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百田直樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』関連の記事一覧

先ほど、〈「平和安全法制整備法案」と小説『永遠の0(ゼロ)』の構造〉という記事をアップしました。

それゆえ、ここでは百田直樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』および、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』に関連する記事の一覧を掲載します。

(下線部をクリックすると記事にリンクします)。

 

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』(1)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(3)

「特定秘密保護法」と「オレオレ詐欺

「集団的自衛権」と「カミカゼ」

「集団的自衛権」と『永遠の0(ゼロ)』

「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(1)

『永遠の0(ゼロ)』と「尊皇攘夷思想」

「ぼく」とは誰か ――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(2)

沈黙する女性・慶子――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(3)

隠された「一億玉砕」の思想――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(4)

小林秀雄と「一億玉砕」の思想

「戦争の批判」というたてまえ――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(5

「作品」に込められた「作者」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(6)

「作者」の強い悪意――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(7)

「議論」を拒否する小説の構造――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(8)

黒幕は誰か――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(9)

モデルとしてのアニメ映画《紅の豚》――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(10)

歪められた「司馬史観」――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(11)

侮辱された主人公――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(12)

主人公の「思い」の実現へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(1)

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

 

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

前回は夏目漱石の『草枕』が「大好きですね」と宮崎監督が語っていることの紹介から始めましたが、次の言葉からは熱烈な愛読者であることが伝わってきます。

「いずれにしましてもぼく、『草枕』が大好きで、飛行機に乗らなきゃいけないときは必ずあれを持っていくんです。どこからでも読めるところも好きなんです。終わりまで行ったら、また適当なところを開いて読んでりゃいい。ぼくはほんとうに、『草枕』ばかり読んでいる人間かもしれません(笑)」(『腰抜け愛国談義』文春ジブリ文庫、2013年)。

*    *   *

『漱石先生ぞな もし』(文春文庫)の作者でもある半藤一利氏が「それはともかく、『草枕』は一種のファンタジーです。漱石がつくりだした桃源郷と言ってもいい」語ると宮崎監督も「惨憺たる精神状態のときに書いたものだと言われるけれど、だからこそいいものになったような気もします」と答えています。

 

私にとって興味深かったのは、「おっしゃるとおり『草枕』は、ノイローゼがいちばんひどかったときの作品なんですね」と指摘した半藤氏が、「これは私呑んだときによくしゃべることなんですけれどね。『草枕』という小説は、若い頃につくった俳句を引っぱりだしてきて、漱石はそれを眺めながら、うん、こいつを使おうと考えた。それら俳句に詠んだ描写を書いているんです」と語り、「ですからあの小説は、漱石自ら『俳句小説』だといっていますね」と続けていることです。

この説明を聞いて、宮崎監督は「そういえばはじめて読んだとき、主人公の青年は絵描きなのに、なぜ俳句ばかり詠んでいるんだろうと不思議に思ったのを思い出しました(笑)。でも、いや、ぼくは『草枕』は好きです。何度読んでも好きです」と応じています。

*    *   *

宮崎監督と半藤氏とのこれらの会話を読んで思い出したのは、夏目漱石と正岡子規との関係でした。

たとえば、冒頭の文章に続いて、風景を詠もうとする画工(えかき)の試みが次のように描かれています。

「やがて、長閑(のどか)な馬子唄(まごうた)が、春に更(ふ)けた空山(くうざん)一路の夢を破る。憐(あわ)れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。/ 馬子唄の鈴鹿(すずか)越ゆるや春の雨/ と、今度は斜(はす)に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。」

全集の注はこの句も子規が明治25年に書いた「馬子唄の鈴鹿(すずか)上るや春の雨」を踏まえていることを示唆しています。

半藤氏は漱石が「若い頃につくった俳句を引っぱりだしてきて」、それをこの小説で用いていると指摘していましたが、現在、執筆中の『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』では、新聞記者となる子規と漱石との深い交友にも焦点をあてて書いています。その中で改めて感じるのは、漱石という作家が子規との深い交友とお互いの切磋琢磨をとおして生まれていることです。

このことを踏まえるならば、この時、漱石は漫然と若い頃を思い出していたのではなく、病身をおして木曽路を旅した子規が翌年の明治二五年五月から六月にかけて「かけはしの記」と題して新聞『日本』に連載した紀行文のことを思い浮かべていたのではないかと思えるのです。

ことに『草枕』の冒頭の「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。/智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」という文章は、大胆すぎる仮説かもしれませんが、「かけはしの記」の冒頭に記されている次のような文章への「返歌」のような性質を持っているのではないかと思えます。

「浮世の病ひ頭に上りては哲学の研究も惑病同源の理を示さず。行脚雲水の望みに心空になりては俗界の草根木皮、画にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし」。

漱石の処女作となった『吾輩は猫である』が、子規の創刊した『ホトトギス』に掲載されたことはよく知られていますが、結核を患って若くして亡くなった子規が漱石に及ぼした影響については、さらに研究が深められるべきでしょう。

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宮崎監督はロンドンのテムズ川の南、チェイスというところにある漱石記念館やテート・ギャラリーを訪れたことに関連して、『三四郎』における絵画について語っています。

すなわち、「記念館に足を踏み入れたとき、ぼくはもうそれだけで胸がいっぱい。なにかもう、『漱石さん、あのときはご苦労さまでした』って感じで」と語った宮崎監督は、「ロンドンではテート・ギャラリーの、漱石が足しげく通ったというターナーとラファエル前派の部屋にも行きました」と語り、次のように続けているのです。

「絵を前にして立っていると、ああ、ここに漱石が立っていたに違いない、と。そのなかに羊の群れが丘の上でたわむれている絵がありまして、ああ、これがきっと、『三四郎』の「ストレイシープ」だなんて思って、また胸が(笑)。」

このブログでは司馬遼太郎氏が「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記していた漱石の『三四郎』についてたびたび言及してきました。

実は、『草枕』でも女主人公・那美の従兄弟の久一が招集されて戦地に赴くことだけでなく、彼女の別れた夫が一旗あげようとして満州に渡ろうとしているなど日露戦争の影も色濃く描かれているのです。

映画《風立ちぬ》における時代の鋭い描写には、宮崎監督の漱石の深い理解が反映されていると思えます。

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興味深いのは、半藤氏が「『草枕』という小説は、言葉が古くて難しいからいまの若い人たちには読めないんですよ。だから私、若い人たちに『草枕』は英語で読め、と言っています」と語ったことに対して、宮崎監督が「どこかでそうお書きになっていましたね。ぼくはわかんないとこは平気でとばして読んでいます(笑)」とやんわりと反論していたことです。

私も宮崎監督に同感で、初めのうちは分かりにくくても、やはり日本語で読むことで『草枕』という小説が持つ日本語のリズムも伝わってくるし、何度も読み返すことで、その面白さや深さやも伝わってくると考えています。

宮崎監督がこの後で、「なにしろ『草枕』は、ほんとに情景がきれいなんです。しかもその鮮度がいまでもまったく失われていないんです」と語ると、その言葉を受けて半藤氏も、「漱石の小説で、絵巻になっているのは『草枕』だけですね」と応じています。

ロンドンのテート・ギャラリーには、『三四郎』の「ストレイシープ」に関わる画だけでなく、悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフェリヤを描いたジョン・エヴァレット・ミレイの絵や朦朧体で描かれたターナーの絵も多く飾られていました。

これらの絵画からの印象も映画《風立ちぬ》における深い叙情に反映されているのではないかと思えます。

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半藤氏はカナダのピアニストのグレン・グールドが『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』を、「二十世紀の最高傑作に挙げた」ことも指摘しています。

映画《風立ちぬ》における『魔の山』のテーマについてはすでに記していましたが、この二つの作品を読むことにより映画で描かれている時代の理解も深まるでしょう。

 

リンク→《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

 

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

 

宮崎監督は夏目漱石の『草枕』が「大好きですね」と語っています。

元編集者で『漱石先生ぞな もし』(文春文庫)の作者でもある半藤一利氏がそれを受けて「それにあれは、絵画的世界でもありますね」と指摘すると、監督は「那美さんが川舟のなかで、スッと春の山をゆび指すでしょう。『あの山の向うを、あなたは越して入(い)らしった』と。とてもきれいなんです。絵にしたいんです。でも自分の画力では絵にできません」と続けているのです。

この二人の対談『腰抜け愛国談義』(文春ジブリ文庫、2013年)に注目しながら映画《風立ちぬ》を見るとき、この映画が堀辰雄の作品や優れた設計者の堀越二郎の伝記だけでなく、漱石の『草枕』の世界をも踏まえて創られているのだろう思えてきます。

ただ、『草枕』は少し古い作品なので、今回はこの内容も紹介しながら映画《風立ちぬ》との関係を考えてみたいと思います。

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日露戦争終結の翌年に発表された『草枕』は次のような有名な冒頭の言葉で始まります。

「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。」

 

こうして『草枕』では、画工である主人公が逗留した山中の温泉宿での景色や、そこで出会った「今まで見た女のうちで尤(もつと)もうつくしい所作をする」薄幸の女性・那美さんとの関わりをとおして独自の芸術論が語られているのです。

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その舞台となったのが熊本の小天(おあま)温泉でしたが、そこに「どうしても行きたくなって」しまった宮崎監督は、「社員旅行のときに『熊本に行こう!』と言い張って(笑)。二百何十人で出かけて行ったことがありました」と語っています。

宮崎「念願かなって行ったのですが、物語にでてくる峠道を歩くことはできませんでした。時間があまりなくてバスで行ってしまったものですから。」

半藤「それは残念でしたね。」

宮崎「物語の最後のところで、吉田の停留場(ステーション)まで川舟で川を下りますでしょう。あの川にはなんとしても行ってみたいと思ったのですが、ところが地図をいくら調べてもない。」

半藤「あれはつくり話なんです。漱石が自分でも描いた山水画の世界です。」

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『草枕』で注目したいのは、戦争が始まってからはほとんど湯治の客も来なくなった温泉の主人の娘・那美(なみ)が、最初からシェークスピアの悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフェリヤと結びつけられて描かれていることです。

すなわち、茶店の老婆が「わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前(めさき)に散らついている。裾(すそ)模様の振袖(ふりそで)に、高島田で、馬に乗って……」と源(げん)さんに話しかけているのを聞いた主人公は、写生帖をあけて「この景色は画になる」と考えるのです。ただ、「花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影(おもかげ)が忽然(こつぜん)と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった」と描かれています。

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「ウィキペディア」より

さらに主人公に「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘」が、二人の男から懸想されて「淵川(ふちかわ)へ身を投げて果てました」と語った老婆は、那美も親の強い意向で「ここの城下で随一の物持ち」に嫁いだものの、「今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれ」て戻ってきたと語ったのです。

こうして、人づてに那美についての話を聞いて、よい画の主題を得たと思い始めた主人公は、第7章では思いがけず風呂場に入ってきて朦朧とした湯けむりのなかに見える彼女の姿を、「あまりにも露骨(あからさま)な肉の美」を描く西欧の裸体画と比較しつつ、「神代の姿を雲のなかに呼びお起こしたるが如く自然である」と描いています。

*    *   *

「映画『風立ちぬ』と日本の明日」と題された第二部では、半藤氏が「映画のなかで堀越二郎が菜穂子と暮らした黒川邸のような家は、昭和初期にはたくさんあったように思いますねえ」と語っています。

興味深いのは、その言葉を受けた宮崎監督が、女主人公の菜穂子が治療中のサナトリウムを抜け出して黒川夫妻の元で祝言を挙げ、命を燃やすように濃密な時間を二人で生きた黒川邸の離れについてこう語っていることです。

「『草枕』の舞台となった熊本の小天温泉に出かけて行った話を前回しましたが、漱石が泊まった前田家別邸の離れを見たときに『あ、これはいつか使える。覚えておこう』と思ったんです。黒川邸の離れはあそこがモデルなんです。」

自由民権運動に深くかかわった熊本の名士・前田案山子のこの別邸には中江兆民が訪れていたこともあり、漱石関連の書籍で写真を見ていたことが、私が映画《風立ちぬ》から強い印象を受けた一因かもしれません

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(本稿は昨日書いた同名のブログ記事の全面的な改訂版です。アップした文章を読み直したところ、漱石の『草枕』をまだ読んでいない人には難しいことが分かりましたので、2回に分けて掲載することにしました)。

 

 

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

 

『永遠の0(ゼロ)』において次に注目したいのは、「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう」と語った長谷川が、「だが誰も戦争をなくせない」と続けていたことです。

この言葉からは絶望した者の苛立ちがことに強く感じられます。たしかに、これまでの人類の歴史には戦争が絶えることはありませんでした。

しかし、このような長谷川の認識には大きな落とし穴があります。それは広島・長崎に原爆が投下されたあとでは、世界の大国が一斉に核兵器の開発に乗り出していたことです。多くの科学者が「国益」の名のもとにその開発に従事するようになり、さらに強力な水爆や「原子力潜水艦」が製造され、1962年のキューバ危機では地球が破滅するような核戦争が勃発する危機の寸前にまでいたっていたのです。

つまり、「核兵器」を持つようになって以降においては、いかに「核兵器」の廃絶を行うかに地球の未来はかかっているのです。しかし問題はこのような深刻な事態にたいして、被爆国の政府である自民党政権が「放射能の危険性」と「核兵器の非人道性」を世界に訴えることなく、むしろその「隠蔽」に力を貸していたことです。

さらに、1957年5月には満州の政策に深く関わり、開戦時には重要閣僚だったために、A級戦犯被疑者となっていたが復権した岸信介氏首相が「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」とさえ国会で答弁していたのです。

*   *

このような状況の下で、57年の9月には「日米が原爆図上演習」を行っていたことが判明したことを「東京新聞」は1月18日の朝刊でアメリカの「解禁公文章」から明らかにしています。

「七十年前、広島、長崎への原爆投下で核時代の扉を開いた米国は当時、ソ連との冷戦下で他の弾薬並みに核を使う政策をとった。五四年の水爆実験で第五福竜丸が被ばくしたビキニ事件で、反核世論が高まった被爆国日本は非核国家の道を歩んだが、国民に伏せたまま制服組が核共有を構想した戦後史の裏面が明るみに出た。 文書は共同通信と黒崎輝(あきら)福島大准教授(国際政治学)の同調査で、ワシントン郊外の米国立公文書館で見つかった。 五八年二月十七日付の米統合参謀本部文書によると、五七年九月二十四~二十八日、自衛隊と米軍は核使用を想定した共同図上演習「フジ」を実施した。場所は記されていないが、防衛省防衛研究所の日本側資料によると、キャンプ・ドレイク(東京都と埼玉県にまたがる当時の米軍基地)内とみられる。」

「核兵器」や「放射能」の危険性をきちん認識し得なかったという点で、岸信介元首相は、世界各国が「自衛」のために核兵器を持ちたがるようになった冷戦後の国際平和の面でも大きな「道徳的責任」があると言えるでしょう。

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「核兵器」を用いても勝利すればよいとするこのような戦争観とは正反対の見方を示したのが、作家の司馬遼太郎氏でした。『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」と書いていたのです(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』、1972年)。

注目したのは、日本には原発が54基もあるという宮崎駿監督の指摘を受けて、作家の半藤一利氏が「そのうちのどこかに1発か2発攻撃されるだけで放射能でおしまいなんです、この国は。いまだって武力による国防なんてどだい無理なんです」と語っていることです。(『腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫)(68頁)。

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この意味で注目したいのは、湾岸戦争後に「改憲」のムードが高まってくると、日本では敗戦後の「平和憲法」と第一次世界大戦の敗戦後のドイツの「ワイマール憲法」を比較して、揶揄することが流行ったことです。

リンク→麻生副総理の歴史認識と司馬遼太郎氏のヒトラー観

すでに引用したように、百田氏もツイッターで「すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す」と記していました。互いに殺しあいを行う戦場では何を語っても無意味であり、声を上げる前に射殺されるだろうことは確実なので、「そこで戦争は終わる」ことはありえません。しかし、「もし、9条の威力が本物なら、…中略…世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる」と書いていることの一端は真実を突いているでしょう。

イスラム教の国に十字軍を派遣したことがなく、アフガンや中東において医療チームなどが平和的な活動を続けてきた日本はそれなりに信頼される国になっており、交渉役としての重要な役を担えるようになっていたのです(安倍政権によって、これまでに積み上げられた信頼は一気にブルドーザーのような力で崩されていますが…)。

*   *

一方、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏は、ヒトラーについて次のように書いていました。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒットラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか。…中略…政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

実際、「人種の価値に優劣の差異があることを認め(中略)、永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と主張して、「復讐」の戦争へと自国民を駆り立てた『わが闘争』においてヒトラーは、第一次世界大戦の敗戦の責任をユダヤ人に押しつけるとともに、敗戦後にドイツが創った「ワイマール憲法」下の平和を軟弱なものとして否定しました。

さらにヒトラーはフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への新たな、しかし破滅への戦争へと突き進んだのです。

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これまで見てきたことから明らかなように、第1次世界大戦後の「ワイマール憲法」と「核兵器」が使用された第2次世界大戦後に成立した日本の「平和憲法」では、根本的にその働きは異なっており、「核兵器」や「原発」の危険性をもきちんと視野に入れるとき「日本の平和憲法」が果たすべき役割は大きいと思われます。

私たちは「戦争」が紛争解決の手段だとする19世紀的な古く危険な歴史観から脱却し、「核の時代」では戦争が地球を滅ぼすという「平凡な事実」をきちんと認識すべき時期にきているのです。

歪められた「司馬史観」――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(11)

前回の記事では、『永遠の0(ゼロ)』の第10章「阿修羅」と映画《紅の豚》で描かれた空中戦のシーンとを比較することにより、「豚のポルコ」と宮部との類似性を示すとともに、作品に描かれている女性たちと主人公との関係が正反対であることを指摘しました。

同じようなことが、いわゆる「司馬史観」との関係でも言えるようです。

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宮崎駿監督が「書生」として司会を務めた鼎談集『時代の風音』(朝日文庫、1997)で司馬氏は、20世紀の大きな特徴の一つとして「大量に殺戮できる兵器を、機関銃から始まって最後に核まで至るもの」を作っただけでなく、「兵器は全部、人を殺すための道具ながら、これが進歩の証(あかし)」とされてきたことを厳しく批判していました(「二十世紀とは」)。

しかし、このような司馬氏の深い歴史観は、『永遠の0(ゼロ)』では矮小化された形で伝えられているのです。

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第7章「狂気」では慶子が、「私、太平洋戦争のことで、いろいろ調べてみたの。それで、一つ気がついたことがあるの」と弟に語りかけ、「海軍の長官クラスの弱気なことよ」と告げる場面が描かれています。

さらに慶子は「これは私の個人的意見だけど」と断りながら、「もしかしたら、彼らの頭には常に出世という考えがあったような気がしてならないの」と語り、「出世だって――戦争しながら?」と問われると、「穿ちすぎかもしれないけど、そうとしか思えないフシがありすぎるのよ」と答えています。

その答えを聞くと「ぼくは心の中で唸った。姉の意外な知識の豊富さにも驚かされたが、それ以上に感心したのが、鋭い視点だった」と書かれています。

その言葉を裏付けるかのように、慶子はさらに「つまり試験の優等生がそのまま出世していくのよ。今の官僚と同じね」と語り、「ペーパーテストによる優等生」を厳しく批判しているのです。

*   *

慶子は「これは私の個人的意見だけど」と断っていましたが、いわゆる「司馬史観」をめぐって行われた論争に詳しい人ならば、これが司馬氏の官僚観を抜き出したものであることにすぐ気づくと思います。

すなわち、軍人や官吏が「ペーパーテストによって採用されていく」、「偏差値教育は日露戦争の後にもう始まって」いたとした司馬氏は、「全国の少年たちからピンセットで選ぶようにして秀才を選び、秀才教育」を施したが、それは日露戦争の勝利をもたらした「メッケルのやり方を丸暗記」してそれを繰り返したにすぎないとして、創造的な能力に欠ける昭和初期の将軍たちを生み出した画一的な教育制度や立身出世の問題点を厳しく批判していたのです(「秀才信仰と骨董兵器」『昭和という国家』)。

つまり、「ぼく」が「心の中で唸った」「鋭い視点」は、姉・慶子の視点ではなく、作家・司馬遼太郎氏の言葉から取られていたのです。

*   *

『永遠の0(ゼロ)』では姉・慶子の言葉を受けて、「ぼく」は次のような熱弁をふるいます。

「高級エリートの責任を追及しないのは陸軍も同じだよ。ガダルカナルで馬鹿げた作戦を繰り返した辻政信も何ら責任を問われていない。…中略…ちなみに辻はその昔ノモンハンでの稚拙な作戦で味方に大量の戦死者を出したにもかかわらず、これも責任は問われることなく、その後も出世しつづけた。代わって責任は現場の下級将校たちが取らされた。多くの連隊長クラスが自殺を強要されたらしい」(371頁)。

さらに、姉の「ひどい!」という言葉を受けて「ぼく」は、「ノモンハンの時、辻らの高級参謀がきちんと責任を取らされていたら、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない」と続けています。

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実はこの記述こそは作家の司馬氏が血を吐くような思いで調べつつも、ついに小説化できなかった歴史的事実なのです。

「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、連隊長として戦闘に参加した須見新一郎元大佐の証言をとおして、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と指摘し、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよと命じた」ことを作家・井上ひさし氏との対談で紹介していたのです(『国家・宗教・日本人』)。

司馬氏が心血を注いで構想を練っていたこの長編小説は、取材のために、商事会社の副社長となり政財界で大きな影響力を持つようになっていた元大本営参謀の瀬島龍三氏との対談を行ったことから挫折していました。

この対談記事を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」、「これまでの話した内容は使ってはならない」との激しい言葉を連ねた絶縁状を司馬氏に送りつけたのです(半藤一利「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

リンク→《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志(2013年10月6日 )

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問題は、このような姉・慶子の変化や「ぼく」の参謀観が新聞記者の高山隆司と「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則との対決が描かれている第9章の前に描かれているために、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけた武田の次のような言葉を正当化してしまっていることです。すでにこのブログでも記しましたが、重要な箇所なのでもう一度、引用しておきます。

「日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた。」

しかし、「戦時中の言論統一と予」と題した節で德富蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていました(徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、1935年)。

つまり、思想家・德富蘇峰の『国民新聞』が「焼き討ち」されたのは彼が「反戦を主張した」からではなく、最初は戦争を煽りつつ、戦争の厳しい状況を知った後ではその状況を隠して「講和」を支持し、「内閣の政策の正しさを宣伝」したからであり、その「御用新聞」的な性格に対して民衆が怒りの矛先を向けたからだったのです。

*   *

司馬氏は日露戦争以降の日本で強まった「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を長編小説『坂の上の雲』で厳しく批判していました。

そのような哲学を広めた代表的な思想家の一人が、『国民新聞』の社主でもあった徳富蘇峰でした。彼は第一次世界大戦中に書いた『大正の青年と帝国の前途』においては白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」と記すようになります。

こうして蘇峰は、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを大正の青年が持つように教育すべきだと説いていたのですが、作家の司馬遼太郎氏が亡くなられた後で起きた1996年の「司馬史観」論争の後では『坂の上の雲』を「戦争の気概」を持った明治の人々を描いた歴史小説と矮小化する解釈が広まりました。

ことに、その翌年に安倍晋三氏を事務局長とする「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられると、戦後の歴史教育を見直す動きが始まったのです。

安倍首相が母方の祖父にあたる元高級官僚の岸信介氏を深く尊敬し、そのような政治家を目指していることはよく知られていますが、厳しい目で見ればそれは戦前の日本を「美化」することで、祖父・岸信介氏やその「お友達」に責任が及ぶことを逃れようとしているようにも見えます。

安倍氏は百田氏との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)に収録されている対談で、『永遠の0(ゼロ)』にも「他者のために自分の人生を捧げる」というテーマがあると賞賛していました(58頁)。安倍首相と祖父・岸信介氏との関係に注目しながら百田氏の『永遠の0(ゼロ)』を読むと、「戦争体験者の証言を集めた本」を出すために、特攻隊員として死んだ実の祖父のことを知る「当時の戦友たち」をたずねて取材する姉・慶子の仕事を手伝うなかで変わっていく「ぼくの物語」は、安倍首相の思いと不思議にも重なっているようです。

百田氏は安倍首相との共著で、「安倍総理も先ほどおしゃっていたように、この本を読んだことによって、若い人が日本の歴史にもう一度興味を持って触れてくれることが一番嬉しいですね」と自著を誇っています(67頁)。

しかし、この『永遠の0(ゼロ)』で主張されているのは、巧妙に隠蔽されてはいますが、青年たちに白蟻のような勇敢さを持たすことを説いた徳富蘇峰の歴史観だと思われるのです。

*   *

「司馬史観」論争の際には『坂の上の雲』も激しい毀誉褒貶の波に襲われましたが、褒める場合も貶(けな)す場合も、多くの人が文明論的な構造を持つこの長編小説の深みを理解していなかったように思えます。

前著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)では、司馬氏の徳冨蘆花観に注目しながら兄蘇峰との対立にも注意を払うことで『坂の上の雲』を読み解く試みをしました。

たいへん執筆が遅れていますが、近著『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』(仮題、人文書館では、今回は「文明史家」とも呼べるような広い視野と深い洞察力を持った司馬遼太郎氏の視線をとおして、主要登場人物の一人であり、漱石の親友でもあった新聞記者・正岡子規が『坂の上の雲』において担っている働きを読み解きたいと考えています。

(1月18日、濃紺の部分を追加し改訂)

 

モデルとしてのアニメ映画《紅の豚》――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(10)

昨年末の記事では、「侮辱された主人公・宮部久蔵」という題名の記事を最終回にしたいと書きましたが、その後、重要なこととをいくつか書き漏らしていましていたことに気づきました。その一つが宮崎駿監督のアニメ映画《紅の豚》と『永遠の0(ゼロ)』との関係です。

「アニメ映画《紅の豚》から映画《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法」と題した2013年8月13日の記事では、第一次世界大戦後に起きた世界恐慌のために国民生活は破綻寸前となり、荒廃と混沌の時代となったイタリアを舞台とした映画《紅の豚》については次のように簡単に記していました。

〈1992年に公開された「中年男のためのマンガ映画」《紅の豚》では、生々しい戦闘場面も含んではいたが、主人公のパイロット・マルコが「空賊」との戦いでは人を殺さない人物と設定されているだけではなく、「飛べない豚は、ただの豚だ」とうそぶく「クールな豚」にデフォルメすることによって、現実の重苦しさからも飛翔することのできるアニメ映画となっていた。〉

*   *

『永遠の0(ゼロ)』の第10章「阿修羅」では剣豪・武蔵の生き方にあこがれて敵機との空中戦を好んだ海軍上等飛行兵曹の景浦介山への取材のことが描かれています。

ここで景浦は宮部久蔵に「模擬空戦」を挑んで断られると、敵機との戦いの後に機銃を発射して無理矢理に空中戦をしかけて敗れると後ろから機銃を掃射したが、宮部は撃たなかったというエピソードを語るのです。

このシーンを読んでいた私は強い既視感にとらわれました。すでに気づかれた読者も多いと思いますが、空中戦のシーンが描かれていない映画《風立ちぬ》とは異なり、宮崎映画《紅の豚》では「豚のポルコ」と若きアメリカの飛行艇乗りカーチスとの空中戦では、主人公が相手からは撃たれても、自分からは打ち返さなかったという名シ-ンが描かれていたのです。

映画《風立ちぬ》を最初に見た際には泣いたと語った百田氏が、映画《紅の豚》のこのシーンから強い印象を受けたことは想像に難くはありません。実際、『永遠の0(ゼロ)』でも無闇に撃墜数を誇る景浦にたいして諫めた宮部が背後から撃たれても撃墜せず、自爆しようとした景山を止めた人物と設定されていたのです。

このことを思い起こすならば、宮崎映画の多くのファンは「命の大切」さを訴えていた宮部に「豚のポルコ」を無意識のうちに重ねて見ていたと思えます。

*   *

ただ、映画《紅の豚》と『永遠の0(ゼロ)』を比較すると大きな違いも浮かびあがってきます。

ポルコに淡い恋心を抱く乙女フィオは、祖父の経営するピッコロ社の設計士を務めて、颯爽と働いている姿が描かれていますが、語り手の「ぼく」の姉・慶子はフリーライターであるにも関わらず泣いてばかりいるだけで、結局は仕事も弟にまかせることになります。

また、ポルコが愛するマダム・ジーナはホテル・アドリアーノの経営者で、いざとなるとたくましい行動力を示しますが、主人公宮部が愛した妻の松乃は、後に大石からも愛されることになりますが、ひたすら待つだけの女性として描かれているのです。そして、会計事務所の社長をしているという娘の清子の人間像もこの小説からはほとんど浮かんでこないのです。

*   *

最も異なる点は、映画《紅の豚》では、第一次世界大戦でイタリア空軍のパイロットとして、多くの敵のパイロットを殺し、仲間の死も目撃した主人公のポルコが飛行中に見た幻想的な「雲の平原」のシーンが描かれていました。

そこでは敵機との激しい空中戦で疲労して意識を失ったポルコが、遥か上空を不思議な雲がひとすじ流れているのを見るのですが、それは空に散った飛行機の列で、雲間からは同僚のベルコーニの機も現れて、その列に合流してしまうのです。

ここでは敵味方関係なく散った飛行機が描かれることで、戦争という「野蛮な手段」によって国家間の問題を解決しようとすることのむなしさが映像として描かれており、さらに生き残ったマルコが「豚のポルコ」に変身するという設定により、復讐心に駆られて次の戦争を起こす人間の愚かさも象徴的に描かれていました。

一方、『永遠の0(ゼロ)』では、主人公が愛する妻や娘を残して「格好よく玉砕」(?)し、敵船の艦長からも賞賛されるというシーンが描かれているのです。

それゆえ、映画《紅の豚》を見た後では清涼感が残るのにたいして、『永遠の0(ゼロ)』の結末からは裏切られたような後味の悪さが残り、そのことが百田氏の小説を批判的に論じたいと思ったきっかけにもなっていたのです。

「ぼく」とは誰か〈改訂版〉――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(2)

このシリーズの(1)では、「戦争体験者の証言を集めた本」を出版することになった新聞社の記者高山と、そのプロジェクトのスタッフに選ばれた「ぼく」の姉・慶子が、戦争についての深い知識を有していなければならないにもかかわらず、批判に対してきちんと反論ができなかったように描かれていることにまず注目しました。

次に、「物語の流れ」を分析して最初は誠実そうに見える新聞記者の高山という人物が、実は「オレオレ詐欺」のヒール(悪役)を演じる人物であり、慶子がその助手をしているのではないかという仮説を示しました。

*   *

では、この小説で語り手をつとめている「「ぼく」とは誰でしょうか。

「スターウォーズのテーマで目が覚めた。携帯電話呼び出し音だ」という印象的な文章で始まる第1章では、30歳を過ぎてから弁護士となった「努力の人」である祖父の大石賢一郎にあこがれて弁護士を志していた「ぼく」が、司法試験に4年連続して不合格だったために、「自信もやる気も失せてしまい」仕事にも就かずぶらぶらと時間をつぶしていたことが記されています。

「亡霊」と題されたこの章では、「本当のおじいさんがどんな人だったのか、とても興味があるわ。だってこれは自分のルーツなのよ」と姉の慶子からアシスタントを頼まれたことで、実の祖父には「特別な感情」はなく、「突然、亡霊が現れたようなもの」と感じつつもこの企画に参加することになり、「最後」と題された第11章では「母に読ませるための祖父の物語」をまとめていると描かれているのです。

最初にブログに記した際にはこの小説における「書き手」の「ぼく」である宮部久蔵の孫・健太郎を作者の分身として解釈していましたたが、拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の第二部では、最初の内は「臆病者」と非難された実の祖父の汚名を晴らそうとした健太郎が、取材を続ける中で次第に取り込まれて後半では積極的に作者の思想を広めるようになる若者として解釈しました。

 普段は「売国奴」などの激しい「憎悪表現」を好んで用いる百田氏は、ここでは気の弱い若者を誘惑するような形で小説の構造を構築することにより、自分が宣伝したい「人物」の「正しさ」を強調するために、それとは反対の見方をする新聞記者・高山を徹底的にけなし追い詰めるというという手法により、読者をも第2次世界大戦へと引きずり込んだ「危険な歴史認識」へと誘っているのです。

そのように読み直したことにより、この小説の思想的な背景を、「新しい歴史教科書をつくる会」の「自由主義史観」や「日本会議」の神話的な歴史認識がなしていることをも明らかにしえたのではないかと考えています。

*   *

『永遠の0(ゼロ)』は、ノンフィクションを謳った『殉愛』とは異なり、初めから小説として発表されているから問題はないと思う読者もいるかもしれません。

しかし、宮崎駿氏は『永遠の0(ゼロ)』を「神話の捏造」と批判しましたが、第二次世界大戦に際しては「鬼畜米英」といった「憎悪表現」だけでなく、「神州不滅」や「五族(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)協和」「八紘一宇(道義的に天下を一つの家のようにする)」などの「美しい神話」が語られて多くの若者がそれを信じたのです。

『永遠の0(ゼロ)』で蘇峰との関連で言及されている日露戦争の際にも、ポーランドやフィンランドを併合していた帝国ロシアと植民地を持たない日本との戦争は、「野蛮と文明の戦い」という「美しい物語」が作られていました。

しかし、夏目漱石は日露戦争後に書いた長編小説『三四郎』で、三四郎の向かいに坐った老人に「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」と嘆かせていました。

*   *

第2次世界大戦で敗色が濃厚になると日本では「一億玉砕」というスローガンさえ現れましたが、広島と長崎に原爆が投下されたあとも世界では核兵器の開発がすすみました。

地球が何度も破滅してしまうほど大量の核兵器を人類が所有した後で、戦争がどのような事態を招くかについては、政治家や軍人だけでなく一般の民衆も真剣に考えねばならない時期に来ていると思われます。

(2016年11月22日。青い字の箇所を改訂し、題名に〈改訂版〉を追加)

 

「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(1)

日本では「孫」と名乗る人物からの電話でありもしない事実を伝えられると「祖父や祖母」の世代が簡単に信じてしまうという「オレオレ詐欺」が今も多発しています。

そのことを不思議に思っていた私は、語り手の「ぼく」とその姉が「自分のルーツ」を求めて主人公・宮部久蔵についての取材を重ねるうちに、「臆病者」とされた祖父の美しい家族愛や「カミカゼ」特攻隊員たちの実像を知ることになる『永遠の0(ゼロ)』を読み終えた後では、この小説の構造が「オレ、オレ詐欺」の構造ときわめて似ているという印象を受けました。

なぜならば、「オレオレ詐欺」も初期には一人が「孫」になりすまして、どうしても今、金がほしいという理由を語っていたのですが、その後、大規模な劇場型のものが現れ、何人もの人間が「孫」や「被害者」、「警察官」などの役を演じ分けて壮大な「物語」を作り上げ、相手を信じ込ませるようになってきているからです。

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(振り込め詐欺 撲滅キャンペーン  巣鴨信用金庫。図版は「ウィキペディア」より)

*   *

小説の発端は前回の記事「宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)」でも記したように、語り手の「ぼく」が「戦争体験者の証言を集めた本」を出版する新聞社のプロジェクトのスタッフに採用された「姉」を手伝うことになるところから始まります。

こうして、特攻隊員として死んだ実の祖父のことを知る「当時の戦友たち」をたずねて話を聞く中で、新聞記者・高山の影響もあり特攻隊員のことを「狂信的な愛国者」と思っていた「姉」の考えが次第に変わり、恵まれた境遇にいる新聞記者の高山ではなく、祖父・大石賢一郎の事務所でアルバイトをしながら司法試験を目指していた藤木秀一との真の愛に目覚めるたようになっていく過程が描かれているのです。

小説の構造を詳しく分析するたけの時間的な余裕がありませんので、ここでは講談社文庫によって『永遠の0(ゼロ)』の構成をまず示しておきます。

「プロローグ/ 第1章 亡霊       11頁/ 第2章 臆病者           27頁/ 第3章 真珠湾           55頁/ 第4章 ラバウル         122頁/ 第5章 ガダルカナル     194頁/ 第6章 ヌード写真       256頁/ 第7章 狂気             299頁/ 第8章 桜花(おうか)  376頁/ 第9章 カミカゼアタック  415頁/ 第10章 阿修羅          452頁/ 第11章 最後            503頁/ 第12章 流星            531頁/ エピローグ」

*   *

この小説の第9章「カミカゼアタック」ではプロジェクトの企画者である新聞記者の高山が、「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則からその平和思想を批判され、「帰ってくれたまえ」と言われてすごすごと退散する場面が描かれています。

ただ、新聞記者の高山隆司との対決で、武田貴則の方に分があるように見えるのは、それまでの小説の流れで最初は誠実そうに見えていた新聞記者・高山の軽薄さに対する読者の反発が生まれるような構造になっているためだと思われます。

たとえば、第7章「狂気」で百田氏は戦時中に小学校の同級生の女性と結婚した特攻兵の谷川に、戦場で命を賭けて戦っていた自分たちと、日本国内で暮らしていた住民を比較して、次のような激しい怒りの言葉を吐かせています。

すなわち、「戦争が終わって村に帰ると、村の人々のわしを見る目が変わっていた。」と語った谷川は、「昨日まで『鬼畜米英』と言っていた連中は一転して『アメリカ万歳』と言っていた。村の英雄だったわしは村の疫病神になっていたのだ。」と続けていたのです。

ここには現実認識の間違いや論理のすり替えがあり、「一億玉砕」が叫ばれた日本の国内でも、学生や主婦に竹槍の訓練が行われ、大空襲に襲われながら生活し、また「鬼畜米英」というような「憎悪表現」を好んで用いていたのは、戦争を煽っていた人たちで一般の国民はそのような表現に違和感を覚えながら、処罰を恐れて黙って従っていたと思われます。

映画《少年H》でも描かれていたように、戦後になると一転して「アメリカ万歳」と言い始めたのも庶民ではなく、「時流」を見るのに敏感な政治家たちだったのです。

しかし、百田氏は谷川に「戦後の民主主義と繁栄は、日本人から『道徳』を奪った――と思う。/ 今、街には、自分さえよければいいという人間たちが溢れている。六十年前はそうではなかった」と語らせているのです。

宮崎監督の「神話の捏造」という批判に対して、百田氏は「私は徹底して戦争を、特攻を否定している」と反論していましたが、三百万以上の自国民を死に至らしめただけでなく、韓国を併合し、満州を植民地化してアメリカ、イギリス、オランダ、中国などと戦争することになる当時の「道徳」を百田氏は賛美していたのです。

*   *

ゆっくりと分析すると面白いのですが、最大の山場である第9章に至るまでには、この小説には様々な伏線が引かれており、「海軍一の臆病者」、「何よりも命を惜しむ男だった」と非難された祖父が、「家族への深い愛」と奇跡的な操縦術を持つ勇敢なパイロットであったことが関係者への取材をとおして次第に明らかになるという「家族の物語」的な構造を持っています。

しかし、その一方で新聞記者の高山には、戦争への批判を封じた「新聞紙条例」や「讒謗律」など一連の法律に言及して反論する機会は与えられていません。

「ぼく」の姉の慶子もフリーライターとはいえ30歳という年齢を考えれば、戦争や当時の状況についてのかなりの知識をもっているはずなのですが、かつての「特攻隊員」たちの言葉から衝撃を受け、「表情を曇らせ」涙を流すだけで、自分が引き受けた仕事を投げ出して弟に任せるようになったと描かれているのです。

それらの箇所を読んだ後では、最初は誠実そうに見えるが次第にその軽薄さが明らかになる新聞記者の高山という人物は、実は「オレオレ詐欺」のヒール(悪役)を演じる人物であり、姉の慶子もその助手をしているように思われました。

なぜならば、新聞記者の高山の「カミカゼ」観を批判するための根拠として百田氏が第9章で武田貴則に徳富蘇峰の歴史観に言及させていたからです。

*   *

以前に書いたブログ記事では自分が宣伝したい「人物」の「正しさ」を強調するために、それに反対する人物やグループを徹底的にけなし追い詰めるという『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)で用いられていた手法が、今回のノンフィクション『殉愛』の手法と似ていることを指摘しました。

リンク→百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法

主人公の「美談」が描かれているとされたノンフィクション『殉愛』(幻冬舎)については、記述とは異なる多くの写真がウェブ上に流れ、また屋鋪氏の実の娘にも裁判で訴えられたことで、その「事実性」に疑問が生じ、返金を求める多くの書き込みがされています。

偽りの物語で多くの読者や観客の涙を誘った『永遠の0(ゼロ)』は、400万部以上も売れたとされていますが、その最大の宣伝者である安倍氏に対しても返金を求めるべきでしょう。その前にまずは総選挙で意思を表示したいものです。

*   *

「忠君愛国」の思想の重要性を唱えるようになった蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において自分の生命をも顧みない「白蟻」の勇敢さをたたえていたことについてはブログでもすでに記しました。

しかし、その記述だけではわかりにくいと思われますので、次回はもう少し深く『永遠の0(ゼロ)』と蘇峰の「尊皇攘夷思想」との関わりを分析することにします。

(2016年11月18日、図版を追加)

 

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(3)

 

《風立ちぬ》と同じ年の12月に公開予定の映画《永遠の0(ゼロ)》を雑誌『CUT』(ロッキング・オン/9月号)の誌上で「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしてるんです。神話の捏造をまだ続けようとしている」と厳しく批判した宮崎監督は、さらに次のように続けていました。

「戦後アメリカの議会で、零戦が話題に出たっていうことが漏れきこえてきて、コンプレックスの塊だった連中の一部が、『零戦はすごかったんだ』って話をしはじめたんです。そして、いろんな人間が戦記ものを書くようになるんですけど、これはほとんどが嘘の塊です」。

*   *

この批判に対して百田氏は、「宮崎さんは私の原作も読んでませんし、映画も見てませんからね」と反論したとのことですが、宮崎監督は原作にきちんと目を通していたと思われます。

なぜならば、『永遠の0(ゼロ)』の冒頭は「あれはたしか終戦直前だった。正確な日付は覚えていない。しかしあのゼロだけは忘れない。悪魔のようなゼロだった」という強いインパクトを持つ文章で始まるからです。

続いてアメリカ人パイロットの零戦やそのパイロットについてのきわめて否定的な感想が描かれています。

「スウサイドボンバーなんて狂気の沙汰だ。そんなものは例外中の例外だと思いたい。しかし日本人は次から次へとカミカゼ攻撃で突っ込んでくる。俺たちの戦っている相手は人間でなはないと思った。」

「やがて恐怖も薄らいだ。次にやってきた感情は怒りだった。神をも恐れぬ行為に対する怒りだった。…中略…最初の恐怖が過ぎると、ゲームになった。」

しかし、そのような否定的な評価は一人のゼロファイターの「奇跡的な操縦術」を見た後で一転することを暗示する次のような文章でプロローグは終わります。

「八月になると、戦争はまもなく終わるだろうと多くの兵士が噂していた。

あの悪魔のようなゼロを見たのはそんな時だった。」

*   *

「第3章 真珠湾」では豪州のパイロットに次のような印象を語らせています。

「ゼロファイターは本当に恐ろしかった。信じられないほど素早く、」「俺たちは戦うたびに劣等感を抱くようになったんだ。ゼロとは空戦をしてはならないという命令がくだったんだよ」。

「俺たちは日本の新型戦闘機が『ゼロ』というコードネームが付けられていることを知った。何と気味悪いネーミングだと思ったよ。『ゼロ』なんて何もないという意味じゃないか。しかもその戦闘機は信じられないムーブで俺たちをマジックにかける。これが東洋の神秘かと思ったよ」。

*   *

こうして、プロローグにおける「スウサイドボンバーなんて狂気の沙汰だ」という「カミカゼ」攻撃に対する評価は、エピローグでは「奇跡的な」操縦で「迎撃戦闘機と対空砲火をくぐり抜け」て、突撃した宮部に対するアメリカの艦長の賞賛へと変化することになります。

百田氏も「零戦の弱点は防御が弱いところです」と登場人物に語らせていますが、宮崎監督は映画《風立ちぬ》で戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎と本庄季郎という2人の設計士の対話をとおして、圧倒的な西欧列強との経済力などの差から「攻撃こそは最大の防御である」とされて、設計段階から乗組員の生命があまり重視されなかったことの問題を浮き上がらせていました。

それは日本思想の問題の核心にも迫っていたといえるでしょう。

『永遠の0(ゼロ)』を「神話の捏造」とした宮崎監督の批判はきわめて重いと思われます。

*   *

映画《風立ちぬ》関係の記事

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影 

 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風 

アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法 

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

前回の記事では『ビジネスジャーナル』の記事によりながら、「今、零戦の映画企画があるらしいですけど、それは嘘八百を書いた架空戦記を基にして、零戦の物語をつくろうとしてるんです。神話の捏造をまだ続けようとしている」と宮崎監督が厳しく批判したことや、百田氏が「全方位からの集中砲火」を浴びているようだと語ったことを紹介し、それはこの小説の「いかさま性と危険性」に多くの読者が気づき始めたからだろうという判断を記しました。

全部で12の章とプロローグとエピローグから成るこの小説については、小説の構成の意味など考えるべきことがいろいろありますが、今回はクライマックスの一つでも「歴史認識」をめぐる激しい口論のシーンを考察することで、『永遠の0(ゼロ)』の問題点を明らかにしたいと思います。

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小説の発端は語り手の「ぼく」が、「戦争体験者の証言を集めた本」を出版する新聞社のプロジェクトのスタッフに採用された「姉」を手伝うことになるところから始まります。

こうして、特攻隊員として死んだ実の祖父のことを知る「当時の戦友たち」をたずねて話を聞く中で、新聞記者・高山の影響もあり特攻隊員のことを「狂信的な愛国者」と思っていた「姉」の考えが次第に変わっていく様子が描かれているのです。

その最大の山場が新聞記者の高山隆司と「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則との対決が描かれている第9章です。

そこで、かつて政治部記者だった高山にわざと「特攻隊員は一種のテロリストだった」という単純で偏った「カミカゼ」観を語らせた百田氏は、その言葉に激昂した武田が「馬鹿者! あの遺書が特攻隊員の本心だと思うのか」、「報国だとか忠孝だとかいう言葉にだまされるな」と怒鳴りつけさせ、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけた武田の次のような言葉を描いています。

「日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた。」

*   *   *

作家の司馬氏も「勇気あるジャーナリズム」が、「日露戦争の実態を語っていれば」、「自分についての認識、相手についての認識」ができたのだが、それがなされなかったために、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」、放火にまで走ることになったと記して、ナショナリズムを煽り立てる報道の問題を指摘していました(『「昭和」という国家』NHK出版、1998年)。

しかし、『蘇峰自伝』の「戦時中の言論統一と予」と題した節で德富蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていました。

自分の弟で作家の蘆花から「そうなら国民に事情を知らせて諒解させれば、あんな騒ぎはなしにすんだでしょうに」と問い質されると、蘇峰は「お前、そこが策戦(ママ)だよ。あのくらい騒がせておいて、平気な顔で談判するのも立派な方法じゃないか」と答えていたのです(徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、1935年。および、ビン・シン『評伝 徳富蘇峰――近代日本の光と影』、杉原志啓訳、岩波書店、1994年参照)。

つまり、思想家・德富蘇峰の『国民新聞』が「焼き討ち」されたのは、彼が「反戦を主張した」からではなく、戦争の厳しい状況を知りつつもそれを隠していたからなのです。

司馬氏が『この国のかたち』の第一巻において、戦争の実態を「当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい」と記していたことに留意するならば、司馬氏の鋭い批判は、蘇峰と彼の『国民新聞』に向けられていたとも想像されるのです。

さらに「カミカゼ」の問題とも深く関わると思われるのは、第一次世界大戦の最中の1916(大正5)年に書いた『大正の青年と帝国の前途』で德富蘇峰が、明治と大正の青年を比較しながら、「此の新時代の主人公たる青年の、日本帝国に対する責任は奈何」と問いかけ、「世界的大戦争」にも対処できるような「新しい歴史観」の必要性を強調していたことです(筑摩書房、1978年)。

リンク→  司馬遼太郎の教育観  ――『ひとびとの跫音』における大正時代の考察

司馬氏は日露戦争以降の日本で強まった「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を長編小説『坂の上の雲』で厳しく批判していましたが、「忠君愛国」の思想の重要性を唱えるようになった蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを大正の青年も持つべきだと記していたのです。

リンク→ 『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)

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作家の司馬遼太郎氏が亡くなられた後で起きた1996年の「司馬史観」論争の翌年には、安倍晋三氏を事務局長とする「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられ、戦後の歴史教育を見直す動きが始まっていました。

これらのことを考慮するならば、安倍首相との対談で「百人が読んだら百人とも、高山のモデルは朝日新聞の記者だとわかります」と語って、朝日新聞の名前を挙げて非難したとき(『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』、66頁)、百田氏は厳しい言論統制下で記事を書いていた新聞記者よりも重大な責任を負うべき戦前の思想家や政治家など指導者たちの責任を「隠蔽」しているように見えます。

『永遠の0(ゼロ)』では語り手の姉が「来年の終戦六十周年の新聞社のプロジェクトのスタッフに入れたのよ」と語っていましたが、私自身は日露戦争勝利百周年となる2005年からは日本が軍国主義へと後戻りする流れが強くなるのではないかという怖れと、NHKの大河ドラマでは長編小説『坂の上の雲』の内容が改竄されて放映される危険性を感じて司馬作品の考察を集中的に行っていました。

しかし、太平洋戦争における「特攻隊員」を語り手の祖父としたこの小説に日露戦争のテーマが巧みに隠されていることには気付かず、いままで見過ごしてしまいました。

百田氏は先に挙げた共著の対談で、「安倍総理も先ほどおしゃっていたように、この本を読んだことによって、若い人が日本の歴史にもう一度興味を持って触れてくれることが一番嬉しいですね」と語っていました(67頁)。

司馬氏を敬愛していた宮崎監督が「神話の捏造」と百田氏の『永遠の0(ゼロ)』(単行本、太田出版、2006年。文庫本、講談社、2009年)を厳しく批判したのは、大正の青年たちに「白蟻」の勇敢さをまねるように教えた德富蘇峰の歴史認識を重要視する安倍首相が強引に進める「教育改革」の危険性を深く認識したためだと思えます。

今回は急で「大義のない」総選挙となりましたが、「親」や「祖父・祖母」の世代である私たちは、安倍政権の「教育政策」が「子供たち」や「孫たち」の世代にどのような影響を及ぼすかを真剣に考えるべき時期に来ていると思われます。

リンク→《風立ちぬ》と映画《少年H》――「《少年H》と司馬遼太郎の憲法観」

(続く)

 映画《風立ちぬ》関連の記事へのリンクは、「宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』」のシリーズが完結した後で、一括して掲示します。