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小林秀雄

映画《この子を残して》と映画《夢》

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(長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

 

映画《この子を残して》と映画《夢》

 映画《生きものの記録》が「第五福竜丸」事件を契機に製作されたことについてはすでにふれたが、その約二ヵ月前には「原子力潜水艦ノーチラス号」の進水が行われており、間もなくソ連でもそれに対抗するために「原子力潜水艦Kー19」の製造に成功するなど、「核技術」の戦争兵器への応用が各国において進められた。

 こうして、多くの科学者が「国益」の名のもとにその開発に従事するようになり、一九六二年のキューバ危機では地球が破滅するような核戦争が勃発する危機の寸前にまでいたることになる。

 さらに、一九七九年には「原子力の平和利用」というスローガンのもとに建設されたスリーマイル島の原発で大事故が起き、核兵器と同じ原理で成立している原子炉の危険性が再びクローズアップされることとなった。

 木下恵介監督が長崎で原爆に遭った自分たち家族のことを描いた医師・永井隆の『この子を残して』の映画化を決意するのは、このような時代の流れとも深く関連しているだろう。

 注目したいのは、この時は黒澤監督が「原爆映画は、被爆者以外には他人ごとだ、客なんか来やしない」と映画化の企画に反対していたことである(1)。この言葉からは《生きものの記録》の失敗が骨身にこたえていたばかりでなく、そのような映画をとおして「現実」をきちんとみつめようともしない「観客」に対する強い不信感も感じられる。

 しかし、一九八三年に公開された映画《この子を残して》(脚本・木下恵介、山田太一)は、原寸の三分の二の縮尺で浦上天主堂を建て直し、町並みも忠実に再現した大オープンセットで映画を撮影することにより、失われたものの大きさと悲しみを映像をとおして視覚的に描き出すことに成功している(2)。しかも、広島に原爆が落とされたという噂が入ってくるようになった終戦直前の八月七日の日常的な生活から描くことで、市民の生命と平和な生活が一瞬にして奪われることの悲惨さを明らかにしている。

 この映画ではさまざまな人々の悲しみが描かれているが、ことに自分の娘(十朱幸代)の死を孫たちに告げることをためらっていた祖母のツモ(淡島千景)が、孫の誠一とともに被爆地で娘の骨を拾う場面からは、深い悲しみが伝わってくる。

 *   *   *

  実は、『長崎の鐘』や『この子を残して』書いた医師の永井隆氏が、自らも被爆しながらも病人を献身的に治療していたことは以前から知っていた。

 それらの著作を私が読んでいなかったのは、「神は戦争を終結させるため、あなた方の命を犠牲として求められたのです」と語ったという言葉をどこかで読んで、戦争の問題を「神」のせいにすることはおかしいと強い反発を感じたためだと思える。

 しかし、木下恵介監督の映画《この子を残して》は、永井隆という医師の内面にも深く関わるこの問題にも迫りえていた。すなわち、合同慰霊祭の時に信者代表として永井隆が先の文章を弔辞で読むと、信者たちから「異議あり!」との鋭い怒りの声が飛ぶ場面が描かれていた。

 しかも、このテーマはそこで終わったのではなく、映画の終わり近くで孫・誠一の教育のことで隆と義母のツモが言い争う場面と密接につながり、言いたいことがもう一つあると続けたツモは、すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪であると語って、合同慰霊祭の時の隆の弔辞を批判するのである。

 娘の緑だけでなく多くの近親者を失っていた祖母ツモの戦争責任に関する発言は重く、それは戦争を推進していた高級軍人や政治家だけでなく、威勢のよい発言で国民を戦争へと駆り立てる一方、敗戦後のことには責任を持とうとしなかった林房雄や小林秀雄などの「知識人」にも関わるだろう(3)。

 *   *   *

  拙著では「盟友・木下監督がこの映画を公開したことが、黒澤監督に映画《夢》だけでなく、その翌年に封切られた映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》(原作・村田喜代子『鍋の中』、脚本・黒澤明)》の製作を決意させたようにも思える」と書き、長崎の被爆をテーマとした映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》の内容を簡単に紹介していた。

 なぜならば、この映画でも夏休みに長崎を訪れた孫たちの眼をとおして、原爆によって夫を失った祖母の深い悲しみと怒りがたんたんと描かれていたからである。

 ただ、「すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪である」と語ったツモの重たい言葉は、富士山に建てられた原発が事故で爆発するシーンが描かれている映画《夢》の子供を連れた母親の批判と深く結びついていると思える。

 「放射能は目に見えないから危険だと言って、放射性物質の着色技術を開発したってどうにもならない、知らずに殺されるか、知ってて殺されるか、それだけだ」と続けた原発の関係者の男は、「ぐじぐじ殺されるより、一思いに死ぬ方がいいよ」と結んだ。

 すると幼い子供たちを連れた母親は、次のように鋭く政治家や官僚などの責任を問い質していたのである。

 「でもね、原発は安全だ! 危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はない、絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした奴等は、ゆるせない! あいつら、みんな縛り首にしなくちゃ、死んでも死に切れないよ!」。

 *   *   *

  映画《この子を残して》が過去の記録というだけでなく、現代にも訴える力を持っているのは、映画の後半で成人して記者となりベトナムや中東の戦争の報道にも携わるようになった息子・誠一(山口崇)の視点から、進駐軍の厳しい検閲にも関わらず、病気で寝込むようになりながらも次々と原爆についての記録を書き残した医師・永井隆(加藤剛)の記憶が描かれているためであると思える。

 この映画のラストシーンでは、『長崎の鐘』がようやく出版された後で父が亡くなったという息子・誠一の言葉が語られる。

 その直後に、柱時計を指さしながら戦争を二度と起こしてはならないと告げた父の姿に被さるように、八月九日一一時二分に投下された原爆により浦上天主堂や町が被爆する映像が流され、「ちちをかえせ、ははをかえせ、としよりをかえせ、こどもをかえせ」という言葉で始まる峠三吉の詩とともに被爆後の人々の苦しみが実写も含めた映像が流され、圧倒的な説得力で観客に迫ってくる。

 

*1 横堀幸司、『木下恵介の遺言』朝日新聞社、2000年、203頁。

*2 木下恵介、DVD《この子を残して》、松竹、2013年。

*3 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

 

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

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スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

はじめに

1936年に発表した「『罪と罰』を見る」と題した映画評を「ピエール・シュナアルといふ人の作つた『罪と罰』の映画を薦められて見た」という文章から書き出した小林秀雄は、スタンバーグ監督の《罪と罰》を文士たちが「ソオニャがラスコオリニコフを掴へて『アメリカに逃げて頂戴な』などといふ『罪と罰』はない」と批判したことを紹介している。

そして、文士たちがこの映画を「原作に忠実でないからいけない」と「嘲笑」しているが、「スタンバアグの作がをかしければ今度のものだつてをかしい筈だ。少くとも『罪と罰』といふ小説に関して文学者らしい定見を持つてゐるならば」と続け、その理由を「狙つてゐる処は同じだからだ。一と口で言へば犯罪の心理学だ」と説明した小林は、「両方ともラスコオリニコフとポルフィイリイとの心理的対決といふものが一篇の中心をなしてゐる。そしてこの心理的対決の場面が今度の映画では前の映画より上手に出来てゐる」が、「人間の罪とは何か、罰とは何かと、考へあぐんだ人の思想など這入りこむ余地はないのだ」と記して、映画という表現手段の限界を指摘していた〔四・二二四~二二六〕。

 

1,映画《罪と罰》における「良心の呵責」の描写

黒澤監督は『蝦蟇の油――自伝のようなもの』(岩波文庫)で、1929年までに観た「映画の歴史に残る作品」として、1925年のデビュー作《救ひを求むる人々》から、米国映画最古のギャング映画と言われる《暗黒街》(1927)、さらに《非常線》(1928)と《女の一生》(1929)の四本のスタンバーグ作品を挙げている。

ドイツ系ユダヤ人のスタンバーグ監督(1984~1969)は、『ウィキペディア』によれば、1931年に外人部隊に所属するトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)とモロッコの酒場の歌手アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)との出会いと激しい愛を描いた映画《モロッコ》で有名になったとされる。

「弱肉強食の思想」を唱えていたヒトラーの内閣が1933年に成立したことによりヨーロッパで大戦争が近づくなか、デビュー作からスタンバーグ監督の映画を高く評価していた黒澤が、自分が深く尊敬していたドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を映画化したこの《罪と罰》を非常に注意深く観ていただろうことは間違いないだろう。

上映時間が84分の映画《罪と罰》(脚本:S・K・ローレン、ジョゼフ・アントニー、DVD、コスミック出版)では、残念ながら、時間的な制限からマルメラードフやその妻カテリーナの登場する場面は省略されており、ラズミーヒンやスヴィドリガイロフ像にも深みが欠けている。

また、当時の文人たちが批判したように、ソーニャの形象にもラスコーリニコフが血を流して大地を汚したと語り、大地に接吻するように諭した厳しさは欠けており、それゆえラスコーリニコフの告白を聞いて激しく動揺したソーニャが逃げるように頼む場面からはメロドラマ的な印象さえ受ける。

しかし、ラスコーリニコフの家族関係やルージンの卑劣さはきちんと描かれており、ソーニャが『聖書』のラザロの復活を読むシーンは迫力がある。彼のことを心配して取り乱したソーニャを見たラスコーリニコフが、自首を決意する流れも説得力を持っており、シベリアで彼が己の「罪」を深く「悔悟」して復活することも示唆されていると思える。

原作の登場人物や筋の一部を削除した代わりにスタンバーグ監督は、ラスコーリニコフ(ピーター・ローレ)と予審判事ポルフィーリイとの対決をとおして、「非凡人の理論」の危険性を浮き彫りにするとともに、「良心の呵責」に苦しむようになる主人公の内面にも迫っていた。

ことに、ペンキ職人のミコルカに罪をなすりつけて自分は逃げ出してもよいのかと問いかけることで浮き彫りにしていたラスコーリニコフの「良心の呵責」の問題は、いつの時代でも「国策」の一端を担うことになる「知識人」の「良心」の問題に深く関わっているだろう。

主役を演じたピーター・ローレは小柄で丸みを帯びた体型をしていることもあり、原作に描かれている主人公像との違いに戸惑ったが、ラスコーリニコフの苦悩や怒り、恐れなどの感情を表現力豊かに示して名演であった。

2,スタンバーグ監督の《罪と罰》と黒澤映画《夢》

映像的な面で興味深かったのはラスコーリニコフのベッドの上の壁に飾られているナポレオンの肖像画で、それと対比的に示されていたベートーベンの肖像画の意味が最初はよくわからなかった。しかし、ラスコーリニコフの部屋を訪れたポルフィーリイに、ナポレオンを尊敬していて彼に捧げようとして書いた第五交響曲「英雄」を、彼が皇帝になったことを知ってベートーベンが献辞をやめていたと語らせている場面で、この肖像画が「非凡人の理論」の批判としての意味を有していたことを知った。

このような映像的な処置は原作から離れており、大胆すぎるように思えた観客は多かったと思えるが、ドストエフスキーも原作で予審判事ポルフィーリイに、「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれない」と語らせることで「非凡人の理論」の危険性を指摘していた。

 ニーチェのドストエフスキー理解から影響を受けたと思われるヒトラーは、『わが闘争』(第一部、1925年、第二部、1926年)において、「すべての発明はある一人の人の創造の結果である」と書き、「ワイマール憲法」を否定して自分の独裁を正当化していた。

さらに、他民族への憎しみを煽りたてたばかりでなく「非凡人の理論」を「民族」にも当てはめて、「人種の価値に優劣の差異があることを認め(中略)、永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と主張して、「復讐」の戦争へと自国民を駆り立てた(高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、2000年、第9章参照)。

そのことを考えるならば、1935年に公開されたこの映画でスタンバーグ監督は、1940年に公開されるチャップリンの《独裁者》に先駆けて、「非凡人の理論」の危険性を描き出していたと思える。

スタンバーグ監督の《罪と罰》と比較するとき、不安の時代に書かれた小林秀雄の『罪と罰』論にはルージンの人間像や行動についての言及や、「非凡人の理論」をめぐる考察が決定的と思えるほどに欠けているのである。

黒澤明は『罪と罰』の映画化を行ってはいないが、1951年に長編小説『白痴』の見事な映画化を行うことで、映像をとおして小林秀雄の『白痴』論を痛烈に批判していた。

「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」とし、エピローグにおける「人類滅亡の悪夢」の描写にもあまり注意を払っていなかった小林秀雄が、戦後も基本的にはこのような解釈を変えなかったことに対して黒澤明は深刻な危機感を覚え、そのことを考え続けたことが映画《夢》の第四話「トンネル」や第六話「赤富士」に反映しているのではないだろうか。

タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と関係の深い映画)

リンク映画・演劇評」タイトル一覧Ⅱ

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(映画《醜聞(スキャンダル)》の「ポスター」、作成: Shochiku Company, Limited © 1950。図版は「ウィキペディア」による)

タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と…)

1、黒澤映画

長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

映画《静かなる決闘》から映画《赤ひげ》へ――拙著の副題の説明に代えて

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎

「第五福竜丸」事件と映画《生きものの記録》

「黒澤明監督の倫理観と自然観」の要

小林秀雄の『虐げられた人々』観と黒澤明作品《愛の世界・山猫とみの話》 

映画《羅生門》から映画《白痴》へ

復員兵と狂犬――映画《野良犬》と『罪と罰』

映画《白痴》から映画《生きる》へ 

長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》 

映画《赤ひげ》と映画《白痴》――黒澤明監督のドストエフスキー観 

 黒澤映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》 

映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

 

2,黒澤映画と…

「季節外れの問題作」《生きものの記録》とアニメ映画《風の谷のナウシカ》

映画《惑星ソラリス》をめぐって――黒澤明とタルコフスキーのドストエフスキー観

映画《母と暮せば》を見て

 映画《この子を残して》と映画《夢》

スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》

イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

ムィシキンの正確な映像化――ボルトコ監督のDVD《白痴》を見て

映画ポスター・三題――《白痴》、《ゴジラ》、《生きものの記録》

劇中歌「ゴンドラの唄」が結ぶもの――劇《その前夜》と映画《白痴》 

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》 

映画 《福島 生きものの記録》(岩崎雅典監督作品 )と黒澤映画《生きものの記録》

『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

はじめに

昨日の深夜に書いた映画《ドストエフスキーと愛に生きる》についてのブログ記事では次のように書いた。

〈ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました。〉

ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て

この記述だけではわかりにくいと思えるので、今回は「贖罪」という訳語についての感想を記しておきたい。

一、『罪と贖罪』という訳

翻訳者ガイヤーが長編小説『罪と罰』という題名を『罪と贖罪』と訳しているとの説明からは、衝撃に近い感銘を受けた。なぜならば、「罰」というロシア語の単語を「贖罪」と訳すことは、一見、大学でロシア語を学び始めて間もない学生でも分かるような「誤訳」のように見えるからだ。

ガイヤー訳の『罪と罰』が日本ではまだきちんと紹介されてはいないので、断言することは難しい。しかし、ヴァディム・イェンドレイコ監督は、このドキュメンタリー映画に1923年に公開されたロベルト・ウイーネ監督の映画《ラスコーリニコフ》から主人公が「斧」を探す場面を挿入することで、外国人の観客にもガイヤーの『罪と罰』理解の深さを示唆しえていた。

この場面についてガイヤーは、多くの観客はここでラスコーリニコフが殺害のための「武器」である斧を見つけ出したことに「恐怖」ではなく、主人公の気持ちに寄り添って「ほっと」したのではないかと語り、ドストエフスキーが『罪と罰』で示唆した「非凡人の理論」の危険性が、きちんと伝わっていなかった可能性を指摘しているのである。

『罪と罰』のエピローグでは自分の理論に従って殺人を犯した主人公ラスコーリニコフのシベリアでの重たい時間や「人類滅亡の悪夢」が描かれていることに留意するならば、スターリンの粛正やナチスによるユダヤ人の虐殺、さらには原爆の二度にわたる投下などが行われた第二次世界大戦を踏まえるならば、「贖罪」という訳こそが「殺人者」ラスコーリニコフの心情に寄り添うだけでなく、原作の間違った理解を避ける「適訳」だと思える。

二、小林秀雄の二つの『罪と罰』論

このことを強く感じたのは、私が自分のドストエフスキー論の集大成とも考えている『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』をなんとか脱稿して、「あとがき」の文章をこの時期に考えていたためでもあるだろう。

「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論からは、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけともなるほどの影響を受けた。

しかし、小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』のムィシキンの解釈を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

たとえば、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していた〔四五〕。

この評論ががこれから日本が戦争に向かおうとしていた時期に書かれていることを考慮するならば、このような結論もやむを得なかったと思える。ラスコーリニコフが行った「正義の犯罪」をシベリアで悔いたと解釈することは、軍部に対する批判と見なされて逮捕され、拷問を受ける危険性もあったからである。

問題は戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「物語は以上で終つた。作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである。恐らく作者は、自分の事よりも、寧ろ読者の心持の方を考へてゐたかとも思はれる」と、戦前と同じような見解を小林が記していることである〔二五〇〕。

 三、小林秀雄とガイヤーの歴史認識

「『罪と罰』についてⅡ」からはそのような認識の深まりは感じられなかったが、「歴史について」という題で評論家の河上徹太郎と1979年に行った対談で、「歴史をエモーショナルに掴む、と君は言うが、歴史の『おそろしさ』を知り抜いた上での発言と解していいのだな」と河上から確認されると、小林は「まさしく、そうだよ。歴史に向かってはこれとエモーショナルに合体できる道は開けている、と僕は信じている。それは合理的な道ではない。端的に、美的な道だと言っていいのだ」と断言していた。

しかし、まだ『全集』には収録されていないようだが 1940年に「英雄を語る」と題して行った鼎談で、同人の林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問われた小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けると、この言葉を受けて林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる。天皇陛下を戴いて諸共に皆んな滅びてしまへば宣いと覚悟してゐる」と応じていた。

二人が語っていたような歴史認識が日本を無謀な戦争へと駆り立てたと思えるが、小林秀雄にはこのことの反省をしているようには見えないばかりか、「『白痴』をやってみるとね、頭ができない、トルソ(頭と手足を持たない胴体だけの彫像、編集部注)になってしまうんだな」とし、「「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ」と強調している言葉からは、ドストエフスキーのテキストをきちんと読み解こうとするのではなく、あくまで自分が創作した「物語」を守ろうとする姿勢が感じられる。

《ドストエフスキーと愛に生きる》から私が深い感銘を受けた理由の一つは、小林秀雄の『罪と罰』論とのガイヤー訳の『罪と罰』における「罪」の認識の差を実感しただけでなく、ドイツ人に戦争への反省をも迫るような『罪と贖罪』という題名の訳を翻訳者のガイヤーが提案していたばかりでなく、そのようなあまり売れそうもない重たい題名の訳書の出版に踏み切った出版社の勇気と気概を知ったためでもあった。

そこには「国家」への「奉仕」が求められる一方で、「個人」の自立が切り捨てられたナチス・ドイツへの鋭い批判が感じられ、福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論をふまえて脱原発に踏み切ったドイツと、未だに事故が収束しておらず、使用済み核燃料の問題が解決されていなにもかかわらず、政府や官僚の主導により原発の再稼働や輸出を始められようとしている日本との違いに現れているようにも感じられる。

fc2_2013-09-21_18-19-44-152(く黒澤映画《夢》「赤富士」)

(画像はブログ「みんなが知るべき情報/今日の物語」より。http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/7da039753df523c21dcd451020f1e99c …

 イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)

小林秀雄の『虐げられた人々』観と黒澤明作品《愛の世界・山猫とみの話》

 

一、 《愛の世界・山猫とみの話》から《赤ひげ》へ

 戦時中の一九四三年一月に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本が主に黒澤明監督の手に成るものであったことは「ブログ」に記したが、この映画にはその後の黒澤明監督作品を予想させるような、テーマとシーンが見られた。

 ことに注目されたのは、例会発表でも指摘されたように、両親と七歳で死別して曲馬団に売られ、その後も様々な職業を転々とするなかで時には凶暴性を発揮したり、何ヶ月も口を利かずに「山猫」とみとあだ名された少女の形象には、映画《赤ひげ》で行われることになる『虐げられた人々』の少女ネリーの見事に映像化がすでになされたいたことである。

 私は映画《赤ひげ》(一九六五)におけるお粥の入った茶碗を少女おとよが壊すシーンと映画《白痴》におけるナスターシヤが花瓶を壊すシーンを比較して、心に傷を負った彼女たちの行動が見事に描き出されていることを指摘して、黒澤明監督の『虐げられた人々』と『白痴』理解の深さを指摘していた(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、九三~九八頁)。 

 つまり、ワルコフスキー公爵の実の娘でありながら、母親を捨てて死に追いやった父親の援助を拒んで幼くしてなくなった少女ネリーの人物造形は、火事で孤児になった後で無理矢理に「貴族」トーツキーの妾とされていたが、莫大な持参金を拒んで自立しようとして苦しんだ長編小説『白痴』のナスターシヤ像の先駆的な役割を担っていると思われるのである。

 映画《赤ひげ》は一九五一年に公開された映画《白痴》から、はるか後年に撮られていることもあり、黒澤明監督の『虐げられた人々』の理解が深まったのは、映画《白痴》を撮った後であるという解釈も可能であった。しかし、映画《愛の世界・山猫とみの話》が一九四三年一月に公開されていたことは、映画《白痴》を撮ることになる黒澤明監督が、すでにこの時点で『虐げられた人々』のネリー像の重要性を理解していたことを強く示唆していると思われる。

 この点に留意するとき、なぜ映画《白痴》の後で撮られた映画《生きる》(一九五二)では余生がわずかなことを知った主人公の前に、メフィストフェレスを自称する作家が犬を連れて現れることが描かれているのかも理解できる。

二、『虐げられた人々』の構成と粗筋

 四部とエピローグからなる本格的な長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でも、語り手である主人公のイワンがみすぼらしい老人とその老犬の死に立ち会うという印象的な場面から始まり、その孫娘ネリーの出生の謎をめぐって物語が展開されているのである。

 映画《愛の世界》や《赤ひげ》の理解にも関わるので、あまり知られていない『虐げられた人々』の粗筋をまず簡単に紹介しておきたい。

 この長編小説では少女ネリーをめぐる出来事と孤児となったイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる物語が並行的に描かれて行くが、物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ネリーの父ワルコフスキー公爵の詐欺的な言動によるものであることがはっきりしてくる。

 すなわち、ネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていたのである。

 一方、一五〇人の農奴を持つ地主で主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も、九〇〇人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきて、イフメーネフ家を訪れて懇意になると自分の領地の管理を依頼し、さらに五年後には新たな領地の購入とその村の管理をも任せたことから始まる。

 積極的にイフメーネフに近付いて、自分の領地の管理を任せてその能力に満足したと語っていた公爵は、後に自分の領地の購入に際してイフメーネフが購入代金をごまかしたという訴訟を起こし、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだ。そのために、裁判に敗けて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのである。

 こうして、少女ネリーの悲劇が描かれている長編小説『虐げられた人々』は、クリミア戦争敗戦後のロシアを揺るがせていた二つの大きな問題、農奴制の廃止と資本主義の導入の問題点を浮き彫りにして、混沌とした時代の雰囲気や「大改革」の時代の課題を描き出していたといえるだろう。

 

 

三、映画《愛の世界・山猫とみの話》における「鬱蒼とした森」の描写

 長編小説『虐げられた人々』が連載された雑誌『時代』は、農奴制の廃止や言論の自由を求めたために捕らえられて死刑の判決を受けた後でシベリア流刑へと減刑されていたドストエフスキーが、刑期を終えて首都に帰還してから兄ミハイルとともに創刊した雑誌である。

 クリミア戦争の敗戦により農奴制の問題が認識されて、農奴解放などが行われた「大改革」の時代に首都に戻ったドストエフスキーは、「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」とし、「欧化」でも「国粋」でもない、第三の道として「大地主義」の理念を掲げるとともに、文盲に近い状態におかれていた「農民」に対する教育の重要性とともに、「知識人」が「農民の英知」を学ぶ必要性も唱えていた。

 そのような「農民の英知」の一つは、「森や泉」に深い敬意を払う民衆の自然観だろう。たとえば、木下豊房氏は『貧しき人々』や『虐げられた人々』、さらに『百姓マレイ』などにも言及しつつドストエフスキー家の領地であったダロヴォーエの森について書いたエッセー「フェージャの森」で、「都会の作家といわれるドストエフスキーの深奥には、実は豊かなロシアの自然と大地(土壌)が横たわっている」と指摘している(『ドストエフスキー その対話的世界』、成文社、二〇〇二年、二九七~三〇〇頁)。

 さらに、論文「思い出は人間を救う――ドストエフスキー文学における子供時代の思い出の意味について」(『ドストエーフスキイ広場』、第一六号、二〇〇七年)では、具体的に『虐げられた人々』の文章にも言及しているので、《愛の世界》との関わりを具体的に示すためにも、まずはその文章を引用しておく。

 「ニコライ・セルゲーヴィチ(引用者注――イフメーネフのこと)が管理人であったワシリエフスコエ村の庭園や公園は何と素晴らしかったことか。私とナターシャはこの庭園へよく散歩にでかけたものだった。庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森があって、私たち二人の子供は一度、道に迷ってしまったことがあった……美しい黄金時代! 人生がはじめて、秘密めいて、誘惑にみちた姿で現れ、それを知ることは、何とも甘美であった」。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》から強い印象を受けた場面の一つは、少女救護院で自分をいじめた園児と激しい喧嘩をして脱走して、最初は歌を歌いながら自然の美しさに見とれ、自由を謳歌していた少女とみを描いた後で、次第に暗くなってくると道に迷って森から出られなくなったとみにとっては森が巨大な妖怪の住む無気味な世界へと一変したことが描かれていることである。

 この美しい森から無気味な森への変化は、自然の変化を深く理解して見事な道案内人の役を果たしたデルスが、眼を悪くしたあとでは自然を恐れるようになったことが描かれている映画《デルス・ウザーラ》をも思い起こさせる。

 しかも、畑仕事が厭で怠けていた少女とみは、映画の最後では畑仕事に喜んで従事している場面が描かれているが、それは文部大臣によって京都帝国大学の憲法学者滝川教授が罷免された事件を題材にして、敗戦直後の一九四六年に公開された映画《わが青春に悔なし》(脚本・久板栄二郎、黒澤明)のシーンを思い起こさせる。この映画でも父の教え子でジャーナリストになっていた野毛を敬愛して彼の元に走って同棲生活を送るようになった娘の幸枝が、野毛がスパイ容疑で逮捕され獄中で死亡した後では、野毛の実家へと行って彼の母親(杉村春子)を手伝って黙々と大地を耕すシーンがドキュメンタリー的な手法で描かれていたのである。

 農民を指導して野武士の群盗たちと戦い百姓たちを守った七人の侍の雄々しい戦いが描かれている映画《七人の侍》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)の最後のシーンでも、戦いに勝ったあとで百姓たちが行っていた田植えの場面がクローズアップされていた。そして「いや……勝ったのは……あの百姓たちだ……俺たちではない」と語った指導者の勘兵衛は、さらに「侍はな……この風のように、この大地の上を吹き捲って通り過ぎるだけだ……土は……何時までも残る……あの百姓たちも土と一緒に何時までも生きる!」と続けているのである(『全集 黒澤明』第四巻、九五頁)。

 映画《愛の世界・山猫とみの話》は「国策映画」として製作されたために、表現は制限されてはいるが、ここには一九五四年に公開された映画《七人の侍》に見られるような黒澤明監督の「大地主義」への深い理解がすでに現れているように思われる。

 

四、小林秀雄の『虐げられた人々』理解と映画《赤ひげ》

 『虐げられた人々』においては「庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森」があったことが描かれていたが、「大地主義」の時期の代表的な作品である『罪と罰』では、本編におけるペテルブルグの「壮麗な眺望の謎」に対応するように、シベリアにおける「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎も読者の前に呈示されていた。

  映画《夢》の分析において詳しく考察することになるが、この「鬱蒼(うっそう)たる森林」の謎を理解したことが、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの精神的な「復活」へとつながることが『罪と罰』では示唆されている。

  しかし、今もドストエフスキー論の「大家」と見なされている文芸評論家の小林秀雄は一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、『罪と罰』の「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いて、ラスコーリニコフの「復活」を否定していた(『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、五三頁。引用に際しては、旧漢字は新し漢字になおした)。

 このような小林秀雄の理解には、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、ニーチェとともにドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定したシェストフからの強い影響があるだろう(拙著、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、二〇〇二年、一二六頁参照)。

  しかも、ドストエフスキー自身は『虐げられた人々』について、後に次のような厳しい評価を下していた。

 「『虐げられし人々』の時もさうだつた。雑誌には是非長篇が要る。何を置いても成功させねばならぬ。そこで僕は四部から成る長篇を一つ提供したわけだ。プランはずつと前から出来てゐるから、わけなく書けるし、第一部はもう書き上げてあるなどと言つて兄を安心させてゐたが、みんな出鱈目だつた。僕は金が欲しくて働いたのだ。僕の小説中に動いてゐるのは人形であつて、生き物ではない」。

 『地下室の手記』によって前期と後期のドストエフスキー作品との間に深い断層を見たシェストフの見解を受け入れていた小林秀雄は、「ドストエフスキイの生活」で作家自身の言葉を引用することで、『地下室の手記』以前に書かれた『虐げられた人々』も失敗作とみなした。その一方で、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定した作家と見なした小林は、『白痴』論では「たゞ確かなのはこの時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、ナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定したのである(「『白痴』についてⅠ」)。

 たしかに、急いで書いたこともあり、主人公のイワンをはじめ多くの人物造形がそれほど成功裏に描かれているとは言えないだろう。しかし、ドストエフスキーは謙遜的に記してはいるものの、この小説では幼いながらも高い誇りを持った虐げられた少女ネリーの形象がきわめていきいきと描かれていたばかりでなく、大地主の横暴さや法律の問題など当時の問題を浮き彫りにしており、ここで提起された多くの問題は『罪と罰』以降の長編小説で深められており、ことに『白痴』では誇り高い少女ネリーとナスターシヤの間にはあきらかな連続性が認められるのである。

 しかし、映画《白痴》が一九五一年に公開された翌年の一九五二年から「『白痴』についてⅡ」を書き続けた小林は、長い間中断した後で一九六四年に付け加えた第九章では長編小説の結末について次のように記した。

 「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」。そして小林は、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである」と続けていたのである(傍線引用者、三三九~三四〇頁)。

 このような小林の断定的な解釈について、私はエッセー「『不注意な読者』をめぐって」で、この時小林秀雄が強く意識していたのは、名指しをしてはいないが、映画《白痴》で病んだナスターシヤを看護しようとしたムィシキンに光をあてながら長編小説『白痴』の映画化をしていた黒澤明監督である可能性が高いという仮説を記した(『ドストエーフスキイ広場』、第二二号)。

 誌面の都合上、詳しい理由を記すことはできなかったが、私が注目したのは映画《白痴》を撮った黒澤明監督による映画《赤ひげ》の制作開始記念パーティが一九六三年一〇月六日に行われていたことである(『大系 黒澤明』第四巻、八二〇頁)。

 様々な事情のために映画《赤ひげ》の撮影は大幅に延びて、公開は一九六五年四月三日になったが、『虐げられた人々』の少女ネリーの形象が採り入れられているばかりでなく、精神的な医師としてのムィシキンの精神を受けついでいるとも思える医師「赤ひげ」とその若い弟子を主人公にした映画のことは、小林秀雄の耳にも入っていたと思える。

 自分の『白痴』論を真っ向から否定するような映画《白痴》を撮った黒澤明監督による新しい映画の公開が、自分のドストエフスキー論の土台を覆す危険性を含んでいることを敏感に感じた小林秀雄が、「不注意な読者」を批判する断定的な文章を加えて、急遽『白痴について』(角川書店、一九六四年)を上梓したのではないかと私は考えている。

 小林秀雄の『白痴について』を批判する評論を黒澤明監督は書いてはいない。しかし、一九七五年にロシアで撮った映画《デルス・ウザーラ》が日本で公開された後で、若者たちと行った座談会で黒澤明監督は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語っているのである(黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、二八八頁)。

 このような発言にはロシアで映画を撮ることになったことで、黒澤映画《白痴》をきわめて高く評価するとともに、自分でも映画《罪と罰》(一九六九年)を撮っていたクリジャーノフ監督などととの会話をとおして、自分の『白痴』理解の正しさと「大地主義」の時期の重要さを再確認したためと思われる。

 ただ、それはすでに新しいテーマなので稿を改めて書くことにしたい。

 

 (本稿は『黒澤明と小林秀雄――長編小説『罪と罰』で映画《夢》を読み解く』と題して来年の三月に発行する予定の著作の第四章〈映画《赤ひげ》から《デルス・ウザーラ》へ――黒澤明監督と「大地主義」〉(仮題)に収録する予定である)。