高橋誠一郎 公式ホームページ

小林秀雄

「小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤明」を「主な研究(活動)」に掲載しました

 

先ほどアップしたブログでも少しふれましたが、当初は小林秀雄の芥川龍之論と黒澤明の映画《羅生門》との比較は大きなテーマなので、今回は省くつもりでした。

しかし、このテーマを省いてしまうと司馬遼太郎が「歌は事実をよまなければならない」(『坂の上の雲』・「子規庵」)として「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いが見えにくくなってしまうことに気づき、急遽、必要最小限はふれるようにしました。

そのために発行の予定が大幅に延びてしまいましたので、その一部を「主な研究」に抜粋して掲載するとともに、ドストエフスキーの初期の作品と芥川作品との関連についても少し言及しておきます。

 

「黒澤明・小林秀雄関連年表」を更新して、「年表」のページに掲載しました

 当初は省くつもりだった小林秀雄の芥川龍之論と
黒澤明の映画《羅生門》との比較を行ったために、
最終段階で予想以上に手間取ってしまいましたが、ようやく本論を脱稿しました。

 第4章では夏目漱石の『夢十夜』や『三四郎』にも言及していますので、 年表では芥川だけでなく小林秀雄の誕生の年に亡くなった正岡子規や漱石にも触れています。
 
 
 

 このことにより「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、
芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、
このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いも明確になったと思えます。

小林秀雄の映画《罪と罰》評と黒澤明

 

第4章に手間取って拙著の刊行が遅れておりますが、牛歩のような歩みでも少しずつは進んでいますので、ここではお詫び代わりに、標記のテーマについての短い記事を掲載しておきます。

 *    *   *

  1936年に書いた映画評でチャーリー・チャップリンの後援で監督としてデビューし、米国映画最古のギャング映画と言われる『暗黒街』(1927)などを公開していたスタンバーグ監督の映画《罪と罰》を、小林秀雄が厳しく批判していたことを第3節「長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》」で紹介していました(スタンバーグ監督についてはウィキペディア参照)。

ただ、この映画の詳細は分からなかったのですが、黒澤自身が『蝦蟇の油――自伝のようなもの』(岩波文庫)で、1929年までに観た「映画の歴史に残る作品」として、1925年のデビュー作《救ひを求むる人々》(1925)や《暗黒街》(1927)、さらに《非常線》(1928)と《女の一生》(1929)の4本のスタンバーグ作品を挙げていたことがわかりました。

残念ながら、『蝦蟇の油――自伝のようなもの』では1935年に公開された映画《罪と罰》については触れられていませんが、ドストエフスキーを敬愛していたに黒澤監督が1936年にP・C・L映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社したことを考えるならば、非常に強い関心を持ってこの映画を観ていたことは確実だと思われます。

その意味でもこの映画について論じながら「評論」と「映画」の違いを強調した小林秀雄の映画《罪と罰》評は、黒澤明の『罪と罰』観を考察するうえでも非常に重要だと思うようになりました。

このような考えを第4章だけでなく、「はじめに」も反映させましたので、とりあえず「はじめに」黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎の改訂版をこれまでの原稿と差し替えて「主な研究」に掲載します。

「第五福竜丸」事件と映画《生きものの記録》

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「第五福竜丸」、図版は「ウィキペディア」より)

60年前の今日、3月1日にアメリカ軍による水爆「ブラボー」の実験が行われました。

この水爆が原爆の1000倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、160キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員が被爆し、無線長の方が亡くなられました。

この事件から強い衝撃を受けた黒澤明監督は「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えて映画《生きものの記録》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)を制作したのです。

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(東宝製作・配給、1955年、「ウィキペディア」)。

残念ながら、事件から1年後に公開されたこの映画は「季節外れの問題作」とみなされて、興行的には大失敗に終わりました。

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失敗した理由はいくつか考えられますが、その大きな原因の一つとして「人の噂も75日」ということわざや、「臭い物には蓋(ふた)」ということわざもある日本には、「見たくない事実は、眼をつぶれば見えなくなる」かのごとき感覚が強く残っていることがあるからだと思えます。(7月28日のブログ記事汚染水の流出と司馬氏の「報道」観参照)。

しかし、事実は厳然としてそこにあり、眼をふたたび開ければ、その重たい事実と直面することになります。

「第五福竜丸」の事件もすでに多くの日本人は忘れているように見えますが、「東京新聞」はここ数日きちんと報道を続けています。

「放射能で汚染された魚を水揚げした日本の漁船は延べ約千隻に達し、マグロ漁の一大基地である三崎港(神奈川県)の漁船も魚の廃棄などの損害を受けた」ことを伝えている2月27日夕刊の記事の一部をを引用しておきます。

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「放射能は怖いと思った。風に乗り、落ちた灰も海流に乗っていくんだから」

 「第11福生丸」の船長だった今津敏治さん(84)=神奈川県三浦市=が当時を振り返る。

 実験があったその日、今津さんらはビキニから数千キロ離れたフィジー周辺で操業中だった。焼津港(静岡県)に帰った第五福竜丸の被ばくが十六日に報道された後、船主からの無線で実験を知る。帰路はビキニに近づかないよう遠回りし、船体をせっけんで洗って四月に帰港した。

 上陸すると、検査官が船員や魚に測定器を当てた。汚染はないと思っていたが、船体やカジキ、サメから国の廃棄基準を超える放射能が検出され、驚いた。約百六十トンの魚のうち十~二十トンが廃棄され、魚の価格低迷にも苦しんだ。「漁師にとって、魚は生活の資源なのに」。米国への憤りが収まらなかった。

「灰かぶりは来るな」。「第13丸高丸」の甲板員だった鈴木若雄さん(82)=三浦市=は五四年春、静岡県の漁港で飲食店の女性から入店を拒まれた。操業していたのはビキニの数千キロ東のミッドウェー島付近。方向が違うと説明したが、いわれのない偏見に「一番こたえた。こんなところまでうわさが来ているのかと」。

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きれいな水に恵まれている日本には、過去のことは「水に流す」という価値観が昔からあり、この考えは日本の風土には適応しているようにも見えます。

だが、広島と長崎に原爆が投下された後では、この日本的な価値観は変えねばならないでしょう。なぜならば、放射能は「水に流す」ことはできないからです。

黒澤映画《生きものの記録》は「事実」を直視する勇気の大切さを映像をとおして訴えています。

(2015年4月7日、改訂。2016年12月22日、図版を追加)

 

「黒澤明・小林秀雄関連年表」を更新して、「年表」のページに掲載しました

 

「黒澤明・小林秀雄関連年表」(ドストエフスキー論を中心に)を更新して「年表」のページに掲載しました。

昨年の12月に掲載した年表では、『罪と罰』の「非凡人の理論」の理解とも関わる小林秀雄の1940年の『我が闘争』の書評(1940)や、「英雄を語る」と題して行われた鼎談などには触れていませんでした。

近日中にそれらも含めた年表を作成する予定ですと記していましたが、拙著の執筆に時間がかかり、ようやくそれらも追加することができました。

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この間に、年表など多くの点で依拠させて頂いていた『大系 黒澤明』の編者の浜野保樹氏の訃報が届きました。

黒澤明研究の上で大きな仕事をされた方を失ったという喪失感にも襲われます。心からの哀悼の意を表します。

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文芸評論家の小林秀雄は非常に大きな存在で、仕事は日仏の文学や思想、さらに絵画論や音楽論など多岐に及んでいますが、年表ではドストエフスキー論を中心に拙著の内容と関わる事柄に絞って記載しました。

ただ、例外的に芥川龍之介論にも言及しているのは、小林秀雄の歴史認識のもっとも厳しい批判者の一人と思われる司馬遼太郎氏の小林秀雄観に関わるからです。

この問題も大きなテーマですので、いずれ稿を改めてこのブログでも書くようにしたいと考えています。

 

『黒澤明と小林秀雄』の「はじめに」を「主な研究」に掲載しました

 

 近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を、現在、鋭意執筆中です。

 すでにこのHPで何度も書いてきたように、文芸評論家・小林秀雄と黒澤明監督の『白痴』観は正反対といってもよいほどに異なっていますが、興味深いのは、「第五福竜丸」事件を契機に撮られた映画《生きものの記録》が公開された翌年の一九五六年一二月に、その二人が対談を行っていたことです。

 残念ながら、このときの対談はなぜか掲載されませんでしたが、本書では消えた「対談記事」の謎に注目しながら、二人のドストエフスキー観の比較を行っています。

 この作業をとおして、黒澤明監督の集大成ともいえる映画《夢》の構造が長編小説『罪と罰』における「夢」の構造ときわめて似ているのは、ドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」が反映されていることを明らかにしたいと考えています。 

近刊『黒澤明と小林秀雄』の副題と目次の改訂版を、「著書・共著」に掲載しました

 

昨年末から本書の執筆に取り組んでいましたが、序章にあたる箇所を書き直す中で、第2部の独立性が強すぎることに気づきました。

また、拙著では映画《夢》だけではなく「第五福竜丸」事件の後で撮られた《生きものの記録》や《赤ひげ》、さらには《デルス・ウザーラ》なども、小林秀雄のドストエフスキー観と比較しながら考察しています。

それゆえ、全体の流れを重視して第2部を半分ほどの分量に縮小して第4章としました。

「著書・共著」のページの近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の目次案を更新するとともに、〈「罪と罰」で映画《夢》を読み解く〉という当初の副題も〈「罪と罰」をめぐる静かなる決闘〉に変更しました。

 構成などの大幅な改訂に伴い発行時期が遅れることになりますが、3月1日には成文社のHPに拙著のページ数や価格などのお知らせを掲載できるものと考えています。

 

「黒澤明・小林秀雄関連年表」を「年表」のページに掲載しました

 

12月15日に行われた黒澤明研究会の例会で「科学者の傲慢と民衆の英知――ドストエフスキーで映画《夢》と《生きものの記録》を解読する」と題した発表をしました。

映画《白痴》はともかく、ドストエフスキーで1954年の「第五福竜丸」事件をきっかけに撮られた《生きものの記録》や映画《夢》を解読するのは、強引過ぎると感じられる方も多いと思います。

しかし、ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていましたが、1955年に公開された映画《生きものの記録》でも主人公が「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンが、そして映画《夢》では原発の爆発のシーンが描かれているのです。

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さらに《生きものの記録》が公開された翌年の12月には黒澤明と小林秀雄の対談が行われていました。

残念ながら、この対談記録は掲載されず、全体像を明らかにするような記録も残っていないのですが、断片的にはこのときの対談の模様を記した記事が残されていますので、ある程度はこの対談記録が消えた「謎」に迫ることが可能だと思われます。

この意味で重要だと思われるのは、1975年に行われた若者たちとの対談で黒澤明監督が、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ。若い人もそういう具合の勉強のしかたをしなきゃいけない」と語っていたことです。

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黒澤明と小林秀雄との関係を時系列に沿って記すと、小林秀雄の「『白痴』についてⅡ」が、映画《白痴》公開の翌年から書かれていることや、長い中断を挟んで発表されたその第9章が、『虐げられた人々』のネリーを元にした少女が描かれている映画《赤ひげ》の制作発表パーティの翌年に書かれていることなどが浮かび上がってきます。

発表に際してドストエフスキーに焦点を絞って簡単な「黒澤明・小林秀雄関連年表」を作成しましたので、ホームページ用に改訂して「年表」のページに掲載します。

なお、この年表は映画《生きものの記録》と映画《夢》を論じるために作成したために、小林秀雄の『悪霊』論とも深く関わる1940年の『我が闘争』の読後感や、「英雄を語る」と題して行われた鼎談などには触れていません。

近日中にそれらも含めた年表を作成する予定です。

 

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」で映画《夢》を解読する』の概要と目次案を「著書・共著」に掲載しました

 

ここのところしばらく「特定秘密保護法案」の問題と取り組んでいたために、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」で映画《夢》を解読する』の執筆から遠ざかっていました。

まだ、完成稿の段階ではありませんが、執筆に向けて集中力を高めるためにも、その概要と目次案を先に公開することにしました。

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この著書では映画《夢》を小林秀雄の『罪と罰』観との比較を通して考察しているだけでなく、映画《生きものの記録》とドストエフスキーの『死の家の記録』との比較も行っています。

来年はビキニ沖で行われたアメリカの水爆実験により「第五福竜丸」が被爆した事件から60周年にあたりますが、この事件をきっかけに撮られた黒澤明監督の映画《生きものの記録》(1955年)は、興行的にはたいへんな失敗となりました。

前作の《七人の侍》が大ヒットしたにもかかわらず、この映画がなぜヒットしなかったのを考えることは、チェルノブイリ原発事故と同じような規模の原発事故が福島第一原子力発電所で起こり、今も収束していない日本において、国内における原発の推進や海外への販売が進められるようになった理由を「考えるヒント」にもなるでしょう。

さらに、黒澤映画を通して小林秀雄のドストエフスキー観を考察することにより、日本の一部の研究者が矮小化して伝えようとしているドストエフスキーの全体像を明らかにすることができると思います。

 

 

「『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』」を「書評・図書紹介」に掲載しました

 

文芸評論家・小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」についての考察を発表した際には、「テキストからの逃走」といういくぶん刺激的な題名を付けました。

その一番大きな理由は「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と原作のテキストとは全く違う解釈をして、「自分の物語」を創作していたことによります。

もう一つの理由は、自らがナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において、ヒトラーの考えと社会ダーウィニズムとの係わりに注目して、ヒトラーが「自然の法則」の名のもとに「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことを指摘していたためです。

「神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こる」としたフロムは、「これを倫理的な破綻だとした」(ウィキペディア)のですが、彼の説明は第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、なぜ独裁的な政治形態が現れたかを解明していると言えるでしょう。

このことに私が注目したのは、ドストエフスキーが『罪と罰』において行っていた主人公の「非凡人の理論」の批判が、「非凡民族の理論」の危険性をも示唆していたためです。

フロムが指摘した「自由からの逃走」という問題は、「内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたプロシア的な国家観からいまだに脱却していないと思える現在の日本の政治状況にも重なっていると思えます。

(「司馬作品から学んだことⅢ――明治6年の内務省と戦後の官僚機構」参照)。