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小林秀雄

「陶酔といふ理解の形式」と隠蔽という方法――寺田透の小林秀雄観(2)

先日、「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」という題名の論稿をアップしました。

ただ、それは「翻訳と文学」とい特集に応じて書いた論文でしたので、「様々なる意匠」を論じて小林秀雄氏の「陶酔といふ理解の形式」を指摘していた箇所は省いていました。

寺田氏の指摘は、エッセイ〈「様々な意匠」と隠された「意匠」〉でも論じた小林の「隠蔽という方法」にも深く関わります。それゆえ、ここではまず司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』との出会いを簡単に振り返ったあとで、寺田透氏の指摘を踏まえて前回の論文ではあまり深く論じることのできなかった「隠蔽という方法」についてもより深く考えたいと思います(以下、敬称を略す))。

Ⅰ、「様々なる意匠」に「隠された意匠」

幕末から明治初期の混乱の時期の日本を題材にした『竜馬がゆく』などの小説を読んだ時に私が感じたのは、クリミア戦争敗戦後の価値の混乱したロシアの問題点を鋭く描きだしていたドストエフスキーの『罪と罰』(1866)の文明論的な広い視野と哲学的な深い考察が受け継がれているということでした。

さらに、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いたドストエフスキーが、次作の『白痴』ではこのような危機を救うロシアのキリスト(救世主)を描きたいと考えて、混迷のロシアで「殺すなかれ」と語った主人公・ムィシキンの理念も『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬に強く反映されているとも考えていました。

一方、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──主人公)には現れぬ」と記した文芸評論家の小林秀雄は、「『白痴』についてⅠ」でも「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と記し、一九六四年の『白痴』論では、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していました。

それゆえ、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論から一時期、強い影響を受けていたものの、原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じた私は、一九二九年のデビュー作「様々な意匠」で小林秀雄が「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していることに深く納得させられもしました。

しかも、「様々な意匠」は次のように結ばれていました。

「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。」

改めてこの文章を読んだ私は強い違和感を覚えました。なぜならば、司馬遼太郎は「様々な意匠」が書かれた時期を「昭和初期」の「別国」と呼んでいますが、この時期には「尊皇攘夷思想」という「意匠」が、政界や教育界だけでなく文壇の考えをも支配していたのです。

そして、前回、アップした〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉で詳しく分析したように、小林秀雄も「尊皇攘夷思想」を讃美するような記事を書いていたからです。

そのことに留意するならば『竜馬がゆく』における司馬の痛烈な批判の矛先は、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張つつ、自分の「意匠」を「隠して」いた戦前の代表的な知識人の小林秀雄にも向けられているのではないでしょうか。

『竜馬がゆく』第二巻の「勝海舟」では、その頃の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったばかりでなく、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判されていたのです。

Ⅱ、「様々なる意匠」と「陶酔といふ理解の形式」

「様々なる意匠」を論じた寺田氏の論稿を読んで驚かされたのは、すでに氏がここで「こころの震えを感じながら」小林秀雄の「陶酔といふ理解の形式」を指摘していたことでした。少し長くなりますが、「様々なる意匠」の文章を引用しておきます。

「一体最上芸術家の仕事で、科学者が純粋な水と呼ぶ意味での純粋なものは一つもない。彼等の仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豊富である。この豊富性の為に、私は、彼等の作品から思ふ処を抽象することが出来る、と言ふ事は又何物を抽象しても何物が残るといふ事だ……。かうして私は。私の解析眩暈の末、傑作の豊富性の底を流れる、作者の主調低音をきくのである。この時私の騒然たる夢はやみ、私の心が私の心を語り始める。この時私は私の批評の可能性を悟るのである」。

少し引用が長くなりましたが、この後で寺田はこう分析しています。

「この文章のなかにもこまかに注意すれば小林氏の資性をあきらかにする次のような事実が見られる。即ち、かれに批評の可能性を獲得させるべく、対象の宿命的基調にかれを溺れさせるものは、…中略…混乱を惹起させる対象の『豊富性』でもなく、それによって惹起されるかれの『眩暈』の仕業だということ。一種の酩酊だということ。自己嫌悪ではなく、自己陶酔ということ。/ どこかでかれは『陶酔といふ理解の形式』と言っている。…中略…やはりかれは一種のナルシスだったのである。僕は、こころの震えを感じながら、今。そういうことができる。」(昭和三十年二月)

実は、私が小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』論を何度も読み返すなかで「苦い思い」で感じていたのも、ここで描かれているのはドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』の分析ではなく、それらを強引に自分の解釈に引き寄せたものであり、新たな「創作」としての『新罪と罰』や『新白痴』であるということでした。

問題なのは、小林秀雄がそのことを自覚していたと思われるにもかかわらず、数学者・岡潔との対談などに明確に現れているように、自分の解釈が正しいとあくまで主張し、それ以外の読み方をする者を「不注意な読者」と断じていたことです。

Ⅲ、「様々なる意匠」と「隠蔽という方法」

「様々なる意匠」における「陶酔といふ理解の形式」に注意を促していた寺田透は『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、小林の「隠蔽という方法」をも示唆していました。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

寺田が示唆していた小林の「隠蔽という方法」は、小林秀雄の歴史観にも深くかかわります。

たとえば、1940年に書いた『わが闘争』の書評で小林は「これは天才の方法である、僕はこの驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた、僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした」とヒトラーを賛美していました。

このような初出における記述は『全集』に収められる際に変えられていたのですが、このことを果敢に指摘していた菅原健史氏の考察を紹介した箇所を拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)から引用しておきます。

〈初出時と『全集』との文章の差異を克明に調べた菅原健史は、『全集』では「天才のペン」の前に、《一種邪悪なる》という言葉が加筆されていることを指摘し、そのために『全集』に依拠した多くの研究者が、戦時中から小林がヒトラーを「一種邪悪なる天才」と見破っていたとして小林の洞察力を賞讃していたことに注意を促している。〉

大きな問題は、寺田透がすでに示唆して小林秀雄の「陶酔といふ理解の形式」や「隠蔽という方法」がきちんと反省されなかったために、岸信介氏の満州政策や安倍晋三氏の雁発再稼働の「道義的な責任」も、「黙過」されることになったと思われることです。

 

関連記事一覧

作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観(1)

「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

「様々な意匠」と隠された「意匠」

司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

(2016年2月1日改訂。2月6日、関連記事を追加) 

〈司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって〉を「主な研究」に掲載

先日、論文〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉を「主な研究」に掲載しました。

しかし、論文のテーマを明確にするために、その後、節の題名を変更するとともに、〈司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって〉と〈司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって〉の二つに分割しました。

今回は、まず「司馬遼太郎と小林秀雄(1)」を「主な研究」に掲載します。

構成/ はじめに

1,情念の重視と神話としての歴史――小林秀雄の歴史認識と司馬遼太郎の批判

2、小林秀雄の「隠された意匠」と「イデオロギーフリー」としての司馬遼太郎

 

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

リンク→「様々な意匠」と隠された「意匠」

リンク→作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→(書評)山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

 

なぜ今、『罪と罰』か(8)――長編小説『破戒』における教育制度の考察と『貧しき人々』

前回は校長が「教育勅語」に記された「忠孝」の理念を強調する一方で、「憲法」に記された「四民平等」の理念にもかかわらず差別的な考えを持っていたことや、郡視学の甥・勝野文平がつかんだ情報を用いて丑松を学校から放逐しようとしていたことを確認しました。

*   *   *

『破戒』で日本における差別の問題を取り上げた藤村は、その一方で「人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』(引用者注――キシニョフ、キシナウとも記される。モルドバ共和国の首都。1903年にポグロムが起きた)で殺される猶太人(ユダヤじん)もなからうし、西洋で言囃(いひはや)す黄禍の説もなからう」とも記して、国際的な状況にも注意を促していました(第1章第4節)。

この意味で注目したいのは、若きドストエフスキーが言論の自由がほとんどなく「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で、女主人公ワルワーラの「手記」において「権力者としての教師」の問題や寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」という差別に深くかかわる問題を描いていたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことです。

*   *   *

田舎で育ったために学校生活にまったく慣れていなかったワルワーラが学校生活の寂しさから、最初のうちは予習もできなかったために、怒りっぽかった女の先生たちから、「教室の隅っこに膝をついて坐らされ、食事も一皿しか貰えない」というような罰を受けたのです。

このような体罰の問題については、『死の家の記録』(1860~62)でより深く考察されることになるのですが、すでにドストエフスキーは『貧しき人々』で、田舎育ちで学校生活に慣れなかったワルワーラを、教師たちが学習の進度を邪魔する「できない子」として体罰を与えるとき、「教室」という一種の「閉ざされた空間」において「いじめ」の問題が発生することを描いていました。

「ワルワーラの手記」では、そのことが次のように記されています。「女生徒たちはあたくしのことを笑ったり、からかったり、あたくしが質問に答えていると横から口をはさんでまごつかせたり、みんなでいっしょに並んで昼食やお茶にいくときにはつねったり、なんでもないことを舎監の先生に告げ口したりするのでした」。

級友たちも「秩序」の受動的な破壊者である「できない子」を批判することで、「権力」を持つ教師に気に入られようとし始めるのです。ワルワーラは「一晩じゅう校長先生や女の先生や友だちの姿が夢にあらわれ」たと書いていますが、それは学校の日常生活の中で次第に追いつめられた彼女の心理状態をもあらわしているでしょう。

しかも、『貧しき人々』の構造で注目したいのは、プーシキンの作品に出会ったことでより広い世界に目覚めるようになる「ワルワーラの手記」がこの作品の中核に置かれることで、それまで自分を「ゼロ」と考えていた中年の官吏ジェーヴシキンが、ワルワーラとの文通や貸し与えられたプーシキンの作品によって、自分の価値を見いだすようになるだけでなく、社会的な意識にも目覚めていく過程も描かれていることです。

たとえば、九月五日付けの手紙では夕暮れ時のフォンタンカの通りを歩く貧しい人々と華やかなゴローホワヤ街やそこを馬車で通る金持ちの人々とを比較したジェーヴシキンは、大金持ちの耳に「自分のことばかりを考えるのは、自分ひとりのために生きていくのはたくさんだ」とささやく者ものがいないことがいけないのであると記しています。

注目したいのは、この作品でも「国庫の利益をなおざりにした」として解雇された元役人ゴルシコーフが、「請負仕事をごまかした商人」と争って、「こね」や「財産」のない者が裁判に勝つことはきわめて難しかったにもかかわらずこの裁判に勝ったものの、それまでのストレスからあまりの興奮に、突然亡くなってしまったという顛末が描かれていることです。

この小説は悲劇的な結末を迎えますが、それは、裁判の公平さや権力の暴走を防ぐことのできるような「憲法」の重要性を、イソップの言葉で読者に示唆するためだったと思えるのです。

(リンク→高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年)

それゆえ、私は初めて『貧しき人々』を読んだ時には、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」にこのような小説を発表していた若きドストエフスキーに、「薩長藩閥政府」から「憲法」を勝ち取ろうとしていた日本の自由民権論者たちとの類似性すら感じていたのです。

*   *   *

一方、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ1932年に発表した評論「現代文学の不安」で文芸評論家の小林秀雄は、芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定する一方で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記して、ドストエフスキーの作品を知識人の不安や孤独に焦点をあてて読み解いていました。

しかも、前期と後期の作品との間に深い「断層」を見て、『罪と罰』の前作『地下室の手記』を論じつつ、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していた哲学者のシェストフから強い影響を受けていた小林は、前期の作品をほとんど無視し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したのです。

「報復の権利」を主張したブッシュ元大統領が始めたイラク戦争の翌年の2004年に、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する著作を発表した小説家の亀山郁夫氏も主人公たちに犯罪者的な傾向を強く見て、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」という独創的な解釈を示しました(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上、285頁)。

さらに亀山氏は前期の作品との継続性も指摘して、『貧しき人々』のジェーヴシキンをも悪徳地主である「ブイコフの模倣者」であり、「むしろ悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」でもあると断定したのです(上、72頁)。

このようなセンセーショナルな解釈は読み物としては面白いものの、その作品で主人公たちの「不安」をとおして「教育制度」などについても深く考察していたドストエフスキーの作品を矮小化していると私は感じました。

さらに大きな問題はこのような主観的な解釈が、「憲法」のない帝政ロシアで検閲を強く意識しながらも、「裁判の公平」や「言論の自由」をイソップの言葉で果敢に主張していたドストエフスキー作品の意味を読者から隠す結果になっていることです。

*   *   *

これらの小林氏や亀山氏のドストエフスキー論と比較するとき、明治時代の北村透谷や島崎藤村は、なぜ文明論的な視野と骨太の骨格を持つ『罪と罰』に肉薄し得ていたのでしょうか。

次回は、ドストエフスキーが弁護士ルージンとラスコーリニコフなどの対決をとおして「法律」の問題を深く考察していることを踏まえて、再び帝政ロシアの時代に書かれた『罪と罰』における「良心」の問題を考えて見たいと思います。

「司馬遼太郎の戦争観」を「主な研究」に掲載 

リンク→司馬遼太郎の戦争観――『竜馬がゆく』から『菜の花の沖』へ

8月14日の安倍談話は日英の軍事同盟によって勝利した日露戦争の意義を強調することで故郷の先輩政治家・山県有朋の政治姿勢を評価した安倍氏は、国会でも十分な審議を行わずに戦争への参加を可能とする「安全保障関連法案」を「強行採決」して、祖父の岸信介氏と同じように軍拡路線を明確にしました。

一方、きわだった個性を持った吉田松陰とその弟子高杉晋作の悲劇的な生涯を生き生きと描いた長編小説『世に棲む日日』(1969~70年)で、「革命は三代で成立するのかもしれない」と分類した司馬氏は、三番目に現れる世代を「初代と二代目がやりちらした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる」と位置づけ、山県狂介(有朋)を「その典型」として挙げていました(三・「御堀耕助」)。

そして、長編小説『坂の上の雲』(1968年~72年)の第四巻の「あとがき」で、「日露戦争の勝利後、日本陸軍はたしかに変質し、別の集団になったとしか思えない」と書いた司馬氏は、「長州系の軍人だけでも二一人」を「華族」などに昇格させた「日露戦争後の論功行賞」の理由は、山県有朋を「侯爵から公爵に」のぼらせるためだったと説明していました(「『旅順』から考える」『歴史の中の日本』)。

つまり、明治維新に際しては「四民平等」の理念が強調されていましたが、1884年に成立した華族令で爵位が世襲とされたことにより、日本の社会は貴族階級のみが優遇される一方で、農民などの一般の民衆が過酷な税金と徴兵制度によって苦しんだ帝政ロシアと似た相貌を、急速に示すようになっていたのです。

(拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、2009年、277~278頁より。引用に際しては、文体を変更した)。

それゆえ、明治期に作られた「新しい伝統」に深い疑問を抱いた司馬氏は、世界でも誇りうる「江戸文明」に次第に関心を向けるようになり、江戸時代にロシアとの戦争を防いでいた町人・高田屋嘉兵衛を主人公とする長編小説『菜の花の沖』(1979~82年)を描くことになったのです。

この長編小説の意義については、昨年、学会で発表しましたが(リンク→「「商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代」、昨年末には「司馬遼太郎の戦争観――『竜馬がゆく』から『菜の花の沖』へ」と題するエッセイを『全作家』に投稿しましたので、「主な研究」に掲載します。

(2016年1月18日。記事を差し替え)

 

岸・安倍両政権と「核政策」関連の記事一覧

北朝鮮の「水爆実験」に関して先ほど書いた記事で、これまでに書いた「核武装論」関連の記事一覧も掲載しました。

調べ直したところ、安倍政権が強行採決した「戦争法」の危険性との関連で、それ以外にもかなり書いていたことが分かりましたので、改めて〈岸・安倍両政権と「核政策」関連の記事一覧〉と題して掲載します。

また、文芸評論家・小林秀雄の原爆・原発観も岸・安倍政権の「核政策」に深く関わっていると思われますので、その関連記事一覧のリンク先も示しておきます。

 

岸・安倍両政権と「核政策」関連の記事一覧 

北朝鮮の「水爆実験」と日本の核武装論者

麻生財務相の箝口令と「秘められた核武装論者」の人数

武藤貴也議員の核武装論と安倍首相の核認識――「広島原爆の日」の前夜に

武藤貴也議員の発言と『永遠の0(ゼロ)』の歴史認識・「道徳」観

原子力艦の避難判断基準の見直しと日本の「原子力の平和利用」政策

安倍首相の「核兵器のない世界」の強調と安倍チルドレンの核武装論

安倍晋三首相の公約とトルーマン大統領の孫・ダニエル氏の活動――「長崎原爆の日」に(2) 

原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」

 

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

 

原子力艦の避難判断基準の見直しと日本の「原子力の平和利用」政策

「東京新聞」の朝刊(11月7日)に「原子力艦も5マイクロシーベルト超に 避難判断基準原発と統一」との見出しで、下記の記事が掲載されていました。

比較的小さな出来事のようですが、安倍政権の「安全保障」政策を検証する上でも重要な出来事と思えますので、以下に引用します。

  *   *   *

米海軍横須賀基地(神奈川県横須賀市)に配備されている空母など原子力艦で事故が起きた際の避難判断基準を定めた国の災害対策マニュアルが、近く改訂されることになった。住民が避難や屋内退避を始める放射線量を毎時五マイクロシーベルト超に引き下げる。これまでは原発事故の二十倍の同一〇〇マイクロシーベルトだった。

有識者や関係省庁による作業委員会の初会合が六日、基準を原発の災害対策指針と合わせることが合理的との結論で一致した。国の中央防災会議の課長クラスによる会議を一カ月以内に開き、マニュアルを改訂する。横須賀市が基準の見直しを求めていた。

作業委の初会合は東京・永田町で開催。河野太郎防災相は「基準が原発と違っていることは論理的におかしい」と指摘した。

  *   *   *

この記事を読んで私が思い出したのは、地震大国という地勢的な条件や1954年の「第五福竜丸」事件など原水爆の悲惨さから目をそらして、日本が原子力大国への道を歩み出し始めた1955年の「原子力基本法」成立前後のことでした。

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(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

このことについては拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の第二章「映画《生きものの記録》と長編小説『死の家の記録』」で次のように考察していました。

〈アメリカ政府の「原子力の平和利用」政策に呼応するように一九五五年に「原子力潜水艦ノーチラス号」を製造した会社の社長を「原子力平和利用使節団」として招聘した読売新聞社の正力松太郎社主は、映画《生きものの記録》が公開されたのと同じ一一月からは「原子力平和利用大博覧会」を全国の各地で開催し、「原子力発電」を「平和産業」として「国策」にするための社運を賭けた大々的なキャンペーンを行った。

この結果、原水爆反対運動は急速に冷え込むこととなり、「民衆」の本能的な怖れや一部の良心的な科学者たちの激しい反対にもかかわらず、一二月一九日には「原子力基本法」が成立した。「原子力基本法」を成立させた日本政府は、「原子力の平和利用」を謳いながら、再び経済面を重視して原子力発電の育成を「国策」として進めるようになり、原子力発電の危険性を指摘した科学者を徐々に要職から追放しはじめた。〉

原子力艦の避難判断基準が「原発と違っていることは論理的におかしい」と指摘した河野太郎防災相の発言はきわめて正当なのですが、私たちは敵と戦うことを目的としている原子力空母が日本の基地に配置されていること自体を「間違っている」と厳しく批判しなければならないでしょう。

「東京新聞」の解説記事では、<原子力空母>について「原子炉で核燃料を燃やすことで動く航空母艦。原子炉の仕組みは普通の原発とほぼ同じ。燃料の交換が少なくてすみ、安定した航行ができるとされる」と説明されています(太字は引用者)。

しかし、敵への威嚇だけでなく交戦を目的としている以上、<原子力空母>が攻撃されて甚大な被害を蒙り、原子炉が破損することも十分に考えられるのです。

そのような事態をも考慮しないのであれば、太平洋戦争以降のアメリカ軍の戦略や安倍政権の「安全保障」政策も、「戦艦大和」を「不沈戦艦」とした旧日本軍と同じような安全神話の上に成り立つ危険な戦略であると思われます。

 

岸・安倍両政権の「核政策」についての記事

リンク安倍首相の「核兵器のない世界」の強調と安倍チルドレンの核武装論

リンク→原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

リンク→「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」

リンク→「安全保障関連法案」の危険性――「国民の生命」の軽視と歴史認識の欠如

 

なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

一、小林秀雄の『罪と罰』論と弁護士ルージン考察の欠如

熱気に包まれた小林秀雄の『罪と罰』論を何度か読み直すうちに、小林秀雄の評論からは『罪と罰』の重要なエピソードや人物が抜け落ちていることに気づきました。たとえば、小林秀雄の『罪と罰』論では、原作ではきちんと描かれていたラスコーリニコフやソーニャの家族関係はほとんど言及されていません。

さらに、ポルフィーリイとの対決をとおしてその危険性が鋭く示唆されている「非凡人の理論」は軽視されており、功利主義的な考えを主張してラスコーリニコフと激しく対立する弁護士ルージンにはほとんど触れられていないのです。

しかし、『罪と罰』という題名を持つこの長編小説の主人公であるラスコーリニコフが、元法学部の学生であるばかりでなく、犯罪者の心理について考察した彼の論文が法律の専門誌にも掲載されていると記されていることに留意するならば、妹ドゥーニャの婚約者であり、ラスコーリニコフと激論を交わすなど長編小説の筋においても重要な役割を果たしている弁護士のルージンについてふれないことは、小説の理解をも歪めることになるでしょう。

二、弁護士ルージンの「新自由主義的な」経済理論

ここでは『罪と罰』の記述に注意を払いながら、ラズミーヒンの反論をとおしてルージンの経済理論の問題点に迫ることにします。

注目したいのは、ルージンが衣服の例を出しながら、「今日まで私は、『汝の隣人を愛せよ』と言われて、そのとおり愛してきました。だが、その結果はどうだったでしょう? …中略…その結果は、自分の上着を半分に引きさいて隣人と分けあい、ふたりがふたりとも半分裸になってしまった」と主張していることです。

 そして、ルージンは「経済学の真理」という観点から「安定した個人的事業が、つまり、いわば完全な上着ですな、それが社会に多くなれば多くなるほど、その社会は強固な基礎をもつことになり、社会の全体の事業もうまくいくとね。つまり、もっぱらおのれひとりのために利益を得ながら、私はほかでもないそのことによって、万人のためにも利益を得、隣人にだって破れた上着より多少はましなものをやれるようになるわけですよ」と説明していたのです。

さらに、彼は「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張し、「実に単純な思想なんだが、…中略…あまりにも長いことわれわれを訪れなかったのです」と結んでいました(2・5)。

三、ラズミーヒンの批判と「アベノミクス」のごまかし

一方、この場に居合わせてルージンの経済理論を聞いたラズミーヒンは「あなたが早いとこ自分の知識をひけらかしたかった気持ちは大いにわかる」が、「近ごろではその全体の事業とやらに、やたらいろんな事業家が手を出しはじめて、手あたりしだい、なんでもかでも自分の利益になるようにねじ曲げてしまうし、あげくはその事業全体を形なしにしてしまう状態ですからね」とルージンの理論を厳しく批判していました(太字は引用者)。

このようなラズミーヒンの説明は、「アベノミクス」やレーガン大統領の頃の経済理論であるレーガノミクスの理論的な支柱となった「トリクルダウン理論」の批判につながると思われます。

すなわち、「トリクルダウン理論」でも、結婚式などで用いられるシャンパングラス・ツリーの一番上のグラスにシャンパンを注ぐと、あふれ出たシャンパンは、次々と下の段のグラスに「滴り落ち」るように、最初に大企業などが利益をあげることができれば、次第にその利益や恵みは次々と下の階層の者にも「滴り落ちる」と説明されているのです。

しかし、頂点に置かれてシャンパンを注がれるグラス(大企業)は、大量のシャンパン(金)を注がれてますます巨大化するものの、それらを内部留保金として溜め込んでしまうのです。それゆえ、下に置かれたシャンパングラス(中小企業)や個人には、ほとんどシャンパン(金)が「滴り落ち」ずに、ますます貧困化していく危険性が強いのです。

そして、経済学の分野でも、「実証性の観点からは、富裕層をさらに富ませれば貧困層の経済状況が改善することを裏付ける有力な研究は存在しないとされている」だけでなく、レーガノミクスでは「経済規模時は拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という『双子の赤字』を抱えることになった」ことも指摘されています。

このように見てくるとき、ドストエフスキーは後にソーニャを泥棒に仕立てようとする悪徳弁護士のルージンに、現代の「新自由主義」な先取りするような考えを語らせることにより、「富める者」の富を増やすことで貧乏人にもその富の一部が「したたる」ようになるとする「アベノミクス」のごまかしを暴露しているようにさえ思えます。

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(序)――「安倍談話」と「立憲政治」の危機

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ

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(広島と長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲、1945年8月、図版は「ウィキペディア」より)

「パグウォッシュ会議」の世界大会が5日、「長崎を最後の被爆地に」とのメッセージで始まり、核兵器保有国に核廃絶を確約するよう求める「長崎宣言」を発表して閉幕しました。

この宣言では被爆国として運動の先頭に立つべきでありながら、いまだにアメリカの「核の傘」に入っている日本政府の核政策を強く意識して、安全保障政策の変革も要請されました。

原子力利用のあり方などが討議された3日の会議では、海外の科学者たちが「コストの高さや兵器転用の恐れ」を指摘して、「核燃料サイクルなどの日本の原子力政策を批判した」とのことです。

実際、11月5日の「東京新聞」朝刊は、「もんじゅ廃炉へ現実味 核燃料サイクル計画破綻」との見出しの一面記事で、次のように記しています。重要な記事なので少し長くなりますが、重要な箇所を引用しておきます。

*   *

原子力規制委員会は点検漏れ問題で文部科学省に対し、信頼できる運営主体を探すか、安全対策を抜本的に改善するかを勧告する。どちらかを実現しないと、廃炉は避けられない。もんじゅは国が推進してきた核燃料サイクル計画の中核的な存在。なくなれば、十兆円をつぎ込んできた計画は名実ともに破綻する。 (小倉貞俊、榊原智康)=関連<2>面

規制委は四日、現在の運営主体の日本原子力研究開発機構では、停止しているもんじゅの保全管理もできておらず、運転は任せられないとの判断を下した。 かつて「夢の原子炉」とうたわれたが、二十年以上も前に造られ、稼働期間はわずか二百五十日。冷却材に爆発的燃焼の危険性が高いナトリウムを使い、維持費もかさむ。機構は二十年前のナトリウム漏れ事故以降、甘い管理体制を改善する機会は何度もあったが一向に進まない。まだ待てというのか-。

規制委の委員五人は全員一致で、文科省への勧告という重い決断をした。/核燃サイクルは、一般的な原発系と高速炉系の二系統で、使用済み核燃料を再利用する計画。十兆円が投じられてきたが、どちらの循環も回るめどはない。原発で核燃料をMOX燃料として再利用するプルサーマルは、海外で製造した燃料を使って一部始まったが、使用済みMOXをどうするのかは白紙。もんじゅがなくなれば、高速炉系の「輪」は名実ともに消える。

   *   *   *

「国民」の生命をも脅かすばかりでなく、長い目で見れば「国家」を疲弊させる可能性が大きい安倍政権の核政策と安全保障政策はきわめて危険であると言わねばならないでしょう。

「パグウォッシュ会議」関連記事

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なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

一、家庭小説としての『罪と罰』

長編小説『罪と罰』にはラスコーリニコフの犯罪をめぐる主な筋の他に、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャをめぐる筋やマルメラードフ家の物語があると指摘した川端香男里氏は、この小説が「一家族の運命の浮沈を描く」イギリスの「『家庭小説』の伝統に由来」してもいると記しています。

この指摘は『罪と罰』を考察する上できわめて重要だと思われます。なぜならば、ラスコーリニコフは犯行後に妹のドゥーニャと話した後で「もしおれがひとりぼっちで、だれからも愛されることがなかったら、おれだってけっしてだれも愛しはしなかっただろうに! こんなことは何もなかったろうに!」(六・七)と考えているからです。

しかも、母親のプリヘーリヤは「ねえ、ドゥーニャ、わたしはおまえたちふたりをつくづく見ていたけど、ほんとにふたりとも瓜(うり)二つだねえ、顔がというより、気性がさ」(三・四)と語っているのです。

それゆえ、ラスコーリニコフの行動や「良心」観に迫るためには、ラスコーリニコフを厳しく追い詰める予審判事のポルフィーリイや、ラスコーリニコフの先行者ともいえるスヴィドリガイロフだけでなく妹ドゥーニャの言動をも詳しく分析する必要があるでしょう。

たとえば、ドストエフスキーは本編の終わり近くで「兄さんは、血を流したんじゃない!」と語った妹のドゥーニャに対してラスコーリニコフに、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい、」と問わせたばかりでなく、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁させていました。

この会話に注目するならば、ラスコーリニコフの「殺人」は単に犯罪としてだけでなく、「戦争」とも比較して考察する必要性がでてくると思われます。

二、テキストの自分流の解釈の危険性――小林秀雄の『罪と罰』論

一方、文芸評論家の小林秀雄は戦前に書いた「『罪と罰』について Ⅰ」において、「(非凡人には――引用者注)その良心に従つて血を流す事が許されてゐるといふ所謂超人主義の思想が、ラスコオリニコフの口から語られる時、何等浪漫的な色彩を帯びてゐない」と書き、「彼は己の思想に退屈してゐる」という解釈を示していました〔四三〕。

さらに「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と続けた小林は〔四五〕、「罪と罰とは作者の取り扱つた問題といふよりも、この長編の結末に提出されている大きな疑問である、罪とは何か、罰とは何か、と、この小説で作者が心を傾けて実現してみせてくれてゐるものは、人間の孤独といふものだ」と記して、『罪と罰』を「孤独」の問題に矮小化していたのです〔六一〕。

このような小林秀雄解釈は、満州事変以降に厳しい思想弾圧が始まり、不安に陥っていた知識人の間でたいへん流行しました。しかし、そのような解釈は、ドゥーニャなどとの関係を重視せずに殺人を犯したラスコーリニコフの自意識や心理に焦点をあてて『罪と罰』を読み解くことでのみ成立しえたのです。

ただ、検閲が厳しかった戦前の『罪と罰』論には同情の余地がありますが、問題は小林が戦後も同じような『罪と罰』の解釈をしていただけでなく、「評論の神様」のように祭り上げられた彼の評論が教科書や大学の入試でも取り上げられたことにより、テキストや小説の構造を軽視し小説を「主観的に面白く」読み解いてもそれが流行すればよいと思い込むような学生だけでなく研究者がでてきたことです。

「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と書き、「殺人」を犯したラスコーリニコフの深い後悔の念を否定した小林の解釈は、「戦争の問題」に対して軍人や政治家に弁解の余地を与えただけでなく、3.11の原発事故のあとでも政治家や財界人にこの問題を深く反省しなくともよいかのような幻想を与えていることにもつながっているのではないかと思えるのです。

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なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

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(『罪と罰』の表紙、ロシア版「ウィキペディア」より)

いよいよ明日からドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を比較文学の手法で読み解く大学の講義が始まりますが、昨日、成立した「安全保障関連法」によって、私たちは戦後日本に70年間かけて定着してきた立憲主義、平和主義、民主主義が根本から覆される危険と直面しています。

日本ではドストエフスキーは後期の長編小説に焦点をあてることで、犯罪者の心理や男女間の異常な心理的葛藤を描くことに長けた作家であるというような見方が文芸評論家の小林秀雄以降、深く定着しているように見えます。

しかし、これはドストエフスキーを侮辱し、彼の作品を矮小化する解釈だと私は考えています。なぜならば、「憲法」がなく、「言論の自由」も厳しく制限されていたニコライ二世のいわゆる「暗黒の30年」に青春時代を過ごしたドストエフスキーは、「言論の自由」や「人間の尊厳」、開かれた裁判制度の大切さを文学作品を通して民衆に訴えかけようとしながら、1848年のフランス2月革命の余波を受けた緊迫した状況下で捕らえられ、偽りの死刑宣言の後でシベリアに流刑されるという厳しい体験をしていたのです。

長編小説『罪と罰』が雑誌に発表された年に生まれた哲学者のレフ・シェストフ(1866~1938)は、ドストエフスキーがシベリアに流刑されてから思想的に転向して、人道主義からも決別したという解釈を1903年に刊行した『悲劇の哲学』(原題は『ドストエフスキーとニーチェ』)で記し、この本が1934年に日本語に翻訳されると満州事変以降の厳しい思想弾圧が始まり、不安に陥っていた知識人の間でたいへん流行しました*1。

しかし、これから詳しく分析していくように、厳しい検閲を考慮して推理小説的な筋立てで「謎」を組み込むなど、随所にさまざまな工夫をこらしてはいますが、そこに流れる人道主義や正義や公平性の重要性の認識は強く保たれていると思われます。

たとえば、青年時代からプーシキンなどのロシア文学だけではなく、ゲーテやディケンズ、シェイクスピアに親しみ、流刑地で読んだ『聖書』やシベリアからの帰還後に親しんだエドガー・アラン・ポーの作品やユゴーの『レ・ミゼラブル』からの影響は『罪と罰』にも強く見られるのです(リンク→3-0-1,「ロシア文学研究」のページ構成と授業概要のシラバス参照)。

長編小説『罪と罰』は「憲法」のない帝政ロシアで書かれた作品ですが、最初にも記したように9月19日に成立した「安全保障関連法」によって、現在の日本は「憲法」が仮死状態になったような状態だと思われます*2。『罪と罰』にはその頃に起きた出来事や新聞記事も取り込まれていますので、現代の日本の状況と切り結ぶような形で授業を行えればと考えています。ただ、ドストエフスキーはこの小説で読者を引き込むようなさまざまな工夫もしていますので、比較文学的な手法でその面白さも指摘しながらこの長編小説を読んでいき、ときどき感じたことや考えたことなどをこのブログにも記すようにします。

*1 池田和彦「日本における『地下室の手記』――初期の紹介とシェストフ論争前後」R・ピース著『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版、2006年。

*2 〈安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」〉参照。

(2015年9月23日。「長編小説『罪と罰』を読み解く(1)――なぜ今、『罪と罰』か」より改題)。

 

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