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想像力の可能性――もう一つのドストエフスキー劇

想像力の可能性――もう一つのドストエフスキー劇

「見ることと演じること(五)」には、エドワルド・ラジンスキーの《ドストエーフスキイの妻を演じる老女優》についての短い劇評も掲載されていました。

今、読み返すと記述には深みが欠けている一方で冗漫な箇所もありますが、一部を省略し文体的な改訂を行った上で1988年に観た当時の感想として掲載することにします。

*   *   *

ドストエフスキーは文士劇で『検察官』の郵便局長の役を演じたばかりでなく、中年の絵かきに託してアーニャにプロポーズしたり、実生活でも『伯父様の夢』の主人公の老人の口調で妻アーニャに語りかけたりしていた。

私がこの劇に関心を持った理由の一つは、この長い題名にはドストエフスキーと「演じる」こととの間に深い結び付きを見ようとする作者の視点が現れているように思えたからだ。作者エドワルド・ラジンスキーの作品は世界中できそって上演され、モスクワ芸術座でも今この劇の稽古が行われていると言われる。

ほとんどすべての作品が劇化されているドストエフスキー劇にこの戯曲がどのような新しい地平を開くのかに強く好奇心をそそられた。

劇が始まると、一人の老女(北林谷栄)が現れ、興味深そうに四方を見まわしてから、疲れたように椅子に腰かけた。片方の靴を脱いで素足になり、ゆっくりと足首をもみ、それからもう片方の靴を脱いで足首をもんだ。この時の印象は鮮烈だった。この何気ない所作によって孤独な老女の疲労感が浮彫りにされ、陽気な笑い声と共に女主人公の形象が鮮やかに描き出された。

そこへ天才画家を名のり、ドストエフスキーを自称する男の謎めいた声がソファーの下から響き、哲学の思索を妨げるなと威嚇しながら毒舌をあびせて、休息室に迷いこんだ彼女を追い出しにかかった。ソファーの下の哲学者という想定は、どこか「地下室の逆説家」を連想させ興味深かったが、元女優と思われるこの老女は、「リーザ」とは異なって陽気な笑い声を響かせながら、時には手厳しく反撃したりもした。しかし、自分の孤独を指摘されると思わず我を忘れて、手に持っていた本を声に向かって投げつけた。すると、本の題名が『賭博師』であることに気付いた男は、二人でドストエフスキーと恋人の劇を演じようと申し出るのだった。

この間、男(米倉斉加年)はソファーの下で声だけで演じていたが、毒舌だけでなく皮肉、恫喝、驚愕、懇願といった様々の声の色彩を微妙に使い分けて声の演技だけで充分に観客を引き込み、さらに想像力の刺激という点では身体的な演技以上の効果を生みだしていた。

こうして物語は、老女にポリーナの役をやらせようとする男と妻アーニャの役を望む老女とのやりとりや彼女自身の回想をもはさみながらアーニャの「回想」等を基に構成された劇の稽古へと進んでいった。

ただ、男が姿を現わして以降は、「声」の神秘性が失われる一方、男の過去は相変わらず秘められたままなので男の存在は「神秘性」と「現実性」の両方を欠き中途半端なものとなったようにも思われた。

だが老女を引き立てる黒子と見れば男の存在は、それでも充分だったと言えるかも知れない。既にドストエフスキーを自称した彼には心理的な揺れはない。

一方、老女は演じることで次第にアーニャのリアリティを獲得していく。まず彼女には魅惑的なポリーナの存在に激しい嫉妬心を抱く若い乙女の気持を表現することが課されるが、彼女はそれを見事に演じてみせる。そして、ドストエフスキーとの出会い、彼のプロポーズの回想などの場面を演じていく中で、徐々に自分の中の貞淑で控え目なアーニャ像に近づき、ついにはアーニャになりきってドストエフスキーに対する熱烈な愛を語るのである。

劇の幕切れ近くで作者は、実は「いかさま師」だったと男にラスコーリニコフと同様の告白をさせ、さらに老女に対しても女優を装っているが実は女優の付け人ではないかと問い質させている。

この転換は幾分唐突で劇の効果を弱めているようにも見える。しかし「さあ、急いで仮面を一枚はがすんだ、べつの仮面が見えるようにな」と語り、「想像は――現実よりもはるかに現実的である」と述べる男の言葉を思い起こすなら、よどんだ現実から可能性への飛翔を目指していると思われる作者には、主人公たちを謎のままに止めておくことが必要だったのかも知れない。

〈ドストエーフスキイの会「会報」106号、および、『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅳ』、237頁に掲載。再掲に際しては、地の文のドストエーフスキイの表記をドストエフスキーに改めた〉。

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