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ドストエーフスキイの会、253回例会(報告者:太田香子氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、253回例会(報告者:太田香子氏)のご案内

「第253回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.154)より転載します。

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第253回例会のご案内

 

   下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

2019921(土)午後2時~5時

場所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分) 和室

                  ℡:03-3402-7854

報告者:太田 香子 氏

題 目: ステパンの信仰告白から読み解く『悪霊』

   *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:太田香子(おおた きょうこ)

1986年生まれ。会社員。13歳で『罪と罰』を読んで以来、ドストエフスキー作品を読み続けている。ドストエフスキーの意図を丁寧に、正確に読み取ることに少しでも近づくことが変わらぬ目標。

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第253回例会報告要旨

ステパンの信仰告白から読み解く『悪霊』

 「ぼくにとって不死が欠かせないのは、神が不正を行うのを望まれず、またぼくの胸の中にひとたび燃え上がった神への愛の火をまったく消し去ることを望まれないという理由によるものです。愛より尊いものがあるでしょうか? 愛は存在よりも高く、愛は存在の輝ける頂点です。だとしたら、存在が愛に従わないなどということがありうるでしょうか? もしぼくが神を愛し、自分の愛に喜びをおぼえているとするなら―神がぼくの存在をも、ぼくの愛をも消し去って、ぼくらを無に変えてしまうなどということがありうるでしょうか? もし神が存在するとすれば、このぼくも不死なのです。コレガ・ボクノ・シンコウコクハクデス」(『悪霊』下巻 p.614 新潮文庫 江川卓 訳)

 今回の発表では、『悪霊』の終盤、ステパンの臨終の場面での彼の信仰告白の言葉(冒頭に掲げた台詞)を手掛かりに、『悪霊』で表現されようとしていたテーマを探りたいと思います。当該箇所は、『悪霊』の成立背景を考えたときに、「スタヴローギンの告白」で表現される内容と重なる部分があることから、ドストエフスキーが『悪霊』を通して表現しようとしていた考えの核心を捉えるには欠かせない場面であると思われます。また、発表者である私自身が、学生時代に読んで人生観を変えられるほどの衝撃を受け、その後も折に触れ繰り返し読み返してきた箇所でもあります。今回の発表を通して当該箇所の理解を深め、さらにそこで表現されているテーマが、いまを生きる人間にどのようにかかわりがあるのかを考えたいと思います。

 ステパンの信仰告白は抽象的な観念の表明となっています。また、『悪霊』全体を通してみたときに、それまでのステパンの人物像から予想される想定を上回る思考が表現されています。そのため、当該箇所のステパンの台詞の言い回し、言葉の選ばれ方に着目し、『悪霊』の全体を通してステパンの台詞の裏付けとなる箇所をいくつか取り上げ、比較検証を行うことで、ステパンの信仰告白で表現される概念が何と結びついているのか、またそれが意味するのはどのような思考なのかを検証します。

具体的には、「子ども」の概念をめぐるシャートフ、キリーロフ、スタヴローギンの立場の違いを切り口に、特にキリーロフの思想の特徴とそれに対するスタヴローギンの考えの違いを明らかにします。

また、マリヤ・レヴャートキナの回想、「スタヴローギンの告白」にあるスタヴローギンの夢の描写、ステパンの最後の台詞、の三つを比較検証することで、この三つの台詞相互の関連と、そこから読み取れるドストエフスキーが本作で表現しようとしていたと思われる考えについて考察を深めます。

そして、ステパンの最期の場面にある別の台詞にある、「左の頬を差し出せ」という言葉の意味が理解できたときほかにも会得することがあった、が何を意味しているのか、またなぜその台詞がステパンの人生の終わりに出てくるのかを考えます。

上記の考察を通して、冒頭に掲げたステパンの信仰告白から広がる、『悪霊』の読みの可能性を探っていきたいと思います。

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合評会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

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