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徳富蘇峰

北村透谷と内村鑑三の「不敬事件」――「教育勅語」とキリスト教の問題

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) で、宗教学者の島薗進氏は、「教育勅語」と「国家神道」のつながりをこう説明しています。

「教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば、『皇道』というものが、国民の心とからだの一部になっていったのです。/事実、この時期から、国家神道とそれを支持する人々によって、信教の自由、思想・良心の自由を脅かす事態がたびたび生じています。/たとえば、一八九一年に起きた内村鑑三不敬事件です」(108~109)。。

今回はその影響を明治期の『文学界』(1893~98)の精神的なリーダーであった北村透谷と徳富蘇峰の民友社との関係を通して考察することにします。

*   *   *

透谷が評論「『罪と罰』の殺人罪」において、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)ふべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と書いたのは大日本国帝国憲法が発布されてから4年後の1893年のことでした。

この記述を初めて読んだ時には、長編小説『罪と罰』に対する理解力の深さに驚かされたのですが、この時代を調べるなかでこのような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、権力者の横暴を制止するために「憲法」や「国会」の開設を求める厳しい流れの中での苦しい体験と考察の結果でもあったことが分かりました。

ことに注目したいのは、明治憲法の翌年に渙発された「教育勅語」の渙発とその影響です。たとえば、1891年1月には第一高等中学校教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して敬礼はしたが最敬礼をしなかったために、「国賊」「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされたといういわゆる不敬事件がおきていたのです。

しかも、ドイツ留学から帰国して東京帝国大学の文学部哲学科教授に任ぜられ『勅語衍義(えんぎ)』を出版していた井上哲次郎は、1893年4月に『教育ト宗教ノ衝突』を著して、改めて内村鑑三の行動を例に挙げながらキリスト教を、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難しました。それに対しては本多庸一、横井時雄、植村正久などのキリスト者が反論をしましたが、ことに高橋五郎は徳富蘇峰の民友社から発行した『排偽哲学論』で、これらの人々の反論にもふれながら、「人を不孝不忠不義の大罪人と讒誣するは決して軽き事にあらず」として、比較宗教の視点から井上の所論を「偽哲学」と鋭く反駁していました。

しかし、比較文明学者の山本新が位置づけているように「不敬事件」として騒がれ、これを契機に「大量の棄教現象」を生みだすという結末をむかえたこの事件は「国粋主義」台頭のきっかけとなり、北村透谷もその流れに巻き込まれていくことになるのです。

すなわち、北村透谷は「井上博士と基督教徒」でこのことにも触れながら次のように記しています。少し読みづらいかもしれませんが、原文をそのまま引用しておきます(269~270)。

「『教育ト宗教ノ衝突』一篇世に出でゝ宗教界は忽ち雲雷を駆り来り、平素沈着をもて聞えたる人々までも口を極めて博士を論難するを見る。…中略…彼れ果して曲学者流の筆を弄せしか。夫れ或は然らん。然れども吾人は井上博士の衷情を察せざるを得ず。彼は大学にあり、彼は政府の雇人(こじん)なり、学者としての舞台は広からずして雇人としての舞台は甚だ窮屈なるものなることを察せざるべからず」。

ここで透谷はキリスト教徒としての自分の立場を堂々と主張しておらず、議論を避けているような観もあります。しかし、「思へば御気の毒の事なり」と書いた透谷は、「爰に至りて却て憶ふ、天下学者を礼せざるの甚しきを、而して学者も亦た自らを重んぜざること爰に至るかを思ふて、嘆息なき能はず」と結んでいました。公務員として「国家」の立場を強調する井上博士への批判はきわめて厳しい批判を秘めていると感じます。

実際、1892年には、『特命全権大使 米欧回覧実記』を編集していた帝国大学教授久米邦武が『史学雑誌』に載せた学術論文「神道ハ祭典ノ古俗」が批判されて職を辞していましたが、35年後の1927年には今度は井上が『我が国体と国民道徳』で書いた「三種の神器」に関する記述などが不敬にあたると批判されて、その本が発禁処分となったばかりでなく、自身も公職を辞職することになるのです。

この問題は「文章即ち事業なり」と冒頭で宣言し、「もし世を益せずんば空の空なるのみ。文章は事実なるがゆえに崇むべし」と続けて、頼山陽を高く評価した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」(明治二十六年一月)を厳しく批判した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(『文学界』第2号)にも通じていると思われます。

この文の冒頭で、「繊巧細弱なる文学は端なく江湖の嫌厭を招きて、異(あや)しきまでに反動の勢力を現はし来りぬ」と記した透谷は、その後で「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」と非常に激しい言辞を連ねていたのです。

キリスト教を「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として厳しく断じた著書に対する反論として書かれた「井上博士と基督教徒」は、激しさを抑えるような文体で書かかれていたので、この文章を読んだときには、その激しさに驚かされました。

しかし、愛山が民友社の『国民新聞』記者であったばかりでなく、キリスト教メソジスト派の雑誌『護教』の主筆として健筆をふるい、その合間には熱心に伝道活動をも行っていたことを考えるならば、「彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり。日本人は日本国の何物たるかを知れり。日本国の万国に勝れたる所以を知れり」と頼山陽の事業を讃えた愛山が、「天下の人心俄然(がぜん)として覚め、尊皇攘夷の声四海に遍(あまね)かりしもの、奚(いづくん)ぞ知らん彼が教訓の結果に非るを。嗚呼(あゝ)是れ頼襄の事業也」と結んでいることに怒りと強い危機感を覚えたのだと思えます。

実際、「尊皇攘夷」という儒教的な理念を唱えた愛山の史論は、日清戦争前に書いた初版の『吉田松陰』では、松陰が「無謀の攘夷論者」ではなく開国論者だったことを強調していながら、日露戦争後に著した「乃木希典の要請と校閲による」改訂版の『吉田松陰』では、「彼は実に膨張的帝国論者の先駆者なり」と位置づけることになる徳富蘇峰の変貌をも予告していたとさえいえるでしょう。

しかも、「教育勅語」の渙発によって変貌を余儀なくさせられたのは、キリスト者だけではありませんでした。宗教学者の島薗氏は先の書で「天理教も、その教義の内容が行政やマスコミ、地域住民、宗教界から批判を受け、教義の中に国家神道の装いを組み込まざるを得ませんでした」と指摘していたのです。

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「終戦70年」の節目に当たる今年の8月に発表された「安倍談話」で、「二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」と語り始めた安倍晋三氏は、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と終戦よりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃えていました。

この文章を目にした時には、思わず苦笑してしまいましたが、それはここで語られた言葉が、1996年に司馬遼太郎氏が亡くなった後で勃発した、いわゆる「司馬史観」論争に際して、「戦う気概」を持っていた明治の人々が描かれている『坂の上の雲』のような歴史観が日本のこれからの歴史教育には必要だとするキャンペーンときわめて似ていたからです。

たとえば、本ブログでもたびたび言及した思想家の徳富蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において「愛国心」を強調することによって「臣民」に犠牲を強いつつ軍国主義に邁進させていましたが、「大正の青年」の分析に注目した「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰が指摘し得ていたとして高く評価していたのです(*1)。

そして、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとした坂本氏は、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調したのです。

このような蘇峰の歴史観を再評価しようとする流れの中で、日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』でも、「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈も出てきていていました(*2)。

このような歴史の見直しの機運に乗じて、司馬遼太郎氏が亡なられた翌年の1997年には、安倍晋三氏を事務局長として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられていたのです。

*   *   *

しかし、気を付けなければならないのは、かつて勝利した戦争をどのように評価するかが、その国の将来に強い影響を与えてきたことです。たとえば、ロシアの作家トルストイが、『戦争と平和』で描いた、「大国」フランスに勝利した1812年の「祖国戦争」の勝利は、その後の歴史家などによってロシア人の勇敢さを示した戦争として讃美されることも多かったのです。

第一次世界大戦での敗戦後にヒトラーも、『わが闘争』において当時の小国プロシアがフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「新たな戦争」への覚悟を国民に求めていました。

一方、日本でもイラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、日露戦争を讃美することで戦争への参加を許容するような雰囲気を盛り上げようとして製作しようとしたのが、NHKのスペシャルドラマ《坂の上の雲》でした*3。

残念ながら、このスペシャルドラマが3年間にわたって、しかもその間に財界人岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬を描いた《龍馬伝》を放映することで、戦争への批判を和らげたばかりでなく、武器を売って儲けることに対する国民の抵抗感や危機感を薄めることにも成功したようです。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

こうしてNHKを自民党の「広報」的な機関とすることに成功した安倍政権が、戦後70年かけて定着した「日本国憲法」の「平和主義」だけではなく、「立憲主義」や「民主主義」をも制限できるように「改憲」しようとして失敗し、取りあえず「解釈改憲」で実施しようとして強硬に「戦争法案」を可決したのが「9.17事変」*4だったのです。

 

*1 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、1996年、129~136頁。

*2 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、1996年、51~69頁。

*3 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、2004四年11月号、産経新聞社。

*4 この用語については、〈リメンバー、9.17 ――「忘れる文化」と記憶の力〉参照)。

元NHK経営委員・百田尚樹氏の新聞観と徳富蘇峰の『国民新聞』

日本の骨格を戦前へと覆してしまうような「戦争法案」の審議が厳しさを増す中で、強い危機感を覚えたと思える安倍晋三氏の周辺からは驚くような発言が次々となされています。

今日も〈麻生財務相の箝口令と「秘められた核武装論者」の人数〉という記事を書き終えた後で、〈百田氏:「言論弾圧でも何でもない」 沖縄の新聞発言で〉という見出しの記事が目に飛び込んできました。

毎日新聞デジタル版によれば、7日に東京都内で記者会見を行った百田氏は、自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」で「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」などと自分が発言したことに関して、「一民間人がどこで何を言おうと言論弾圧でも何でもない」と述べたとのことです(太字は引用者)。

しかし、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』があり、さらには元NHK経営委員を務めた百田氏を「一民間人」とみなすことはできないでしょう。 実際、当初は百田氏を擁護していた安倍首相が3日の「衆院特別委員会」で「心からおわび」との発言をしたのに続き、菅官房長官も翁長知事との4日夜の会談で、沖縄をめぐる発言について「ご迷惑を掛けて申し訳ない」と陳謝していたのです。

*   *

「全新聞が(自身の発言を)許さんと怒って、集団的自衛権の行使や、と思った」とも話した百田氏が、「あらためて沖縄の二つの新聞はクズやな、と思った」と発言したことも伝えられています。

ここで思い出して起きたいのは、『永遠の0(ゼロ)』で「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則に、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけさせた百田氏が、「反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた」とも語らせていたことです。

しかし、以前にも指摘したことですが、「戦時中の言論統一と予」と題した節で德富蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていました(『蘇峰自伝』中央公論社、1935年)。

つまり、德富蘇峰の『国民新聞』が「焼き討ち」されたのは彼が「反戦を主張した」からではなく、最初は戦争を煽りつつ、戦争の厳しい状況を知った後ではその状況を隠して「講和」を支持し、「内閣の政策の正しさを宣伝」したからであり、その「御用新聞」的な性格に対して民衆が怒りの矛先を向けたからだったのです(拙著『ゴジラの哀しみ』、110~111頁)。

「あらためて沖縄の二つの新聞はクズやな、と思った」と発言した百田氏の発言からも、『国民新聞』の徳富蘇峰やNHKの籾井会長と同じように「事実」ではなく、「権力者」が伝えたいと願っていることを報道するのが、新聞や報道機関の義務であると考えている可能性が高いと思われます。

*   *

「東京新聞」の今日の夕刊によれば、「戦後七十年談話」を14日に閣議決定するために首相と7日夜に会談した公明党代表の山口那津男氏は、談話に先の大戦に関する謝罪の表現を盛り込むよう求めたとのことです。

その発言からは急速に高まっている公明党に対する批判を避けようとする意図が感じられますが、そのような目くらましのような要求ではなく、「核武装」を公言した武藤議員の辞職だけでなく、元NHKの経営委員でありながら安倍内閣の意向を反映して「言論弾圧」とも思えるような発言を繰り返している百田氏を選んだNHKの籾井会長の辞任をも求めることが与党の公明党には求められていると思えます。

(2019年1月6日、改題)

武藤貴也議員の発言と『永遠の0(ゼロ)』の歴史認識・「道徳」観

自民党の武藤貴也衆院議員(36才)がツイッターで、「自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs=シールズ)」の行動を「極端な利己的な考え」と非難していたことが判明しました。

「毎日新聞」のデジタル版は村尾哲氏の署名入りで次のように報じています(太字は引用者)。

*   *

武藤氏は「彼ら彼女らの主張は『戦争に行きたくない』という自己中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろうが、非常に残念だ」と書き込んだ。

民主党の枝野幸男幹事長は3日、記者団に「自分が戦争に行きたくない、みたいなレベルでしか受け止めておらず、法案の問題や本質を理解していない。戦後の平和主義、民主主義が積み重ねられてきた歴史に、全く目が向いていない」と追及する考えを示した。維新の党の柿沢未途幹事長も「権力を持っている政党の所属議員として、もってのほかの発言だ」と批判した。

*   *

安全保障関連法案について「法的安定性は関係ない」と発言した礒崎陽輔首相補佐官の場合と同じように問題は、「表現」レベルにとどまるものではなく、より深く「歴史認識」にも関わっているでしょう。

端的に私の感想を記せば、作家の百田尚樹氏を講師として招いた自民党若手の勉強会「文化芸術懇話会」にも出席していた武藤議員の発言からは、小説『永遠の0(ゼロ)』からの強い影響が見られることです。

なぜならば第7章「狂気」で百田氏は戦時中に小学校の同級生の女性と結婚した特攻兵の谷川に、戦場で命を賭けて戦っていた自分たちと日本国内で暮らしていた住民を比較して、「戦争が終わって村に帰ると、村の人々のわしを見る目が変わっていた」と語らせ、「昨日まで『鬼畜米英』と言っていた連中は一転して『アメリカ万歳』と言っていた。村の英雄だったわしは村の疫病神になっていたのだ」という激しい怒りの言葉を吐かせていました。

ここには現実認識の間違いや論理のすり替えがあり、「一億玉砕」が叫ばれた日本の国内でも学生や主婦に竹槍の訓練が行われ、彼らは大空襲に襲われながら生活していたのです。

また「鬼畜米英」というような「憎悪表現」を好んで用いていたのは、戦争を煽っていた人たちで一般の国民はそのような表現に違和感を覚えながら、処罰を恐れて黙って従っていたと思われます。映画《少年H》でも描かれていたように、戦後になると一転して「アメリカ万歳」と言い始めたのも庶民ではなく、「時流」を見るのに敏感な政治家たちだったのです。

しかし、百田氏は谷川に「戦後の民主主義と繁栄は、日本人から『道徳』を奪った――と思う。/ 今、街には、自分さえよければいいという人間たちが溢れている。六十年前はそうではなかった」と語らせているのです。

この記述と「利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろう」という武藤議員の発言に強い類似性を感じるのは私だけでしょうか。

安倍政権は「積極的平和主義」を掲げて、憲法の改定も声高に語り始めていますが、「満州国」に深く関わった祖父の岸信介首相を尊敬する安倍氏が語る「積極的平和主義」からは、「日中戦争」や「太平洋戦争」の際に唱えられた「五族協和」「王道楽土」などの「美しいスローガン」が連想されます。

いまだに『永遠の0(ゼロ)』を反戦小説と弁護している人もいるようですが、この小説や共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』に影響を受けた若者からは、「白蟻」のように勇敢に戦死することを求める一方で*1、戦争の批判者を「非国民」としていた戦前の教育や言論弾圧を当然視するかのような発言を公然と行う武藤氏のような議員が育っているのです*2

武藤議員は衆院平和安全法制特別委員会のメンバーでもあったとのことですが、礒崎陽輔首相補佐官が作成に深く関わり、武藤議員のような自民党の議員によって強行採決された「安全保障関連法案」は、廃案とすべきでしょう。

*   *

*1 『国民新聞』の社主・徳冨蘇峰は、第一次世界大戦中の大正5年に発行した『大正の青年と帝国の前途』において、白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても「先頭から順次に」その中に飛び込み、「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを褒め称えていた。

さらに、敗色が濃厚になった1945年に著した「西南の役(二)――神風連の事変史」で、「大東亜聖戦の開始以来、わが国民は再び尊皇攘夷の真意義を玩味するを得た」とした蘇峰は、神風連の乱を「この意味から見れば、彼らは頑冥・固陋でなく、むしろ先見の明ありしといわねばならぬ」と高く評価した。

*2 武藤貴也「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観」より

「最近考えることがある。日本社会の様々な問題の根本原因は何なのかということを」と切り出した後藤氏は、「憲法の『国民主権・基本的人権の尊重・平和主義』こそが、「日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている」とし、「滅私奉公」の重要性を次のように説いている。

〈「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。…中略…国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。もちろんその根底には「滅私奉公」と いう「日本精神」があったことは言うまでも無い。だからこそ第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。〉   武藤貴也/オフィシャルブログ(2012年7月23日)

 

リンク→安全保障関連法案」の危険性と小説『永遠の0(ゼロ)』の構造

リンク→「安全保障関連法案」の危険性(4)――対談『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』

リンク→歪められた「司馬史観」――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(11)

(2015年8月5日、注を追加し、題名を変更)

「安全保障関連法案」の危険性と小説『永遠の0(ゼロ)』の構造

一、百田尚樹氏の発言と安倍政権の反応

安倍首相の再選を望む若手議員が6月25日に開催した「文化芸術懇話会」に講師として招かれた作家の百田直樹氏の発言が問題となっています。

すなわち、百田直樹氏が「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」などと発言したばかりでなく、現在の多くの住民は「周りは田んぼだらけだった」ところに、「飛行場の周りに行けば商売になるので住みだした」とも発言していたことが明らかになったのです。

これに対して2015年7月2日に行われた日本外国特派員協会での沖縄タイムスと琉球新報の二つの新聞社の合同記者会見では、「政権の意にそわない新聞報道は許さないんだという言論弾圧の発想」や、「百田さんの言葉を引き出した自民党の国会議員」の問題が指摘されました。

これらの批判を受けて、ようやく安倍首相が3日の「衆院特別委員会」で「心からおわび」との発言をしたのに続き、菅官房長官も翁長知事との4日夜の会談で、沖縄をめぐる発言について「ご迷惑を掛けて申し訳ない」と陳謝しました。

その一方で、多くの学者や報道関係者から審議が拙速であるとの厳しい批判が出ている「平和安全法制整備法案」については、今月の中旬には衆院を通過させるという与党の強引な方針も伝えられています。

「心からおわび」という言葉が真心を込めて語られたのならば、このような「言論弾圧」的な発言も飛び出した「平和安全法制整備法案」の審議は、次の議会に延期するのが「情理」にかなった行動でしょう。

二、作家百田尚樹氏の発言と小説『永遠の0(ゼロ)』の構造

問題は28日に行われた大阪府泉大津市での講演で百田氏が、自民党勉強会での「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」と語ったときは、「冗談口調だったが、今はもう本気でつぶれたらいいと思う」と話したばかりでなく、ツイッターに「私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞」と投稿したとも話していたことです。

しかし、「東京新聞」が7月5日朝刊一面の検証記事で記しているように、「飛行場の周りに行けば商売になるので住みだした」のではなく、「接収、やむなく周辺に」であり、「周りは田んぼだらけだった」という発言も、実際には「戦前は市の中心地域」だったことを明らかにしています。つまり、「公」の党の研究会での発言は、中傷やデマに近いたぐいの発言だったのです。

*   *

このような百田氏の発言から思い出されるのは、百田尚樹氏が小説『永遠の0(ゼロ)』の第9章で元特攻隊員だった武田に、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけさせ、新聞記者の髙山を次のように批判させていたことです。

「日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた。」(太字引用者)

しかし、『国民新聞』が焼き討ちされたのは、政府の「御用新聞」だったからであり、しかも、蘇峰は『大正の青年と帝国の前途』において、自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを褒め称えて、日本の兵士にもそのような「勇気」を求めていました。『蘇峰自伝』によれば蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、当時の内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたのです。

*   *

  『永遠の0』でも〈太平洋戦争の分岐点となったガダルカナルでの戦いを取り上げ、戦力の逐次投入による作戦の失敗や、参謀本部が兵站を軽視したことによって多くの兵士が餓死や病死したことが書かれて〉いることを指摘して、この小説を擁護する人もいます。

しかし、それらの引用されたような文章は読者の記憶には残らず、百田氏の本音が語られていると思われる新聞社批判の「情念」が、今回、彼を講師として招いたような人々の印象に深く刻まれていたのです。

しかも、今回の研究会に招かれた百田尚樹氏は単なる「文化人」ではなく、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)もあり、NHKの経営委員も務めた作家なのです。

「論理」よりも「情念」を重視する傾向がもともと強い日本では、疑うよりは人を信じたいと考える善良な人が、再び小説『永遠の0(ゼロ)』の構造にだまされて、戦争への道を歩み出す危険性が高いことをこのブログの記事で指摘してきました。

これらのことを考えるならば、共著者の安倍総理にも百田氏の発言に関しては「道義的な責任」があるだけでなく、安倍政権によって提出された「平和安全法制整備法案」にも、「情念」に訴えて一気に成立させようとする危険な側面があるように見えますので、より慎重な審議が求められるでしょう。

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侮辱された主人公――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(12)

ネタバレあり

単行本には次のような著者からのコメントが付けられていたとのことです。

この小説のテーマは「約束」です。

言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代の物語です。

しかし、読者からのコメントも添えておきましょう。

この小説のテーマは「詐欺」です。

言葉も命も、現代(いま)よりずっと軽かった時代の物語です。

小説『永遠の0(ゼロ)』がなぜ400万部を超えるほどに売れたか不思議でしたが、その理由は未だに「オレオレ詐欺」に騙されてしまう日本人が多いことと深く関連していると思われます。

*   *

『永遠の0(ゼロ)』が読者に「感動」を与えた理由は、司法試験に4度も落ちて「自信もやる気も失せて」いた主人公の健太郎が、関係者への取材をとおして祖父の生き方を知って自信を取り戻すという構造を持っているからでしょう。

すなわち、フリーのライターをしている姉の慶子から「ニート」と呼ばれていた「ぼく」は、姉の慶子から「本当のおじいさんがどんな人だったのか、とても興味があるわ。だってこれは自分のルーツなのよ」と説得されてこの企画に参加することになります。

この小説は、最初の取材では「海軍一の臆病者」、「何よりも命を惜しむ男だった」と非難された主人公の祖父が、取材をとおして「家族への深い愛」と奇跡的な操縦術を持つ勇敢なパイロットであったことが次第に明らかになるという構造をしています。

注目したいのは、「真珠湾」と題された第3章で健太郎が、「ぼくにガッツがないのも、久蔵じいさんの血が入っているせいかもしれないね」とこぼすと祖母の再婚相手だった祖父の大石が、「馬鹿なことをっ!」と怒鳴りつけるように言い、さらに「清子は小さい頃から頑張り屋だった。どんな時にも弱音を吐いたことがない」と説明したと記されていることです。

この文章からは、大石が血はつながっていない孫を温かく励ます祖父のように読めます。

しかし、「父が亡くなったのは26歳の時よ。今の健太郎と同じなのよ」(63)と語って自分の父・久蔵と息子との比較を行った健太郎の母・清子は、「父がどんな青年だったのかは、お母さんに教えてもらいたかったわ」と続けているのです。

*   *

映画《永遠の0(ゼロ)》の宣伝文では「60年間封印されていた、大いなる謎――時代を超えて解き明かされる、究極の愛の物語」と大きく謳われています。

実際、「流星」と題された第12章ではかつて大石が祖母の松乃に対して求婚した際には、「宮部さんは私にあなたと清子ちゃんのことを託したのです。それゆえ、わたしは生かされたのです。もし、それがかなわないなら、私の人生の意味はありません」とまで語っていたことが描かれています。

それほどまでに宮部のことを尊敬していたのならば、なぜ大石は「父がどんな青年だったのかは、お母さんに教えてもらいたかったわ」と願っていた松乃の娘・清子に、「命の大切」さを訴えていた宮部の理念を伝えようとせず、60年間も「沈黙を守り続けていた」のでしょうか。

*   *

おそらく、その最も大きな理由の一つは、この小説に「自分のルーツ」探し的な構造を持たせるためだと思われます。

たとえば、第5章の「ガダルカナル」で、「なぜ、今日まで生きてきたのか、いまわかりました。この話をあなたたちに語るために生かされてきたのです」と語った井崎源次郎は、「いつの日か、私が宮部さんに代わって、あなたたちにその話をするためだったのです」と続けています。

第6章ではラバウルで機体の整備にあたっていた永井が、久蔵がプロにもなれるような囲碁の名手であったとの逸話を語ります。

第8章の「桜花」では、「祖父の話を聞くのは辛い」と語った姉に対して、先の井崎の言葉を受けるかのように「ぼく」は、「でもね、ぼくは今度のことは何かの引き合わせのように感じてるんだ。六十年もの間、誰にもしられることのなかった宮部久蔵という人間が、今こうしてぼくの前に姿を見せ始めているんだ」と語り、さらに「奇跡」と言う単語を用いながら、「これって、もしかしたら奇跡のようなことじゃないかと思っている」と続けているのです。

*   *

作家・司馬遼太郎氏の言葉を用いて官僚制度の問題点が鋭く指摘されていた第7章「狂気」では、姉弟の次のような会話が描かれていました。

「もしかしたら官僚的組織になっていたからだと思う」

「そうか――責任を取らされないのは、エリート同士が相互にかばい合っているせいなのね」

(中略)

「でも、日本の軍隊の偉い人たちは、本当に兵士の命を道具みたいに思っていたのね」

「その最たるものが、特攻だよ」

ぼくは祖父の無念を思って目を閉じた。

*   *

「兵士の命を道具みたいに思っていた」、「その最たるものが、特攻だよ」と健太郎は結論していましたが、その問題を「特攻」だけに集約することはできないでしょう。

「命の大切」さを訴えていた祖父のことを詳しく大石から聞かされていれば、「白蟻」のような勇敢さで死ぬように教育されていた戦前の人々の苦しさや、「五族協和」が謳われた満州における「棄民政策」や原爆の問題点も、この姉弟はよく認識しえていたはずなのです。

進化した「オレオレ詐欺」では、様々な役を演じるグループの者が、重要な情報については「沈黙」しつつ、限られた情報を一方的に伝えることによって次第に被害者を信じ込ませていきます。

この小説でも宮部の内面が描かれることはなく「60年間封印されて」、第三者からの聞き取りを通して「生命を大切」にした「英雄・宮部」の「美しい死」が描かれているのです。

こうして、大石の沈黙こそが巧妙に構成された順番に従って登場する「特攻隊員」たちの語る言葉によって、「命の大切」さを訴えていた宮部の理念ではなく、一部上場企業の元社長・武田が賛美した徳富蘇峰と同じ思想を持つと思われる大石=百田氏の思想を植え付けることにつながっているのだと思われます。

妻や娘と再会するために「命を大切」にしていた宮部久蔵の最愛の松乃を自分のものとした善良なようにみえる大石賢一郎は、久蔵の大切な孫達の思想をも支配することになったのです。

大石の高笑いが聞こえるような終わり方ですが、その笑い声には「『平和ぼけ』して戦争の悲惨さを忘れてしまった日本人をだますことは簡単だ」とうそぶく作者の百田氏の声も重なって聞こえてくるようです。

「オレオレ詐欺」やこのような「美しい物語」を、簡単に信じ込んでしまうようになる遠因は、「テキスト」の内容に感情移入して「主観的に読む」ことが勧められるようになっている最近の「国語教育」にもあると思われます。文学作品の解釈においても「テキスト」の内容を前後関係や書かれた状況をも踏まえてきちんと分析し、読み解く能力が必要でしょう。

*   *

「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』」と題した今回のテーマは、思いがけず長いシリーズとなりました。

これまでは批判的な視点からこの作品を読み解いてきましたが、「生命を大切」さを訴えた主人公・宮部久蔵の理念には、権力に幻惑される前の百田氏の思いが核になっていたとも思われます。

次回はこのような宮部久蔵の理念を現代に生かすべき方法を考えることで、このシリーズを終えることにしたいと思います。

 

歪められた「司馬史観」――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(11)

前回の記事では、『永遠の0(ゼロ)』の第10章「阿修羅」と映画《紅の豚》で描かれた空中戦のシーンとを比較することにより、「豚のポルコ」と宮部との類似性を示すとともに、作品に描かれている女性たちと主人公との関係が正反対であることを指摘しました。

同じようなことが、いわゆる「司馬史観」との関係でも言えるようです。

*   *

宮崎駿監督が「書生」として司会を務めた鼎談集『時代の風音』(朝日文庫、1997)で司馬氏は、20世紀の大きな特徴の一つとして「大量に殺戮できる兵器を、機関銃から始まって最後に核まで至るもの」を作っただけでなく、「兵器は全部、人を殺すための道具ながら、これが進歩の証(あかし)」とされてきたことを厳しく批判していました(「二十世紀とは」)。

しかし、このような司馬氏の深い歴史観は、『永遠の0(ゼロ)』では矮小化された形で伝えられているのです。

*   *

第7章「狂気」では慶子が、「私、太平洋戦争のことで、いろいろ調べてみたの。それで、一つ気がついたことがあるの」と弟に語りかけ、「海軍の長官クラスの弱気なことよ」と告げる場面が描かれています。

さらに慶子は「これは私の個人的意見だけど」と断りながら、「もしかしたら、彼らの頭には常に出世という考えがあったような気がしてならないの」と語り、「出世だって――戦争しながら?」と問われると、「穿ちすぎかもしれないけど、そうとしか思えないフシがありすぎるのよ」と答えています。

その答えを聞くと「ぼくは心の中で唸った。姉の意外な知識の豊富さにも驚かされたが、それ以上に感心したのが、鋭い視点だった」と書かれています。

その言葉を裏付けるかのように、慶子はさらに「つまり試験の優等生がそのまま出世していくのよ。今の官僚と同じね」と語り、「ペーパーテストによる優等生」を厳しく批判しているのです。

*   *

慶子は「これは私の個人的意見だけど」と断っていましたが、いわゆる「司馬史観」をめぐって行われた論争に詳しい人ならば、これが司馬氏の官僚観を抜き出したものであることにすぐ気づくと思います。

すなわち、軍人や官吏が「ペーパーテストによって採用されていく」、「偏差値教育は日露戦争の後にもう始まって」いたとした司馬氏は、「全国の少年たちからピンセットで選ぶようにして秀才を選び、秀才教育」を施したが、それは日露戦争の勝利をもたらした「メッケルのやり方を丸暗記」してそれを繰り返したにすぎないとして、創造的な能力に欠ける昭和初期の将軍たちを生み出した画一的な教育制度や立身出世の問題点を厳しく批判していたのです(「秀才信仰と骨董兵器」『昭和という国家』)。

つまり、「ぼく」が「心の中で唸った」「鋭い視点」は、姉・慶子の視点ではなく、作家・司馬遼太郎氏の言葉から取られていたのです。

*   *

『永遠の0(ゼロ)』では姉・慶子の言葉を受けて、「ぼく」は次のような熱弁をふるいます。

「高級エリートの責任を追及しないのは陸軍も同じだよ。ガダルカナルで馬鹿げた作戦を繰り返した辻政信も何ら責任を問われていない。…中略…ちなみに辻はその昔ノモンハンでの稚拙な作戦で味方に大量の戦死者を出したにもかかわらず、これも責任は問われることなく、その後も出世しつづけた。代わって責任は現場の下級将校たちが取らされた。多くの連隊長クラスが自殺を強要されたらしい」(371頁)。

さらに、姉の「ひどい!」という言葉を受けて「ぼく」は、「ノモンハンの時、辻らの高級参謀がきちんと責任を取らされていたら、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない」と続けています。

*   *

実はこの記述こそは作家の司馬氏が血を吐くような思いで調べつつも、ついに小説化できなかった歴史的事実なのです。

「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、連隊長として戦闘に参加した須見新一郎元大佐の証言をとおして、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と指摘し、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよと命じた」ことを作家・井上ひさし氏との対談で紹介していたのです(『国家・宗教・日本人』)。

司馬氏が心血を注いで構想を練っていたこの長編小説は、取材のために、商事会社の副社長となり政財界で大きな影響力を持つようになっていた元大本営参謀の瀬島龍三氏との対談を行ったことから挫折していました。

この対談記事を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」、「これまでの話した内容は使ってはならない」との激しい言葉を連ねた絶縁状を司馬氏に送りつけたのです(半藤一利「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

リンク→《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志(2013年10月6日 )

*   *

問題は、このような姉・慶子の変化や「ぼく」の参謀観が新聞記者の高山隆司と「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則との対決が描かれている第9章の前に描かれているために、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけた武田の次のような言葉を正当化してしまっていることです。すでにこのブログでも記しましたが、重要な箇所なのでもう一度、引用しておきます。

「日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた。」

しかし、「戦時中の言論統一と予」と題した節で德富蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていました(徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、1935年)。

つまり、思想家・德富蘇峰の『国民新聞』が「焼き討ち」されたのは彼が「反戦を主張した」からではなく、最初は戦争を煽りつつ、戦争の厳しい状況を知った後ではその状況を隠して「講和」を支持し、「内閣の政策の正しさを宣伝」したからであり、その「御用新聞」的な性格に対して民衆が怒りの矛先を向けたからだったのです。

*   *

司馬氏は日露戦争以降の日本で強まった「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を長編小説『坂の上の雲』で厳しく批判していました。

そのような哲学を広めた代表的な思想家の一人が、『国民新聞』の社主でもあった徳富蘇峰でした。彼は第一次世界大戦中に書いた『大正の青年と帝国の前途』においては白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」と記すようになります。

こうして蘇峰は、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを大正の青年が持つように教育すべきだと説いていたのですが、作家の司馬遼太郎氏が亡くなられた後で起きた1996年の「司馬史観」論争の後では『坂の上の雲』を「戦争の気概」を持った明治の人々を描いた歴史小説と矮小化する解釈が広まりました。

ことに、その翌年に安倍晋三氏を事務局長とする「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられると、戦後の歴史教育を見直す動きが始まったのです。

安倍首相が母方の祖父にあたる元高級官僚の岸信介氏を深く尊敬し、そのような政治家を目指していることはよく知られていますが、厳しい目で見ればそれは戦前の日本を「美化」することで、祖父・岸信介氏やその「お友達」に責任が及ぶことを逃れようとしているようにも見えます。

安倍氏は百田氏との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)に収録されている対談で、『永遠の0(ゼロ)』にも「他者のために自分の人生を捧げる」というテーマがあると賞賛していました(58頁)。安倍首相と祖父・岸信介氏との関係に注目しながら百田氏の『永遠の0(ゼロ)』を読むと、「戦争体験者の証言を集めた本」を出すために、特攻隊員として死んだ実の祖父のことを知る「当時の戦友たち」をたずねて取材する姉・慶子の仕事を手伝うなかで変わっていく「ぼくの物語」は、安倍首相の思いと不思議にも重なっているようです。

百田氏は安倍首相との共著で、「安倍総理も先ほどおしゃっていたように、この本を読んだことによって、若い人が日本の歴史にもう一度興味を持って触れてくれることが一番嬉しいですね」と自著を誇っています(67頁)。

しかし、この『永遠の0(ゼロ)』で主張されているのは、巧妙に隠蔽されてはいますが、青年たちに白蟻のような勇敢さを持たすことを説いた徳富蘇峰の歴史観だと思われるのです。

*   *

「司馬史観」論争の際には『坂の上の雲』も激しい毀誉褒貶の波に襲われましたが、褒める場合も貶(けな)す場合も、多くの人が文明論的な構造を持つこの長編小説の深みを理解していなかったように思えます。

前著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)では、司馬氏の徳冨蘆花観に注目しながら兄蘇峰との対立にも注意を払うことで『坂の上の雲』を読み解く試みをしました。

たいへん執筆が遅れていますが、近著『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』(仮題、人文書館では、今回は「文明史家」とも呼べるような広い視野と深い洞察力を持った司馬遼太郎氏の視線をとおして、主要登場人物の一人であり、漱石の親友でもあった新聞記者・正岡子規が『坂の上の雲』において担っている働きを読み解きたいと考えています。

(1月18日、濃紺の部分を追加し改訂)

 

「議論」を拒否する小説の構造――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(8)

ここのところ考察してきたコラムで寺川氏は、〈憲法や安全保障について具体的に国を動かそうという政権が現れたいま、少なくともそれに反対する側は、レッテル貼りをして相手を非難している場合ではなく、意見の違う相手とも、その違いを知ったうえで議論し、考えていくことが大事なのではないか――。〉と書いていました。

「対話」や「議論」の重要性はまさしく指摘されている通りなのですが、問題なのは、国民の生命にもかかわる「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」、さらには「武器や原発の輸出」などの重要なことを「国会」での十分な議論を経ずに閣議で決定している安倍政権と同じように、『永遠の0(ゼロ)』という小説も「他者」との「対話」や「議論」を拒否するような構造を持っていることです。

それゆえ、「対話」や「議論」を拒否する安倍政権の手法の危険性を明らかにするためにも、『永遠の0(ゼロ)』の構造の問題点を明らかにすることが重要だと私は考えています。

*   *

単独犯ではなく、多くの人間が様々な役を演じるような「進化」した「オレオレ詐欺」の場合は、詐欺グループからの様々な情報を一方的に聞かされることで、被害者は相手の言うことを次第に信じるようになります。

『永遠の0(ゼロ)』でも姉の慶子と「ぼく」は、「聞き取り」による取材という制約を与えられているために、相手から非難されてもきちんとした反論ができないし、読者もそのような関係を不自然だとは感じないような構造になっているのです。

たとえば、すでに見たように戦闘機搭乗員としてラバウル航空隊で祖父の宮部久蔵と一緒だった長谷川は、開口一番に久蔵のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と決めつけ、さらに「奴はいつも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」と語ります。

それに対して、「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが?」と慶子が言うと長谷川は「それは女の感情だ」と決めつけ、それはね、お嬢さん。平和な時代の考え方だよ」と続け、「みんながそういう考え方であれば、戦争なんか起きないと思います」という慶子の反論に対しては、有無を言わせぬようにこう断言しているのです。

「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう…中略…だが誰も戦争をなくせない。今ここで戦争が必要悪であるかどうかをあんたと議論しても無意味だ。」(太字引用者)。

「文学作品」では作者の思想や感性が何人かの登場人物に分与されていることが多いのですが、語り手としての「ぼく」だけでなく、長谷川にも作者の思想や感性は与えられているといえるでしょう。

*   *

「特攻」という大きなテーマの本を出版するならば、祖父が「命が大切」と語っていたことを知った後で慶子は、取材の範囲を広げるべきだったと思えます。

たとえば、海軍特攻隊隊長だった作家の島尾敏雄氏は、自分たちの水上特攻兵器がアメリカ軍からは「自殺艇」と呼ばれていたことを紹介しつつも、「私は無理な姿勢でせい一ぱい自殺艇の光栄ある乗組員であろうとする義務に忠実であった」と記し、「我々のその行為によって戦局が好転するとも考えられなかったが、それでも誰に対してしたか分からぬ約束を義理堅く大事にしていたのだ」と書いているのです(『出孤島記』)。

このような思いは、島尾氏と対談した若き司馬遼太郎氏にとっても同じだったでしょう。なぜならば、彼は自分が戦車兵として徴兵された時のことについてこう書いているのです。

「私の小さな通知書には『戦車手』と書かれていた。Aはその紙片をじっと見つめていたが、やがて、『戦車なら死ぬなぁ、百パーセントあかんなぁ』と気の毒そうにいって、顔をあげた」(「石鳥居の垢」『歴史と視点』)。

司馬氏は彼と同じ「世代の学生あがりの飛行機乗りの多くは沖縄戦での特攻で死んだ」と記していましたが(「那覇・糸満」)、特攻かそうでないかの違いはあるものの、戦車兵に要求されていたのも特攻的な精神だったのです。

リンク→『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』第3章「文明」と「野蛮」の考察――『沖縄・先島への道』より、ですます体に変えて引用)

*   *

若き司馬氏は、満州に「夢と希望」をたくしていた多くの日本人を守るために自分たちは戦うのだという思いで勇気を奮い立たせていたのですが、「本土決戦」のために彼らをほとんど無防備のままに残して戦車隊が本土に引き上げるという決定を聞いたときに深い悲哀を感じていました。

実際、日本の軍隊が「本土防衛」のために引き上げたあとで、広田弘毅内閣の際に決定された「国策」に従って移民として送られていた約155万人の日本人はたいへんな困難と遭遇しました。

満州での一般人の死者は20万人を超えたのですが、開拓関係者とその家族の死者は9万人に近く、その内の1万人ほどが「婦女子や年寄りの自決」でしたが、それは「男たちが対ソ連の戦闘要員として根こそぎ召集されたためだったのです(坂本龍彦『集団自決 棄てられた満州開拓民』岩波書店、2000年)。

祖国に残された妻や娘のことを考えて「命が大切」と語っていた祖父の汚名を晴らすためにも、戦争を取材するジャーナリストとして慶子は、広田弘毅内閣の際に決定された「国策」や、青少年に「白蟻」の勇敢さを強要した徳富蘇峰の思想が招いた結果を、長谷川に伝えねばならなかったと思えます。

しかし、『永遠の0(ゼロ)』という小説では、「対話」や「議論」が封じられているだけではなく、取材の範囲も祖父の関係者への「聞き取り」という形で制限されているために、満州に視野が及ぶことはないのです。(続く)

 

「戦争の批判」というたてまえ――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(5)

『永遠の0(ゼロ)』についてのブログ記事を書き始めてから、太平洋戦争を批判的に考えている人でもこの本を評価している読者が少なくないことに気づきました。

たとえば、『マガジン9』のスタッフの寺川薫氏は、〈どうしても違和感を覚えてしまう『永遠の0』への「戦争賛美」批判〉という題名の「コラム」で、ツイッターなどで「憎悪表現」を多用する百田氏とその作品とは区別すべきであるとし、「対話」の必要性を強調しています。

〈私は小説を読み終えたとき「この作品のどこが戦争賛美、特攻隊賛美なのだろう」と素直に疑問を感じました。以下に記す旧日本軍上層部に対する批判や、特攻という作戦そのものへの批判などをしっかりと書き込んでいるだけでも、少なくとも「戦争賛美」や「特攻賛美」と本作を切り捨てるのは間違いだと思います。〉

2014年3月14日付けの記事ですので、すでに見解は変わっているかもしれませんが、「人を信じたい」という思いが率直に記されている文章だと思います。しかし、それゆえに小説『永遠の0(ゼロ)』の構造に惑わされているとも感じました。

「オレオレ詐欺」の場合は、少なくとも数日中には、被害者がだまされていたことを分かると思います。一方、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」が語られていた「昭和国家」では、敗戦になるまで多くの「国民」がそれを信じ込まされていたのです。

そのような「神話」を支える「美しい物語」と同じような働きをしている『永遠の0(ゼロ)』を讃えることは、意図せずに人々を「戦争」へと導く働きに荷担してしまう危険性がありますので少し長くなりますが、この文章を詳しく検証することで問題点に迫りたいと思います。

*   *

  「『永遠の0』では、旧日本軍の組織としてのダメさ加減や作戦の杜撰さなどに対する記述が繰り返し出て」くることを指摘した寺川氏は、次のような戦争批判の記述をその具体的な例として挙げています。

〈たとえば、太平洋戦争の分岐点となったガダルカナルでの戦いを取り上げ、戦力の逐次投入による作戦の失敗や、参謀本部が兵站を軽視したことによって多くの兵士が餓死や病死したことが書かれています。また、ゼロ戦の航続距離の長さを過信した愚かな作戦によって、多くのパイロットの命が失われたことなども記述されています。

もちろん本作のテーマである「特攻」に関する批判も随所に出てきます。特攻はパイロットの志願ではなく強制のケースが多かったこと、米軍の圧倒的な物量や新型兵器によって特攻機のほとんどが敵艦にたどり着く前に撃ち落とされたこと、それを軍上層部は分かっていながらも特攻という作戦を続けたこと。さらには 「俺もあとから行くぞ」と言った上官たちの中には責任をとることなく戦後も生き延びた人がたくさんいたことなど、特攻という作戦を立案・推進した「軍上層部」への批判が展開されます。〉

これらの点を指摘した寺川氏は、次のように結論しています。

〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、「主張の内容」でなく、それを唱えている「人や組織」で事の是非を判断することと似ています。憲法九条、原発、死刑制度ほか国論を二分する議論はいくつもありますが、ともすると「どうせあの人(団体)が言っているのだからロクなことはない」と決めつけてしまうことが、よくあるような気がします(引用者注――「作者と作品の関係」に言及したこの文章の問題点については稿を改めて考察します)。

憲法や安全保障について具体的に国を動かそうという政権が現れたいま、少なくともそれに反対する側は、レッテル貼りをして相手を非難している場合ではなく、意見の違う相手とも、その違いを知ったうえで議論し、考えていくことが大事なのではないか――。〉

*   *

たしかに、『永遠の0(ゼロ)』の第5章には、「ガダルカナル島での陸軍兵士」の悲惨な戦いについて語られる次のような記述もあります。

少し長くなりますが具体的に引用しておきます

〈「あわれなのはそんな場当たり的な作戦で、将棋の駒のように使われた兵隊たちです。

二度目の攻撃でも日本軍はさんざんに打ち破られ、多くの兵隊がジャングルに逃げました。そんな彼らを今度は飢餓が襲います。ガダルカナル島のことを『ガ島』とも呼びますが、しばしば「餓島」と書かれることがあるのはそのためです。」

「結局、総計で三万以上の兵士を投入し、二万人の兵士がこの島で命を失いました。二万のうち戦闘で亡くなった者は五千人です。残りは飢えで亡くなったのです。生きている兵士の体にウジがわいたそうです。いかに悲惨な状況だったかおわかりでしょう。

ちなみに日本軍が『飢え』で苦しんだ作戦は他にもあります。ニューギニアでも、レイテでも、ルソンでも、インパールでも、何万人という将兵が飢えで死んでいったのです」〉。

(ガダルカナルの戦い。図版は「ウィキペディア」より)

第6章ではラバウル航空隊整備兵として祖父の機体などを整備していた元海軍整備兵曹長の永井清孝からの話を聞いた語り手の「ぼく」の激しい批判が記されています。

〈「永井に会った後、ぼくは太平洋戦争の関係の本を読み漁った。多くの戦場で、どのような戦いが行われてきたのかを知りたいと思ったのだ。

読むほどに怒りを覚えた。ほとんどの戦場で兵と下士官たちは鉄砲の弾のように使い捨てられていた。大本営や軍司令部の高級参謀たちには兵士たちの命など目に入っていなかったのだろう。」〉

*   *

これらの文章だけに注目するならば、『永遠の0(ゼロ)』は「反戦」的な強いメッセージを持った小説と捉えることも可能でしょう。

しかし、これらの文章が小説の中盤に記されており、新聞記者の高山が罵倒され、追い返されるシーンが描かれている第9章の前に位置していることに注意を払う必要があるでしょう。

戦争の「実態」に関心のある読者にとっては、第5章や第6章の描写は強く心に残ると思われますが、一般の読者にとっては小説が進みその「記憶」が薄れてきたころに、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と記者の高山が怒鳴りつけられる場面が描かれているのです。

「『永遠の0』の何が問題なのか? 」と題された冷泉彰彦氏のコラム記事は、この小説の構成の問題点に鋭く迫っていると思えます(「ニューズウィーク」、2014年02月06日、デジタル版)。

〈問題は「個々の特攻隊員の悲劇」へ感情移入する余りに、「特攻隊全体」への同情や「特攻はムダではなかった」という心情を否定しきれていないのです。作戦への批判は入っているのですが、本作における作戦批判は「主人公達の悲劇性を高める」セッティングとして「帳消しに」されてしまうのです。その結果として、観客なり読者には「重たいジレンマ」を感じることなく、悲劇への共感ないし畏敬の念だけが残ってしまうのです。〉

*   *

原作の『永遠の0(ゼロ)』を高く評価する一方で、映画《永遠の0(ゼロ)》を「小説とは似て非なる映画」と厳しく批判した寺川氏自身の次の文章は、小説自体の問題点をも浮き彫りにしていると思われます。

〈それに対して映画ですが、「どうしてこのような作品になってしまったのか」と私は残念に思います。その理由は簡単。上記の小説でしっかりと描かれた軍部批判や特攻批判等の部分が相当薄まっていて、「特攻という問題」が「個人の問題」に見えてしまうからです。〉

そして、筆者は「この作品にとっての生命線である「軍部批判」や「特攻批判」の要素を薄めてしまっては、まったく別の作品となってしまいます。」と続けています。

映画から受けた印象についての感想は、「軍部批判」や「特攻批判」の記述が「戦争に批判的」な読者をも取り込むために組み込まれた傍系の逸話に留まり、この小説の流れには本質的な影響を及ぼしてはいないことを明らかにしていると思われます。

*   *

この小説の構造で感心させられた点は、主に「空」で戦ったパイロットの視点から戦争を描いていることです。そのために、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」を信じて、満州国に移民した「満蒙開拓移民」の悲惨な実態や、植民地における現地の民衆と日本人との複雑な関係は全く視野に入ってこないことです。

最近書いた論文「学徒兵 木村久夫の悲劇と映画《白痴》」では、中国名・李香蘭で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった女優の山口淑子氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動をされていたことにも触れました。

リンク→学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴》

『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』と題された山口氏の著書の「獄中からの手紙」では、満州国皇帝につながる王族の一員で、日本人の養女となった川島芳子氏の悲劇が描かれています。「軍上層部」への批判が記されているものの『永遠の0(ゼロ)』では批判は「軍上層部」で留まり、「満州経営に辣腕」を振った岸信介氏などの高級官僚や、戦争の準備をした政治家、さらには徳富蘇峰などの思想家にはまったく及んでいません。

たとえば、第一章では武田の「反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた」という言葉が描かれています。しかし、すでに見たように、『国民新聞』が焼き討ちされたのは、政府の「御用新聞」だったからであり、しかも、蘇峰は『大正の青年と帝国の前途』において、自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを褒め称えていたのです。

「論理」よりも「情念」を重視する傾向がもともと強い日本では、疑うよりは人を信じたいと考える善良な人が、再び小説『永遠の0(ゼロ)』の構造にだまされて、戦争への道を歩み出す危険性が高いと思われます。

(2016年11月18日、図版を追加)

 

 

小林秀雄と「一億玉砕」の思想

前回のブログ記事で書いたように。本来は国民の「生命を守り」、豊かな生活を保障するためにある「国家」が、自分たちの責任を放棄して「国民」に「一億玉砕」を命じるのはきわめて異常であると思います。

かつて、そのことを考えていた私は「戦争について」というエッセーで「銃をとらねばならぬ時が来たら、喜んで国の為に死ぬであらう。僕にはこれ以上の覚悟が考へられないし、又必要だとも思はない」と書いていた文芸評論家の小林秀雄が、戦前の発言について問い質されると「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた文章に出会ってたいへん驚きました。

『永遠の0(ゼロ)』という小説を私が詳しく分析しようと思ったきっかけの一つは小林秀雄の歴史認識の問題でしたので、ここでは林房雄との対談の一節を引用しておきます。

*   *

1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていました。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていました。

この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していたのです。(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

*   *

「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」という林房雄の無責任な発言には唖然とさせられましたが、戦後は軍人の一部がA級戦犯として処刑される一方で、戦争を煽っていたこれらの文学者の責任はあまり問われることはなく、小林秀雄の文章は深く学ぶべきものとして、大学の入試問題でもたびたび取り上げられていたのです。

しかも、評論家の河上徹太郎と1979年に行った「歴史について」と題された対談で、「歴史の魂はエモーショナルにしか掴めない」と説明した小林は、「歴史の『おそろしさ』を知り抜いた上での発言と解していいのだな」と河上から確認されると、「それは合理的な道ではない。端的に、美的な道だと言っていいのだ」と断言していました。

『罪と罰』を論じて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していた小林秀雄が、果たして「歴史の『おそろしさ』を知り抜いた」と言えるでしょうか。「同じ過ちを犯さないため」に「歴史を学ぶ」ことを軽視して、小林秀雄のように「情念」を強調する一方で歴史的な「事実」を軽視すると、日本人は同じ過ちを繰り返して「皆んな一緒に滅びて」しまう危険性があるのではないでしょうか。

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014)

小林秀雄の著書の題名には「考えるヒント」という読者を魅了するようなすぐれた題名の本もありますが、しかし、彼の方法は「考える」ことを断念して「白蟻」のような勇敢さを持つように大正の若者たちに説いた徳富蘇峰の方法に近いのです。

地殻変動によって国土が形成され、地震や火山の活動が再び活発になっている今、19世紀の「自然支配」の思想を未だに信じている経済産業省や産業界は、大自然の力への敬虔な畏れの気持ちを持たないように見える安倍首相を担いで原発の推進に邁進しています。

原発や戦争の危険性には目をつぶって「景気回復、この道しかない。」と国民に呼びかける安倍政権のポスターからは、「欲しがりません勝つまでは」と呼びかけながら、戦況が絶望的になると自分たちの責任には触れずに「一億玉砕」と呼びかけた戦前の政治家と同じような体質と危険性が漂ってくるように思えます。

リンク→「一億総活躍」という標語と「一億一心総動員」 

(2016年2月17日。リンク先を追加)