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『ドストエーフスキイ広場』発刊の頃――会発足50周年を迎えて

『ドストエーフスキイ広場』発刊の頃――会発足50周年を迎えて

「ドストエーフスキイの会」は今年50周年を迎えます。

それを記念した『ドストエーフスキイ広場』(第28号)に標記のエッセーを寄稿しましたので、以下に転載します。

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(表紙/小山田チカエ)

   来年が「ドストエーフスキイの会」発足から五〇周年にあたるため、急遽、特集を組むことが決まったが、発刊当時は三号雑誌で終わることも危惧された『ドストエーフスキイ広場』(以下、『広場』と略す)も現在は第二八号に至っている。

それゆえ、ここでは『広場』発刊の頃から千葉大学で開催された国際ドストエフスキー・研究集会での主要論文の邦訳も掲載されている『広場』の第一〇号の時期までを簡単に振り返ることで「ドストエーフスキイの会」の歩みの一端を記すことにしたい。

一九八九年にユーゴスラヴィアのリュブリャーナで開かれた「国際ドストエフスキー・シンポジウム」に参加して、多くの著名な研究者たちから強い知的刺激を受けたばかりでなく、当時の東欧情勢にも強い関心を抱いた私は、日本からの情報の発信の必要性も痛感した。それゆえ、事務局の方々との相談を踏まえて、私は翌年の三月に発行された「会報」の一一二号に機関誌の発刊について次のような「提言」を記した(『場』第四号、二八八頁参照)。少し長くなるが、当時の会の状況が分かるので、読みやすいように改行をほどこした形で引用する。

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 〔「会報」が百号に差しかかる頃から「会報」の紙面の刷新や新しい試みが度々話題になり始めましたが、その十分な成果がなかなか表われないまま、予算的な状況から「ドストエーフスキイ研究」の続刊は難しくなり、またそれに伴って「場」4号の発行も見合わされる中で、「会も一応その役割を果たしたので会を閉じてもよいのではないだろうか」という意見も会員の間から聞こえてくるようになりました。

確かに「ドストエーフスキイの会」も約二十年を経て、新しい情報や新しい視点も一応一通り出ており、四ケ月毎に出す会報に新しい情報が満載されているというような状況は難しくなってきていると思えます。

しかし、「ドストエーフスキイの会」は既にその存在意義を失う程に老いたのでしょうか。いささか僭越な気もしますが、二次会の席で語り合い、また事務局の人々と相談する中である程度共通の意見が固まってきたようなので、以下にその概要を提言という形で述べさせて頂きたいと思います。

結論的に言えば、会は老いたのではなく、活発な青年期から壮年期へとさしかかって来ているのであり、問題の多くはやはり「会報」の性格にあるように思えます。確かに年に四回発行される「会報」は受け取った情報を素早く提供する点で、多くの長所を持っています。しかし、約二十年を経た現在、会は与えられた情報についてじっくりと考え、多少ともまとまった仕事をしていく段階に入ってきたと言えるのではないでしょうか。そして、その意味でも情報の速さが長所の会報の形から、少し遅くとも十分のスペースをとって発表できる年刊の機関誌の形へと脱皮する時期が来ていると思えるのです。

「研究」や「場」の続刊は当面難しいとすれば、両者の発展的解消として「機関誌」を創刊し、両者の試みを継承しながら、同時に、小説などの掲載も可能な「ドストエーフスキイの読者の自由なテーマの発表の場」としての側面も持てればと思います。

また、この会の研究動向は海外でもかなり注目を浴びているようです。外国との連携をいっそう深める意味でも、その年度のドストエーフスキイ関係の文献目録を載せるだけでなく、欧文の目次やレジュメなども載せられれば一層充実したものになると思います。少し調べましたところ、年誌の形態で、報告論文については四百字・二〇枚×五本、エッセー、小論は五枚×十二本程度までなら現行の会の予算でまかなえそうです。それを越える枚数は一定の割合での執筆者負担ということも考えられます。

 以上、いろいろと書き連ねましたが、勝手な思い込みもあるかも知れません。忌憚のないご意見をお聞かせ願えれば幸いです。〕

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幸い会員としては古参ではないにもかかわらず、私の提言は総会でも受け入れられて決議からあまり時間なかったが七本の論文と四本のエッセー、資料が集まり、「会報」と同じ「リコープリント」の印刷と製本で発刊にこぎつけることができた(注:資料参照)。『広場』の創刊号には次のような言葉で結ばれている「発刊の辞」が「発刊編集委員会」の名前で掲載された。

 「会発足の精神そのものが、『開かれた場』である以上、この会誌自体も『開かれた場』でなければならないだろう。これは私達にとってのペレストロイカである。試行錯誤を重ねながらも、新しい方向の定着を目指して、共同の努力をしたい。」

 ただ、残念なことに機関誌の編集に入った頃から暗雲を伴い始めていた湾岸情勢はさらに悪化して、一月一七日未明に戦争へと突入してしまった。このような情勢を受けて私は編集後記でこう記した。

〔「隣国を武力で併合したフセイン大統領の非は議論の余地無く明らかです。けれども、他国の武力併合に対する制裁として、武力行使の権利を与えた「国連決議」もまた論理的には矛盾していると言わなければならないでしょう。(……)ペレストロイカに連動して、新しい世紀への希望がふくらみかけていた世界は、暗い世紀末の様相すら示し始めているように思えます。ただ、このような困難な時代にこそ悲観的にならずに、冷静に現実を見つめ、ドストエーフスキイを媒介としながら根本的に問題を考えていくことが必要とされるのだと思います。

今回は大きな企画を立てることはできませんでしたが、冷牟田氏の協力で論文の題名の英訳を、安藤氏や本間氏の協力で資料を載せることができました。また、表紙には会員の小山田氏の絵を、そして装丁には渡辺氏の力をお借りすることができました。次回には「旧著新刊」のコーナーを設けて、会員の本を中心に図書の紹介もしたいと考えていますので、自薦他薦を問わず原稿をお届け頂ければと思っています。

機関誌の題名は「ドストエーフスキイの場」という案が有力でしたが、決定的なものに欠け、なかなか決まりませんでした。新谷先生も出席された最後の編集会議で「場」の代わりに「広場」ではどうかという案が出てようやく名前がつきました。

 初めは少し違和感もありましたが、何回も口に出してみるとだんだんと愛着がわいてくるよい名前だと思えます。ドストエーフスキイの「広場」に多くの人が集い、語り合い、時には互いに激しく論争し合うことによって、時代を模索し、少しでも何か新しいものを生み出せたらと思っています。(後略)」

 こうして、湾岸戦争後にソ連が崩壊し、東欧情勢も混迷の度合いを深める中で発刊された『広場』は発刊された。ただ、木下現代表が学務で忙しくなり、井桁貞義氏も学会などで多忙をきわめることになったために、私が事務局の代理を引き受けることになり池田和彦氏の助力と運営委員や多くの会員の方々の協力を得てなんとか毎年、欠かさずに発行することができた。

この時期の講演会や論文は「ドストエーフスキイの会」のホームページに掲載されている機関誌の目次からもうかがうことができるが、文芸講演会だけを拾っても川崎浹氏、新谷敬三郎氏、江川卓氏、井桁貞義氏などのドストエフスキー研究者だけでなく、評論家の富岡幸一郎氏や哲学者の中村雄二郎氏、夏目漱石の研究者・小森陽一氏の講演が毎年早稲田大学の会議室などで開かれた。

私自身にとって印象深かったのは、一九九六年に会員の横尾和博氏と作家の立松和平氏の講演会を、一九九八年にも作家・辻原登氏の講演会を東海大学松前記念館講堂で多くの聴衆を集めて開催することができたことである。

この時期の会の大きな活動の柱の一つになったのが、北海道大学教授の安藤厚氏を代表とし、木下豊房氏と望月哲夫氏を研究分担者とする共同研究会が立ち上げられて科学研究費による研究会が開かれ、国際ドストエフスキー・シンポジウムとも連動して活発な発表と交流が行われたことである(一九九六年~九八年)。その成果は二〇〇一年に木下豊房・安藤厚編著『論集・ドストエフスキーと現代――研究のプリズム』(多賀出版)として発行された。

また、一九九九年には懸案だった『場』の四号が発行され、未収だった一九八三年から一九九〇年までの「会報」すべてを収録することができた。

そのような活発な研究活動を反映して、二〇〇〇年には「二一世紀人類の課題とドストエフスキー」と題した国際ドストエフスキー研究集会が木下代表により千葉大学で開催された。その時の発表論文は『広場』だけでなく、«XXI век глазами Достоевского: перспективы человечества» という題名でモスクワでも発行された。

しかも、その際の経験はブルガリア・ドストエフスキー協会会長のディミトロフ教授が私に語ったように、昨年行われたブルガリア・ソフィア大学での国際ドストエフスキー・シンポジウムの開催に際しても活かされることになった。

以上、一九九〇年の『広場』創刊から約一〇年間を簡単に資料などに基づきながら振り返った。その後、今度は私が学務などに追われて次第に会の運営から遠ざかるようになり復帰したのは二〇〇九年のことであったが、その折にはネットの普及などにより編集方法が大幅に変わっていたことに驚かされた。それゆえ、この短い文章が呼び水となって当時の記憶を呼び戻し関心を高めて、会の創設期や二〇〇〇年以降の会の活動などに関する多くのエッセーや報告が次号で集まり、さらなる活発な研究へとつながることができれば幸いである。

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資料として『ドストエーフスキイ広場』(創刊号、1991年)の「目次」を以下に掲げておきます。

 

発刊の言葉

論文

『分身』の現在……横尾和博

キリーロフの分裂……――冷牟田幸子

『悪霊』について――神話的心理学的側面からの考察……清水正

エッセイ

ドストエフスキーとベケット……高堂要 

薄命の二つの死……小山田チカエ

発刊に際して……田中幸治 

トルストイとドスドフスキー……中曽根伝

論文

跳躍の失敗――『貧しき人びと』論……藤倉孝一純

ユートピアと千年王国――ドストエフスキーとベトラシェフスキー事件……一北岡浮

ドストエーフスキイのプーシキソ観――共生の思想を求めて……高橋誠一郎 

二葉亭四迷におけるドストエフスキー――『其面影』・『平凡』をめぐって……木下豊房

報告

札幌・小樽の「ドスドフスキー展」について……安藤厚

文献目録

ドストエフスキイ関係研究文献一1985~1990一 ……本間暁

規約、活動報告、編集後記

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