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ドストエフスキー

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

はじめに 映画《赤ひげ》とマンガ『アドルフに告ぐ』

映画《赤ひげ》でブルーリボン賞の助演女優賞を受賞した二木てるみ氏を招いての例会で最も印象に残ったのは、黒澤明監督による演技指導の際にアウシュビッツの写真を見せられたと語っていたことでした。

なぜならば、その時に手塚治虫がマンガ『アドルフに告ぐ』(1983年~85年、『週刊文春』)で、アウシュビッツのことについても詳しく描いていたことを思いだしたからです。

アドルフに告ぐ 〈1〉 文春文庫 (新装版) アドルフに告ぐ 〈2〉 文春文庫 (新装版) アドルフに告ぐ 〈3〉 文春文庫 (新装版) アドルフに告ぐ 〈4〉 文春文庫 (新装版) 

(書影は「紀伊國屋書店のウェブ」より)

しかも、映画《デスル・ウザーラ》の後で『赤き死の仮面』の企画がたてられた際に、黒澤監督は手塚治虫に美術監督を頼んでいたのです。ここでは子供向けのマンガ『罪と罰』の構造とその特徴を考察することで、黒澤明監督の手塚治虫観の一端に迫ることにします。

一、『赤き死の仮面』の企画とマンガ『罪と罰』の映画的手法

黒澤明監督が手塚治虫の全集を持っていたと語った手塚治虫の息子の手塚真氏は、二人の深い信頼関係をこう証言しています。少し長くなるが引用します。

『天才の息子』アマゾン(書影は「アマゾン」より)

(手塚真『天才の息子―ベレー帽をとった手塚治虫』、ソニーマガジンズ、二〇〇三年)。

 「父と黒澤さんはひと世代ほど違いますが、お互いに世界に通用する日本の作家として敬意を表していました。ふたりは一緒に仕事をしたいと考えていたようでした。実際『赤き死の仮面』という企画で、黒澤監督は父に美術監督を頼んできました。」

「キューブリック以来の、国際的な監督からの依頼で今度は父も期待していました。これはエドガー・アラン・ポーの原作を映画化するというもので、歴史的な背景を持ちながら幻想的な映画になる予定でした。黒澤明がポーの原作を使い、手塚治虫が美術監督というのでは、いやでも期待します。」

そして、キューブリック監督から「次に制作するSF映画(『2001年宇宙の旅』)の美術監督を引き受けて欲しい」とのオファーの手紙を受けた際に、手塚治虫が「僕には食べさせなければならない家族(社員)が100人もいるのでそちらには行けない」と断っていたことを紹介した手塚氏はこう続けていました。 

「しかし残念なことにこの企画は世界のどこでも実現せず、黒澤監督は代わりに『影武者』を作ることになりました。黒澤さんは脚本ができると、真っ先に父の元に送ってきて、感想を聞きたいと言われたそうです。大変な信頼を寄せていたのでしょうね。」

それは、映画《夢》(1990)の構造がなぜ、『罪と罰』の構造と似ているのかという問題にもつながると思えます。それゆえ、『赤き死の仮面』という壮大な企画をたてた際に、なぜ黒澤監督が手塚治虫に美術監督を頼んだかを知るヒントの一つは、手塚治虫がマンガ『罪と罰』を戦後の1953年に描いていたことにあると思えます。

実は、手塚は『罪と罰』を「常時学校へも携えていき、ついに三十数回読み返してしまった」と記していました(『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、二〇〇八年)。アシスタントたちの証言でも、長編漫画に関して『ぼくの基本は『罪と罰』なんです』などと語っていたのです(「元アシスタント座談会 われら手塚学校卒業生」『一億人の手塚治虫』JICC出版社)。

黒澤哲哉氏はマンガ『罪と罰』の特徴として、「描かれている人びとが単なる群衆や雑踏ではなく、それぞれに個性があり役者としてキャラの立っている」“演劇的”モブシーンを挙げて、「学生時代、役者として舞台に立った経験があり『罪と罰』の舞台ではペンキ屋を演じたという手塚は、この時代、多分に演劇を意識していたのだろう」と指摘しています(「虫ん坊」、「コラム 手塚マンガ あの日あの時」)。

実際、犯人に間違えられたペンキ屋のニコライが逮捕される場面も、「ああいう虫も殺さない顔をしてて人を殺すのかぇ」、「ヘエーエ、あのばあさまがねェ。おそろしや、おそろしや」などの台詞とともに、一頁全部を使ってさまざまな民衆の姿や声が、ドストエフスキー小説のポリフォニー性を指摘したバフチンのカーニバルについての理論を思い起こさせるように細かく描き出されているのです(マンガ『罪と罰』、角川文庫、一九九六年、二五頁。なお、マンガの台詞はコマ割りの都合上たびたび行替えされているので、ここでは引用の際に、ワンセンテンスは一行とし、読点と句点を付けた)。

 (書影は「手塚治虫 公式サイト」より)

また、このマンガではラスコーリニコフが階段を上って「高利貸しの老婆」を殺しに行く場面から逃げ出すまでの場面が一一頁にわたって縦割りのコマ割りで描かれるなど、登場人物の動きが具体的に分かるように描かれています。

ただ、マンガ『罪と罰』はドストエフスキーの『罪と罰』を子ども向けに翻案してマンガ化した作品ですので、基本的には忠実に描いていますが、原作とは異なる点も一部あります。

そのもっとも顕著な例が、登場人物のスヴィドリガイロフをラスコーリニコフの妹ドゥーニャを家庭教師として雇う地主ではなく、女主人のマルファに仕える下男として描き、彼を暴力的な手段で革命を起こそうとしている男として視覚化していたことです。

それゆえ、最初に読んだ際にはそのような変更に強い違和感を覚えて、やはり子供向けのマンガだと感じていました。しかし、ドストエフスキーの長編小説『白痴』を沖縄からの復員兵を主人公として1951年に映画化していた黒澤監督の理解をとおして読み直したときに、手塚がこのマンガで「自然支配の思想」と「非凡人の理論」の危険性についての深い理解を示していることに気付きました。

おそらく、マンガ『罪と罰』におけるドストエフスキー理解の深さは、黒澤監督が手塚治虫に『赤き死の仮面』の美術監督を依頼したかの理由の一端をも物語っていると思われます。

二、草花から受けた印象と「やせ馬が殺される夢」のマンガ化

ドストエフスキーは犯行の前日にペテルブルグの郊外をさまよったラスコーリニコフが草花を見て、「他の何よりも長い時間、それに見とれていた」と書いた後で、彼が子供の頃に父親とともに見た「やせ馬が殺される夢」を描いていました。

映画《夢》のためのノートで「やせ馬が殺される夢」の一節を引用した黒澤監督はこの夢の重要性を指摘していました。それは第一話「日照り雨」や第二話「桃畑」で見事に映像化されているように、草花の印象と結びつけられて記されている「、ラスコーリニコフが子供の頃に故郷の村で体験したことや農村の景色をも連想させたからだと思えます。

手塚治虫のマンガ『罪と罰』では、ラスコーリニコフの見る夢が描かれていないので、「やせ馬が殺される夢」も省略されているのですが、ドゥーニャと弁護士ルージンとの婚約を伝えた母親の手紙では、「私は毎日森や野山をながめてはおまえのことを思い出しています」という文章と共に、丸一頁を使って村の景色が描かれ、三段別れている次の頁の上段では野原に咲く花が描かれ、「こちらは一面にアザミの花が咲きましたよ。おまえに見せたいくらい……」という言葉が添えられています。

そして、小屋とウサギたちが描かれている次のコマの「おまえが小さいときよく遊んだ小屋も草やつたでおおわれてそのまま立っています」という台詞に続いているのです(五五~五六頁)。

これらの絵と文章が「やせ馬が殺される夢」の前に見とれた草花の絵画化であることは明白でしょう。これらの場面は「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉が」なぜ囚人たちにとってそれほど重要な意味を持つのかを忘れてしまっていたラスコーリニコフが、長い時間をかけてシベリアの大地で「復活」することへの重要な示唆となっていたのです。

三、小林秀雄の「良心」理解と手塚マンガの最終シーン

『罪と罰』のもう一つの大きな主題である「非凡人の理論」の危険性は、権力者からの自立や言論の自由などで重要な働きを担っている「良心」についての司法取調官ポルフィーリイとの議論やスヴィドリガイロフとの対決などをとおして考察されていました。

日本で初めて『罪と罰』の翻訳を行った内田魯庵は、そのことをよく認識しており明治45年には、この長編小説の大きな筋の一つは「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る経路」であると指摘していました(「『罪と罰』を読める最初の感銘」)。

そして、『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』で主人公の「良心の呵責」の問題も描いていた島崎藤村も、ドストエフスキーについて「あれほど人間を憐んだ人も少なかろう」と書き。「その憐みの心が」、「貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう」と記していました(『春を待ちつつ』、かな遣いは現代表記に改めた)。

一方、文芸評論家・小林秀雄は明治時代に成立していた「立憲主義」が「天皇機関説」論争で放棄されることになる前年の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と「謎」を強調しつつ、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

このような小林の解釈は、エピローグにはラスコーリニコフが「きびしく自分を裁きはしたが、彼の激した良心は、だれにでもありがちなただの失敗以外、自分の過去にとりたてて恐ろしい罪をひとつとして見出さなかった」と書かれ、さらに「おれの良心は安らかだ」という彼の独り言も記されていることを踏まえたものだといえるでしょう。

しかし、ラスコーリニコフに対して「非凡人と凡人の区別をどうやってつけたものですかな」と問いかけていた司法取調官のポルフィーリイは、「その他人を殺す権利を持っている人間、つまり《非凡人》というやつはたくさんいるのですかね」と問い質していました。

そして、「悪人」と見なした者を殺した人物の「良心はどうなりますか」という問いに「あなたには関係のないことでしょう」といらだたしげに返事したラスコーリニコフに対しては、「いや、なに、人道問題として」と続けて、「良心を持っている人間は、誤りを悟ったら、苦しめばいい。これがその男への罰ですよ」という答えを得ていました(三・五)。

この返事に留意しながら読んでいくと本編の終わり近くで、「良心の呵責が突然うずきだしたような具合だった」(六・一)と書かれている文章と出会うのです

しかも、ドストエフスキーが農奴を殺しても「良心」の痛みを感じなかったスヴィドリガイロフに自殺の前夜に悪夢を見させていたドストエフスキーが、エピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いていることに留意するならば、この長編小説では誤った過激な「良心」理解と民衆とも共有できるような広い「良心」理解の二種類の「良心」理解が描かれていると考えるべきでしょう。

つまり、小林秀雄は自分流の結論を導くために、新自由主義的な経済理論で自分の行動を正当化する弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いていたのです。

一方、手塚治虫のマンガ『罪と罰』では、弁護士ルージンの卑劣な行為やポルフィーリイとの「非凡人」をめぐる激しい議論もきちんと描かれています。そして、その議論を踏まえて、スヴィドリガイロフとの次のような会話が記されているのです。

すなわち、マンガ『罪と罰』の結末で「ぼくァ、あなたの論文を読んだんです」と語ったスヴィドリガイロフは、「そして決めたんですよ。あなたを同志にしようと……」と語ります。

ラスコーリニコフから断られると、さらに「かくさないでください。ぼくとあなたとはどうも似ているところがありますね」と続けたスヴィドリガイロフは、最終的に断られると「それならば、ぼくはきみを反動者として制裁する」と宣言してピストルを発射するのですが致命傷には到らず、革命の合図を見て立ち去ります。

この後でソーニャに老婆の殺害を告白したラスコーリニコフは、学生の暴動を見て、「ぼくのように自分を天才だと思っているやつが……」、「何人もいるんだスヴィドリガイロフもそのひとりだ……」と語って、己の「非凡人の理論」の誤りを認めるのです。そして、「すぐ町の広場へいらっしゃい。そして地面に接吻して大声で『ぼくが犯人はぼくだ!』というのよ」というソーニャの言葉に従って広場に行きます。

暴動が始まり大混乱となった広場で自身の罪を大声で告白する箇所は、多くの民衆が描かれている迫力のあるモブシーンで描かれ、最後の場面では自首しに警察に向かう主人公の後ろ姿が余韻を持って描かれているのです。

 

おわりに

このように見てくる時、少年向けに書かれた漫画でわずか一二九頁に、『罪と罰』の主な筋と主要な登場人物を描き出したばかりでなく、エピローグの内容をも組み込んでいる手塚治虫の手腕と『罪と罰』理解の深さには驚かされます。

手塚治虫は「戦後七〇年に考える」と題して開かれた「アドルフに告ぐ展」のための文章でこう記しています。

「僕は戦中派ですから、戦争の記録を、僕なりに残したいという気持ちがありました。戦後も40年以上たちますと戦争のイメージが風化してくるんですよ。僕も、そう長い先まで仕事ができないので、今のうちに描いておこうと思ったんです」。(出典はhttp://tezukaosamu.net/jp/manga/282.html … )

アドルフに告ぐ展

(黒澤明研究会編『研究会誌』)、No.39号、2018年、80~85頁、一部改訂して転載)

井上ひさし《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》、《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》、《頭痛肩こり樋口一葉》の劇評を掲載

今、読み返すと井上氏の演劇は現在の日本の状況を見事に先取りしていただけでなく、未来への可能性も示していたように思えます。

同人誌『人間の場から』に「見ることと演じること」と題して掲載した1988年頃の劇評を再掲します。

 

「記憶」の痛みと「未来」への希望 ――井上ひさし《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》

「忍び寄る『国家神道』の足音」と井上ひさし《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観

リンク「映画・演劇評」のページ構成

はじめに

かねてからタルコフスキー(一九三二~一九八六年)の映画には関心を持っており、映画《惑星ソラリス》は授業でも紹介していたが、なかなか詳しく調べる暇がなくそのままになっていた。それゆえ、タルコフスキー監督に関する多くの文献をとおして両者が会った年月を確認し、両監督の映画の深い関わりを明らかにした堀伸雄氏の「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」(『黒澤明研究会誌』(第三二号)からは強い知的刺激を受けた。

さらに『ドストエーフスキイ広場』(第二四号)に掲載された「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉― 黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」を読んだことで、ドストエフスキーの研究者ではない堀氏が長編小説『白痴』に示している深い理解の原因の一つが、黒澤明監督だけでなくドストエフスーをも深く尊敬していたタルコフスキー映画の理解にあることに気づいた。

それゆえ、本稿では堀氏の論文にも言及しながら映画《惑星ソラリス》を中心に考察することで、黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観とその意義に迫ってみたい。

一、 黒澤監督と映画《惑星ソラリス》

「『惑星ソラリス』を中心に、物質性と精神性について」と題する論文でタルコフスキーは、「文芸作品の映画化」という側面から黒澤映画《白痴》などに次のように言及していた。

〈文芸作品の映画化は、映画監督が作品から離れて、なにか新しいものを作り出したときにのみ成功するのだと、私は信じています。(中略)最良の映画化とは、原作とは別の新しい何かなのです。シェイクスピアとドストエフスキーの最良の映画は、黒澤の『蜘蛛巣城』(マクベス)と『白痴』です。しかし黒澤はきわめて多くのものを破壊しました。全く新しいものを創造するために、舞台を現代に移しさえしています。例えば、ドストエフスキーの小説を逐語的に言いかえたり、図解したりしようとする映画監督よりも黒澤は、ドストエフスキーに近いことがわかるのです。文芸作品の映画化自体は、純粋の意味では、意味がないと思います〉*1。

ここでタルコフスキーは主人公を日本人とし、登場人物の数を減らして筋にも変更を加えつつも、長編小説『白痴』の本質を描いた黒澤映画の創作方法を見事に指摘しているといえるだろう。

しかし、ポーランドの作家スタニスワフ・レムのSF小説『ソラリス』を原作とした映画《惑星ソラリス》は、一九七二年にカンヌ国際映画祭審査員特別賞などを受賞したものの原作者からは酷評された。

その理由を原作者のレムは次のように語っている。「タルコフスキーは私の原作にないものを持ち込んだのです。つまり、主人公の家族をまるごと、母親やらなにやら全部登場させた。それから、まるでロシアの殉教者伝を思わせるような伝統的なシンボルなどが、彼の映画では大きな役割を果していたんですが、それが私には気に入らなかった」*2。

実際、レムの原作『ソラリス』では、ようやく、地球からの緊張に満ちた飛行を終えて宇宙ステーション「プロメテウス」に到着した心理学者のクリス・ケルヴィンが耳にしたのは、「単語の一つ一つが、鋭く飼い猫の鳴き声のような音で区切られていた」機械的な音声による案内であり、「控え目に言っても、奇妙なことだ。誰か新しい訪問者が到着した。しかもほかならぬ地球から来たのだ、とあれば、生きている者は誰でも発着場に駆けつけるのが普通ではないか」と感じたと描かれている*3。

さらに、主人公が宇宙ステーションで最初に出会ったサイバネティックス学者のスナウトは、クリスの到着に取り乱して「ギバリャンはどこだ?」という質問に答えないばかりか、天体生物学者のサルトリウス以外の誰かを見かけても「何もするな」という奇妙な警告を発するというきわめて緊迫した状況で始まる。

こうして、レムのSF小説では「知性を持つ巨大な存在」である「ソラリスの海」と人間との意志疎通の試みが大きなテーマであり、クリスは「ソラリスの海」によって主人公の記憶の中から実体化して送り出された「自殺した妻」ハリーとも出会うことになる。

一方、澄んだ水の流れとそこに揺らめく藻、そして草の情景から始まる映画《惑星ソラリス》では、原作にはない地球上での風景や家族とのやりとりが描かれており、それに対応するようなシーンで終わる。

それゆえ、訳者の沼野充義氏は「愛を超えて」と題した『ソラリス』の解説で、「(タルコフスキーの映画では――引用者注)シンボルは母から、母なるロシア、大地(地球)へつながっていき、映画は小説とは根本的に違うイデオロギー的意味を担うにいたる」と説明している*4。

たしかに原作と映画から受ける印象はかなり異なり、自分の原作にロシアの家族の物語を挿入された原作者レムの不満は理解できる。しかし、映画《惑星ソラリス》のテーマは、ロシア文学者でもある沼野氏の解釈のように、ロシア的な特殊なものに収斂されるのだろうか。むしろこの映画はドストエフスキー作品のように、きわめて深く個人の内面を描きつつ、普遍的なテーマをめざしているのではないのだろうか。

この意味で注目したいのは、映画《デルス・ウザーラ》の撮影のために当時のソ連に滞在していた黒澤監督が、一九七三年にタルコフスキーとともに映画《惑星ソラリス》を観たあとで、導入部の地球の自然描写の巧みさの中に、科学の進歩は人間を一体、どこへ連れていってしまうのかという根源的な恐ろしさを表現していると評価し、他の監督には見られない並はずれた感性に大いなる将来性を感じたと述べていたことである*5。

このような理解の背景にあるのは、この映画が提起している文明論的な課題の重視であろう。かつてソラリスで奇妙な体験をした宇宙飛行士のアンリ・バートンは、主人公のクリスが「ソラリスの海」の謎を解くために「非常手段として海に放射線を当ててみるか…」と語ると、たとえ研究にしても「手段を選ばぬやり方には反対だ。道徳性に立脚した研究でなければ…」と語り、「不道徳でも目的は遂げられます。ヒロシマのように」と主人公のクリスが反論するとバートンが「君は何を言うんだ。おかしいぞ」と激怒する場面が描かれているのである*6。

黒澤映画《デルス・ウザーラ》の冒頭の場面でも、沿海州を調査した隊長アルセーニエフが、探検隊のガイドをしてくれた森に詳しいデルスの墓を一九一〇年に訪れるが、開発によって工事が進み、その埋葬地さえも分からなくなっているというシーンが描かれている*7。

黒澤監督は記者会見でこの映画の理念についてこう語っていた。「人間は自然に対して好き勝手をしている。しかし、本当に自然を怒らせてしまったら、とんでもないことになる。…中略…環境汚染は海面だけでなく、海底にも及んでいる。今地球が危機に瀕している。今人類には環境を守ることが課題となったのだ。科学をそのために使わなければ自然は滅び、それとともに人間も滅びる。『デルス・ウザーラ』は二〇世紀初めの話だが、私の思いはそこにある」*8。

このような黒澤明の発言には『作家の日記』において、「森林がどんどん伐採されて影をひそめるおかげで、ロシアの気候はまるっきり別なものになろうとしています、水分を保持するところがなくなり、どこにも風をふせいでくれるものはありません」と木々が気候に与える影響について書き記していたドストエフスキーからの影響も見ることが可能だろう。

残念ながら日本では小林秀雄の解釈以降、ドストエフスキーの作品における骨太の文明論的な構造は軽視されるような傾向が今も続いている。しかし、ドストエフスキーは若い頃参加していたサークルの指導者であり、後に「ロシア植物学の父」と呼ばれるようになるアンドレイ・ベケートフとの交友を続けていた。そのベケートフは一八六〇年に「自然界の調和」という論文で、「勝者と敗者以外に何もない世界」を描き出していた社会ダーウィニストたちを批判するとともに、「自然界の調和は普遍的必然性の法則の表明」であると主張していた*9。『罪と罰』で「自然支配の思想」や「弱肉強食の思想」など近代西欧文明の問題点に鋭く切り込んだドストエフスキーには、このような文明論的な視野があるといえるだろう。

さて、映画はその後宇宙ステーション「プロメテウス」で物理学者ギバリャンが謎の自殺を遂げ、残った二人の科学者も何者かに怯えていることを描いた後で、クリスの前に数年前に自殺した妻ハリーが現われるという場面が描かれる。

この妻について映画《惑星ソラリス》では、旅立つ前に主人公のクリスが過去の思い出となる書類やかつての妻の写真を燃やすという地上のシーンで何回か示唆されていたが、妻の自殺に良心の呵責を覚えていたクリスは、「ソラリスの海」によって彼の記憶を物質化して送られた「妻のハリー」と出会うことにより、自分の内面を直視することになる。

それゆえ、映画《惑星ソラリス》の何度も現れる「妻」のシーンから、『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフが「高利貸しの老婆」を殺す前後に見るさまざまな「悪夢」を連想した私は、冒頭の藻のシーンからもラスコーリニコフが殺害の前に「花に見とれ」つつも、その意味を理解できずに立ち去ったという文章を思い浮かべたのである*10。

さらに、『罪と罰』の若き主人公は、酔っ払った少女をつけ回す中年の男を見つけて、警官を呼ぼうとしたあとで、数学の確率論を思い出し、今救ってもどうせ同じような結果になると考えてあきらめる一方で、今、すぐ大金が必要だとして「高利貸しの老婆」殺しを実行していた。

作品を読んでいない方には関係が分かりにくいかもしれないが、研究のためならば「非常手段として海に放射線を当ててみるか」と提案していた映画《惑星ソラリス》の主人公・クリスの考え方は、殺人を犯す前の『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフの思考法ときわめて似ているのである。

そのようなクリスに対して研究の続行を主張しつつも、「海を破壊すること」につながるような方法を拒絶していた宇宙飛行士のバートンは、それ以上の会話は無意味と考えて説得をあきらめるが、車で帰宅するバートンが高速道路で次々とトンネルを通過しながら考え込むシーンはきわめて印象的であり、映画《夢》の第四話「トンネル」のイメージとも重なる。バートンを「幻覚」を見た者のようにみなしてその主張を軽視していたクリスは、ソラリスでバートンの見た「幻覚」の意味を理解することになる。

このように見てくるとき、映画《惑星ソラリス》は『罪と罰』からの影響が非常に強いのではないかと思えるが、実際、堀氏の記述によれば「タルコフスキーの妹のマリーナと結婚した映画監督のアレクサンドル・ガルドン」も、「タルコフスキーの中には、常にドストエフスキーがおり、彼の作品には研究し、学び、考え、苦悩する芸術家ドストエフスキーが形を変えて現れる、つまり、タルコフスキーを通じてドストエフスキーが表現されている」と語っていたのである*11。

二、映画《惑星ソラリス》と『おかしな男の夢』、そして『白痴』

映画《惑星ソラリス》を初めて観た時に『罪と罰』とともに思い浮かべたドストエフスキー作品は、夢の中で他の惑星に行くというSF的な短編小説『おかしな男の夢』であった。この短編については、映画《夢》で実現されなかった「数学の不得意だった学生の私が、天使に導かれて地球から脱出しまた帰還して影と合体」するという話が描かれていたエピソード「飛ぶ」との関連で三井庄二氏の論文「現実と非日常の時空を超えた往還」(『会誌』第三〇号)にも言及しながら拙著でも簡単に触れていた*12。

三井氏は前号の論文の第九章で、タルコフスキーの映画『僕の村は戦場だった』における「イワン少年の見る叙情的な夢のシーン」にも言及している*13。一方、「まったく夢の中では、おれの理性にまったく理解しがたいことが起こるのである」と記された『おかしな男の夢』でも、夢の中で自殺した主人公は墓に埋葬された後で、広大な宇宙を旅して、地球と同じような星に着くのである*14。

そこはエデンの園のような理想郷で、主人公は彼らが「樹々と言葉をかわしていたと言っても、たぶん、あながちおれの誤りではあるまい!」と感じたばかりでなく*15、「なにかもっと積極的な手段によって、空の星と接触を保って」おり、「彼らは自然を讃え、大地を、海を、森を讃えた」とさえ確信したのである。

しかし、少し先を急ぎすぎたようなので、少し後戻りして主人公が自殺をしようとする動機などを確認しておく。

大作『罪と罰』の前に書かれた『地下室の手記』は、「わたしは病的な人間だ……わたしは意地悪な人間だ」という印象的な言葉で始まっていたが、『おかしな男の夢』も「おれはおかしな男だ。やつらはみんないまおれのことを気違いだと言っている。もしおれがやつらにとって、昔のままのおかしな男でないとすれば、それはつまり格が上がったというものである」という特徴的な言葉で始まっている。

こうして主人公の「自意識」や「自尊心」の問題に注意を促したドストエフスキーは、「この世界が存在しようとしまいと、あるいは、どこにもなにもないにしても、おれにとってはどっちみち同じことだ」と感じた主人公が、「素晴らしいピストルを買い込んで、その日のうちに弾丸(たま)をこめておいた」と記したあとで、ある少女と出会った夜のことを描いているのである。

ピストルを買い込んでから二ヶ月間も引き出しにしまい込んでいた主人公は、ある晩、暗い夜空を見上げて一つの星を見つめながら今晩こそ自殺を決行しようと考える。しかし、そんなときに「頭をスカーフで包み、薄い服を一枚身につけているだけで、全身ぐしょ濡れになっていた」八歳ぐらいの少女が、「おかあちゃん! おかあちゃん!」と必死に叫びながら、「おれの肘をつかんだのだった」。

「母親を助けるなにかの手だてを見つけるために、彼女は駆け出してきたものに相違ない」と理解しつつも、怒鳴りつけて追い払ってしまった主人公は、又借りをしている部屋に戻るとピストルを取り出してテーブルに置いた後で、安楽椅子に腰をかけたままで思いがけず眠ってしまう。

ドストエフスキーはその後で夢の中で「エメラルドのような輝きを放っている小さな星」に向かって飛び続けた主人公がその星を見つめながら「自分が見棄ててきた、なつかしい古巣の地球に対する、どうにも抑えがたい感激的な愛情」にとらわれたと書き、「あのとき自分が侮辱を与えた哀れな女の子の面影が、ちらりと目の前にひらめいた」と描いている。

この記述は惑星ソラリスで「なつかしい古巣の地球」で自殺させた妻に対する記憶にさいなまれるようになるクリスの良心の呵責をも説明しているように思える。

さらに、理想的な時代から戦争に明け暮れるようになるまでの人類の歴史を夢の中で主人公に体験させたドストエフスキーは、夢から覚めた主人公が「おれはこれから出かけて行って、たゆみなく、絶えず説きつづけるつもりだ」と決意し、「なによりも肝心なのは――自分を愛するように他人をも愛せよということで、これがいちばん大切なことなのだ」と思ったと描いている。

そして、「ところでおれは例の小さな女の子を探し出した……。さあ出発だ! それではいよいよ出かけるとしよう!」とこの短編は結ばれているのである。

「他者との関係」を失い「自殺」するというテーマは、『悪霊』などで中心的なテーマとしてたびたび描かれているが、この描写から私が連想したのは、長編小説『白痴』で主人公ムィシキンの敵対者となる重要な登場人物のイッポリートのことであった。

自殺し損なったイッポリートは悪意に駆られてさまざまなことを企み、それが悲劇を生むことになるのだが、ドストエフスキーはこの長編小説で別な可能性も示唆していたのである。

映画《白痴》ではこのイッポリートのエピソードは全く描かれていないが、拙著ではこの人物を主人公としながら、その可能性を閉ざすことなく描いたのが映画《白痴》(一九五一年)の翌年に公開された映画《生きる》であるという考えを記した。

先に挙げた論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」で堀伸雄氏も同じような見解を記していたが*16、それはおそらくタルコフスキーに関する主要な邦訳文献を読み込み、考察した結果だと思われる。

ロシア文学者の井桁貞義氏は第一回国際タルコフスキー・シンポジウムの挨拶で、「私にとって残念なことは、タルコフスキーがドストエフスキーの『白痴』を映画化するプランを、ついに実現できなかったこと」と述べていた*17。このことを紹介した堀氏は、「タルコフスキーの思想遍歴と監督生活の日常については、彼が遺した貴重な二つの書籍から読み取ることができる。ひとつは、彼の人生観・芸術観・映画観などを俯瞰的に叙述した『映像のポエジア』であり、他方は、彼自らが『殉教録』と名付けた日記である」と紹介している。さらに、タルコフスキーが一九七〇年四月三〇日の日記で、「ドストエフスキーは、私が映画で作ってみたいと思っていることのすべての核になるかもしれない」と書かれていることに注意を促した堀氏は、映画《惑星ソラリス》の後もタルコフスキーがいかに『白痴』の映画化に向けて終始、執念を燃やし続けていたかを文献をとおして明らかにしている*18。

残念ながら、タルコフスキーは『白痴』の映画化には成功しなかったが、ドストエフスキーが強い関心を持っていた詩人プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』をオペラ化したムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の演出に携わっていた*19。

僭称者のテーマに強い関心を持ったドストエフスキーは、長編小説『悪霊』にこの問題を組み込んでいるが、プーシキンは歴史上の実在の人物をモデルとして権力者の「良心の呵責」の問題を描いたこの作品で、権力の獲得を目指したラスコーリニコフの先駆者とも呼ぶべき若き修道僧グリゴーリーに、彼が見た次のような夢について語らせていた*20。

「わたしは急な梯子をつたわって、塔に登った夢を見ました、モスクワが蟻塚のように見えました、下の広場では人民がひしめき、わたしを指さして笑うのです、わたしは恥ずかしくも恐ろしくもなりました。そして、まっさかさまに落ちると見て、ハッと目がさめました」。

その話を聞いた同室の老僧ピーメンは、それは若者の見る夢だとして、年代記を書いていたこともあり、イワン雷帝の幼い息子ドミトリーがゴドゥノフによって暗殺されたことを伝えた。その時、ピーメンはグリゴーリーの夢に強い権力へのあこがれを読み取り、その戒めとしてゴドゥノフのことを語ったと思われる。

しかし、皇子ドミトリーが生きていれば自分と同じ年齢になることを知ったグリゴーリーは僧院を出奔してリトアニアに逃げ、カトリック教徒のポーランド貴族の娘と結婚して改宗し、自分こそが生き残った皇子ドミトリーであると僭称して、ポーランド軍を率いてロシアに攻め込むことになるのである*21。

オペラ《ボリス・ゴドゥノフ》の演出に際して、皇帝(ツァーリ)となることを受け入れたゴドゥノフが、民衆の中にいた少年を見てはっとする場面を描いていたタルコフスキーは、修道院の「場」では、グリゴーリーとピーメンとの会話の背後で皇子ドミトリーが暗殺される場面を演じさせていた。それは偽ドミトリーとしてツァーリの座につき一時は権力を有するが、ほどなく亡ぶことになるグリゴーリーの将来をも示唆していたといえるだろう。しかもタルコフスキーはこのオペラの終幕ではモスクワに攻め込もうという偽ドミトリーの呼びかけに幻惑されて従う民衆を見た聖愚者にロシアの危機を語らせていた。

私自身としては、ゴドゥノフの子供達たちが自殺したと知らされ僭称者が皇帝になったことを祝うように強要された民衆が、「黙して答えず」と結ばれていた原作の方がその後の歴史を暗示して引き締まっていると感じている。しかし、このオペラの結末のシーンからはタルコフスキーが、「殺すなかれ」という理念を唱えていた長編小説『白痴』の主人公ムィシキンの悲劇を強く意識していたことは確実だと思われる。なぜならば、自分の恩人がカトリックに改宗していたということを知らされ、激しい衝撃を受けたこともあり主人公が元の「白痴」に戻ってしまうこの長編小説の結末も、ロシアの精神的な危機が強く示唆されているからである*22。

最後にもう一度映画《惑星ソラリス》に戻るが、「無重力になった宇宙ステーション内の図書館で抱き合って宙に漂うクリスとハリー」のシーンの直前に「少年時代の主人公が乗っていたと思われるブランコが雪に覆われた丘の上でかすかに揺れるショットがある」。そのことに注意を促したロシア文学者の相沢直樹氏は、そこに黒澤映画《生きる》との関連を見て、そのシーンは「クロサワへのオマージュだったかも知れない」と書いている*23。

黒澤監督がタルコフスキーと一緒に試写室で『惑星ソラリス』を観た後にウォッカで乾杯し、一緒に『七人の侍』だけでなく『生きる』のテーマなどを歌ったという、黒澤和子さんからの証言も踏まえた堀氏の興味深い記述にも留意するならば*24、そのシーンは実際に「クロサワへのオマージュだった」可能性が高いと思われる。

 

追記:

ブログに記したように、考察に際しては「ドストエーフスキイの会」第215回例会で「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」という題で発表された大木昭男氏の考察からも強い示唆を受けています。

ドストエフスキーが1864年に書いたメモで、人類の発展を「1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代」の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると語っていたのです。

この指摘は長編小説『白痴』の映画化にも強い関心をもっていたタルコフスキーのドストエフスキー観を理解するうえでも重要でしょう。

*1 月刊「イメージフォーラムNO80追補・増補版」七七頁。鴻英良訳による。引用は『会誌』第三二号に掲載の堀伸雄論文より)。

*2 スタニスワフ・レム、沼野充義訳『ソラリス』国書刊行会、二〇〇四年、三六〇頁。

*3 同右、八頁。

*4 同右、沼野充義「愛を超えて」(訳者解説)、三六〇頁。

*5 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、九七頁。

*6 DVD《惑星ソラリス》、アイ・ヴィ・シー、二〇〇二年。

*7 DVD《デルス・ウザーラ》、オデッサ・エンタテインメント、二〇一三年。

*8 ウラジーミル・ワシーリエフ、池田正弘訳『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』東洋書店、六~七頁。

*9 トーデス、垂水雄二訳『ロシアの博物学者たち』、工作社、一九九二年、一〇一頁。

*10 高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、二〇〇〇年、一九九頁。

*11 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、一一五頁。

*12 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、二〇一四年、二〇一頁。

*13 三井庄二「『七人の侍』に見る伝統文化と歴史観」(『会誌』第三二号)。平和時の叙情的な映像と戦時の過酷な日々が対比されている『僕の村は戦場だった』の夢からは、『戦争と平和』において突撃のシーンの前に見るペーチャの夢も連想される。

*14 小沼文彦訳『おかしな男の夢――幻想的な物語』、『ドストエフスキー全集』第一三巻、一九八〇年、筑摩書房。以下もこの訳からの引用による。

*15 前掲書『「罪と罰」を読む(新版)』では、この記述に注意を促しつつ、ソーニャという存在との類似性を指摘した。

*16 堀伸雄、前掲論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」、三二頁。

*17 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、一一四~一一五頁。

*18 堀伸雄、前掲論文「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」、四一頁。

*19 都築政昭氏の『プーシキンの恋 自由と愛と憂国の詩人』(近代文芸社、二〇一四年)では、波乱に満ちたプーシキンの生涯だけでなく、主要な作品も詳しく紹介されている。『ボリス・ゴドゥノフ』については一八三頁から一九四頁参照。

*20 プーシキン、佐々木彰訳『ボリス・ゴドゥノフ』(『世界文学体系』第二六巻)、筑摩書房、一九六二年、二〇九頁。

*21 DVD『ボリス・ゴドゥノフ』(『DVDオペラ・コレクション』)、デアゴスティーニ・ジャパン、二〇一一年。

*22 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、二〇一一年、二三四~二五二頁。

*23 相沢直樹『甦る「ゴンドラの唄」 「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』、新曜社、二〇一二年、三一二頁。

*24 堀伸雄、前掲論文「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー」、九六頁。

 

ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る

補充兵として参戦した主人公の心理をとおして真正面から「戦争」を問い質した大岡昇平の作品を、ドストエフスキー的な方法によって見事に舞台化した鐘下脚色による俳優座の《野火》からは強い感銘を受けた。

激しい飢餓と闘いながらレイテ島を放浪していて、島の若い男女と偶然に出会い、女を撃ち殺して男にも照準を合わせた主人公の心理と行動を大岡は、「男が何か喚いた。片手を前に挙げて、のろのろと後ずさりするその姿勢の、ドストエフスキイの描いたリーザとの著しい類似が、さらに私を駆った」と描いていた。

戦後に帰国して妻と再会した主人公の感触についても大岡は、「しかし何かが私と彼女との間に挟まったようであった」と書いていた。それはリーザたちを殺した後で母親や妹と再会したラスコーリニコフが感じた距離感をも連想させられる。

こうして、『野火』には、「殺すこと」の問題を極限まで掘り下げた『罪と罰』からの影響が強く見られるが、鐘下氏の脚色からもドストエフスキー作品の深い理解がうかがえる。

たとえば、ラスコーリニコフを見守るソーニャの視線が強調されていた『罪と罰』のエピローグと同じように、原作では結末近くの章になって描かれる主人公の妻が、劇では冒頭から登場して最後まで主人公の行動を見続けるのである。

『野火』において発狂した主人公の内面の声として描かれていた箇所は、「狂兵」という主人公の分身を登場させることで声の具象化が行われており、舞台で演じられる人間関係にさらなる緊張感と深みを与え得ていた。

タガンカ劇場の劇《罪と罰》では初めにラスコーリニコフの行動を擁護した小学生の書いた作文を朗読することで、問題の現代性を明確な形で示していた。

劇団俳優座のこの劇でも「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び欺(だま)されたい人達を私は理解できない。以下略…」という主人公の言葉を、劇の冒頭で主人公自身に語らせただけでなく、劇の最後では妻にも朗読させることで『野火』の現代性を浮かび上がらせていた。

(『ドストエーフスキイ広場』第16号、2007年。再掲に際して少し手を入れた。太字は引用者。2022年7月29日誤記を訂正)

映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

1,近代の文明観と「自然の支配」

前回の「映画《ゴジラ》考Ⅰ」では、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)との比較をとおして、両作品が「事実」の隠蔽の危険性を鋭く示唆していたことを指摘した。それとともに、関東大震災から50年目の1973年に発表されたSF作家・小松左京の長編小説『日本沈没』にも言及することで、怪獣ゴジラの怒りは核エネルギーという自らの科学力を信じた人類の傲慢さのために苦しむ大自然の怒りの象徴のようにも見えると書いた。

映画《ゴジラ》を映画《ジョーズ》や長編小説『日本沈没』と比較することで、このような結論を引きだすのは強引だと感じられる読者も少なくないだろう。

しかし、黒澤監督のもとでチーフ助監督を務めた経験もある森谷司郎監督は、深海潜水艇わだつみで日本海溝の調査に赴いた田所博士(小林桂樹)と操縦士の小野寺(藤岡弘)が、海底に異変が起きていることを発見し、続いて東京大地震、富士山噴火、そして列島全体が沈没するという壮大なテーマの原作を、同じ1973年に映画化していた(脚本:橋本忍)。

ここで注目したいのは、日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉が、西欧文明の優越性を主張したバックルの文明観に依拠しながら、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていたことである。

このような福沢の文明観について歴史学者の神山四郎は、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していた(『比較文明と歴史哲学』)。

このような文明観が原発の推進を掲げる現政権や日本の経済界などでは受けつがれたことが、地殻変動により形成されていまもさかんな火山活動が続き地震も多発している日本列島に、原爆と同じ原理によって成り立っている原子力発電所を建設させ、福島第一原子力発電所の大事故を引き起こしたといえるだろう。

今回は運良く免れることができたものの、東京電力の不手際と優柔不断さにより関東一帯が放射能で汚染され、東京をも含む関東一帯の住民が避難しなければならない事態とも直面していたのである(真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して )。

2,映画《ゴジラ》とソ連の若者たちの原爆観

「第五福竜丸」事件が起きた翌年に映画《生きものの記録》を制作し、後にシベリアの原住民を主人公とした《デルス・ウザーラ》をソ連で撮影することになる黒澤明監督は、『虐げられた人々』や『死の家の記録』などで重要な役割を担っていたドストエフスキーの文明観や彼が雑誌『時代』で唱えた「大地主義」の重要性を深く認識していた。

 本稿の視点から興味深いのは、1981年に行われた俳優・平田昭彦との対談で原爆の問題の重要性を指摘した本多監督が、映画《夢》で補佐をすることになる盟友黒澤明の言葉を紹介していることである。

 「そうすると、今は情勢は非常に変わってますけれども、もうひとつ緊迫してますね。この間も黒澤明君とも、彼とは山本嘉次郎監督の助監督をやったりした頃からの友達ですけれど、黒澤君と久しぶりに会って話したとき、ソビエトの若い人達の話を聞いてゾッとしたというんです。(中略)ソビエトの若い連中は世界の核弾頭はソ連の方を向いている、怖い怖い、あと10年保つか? なんてボソボソ話してる。それがこっちへ来るとね、ソビエトの核弾頭はみんなこっちを向いていると言って恐怖をあおるような、そういう情勢になってる。」(『初代ゴジラ研究読本』洋泉社MOOK、2014年、69-70頁)。

こうして、あまり語られることのないソ連から見た核弾頭の問題に対する若者たちの実感を詳しく伝えた後で、本多監督はこう結んでいた。

「これを何とか話し合いができるようなところへね、ゴジラが出てこなきゃいけない。僕はそういうものがね、作品として描けるようになるならね、思いきって作りたいですけれども、やっぱりゴジラはただただ暴れるだけの話じゃなくて、そんなようなひとつの情況の中に生まれるべくして生まれてこないと、どうも嘘のような気がするね)」

この黒澤の証言と本多の考察は、きわめて重要だろう。実は、私が映画《ゴジラ》を初めて観たのはソ連で行われた日本の映画祭の時であったが、ソ連でも日本映画に対する関心はきわめて高く、映画《ゴジラ》もなんとか入場券を買うことができたものの満席の状態だった。

「広島・長崎」に続いて「第五福竜丸」の被爆という悲劇的な体験をしたにもかかわらず、アメリカの「核の傘」に入ることを選んだ日本では、1962年に起きたキューバ危機の後では「核戦争」の危機感が薄らいだように見える。しかし、アメリカに対抗して核実験を行い、多くの核兵器を所有していたソ連の若者たちは、核兵器によって攻撃されることを強く意識していたのである。

3, 映画《デルス・ウザーラ》とタルコフスキーの映画《サクリファイス》

1990年10月に行われたノーベル賞作家のガルシア・マルケスとの対談で黒澤監督は、ソ連の官僚による情報の「隠蔽」の問題についてふれながら原発事故の危険性についてこう語っていた( 『大系 黒澤明』第4巻、513頁)。

「ソビエトっていうのはペレストロイカで今日のように解放されたから言うけどね、あすこは前にウラルで廃棄物の大変な事故が起こったのにそれを隠してたわけ。それがどんなにひどいものだったかということは、今度チェルノブイリの事件が起こってから初めて公表したけれども、そういう具合に内緒にしている、ひどいことがたくさんあるんですよ」。

黒澤監督がきわめて確信をもって言えたのはなぜだろうかと疑問を持っていた私は、それは映画《デルス・ウザーラ》を撮影した時に映画関係者と歓談する中でこれらの情報や知識を得たのではないかと考えていた。今回、本多監督の対談を読んでそれが裏づけられたように感じている。

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(図版は『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』東洋書店より)。

たとえば、《デルス・ウザーラ》を撮影した際に、ドストエフスキーの作品や黒澤監督の映画を高く評価していた映画監督のタルコフスキーが黒澤監督を歓迎していた。タルコフスキーが後に核戦争をテーマとした映画《サクリファイス》(1986年)を製作していることを考慮するならば、シベリアで会った二人の巨匠が映画の手法についてだけではなく、ウラルの核廃棄物の問題や「核戦争」という文明論的なテーマについて語りあった可能性が強いだろうと思える*。

なぜならば、映画《サクリファイス》の主人公は長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを演じたことのある俳優であったが、若きドストエフスキーが流刑されていたセミパラチンスクも後に核実験場となり、その問題についてはジャーナリストや映画人は知っていたと思えるからである。

 4,科学者・芹沢と『白痴』のムィシキン 

少し映画《ゴジラ》の筋から離れてしまったが、本多監督が対話した相手が山根博士の弟子で自分が発明したオキシジェン・デストロイヤーによってゴジラを滅ぼすことになる科学者の芹沢を演じた俳優の平田昭彦であったことを最後に思い起こしておきたい。

オキシジェン・デストロイヤーを発明した芹沢については、山根博士の娘・恵美子(河内桃子)とその恋人・尾形秀人(宝田明)との会話をとおして、戦争で片眼の視力を失ったことから、山根博士の娘との結婚を断念していたことが語られる。その芹沢は、自分が発明した危険な兵器が悪用されることを恐れて、その作成方法を記した書類を燃やしただけでなく、兵器の制作方法を知っている自分も莫大な富や名誉などに惑わされてその制作方法を明かすようになることを恐れて「ゴジラ」とともに滅ぶことを選ぶ。

ドストエフスキーの研究者の私には、芹沢のそのような自己犠牲的な決断には、トーツキーのような利己的なロシア貴族たちの罪も背負って亡んでいったムィシキンを映画化した黒澤映画《白痴》の主人公・亀田の精神にも通じるところがあると感じる。

映画は芹沢がゴジラとともに亡くなったことを知った山根博士が「暗然たる面持ちで」つぶやく次のような台詞で終わる。

「……だが……あのゴジラが 最后の一匹だとは思えない……もし……水爆実験が続けて行われるとしたら……あの ゴジラの同類が また世界の何処かへ現われ来るかも知れない」。

* 堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」『黒澤明研究会誌』第32号参照。

(2015年5月6日、注と『黒澤明と「デルス・ウザーラ」』の図版を追加。6月18日、訂正と「ゴジラ」のポスターの追加)。

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

リンク映画・演劇評」タイトル一覧

リンク映画・演劇評」タイトル一覧Ⅱ

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

はじめに

1936年に発表した「『罪と罰』を見る」と題した映画評を「ピエール・シュナアルといふ人の作つた『罪と罰』の映画を薦められて見た」という文章から書き出した小林秀雄は、スタンバーグ監督の《罪と罰》を文士たちが「ソオニャがラスコオリニコフを掴へて『アメリカに逃げて頂戴な』などといふ『罪と罰』はない」と批判したことを紹介している。

そして、文士たちがこの映画を「原作に忠実でないからいけない」と「嘲笑」しているが、「スタンバアグの作がをかしければ今度のものだつてをかしい筈だ。少くとも『罪と罰』といふ小説に関して文学者らしい定見を持つてゐるならば」と続け、その理由を「狙つてゐる処は同じだからだ。一と口で言へば犯罪の心理学だ」と説明した小林は、「両方ともラスコオリニコフとポルフィイリイとの心理的対決といふものが一篇の中心をなしてゐる。そしてこの心理的対決の場面が今度の映画では前の映画より上手に出来てゐる」が、「人間の罪とは何か、罰とは何かと、考へあぐんだ人の思想など這入りこむ余地はないのだ」と記して、映画という表現手段の限界を指摘していた〔四・二二四~二二六〕。

 

1,映画《罪と罰》における「良心の呵責」の描写

黒澤監督は『蝦蟇の油――自伝のようなもの』(岩波文庫)で、1929年までに観た「映画の歴史に残る作品」として、1925年のデビュー作《救ひを求むる人々》から、米国映画最古のギャング映画と言われる《暗黒街》(1927)、さらに《非常線》(1928)と《女の一生》(1929)の四本のスタンバーグ作品を挙げている。

ドイツ系ユダヤ人のスタンバーグ監督(1984~1969)は、『ウィキペディア』によれば、1931年に外人部隊に所属するトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)とモロッコの酒場の歌手アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)との出会いと激しい愛を描いた映画《モロッコ》で有名になったとされる。

「弱肉強食の思想」を唱えていたヒトラーの内閣が1933年に成立したことによりヨーロッパで大戦争が近づくなか、デビュー作からスタンバーグ監督の映画を高く評価していた黒澤が、自分が深く尊敬していたドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を映画化したこの《罪と罰》を非常に注意深く観ていただろうことは間違いないだろう。

上映時間が84分の映画《罪と罰》(脚本:S・K・ローレン、ジョゼフ・アントニー、DVD、コスミック出版)では、残念ながら、時間的な制限からマルメラードフやその妻カテリーナの登場する場面は省略されており、ラズミーヒンやスヴィドリガイロフ像にも深みが欠けている。

また、当時の文人たちが批判したように、ソーニャの形象にもラスコーリニコフが血を流して大地を汚したと語り、大地に接吻するように諭した厳しさは欠けており、それゆえラスコーリニコフの告白を聞いて激しく動揺したソーニャが逃げるように頼む場面からはメロドラマ的な印象さえ受ける。

しかし、ラスコーリニコフの家族関係やルージンの卑劣さはきちんと描かれており、ソーニャが『聖書』のラザロの復活を読むシーンは迫力がある。彼のことを心配して取り乱したソーニャを見たラスコーリニコフが、自首を決意する流れも説得力を持っており、シベリアで彼が己の「罪」を深く「悔悟」して復活することも示唆されていると思える。

原作の登場人物や筋の一部を削除した代わりにスタンバーグ監督は、ラスコーリニコフ(ピーター・ローレ)と予審判事ポルフィーリイとの対決をとおして、「非凡人の理論」の危険性を浮き彫りにするとともに、「良心の呵責」に苦しむようになる主人公の内面にも迫っていた。

ことに、ペンキ職人のミコルカに罪をなすりつけて自分は逃げ出してもよいのかと問いかけることで浮き彫りにしていたラスコーリニコフの「良心の呵責」の問題は、いつの時代でも「国策」の一端を担うことになる「知識人」の「良心」の問題に深く関わっているだろう。

主役を演じたピーター・ローレは小柄で丸みを帯びた体型をしていることもあり、原作に描かれている主人公像との違いに戸惑ったが、ラスコーリニコフの苦悩や怒り、恐れなどの感情を表現力豊かに示して名演であった。

2,スタンバーグ監督の《罪と罰》と黒澤映画《夢》

映像的な面で興味深かったのはラスコーリニコフのベッドの上の壁に飾られているナポレオンの肖像画で、それと対比的に示されていたベートーベンの肖像画の意味が最初はよくわからなかった。しかし、ラスコーリニコフの部屋を訪れたポルフィーリイに、ナポレオンを尊敬していて彼に捧げようとして書いた第五交響曲「英雄」を、彼が皇帝になったことを知ってベートーベンが献辞をやめていたと語らせている場面で、この肖像画が「非凡人の理論」の批判としての意味を有していたことを知った。

このような映像的な処置は原作から離れており、大胆すぎるように思えた観客は多かったと思えるが、ドストエフスキーも原作で予審判事ポルフィーリイに、「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれない」と語らせることで「非凡人の理論」の危険性を指摘していた。

 ニーチェのドストエフスキー理解から影響を受けたと思われるヒトラーは、『わが闘争』(第一部、1925年、第二部、1926年)において、「すべての発明はある一人の人の創造の結果である」と書き、「ワイマール憲法」を否定して自分の独裁を正当化していた。

さらに、他民族への憎しみを煽りたてたばかりでなく「非凡人の理論」を「民族」にも当てはめて、「人種の価値に優劣の差異があることを認め(中略)、永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と主張して、「復讐」の戦争へと自国民を駆り立てた(高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、2000年、第9章参照)。

そのことを考えるならば、1935年に公開されたこの映画でスタンバーグ監督は、1940年に公開されるチャップリンの《独裁者》に先駆けて、「非凡人の理論」の危険性を描き出していたと思える。

スタンバーグ監督の《罪と罰》と比較するとき、不安の時代に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論にはルージンの人間像や行動についての言及や、「非凡人の理論」をめぐる考察が決定的と思えるほどに欠けているのである。

黒澤明は『罪と罰』の映画化を行ってはいないが、1951年に長編小説『白痴』の見事な映画化を行うことで、映像をとおして小林秀雄の『白痴』論を痛烈に批判していた。

「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」とし、エピローグにおける「人類滅亡の悪夢」の描写にもあまり注意を払っていなかった小林秀雄が、戦後も基本的にはこのような解釈を変えなかったことに対して黒澤明は深刻な危機感を覚え、そのことを考え続けたことが映画《夢》の第四話「トンネル」や第六話「赤富士」に反映しているのではないだろうか。

タイトル一覧Ⅱ (ゴジラ関係、宮崎駿映画、演劇など)

リンク先タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と関係の深い映画)

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)  

タイトル一覧Ⅱ (Ⅰ、映画、1,ゴジラ、2,宮崎映画、3,その他 Ⅱ、演劇関係)  

、映画

1,ゴジラ

映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念

 映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

 映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽

2、宮崎映画

黒澤明と宮崎駿(2)――《七人の侍》から《もののけ姫》へ

黒澤明と宮崎駿(1)――ロシア文学と民話とのかかわりを中心に

『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》   ――ソーニャからナウシカへ 

アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法 

 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風

 《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影 

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

『もののけ姫』の大ヒットと二一世紀の地球環境 

3,その他

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

ブルガリアの歴史と首都ソフィア――黒澤映画《生きる》

映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観 

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

『白夜』の鮮烈な魅力――「甘い空想」の破綻を描く 

、演劇

想像力の可能性――もう一つのドストエフスキー劇

帝政ロシアの農民と安倍政権下の日本人――トルストイ原作《ある馬の物語》

安倍政権下の日本の言論状況とフォーキンの劇《語れ》

「忍び寄る『国家神道』の足音」と井上ひさし《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》

「記憶」の痛みと「未来」への希望 ――井上ひさし《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る

現代の日本に甦る「三人姉妹」の孤独と決意――劇団俳優座の《三人姉妹》を見て 

蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて 

ブルガリアのオストロフスキー劇 

日本におけるオストロフスキー劇とドストエフスキー劇の上演 

詩人プレシチェーエフ――劇作家オストロフスキーとチェーホフをつなぐ者

劇《石棺》から映画《夢》へ モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

 

タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と関係の深い映画)

リンク映画・演劇評」タイトル一覧Ⅱ

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(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、作成: Shochiku Company, Limited © 1950。図版は「ウィキペディア」による)

タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と…)

1、黒澤映画

長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

映画《静かなる決闘》から映画《赤ひげ》へ――拙著の副題の説明に代えて

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎

「第五福竜丸」事件と映画《生きものの記録》

「黒澤明監督の倫理観と自然観」の要

小林秀雄の『虐げられた人々』観と黒澤明作品《愛の世界・山猫とみの話》 

映画《羅生門》から映画《白痴》へ

復員兵と狂犬――映画《野良犬》と『罪と罰』

映画《白痴》から映画《生きる》へ 

長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》 

映画《赤ひげ》と映画《白痴》――黒澤明監督のドストエフスキー観 

 黒澤映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》 

映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

 

2,黒澤映画と…

「季節外れの問題作」《生きものの記録》とアニメ映画《風の谷のナウシカ》

映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観

映画《母と暮せば》を見て

 映画《この子を残して》と映画《夢》

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

ムィシキンの正確な映像化――ボルトコ監督のDVD《白痴》を見て

映画ポスター・三題――《白痴》、《ゴジラ》、《生きものの記録》

劇中歌「ゴンドラの唄」が結ぶもの――劇《その前夜》と映画《白痴》 

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》 

映画 《福島 生きものの記録》(岩崎雅典監督作品 )と黒澤映画《生きものの記録》

ムィシキンの正確な映像化――ボルトコ監督のDVD《白痴》を見て

映画《白痴》、ボルトコ86l

(図版は「アマゾン」より)。(図版は「成文社」より)

2003年に全10回のシリーズとしてロシアのテレビで放映され、翌年にはモンテカルロ・テレビ祭テレビシリーズ・プロデューサーアワードや最優秀男優賞を受賞して話題となっていたボルトコ監督のテレビ映画《白痴》がDVDとして、2010年に日本でも販売された。

「ドストエフスキーの代表作を、忠実に再現した唯一無二の、完全再現ドラマ」と広告文でうたっているだけに、半分にカットされる前の黒澤映画《白痴》の倍以上の510分という長時間をフルに生かして、原作の複雑な人間関係を見事に映像化している。

ただ、「忠実に再現した」ことが強調されてはいるものの、長編小説のテーマを明確にし、観客を一気に『白痴』の世界に引き込むための工夫もなされている。たとえば、長編小説を読み親しんできた読者は、一瞬、冒頭のシーンに驚かされるだろう。なぜならば、DVDではナスターシヤの部屋を訪れたトーツキイは自分が彼女に犯した過ちを認めつつも、手切れ金代わりに莫大な持参金を提示することで新しい女性との結婚を望んでいることを伝える一方で、エパンチン将軍もオペラ《椿姫》の主人公の父親のように、娘たちの幸せのために身を退くようにと強く頼んだのである。

そして、ナスターシヤに密かに高価な真珠を贈っていたエパンチンをトーツキイがからかいながら去っていくシーンの後で、カメラは彼らを二階から見下ろした後で、ナスターシヤが鏡に十字を描く姿を映し出した。

こうして、このテレビ映画はトーツキイによる過去の記憶に苦しむだけでなく、今また、若い男との愛のない結婚を迫られる誇り高い女性の苦悩を、最初に分かりやすく観客に示すことでこの長編小説の主要なテーマを示し、なにゆえにムィシキンが彼女の写真を見たときに、激しい衝撃を受けたのかを説明し得ていたのである。

さらに、次のシーンでは一転してムィシキンがエパンチン将軍の屋敷を訪れる場面が描かれ、彼のみすぼらしい身なりを見た召使いが、本当に公爵なのかを疑いつつ、取り次ぐべきかどうかを迷っている場面から始まる。そして正式な待合室ではなく、召使いの部屋で話し込んだムィシキンが、ロシアの裁判と比較しつつ、フランスで見た死刑の光景を詳しく語りながら、「殺すなかれ」と語ったイエスの理念を熱っぽく語る姿が映し出される。

それゆえ、タイトル・バックで十字架にかけられたイエスの像を映し出しているこの映画をとおして、観客はナスターシヤの人物像がドストエフスキーがドレスデンの美術館で見て深い感銘を受けたティツィアーノの宗教絵画《懺悔(ざんげ)するマグダラのマリヤ》と結びついているばかりでなく、ムィシキンという主人公もエミリー・シニョールが描いた絵画《罪の女を赦すキリスト》とも結びついていることを視覚的に実感できるのである。

事実、ナスターシヤを演じたヴェレツェワは、暗い過去を背負った影のある絶世の美女を見事に演じているし、ムィシキン公爵を演じたミローノフも、瞑想がちではあるが、聞き手を引き込むような話し方をし、魅惑的な笑顔を浮かべる若者を熱演している。

こうして、面会を待っている間にタバコを吸い始めたムィシキンが吐く煙とともにペテルブルグに向かう列車での回想のシーンがようやく始まり、マシュコフが演じる激しい情熱を持ちつつもそのエネルギーを使う方向性を見いだせなかったロシアの商人ロゴージンや、「反キリスト」とも呼ばれるしたたかな官吏のレーベジェフとの出会いが描かれて、一気に原作の世界へと観客を引き込んでいくのである。

そして、エパンチン将軍との会見の際には、ムィシキンが何度もポケットに手を入れて手紙を取り出そうとするのを将軍が留めるシーンをとおして、雑事に巻き込まれまいとするやり手の実業家としてのエパンチンの性質だけでなく、ムィシキンもまたロゴージンと同じような莫大な遺産の相続者であることに注意を促して、二人の置かれている状況の類似性と、その後の遺産の使い方の比較をとおして、両者の違いを浮き彫りにしえている。

さらに、秘書のガヴリーラがアグラーヤへの手紙を書く場面も映像化することで立身出世を企む彼の意図や、そのような彼に対するボッティチェリの絵画《春》に描かれた「三美神」のように美しいエパンチン家の三人の娘たちや母親の反応をとおして彼女たちの個性もきちんと描かれている。さらに、原作では目立たないが、常に赤ん坊を抱いてる姿を強調することで、ロシアのイコン《ヴラジーミルの聖母》やラファエロの傑作《システィーナの聖母》を連想させるレーベジェフの娘ヴェーラの優しい眼差しも描写されている。

しかも、ムィシキンが相続した遺産を狙ったスキャンダルや、ホルバインの絵画《キリストの屍》とイッポリートが語る哲学的で重いテーマなど黒澤映画《白痴》では省略されていたエピソードや、さらには時間を圧縮するために少しエキセントリックな印象も呼び起こしたアグラーヤとナスターシヤの緊迫した関係もじっくりと描かれている。

そして、日本ではあまり注目されていないがこの長編小説では、教皇への復讐心を抱いた皇帝の「カノッサの屈辱」や、自分の「恩人」がカトリックに改宗したという知らせを聞いて激しく動揺したムィシキンによる厳しいカトリック批判の演説も描かれていた。

このように見てくるとき注目したいのは、この映画ではムィシキンが立ち止まって、権力や欲望に支配されるロシアから立ち去って、山に囲まれたスイスで静かな瞑想生活をおくるべきではないのかと考える場面がたびたび描かれていることである。

実は、長編小説『白痴』では劇作家グリボエードフの『知恵の悲しみ』からの引用が度々なされているが、長い外国生活から戻ったこの劇の主人公の若者は、旧態依然としたロシアの状況を西欧派的な視点から厳しく批判し、「発狂した」との噂を立てられて絶望し、再び外国へとすぐに戻ってしまっていたのである。

若い頃にこの劇から強い影響を受け西欧派の作家としてデビューしていたドストエフスキーは、シベリア流刑以降には、ロシアにある自分の領地からあがる税金によって外国で優雅な生活をおくりつつ、ロシアの政治制度を批判する貴族には、次第にきびしい眼をむけるようになる。

それゆえドストエフスキーは『白痴』で、「知恵」の問題を主題としつつ、グリボエードフの喜劇『知恵の悲しみ』の主人公とは正反対に、そのままロシアに留まれば自分が破滅することになるかもしれないことを深く知りつつも、最後までそこに留まってなんとか虐げられた女性を救おうとし、ついには再び精神を病んだ若者を描き出していたのである。その姿は自分の危険性を顧みずにエルサレムの神殿を訪れて、最後は生け贄の「子羊」のように十字架で処刑されたイエスとも重なる。

こうしてDVD《白痴》は、ロシアの「キリスト公爵」を創造しようとしたドストエフスキー自身の意図を、かなり忠実に映像化し得ているといえるだろう。

(『ドストエーフスキイ広場』第20号、2011年。2014年1月21日、副題など一部改訂。2017年5月7日、図版を追加)

小林秀雄の『虐げられた人々』観と黒澤明作品《愛の世界・山猫とみの話》

 

一、 《愛の世界・山猫とみの話》から《赤ひげ》へ

 戦時中の一九四三年一月に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本が主に黒澤明監督の手に成るものであったことは「ブログ」に記したが、この映画にはその後の黒澤明監督作品を予想させるような、テーマとシーンが見られた。

 ことに注目されたのは、例会発表でも指摘されたように、両親と七歳で死別して曲馬団に売られ、その後も様々な職業を転々とするなかで時には凶暴性を発揮したり、何ヶ月も口を利かずに「山猫」とみとあだ名された少女の形象には、映画《赤ひげ》で行われることになる『虐げられた人々』の少女ネリーの見事に映像化がすでになされたいたことである。

 私は映画《赤ひげ》(一九六五)におけるお粥の入った茶碗を少女おとよが壊すシーンと映画《白痴》におけるナスターシヤが花瓶を壊すシーンを比較して、心に傷を負った彼女たちの行動が見事に描き出されていることを指摘して、黒澤明監督の『虐げられた人々』と『白痴』理解の深さを指摘していた(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、九三~九八頁)。 

 つまり、ワルコフスキー公爵の実の娘でありながら、母親を捨てて死に追いやった父親の援助を拒んで幼くしてなくなった少女ネリーの人物造形は、火事で孤児になった後で無理矢理に「貴族」トーツキーの妾とされていたが、莫大な持参金を拒んで自立しようとして苦しんだ長編小説『白痴』のナスターシヤ像の先駆的な役割を担っていると思われるのである。

 映画《赤ひげ》は一九五一年に公開された映画《白痴》から、はるか後年に撮られていることもあり、黒澤明監督の『虐げられた人々』の理解が深まったのは、映画《白痴》を撮った後であるという解釈も可能であった。しかし、映画《愛の世界・山猫とみの話》が一九四三年一月に公開されていたことは、映画《白痴》を撮ることになる黒澤明監督が、すでにこの時点で『虐げられた人々』のネリー像の重要性を理解していたことを強く示唆していると思われる。

 この点に留意するとき、なぜ映画《白痴》の後で撮られた映画《生きる》(一九五二)では余生がわずかなことを知った主人公の前に、メフィストフェレスを自称する作家が犬を連れて現れることが描かれているのかも理解できる。

二、『虐げられた人々』の構成と粗筋

 四部とエピローグからなる本格的な長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でも、語り手である主人公のイワンがみすぼらしい老人とその老犬の死に立ち会うという印象的な場面から始まり、その孫娘ネリーの出生の謎をめぐって物語が展開されているのである。

 映画《愛の世界》や《赤ひげ》の理解にも関わるので、あまり知られていない『虐げられた人々』の粗筋をまず簡単に紹介しておきたい。

 この長編小説では少女ネリーをめぐる出来事と孤児となったイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる物語が並行的に描かれて行くが、物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ネリーの父ワルコフスキー公爵の詐欺的な言動によるものであることがはっきりしてくる。

 すなわち、ネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていたのである。

 一方、一五〇人の農奴を持つ地主で主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も、九〇〇人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきて、イフメーネフ家を訪れて懇意になると自分の領地の管理を依頼し、さらに五年後には新たな領地の購入とその村の管理をも任せたことから始まる。

 積極的にイフメーネフに近付いて、自分の領地の管理を任せてその能力に満足したと語っていた公爵は、後に自分の領地の購入に際してイフメーネフが購入代金をごまかしたという訴訟を起こし、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだ。そのために、裁判に敗けて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのである。

 こうして、少女ネリーの悲劇が描かれている長編小説『虐げられた人々』は、クリミア戦争敗戦後のロシアを揺るがせていた二つの大きな問題、農奴制の廃止と資本主義の導入の問題点を浮き彫りにして、混沌とした時代の雰囲気や「大改革」の時代の課題を描き出していたといえるだろう。

 

 

三、映画《愛の世界・山猫とみの話》における「鬱蒼とした森」の描写

 長編小説『虐げられた人々』が連載された雑誌『時代』は、農奴制の廃止や言論の自由を求めたために捕らえられて死刑の判決を受けた後でシベリア流刑へと減刑されていたドストエフスキーが、刑期を終えて首都に帰還してから兄ミハイルとともに創刊した雑誌である。

 クリミア戦争の敗戦により農奴制の問題が認識されて、農奴解放などが行われた「大改革」の時代に首都に戻ったドストエフスキーは、「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」とし、「欧化」でも「国粋」でもない、第三の道として「大地主義」の理念を掲げるとともに、文盲に近い状態におかれていた「農民」に対する教育の重要性とともに、「知識人」が「農民の英知」を学ぶ必要性も唱えていた。

 そのような「農民の英知」の一つは、「森や泉」に深い敬意を払う民衆の自然観だろう。たとえば、木下豊房氏は『貧しき人々』や『虐げられた人々』、さらに『百姓マレイ』などにも言及しつつドストエフスキー家の領地であったダロヴォーエの森について書いたエッセー「フェージャの森」で、「都会の作家といわれるドストエフスキーの深奥には、実は豊かなロシアの自然と大地(土壌)が横たわっている」と指摘している(『ドストエフスキー その対話的世界』、成文社、二〇〇二年、二九七~三〇〇頁)。

 さらに、論文「思い出は人間を救う――ドストエフスキー文学における子供時代の思い出の意味について」(『ドストエーフスキイ広場』、第一六号、二〇〇七年)では、具体的に『虐げられた人々』の文章にも言及しているので、《愛の世界》との関わりを具体的に示すためにも、まずはその文章を引用しておく。

 「ニコライ・セルゲーヴィチ(引用者注――イフメーネフのこと)が管理人であったワシリエフスコエ村の庭園や公園は何と素晴らしかったことか。私とナターシャはこの庭園へよく散歩にでかけたものだった。庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森があって、私たち二人の子供は一度、道に迷ってしまったことがあった……美しい黄金時代! 人生がはじめて、秘密めいて、誘惑にみちた姿で現れ、それを知ることは、何とも甘美であった」。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》から強い印象を受けた場面の一つは、少女救護院で自分をいじめた園児と激しい喧嘩をして脱走して、最初は歌を歌いながら自然の美しさに見とれ、自由を謳歌していた少女とみを描いた後で、次第に暗くなってくると道に迷って森から出られなくなったとみにとっては森が巨大な妖怪の住む無気味な世界へと一変したことが描かれていることである。

 この美しい森から無気味な森への変化は、自然の変化を深く理解して見事な道案内人の役を果たしたデルスが、眼を悪くしたあとでは自然を恐れるようになったことが描かれている映画《デルス・ウザーラ》をも思い起こさせる。

 しかも、畑仕事が厭で怠けていた少女とみは、映画の最後では畑仕事に喜んで従事している場面が描かれているが、それは文部大臣によって京都帝国大学の憲法学者滝川教授が罷免された事件を題材にして、敗戦直後の一九四六年に公開された映画《わが青春に悔なし》(脚本・久板栄二郎、黒澤明)のシーンを思い起こさせる。この映画でも父の教え子でジャーナリストになっていた野毛を敬愛して彼の元に走って同棲生活を送るようになった娘の幸枝が、野毛がスパイ容疑で逮捕され獄中で死亡した後では、野毛の実家へと行って彼の母親(杉村春子)を手伝って黙々と大地を耕すシーンがドキュメンタリー的な手法で描かれていたのである。

 農民を指導して野武士の群盗たちと戦い百姓たちを守った七人の侍の雄々しい戦いが描かれている映画《七人の侍》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)の最後のシーンでも、戦いに勝ったあとで百姓たちが行っていた田植えの場面がクローズアップされていた。そして「いや……勝ったのは……あの百姓たちだ……俺たちではない」と語った指導者の勘兵衛は、さらに「侍はな……この風のように、この大地の上を吹き捲って通り過ぎるだけだ……土は……何時までも残る……あの百姓たちも土と一緒に何時までも生きる!」と続けているのである(『全集 黒澤明』第四巻、九五頁)。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》は「国策映画」として製作されたために、表現は制限されてはいるが、ここには一九五四年に公開された映画《七人の侍》に見られるような黒澤明監督の「大地主義」への深い理解がすでに現れているように思われる。

 

四、小林秀雄の『虐げられた人々』理解と映画《赤ひげ》

 『虐げられた人々』においては「庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森」があったことが描かれていたが、「大地主義」の時期の代表的な作品である『罪と罰』では、本編におけるペテルブルグの「壮麗な眺望の謎」に対応するように、シベリアにおける「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎も読者の前に呈示されていた。

  映画《夢》の分析において詳しく考察することになるが、この「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎を理解したことが、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの精神的な「復活」へとつながることが『罪と罰』では示唆されている。

  しかし、今もドストエフスキー論の「大家」と見なされている文芸評論家の小林秀雄は一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、『罪と罰』の「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いて、ラスコーリニコフの「復活」を否定していた(『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、五三頁。引用に際しては、旧漢字は新し漢字になおした)。

 このような小林秀雄の理解には、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、ニーチェとともにドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定したシェストフからの強い影響があるだろう(拙著、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、二〇〇二年、一二六頁参照)。

  しかも、ドストエフスキー自身は『虐げられた人々』について、後に次のような厳しい評価を下していた。

 「『虐げられし人々』の時もさうだつた。雑誌には是非長篇が要る。何を置いても成功させねばならぬ。そこで僕は四部から成る長篇を一つ提供したわけだ。プランはずつと前から出来てゐるから、わけなく書けるし、第一部はもう書き上げてあるなどと言つて兄を安心させてゐたが、みんな出鱈目だつた。僕は金が欲しくて働いたのだ。僕の小説中に動いてゐるのは人形であつて、生き物ではない」。

 『地下室の手記』によって前期と後期のドストエフスキー作品との間に深い断層を見たシェストフの見解を受け入れていた小林秀雄は、「ドストエフスキイの生活」で作家自身の言葉を引用することで、『地下室の手記』以前に書かれた『虐げられた人々』も失敗作とみなした。その一方で、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定した作家と見なした小林は、『白痴』論では「たゞ確かなのはこの時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、ナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定したのである(「『白痴』についてⅠ」)。

 たしかに、急いで書いたこともあり、主人公のイワンをはじめ多くの人物造形がそれほど成功裏に描かれているとは言えないだろう。しかし、ドストエフスキーは謙遜的に記してはいるものの、この小説では幼いながらも高い誇りを持った虐げられた少女ネリーの形象がきわめていきいきと描かれていたばかりでなく、大地主の横暴さや法律の問題など当時の問題を浮き彫りにしており、ここで提起された多くの問題は『罪と罰』以降の長編小説で深められており、ことに『白痴』では誇り高い少女ネリーとナスターシヤの間にはあきらかな連続性が認められるのである。

 しかし、映画《白痴》が一九五一年に公開された翌年の一九五二年から「『白痴』についてⅡ」を書き続けた小林は、長い間中断した後で一九六四年に付け加えた第九章では長編小説の結末について次のように記した。

 「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」。そして小林は、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである」と続けていたのである(傍線引用者、三三九~三四〇頁)。

 このような小林の断定的な解釈について、私はエッセー「『不注意な読者』をめぐって」で、この時小林秀雄が強く意識していたのは、名指しをしてはいないが、映画《白痴》で病んだナスターシヤを看護しようとしたムィシキンに光をあてながら長編小説『白痴』の映画化をしていた黒澤明監督である可能性が高いという仮説を記した(『ドストエーフスキイ広場』、第二二号)。

 誌面の都合上、詳しい理由を記すことはできなかったが、私が注目したのは映画《白痴》を撮った黒澤明監督による映画《赤ひげ》の制作開始記念パーティが一九六三年一〇月六日に行われていたことである(『大系 黒澤明』第四巻、八二〇頁)。

 様々な事情のために映画《赤ひげ》の撮影は大幅に延びて、公開は一九六五年四月三日になったが、『虐げられた人々』の少女ネリーの形象が採り入れられているばかりでなく、精神的な医師としてのムィシキンの精神を受けついでいるとも思える医師「赤ひげ」とその若い弟子を主人公にした映画のことは、小林秀雄の耳にも入っていたと思える。

 自分の『白痴』論を真っ向から否定するような映画《白痴》を撮った黒澤明監督による新しい映画の公開が、自分のドストエフスキー論の土台を覆す危険性を含んでいることを敏感に感じた小林秀雄が、「不注意な読者」を批判する断定的な文章を加えて、急遽『白痴について』(角川書店、一九六四年)を上梓したのではないかと私は考えている。

 小林秀雄の『白痴について』を批判する評論を黒澤明監督は書いてはいない。しかし、一九七五年にロシアで撮った映画《デルス・ウザーラ》が日本で公開された後で、若者たちと行った座談会で黒澤明監督は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語っているのである(黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、二八八頁)。

 このような発言にはロシアで映画を撮ることになったことで、黒澤映画《白痴》をきわめて高く評価するとともに、自分でも映画《罪と罰》(一九六九年)を撮っていたクリジャーノフ監督などととの会話をとおして、自分の『白痴』理解の正しさと「大地主義」の時期の重要さを再確認したためと思われる。

 ただ、それはすでに新しいテーマなので稿を改めて書くことにしたい。

 

 (本稿は『黒澤明と小林秀雄――長編小説『罪と罰』で映画《夢》を読み解く』と題して来年の三月に発行する予定の著作の第四章〈映画《赤ひげ》から《デルス・ウザーラ》へ――黒澤明監督と「大地主義」〉(仮題)に収録する予定である)。