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安倍政権による新たな「琉球処分」と司馬遼太郎の沖縄観

安倍政権による新たな「琉球処分」と司馬遼太郎の沖縄観

 

新たな「琉球処分」とも呼ばれる安倍政権による辺野古新基地の強行が進む中、ついに警視庁の機動隊が100人規模で投入されました。

沖縄がようやくアメリカから返還された2年後の1974年に沖縄を訪れた司馬氏は、『沖縄・先島への道』で東南アジアでの交易で栄えた琉球王朝の華やかな歴史を振り返りながら、薩摩藩による琉球支配以降の沖縄の歴史を詳しく考察していました。

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(グスク跡、写真は「ウィキペディア」より)

ここでは拙著 『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の第三章〈「国民国家」史観の批判――『沖縄・先島への道』(1974)〉から、一部記述を改めた上で引用しておきます。

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東南アジアでの交易で栄えた琉球王朝の華やかな歴史や、一六〇九年以降の薩摩藩による琉球支配を振り返ったあとで、司馬は「明治国家は、島津のような遣らずぶったくりではなく、多少の施設はつくった。明治十七年に診療所ができ、明治十八年に小学校ができた」と沖縄の近代化を一応は評価した。だが司馬はそれに続けて「明治国家が、あの世界税制史上もっとも非人間的なものとされる人頭税を廃止するのは、明治三十六年になってからである」とし、「昭和前期国家はさらにそれ以前の国家よりも重く、ついに沖縄本島を戦場にしてしまう」と書き、本来は「軽ければ軽いほどよく、単に住民の世話機関にとどまるべき」、国家が「取り憑いて血を吸う化けもののようなものであった」とすら書いた(「与那国島」)

それゆえ『沖縄・先島への道』における司馬の課題の一つは、近代西欧への追随となった「文明開化」の問題を根本から再検討することであったといえる。次のような文章はこのことと深く係わっていると思える。司馬は「嘉永六(一八五三)年江戸湾において幕府を脅しあげて開国をせまったペリーとその米国東洋艦隊が、『来年、もう一度くるからそれまでに返事をせよ』と言いのこしていったん上海にむかって去ったとき、途中、この海中にそびえる西表島に目をつけ、島陰に投錨している」ことに注意を促し、その時、艦隊に乗り組んでいた技師が「上陸して地質調査をしたところ、石炭が豊富であることがわかった」(「石垣・竹富島」)と書いた。

実際、幕府との交渉に際し「武力による上陸」を考えて、「戦時中と同様に乗組員を徹底的に訓練」していたペリー提督は、再度日本に訪れる前に沖縄で、「自分の要求全部に対して満足な回答を貰わなかったら、二百人の兵士を上陸させ」、「王宮を占領」すると言明して、「貯炭所の建設」などの要求を認めさせていたのである*2。

長崎で開国交渉を行っていたプチャーチン提督の秘書官であった作家のゴンチャローフは、ロシア艦隊がアメリカの艦隊よりも少し遅れて沖縄の那覇にも訪れた時に、七隻の艦隊を率いて江戸に出航したペリー提督が、沖縄に「石炭をストックする小屋」を建てているただけでなく、他国の艦船に対しては「この諸島を自国の保護下に引き取った」と書面で通告していることへの怒りを記している*3。

つまり、『沖縄・先島への道』での司馬の視線は、日本の近代化に大きな役割を果たしたペリーの開国交渉が、すでに沖縄の位置の戦略的な重要性を踏まえており、現在の基地の問題にも直結していることを見ていたのである。

こうして、この作品の冒頭近くにおいて司馬は、「住民のほとんどが家をうしない、約十五万人の県民が死んだ」太平洋戦争時の沖縄戦にふれつつ、「沖縄について物を考えるとき、つねにこのことに至ると、自分が生きていることが罪であるような物憂さが襲って」くると書いている。

さらに、その頃論じ始められていた沖縄の独立論に触れつつ、「明治後、『日本』になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじになってしまう。ここ数年間そのことを考えてみたが、圧倒的に同じになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える」という重たい感想を記すのである(「那覇・糸満」)。

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現在、安倍政権によって行われている新たな「琉球処分」のニュースを見ていると日本の政治が明治維新以降もほとんど変わっていないという感を深くします。

比較文明学者の神川正彦氏は西欧の「一九世紀〈近代〉パラダイム」を根本的に問い直すには、「欧化」の問題を「〈中心ー周辺〉の基本枠組においてはっきりと位置づけ」ることや、「〈土着〉という軸を本当に民衆レベルにまで掘り下げる」ことの重要性を指摘していました(『比較文明文化への道――日本文明の多元性』刀水書房、2005年)。

方法論的にはそれほど体系化はされていないにせよ司馬遼太郎氏も、明治維新や日露戦争などの分析と考察を通して同じ様な問題意識にたどり着き、「辺境」に位置する沖縄の歴史の考察を行った『沖縄・先島への道』を経て、ナポレオンと同じ年に淡路島で生まれた高田屋嘉兵衛の生涯を描いた『菜の花の沖』(1979~82)では、日露の「文明の衝突」の危険性を防いだ主人公を生みだした「江戸文明」の独自性とその意味を明らかにしていたのです。

少し長くなりますが、「[警視庁機動隊投入]辺野古から撤退させよ」という題名の11月6日付けの「沖縄タイムズ」の社説を以下に掲載します。

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名護市辺野古の新基地建設をめぐり、市民の抗議行動が続く米軍キャンプ・シュワブゲート前に、警視庁の機動隊が100人規模で投入されている。辺野古で県外の機動隊が市民に直接対峙(たいじ)するのは初めてだ。少なくとも年内の予定で、来年まで延長する可能性もあるという。

警視庁の機動隊といえば、「鬼」「疾風」などの異名を各隊が持つ屈強な部隊。都内でデモ対応などの経験があり、即応力を備える「精鋭」たちだ。

かたやゲート前で反対の声を上げるのは、辺野古に新基地を造らせない、との一念で集まった市民ら。過酷な沖縄戦やその後の米軍支配下を生き抜いてきたお年寄りの姿もある。

国内外の要人が出席するイベント開催に伴う一時的な警備ならともかく、非暴力の市民の行動に対応するために、「精鋭」部隊を投入するのは極めて異例だ。

ゲート前の警備態勢が長期化し、県警内での人繰りが厳しくなる中、県公安委員会を通し警視庁に応援部隊の派遣を要請していたという。

政府側は県警の要望だったと強調し、関与を否定している。だが、何が何でも新基地を造るという強硬姿勢を再三見せられてきた県民にとって、反対運動を萎縮させ、弱体化を狙う意図が働いているとしか思えない。

そもそも、これまでの政府の強権的な姿勢が、抗議活動の「激化」を招いた。政府はその事実を重く受け止めるべきだ。

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警察法は、警察の責務の遂行に当たり「日本国憲法の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用(らんよう)することがあってはならない」と定めている。

抗議のために座り込みをする市民を警察官が強制的に排除し、老若男女を問わず力ずくで押さえ込む。機動隊とのもみ合いの中でけが人も出ている。こうした状況は、法の理念に反しているというほかない。

環境保護団体グリーンピース・ジャパンへの沖縄総合事務局の対応も疑問だ。同団体の船「虹の戦士号」が辺野古沖に停泊するための申請を、総合事務局が却下した。「混乱が生じやすくなるため安全確保ができない」というのが理由だ。

だが、詳細な予定行動表や停泊ポイントは事前に海上保安庁に伝えていた。停泊を認めないのは、辺野古の実態を世界に発信するのを阻むためではないか。

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地方自治法に基づく国の代執行の手続きで、翁長雄志知事は6日、埋め立て承認取り消しの是正を求めた国土交通相の勧告に対し、拒否する意向を文書で通知する。これを受け国交相は、勧告の次の段階に当たる是正の「指示」をするとみられる。

沖縄の民意を無視し、権力で押さえ付けて意に沿わせようとする。新たな「琉球処分」とも指摘されるこうした事態が進めば、不測の事態が起こりかねない。政府は、正当性のない新基地建設工事を止め、警視庁機動隊を撤退させるべきだ。

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