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宮崎駿

タイトル一覧Ⅱ (ゴジラ関係、宮崎駿映画、演劇など)

リンク先タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と関係の深い映画)

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)  

タイトル一覧Ⅱ (Ⅰ、映画、1,ゴジラ、2,宮崎映画、3,その他 Ⅱ、演劇関係)  

、映画

1,ゴジラ

映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念

 映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

 映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽

2、宮崎映画

黒澤明と宮崎駿(2)――《七人の侍》から《もののけ姫》へ

黒澤明と宮崎駿(1)――ロシア文学と民話とのかかわりを中心に

『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》   ――ソーニャからナウシカへ 

アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法 

 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風

 《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影 

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

『もののけ姫』の大ヒットと二一世紀の地球環境 

3,その他

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

ブルガリアの歴史と首都ソフィア――黒澤映画《生きる》

映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観 

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

『白夜』の鮮烈な魅力――「甘い空想」の破綻を描く 

、演劇

想像力の可能性――もう一つのドストエフスキー劇

帝政ロシアの農民と安倍政権下の日本人――トルストイ原作《ある馬の物語》

安倍政権下の日本の言論状況とフォーキンの劇《語れ》

「忍び寄る『国家神道』の足音」と井上ひさし《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》

「記憶」の痛みと「未来」への希望 ――井上ひさし《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る

現代の日本に甦る「三人姉妹」の孤独と決意――劇団俳優座の《三人姉妹》を見て 

蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて 

ブルガリアのオストロフスキー劇 

日本におけるオストロフスキー劇とドストエフスキー劇の上演 

詩人プレシチェーエフ――劇作家オストロフスキーとチェーホフをつなぐ者

劇《石棺》から映画《夢》へ モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

 

『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》 ――ソーニャからナウシカへ

  はじめに

前回の「映画・演劇評」では、当時のソヴィエトの検閲の厳しさに注意を促しながら、このような時代に撮られたレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》の素晴らしさを指摘した。 ただ、エピローグで主人公のラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」などの夢の描写が行われなかったこともあり、原作の『罪と罰』で描かれている深みが出ていないとの不満も残っていた。

そのためもあったのだろうが、初めて《風の谷のナウシカ》で「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」と科学文明の終焉が描かれているのを見たときには、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると感じた。

  1,「大地との絆」

核ミサイルが発射されて全世界が壊滅状態になった後の世界を描いた作品には、フランクリン・J・シャフナー監督の《猿の惑星》(1968年)や、ジェームズ・キャメロン監督の《ターミネター》Ⅰ・Ⅱ(1984年、1991年)などがある。

《風の谷のナウシカ》の場面でことに『罪と罰』との関わりを感じたのは、核戦争後に発生した「腐海の森」から発生する有毒ガスで、生き残った人々の生存も危うくなる中で、「土壌の汚れ」の原因を突き止めようとするナウシカの出現を予言する次のような言葉が語られていたからである。

「その者青き衣(ころも)を/ まといて金色(こんじき)の野に/ おりたつべし」/ /「失われた大地との/ 絆(きずな)を結ばん」

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

一方、『罪と罰』においてドストエフスキーは、戦争で敵を殺しても罪に問われないように、自分も「悪人」を殺しただけだと考えていたラスコーリニコフにたいしてソーニャに次のように語らせていた。 「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

よく知られているように、後にレイチェル・カーソンは名著『沈黙の春』において、「害虫」を殺虫剤によって抹殺しようとした人間の行為が「土壌の世界」を汚染し、植物だけでなく、食物連鎖により鳥や野生動物、さらには人間にもより深刻な被害を生み出したことを明らかにしている。 家族を養うために売春をしていたソーニャは、一見、か弱いだけの女性のようにも見えるが、先の言葉に注目するならば、ソーニャの素朴な考えは、カーソンの思想を先取りしていたともいえるだろう。実際、ソーニャという愛称はギリシア語で「英知」を意味するソフィアという名前から作られており、このことはドストエフスキーが彼女を民衆的な英知を持つ女性として描いていたことを示唆していると思える。

この点で興味深いのはドストエフスキーが若い頃参加していたサークルに、後に「ロシア植物学の父」と呼ばれるようになるアンドレイ・ベケートフがおり、彼は『罪と罰』が発表されることになる『ロシア通報』に、「ヨーロッパ・ロシアの気候」(1858)という論文を発表して、現在の環境問題を先取りするような指摘をし、さらには「弱肉強食の思想」の危険性を明らかにする「生態学」的な思想をもすでに表明していたことである。(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、「第10章 他者としての自然――生命の輝き」参照)。

2,ナウシカの怒りとラスコーリニコフ

ソーニャとナウシカの類似性を指摘するだけで『罪と罰』と《風の谷のナウシカ》との内的な関連を強調することに我無理があるが、ラスコーリニコフとナウシカの類似性も加えることで説得力が増すだろう。

《風の谷のナウシカ》の冒頭では、巨大な「王蟲」に襲われる騎士を救い、さらに騎士のつれていたキツネリスに噛まれた際にも、その小動物の不安を察知して怒らなかったナウシカの優しさが描かれている。

そのことで、墜落する飛行機に捕虜として囚われていた小国ペジテの王女ラステルに対する残虐な体刑の痕を見付け、さらに急襲してきたトルメキア帝国の兵士によって父親が殺害されたことを知って怒りのあまり敵兵を斬すシーンでのナウシカの激しい怒りと悲しみが浮かび上がる。

このシーンが冒頭で描かれることで、ラステルの兄アスベルや、自分の国を滅ぼされた小国ペジテの人々に復讐をやめるように必死に呼びかけるナウシカの言葉に説得力が生まれるのである。

一方、高利をむさぼる高利貸しの老婆を「憎しみ」から殺害する『罪と罰』のラスコーリニコフにはこのような行動は見られない。しかし、ドストエフスキーは彼が自己中心的な若者ではなく、在学中には貧しい肺病患者の学友を助けたことや火事の際には自分が火傷をおいながらも二人の子供を助けたことをエピローグの裁判の場面で明かしている。 。

3.「やせ馬が殺される夢」と「王蟲」の子供が殺される夢

ことに注目したいのは、『罪と罰』ではラスコーリニコフが「高利貸しの老婆」を殺す前に見た夢で、子供の頃に酔っぱらいの馭者が力まかせにやせ馬を鞭うっているのを見て、やせ馬に駆け寄って守ろうとしたシーンを見ることが描かれていることである。

《風の谷のナウシカ》でもナウシカが夢の中で、子供の頃に「王蟲」の子供が殺されそうになっているのを見て「殺さないで」と叫ぶのを再び見るシーンが描かれており、それはナウシカが自分の危険もかえりみずに傷ついた「王蟲」の子供を守るという《風の谷のナウシカ》の感動的なラストシーンへと直結しているのである。 この二つの夢の類似性は単なる偶然かもしれない。

しかし、宮崎監督が尊敬していた漫画家の手塚治虫は『罪と罰』を「常時学校へも携えていき、ついに三十数回読み返してしまった」と記していた(『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、二〇〇八年)。

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

宮崎監督も「ドストエフスキーの『罪と罰』は正座するような気持ちで読みました」と書いていた。

『本への扉』

(図版は「アマゾン」より)

 さらに、宮崎が対談した黒澤明監督もドストエフスキーの長編小説『白痴』を映画化した《白痴》を撮っていたばかりでなく、その他の映画からもドストエフスキー作品への深い理解が感じられる。それらのことにも留意するならば、ナウシカが見る「王蟲」の子供が殺される夢には、ラスコーリニコフが見た「やせ馬が殺される夢」が反映されているといえるかもしれない。  

おわりに

本稿では、漫画『風の谷のナウシカ』(『アニメージュ』徳間書店、1982年2月号~1994年3月号)は考察の対象からははずした。 アニメ映画が公開された後も書き続けられ、SF的な手法でテレパシーや念動力、幽体離脱などが描かれ、不安や絶望などの感情が込められている結論が書かれたこの漫画の世界には、ソヴィエトの崩壊からユーゴスラヴィアの悲惨な内戦に到る時期の混乱が強く反映していると考えるからである。

人間の社会や人間と自然の関係は、《もののけ姫》(1997)でより深く考察されていると思えるので、この問題については稿を改めて考えたい。

(2013年9月18日改訂、2019年1月4日加筆)

《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

作家・堀辰雄の小説『風立ちぬ』と同じ題名を持つ宮崎駿監督の久しぶりのアニメ映画《風立ちぬ》では、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎と本庄季郎という2人の設計士の友情をとおして、当時の日本の社会情勢もきちんと描かれていた。手元に脚本がないので記憶が定かでない箇所もあるが、ここではその問題と『魔の山』との関係を考察したい。

風立ちぬ

   *    *    *    *

印象に残るシーンの一つは、すでに暗くなった街角で親の帰りを待つ少女を見た二郎が、買い求めていた「シベリア」という甘いお菓子を与えようとすると、喉から手が出そうになりながらも、「やせ我慢をして」受け取らずに走り去る場面である。

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ここには西欧列強との戦争に勝つために、最新の兵器の購入や研究には惜しみなく経費を注ぎ込みながらも、「ほしがりません勝つまでは」というスローガンのもとに国民に耐乏生活を強いるようになる政策の問題点が象徴的に描き出されていた。その後の本庄との会話では、経済力などの面から攻撃こそは最大の防御であるとされて、爆撃機や戦闘機も設計された問題点も指摘されていたが、映像でも一瞬ではあったがの場面が描かれていた。

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宮崎監督が次のように語っているのは、おそらくこの場面のことだったと思える。 「二郎の友人に設計士の本庄季郎という人がいるんですが、造った爆撃機が重慶まで出撃した。これは歴史的にも残る無差別爆撃で、同時にその爆撃機を援護したのは堀越二郎の造った零戦だった。」

戦闘員だけでなく一般の市民をも無差別に爆撃したアメリカ軍による「東京大空襲」などの非人道性は指摘されることは多いが、それに先だつ日中戦争で日本軍は重慶の無差別爆撃を行っていたのである。

これらの問題がきちんと描かれているのを見て、ようやく私は『零戦 その誕生と栄光の記録』(角川文庫、2012年)という華々しい題名を持つ堀越氏の著作を購読することにした。第七章が「太平洋上に敵なし」と名付けられているだけでなく、「十三機で敵二十七機を屠(ほふ)る」や、「五十機撃墜、損害は三機」などの小見出しがついていることから、これらが編集者の意向によるものが強いだろうとは思いながらも買うのをためらっていたのである。

実際、著作ではモノローグ的な手法で記されているために、対話的な手法で問題が浮き彫りにされている映画ほどの明瞭さはないが、「昭和十五年の春、中国大陸では、三年前にはじまった日華事変が、ますます根が深くなり、日本はいわゆる泥沼に足をつっこんだような状態に落ちこんでいた」(129ページ)などと《風立ちぬ》の二郎的な視点もきちんと記述されている。

ことに注目したのは、この映画の「企画書」では堀越二郎氏について「トーマス・マンとヘッセを愛読し、シューベルトを聴き、大軍需組織のなかでみなに認められ、平然と世わたりしつつ、自分の美しい飛行機を創りたいという野心をかくしている」と描かれていたが、この著作でも「私には、ナチスドイツが第一次世界大戦のドイツの二の舞いを演じるとしか思えなかった。そしてナチスドイツの前途は暗く、そのドイツとともに歩むことは、日本にとって危険な賭けだと考えざるをえなかった」(181)と明確に記されていることであった。

この二つの記述を読むまでは、避暑地のホテルで山盛りにしたクレソンをムシャムシャと食べ、ナチス政権を批判している謎のドイツ人のモデルは、スパイとして処刑されたゾルゲだろうと私は考えていた。むろん、舞台が日本であることを考えるならばその可能性は強いのだが、この人物が『魔の山』の主人公と同じカストルプという名字を与えられているにも留意するならば、著者のトーマス・マンの形象や思想も投影されていると思える。

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なぜならば、アニメ映画《風立ちぬ》では飛行機の設計の技術などを学ぶためにドイツを訪れた二郎たちが見ることになる、政治警察に追われるドイツ人の場面が印象的な「影」の映像でヒトラー政権におけるゲシュタポ(政治警察)の問題をも暗示していたからである。

一方、トーマス・マンがこの長編小説を書くきっかけとなったのは、スイスのサナトリウムで療養していた妻を見舞った際に夫人から聞いた多くのエピソードであった。

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この長編小説を著す前年の1923年にマンは著作『ドイツ共和国について』でナチスの危険性とワイマール共和制への支持をドイツの知識層に呼びかけていた(「ウィキペディア」)。

『魔の山』の主人公の名前との一致からここまで類推するのは、飛躍のしすぎと感じる方もおられると思う。

しかし、宮崎監督が敬愛した作家の掘田善衛氏は、大学受験のために上京した日に二・二六事件に遭遇した若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、烈しい拷問によって苦しんだいわゆる「左翼」の若者たちや、イデオロギー的には異なりながらも彼らに共感を示して「言論の自由」のために文筆活動を行っていた主人公の若者の姿をとおして、昭和初期の暗い時代を活き活きと描いていた。

堀田氏はこの作品で、ラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、ニコライ一世治下の厳しい検閲制度と迫り来る戦争の重圧の中で描かれたドストエフスキーの『白夜』の美しい文章に何度も言及していたが、司馬遼太郎氏などとの鼎談『時代の風音』ではこの厳しい時代に雑誌『驢馬(ろば)』の同人だった作家・堀辰雄についても語られていたのである。

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零戦の設計者・堀越二郎氏の著作『零戦 その誕生と栄光の記録』(角川文庫、2012年)で感心したのは、「第四章  第一の犠牲」や「第六章 第二の犠牲」で、テスト飛行での失敗の原因とその対策について、詳しく記されていることであった。

それは失敗の原因を明らかにしなければ先に進むことができない技術者という視点からは、当然の記述であるといえるかもしれないが、注目したいのはこのような記述が、政府や郡部による「事実」の「隠蔽」に対するきわめて鋭い批判となっていることである。

たとえば、太平洋戦争が始まると「以前にも増して熱にうかされたような勝利の報道がなされつづけた」と記した堀越氏は、「太平洋戦争の転回点となったミッドウェー海戦」についても、「当時の新聞には、『東太平洋の敵根拠地を急襲』といった見出しが一面のトップの最上段全体にわたって掲げられ」ていたが、「戦後明らかにされた事実は、まったく逆だった」と続けていた(203~4ページ)。

さらに、「ガダルカナルをめぐる戦い」も「日本軍の敗北で終わった」が、「新聞には、ガダルカナルからの『転進』であると書かれ、この敗北は国民には隠されていた」と記している(211)。

問題はこのときと同じような事態が、現在の日本で起きていることである。

素人の見解に過ぎないが、私には放射能の濃度が高すぎて原子炉の破損の状況を具体的に調べることができないだけでなく、大量の汚染水が毎日、海洋へと流れ出ている福島第一原子力発電所の事故は、「太平洋戦争の転回点となったミッドウェー海戦」と同じようなレベルでの「原子力の平和利用」政策の破綻であると思える。

新聞やテレビなどのマスコミに求められるのは、「熱にうかされたような」経済効果についての報道ではなく、現実に起きていることとその対策をきちんと「国民」に伝えることだろう。

《風立ちぬ》論のスレッド(Ⅰ~Ⅲ)と【書評】  アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ(Ⅰ) 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風 《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

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《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風

《風立ちぬ》の冒頭で描かれた夢のシーンの後に、「大地」が揺れることを実感させられる関東大震災の圧倒的な描写がある。

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汽車に乗っていた主人公の二郎は、大地震の際に菜穂子との運命的な出会いをすることになるのだが、長編小説『竜馬がゆく』で1854年の「東海地震」に遭遇した竜馬の心理と行動を詳しく描いていた司馬遼太郎氏は、「大国」土佐の領主となる山内一豊の妻・千代を主人公とした『功名が辻』でも、地震について二度触れている。

すなわち、長浜城主に封ぜられてから四ヵ月目の夜に起きた「天正地震」で、最愛の娘を失った山内一豊夫妻はその衝撃から抜け出せずに「ひと月あまり廃人同然になった」と書かれている。そして、「伏見大地震」の際には怖がる千代を一豊が「いまおなじ大地で太閤殿下も揺れている。江戸内大臣殿(家康)も揺れている。みな裸か身で揺れておるわい」と慰め、「権勢富貴などは地が一震すれば無になるものだ」という哲学的な言葉を語らせている。(『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、2009年、54~56ページ参照)。

ここには人間は大自然の激動の前にはほとんど無力であるという司馬氏の自然観がよく出ているだろう。それはニヒリズムではなく、地球という星を創造し、火山活動によって日本列島を産み出した大自然への深い畏敬の念なのである。

「太国」土佐の領主となった山内一豊は、征服された後も抵抗をやめない長曾我部家の家臣たちを「鬼」とみなして計略で殺してしまう。その後で司馬氏は「一豊様が一国のあるじになっていただくことが、わたくしの夢でした」が、その夢のために「領民がくるしんでいるとすれば、この夢はわたくしたち夫婦の我執にみちた立身欲だっただけのことになります」と千代に語らせている(第四巻・「種崎浜」)。

司馬氏はそれまでは「殺さない武将」として豊臣秀吉を高く評価していた千代の眼をとおして、「朝鮮征伐」を行うようになった豊臣秀吉を「英雄」の「愚人」化と厳しく批判している。このとき司馬氏は「権力」を得ることによって慢心した政治家は、人の生命の尊さだけでなく、大自然に対する畏敬の念さえも失ってしまうことを示唆していたようにも思える。

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《風立ちぬ》における大地震の描写からは、その激しい揺れが観客席にまで伝わってくるような衝撃を受けたが、高台に停車した列車から脱出した二郎と菜穂子の眼をとおして観客は、大地震の直後に発生した火事が風に乗って瞬く間に広がり、東京が一面の火の海と化す光景を見ることになる。しかも、菜穂子を実家に連れて行こうと歩き出した二郎の歩みとともに逃げ惑う民衆の姿がアニメ映画とは思えない克明さで描かれているのである。

このときの「風」と原発事故後の「風」について宮崎監督は、インタビューででこう語っている。

「福島の原発が爆発した後、風が轟々と吹いたんです。絵コンテに悩みながら、上の部屋で寝っころがっていると、その後ろの木が本当に轟々と鳴りながら震えていました。子供を持っているスタッフたちは線量計を買っていましたが、『ああ、これも風なんだ』と思いましたね。爽やかな風じゃない、轟々と吹く、放射能を含んだ風もこの世界の一部なのだと思いました。そういうことですね、風って」(アトリエ「二馬力」での完成会見より、「風立ちぬ特別号」『スポーツ報知』 )。

宮崎監督のこの言葉を読んだときに思い出したのが、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の後で行われた講演会で語られた司馬遼太郎氏の言葉であった。

「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」(「人と樹木」『十六の話』、中公文庫)。

しかも司馬氏は「平凡なことですが、人間というのはショックが与えられなければ、自分の思想が変わらないようにできているものです」と続けていたが、福島第一原子力発電所の大事故はチェルノブイリ原発事故に匹敵するものであり、しかも後者はともかくも「石棺」によって放射能の流出は止まったが、フクシマからはいまも膨大な量の汚染水が太平洋へと注ぎ出ているのである。

現在の日本に必要なのは、対外的な問題のみを強調して危機感を煽り立てる政治家ではなく、日本の大地や近海だけでなく地球環境をも破壊しつつある重大な問題を直視して、このような原発を推進した者の責任を明らかにするとともに、地球環境の保全のためにもきちんとした対策を立てることのできる政治家であるだろう。

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アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法

1992年に公開された「中年男のためのマンガ映画」《紅の豚》では、生々しい戦闘場面も含んではいたが、主人公のパイロット・マルコが「空賊」との戦いでは人を殺さない人物と設定されているだけではなく、「飛べない豚は、ただの豚だ」とうそぶく「クールな豚」にデフォルメすることによって、現実の重苦しさからも飛翔することのできるアニメ映画となっていた。

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戦闘機「零戦」を設計した実在の人物である堀越二郎氏が《風立ちぬ》の主人公となっていることを知ったとき、私は関東大震災から日中戦争を経て、太平洋戦争へと突入することになる重たい時代を、アニメ映画がどのように描き出すことができるのかに期待と不安を持って映画の開始を待っていた。

600名を収容する大ホールのざわめきが、映画が始まると一瞬にして止んだ。それは主人公の少年が屋根の上に置かれた鳥のような美しい飛行機に乗り込んで飛び立つという、冒頭に置かれた夢のシーンの力によるものが大きいだろう。

しかも、この最初の夢で主人公の二郎少年は、「イタリア航空界の黎明期から1930年代にかけて世界的に知られた飛行機製作者」である「ジャンニ・カプローニおじさん」と出会うが、「今日の日本にただよう閉塞感のもっと激しい時代」に生きた二郎の夢の中に、この人物はたびたび現れては挑発したり助言するだけでなく、最後の場面でも再び現れるという重要な役割を担っているのである。

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《風立ちぬ》の「企画書」には、「夢の中は、もっと自由な空間であり、官能的である」と書かれていている。この言葉を読んだときに思い出したのが、宮崎氏が「ぼくにとっては、運命の映画であり、大好きな映画なんです」と述べているアニメ映画《雪の女王》(1957)の中に出てくる「夢の精」ルポイのことであった。

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このアニメ映画の特徴については、スタジアジブリの新訳版《雪の女王》(2007)の解説に端的に書かれているので、少し長くなるががそれを引用する。

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「監督のアタマーノフをはじめとするロシア版のスタッフは、映像化にあたって、『雪の女王』の原作から、賛美歌や天使、主の祈りといった宗教的なアイテムを徹底的に廃しました。

結果、話は普遍的になり生命と想いの力強さが浮き彫りにされ、ついには神話的ともいえる高みに到達したのです。

神話とは国家や一神教(ここではキリスト教)が出現する以前の、アニミズムに深く根ざした、世界の成り立ち、生命の誕生を解き明かし、人が生きて行くための知恵を説く哲学だという学説がありますが、熱き想いを貫くことで、死にも打ち勝ち、幸福を手に入れるという《雪の女王》が描いたものは、まさに神話的と呼んでも差し支えないでしょう。」

ただ、このアニメ《雪の女王》で女王は「死」の象徴だけでなく、「自然(冬)の力」の象徴としても描かれていると思える。なぜならば、カイが「雪の女王」なんかこわくない、燃えている煖炉に突っこんでやると語ったのを聞いた女王は、愚か者を捜し出して心臓に氷を突き刺せと命令したのである。

こうして、カイが自然を軽視した少年として描かれているのに対し、少女のゲルダはツバメや山羊に語りかけるだけでなく、川には自分の靴を贈って、行き先を尋ねるような自然の力を理解できる少女として描かれており、ここでは「自然」に対する「人間の傲慢さ」と「やさしさ」のテーマも響いていた。

このアニメの特徴の一つとしては「夢の精」ルポイを挙げることができるだろう。よい子には白い傘をさすと面白い夢が見られるし、悪い子に黒い傘をさすと夢は見ないなどと語りながら、ルポイは物語を進めていく。

重苦しい時代が描かれている《風立ちぬ》でも、二郎の夢の中に現れるカプローニおじさんは、「日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する」という厳しい時代を生きる二郎だけでなく、未だに原発事故が収束せず、泥沼化している現代の日本に生きる青年にも、ルポイのように白い傘をさして、未来への「夢」を与え得ているのである。

 

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『もののけ姫』の大ヒットと二一世紀の地球環境

中世の日本を舞台に、森の木々を切って鉄を作る集団と太古から森に住む荒ぶる神々との戦いを描いた『もののけ姫』が大ヒットをしている。八月末現在で九〇〇万人近い観客が見たという。

しかし、ここには宮崎駿監督の作品を特徴づけていた飛翔感はない。主人公の若者たちは風のように疾駆し、高く跳ぶ。だが、彼らは『天空の島ラピュタ』や『魔女の宅急便』の主人公たちのように浮遊することはない。『となりのトトロ』や『紅の豚』にあったような温かいユーモアも、『風の谷のナウシカ』の圧倒的なカタルシスもない。「たたり神」に変わった猪の呪いは、若者アシタカの腕にからみつき、戦闘の場面では侍の切られた頭や両腕が飛ぶ。

ではなぜ、このように重たいアニメが現代の若者たちの心をとらえたのであろうか。おそらくそれはこのアニメ映画が、価値観が激しく動揺する時代を生きる若者たちの苦悩を正面から描いているからだろう。言葉を換えれば「飛翔感」の欠如は、歴史的事実の「重力」によるものなのである。

かつて文明理論の授業で未来に対するイメージを質問したところ、多くの学生から悲観的な答えが帰って来て驚いたことがある。しかし、一二月に温暖化を防ぐ国際会議が京都で持たれるが、消費文明の結果として、一世紀後には海面の水位が九五センチも上がる危険性が指摘され、洪水の多発など様々な被害が発生し始めている。多くの動植物の種が滅んでいく一方では、ゴミ問題が各地で起きている。臓器移植やクローン技術の急速な発達は、自己のアイデンティティをも脅かしている。

こうして、現代の若者たちを取り巻く環境は、きわめて厳しい。大和政権に追われたエミシ族のアシタカや人間に棄てられ山犬に育てられた少女サンの怒りや悲しみを、彼らは実感できるのだ。

『もののけ姫』には答えはない。だが、難問を真正面から提示し、圧倒的な自然の美しさや他者との出会いを描くことで、観客に「生きろ」と伝え得ている。

東海大学の現代文明論の授業では、早くから人間と自然の関係の重要性を指摘してきた。私たちに求められるのもこの難問へのより真摯な取り組みだろう。

(コラム「遠雷」、『東海大学新聞』第717号、1997年9月)