版で探したところ、公開当時の大人と子供の入場料まで欄外に記されているポスターが見つかった。

興味深いのは「ゴジラ」という映画の題名の右には「水爆大怪獣映画」という文字が黒々と記されているばかりでなく、左側にも黄色い文字で「凄絶驚異!死の放射能を発する世紀の怪獣ゴジラ!!」とも書かれていたことである。

現在の日本でも「放射能」や原発の危険性について記した論文や講演には厳しい批判が浴びせられるので、このポスターからは危機を直視しようとする当時の映画人の勇気や胆力が感じられた。

映画《ゴジラ》で主役を演じた宝田明氏は、「反核や反戦のテーマをこめた初代『ゴジラ』は米国にとって都合が悪く、大幅にカットしなければアチラで上映できなかった」と語っている(「反戦がテーマのゴジラを国会で上映したい」二〇一五年六月三〇日、「日刊ゲンダイ」)。

実際、この映画では古代生物学者の山根博士(志村喬)が、国会で行われた公聴会で「ゴジラ」についておそらく二〇〇万年前の恐竜だろうと語り、「それがこの度の水爆実験によってその生活環境を完全に破壊され」、「安住の地を追い出された」ために姿を現したのではないかと推測し、与党議員の委員の詰問に対して「ガイガーカウンターによる放射能検出定量分析によるストロンチューム九〇の発見」によると語る場面が描かれていた。

さらに、その事実の公表を迫る野党の女性議員(菅井きん)に対して、公表は「国際情勢」にかかわるだけでなく「国民」を恐怖に陥れるので禁止すべきとした与党議員の激しい議論も描かれており、 これらのことを考慮するならば、このポスターは映画《ゴジラ》の主題を端的に表現していたといえるだろう。

三、「季節の先取り」――《生きものの記録》のポスター*4

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映画が公開されたのは、映画《ゴジラ》よりも約一年後のことあったが、この事件から強い衝撃を受けた黒澤明監督も「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えて、橋本忍や小國英雄とともに映画《生きものの記録》の脚本「死の灰」を書き始めた。

この映画は核戦争の恐怖からブラジルへの移住という行動を起こそうとした主人公の老人(三船敏郎)の動機に理解を示し、「準禁治産者」との判決を出したことに良心の痛みを感じていた知識人(志村喬)の視点から描かれている。ことに最後のシーンでは精神病院に入れられた主人公が窓に映った夕焼けの色を見て「とうとう地球が燃えてしまった」と叫ぶ場面が描かれており、そのシーンからは『罪と罰』のエピローグで主人公が見る「人類滅亡の悪夢」が連想される。

この映画の題名は《Я живу в страхе(私は恐怖の中で生きている)》とロシア語では訳されているが、本多監督は次のような黒澤明の言葉を紹介している。

「黒澤君と久しぶりに会って話したとき、ソビエトの若い人達の話を聞いてゾッとしたというんです。(中略)ソビエトの若い連中は世界の核弾頭はソ連の方を向いている、怖い怖い、あと一〇年保つか、なんてボソボソ話してる」(『初代ゴジラ研究読本』洋泉社MOOK、二〇一四年)。

「広島・長崎」に続いて「第五福竜丸」の被爆という悲劇的な体験をしたにもかかわらず、アメリカの「核の傘」に入ることを選んだ日本では「核戦争」への危機感が薄らいだが、アメリカに対抗して核実験を行っていたソ連の若者たちには、核戦争への危機感が強かったのである。

しかし、水爆実験で誕生した怪物をテーマとした映画《ゴジラ》は大ヒットしたのに反して、それから一年後に公開された映画《生きものの記録》は興行的には大失敗に終わった。

ある映画評論家はこの映画を「季節外れの問題作」と呼んだが、その理由はこの映画が公開された年には、「原子力の平和利用」を謳った博覧会が各地で開催され、この映画が公開された翌月の一二月には「原子力基本法」が成立していたことにあるだろう。

その映画《生きものの記録》のポスターでは、ゴッホの黄色を思い起こさせるような強烈な黄色を背景にして、主人公の老人の姿が大きく描かれている。しかし、石原慎太郎の小説「太陽の季節」が大ヒットしたこともあり、人類滅亡の危機をももたらすような危険な兵器とされていた原子力エネルギーは、わずか一年の違いで、日本で「第二の太陽」ともてはやされるようになっていた。

一方、白色で描かれた太陽がまがまがしいばかりに強烈な光を放っているように描かれ、この映画の主題を見事に示していたこの映画のポスターは、福島第一原子力発電所事故が起きた後で見直すとき、現在の「季節を先取り」していたようにさえ感じられる。

*1 「黒澤映画、国際色豊かな“バーチャル”ポスター展」 :日本経済新聞(2010/10/13)。ここではポスターが主に紹介されている記事のリンク先を記す。

*2 映画《白痴》のポスター(松竹製作・配給、一九五一年)。図版は「ウィキペディア」より。

*3 映画《ゴジラ》のポスター(東宝製作・配給、一九五四年)。図版は「ウィキペディア」より。

*4 映画《生きものの記録》のポスター(東宝製作・配給、一九五五年)。図版は「ウィキペディア」より。 

 

映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

リンク→3,「映画・演劇評」のページ構成

昨年の8月に書いた映画《ゴジラ》考Ⅳでは、映画《ゴジラvsスペースゴジラ》を考察して、〈「スペースゴジラ」や「ゴジラ」の破壊力のすさまじさは映像化されていても、「ゴジラ」が歩いたあとに残されるはずの高い放射能についての指摘はほとんど語られてはいなかった〉ことを指摘し、〈このように見てくる時、「国民の生命」を守る組織としての「自衛隊」の役割やモゲラの製造にかかわったロリシカ国との「軍事同盟」の必要性が、特撮技術を駆使した華々しい戦闘シーンをとおして描かれていた20年前の映画《ゴジラvsスペースゴジラ》は、「積極的平和」の名の下に堂々と原発や武器が売られ、それまでの政府見解とは全く異なる「集団的自衛権」が正当化されるようになる日本の政治情況を先取りしていたようにさえ見える〉と記した。

こうして映画《ゴジラ》の「理念」が変質していることを確認した後で、芹沢博士と監督の名前を組み合わせた芹沢猪四郎が活躍するアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》が、〈映画《ゴジラ》の「原点」に戻ったという呼び声が高い〉ことを紹介し、「残念ながら当分、この映画を見る時間的な余裕はなさそうだが、いつか機会を見て映画《ゴジラ》と比較しながら、アメリカ映画《Godzilla ゴジラ》で水爆実験や「原発事故」の問題がどのように描かれているかを考察してみたい」と結んでいた。

*   *   *

期待してみようと思っていたハリウッド版の映画を観たいという気が失せたのは、この映画の予告版を観たときであった。そこでは「1954年 我々は起こしてしまったんだ/当時の頻発した水爆実験/その真の目的は/あれを殺すためだった」という台詞が堂々と語られていたのである。

しかし、一九五四年の三月一日にビキニ環礁で行われたアメリカの水爆「ブラボー」の実験は、この水爆が原爆の一千倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、一六〇キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員だけでなく、南東方向へ五二五キロ離れたアイルック環礁に暮らしていた住民も被爆していた(前田哲男監修『隠されたヒバクシャ──検証、裁きなきビキニ水爆被害』凱風社、2005年)。

さらに、水爆「ブラボー」の実験は、二ヵ月以上にわたって計六回もの核実験が行われた「キャッスル作戦」の最初におこなわれたものであったが、六〇年後の現在、この一連の核実験の情報が十分には周知されていなかったために、のべ一千隻の日本の漁船と乗組員約二三〇人が被爆していたことがわかった(高瀬毅『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』平凡社、2014年)。

しかも、厚生省が行った健康診断の記録はないとされていたが、その記録が外務省を通じてアメリカ側には渡っていたことが、アメリカに残されていた資料によってようやく明らかになったのである(NHKスペシャル、「水爆実験 六〇年目の真実~ヒロシマが迫る”埋もれた被ばく”~」2014年8月6日放送)。

一方、この事件から強い衝撃を受けた黒澤明監督は「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えて映画《生きものの記録》を製作したが、黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督もいち早く、映画《ゴジラ》の撮影に入っていたのである。

それゆえ、この台詞を聞いた時には、いかに娯楽映画とはいえこれでは「事実」の隠蔽ではないかと感じ、映画を観る気にはなれなかったので、映画のオフィシャル小説版を買い求めて当該部分を確かめた。

すると、当時「太平洋で水爆実験がくりかえされていた」ことに注意を向けた芹沢が「それは実験ではなく……」、「これを殺すことが目的だった」と説明したと描かれていた(コックス・グレッグ著、片桐晶訳『GODZILLA ゴジラ』角川文庫、153頁)。

しかも、「ゴジラ」を殺すために水爆実験が繰り返されたと説明したこの映画では、その存在が判明した巨大な「寄生有機体」のムートーをも核兵器で抹殺しようとして、サンフランシスコの「岸から少なくとも30キロ離れた起爆地を確保」しようとする作戦が描かれているのである(太字は引用者、237頁)。

このようなアメリカの危機にはるばる日本から現れて、2匹の巨大な「寄生有機体」のムートーと死闘を繰り広げることになるのが「ゴジラ」なのであり、最初は古代の危険な怪獣に見えていた「ゴジラ」が映画の終わりでは、日本から来た「救世主」のように見えてくるようにこの映画では描かれている。

それゆえ、このような事実の歪曲に対しては強い批判がなされてしかるべきだと感じたのだが、「ゴジラの海外派兵」と題された、「東京新聞」の8月12日のコラム「大波小波」でも、アメリカ映画《Godzilla ゴジラ》は安倍政権の「集団的自衛権の行使容認をアメリカ側が歓迎し、祝福する映画ではないか」と批判し、「日本の映画人よ、一刻も早く本道に戻り、3・11以降の日本人の魂を鎮めてくれる『ゴジラ』を撮りあげてほしい」と「正助」の署名で記していた。

*   *   *

ゴジラ2014 ハリウッドは核爆弾をナメてるし 設定はガメラ」と題された2014/08/03付けの映画評は、ビキニ環礁の頃とは「桁違いのメガトン級核爆弾」を積んだボートで、主人公がようやくゴールデンゲートブリッジの下を通過したのが、核爆発まで残り5分の時であることを考えるならば、「サンフランシスコは蒸発してしまうはず」と書いていた。

実際、徐々に明らかになってきた、「キャッスル作戦」の実態に注目するならば、映画で描かれているアメリカ軍の作戦がいかに荒唐無稽なものであるかは明白であろう。

9月25日夜に「金曜ロードSHOW!」で地上波初放送されたアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》で確かめたかったのは、「ゴジラ」やムートーがどのように視覚化されているかということと、「数キロ後方のすさまじい閃光」の後で見えた「きのこ雲」がどのように描かれているかにあった。

この映画はゴールデンゲートブリッジの下を「メガトン級核爆弾」を積んだボートで通過し、ヘリコプターで救出された主人公が、機上から「キノコ雲」を眺める場面が描かれたあとで、救出された市民たちが集められたスタジアムで妻子と再会するという感動的な場面で終わっている。

しかし、広島や長崎型の原爆をはるかに上回る威力の核爆弾が爆発した後ではそこにいるのは、黒焦げになった死体や焼けただれた姿で助けを求める人々の姿であるはずなのだ。

*   *   *

イラク戦争に際してブッシュ元大統領は、「ならず者」国家に対しては核兵器による先制攻撃も許されると発言し、アーミテージ元国務副長官も「日本も旗を見せる」べきだと厳しい要求していた。

これらの発言を踏まえてこの映画を観るとき、「予期せぬ侵入者」にどこからか「テロリスト」という言葉が聞こえてきた」という記述もあるこの映画では、日本から来た「ゴジラ」は、まさに強力な援軍のように描かれているといえるだろう。

このように見てくるとき、1954年のオリジナル版への敬意があるとの評価が高かったアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》は、「原点」に戻ったのは「ゴジラ」の尾や姿、咆哮などだけで、その「理念」の面では残念ながら第一作とは正反対であると言わねばならない。

《坂の上の雲》や《龍馬伝》などのNHKの大河ドラマの場合にもあてはまるが、印象的な場面により歴史的な事実が歪められて記憶される危険性が強いのは、報道番組よりもむしろこのような娯楽映画なのである。

映画《Godzilla ゴジラ》は、予想を超える興行収入を日本でもあげて、第38回日本アカデミー賞優秀外国映画賞が与えられたとのことである。

1954年の「第五福竜丸」の悲劇を矮小化していただけでなく、敵との戦争においては核兵器の使用をも可能とするこの映画に対しては日本の映画人だけでなく観客も強い批判を行わねばならないだろう。