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『白痴』

『若き日の詩人たちの肖像』と小林秀雄のドストエフスキー観(4)ーー『白痴』をめぐって

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

1,若き主人公と『白夜』冒頭の文章

第一章の題辞には「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた」という文章で始まる『白夜』の冒頭の言葉に続いて、祈りにも似た次のような言葉も引用されていた。

「空は一面星に飾られ非常に輝かしかつたので、それを見ると、こんな空の下に種々の不機嫌な、片意地な人間が果して生存し得られるものだらうかと、思はず自問せざるをえなかつたほどである。これもしかし、やはり若々しい質問である。親愛なる読者よ、甚だ若々しいものだが、読者の魂へ、神がより一層しばしばこれを御送り下さるやうに……。」(米川正夫訳)

しかし、泥沼の日中戦争に続いて英米とも開戦に踏み切った日本は、初戦の真珠湾攻撃で華々しい戦果を挙げたが、「特殊潜航艇による特別攻撃」に参加した二十歳前後の若者全員が、後の「神風特攻隊」を予告するかのように戻らなかったという事態も起きていたことを知った時に、若者は「腹にこたえる鈍痛を感じ」る(下巻、92頁)。

そして、長編小説の終わり近くで召集令状が来たことを知らせる実家からの電報が届き、「警察で殺されるよりも、軍隊の方がまだまし」と感じた男は、「新橋サロンの詩人たちにも、なにも言わないことにした」とし、『白夜』の文章にについてこう記すことになる。

「郵便局からの帰りに空を仰いでみると、冬近い空にはお星様ががらがらに輝いていたが、そういう星空を見るといつも思い出す、二十七歳のときのドストエフスキーの文章のことも、別段に感動を誘うということもなかった。なにもかもが、むしろひどく事務的なことに思われる。要するにおれは、あの夢のなかへ、二羽の鶴と牡丹の花と母の舞と銀襖の夢のなかへ死んで行けばいいというわけだ、と思う。」

2,「謎」のような言葉――主人公の『白痴』観

注目したいのは、12月9日の夕方に若者の家を訪れて、真珠湾攻撃の成果を「どうだ、やったろう」と誇った特高刑事をそのまま返すのが業腹で彼らを尾行していた若者は、「成宗の先生」(堀辰雄)と出会って立ち話をしていた際に、長編小説『白痴』に言及していることである。

すなわち、堀田善衛は特高警察の目つきから「殺意に燃えたラゴージンの眼」を思い出し「ほとんどうわの空」で、「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」(下巻、83頁)と主人公の若者に「謎」のような言葉を語らせていた。

その後で堀田は、「鈍痛」を抱えながら閉じこもって『白痴』を読んだ若者にこの言葉の意味を説明させているのである(文庫本・下巻93頁~101頁)。ここでは長編小説『白痴』に対する作者の強い愛着が示されているので、少し長くなるが引用しておきたい。

「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし、若者はとじこもって本を読みつづけた。ドストエフスキーの『白痴』は、何度読んでも、大きな渦巻きのなかへ頭から巻き込むようにして若者を巻き込み、ときには、その大渦巻きの、回転する水の壁が見えるように思い、エドガー・ポオの大渦巻き(メイルストローム)さえが垣間見えるかと思うことさえあった。とりわけて、その冒頭が若者の思考や感情の全体を占めていた。

――なるほど! 絶対の不可能を可能にするには、こうすればいいのか!

と、その冒頭の三頁ほどを、毎日毎日読みかえした。古本屋で買った英訳と、白柳君に借りた仏訳の双方があったので、米川正夫訳と三冊の本を対照しながら読み返してみていた。」

この後で長編小説『白痴』の冒頭の文章を書き写した著者は、「あのロシアの平べったい平原の、ところどころに森や林や広大な水たまりなどのあるところを、汽車がひた走りに走って行く、その走り方のリズムのようなものが、この文章に乗って来ていることが、じかに肌に感じられる」と記している。

そして、二人の旅客に注意を向けてロゴージンを描いた文章を引用した後で「向ひの席の相客は、思ひもかけなかつたらしい湿つぽい露西亜の十一月の夜のきびしさを、顫へる背に押しこたへねばならなかつたのである」とムィシキンを描写していることに注意を促してこう続けている。

「天使のような人物を、ロシアという現実のなかへ、人間の劇のなかへつれ込むのに、汽車という、当時としての新奇なものに乗せた、あるいは乗せなければなかった、そこに、ある痛切な、人間の悲惨と滑稽がすでに読みとられるのである」(下巻、96頁)。

3,「シベリヤから還つたムィシキン」という小林秀雄の解釈

一方、小林秀雄は二・二六事件が起きる2年前の1934年に書かれた「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していた(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁)。

そして、エピローグにおけるラスコーリニコフの「復活」を否定した小林は、「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と問いかけ、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」というテキストを修正するような大胆な解釈を示して『白痴』論の方向性を示していた(『小林秀雄全集』第六巻、六三頁)。

続く「『白痴』についてⅠ」で小林は、貴族のトーツキーの妾となっていた美女のナスターシヤを、「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたが、それは厳しい格差社会であった帝政ロシアの現実を無視した解釈だろう。両親が火災で亡くなって孤児となったナスターシヤは、貴族のトーツキーに養育されたものの少女趣味のあった彼によって無理矢理に妾にさせられた被害者だったのである(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、31頁)。

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しかし、「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来る」と続けた小林は、『白痴』の結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた(拙著、47頁)。

4,「外界」から「入って」来るムィシキン

一方、『若き日の詩人たちの肖像』で堀田は、ムィシキンのような「天使」はやはり「外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」(下線の箇所は原文では傍点)と記していた。

この文章は『白痴』を映画化した黒澤明監督と同じように、作家・堀田善衛がこの長編小説を正確に読み解いていることを物語っているだろう。なぜならば、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためだったからである。

そして、ドストエフスキーは小説の冒頭で思いがけず莫大な遺産を相続したムィシキンとロゴージンの共通点を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした主人公と、その大金で愛する女性を所有しようとしたロゴージンとの友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたるロシア社会の問題を浮き彫りにしていた。

『若き日の詩人たちの肖像』については、2007年に上梓した拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でも言及していたが、ムィシキンが「外界」から「入って」来たことに注意を促しているこの文章が、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を行っていた小林秀雄の『白痴』論を強く念頭に置いて書かれていた可能性にようやく気付いたのは、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を上梓したあとのことであった。

ここでムィシキンが「外界」から「入って」来ることを強調した堀田は、「小説を読み通して行って、その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの癲狂院へもどらざるをえないのである」と小林とは正反対の解釈を記していたのである(下巻、100頁)。

そして、「白痴、というと何やら聞えはいいかもしれないが、天使は、人間としてはやはりバカであり阿呆でなければ、不可能、なのであった」と続けた著者は、若者が「成宗の先生」(堀辰雄)に語った「謎」のような言葉の意味をこう説明していることである。

「左様――ムイシュキン公爵は汽車に乗って入って来たが、ランボオは、詩から、その自由のある筈の詩の世界を捨てて出て行って」しまったというのが、「若者が成宗の先生に言ったことの、その真意であった」(下線は原文では傍点)。

そして、「しかしなんにしてもド氏の小説は面白い、面白くてやり切れなかった。とりわけて、ド氏が小説というものの枠やルールを無視して勝手至極なことをやらかしてくれるところが面白かった」と書いた堀田は、結末の異常性を強調した小林とは反対に「『白痴』はその終末で若者に泪を流させた」と続けていた。

ドストエーフスキイの会、第242回例会(報告者:齋須直人氏)のご案内

第242回例会のご案内を「ニュースレター」(No.143)より転載します。

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第242回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                    

日 時2017年11月25日(土)午後2時~5時       

場 所千駄ヶ谷区民会館

(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854 

報告者:齋須直人 氏 

題 目: 『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳教育

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:齋須直人(さいす なおひと)

1986年生まれ。京都大学文学研究科スラブ語学スラブ文学専修博士課程に在中。論文「ザドンスクのチーホンの「自己に勝つ」ための教えとスタヴローギンの救済の問題について」(ロシア語ロシア文学研究49号、2017)、 «О влиянии Достоевского на творчество Т.Манна во время мировых войн (世界大戦期におけるドストエフスキーのトーマス・マンの作品への影響について)» (ドストエフスキーと現代―2014年 第29回 スターラヤ・ルッサ国際学会論集―、2015)、他。

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第242回例会報告要旨

題目:『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』における対話による道徳教育  

ドストエフスキー本人の宗教的立場と結びつけつつ、この作家の作品に見られる道徳教育のモチーフを論じることには困難がある。ドストエフスキーの作品は、ポリフォニック小説として読まれるようになってから、作品内で作家自身の立場も相対化されることとなり、作家の作品創造の目的や、作品全体を通して作家が何を主張したかったかについて考察することについて慎重になる必要が生じた。そのため、この作家の作品を、あたかも一定の作品創造の目的があるかのように解釈することが多かれ少なかれ必要とされるような読み方、例えば、登場人物の成長物語(ビルディングスロマン、聖者伝など)として読むことが容易ではなくなっている。作品の中での教育のモチーフ(特に道徳教育)を読み解く際も、教育がある程度一定の価値観に従って人を導くものである以上、同様の問題がある。しかし、ドストエフスキーの作品の中で、成長物語や教育の要素は独自のあり方で存在している。そして、これらの要素と作家自身の立場を完全に切り離すことはできない。特に、作品を描くさい、ドストエフスキーが若者の道徳教育に強い問題意識を持っていたとすれば尚更である。報告者は、作品の芸術的形式に十分注意を払いつつ、作家の宗教思想と作品の全体性が矛盾しないものとして作品を読み解くことを目標とし、ドストエフスキーの作品における、対話を通した道徳教育を研究テーマの一つとしている。

1860~70年代、土壌主義者であるドストエフスキーは西欧の教育を受けた階級の人々と民衆との乖離をロシア社会の根本的な問題とみなしていた。彼はロシアのインテリゲンツィヤと民衆との一体化が、両者のロシア正教への信仰を基礎としてもたらされるものと考えた。特に、作家が懸念していたのはロシアの若者たちに、社会主義やポジティヴィズムを基礎としたニヒリズムが広まっていることだった。1870年3月25日のマイコフに宛てた書簡で、ドストエフスキーは「大罪人の生涯」の構想(結局書かれることなく終わった)について詳しく書いているが、それに際し、次のように述べている:「ニヒリズムについては何も言いません。待ってください、ロシアの土壌から引き離された、この上位層はまだ完全に腐っているのです。お分かりでしょうか、私には次のことが頭に浮かぶのです。つまり、この多くの最もろくでなしの若者たち、腐っている若者たちが、最終的には本物のしっかりした土壌主義者に、純粋なロシア人になるということが」。そして、後に、『悪霊』の創作ノートにおいて、作家は次のように記している:「我々は形(образы)を失ってしまった、それらはすぐさま拭い去られてしまい、新しい形も隠されてしまっている。(…)形を持たない人々は、信念や科学、いかなる支点も持たず、社会主義の何かしらの秘密を説いている。(…)全てのこれら確固としたものを持たない大衆を捕えているのは冷笑主義である。指導者を持たない若者たちは見捨てられている」。ドストエフスキーにとって、新しい世代への宗教・道徳教育についての問題は重要なものであった。彼は、迷える若者たちを導く肯定的な人間像(образ положительного человека)を創造することを自己の課題とした。そして、この課題を『白痴』、「大罪人の生涯」、『悪霊』において実現しようとした。

本報告では、作家本人の教育における立場や宗教観を適宜参照しつつ、これらの作品において対話を通した教育がいかに描かれているか検討する。これら3作品の変遷をたどることで、ドストエフスキーの作品の道徳教育のモチーフがいかに形成されていったかを明らかにしたい。『白痴』との関連では、1860年前後のヤースナヤ・ポリャーナにおけるレフ・ニコラエヴィチ・トルストイの教育活動が、主人公レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン像の形成にいかに用いられたかに着目する。「大罪人の生涯」、『悪霊』については、これらの作品の登場人物である僧チーホンと主人公との対話を、ドストエフスキーが参考にしたと考えられる、ザドンスクのチーホンの思想、また、スーフィズムとの関連に着目する。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」の主ななどは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。なお、「事務局便り」にも「国際ドストエフスキー研究集会」のことが掲載されましたのでその箇所を転載します。

◎来年2018年10月23日~26日に、ブルガリアの首都ソフィアで、国際ドストエフスキー研究集会がブルガリア・ドストエフスキー協会の主催で開催される模様です。『白痴』の公刊150周年ということで、黒澤明の『白痴』もテーマとしてとりあげられ、高橋さん所属の「黒澤明研究会」に協力要請が来ています。参加希望者は、詳しくは、高橋さんのHP-http://www.stakaha.com/ からお問い合わせてください。

「国際ドストエフスキー・シンポジウム」について――ブルガリアとソフィアの画像

2018年10月23日から26日まで「国際ドストエフスキー・シンポジウム」がブルガリア・ドストエフスキー協会の主催で、ブルガリアの首都のソフィアで開催されました。

ブルガリア、ソフィア大学

(ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

長編小説『白痴』の発表150周年を記念して25日には映画《白痴》の円卓会議も開かれ、ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトにロシア語と日本語で拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)の紹介が書影とともに掲載されました。

https://bod.bg/en/authors-books.html(2018年2月19日)

Читаем роман Идиот в фильмах Куросавы Акиры»  (Сэйбунся,2011)

このシンポジウムの 詳細は次のURLを参照して下さい:https://bod.bg/bg/  

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Ⅰ. ギリシャ正教の受容とブルガリア →ブルガリア – Wikipedia 

(図版の出典も「ウィキペディア」)

a.「大ボヘミアにおけるスラヴ的典礼の導入」とキュリロスとメトディオス兄弟 ミュシャ、ボヘミア大

ムハ(ミュシャ)画、「スラヴ叙事詩」、第3作「大ボヘミア(現在のチェコ)におけるスラヴ的典礼の導入」。

b.ブルガリアにおけるギリシャ正教の受容

ブルガリアSt_Clement_of_Ohrid

キュリロスとメトディオス兄弟の弟子・聖クリメントオフリドスキー

c. ブルガリア帝国における聖書のスラヴ語訳

ミュシャ、ブルガリア

ムハ(ミュシャ)画、「スラヴ叙事詩」、第4作「ブルガリア皇帝シメオン(在位:893~927年)」

Ⅱ. 現代のブルガリアと首都ソフィア

a.ブルガリアの地図と国旗

ブルガリアの地図ブルガリアの国旗

b.首都ソフィア

ブルガリア、ソフィア (出典は「ウィキペディア」)  

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(2)――アイヒマン裁判と「ヒットラーと悪魔」の時代

一、映画『十三階段への道』とアイヒマンの裁判

雑誌『文藝春秋』(1960年5月)に掲載された「ヒットラーと悪魔」の冒頭で小林秀雄は、「『十三階段への道』(ニュールンベルク裁判)という実写映画が評判を呼んでいるので、機会があったので見た」と記し、実写映画という性質に注意を促しながら、「観客は画面に感情を移し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶していた。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであろうか。カメラが代ってその役目を果たしたようである」と書いた。

実際、NHKの佐々木敏全による日本版「解説」によれば、この映画は「裁判の記録映画」であるばかりでなく、「各被告の陳述にあわせ一九三三年から四五年までの十二年間、ナチ・ドイツの侵攻、第二次世界大戦、そしてドイツを降伏に導いた恐ろしい背景を、その大部分が未公開の撮影および録音記録によって」描き出したドラマチック・ドキュメンタリーであった。

ニュールンベルグの戦犯 13階段への道 – CROSS OF IRON

一方、カメラの役目を強調して「御蔭で、カメラと化した私達の眼は、悪夢のような光景から離れる事が出来ない」と続けた小林は、「私達は事実を見ていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである」と続けていた。

「事実」をも「悪夢」に帰着させているかのように見えるこの文章を読みながら思い出したのは、小林秀雄が1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」において、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していたことであった(髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』参照)。

注意を払いたいのは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画」を実行し、敗戦後にはブラジルに潜んでいたアイヒマンがこの映画が公開されたのと同じ年の5月に逮捕されたことが5月25日に発表され、翌年の1961年には裁判にかけられたことである。 アイヒマン裁判

(アイヒマン裁判、写真は「ウィキペディア」より)

映画『十三階段への道』を見ていた小林秀雄は、この裁判をどのように見ていたのだろうか。ちなみに、1962年8月には、アイヒマンの裁判についても言及されている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(G・アンデルス、C・イーザリー著、篠原正瑛訳、筑摩書房)が日本でも発行されたが、管見によれば、小林秀雄はこの著書に言及した書評や評論も書いていないように見える。「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 (ちくま文庫) (書影は「アマゾン」より)

二、「ヒットラーと悪魔」とその時代

改めて「ヒットラーと悪魔」を読み直して驚いたのは、おそらく不本意ながら敗戦後の文壇事情を考慮して省かざるを得なかったヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」が、ドストエフスキー論にも言及することで政治的な色彩を薄めながらも、『我が闘争』からの抜き書きともいえるような詳しさで紹介されていたことである(太字は引用者)。

最初はそのことに戸惑いを覚えたが、この文章が掲載されたこの当時の政治状況を年表で確認したときその理由が分かった。東条英機内閣で満州政策に深く関わり戦争犯罪にも問われた岸信介は、首相として復権すると1957年5月には国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していた。そして、1960年1月19日にはアメリカで新安全保障条約に調印したのである。この条約を承認するために国会が開かれた5月は、まさに激しい「政治の季節」だったのである。

この時期の重要性については黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督が、大ヒットした映画《ゴジラ》に次いで原水爆実験の危険性を描き出した1961年公開の映画《モスラ》で描いているので、本論からは少し離れるが確認しておきたい、(『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画、2016年、45頁)。

すなわち、1960年の4月には全学連が警官隊と衝突するという事件がすでに起きていたが、5月19日に衆議院の特別委員会で新条約案が強行採決され、5月20日に衆議院本会議を通過すると一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲むようになった。そして6月15日には暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出す一方で、国会議事堂正門前では機動隊がデモ隊と衝突してデモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという悲劇に至っていた。

また、1958年には三笠宮が神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡を寄せたが、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生していた(上丸洋一『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』岩波書店、10頁)。なぜならば、戦前の価値の復活を求める右翼や論客は「紀元節奉祝建国祭大会」などの活動を強めていたのである。

三笠宮は編著『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)の「序文」で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と書いていた。

上丸洋一(図版はアマゾンより)

書評『我が闘争』の『全集』への収録の際には省いていたヒトラーの「決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚」や「感傷性の全くない政治の技術」をより詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」は、まさにこのような時期に書かれていたのである。

三、「感傷性の全くない政治の技術」と「強者への服従の必然性」

映画についての感想を記したあとで、20年前に書いた書評の概要を記した小林は、「ヒットラーのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う」とし、「彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている」ことを確認している。

しかし、その箇所で小林はヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」についても以下のように指摘していたが、それは現在の安倍政権の運営方法と極めて似ているのである。

「バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺がなかった彼の政治闘争の綱領である。」

そして、「暴力沙汰ほど一般人に印象の強いものはない。暴力団と警察との悶着ほど、政治運動の宣伝として効果的なものはない。ヒットラーの狙いは其処にあった」とした小林は、「だが、彼はその本心を誰にも明かさなかった。「突撃隊」が次第に成長し、軍部との関係に危険を感ずるや、細心な計画により、陰謀者の処刑を口実とし、長年の同志等を一挙に合法的に謀殺し去った」と続けている。

さらに、ヒトラーの人生観を「人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である」とした小林は、「獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者にどうして屈従し味方しない筈があるか」と書いて、ヒトラーの「弱肉強食の理論」を効果的に紹介している。

さらに小林はヒトラーの言葉として「大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう」と書き、「ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった」と続けている。

この表現はナチズムの危険性を鋭く指摘したフロムが『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社)で指摘していた記述を思い起こさせる。この本がすでに1951年には邦訳されていたことを考慮するならば、小林がこの本を強く意識していた可能性は大きいと思える。

しかしその結論は正反対で、小林秀雄はヒトラーの独裁とナチズムが招いた悲劇にはまったく言及していないのである。

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「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

(2017年9月17日、改訂し関連記事のリンク先を追加。2019年9月11日、改訂と改題)

「表現の自由と情報へのアクセス」の権利と「差別とヘイトスピーチ」の問題――「特定秘密保護法」から「共謀罪」へ

現在、「共謀罪」の議論が国会で行われているが、6月2日の衆院法務委員会で金田法務大臣は、戦争に反対する人々を逮捕することを可能にした「治安維持法」を「適法」であったとし、さらに創価学会初代牧口会長も獄死するに至った「拘留・拘禁」などの「刑の執行も、適法に構成された裁判所によって言い渡された有罪判決に基づいて、適法に行われたものであって、違法があったとは認められません」 と答弁した。

一方、5月30日に最高裁は「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が2014年10月5日号に掲載した「安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月」という記事を名誉毀損で訴えていた稲田朋美・防衛相の訴えが一審、二審判決につづいて稲田氏の上告を棄却する決定が出した。すなわち、稲田氏の資金管理団体「ともみ組」が2010年から12年のあいだに、ヘイトスピーチを繰り返していた「在特会」の有力会員や幹部など8人から計21万2000円の寄付を受けていたことを指摘したこの記事の正当性が最高裁でも認められたのである。

しかも、6月2日付の記事で「リテラ」が指摘しているように稲田氏は、〈元在特会事務局長の山本優美子氏が仕切る極右市民団体「なでしこアクション」が主催する集会に2012年に登壇しており、14年9月にはネオナチ団体代表とのツーショット写真の存在も発覚〉していた。それにもかかわらず、〈安倍首相は稲田氏をそれまでの自民党政調会長よりもさらに重い防衛相というポストにまで引き上げた。稲田氏と同じようにネオナチ団体代表と写真におさまっていた高市早苗総務相も据え置いたままである。〉

ヘイトスピーチ(写真の出典は「毎日新聞」)

なお、防衛相就任以前にも保守系雑誌などで「長期的には日本独自の核保有を国家戦略として検討すべきではないでしょうか」「文科省の方に『教育勅語のどこがいけないのか』と聞きました」などと述べていた稲田氏が、最近も月刊誌「月刊Hanada」(7月号)に論文を寄稿して、「大東亜戦争」の意義を強調するような持論を展開していたことが判明した。

これらの人物を大臣に任命した安倍首相の責任はきわめて重たく、この問題は国連のデービッド・ケイ特別報告者の「対日調査報告書」ともかかわると思える。

*   *   *

すでにみたようにピレイ国連人権高等弁務官は2013年に強行採決された「特定秘密保護法」について、12月2日にジュネーブで開かれた記者会見で「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」に関わるこの法案については、人権高等弁務官事務所も注目しているが、「法案には明 確さが不十分な箇所があり、何が秘密かの要件が明確ではなく、政府が不都合な情報を秘密として特定できてしまう」と指摘し、次のように続けていた。

「政府および国会に、憲法や国際人権法で保障されている表現の自由と情報へのアクセスの権利の保障措置(セーフガード)を規定するまで、法案 を成立させないよう促したい」。

今回も「共謀罪」法案を衆議院で強行採決した日本政府に対して、国連人権高等弁務官事務所は、「メディアの独立性に懸念を示し、日本政府に対し、特定秘密保護法の改正と、政府が放送局に電波停止を命じる根拠となる放送法四条の廃止を勧告した」、「対日調査報告書」を公表した。

一方、産経新聞によれば、高市早苗総務相は2日午前の閣議後の記者会見で、この「対日調査報告書」について「わが国の立場を丁寧に説明し、ケイ氏の求めに応じて説明文書を送り、事実把握をするよう求めていた。にもかかわらず、われわれの立場を反映していない報告書案を公表したのは大変、残念だ」と述べていた。

しかし、「言論と表現の自由」に関する調査のために来日した国連特別報告者・デービッド・ケイ氏が公式に面会を求めていたにもかかわらず、それを拒否していた高市早苗総務相がこのような形で国連特別報告者の「報告書」を非難することは、「日本会議」などの右派からは支持されても、国際社会の強い批判を浴びることになるだろう。

この意味で注目したいのは、5月31日に掲載された読売新聞の「報告書」では「差別とヘイトスピーチ」の項目もあるが、要旨が記された記事では略されており、日本政府の「反論書」要旨にもそれに対する反論は記されていないことである。そのことは「差別とヘイトスピーチ」にふれられることを安倍首相や閣僚が嫌っていることを物語っているようにも見える。

現在、国連と安倍内閣との間に生じている強い摩擦や齟齬は、「特定秘密保護法」案が強行採決された時から続いているものであり、今回の「勧告」は戦前の価値観を今も保持している「日本会議」系の議員を重用している安倍内閣の政権に対する強い不信感を物語っているだろう。

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「特定秘密保護法」強行採決への歩み(3)

私は憲法や法律、政治学などの専門家ではないが、主に専門のドストエフスキー作品の考察をとおして、強行採決された「特定秘密保護法」の問題点に迫った記事の題名とリンク先を挙げる。

なぜならば、「表現の自由と情報へのアクセスという二つの権利」が許されていなかったニコライ一世の治世下の「暗黒の30年」に、ドストエフスキーは作品を「イソップの言葉」を用いて書くことによって、「憲法」の発布や農奴制の廃止、言論の自由を強く求めていたからである。

彼の作品は戦時中にヒトラーの『わが闘争』を賛美していた文芸評論家・小林秀雄の解釈によって矮小化されたが、シベリアに流刑になった以降もさまざまな表現上の工夫をするとともに「虚構」という方法を用いて、重たい「事実」に迫ろうとしていた。

残念ながら、現在も文芸評論家の小林秀雄の影響が強い日本では、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する刺激的な解釈をして「二枚舌」の作家と位置づけている小説家もいるが、それは作家ドストエフスキーだけでなく「文学」という学問をも侮辱していると思える。

ドストエフスキーの作品研究においても、「農奴の解放」や「裁判の公平」そして、「言論の自由」を求めていたドストエフスキーの姿勢もきちんと反映されねばならないだろう。

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 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)

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「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」(7月9日)

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』(7月16日)

TPPと幕末・明治初期の不平等条約(7月16日)

「ブラック企業」と「農奴制」――ロシアの近代化と日本の現在(7月17日 )

「蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて(7月17日 )

「憲法」のない帝政ロシア司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性10月31日

ソ連の情報公開と「特定秘密保護法」→グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(10月17日 )

現実の直視と事実からの逃走→「黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観」11月5日

小林秀雄のドストエフスキー観テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に  

上からの近代化とナショナリズムの問題日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって11月8日

「特定秘密保護法案」に対する国際ペン会長の声明11月22日

「特定秘密保護法」の強行採決と日本の孤立化11月26日

(2017年6月3日、6月9日、11日、題名を変更し改訂、図版を追加)

書評 『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

『罪と罰』をどう読むか(書影は紀伊國屋書店より)

『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

本書はウォルィンスキイの『ドストエフスキイ』やレイゾフ編『ドストエフスキイと西欧文学』など多くの訳書があるロシア文学者の川崎浹氏と、『新藤兼人伝──未完の日本映画史』などの著作がある研究者の小野民樹氏と、ドストエフスキーの作中人物をも取り込んだ小説『転落譚』がある中村邦生氏の鼎談を纏めたものである。

『罪と罰』の発表から一五〇年にあたる二〇一六年には、それを記念した国際ドストエフスキー学会が六月にスペインのグラナダで開かれたが、冒頭で『罪と罰』を翻訳し「恰も広野に落雷に会って目眩き耳聾ひたるがごとき、今までに会って覚えない甚深な感動を与えられた」という内田魯庵の言葉が紹介されている本書もそのことを反映しているだろう。

さらに本書の「あとがき」では学術書ではないので、「お世話になった方々の氏名をあげるにとどめる」として本会の木下豊房代表をはじめ、芦川氏や井桁氏など主なドストエフスキー研究者の名前が挙げられており、それらの研究書や最新の研究動向も踏まえた上で議論が進められていることが感じられる。

以下、本稿では『罪と罰』という長編小説を解釈する上できわめて重要だと思われる「エピローグ」の問題を中心に六つの章からなる本書の特徴に迫りたい。

「『罪と罰』への道」と題された第一章では、若きドストエフスキーが巻き込まれたペトラシェフスキー事件など四〇年代末期の思想動向やシベリアへの流刑の後で書かれた『死の家の記録』などの流れが簡潔に紹介されている。

ことに、農奴解放などの「大改革」が中途半端に終わったことで、過激化していく学生運動などロシアの時代風潮がチェルヌイシェフスキーとの相克や『何をなすべきか』との関わりだけでなく、一八六五年には「モスクワでグルジア人の青年が高利貸しの老婆二人を殺害、裁判が八月に行われ、その速記録が九月上旬の『声』紙に連載」されていたことや、「大学紛争で除籍されたモスクワ大学の学生が郵便局を襲って局員を殺そうとした話」など当時の社会状況が具体的に記されており、そのことは主人公・ラスコーリニコフの心理を理解する上で大いに役立っていると思われる。

当初は一人称で書かれていたこの小説が三人称で書かれることによって、長編小説へと発展したことなど小説の形式についても丁寧に説明されている。

本書の特徴の一つには重要な箇所のテキストの引用が適切になされていることが挙げられると思うが、第二章「老婆殺害」でも『罪と罰』の冒頭の文章が長めに引用され、この文章について小野氏が「なんだか映画のはじまりみたいですね。ドストエフスキーの描写はひじょうに映像的で、描写どおりにイメージしていくと、理想的な舞台装置ができあがる」と語っている。

この言葉にも表れているように、三人の異なった個性と関心がちょうどよいバランスをなしており、モノローグ的にならない<読書会>の雰囲気が醸し出されている。

また、『罪と罰』を内田魯庵の訳で読んだ北村透谷が、お手伝いのナスターシャから「あんた何をしているの?」と尋ねられて、「考えることをしている」と主人公が答える場面に注目していることに注意を促して、「北村透谷のラスコーリニコフ解釈は、あの早い時期としては格段のもの」であり、この頃に「日本で透谷がドストエフスキーをすでに理解していたというのは誇らしい」とも評価されている。

さらに、「ドストエフスキーの小説はたいてい演劇的な構成だと思います。舞台に入ってくる人間というのは問題をかかえてくる」など、「ドストエフスキーの小説は、ほとんどが何幕何場という構成に近い」ことが指摘されているばかりでなく、具体的に「ラスコーリニコフとマルメラードフの酒場での運命的な出遭いというのは、この小説のなかでも心に残る場面ですね」とも語られている。

たしかに、明治の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷から強い影響を受けた島崎藤村の長編小説『破戒』でも、主人公と酔っ払いとの出遭いが重要な働きをなしており、ここからも近代日本文学に対する『罪と罰』の影響力の強さが感じられる。

また、『罪と罰』とヨーロッパ文学との関連にも多く言及されている本書では、ナポレオン軍の騎兵将校として勤務していた『赤と黒』の作家スタンダールが、「モスクワで零下三〇度の冬将軍」に襲われていたことなど興味深いエピソードが紹介されており、若い読者の関心もそそるだろう。

テキストの解釈の面では、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』など書簡体小説の影響を受けていると思われる母親からの長い手紙の意味がさまざまな視点から詳しく考察されているところや、なぜ高利貸しの義理の妹リザベータをも殺すことになったかをめぐって交わされる「六時過ぎか七時か」の議論、さらに「ふいに」という副詞の使用法についての会話もロシア語を知らない読者にとっては興味深いだろう。

犯罪の核心に迫る第三章「殺人の思想」では、「先ほどネヴァ川の光景が出てきましたけど、夕陽のシーンが小説全体のように現れることが、実に面白いですね」、「重要な場面で必ず夕陽が出てくるし、『夕焼け小説』とでもいいたいほどです」と語られているが、映画や演劇の知識の豊富さに支えられたこの鼎談をとおして、視覚的な映像が浮かんでくるのも本書の魅力だろう。

さらに、井桁貞義氏はドストエフスキーにおける「ナポレオンのイデア」の重要性を指摘していたが、本書でも「ナポレオンとニーチェ」のテーマも視野に入れた形で「良心の問題」がこの小説の中心的なテーマとして、「非凡人の理論」や「新しいエルサレム」にも言及しながらきちんと議論されている。

本書の冒頭では『罪と罰』から強い感動を与えられたと記した内田魯庵の言葉をひいて、「読んだ人には皆覚えがある筈だ」と指摘し、「残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と続けていた文芸評論家の小林秀雄の文章も引用されていた。本章における「良心の問題」の分析は、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していた小林秀雄の良心観を再考察する機会にもなると思える。

第四章「スヴィドリガイロフ、ソーニャ、ドゥーニャ」や、「センナヤ広場へ」と題された第五章でも多くの研究書や研究動向も踏まえた上で、主な登場人物とその人間関係が考察されており興味深い。

ことに私がつよい関心を持ったのは、ソーニャが「ラザロの復活」を読むシーンに関連して一八七三年の『作家の日記』(昔の人々)でも、ドストエフスキーがルナンの『イエスの生涯』について、「この本はなんといってもキリストが人間的な美しさの理想であって、未来においてすらくり返されることのない、到達しがたい一つの典型であるとルナンは宣言していた」ことに注意が促されていたことである。

そして、このようなドストエフスキーのキリスト理解をも踏まえて第六章「『エピローグ』」の問題」では、『死の家の記録』に記されていたドストエフスキー自身がシベリアのイルティシ川から受けた深い感銘もきちんと引用されており、そのことが『罪と罰』の読みに深みを与えている。

たとえば、ドストエフスキーは「首都から千キロも離れたオムスクの監獄と流刑地のセミパラチンスクで過ごしたことにより、ロシアの懐の深さを知って帰ってきた」と語った川崎氏は、「その背景があって作家は『エピローグ』を書いた」と説明している。

そして、「『ラズミーヒンはシベリア移住を固く決意した』と『エピローグ』に書かれていますが、彼のシベリア行きはちょっと不自然に思いました」との感想に対しては、「ラズミーヒンがドゥーニャといっしょにシベリアに行って根付こうというときに、あそこは『土壌が豊かだから』と彼自身はっきりと言って」いると語っているのである。

さらに私は囚人たちが大切に思っている「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉」が、ラスコーリニコフが病院で見た「人類滅亡の悪夢」に深く関わっていると考えてきたが、この鼎談でもこの文章に言及した後で悪夢が詳しく分析されている。

すなわち、この悪夢には「ヨハネの黙示録」が下敷きになっていることを確認するとともに、ドストエフスキーがすでに一八四七年に書いた『ペテルブルグ年代記』で「インフルエンザと熱病はペテルブルグの焦点である」と書いていることや、その頃に熱中したマクス・シュティルネルの『唯一者とその所有』では、個人主義の行き過ぎが指摘されていることも確認されている。

そして、「この熱に浮かされた悪夢の印象がながい間消え去らないのに悩まされた」とドストエフスキーが書いていることにふれて、それは「悪夢の役割の大きさを作家が強調したかったのでしょう」と記されている。

ただ、『罪と罰』が連載中の一八六六年五月に起こった普墺戦争では、先のデンマークとの戦争では連合して戦ったプロイセン王国とオーストリア帝国とが戦ってプロイセンが圧勝したことで、今度はフランス帝国との戦争が懸念されるようになっていた。そのことをも留意するならば、この悪夢は将来の世界大戦ばかりでなく、最新兵器を擁する大国に対するテロリズムが広がる現代へのドストエフスキーの洞察力をも物語っているように思える。

鼎談では「ドストエフスキーの文学」と現代との関わりも強く意識されていたが、川崎氏にはシクロフスキイの『トルストイ伝』やロープシンの『蒼ざめた馬』などの翻訳があるので、そこまで踏み込んで解釈してもよかったのではないかと私には思われた。

なぜならば、『地下室の手記』でドストエフスキーは、バックルによれば人間は「文明によって穏和になり、したがって残虐さを減じて戦争もしなくなる」などと説かれているが、実際にはナポレオン(一世、および三世)たちの戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと主人公に鋭く問い質させていたからである。

『罪と罰』の最後をドストエフスキーが、「『これまで知ることのなかった新しい現実を知る人間の物語』が新しい作品の主題になると予告している」と書いていることに注意を促して、「そこにはどうしても『白痴』という実験小説が結びつかざるを得ません」と続けた川崎氏の言葉を受けて、「そこに私たちの新たな関心の方位があるということですね」と語った中村氏の言葉で本書は締めくくられている。

冒頭に掲げられている一八六五年の「ペテルブルグ市 街図」や、ロシア人独特の正式名称や愛称を併記した「登場人物一覧」、さらに「邦訳一覧」が収録されており、この著書は格好の『罪と罰』入門書となっているだろう。

川崎氏は「あとがき」で〈ドストエフスキー読書会〉という副題のある本書が、一三年間かけてドストエフスキーの全作品を二度にわたって読み込んだ上で、『罪と罰』についての鼎談を纏めたと発行に至る経緯を記している。

本書でもふれられていたルナンの『イエスの生涯』についてのドストエフスキーの関心は長編小説『白痴』とも深く関わっているので、次作『白痴』論の発行も待たれる。

(『ドストエーフスキイ広場』第26号、2017年、132~136頁より転載)

 

 

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

86l黒澤明、悪い奴ほど

(ポスターの図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

東京地検が甘利前経済再生担当相と元秘書2人を「現金授受問題」で不起訴としたとの報道が5月31日の「東京新聞」朝刊に載っていました。

長編小説『白痴』との関連で黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、小國英雄、菊島隆三、橋本忍)について考察した箇所を拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)より一部改訂して再掲します。

父親の恨みを晴らすために上司の娘との結婚を果たした主人公をとおして汚職の問題などが描かれている1960年に公開された映画《悪い奴ほどよく眠る》の世界が、安倍政権下の日本では今も生き続けているのを強く感じるからです。

「アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

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一九六〇年に公開されたこの映画の冒頭では、土地開発公団・副総裁の娘佳子と秘書の西との華やかな結婚披露宴の場で、司会を務めるはずだった課長補佐が逮捕されて動揺する幹部の姿や新聞記者たちの動きが描写されていた。

場面が進むにつれて新郎の西(三船敏郎)が五年前に起きた汚職事件の捜査の過程で、上司たちの保身のために飛び降り自殺をさせられていた課長補佐の私生児であり、他人と自分の戸籍を代えることまでして父親の復讐を果たそうとしていたことが次第に明らかになる。

つまり、子供の頃に負った怪我で足をひきずるようになったが、「赤ン坊」のように純粋な心を持っていた佳子(香川京子)と結婚することで、西は副総裁にまで出世していた父の上司(森雅之)に接近し秘書に取り立てられていたのである(『全集 黒澤明』第5巻・24頁、50頁)。

秘書としての地位を利用することで西は、その時の事件の隠蔽工作に関わったが今度は殺されそうになった人物を捕らえることに成功し、汚職の真相を暴露する一歩手前のところまで佳子の父親でもある副総裁を追い詰めた。しかし、なんとか罪が暴かれることを防ごうとした副総裁は、娘婿の生命を案じるフリをしてその居所を娘から聞き出して、証人たちとともに娘婿を抹殺した。

ドストエフスキーの長編小説『白痴』は、複雑な性格のガヴリーラやイッポリートの家族をとおして、当時の混迷したロシアの社会情勢とムィシキン公爵の苦悩を描き出していたが、この映画も父親の計略によって夫が殺されたことを知ったことで、純粋な精神を持っていた佳子がムィシキンと同じように発狂してしまうことを描いて終わる。

こうして、この映画は「汚職事件が多発して、真相が分からぬままに課長補佐、係長等が謎の自殺を遂げるという、痛ましい事件」が続いていた時代を背景に、企業と癒着した官僚が汚職で富を築き、発覚しそうになると容赦なく罪を部下に押しつけるような体質になっていた戦後の日本社会の腐敗をえぐり出していた*7。

そして《悪い奴ほどよく眠る》が描いていた社会状況は、クリミア戦争後に西欧のさまざまな思想がどっと入ってきて「価値の混乱」が見られ、高官による公金の使い込みや自殺なども見られるようになっていたロシアの社会状況とも重なっていたのである。

(『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、59頁~60頁より一部改訂して再掲。2017年5月19日、図版を追加)

 

日露戦争の勝利から太平洋戦争へ(2)――「勝利の悲哀」と「玉砕の美化」

前回は「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析して、教育の問題にも注意を促した司馬遼太郎氏の記述を紹介したあとで、次のように結んでいました。

〈「歴史的な事実」ではなく、「情念を重視」した教育が続けば、アメリカに対する不満も潜在化しているので、今度は20年を経ずして日本が「一億玉砕」を謳いながら「報復の権利」をたてにアメリカとの戦争に踏み切る危険性さえあるように思われるのです。〉

この結論を唐突なように感じる読者もいると思われますが、1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、作家の林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」と「一億玉砕」を美化するような発言をしていたのです。

しかも、この鼎談でナポレオンを英雄としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語った評論家の小林秀雄は、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」という林の問いかけに「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と無責任な発言をしていました(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

『白痴』など多くの長編小説でドストエフスキーが「自殺」の問題を取り上げて厳しく批判していたことに留意するならば、当時からドストエフスキー論の権威と認められていた評論家の小林秀雄は、「玉砕」を美化するような林房雄の発言をきびしく批判すべきだったと思われます。しかし、鼎談では林のこのような発言に対する批判はなく、敗戦間際になると大本営発表などで「玉砕」と表現された部隊の全滅が相次いだのです。

(2016年4月30日。一部、削除)

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前回の論考の副題を「勝利の悲哀」としたのは、日露戦争が始まった時にはトルストイの反戦論「爾曹(なんじら)悔改めよ」に共感しなかった徳富蘆花が、戦後には近代戦争としての日露戦争の悲惨さやナショナリズムの問題に気づいて、終戦の翌年の明治三九年にロシアを訪れて、ヤースナヤ・ポリャーナのトルストイのもとで五日間を過ごし散策や水泳を共にしながら、宗教・教育・哲学など様々な問題を論じた徳富蘆花が1906(明治39)年12月に第一高等学校で「勝利の悲哀」と題して講演していたからです。

リンク→『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)。

トルストイは蘆花に対して欧米を「腐朽せむとする皮相文明」と呼びながら、力によって「野蛮」を征服しようとする英国などを厳しく批判する一方で、墨子の「非戦論」を高く評価し、日本やロシアなどには「人生の真義を知り人間の実生活をなす」という「特有の使命」があると指摘していました。

蘆花も「勝利の悲哀」において、ナポレオンとの「祖国戦争」に勝利した後で内政をおろそかにして「諸国民の解放戦争」に参加した帝政ロシアをエピローグで批判していた長編小説『戦争と平和』を強く意識しながら、ロシアに侵攻して眼下にモスクワを見下ろして勝利の喜びを感じたはずのナポレオンがほどなくして没落したことや、さらに児玉源太郎将軍が二二万もの同胞を戦場で死傷させてしまったことに悩み急死したことにふれて、戦争の勝利にわく日本が慢心することを厳しく諫めていたのです。

そして、蘆花は日本の独立が「十何師団の陸軍と幾十万噸(トン)の海軍と云々の同盟とによつて維持せらるる」ならば、それは「実に愍(あは)れなる独立」であると批判し、言葉をついで「一歩を誤らば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明して、「日本国民、悔改めよ」と結んでいました。

ここでは詳しく考察する余裕はありませんが、司馬氏は『坂の上の雲』を執筆中の昭和47年5月に書いた「あとがき五」で、幸徳秋水が死刑に処された時に行った徳冨蘆花の「謀反論」にふれて、蘆花は「国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」したと書き、蘆花にとっては父や「父の代理的存在である兄蘇峰」が「明治国家というものの重量感とかさなっているような実感があったようにおもわれる」と書いていました。

しかも、『坂の上の雲』では旅順の激戦における「白襷隊(しろだすきたい」の「突撃」が描かれる前に南山の激戦での日本軍の攻撃が次のように描かれていました。

「歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると緻密な火網(かもう)を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも、日本軍は勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる」。

この記述に注目するならば、司馬氏がくりかえし突撃の場面を描いているのは、「国家」と「公」のために自らの死をも怖れなかった明治の庶民の勇敢さや気概を描くためではなく、かれらの悲劇をとおして、「神州不滅の思想」や「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を広めた日露戦争後の日本社会の問題を根源的に反省するためだったと思えます。

「忠君愛国」の思想を唱えるようになった徳富蘇峰は、第一次世界大戦の時期に書いた『大正の青年と帝国の前途』においては、白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えるようになっていたのです。

前回もふれたように「『坂の上の雲』を書き終えて」というエッセイで司馬氏は、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

司馬氏が「“雑貨屋”の帝国主義」で、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦」までの40年を「異胎」の時代と名付けたとき、「日本国民、悔改めよ」と結んでいた蘆花の講演「勝利の悲哀」ばかりでなく、「玉砕」を美化した蘇峰の思想をも強く意識していたことはたしかでであるように思われます。

(2016年4月30日。一部、削除)

書評 大木昭男著『ロシア最後の農村派作家――ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社、 2015年)

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中編『生きよ、そして記憶せよ』(一九七四)と『火事』(一九八五)でソ連邦国家賞を二度受賞し、二〇〇〇年にはソルジェニーツィン賞を受賞した農村派の作家ラスプーチンが昨年の三月に亡くなった。 その報を受けて、 作家とは個人的にも旧知の間柄であり、『病院にて ソ連崩壊後の短編集』(群像社、二〇一三)の訳書もある大木昭男氏がこれまでの論稿をまとめたのが本書である。

作家の小説だけでなく、ルポルタージュや「我がマニフェスト」をも視野に入れた本書は、作家の全体像を把握できるような構成になっている(本稿では著者の表記「ドストエーフスキイ」で統一した)。

第一章 ロシア独自の道とインテリゲンチヤ

第二章 モスクワ騒乱事件直後のラスプーチン

第三章 ドストエーフスキイとラスプーチン――「救い」の問題試論

第四章 ラスプーチン文学に現れた母子像

第五章 ロシア・リアリズムの伝統とラスプーチン文学

第六章 失われた故郷への回帰志向―小説のフィナーレ

第七章 ラスプーチン文学に見る自然 エピローグ――「我がマニフェスト」翻訳とコメント

ドストエーフスキイとの関連で注目したいのは、「わたしはここ十年間ドストエーフスキイを何回も読み返しています」と一九八六年に語ったラスプーチンが、「ドストエーフスキイはわたしにとってどういう作家であるかといえば、気持ちの上で一番近い存在であり、精神的にもっとも影響を受けた作家であるという答えが一番正しい答えになると思います」と続けていたことである(第三章)。

この言葉を紹介して、ラスプーチンの「精神の中核にはやはり正教の人間観が厳然と在る」と指摘した大木氏は、「ドストエーフスキイの提唱した『土壌主義』は、『母なる大地』と融合したプーシキン文学の伝統を継承したもの」であり、「その伝統を現代において受け継いだ作家こそワレンチン・ラスプーチンなのである」と主張している(第四章)。

ただ、本書に収録されている作家の略年譜によれば、ラスプーチンが洗礼を受けたのは中編『マチョーラとの別れ』(一九七六)の後の一九八〇年のことだったことがわかる。では、なぜラスプーチンはこの作品の後で正教徒となったのだろうか。ここでは中編『火事』(一九八五)とドストエーフスキイの作品との関係を詳しく分析した第三章を中心に、この作品に至るまでとその後の作品を分析した著者の考察を追うことで、ラスプーチンのドストエーフスキイ観に迫ることにしたい。

*   *   *

一九三七年三月に今はダムの底に沈んだシベリアの小さな村に生まれたラスプーチンは、ナチス・ドイツとの「大祖国戦争」の苦しい時期に少年時代を過ごし、大学卒業後は新聞記者として勤めながら小説も書き始めた。 「ソ連崩壊後、国民の実に六〇%が貧困層に転落し、とりわけ年金生活者の多くが医療にもかかれないまま路頭に迷った。

ラスプーチンはそのような悲惨な現実をよく見据えている」と指摘した大木氏は、彼の作品を貫く方法について、ドストエーフスキイの第一作『貧しき人々』にも言及しながら、「ここにわたしは、一九世紀以来のロシア・リアリズムの伝統を感ずる」と書いている(第五章)。

「小説のフィナーレ」に注目しながらラスプーチンの主な作品を分析した第六章は、現実をしっかりと見つめて描くリアリズムが初期の段階からあったことを示すとともに、ドストエーフスキイの「土壌(大地)主義」への理解の深まりをも示していると思える。

すなわち、中編『マリヤのための金(かね)』(一九六七)では、コルホーズ議長の要請で小売店の売り子として勤めたが、決算時になって千ルーブルもの不足金があることが判明するという事件が発生し、不正などするはずのない純朴な農婦マリヤとその夫が苦境に陥るという出来事をとおして、「昔ながらの共同体的な相互扶助の精神」が廃れつつある状態が描かれている。

中編『アンナ婆さんの末期』(一九七〇)でも、村で百姓として一生を過ごしたアンナ婆さんの臨終の場面をとおして、村に残った子供と村を出て行った子供たちとの関係が描かれており、「夜中、婆さんは死んだ」という最後の文章に注意を促した大木氏は「寿命のつきた一個人の死ではあるが、もっと大きなものの死を暗示しているように思われる」と記している。

そのテーマは「大祖国戦争」で勇敢に戦って負傷したグシコフが、快復したあとで再び戦場に送られることを知って脱走したために、「故郷への回路」を断ち切られてしまうという悲劇を描いた中編『生きよ、そして記憶せよ』(一九七四)や、壮大なダム建設のために水没させられることになったためにアンガラ河の中州の島退去を迫られた農民たちの悲劇を描いた中編『マチョーラとの別れ』(一九七六)でも受け継がれている。

注目したいのは、島の名前の「マチョーラ」が「母」を意味する「マーチ」という単語から作られた固有名詞であると指摘した大木氏が、『マチョーラとの別れ』という題名は、「母なる大地」との別れも示唆していることに注意を促していることである。

ラスプーチンが洗礼を受けた後で書かれた中編『火事』(一九八五)では、ダムの建設によって水没した故郷の村を去り林業に従事することになった主人公イワンが、林業場倉庫の火事の現場で目撃した出来事が描かれている。 この 作品が「『マチョーラとの別れ』の続編とも言うべきもの」であると指摘した大木氏は、火事場で見た「無秩序な光景」について考え始めたイワンの思索が、「自分の内部の無秩序についての内省へと移っていく」ところに、ドストエーフスキイの手法との類似性を見ている。

注目したいのは、この小説のラストシーンで描かれている、「彼は今小さな林の陰に回り、永遠に姿を消してしまうのだ」という「謎めいた表現」は、「主人公の別世界への新たな旅立ちを意味するシーンである」と著者が解釈していることである。 訳出されている「あたかも夜の災厄のために苦しんでいたかのように、静かでもの悲しい秘められた大地がやわらかな雪の下に横たわっていた」という文章から、最後の「大地は沈黙している。/おまえは何であるのか、無言の我が大地よ、おまえはいつまで沈黙しているのか?/本当におまえは沈黙しているのか?」という詩的な文章に至る箇所は、ラスプーチンにおける「土壌(大地)主義」の重みを象徴的に物語っているように思える。

『罪と罰』のエピローグでも「一つの世界から他の世界への漸次的移行」が示唆されていることに注目した著者は、『カラマーゾフの兄弟』でも「ガリラヤのカナ」の章では、「天地を眺めて神の神秘にめざめ、大地を抱擁し、泣きながら接吻する」というアリョーシャの体験が描かれていることを指摘して、中編『火事』の結末においても、「キリスト教的な『過ぎ越し』」が描かれていると主張しているの である(第三章)。

残念ながら日本ではドストエーフスキイ作品を自分の主観でセンセーショナルに解釈する著作の人気が高いが、ドストエーフスキイが一八六四年に書いたメモで人類の発展を、一、族長制の時代、二、過渡期的状態の文明の時代、三、最終段階のキリスト教の時代の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『白痴』における「サストラダーニエ(共苦)」や「美は世界を救う」という表現の重要性を強調している。

実際、著者が指摘しているように、『白痴』の創作ノートでもムイシキンが「キリスト教的愛の感情に従って行動することを、ナスターシャ・フィリポヴナの救済と彼女の世話と見なして」おり、「長編における三つの愛」が「情熱的直接的愛――ロゴージン」、「虚栄心からの愛――ガーニャ」、そして「キリスト教的愛――公爵」であると明確に定義されているのである。

それゆえ、ラスプーチンが「魂の動きにおいては、ロシア的スタイルは、沢山の苦しみをなめた人へのサストラダーニエであり、思いやりであり」、「共同性である」と書いていることに注意を促した大木氏は、「この認識はドストエーフスキイの民衆観を継承している」と記している。

本書の構成は論文の執筆順になっているので最初に置かれているが、「ロシア独自の道とインテリゲンチヤ」と題された章では、一九九二年のインタビューで「今は検閲がなく、自由がありますが、文学がありません」と語ったラスプーチンの言葉を紹介しつつ、「欧米流マス文化」の氾濫による「精神的空虚と不安定の兆候」を指摘した大木氏は、異文化に対しても排他的な態度を取らない「文化的民族主義」を唱える作家の立場を「新スラヴ派」と位置づけている(第一章)。

短編『同じ土の中に』(一九九五)で「ソ連崩壊後のロシアは、またしても革命前の現実とほとんど同様の貧困と格差の社会になってしまった」ことを描き出したラスプーチンが、一九九七年に「我がマニフェスト」で『カラマーゾフの兄弟』にも言及しながら、「ロシアの作家にとって、再び民衆のこだまとなるべき時節が到来した。痛みも愛も、洞察力も、苦悩の中で刷新された人間も、未曾有の力をもって表現すべき時節が」と宣言したのは、このような時代的な背景によるものだったのである(エピローグ)。

最後の中編『イワンの娘、イワンの母』(二〇〇三)を考察した論文の冒頭で「ロシアの『母子像』といえば、先ず思い浮かべるのは、幼児イエスとその母マリヤの二人が描かれている聖母子イコンであろう。それは慈愛のシンボルであり、キリスト教的『救い』のイメージと結びついている」と記した大木氏は、「イワン」という名前が「ヨハネ」に由来しており、「イワンの日」と呼ばれる民衆的な祭りがあるほどこの名前はロシア人の間ではきわめてポピュラーで、ロシア正教会ではこの日が「洗礼者ヨハネの誕生日」とされていることも説明している(第四章)。

そして、「ロシア社会の重要な、最も救済力に富んだ革新は、勿論、ロシア人女性の役割に属する」とドストエーフスキイが『作家の日記』に書いていたことを紹介した著者は、「ロシア人女性の大胆さ」が描かれているこの小説は「『我がマニフェスト』の意欲的実践の作として評価されるべき」と書いている。 ラスプーチンの小説を高く評価した文化学者のリハチョーフが「文化環境の保護も自然環境の保護に限らず本質的な課題です」と書いていたことに関連して、ドストエーフスキイの「美は世界を救う」という表現にも言及した大木氏は、「その『美』とは、人間の精神的な美を意味する言葉であるが、自然環境の美が保たれてこそ、人間精神の美も育まれてゆくものであろう。ラスプーチンはそのような認識にもとづいて『バイカル運動』をはじめとする自然保護運動を積極的に展開してきたのであった」と続けている(第七章)。

中編『マチョーラとの別れ』論で大木氏は、経済的な観点からの「ダムの建設は環境破壊をもたらし、そこで暮らしている住民たちの土地と結びついた過去の記憶を奪うことになる」と指摘していたが、それは三・一一の大事故による放射能で故郷から追われた福島の人々にもあてはまるだろう。

国民には秘密裏に行われて成立したTPPの交渉では農業分野で大幅な譲歩をしていたことが明らかになり、近い将来日本でも農村の疲弊と大地の劣化が進む危険性が高い。 ラスプーチンの「民族主義」的な主張には違和感を覚えるところもあるが、シベリアの小さな村の出来事などとおしてロシアの厳しい現実を丹念に描き出したラスプーチンの小説が、「土壌(大地)主義」を唱えたドストエーフスキイの精神を受け継いでいることを明らかにした本書の意義は大きい。

(『ドストエーフスキイ広場』第25号、2016年、108~112頁)。

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

雑誌「チャイカ」(第三号)のインタビューで、井上氏は自分とロシア文学との関わりについて語りながら、「まあ、全部読んでいるわけじゃないんですけど、やっぱり私の基本となっているのは、ドストエーフスキイとチェーホフですね」と語っている。この雑誌については知らない方も多いと思われるし、また両者の係わりを知ることは劇作家井上ひさしを考える上でも重要だと思えるのでその内容を簡単に紹介し、あわせて筆者の考えも二・三記しておきたい。

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「井上  それから小説……『吉里吉里人』なんていうのは、もうあれです、『罪と罰』を側におきながらですね、

本誌 お書きになったんですか?

井上 ええ、まあ、ロシア語は全然わかりませんけど何となくこうアノ、文章の息の長さとかですね、まあ、日本の文章は非常に盆栽風になりまして、こう、短く、一つの意味を一つの文で、それを貨車みたいに繋いでという方法が一番正しいとされていますね。…中略…でもドストエーフスキイ読みますと、アノ、長いですよね。…中略…今連載中の『一分ノ一』というのは『白痴』を読みながら、別にそれを採るっていうんじゃなくて、ある、こう何ていうんですかね、心構えといいますか、いつもドストエーフスキイはあるんです」。

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インタビューなので語り手の舌足らずな面もあり、氏はここでドストエフスキーの文体と姿勢について語っているにすぎないが、二作品が『罪と罰』や『白痴』を「側におきながら」書かれたという証言は重く、そこからは多くの興味ある類似点が派生する筈だ。

たとえば氏は別の箇所で「ドストエーフスキイの場合は、国家の作った法律よりも、こう、フォークロアっていいますかね、民間伝承とか諺でやってますね」と述べている。こうした民衆からの視点こそは長編小説『吉里吉里人』を支えていたものでもあった。そしてドストエフスキーには現代文明に対する鋭い危機意識とともに天下国家をも論じようとする広い視野があるが、それはまた、それ程前面には出ないにせよ井上氏の作品を特徴付けるものでもある。

それとともに、井上氏は「ドストエーフスキイの魅力」は「『謎解き・罪と罰』に全部出ていると思います」と述べながら、ドストエフスキーの「メチャクチャな」「名前のつけ方」や彼の笑いについて触れ、『罪と罰』が「叙情的でもありますし、反面、すごい叙事詩でもあるんですけど、それから哲学小説としても読めますけど」「滑稽小説」でもあるのだと主張し、「世の中つらいことばっかりあるわけじゃなくて、つらいことが九つあれば一つくらいバカバカしいオカシイことありますよね。それがやっぱり小説にも反映しなきゃいけないと思うんです」と語っているが、それは井上氏の小説作法の根幹に係わるものでもあるだろう。

さらに、第一章「あんだ旅券は持って居たが」、第二章「俺達の国語は可愛がれ」といった『吉里吉里人』の章の命名方が『カラマーゾフの兄弟』の章の題名を思い起こさせることも付記しておきたい。

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この対談で私の最も印象深かったのは、氏が一番好きな作品として『貧しき人々』を挙げ「あれは最高ですね、何ともいえないですね、あれはもう僕にとってですけど、世界の文学のトップですね、あんないい小説ないですね」と語り、「いつ読まれたんですか」という問いに「あれは随分前です」と答えながら、「あれが僕の妙な部分を作っていると思いますね」とまで述べている箇所である。

初めは少し意外な感じもしたが、しかしユーモアとペーソスを持って中年の官吏とみなし子の乙女の心理を描きながら、同時に彼らの視線を通してペテルブルグやロシアの生活の全体像にまで肉迫しえている『貧しき人々』と井上文学は、確かに奥深いところで結び付いているようだ。

たとえば氏には『頭痛肩こり樋口一葉』という女性ばかり六人が登場する戯曲がある。同じインタビューで氏は「アノ、家庭といいますか、ある小さな共同体の移り変わりが、宇宙の移り変わりと、こう照合していて、何も大ゲサなことをやらなくても、深く五・六人のことを書けば、そのうしろに宇宙があるっていうのは、まあ、チェーホフから影響を受けていますね」と語っているので、この戯曲もチェーホフとの関連で論じるべきかもしれない。

だが『貧しき人々』について語った氏の言葉を読んで、私が真っ先に思い浮かべたのはこの作品だったのだ。むろん、直接的な影響を指摘することはできない。しかし『貧しき人々』がプーシキンやゴーゴリの作品をとりあげながら、その文学的業績を積極的に吸収しようとしていた作品であり、さらにその女主人公ワルワーラも一葉と同じように文学を愛した貧しく病弱な女性であったこと、そして何よりもそこではワルワーラの生きかたを通して「女性の不幸は、男性の不幸でもある」という思想が語られていたことを思い起こすなら、これら二つの作品の結び付きはかなり強いと言えるのではないだろうか。

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最後に、ここに挙げられた作品以外で両者の関係を物語っていると思われる二編を紹介してこの小論の結びとしたい。

昭和四九年の井上氏の作品に『合牢者』という短編がある。この作品の主な登場人物の原田と矢飼は共に明治初期の貧乏巡査であるが、一方の原田は内田魯庵訳の『罪と罰』を読みラスコーリニコフの考えに共鳴して、悪辣な質屋の未亡人を殺す。もう一人の巡査矢飼は上司の命令で、罪を認めない原田のアリバイを崩すために同じ牢に入り事実を聞き出そうとする。

しかし、原田の不幸な境遇に同情を覚え、「真実などどうでもよくなった」時に彼は事実を語られ、しかも上司からはそのまま牢に留まっているか昇格を選ぶかと迫られて事実を告げてしまう。小説は「堂々と罪を犯し、くだる罰を発止と受けとめて」死刑になった原田を思いながら「小説が人間よりも小さいのか、あるいは大きいのか、おれにはいまだによくわからないが、あいつのことを考えるたびに、小説は人間より大である、というような気がしてならぬ」という原田の感慨で終わる。この短編では『罪と罰』は単に原田の犯行を動機付けしているばかりでなく、小説の主題とも重なり、また小説全体の筋にも関わっている。

『私家版 日本語文法』(昭和五三年から五五年)で井上氏は、雨乞唄を紹介しながらその「言葉の冗舌性と技巧」にふれて、先人たちには「必要があれば八百でもウソをついてひとつの願いを成就させようという意気込みが」あったと述べ、「筆者は不真面目だから、ひとつの誠を言うために八百のウソをつく方へ行くしかない」と述べている。

全体にドストエフスキーと同様井上氏にも言葉、殊に嘘に対する考察や言及が多いのだが、この箇所は「僕が人間なのは嘘をつくからなんだ」と述べさらに「嘘をついていれば――真理まで達せるのだ」と主張する『罪と罰』のラズミーヒンの言葉と殆ど重なっているように見える。ここにも井上ひさし氏の文学とドストエフスキーとの深いかかわりをみるのは、筆者の思い入れがすぎるだろうか。

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〈同人誌『人間の場から』(第13号、1988年)に掲載された初出時の題名は、「見ることと演じること(四)――記憶について」。後にその一部が「ドストエーフスキイと井上ひさし」という題で「ドストエーフスキイの会会報」(第107号、1989年)および、『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅳ』、244~245頁に転載される。本稿では地の文の表記をドストエフスキーで統一するとともに、誤記や文体レベルの簡単な改訂を行った〉。