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ドストエフスキー

戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて(縮小版)

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戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて(縮小版)

 

はじめに 「湾岸戦争」から「人質事件」へ

ブログの記事にも書いたが、「人質殺害」の報に接した安倍首相が、「この(テロ殺害事件)ように海外で邦人が危害に遭ったとき、自衛隊が救出できるための法整備をしっかりする」との発言をしたことは大きな問題を孕んでいると思われる。

なぜならば、同時多発テロの後で自国の安全を脅かす「ならず者国家」に対しては核兵器などの先制使用も許されるとして、国連憲章に違反したイラクへの先制攻撃に踏み切ろうとした際には、イラクを崩壊させることはむしろアルカイダなどのテロ組織の拡大を招くことになるという正鵠を射た指摘がすでになされていたからである。

「人質を殺す」という残虐なテロ行為は厳しく咎められなければならない。しかし、国政をゆだねられている日本の首相としては、かつての太平洋戦争をも踏まえて、大規模な空襲や劣化ウラン弾を用いた攻撃で多くの市民や子供を死傷させたアメリが軍の行為が、この事態を招いたこともきちんと認識した上で発言する必要があったと思える。

それゆえ、少し古い出来事を扱ってはいるが、以下に「湾岸戦争」から「イラク戦争」への流れを比較文明学的な視点から分析するとともに、ドストエフスキーや司馬遼太郎の作品などをとおして「戦争の問題」を考察した論考の一部を再掲する。

 

一、「新しい戦争」と教育制度

二〇〇一年は国連によって「文明間の対話年」とされたが、残念なことにその年にニューヨークで旅客機を用いた同時多発テロが起きた。むろん、市民をも巻き込むテロは厳しく裁かれなければならないし、それを行った組織は徹底的に追及されなければならないことは言うまでもない。ただ、問題なのはこれを「新しい戦争」の勃発ととらえたブッシュ政権が、「卑劣なテロ」に対する「報復の権利」の行使として市民をも巻き込む激しいアフガニスタンの空爆を行い、それを「文明」による「野蛮の征伐」の名のもとに正当化したことである。

そして、「野蛮」なタリバン政権をあっけないほど簡単に崩壊させると、ブッシュ政権は敵対しているイラクや北朝鮮だけでなくアフガンの際には協力を求めたイランをも「悪の枢軸国」と名付けて、これらの国々に対する攻撃を示唆し、さらにイラクが国連決議を無視し続けていると厳しく批判した国連総会の演説に続いて、アメリカが「敵」とした国に対しては核兵器の使用も含む先制攻撃が出来るとするブッシュ・ドクトリンを公表し、実際にイラクへの攻撃を開始したのである。

「イラク戦争」が終わってすでに一年以上が経った現在も、攻撃の根拠となった「大量破壊兵器」はまだ見つかっておらず、イギリスではこの戦争を支持したブレア首相が窮地に立たされている。しかし、「同盟国」を助けることが「常識」であるとして、自衛隊の派遣を決めた日本政府は、その一方で行きすぎた「欧化」による弊害を防ぐためとして、「国家」としての一体感を確保するためには、「欧米的な理念」に基づく教育基本法を改変し、「自国」の独自な伝統や文化の価値、さらには「愛国心」をより強く教えるべきであるとする方向性をも強く打ち出している。

これら一連の事態をまだ多くの人々は、自分にはあまり関わりのない遠い出来事のように感じているようである。しかし、過去の歴史を振り返ると、「教育制度」の改変から「戦争」までは一直線だったのである。(以下、略)

三、「報復の連鎖」と「国際秩序」の崩壊

アメリカが危険と認めた国に対しては核兵器の使用も含む先制攻撃が出来るとするブッシュ・ドクトリンに対しては、仏独などの同盟国からも「国際法違反」との厳しい批判が出された。

この意味で興味深いのは、ドストエフスキーがすでに『虐げられた人々』(一八六一年)において、プーシキンによって鋭く提起されていた「血の復讐」の考察を深めて、一見正当に見える個人的なレベルでの「復讐の権利」の行使でさえ、「階級」や「国家」にも持ち込まれることによって「階級闘争」や「国家間の戦争」が拡大し、際限のない「報復」の連鎖となることを示唆していたことである。

イラク戦争勃発の危険性が高まるとともに、改めて「湾岸戦争」との係わりも論じられ始めた。この節では一九九一年の「湾岸戦争」の勃発時に同人誌『人間の場から』に書いた文章からいくつかの論点を抽出することにより、「報復の連鎖」という視点から「湾岸戦争」と「新しい戦争」との係わりを見ておきたい。

「一月一七日未明、ついに懸念されていた戦争が勃発してしまった。むろん、隣国を武力で併合したフセイン大統領の非は議論の余地無く明らかだ。だが、既に経済制裁がかなりの効果を挙げており、しかも撤退期限をほんの一六時間越えただけの時点で、犯罪的行為を理由に宣戦を布告したブッシュ大統領(注――父親)の『決断』も同じように大きな誤りであるように思える」。

なぜならば、「同じアラブの人々の大量の血が流された後では、反米、反イスラエルの感情が高まることはほぼ確実」であり、「戦争の後に平和が訪れたとしても、大量の爆弾とともにイラクやパレスチナの国民の心にまかれた憎しみの種は、もはや消える事はないのである」。

「今回の危機が、湾岸戦争に至ったことで、否応無くキリスト教世界とイスラム教世界との対立が深まるだろう。そして、それは国連決議に賛成したゴルバチョフ大統領に対するソ連内のイスラム系民衆の反感を招き、ソ連の分裂へと連動していくように思える。その一方で、多国籍軍側の徹底的な空爆は、ソ連軍部に恐怖感を植え付け、保守化に一層の拍車をかけるという危険性をも生み出したのではないか」。

しかも、国連安保理決議に従わずに占領を続ける「イスラエルに対しては経済制裁をもしなかったアメリカが、同じように他国の占領という暴挙に出たイラクの非を一方的に主張」する一方で、イスラエルの「報復の権利」を認めたことは、アラブの民衆の間に不正義に対する怒りと絶望を生み出すのである。

そして、出口のない絶望から「非凡人の理論」を生みだしてついに、高利貸しの老婆を殺害した『罪と罰』の主人公の心理に言及して、「『国際秩序』の確立を目的に始められた今回の戦争は、長期的な視野に立つとき、これまであった『国際秩序』すらも著しく破壊してしまったように私には思える」と結んだ(『人間の場から』第二二号、一九九一年参照)。

残念ながら、「湾岸戦争」後の経過は私の危惧の正しさを証明したように思える。すなわち、イスラエルのシャロン首相は、「報復の権利」を正当化したアメリカの論理にのっとって自爆テロに対する「自衛権の行使」として、パレスチナ自治区への武力侵攻を行い、お互いの「報復の応酬」によって、中東情勢は混迷の色を濃くしているからである。

このような中アメリカはようやく重い腰を上げて和平交渉に乗りだした。しかし、パレスチナ国家樹立への前提条件としてブッシュ政権はアラファト議長の退陣を強く示唆した。たしかに「自爆テロ」に断固とした対応をとれないでいる議長の排除は、アメリカ国内では評価されるかも知れないが、アナン国連事務総長がこの案の偏りを批判したように、国際的にはアメリカの「裁きの不公平さ」、あるいは「価値の二重性」を印象づけたように思われる。

このような「裁き」の危険性は、遠く江戸時代に起きた事件を想起するだけでも明白であろう。すなわち、殿中松の廊下での刃傷沙汰に対して吉良上野介の罪を問わなかったお上の裁きは、「喧嘩両成敗」の慣習に反するとして一般庶民からも批判され、「赤穂浪士」たちによる「復讐」が喝采を浴びることになったのである。

四、「非凡人の理論」とブッシュ・ドクトリン

自分を現在の法に従うべき「凡人」ではなく、未来の法の創り手である「非凡人」であると見なした『罪と罰』の主人公は、多くの者に嫌われている高利貸しの老婆を「有害な悪人」と規定して、その殺害に踏み切った(高橋誠一郎『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇〇年参照)。

興味深いのは、ドストエフスキーが一八六六年に『罪と罰』で鋭く批判したこの「非凡人の理論」が、二一世紀の初頭に発表されたブッシュ・ドクトリンときわめて似ていることである。すなわち、ブッシュ・アメリカ大統領は、一国単独行動主義を採って、ABM制限条約脱退や温暖化防止京都議定書の批准拒否、さらには国際刑事法廷への不参加など国際社会の協調を乱す一方で、イラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸国」と名付けて、自国の安全を脅かすこれらの「ならず者国家」に対しては、核兵器などの先制使用も許されるとして、国連憲章に違反したイラクへの先制攻撃に踏み切ったのである。

司馬遼太郎は日露戦争後に「国粋」の流れが強まり、反対する者を弾圧あるいは暗殺して「新たな戦争」に突き進んだ日本の歴史を分析して、「戦争は勝利国においてむしろ悲惨である」と記した。「冷戦」に勝利した「多民族国家」アメリカにおいて現在起きていることも、自国を「絶対化」し自国を批判するものを「悪」として排除するような「国粋」の流れのように見える。

しかも、ドストエフスキーは主人公のラスコーリニコフに自分の理論が、頭の中で考え出されたゲームではないかとの疑いを抱かせていた。トルストイも『戦争と平和』において、戦争をゲームのようにとらえたナポレオンを厳しく批判するとともに、戦争においては「犯罪行為」も正当化されてしまうと指摘した。

しかし、驚かされたのはイギリスやスペインの首相との三者会談のあとで、戦争の必然性を説いたブッシュ大統領が、そこでトランプのゲームを意識しながら、拒否権というカードが示された以上議論は無駄だと語り、さらに闘牛において「最後の一撃」を意味する「真実の時(正念場)」という単語を用いて、決戦への決意を語っていたことである。

多くの人命が失われることが確実視される戦争の必要性を、情念的な用語で説いたアメリカ大統領の演説は、「正義の戦争」が、テロのような「正義の犯罪」の論理と同レヴェルにあることを物語っている。

アメリカ大統領が「神の名を出して戦争を正当化」していると批判したローマ法王は、その翌日にも声明で「イラク戦争は人類の運命を脅かすものだ」と厳しく批判した。実際、「他国」を「悪」と規定するアメリカの姿勢に反発するかのように、フセイン大統領もアメリカを「悪」と断じて、「神の名」により「祖国防衛戦争」の正義を主張したのである。

しかし、ニューヨーク・タイムズ紙のフランク・リッチは、タリバン政権への攻撃には「反対しない」としながらも、「(アメリカ)国民の多数は、米国が冷戦中にアフガニスタンでイスラム過激派をソ連と戦わせていたことも、そしてその後にソ連が退却すると、アフガニスタンを見捨てたことも、理解していない」と指摘している(朝日新聞、二〇〇一年一二月七日)。つまり、アメリカ政府は「テロ」の「野蛮さ」を強調する一方で、なぜテロリストが生まれたのかを国民に説明しないまま「新しい戦争」へと突き進んでいたのである。

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグにおいて、自分だけが「真理」を知っていると思い込んだ人々が、互いに殺し合いを始め、ついに人類が滅亡に瀕するという悪夢を描いた。今度の戦争はそのような危険性すらも孕んでいると思える。

五、「核兵器の先制使用」と「非核三原則の見直し」

実際、アメリカに協力してアフガニスタンでのタリバン政権を崩壊させたばかりのパキスタンとインドとの間で軍事紛争が勃発し、一時は両国首脳が核兵器の使用も真剣に考えるほどに緊張が高まった。この危険は一応は回避されたが、このような緊張の高まりの背景には、国際連合などが有した「公平な裁き」に対する深刻な不信感があり、軍事力の増大によってしか自国を防衛できないという意識を各国が持ち始めたことにあるだろう。

このような国際機関の調停能力の低下には、インドとパキスタンの核実験に対しては経済制裁を両国に課すなど強力な批判を実行しつつも、核の超大国となったアメリカの度重なる未臨界実験や弾道弾迎撃ミサイル制限条約からの一方的な離脱にたいしては、苦言を呈することもできない被爆国日本の核政策もその責任の一端を担っていると、残念ながらいわざるをえないだろう。

こうして現在世界では核戦争が勃発する危険性すら生まれている中でブッシュ政権は「ならず者国家」に対する核兵器の先制使用をも言明した。ここには核兵器の使用が日本にもたらした惨状への無知が顕著であるが、このような中「有事法制」の制定を急ぐ日本政府からも、「非核三原則」の見直しを示唆するような福田官房長官の発言や、それを支持する石原都知事の発言が続いた。この発言が大きな反響を呼ぶと福田長官は、現政権では見直しは全く考えていないと弁明したが、問題は閣僚ではないとしても公職にある石原氏の発言が、「日本の核武装」を唱える氏の持論であることである。

こうした流れを受けて「いつまで日本はアメリカ帝国の属国でいるのか?」という刺激的な問いかけと共に、日本を「アメリカの核の傘の下で『平和病』にかかり、北朝鮮に国民を拉致されても何もできない腰抜け国家」と呼び、「自国を自力で守れない国は『国家』とは言わない」との説明を持つ『日本核武装』という本さえ上梓されるようになっている。

このような強硬な主張は、「野蛮視」された結果、広島と長崎の二都市に原子爆弾を投下された日本の国民の激しいルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨や復讐の感情)を煽る一方で、近隣の諸国に対しては強大な軍事力を持つ日本への恐怖心を与え、また「赤穂浪士」の上演を禁じるほどに日本からの復讐を恐れたアメリカにも、日本の将来に対する「深刻な不信感」を与えたように思える。

なぜならば、哲学的な書物においてルサンチマンの心理を鋭く分析したニーチェ自身の内に、「平等や自由」を普遍的な理念として自国の優位性を主張したフランス「文明」へのルサンチマンが強くあったように思えるからである。このような激しい感情を利用してドイツ国民の復讐心をあおり、「新しい戦争」へと駆り立てたのが天才的な大衆の煽動者だったヒトラーなのである。

この意味で注目したいのは、坂本龍馬の志を継いだ中江兆民が明治憲法発布の二年前に書いた『三酔人経綸問答』において、軍拡主義者の「豪傑君」に、文明の発達につれて「武器はいよいよ優秀に」なり、強国プロシアとフランスの国民は、「おたがいに以前の敗戦を恥じ」、「いつまでも絶えることのない復讐心」によって、「臥薪嘗胆」に耐えつつ「富国強兵」に努めたのだと説明させていることである。実際、ナポレオン戦争以降の世界では、戦勝国は一時的には繁栄を得たが、それは敗戦国の憎しみを生んで新たな「復讐」に遭い、互いに武器の増産と技術的な革新を競いあう中で、ついには生物・化学兵器や原子爆弾などの大虐殺兵器さえもが使用されるにいたったのである。

宇都宮徳馬は「核兵器の現状が人類を十回以上も死滅させる大量破壊能力をもつことはよく知られているが、それが人間を死にいたらしめるまでの激しい永続する苦痛については充分に知られていない」とし、その理由として、核兵器の使用者である米軍の当事者が、「被爆者の死にいたるまでの名状し難い苦しみや痛みを秘匿する政策」をとったばかりでなく、「日本の当局者もその顰みにならって現在にいたったからである」と指摘している。つまり、戦争犯罪は被害国が告発しなければ立件されないために、第一次世界大戦で用いられた「毒ガス」の使用は「戦争犯罪」として裁かれることになったが、日本政府が告発しなかったために三〇万人以上の日本人が苦しみながら亡くなった核兵器使用の非人道性は、アメリカ国内ではいまだによく理解されておらず、現在でもその使用は「戦争犯罪」にはあたらないとされているのである。

圧倒的な軍事力を有するアメリカの核の傘の下で「平和病にかかっている」日本政府は、世界中を永久的な戦争状態におとしいれる危険性のあるブッシュ・ドクトリンや、イラク戦争に際してアメリカ軍が劣化ウラン弾を使用したことに対してなんらの批判もしていないが、日本が真に自立していることを示すためには、いまだに一九世紀的な思考法で軍事力ですべての問題を解決できると考えているアメリカの錯誤とその危険性を指摘すべきであろう。

 

(本稿は日本価値観変動研究センターの季刊誌「クォータリーリサーチレポート」に連載した論考に、時間的な経過を踏まえて改訂を行い日本ペンクラブの「電子文藝館」に掲載した評論の一部である)。

(2015年1月27日.人質の殺害と以前の戦争との関わりについての考察を追加。2016年9月13日、「電子文藝館」版との違いを示すために題名に〈縮小版〉を追加)。

学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴》

 真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書

はじめに

戦没学徒の遺稿を集めた『きけ わだつみのこえ』(1949年、東大協同組合出版部)の中でも感動的な遺書を書いたことで知られる陸軍上等兵・木村久夫(1918~46年)の新たに見つかった遺書と事件の全容を記した『真実の「わだつみ」』が刊行された(以下、この本からの引用頁数は本文のかっこ内にアラビア数字で示す)*1。

「戦犯」の問題や死刑囚の精神的な苦しみだけでなく、当時の日本の統治の在り方などにも関わるその内容は、「無実の罪」で処刑された兵士の苦悩を描いた映画《私は貝になりたい》を思い起こさせるばかりでなく、死刑囚の気持ちも詳しく描いていたドストエフスキーの長編小説『白痴』の映画化を行った黒澤監督の映画《白痴》(1951年)の内容とも深く関わっていると思われる。

一、学徒兵・木村久夫の悲劇と『私は貝になりたい』

大阪府吹田市出身の木村は京都帝大に入学後、召集され、陸軍上等兵としてインド洋・カーニコバル島に駐屯した。説明によればこの島は、「『絶対国防圏』の西側の最前線」であり、もともとは英国領だったが日本軍が無血上陸し、翌年の秋には「第一飛行場の滑走路が完成していた」(122)。

この島で民政部に配属され通訳などをした木村は、「英語を話すインド系の住民だけでなく、現地語を覚えて先住民たちとも」熱心に交流していた(124)。しかし、当初は制空権も確保して平和に見えたこの地でも戦況が徐々に悪化し、ついには全滅も覚悟しなければならないほどに追い詰められるようになった。そのようななかで「スパイ事件」が起きたのである(130~146)。

陸軍から軍需米を盗んだ2名の原住民をスパイの疑いがあるとして取り調べることを依頼された木村が取り調べたところ、「民生部の協力者」で「ある程度、日本語も解する」インド人の医師ジョーンズとインド人から信号弾を手に入れたと2人は自供した。しかし、すでに2人は拷問を受けた形跡があり、さらに「海軍主導の民生部の捜査が甘い」とした陸軍参謀らは「住民を人間のように取り扱うのではなく、ぶって、急いで自白を引き出せ」と命じて凄惨な取り調べを行い、その結果、大規模なスパイ団にかかわっていたとされた者81人が軍律裁判抜きで死刑とされ、他にも取り調べ中に4名が死亡した。

日本軍が1945年10月に上陸した連合国軍によって日本軍が武装解除された後でこの事件が明るみに出、木村はスパイ容疑で住民を取り調べた際に拷問して死なせたとしてB級戦犯に問われた。しかし、シンガポールの戦犯裁判では、上官から真相を話すことを禁じられていた木村はあいまいな供述に終始した(147~156)。

その結果、「拷問を伴う取り調べを命じ、処刑を指示した参謀は無罪、中佐は懲役3年だったのに対し、指示通りに取り調べた」木村ら末端の兵士・軍属五人は死刑を言い渡されて、1946年5月に「絞首刑」の刑が執行された。木村は28歳だった。

木村は死刑を宣告されてから哲学者・田辺元の『哲学通論』を手にし、感激して読むとともに、本の余白に遺書を書き込んでいた。木村は「私のごとき者の例は、幾多あるのである」(28)と書いていたが、無実にもかかわらず戦犯として処刑されるというテーマは、加藤哲太郎の遺書『狂える戦犯死刑囚』を原作として、黒澤の映画《羅生門》や《生きる》《七人の侍》などにも脚本家として参加していた橋本忍がテレビドラマ化した《私は貝になりたい》(1958年)のテーマを思い起こさせる。

→1958年「私は貝になりたい」ダイジェスト – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=3eoum9iEKEk

 「上官の命令は事のいかんを問わず天皇陛下の命令だ」と言われて捕虜の殺害を命じられた兵士の清水豊松は、手元がブルブル震えたためにかすり傷を負わせただけだったので上官から「足腰も立たんほどブン殴られた」*2。

それにもかかわらず捕虜殺害の罪に問われた豊松は、裁判で「あなたは、その命令をどうして断らなかったのですか?」と問われると、「(呆れ返る)分からねぇんだな、そんなことしようもんなら銃殺だよ」と反論するが、判事からは「不当な命令と思えば、軍律会議に提訴すればよいではないか?」と厳しく批判され、力なく「日本の軍隊では、二等兵は牛や馬と同じなんですよ、牛や馬と!」呟いたのである*3。

解説者の保坂正康が書いているように、「BC級戦犯裁判」では「上官が命令したことを認めない」ために、「無実でありながら絞首刑や有期刑を宣告された人たちが多い」状態だったのである*4。

こうして、罪もなく処刑されることになった清水豊松の「深い海の底なら……戦争もない……兵隊もない……(中略)どうしても生まれ代わらなければいけないのなら……私は貝になりたい……」という深い絶望の言葉でこのドラマは終わる。

二、『真実の「わだつみ」』の木村久夫と映画《白痴》の亀田欽司

木村久夫はその遺書で「吸う一息の息、吐く一息の息、食う一匙(ひとさじ)の飯、これらの一つ一つのすべてが、今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く、やがて数日のうちには、私へのお呼びもかかって来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚なくして行ってきたこれらのことが、味わえばこれほど切なる味を持ったものなることを痛感する次第である」と書き、「ただ与えられた瞬間瞬間をただありがたく、それあるがままに、享受していくのである」と続けていた(59-60)。

ドストエフスキーも長編小説『白痴』で死刑囚の気持ちについて詳しく記していたが、その長編小説を映画化した黒澤監督は、主人公を戦犯の罪で「銃殺」されそうになっていたが、「きわどいところで執行停止」になっていた若い兵士の亀田にしていた。そして銃殺される寸前の気持ちを綾子(アグラーヤ)から尋ねられた亀田は、「もし死ななかったら」、「その一つ一つの時間を……ただ感謝の心で一杯にして生きよう……ただ親切にやさしく……そういう思いで胸が破けそうでした」と語っていた*5。

黒澤明自身は徴兵されたことはなかったが、盟友の本多猪四郎は三度も赤紙で兵役に召集されており、本多夫人は「戦争が終わってから亡くなるまでの間、年二、三回、夜中にうなされ」ていたという重い証言をしている*6。

映画《白痴》の冒頭では、戦場から帰還した復員兵が北海道に向かう青函連絡船の三等室で夜中に「悪夢」にうなされて悲鳴をあげるというシーンを描いていた。そして亀田には、その後何度も発作を起こして沖縄の病院で治療したものの、「その時のショックで頭が狂って了って」白痴になったと初対面の赤間(ロゴージン)に正直に告げさせ、「戦争」を体験した兵士の極限的な精神状態を描いていた*7。

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娘の黒澤和子も黒澤監督が本多監督とよく戦争のことを話しており、「軍から命令が下されれば、現場の状況が無視され、様々な人格が破壊される、それが戦争の『悪』だと言っていた」という趣旨のことを語っていたが、『イノさんのトランク』という題名のドキュメンタリー番組では、トランクから見つかった本多の手紙には、本多が目撃した現地の情況とともに、「上等兵が、途中、数人の鮮人の若者を銃剣で突き殺す…」という文言や、「秋空のもとでこんな記事を書いているオレも現実の生活になれてしまったのだ。といっても、平気でいなければ気でも狂うか、自殺でもしなければならない」との記述も見られるのである(下線引用者)*8。

『真実の「わだつみ」』で、「南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追う商人よりも根底の根性は下劣なものであった」という厳しい木村の言葉を紹介した加古は、木村らを犠牲にして生きのびた元中佐の坂上が、1957年に青森県弘前市で行われた聞き取り調査では、シンガポールで行われた戦犯裁判で口裏を合わせて虚偽の供述をしたのは、「軍の体面上又旅団長を救うため」だったと答えたことを紹介している*9。

旅団長の斎俊男少将自身が「責任は私にある」と潔く認めて「銃殺刑」に処せられていたことを考慮するならば、参謀たちが虚偽の供述を命じたのは自分を守るためだけだったことになる。しかし、木村の上官だった鷲見(すみ)豊三郎はその手記で、民生部側が「『死刑は数名にとどめ、残りは有期刑に』と提案したが、参謀の斎藤や中佐の坂上らは『刑務所のない孤島でいかにして実施しうるか』と、一蹴した」と記していた(138)。

加古はこの「スパイ事件」そのものが虚構だった可能性も指摘しているが、鷲見の記述から判断するとこの事件の隠蔽は単に自分たちの罪を隠すだけではなく、「戦争」に勝つことを至上目的とし、そのためには占領地の住民を殺すことも正当化していた参謀本部の思想そのものを隠蔽しようとしていた可能性さえあると思える*10。

これらのことに注意を向けるならば、木村久夫と同じように映画《白痴》の亀田欽司も、日常生活ではいかなる場合でも人を殺せば、「殺人犯」となるが、「敵」を多く殺した者が「英雄」になり勲章を与えられるという「戦争」というきわめて異常な事態のことをよく認識していた人物として描かれていたといえるだろう。

実際、本多監督は映画《白痴》をめぐる座談会で「人間が冷静な思考を常にもつことができるとしたならば、戦争などは起こらないはずである、/戦争というものは、決して打算をはじいたらできることではない、多くの生命を失い、資材も浪費する、たとえ勝っても──敗ければもちろんだが、勝ったって決して得のいかない戦争などということは、人間が理性を失わないかぎり起こるものではない」と語り、この映画の意義を強調していたのである*11。

しかもドキュメンタリー番組『イノさんのトランク』では、黒澤監督が一九四二年(昭和十七年)の手紙で、「実際に戦っている兵隊の苦労は、しょせん、内地に居ちゃわかる訳がない。すまんすまんと云うより外はなく、それもまた何か白々しく、それも結局、心の隅の方に絶えず戦っている兵隊さんの事が、良心の呵責のように積もり積もっていく」と書いていたことも紹介されていた(太字は引用者)。

「倫理」や「道徳」に深く関わる「良心」という単語は、日本の社会や日常生活においては深くは定着していないように見えるが、ドストエフスキー作品においては『罪と罰』や『白痴』などの長編小説で「核」ともいえる重要な役割を担っている「良心」という用語が、黒澤監督の手紙では自然な形で用いられていたのである。

「せめて一冊の著述でも出来得るだけの時間と生命が欲しかった」とその遺書に記した木村久夫の処刑が実行されなかったならば、亀田欽司のような復員兵になっていた可能性が高いだろうし、旧制高知高校時代の恩師・塩尻公明によって木村の遺書の抜粋が1948年に月刊誌『新潮』の6月号に発表されていたことを考慮するならば(164)、映画《白痴》の構想にも影響していた可能性さえあるかもしれない。

つまり、長編小説『白痴』について文芸評論家の小林秀雄は、三角関係の愛情のもつれなどに焦点を当てて解釈していたが、黒澤監督が映画《白痴》で示唆したようにこの長編小説では「敵」を殺す事を「正義」とする「戦争」に対する重たい問題が提起されていたといえるだろう*12。 新たに見つかった木村久夫の遺書は、当時の植民地政策の問題点を明らかにするとともに、国の根幹にかかわる「憲法」に抵触すると思われる「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」などが閣議決定されている現在の日本の危険性をも浮き彫りにしていると思える。  

 

*1 加古陽治『真実の「わだつみ」――学徒兵 木村久夫の二通の遺書』東京新聞、2014年。

*2 橋本忍『私は貝になりたい』(原作:加藤哲太郎『狂える戦犯死刑囚』)朝日文庫、2008年、59頁、79頁。

*3 同上、70頁。

*4 保坂正康「解説」、前掲書、『私は貝になりたい』、190頁。

*5 『全集 黒澤明』第3巻、岩波書店、1988年、87頁。

*6 ドキュメンタリー番組『イノさんのトランク』、NHK・BSプレミアム、2012年12月20日。

*7 『全集 黒澤明』第3巻、岩波書店、1988年、75頁。

*8 堀伸雄「試論・黒澤明の戦争観」(『黒澤明研究会誌』第二九号)より引用。なお、本多きみ『ゴジラのトランク 夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情』宝島社、2012年、『僕らを育てた本多猪四郎と黒澤明──本多きみ夫人インタビュー』アンド・ナウの会、平成22年なども参照。

*9  加古陽治「『わだつみ』木村久夫処刑」東京新聞、2014年8月15日 朝刊。

*10 司馬遼太郎は『坂の上の雲』において「国家のすべての機能を国防の一点に集中する」という「プロシャの参謀本部方式」を陸軍が取り入れたことが、日本を無謀な太平洋戦争にまで引きずりこむことになったことを明らかにしていた(高橋『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、2005年参照)。

*11 黒澤明・浜野保樹『大系  黒澤明』第1巻、講談社、2009年、627頁。

*12 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、成文社、2014年、序章参照。

追記:本稿を脱稿後に映画《白痴》の前年に公開された黒澤映画《醜聞(スキャンダル)》(1950年)でも主演した女優の山口淑子氏が亡くなられた。その後の報道番組で李香蘭という中国名で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった山口氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動に奔走されていたことを知った。彼女が語った「贖罪」という言葉は、映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像を考える上でもきわめて重要だと思える。

世界文学120号(『世界文学』No.120、2014)  

(2019年3月5日、書影とユーチューブを追加)

「広場」23号合評会・「傍聴記」

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「広場」23号合評会を聴いて

                     

 7月19日の例会では『ドストエーフスキイ広場』第23号の論文を中心に合評会が行われた。紙面の都合から議論となった争点を中心に順を追って紹介していきたい。

 原口美早紀氏の論文「『白痴』におけるキリスト教思想」を論じた福井勝也氏は、ドストエフスキーの手紙を引用することで「ドストエフスキイのキリスト教思想はヨハネ福音書に多く依っている」ことを指摘したこの論文を高く評価する一方で、手紙の同じ箇所を引用しつつも小林秀雄が「ポジとしてのイエス」に対して「陰画(ネガ゙)としてのイエス」という視点を提示していたことを強調した。

 この論文に関してはもっとも注目されたのは、原口氏の視点で、『白痴』のムィシキンには「ヨハネ福音書」のイエス像と同じように「喜びの福音を伝える者」としての要素が大きく、またイッポリートが「弁明」を書いた理由も彼が「饗宴」を求めたからだろうとの解釈だった。この解釈は説得力があるという意見が目立った。

 高橋論文「『シベリヤから還った』ムィシキン」を論じた木下豊房氏は、E.H.カーが小林秀雄の視点に及ぼした影響はかなり強く、ナスターシャが「商人の妾」であることや「キリスト教への発心」の時期が『悪霊』以降であるという説をカーが書いていることを明らかにするとともに、「小林にとっての最大の関心事は、観念に憑りつかれた人間が、駆り立てられるようにカタルシスに向かってたどる心理的プロセス」であったと指摘し、小林のドストエフスキー論の背景に戦争に向かう当時の時代情況を見ようとすることやエウゲーニイにムイシキンの告発者としての役割などを見ることは「深読み」であろうとの批判がなされた。

 しかし、ムィシキンを「シベリヤから還った」者と規定した小林秀雄が、『罪と罰』論では殺人を犯した主人公には「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していたことやエヴゲーニイがプーシキンの愛読者でもあったことにも注意を払わねばならないだろう。「黒澤と小林を対比する方法によって、小林についていろいろ見えてくるものがあるのは確か」との指摘はきわめて重要だと思われた。

 大木昭男氏の論文「ドストエーフスキイとラスプーチン」を論じた近藤靖宏氏は、まず中編小説『火事』が書かれたのが、チェルノブイリ原発事故があったことに聴衆の注意を促すことで、この作品が書かれたソ連の時代状況を示し、『カラマーゾフの兄弟』の「ガラリアのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写と比較しながら、『火事』でも実際の風景と心象風景が組み合わされて迫力のある描写になっていることを指摘した。

 その一方で、この作品で描かれている農村や主人公の情況が日本の読者には不明な点が多いので、二人の作家の内的な関係が今ひとつ分かりにくいとの感想もあったが、その点では論文では削除されていたが、報告では触れられていた『おかしな男の夢』における「覚醒」の問題や、『火事』でも頻出する「良心」という単語の役割がより明確になると二人の作家の比較が説得力をもったのではないかとの意見も出された。

 清水孝純氏の「ドストエフスキーとグノーシス」の予定していた論評者が出席できなくなったために、急遽、代役を引き受けられた木下氏は清水論文の問題提起を受けて「グノーシス主義にとって、善悪の問題は知による認識にかかわるもの」だが、ドストエフスキーにとって善悪の問題は、「信仰、不信仰の問題と深く結びついていて、人物創造の基軸をなしている」とし、作家が子供の頃に読み『カラマーゾフの兄弟』でもゾシマ長老に語らさせていた「「『旧・新約聖書の百四つの物語』という美しい絵入りの本」にも収められていた「ヨブ記」の重要性を指摘した。

 すでに字数を大幅に越えたが、主人公たちの娼婦に対する言説を考察した西野常夫氏の「椎名麟三の『地下室の手記』論と『深尾正治の手記』」のテーマがきわめて深い内容であり、椎名麟三への関心もあるので、ぜひ例会での発表をお願いして質疑応答をゆっくりとしたいとの言葉が印象に残った。

 残念ながら、当日の参加者は少なかったが、「ドストエーフスキイの会」を活性化するためにも、遠方の会員も参加しやすいような形が模索されるべき時期に来ているのではないかと感じられた。

 

「グローバリゼーション」と「欧化と国粋」の対立

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(高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

序に代えて――「欧化と国粋」の対立とドストエフスキー

クリミア戦争敗北後にロシアは西欧の思想やシステムを大胆に取り入れるべきと主張した西欧派とそれに対する反発からロシア独自の伝統を保持すべきとしたスラヴ派との対立に揺れた。

その時代にドストエフスキーは多くのロシアや西欧の先行者の考察を踏まえて西欧派とスラヴ派の理論的な対立を鋭く批判しつつ、両者の対立を乗り越える総合としての道として「大地主義」の思想を唱えて『虐げられた人々』や、『死の家の記録』などの作品を発表し、それらは『罪と罰』などの長編小説で結実することになった。

興味深いのは一八六二年に日本の啓蒙思想家・福沢諭吉とドストエフスキーが相次いで西欧の主要な都市を訪れ、ロンドンで行われていた万国博覧会なども見学し、その印象を『西航記』や『冬に記す夏の印象』に記していたことである。

この二人の文明観を比較しつつ、ドストエフスキーの作品をとおして「欧化」と「国粋」の問題を考察することは、強いグローバリゼーションの圧力のもとで「集団的自衛権」という名前で「軍事同盟」の必要性が再び唱えられるようになった日本の未来を考える上でも重要だと思われる(以下、『欧化と国粋』の序章より引用)。

 

 「文明開化」と「グローバリゼーション」

ところで、福沢諭吉とドストエフスキーの二人が同じ年に西欧を訪れたのは単なる偶然ではなかった。三宅正樹はクリミア戦争を「ヨーロッパ国家系」から「世界国家系」へと「世界史」が拡大し変質していく「端緒」ととらえた政治学者中山治一の論文を比較文明学的な視点から紹介しているが、実際にクリミア戦争も主戦場となった黒海沿岸だけでなく、カムチャツカや日本近海でも行われ、日本の開国交渉にも深い影響を及ぼしていたのである*23。バックルの『イギリス文明史』がクリミア戦争の最中に書かれ、比較文明論の端緒とも位置づけられるダニレーフスキイの『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概観』(一八六九)がクリミア戦争を契機として書かれているという事実も三宅の指摘の重要性を裏付けているだろう。

それとともに注目しておきたいのは、この当時、大企業主としてサンクト・ペテルブルクで活動をしていたノーベルの父が、クリミア戦争に際して「機雷を実用化させ」ていたが、戦争に負けて「ロシア陸軍からの収入がすべて途絶え」たために一家がスウェーデンに戻ることになっていることである*24。ノーベル一族はその後、息子のアルフレッドがダイナマイトを発明したことによって、巨万の富を築くことになるが、つまりクリミア戦争は兵器の進化と殺傷能力の大規模化という面でも一時代を画すものとなったのである。

こうして、一八五四年の日本の開国と一八五六年のクリミア戦争の敗北後に、日露両国は近代化の必要性を痛感し、大きな危機を内蔵しながら、近代西欧文明に対抗できるだけの国家体制を模索することになったのである。しかも、原卓也は一八四〇年代の末にロシアでは、「建国一千年の記念」をいつにするかをめぐって、「日本の紀元節論争」のような論争が起こっていたことを紹介しているが*25、ドストエフスキーがヨーロッパから帰国した一八六二年の九月八日にロシア建国一千年祭が行われている*26。また、ピョートル大帝の生誕二〇〇周年を祝う祝典が行われた一〇年後の一八七二年には、一連の公開講座でモスクワ大学を卒業した後、ギゾーやランケに学んだ歴史家のソロヴィヨーフがピョートル大帝の改革の意義を強調して、改革をめぐる論議を呼ぶことになる*27。

一八六一年に兄のミハイルとともに総合雑誌『時代』を創刊して、バックルの『イギリス文明史』の紹介や翻訳を載せるとともに、モスクワ大学の世界史の教授で西欧派の歴史学者グラノーフスキイの論文ややはりモスクワ大学の出身でスラヴ派のホミャコーフについての論文をも掲載していたドストエフスキーが、これからの文明のあり方に強い関心を抱いたのは当然といえよう。

つまり、「幕末」における激動の時代を生きていた福沢諭吉と同じように、ドストエフスキーもまた「ペレストロイカ」の時期に先だって「グラースノスチ」(言論の自由と情報公開)の必要性が叫ばれた「大改革」と呼ばれる激動の時代を生きていたのであり、彼らはこのような流れの中で、西欧を自分の目でじかに観察することによって、今後、自分の国が歩むべき方向性を見定めようとしていたのである。

湾岸戦争やソ連の崩壊後、「グローバリゼーション」という名のもとに情報、政治、経済だけでなく文化の分野でも画一化が進む現在、これに対する反発から「ローカリゼーション」が強いナショナリズムを伴いながら、世界の各地で野火のような広がりを見せている。このような流れの中で日本でも「黒船の来航」や「敗戦」に続く「第三の開国」とも言われるような状況が生まれ、小学校からの「英語教育」の必要性を強調するような「欧化」の流れに対する鬱積した不満や「アイデンティティの危機」が強まり、「自国」の歴史の優越性を強調する「国粋」の流れが強まっている。

しかし、日本では「欧化と国粋」の激しい振幅が、ほぼ二〇年で周期的に交替していることをも山本新は指摘していたが、このような「振り子の揺れにも似た振幅」が、現代にいたっても続いていることを確認した吉澤五郎は、「新しい『地球文明』に適合する日本的結実の可能性を開示」することによりこのサイクルを克服することが急務であると記している*29。

他方で、「非西洋における西洋化と西洋における近代化の問題」を問い続けた山本新の仕事を高く評価した神川正彦は、一九世紀に「〈中心文明〉にせりあがった」、西欧の「一九世紀〈近代〉パラダイム」を根本的に問い直すには、「欧化」の問題を「〈中心ー周辺〉の基本枠組においてはっきりと位置づけ」ることや、「〈土着〉という軸を本当に民衆レベルにまで掘り下げる」ことの重要性を指摘している*30。

以下、本書では日本の開国とほぼ同時に起きていたクリミア戦争とその敗北後の「大改革」の時期に焦点を絞って、こうした比較文明学の視点から日露の「文明開化」を比較しつつドストエフスキーの作品を分析することにより、「欧化と国粋」の対立を克服しようとして彼が唱えた「大地主義」の現代的な意義に迫りたい*

『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年より、序章「二つの文明観――福沢諭吉の文明観とドストエフスキー」の一部を掲載。再掲に際してはわかりにくい箇所を削除したが、人名表記は本書のままに残し、注は省略した。8月29日改訂)。

リンク→ 『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(人名・作品名索引)

*「大地主義」とはドストエフスキーがシベリア流刑後に創刊した雑誌『時代』で唱えた考えで、『虐げられた人々』や『死の家の記録』、さらに『冬に記す夏の印象』などの作品や、長編小説『罪と罰』と『白痴』にもその考えが強く見られるだけでなく、『カラマーゾフの兄弟』にもその流れは続いている。

日本ではこの時期のドストエフスキーの考えや作品は軽視されてきたが、最近、 戦時中の1943年1月に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の主要な脚本家が黒澤明であり、映画《赤ひげ》で示されることになる『虐げられた人々』の深い理解を踏まえて書かれていることが明らかになったと思われる(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、第2章および第3章参照)。

あとがきに代えて──小林秀雄と私

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あとがきに代えて──小林秀雄と私

 

 「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論は、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけになった。原作の文章を引用することにより作品のテーマに迫るという小林秀雄の評論からは私の文学研究の方法も大きな影響を受けていると思える。

 『カラマーゾフの兄弟』には続編はありえないことを明らかにしていただけでなく、「原子力エネルギー」の危険性も「道義心」という視点から批判していた小林の意義はきわめて大きい。

 しかし「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と書いた小林秀雄が、「『白痴』についてⅠ」で「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と記していたことには強い違和感を覚えた。

 さらに、小林秀雄のドストエフスキー論を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「物語」であり、これは「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

 ただ、これまで上梓した著作でほとんど小林秀雄に言及しなかったのは、長編小説『白痴』をきちんと読み解くことが意外と難しく、イッポリートやエヴゲーニーの発言に深く関わるグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの作品をも視野に入れないとムィシキンの恩人やアグラーヤの名付け親など複雑な人物構成から成り立っているこの長編小説をきちんと分析することができないことに気づいたためである。

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)でようやく黒澤監督の映画《白痴》を通してこの長編小説を詳しく分析したが、小林秀雄のドストエフスキー論について言及するとあまりに議論が拡散してしまうために省かざるをえなかった。

 少年の頃に核戦争の危機を体験した私がベトナム戦争のころには文学書だけでなく宗教書や哲学書なども読みふけり、『罪と罰』や『白痴』を読んで深い感銘を受けたことや、『白痴』に対する私の思いが揺らいだ際に「つっかえ棒」になってくれたのが黒澤映画《白痴》であったことについては前著の「あとがき」で書いた。ここでは簡単に小林秀雄のドストエフスキー論と私の研究史との関わりを振り返っておきたい。

 *    *  *

  小林秀雄は、戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書いた。そして、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていた。〔二四八〕

 しかし、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆していた。この文章を読んだときには小林が戦争という悲劇を体験したあとでも、自分が創作した「物語」を守るために、原作を矮小化して解釈していると感じた。

  それゆえ、修士論文「方法としての文学──ドストエフスキーの方法をめぐって」(『研究論集 Ⅱ』、一九八〇年)では、感覚を軽視したデカルト哲学の問題点を批判していたスピノザの考察にも注意を払いながら、社会小説の側面も強く持つ『貧しき人々』から『地下室の手記』を経て『白痴』や『未成年』に至る流れには、シェストフが見ようとした断絶はなく、むしろテーマの連続性と問題意識の深まりが見られることを明らかにしようとした。

  上梓した時期はかなり後になったが、厳しい検閲制度のもとで戦争の足音が近付く中で、なんとか言論の自由を確立し農奴制を改革しようとしたドストエフスキーの初期作品の意味をプーシキンの諸作品などとの関わりをとおして考察した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、二〇〇七年)には、私の大学院生の頃の問題意識がもっとも強く反映されていると思える。

 ラスコーリニコフの「罪の意識と罰の意識」については、「『罪と罰』における「良心」の構造」(『文明研究』、一九八七年)で詳しく分析し、その論文を元に国際ドストエフスキー学会(IDS)で発表を行い、そのことが機縁となってイギリスのブリストル大学に研究留学する機会を得た。イギリスの哲学や経済史の深い知識をふまえて、『地下室の手記』では西欧の歴史観や哲学の鋭い批判が行われていることを明らかにしていたピース教授の著作は、後期のドストエフスキー作品を読み解くために必要な研究書と思える(リチャード・ピース、池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版企画、二〇〇六年)。

 この時期に考えていた構想が『「罪と罰」を読む──「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、一九九六年、新版〈追記――『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』〉、二〇〇〇年)につながり、そこでラスコーリニコフの「良心」観に注意を払いつつ、「人類滅亡の夢」にいたる彼の夢の深まりを考察していたことが、映画《夢》の構造との類似性に気づくきっかけともなった。

 日露の近代化の類似性と問題点を考察した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)でも、雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』、『死の家の記録』、『冬に記す夏の印象』などの作品を詳しく分析することで小林秀雄によって軽視されていた「大地主義」の意義を示そうとした。

 プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』については授業では取りあげていたが、僭称者の問題を扱う予定の『悪霊』論で本格的に論じようとしていたためにこれまで言及してこなかった。今回、この作品における「夢」の問題にも言及したことで、『罪と罰』から『悪霊』に至る流れの一端を明らかにできたのではないかと考えている。

 「テキスト」という「事実」を自分の主観によって解釈し、大衆受けのする「物語」を「創作」するという小林の方法は、厳しい現実を直視しないで威勢のよい発言をしていた鼎談「英雄を語る」*などにおける歴史認識にも通じていると思える。このような方法の問題がきちんと認識されなければ、国民の生命を軽視した戦争や原発事故の悲劇が再び繰り返されることになるだろう。

 「『罪と罰』をめぐる静かなる決闘」という副題が浮かんだ際には、少し大げさではないかとの思いもあった。しかし、本書を書き進めるにつれて、映画《白痴》が小林の『白痴』論に対する映像をとおしての厳しい批判であり、映画《夢》における「夢」の構造も小林の『罪と罰』観を生涯にわたって批判的に考え続けていたことの結果だという思いを強くした。黒澤明は映画界に入る当初から小林秀雄のドストエフスキー観を強く意識しており、小林によって提起された重たい問題を最後まで持続して考え続けた監督だと思えるのである。

 時が経つと不満な点も出て来るとは思うが、現時点では本書がほぼ半世紀にもわたる私のドストエフスキー研究の集大成となったのではないかと感じている。

 黒澤明監督を文芸評論家・小林秀雄の批判者としてとらえることで、ドストエフスキー作品の意義を明らかにしようとした本書の方法については厳しい批判もあると思うので、忌憚のないご批判やご助言を頂ければ幸いである。

 

注 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2014年5月3日、注の加筆:7月14日)

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎

   

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 一、フクシマの悲劇

 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起きたのは、大学の会議が終わった直後のことで、立っていることも出来ないような大きな揺れだった。慌てて会議室から外に出たあとでもう一度大きな揺れを感じながら、地殻変動でできた日本が地震大国であることを実感した。

 しかも、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の際には長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、風向きによっては被爆する可能性もあったが、ソ連のニュースだけでなく、日本大使館からもほとんど情報が伝わらずに、西欧から来た留学生たちが自国の大使館から得てくる情報に頼るしかなかったという経験をしていた*1。

 テレビやインターネットに映し出された福島第一原子力発電所の静止画像から目を離すことができずに食い入るように画像を見つめ続けていた私は、同僚の一人から日本の技術は進んでいるので大丈夫ですよと慰められた。

 しかし、イギリスのブリストル大学で研究をしていた一九九五年一月には、日本からの電話で慌ててテレビのニュースをつけると阪神淡路大震災で町中が燃えており、翌日には大地震でも大丈夫と喧伝されていた高速道路の橋桁が大きく曲がっている写真が大きく新聞に載っていた。その記事を読みながら、関東大震災から五〇年目の一九七三年に発表された小松左京の『日本沈没』を思い出して、日本では自然の恩恵は強調する一方でその猛威に対する認識はきわめて甘いのではないかという不安を強く持っていた。

 実際、大地震で止まった電車の回復を待っている時に福島第一原子力発電所の「炉心が冷却できない状態にある」ことを知った。翌朝も目覚めてからは三〇分おきにテレビのニュースで何事も起きていないことを確認していたが、午後四時過ぎに危惧していたことが起きた。

 一号機が水素爆発を起こしたあとで明らかになったのは、政・官・財が一体となって「絶対安全」だと宣伝していた原子力発電所には原子炉を冷やすために水を放水する消防車やきちんとした防護服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。そして、使用済み核燃料が放置された古タイヤのように燃え出し、原子炉がメルトダウンして放射線が空気中に放出されただけでなく、被爆した大量の水が海に流れ出た。チェルノブイリ原発事故にも匹敵するような大事故は、核実験を続けてきたフランスやアメリカの技術支援によってようやく、最大の危機を脱したが、汚染水の流出は事故から三年経った現在も止まっていない。

二、黒澤映画《夢》と長編小説『罪と罰』における夢の構造

 刻一刻と悪化する福島第一原子力発電所の状況を見ながら思い起こしたのは、一九九〇年に公開された全八話からなるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」で今回の事故を予言していたとも思えるほどの迫力で原発事故が描かれていたことであった。

 アメリカの水爆実験によって被爆した「第五福竜丸」事件の後で撮った映画《生きものの記録》(シナリオの最初の題名は『死の灰』)では、原爆実験や核戦争の危険性を本能的に感じて日本からブラジルへと移住しようとした老人の決意と苦悩を描き、そのラスト・シーンでは精神を病んで精神病院に収容された主人公が夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンを描いていた*2(『全集 黒澤明』第四巻、一四〇頁――以下、巻数をローマ数字で、頁数を漢数字でかっこ内に記す)。

 その場面からは私は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」を強く連想したが、富士山に建設された六つの原子力発電所が事故で次々と水素爆発を起こすという「赤富士」のシーンで黒澤明監督は、子供を連れて逃げ惑う母親に「原発は安全だ」と説明し原発を「国策」として推進してきた関係者を「縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」と悲痛な声で批判させていた(Ⅶ・二〇)。

 それゆえ、制作費などさまざまな問題などを乗り越えて、この映画を公開していた黒澤明監督の先見の明を改めて強く感じるとともに、原発の危険性に気付きながらもあまり発言をしてこなかった自分の不明を深く恥じた。

 しかも事故後に『黒澤明の遺言「夢」』という著作を読んで、映画《夢》(一九九〇年、脚本・黒澤明)の「ノート」に、黒澤明監督がドストエフスキーの『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の一節をそのまま書き写しただけでなく、その横に「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していたことを知った*3。  

 このことに注目してこの映画を見直すと、高利貸しの老婆を殺す前に見た「やせ馬が殺される夢」が、少年時代の体験と自然への畏れを描いた第一話「日照り雨」や、「桃の精」の苦しみが描かれている第二話「桃畑」などに対応していることに気づく。

 第三話「雪あらし」で描かれている「雪女」の哀しみは、『罪と罰』におけるソーニャの哀しみにも通じているだろう。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺した後で見る「殺された老婆が笑う夢」は、死んだ兵士たちの亡霊が出て来る第四話「トンネル」につながっていると思える。

 第六話「赤富士」の後で描かれている第七話「鬼哭」では、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の根底にあった「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」と「人類滅亡の悪夢」との深い因果関係が示唆されている。

 さらに、第八話「水車のある村」において、「近頃の人間は、自分達も自然の一部だという事を忘れている」と語り、「特に学者には、頭がいいのかも知れないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いので困る」と語る「モーゼの様な髭を生やした」老人の言葉は、血で「汚した大地に接吻なさい」と語ったソーニャの言葉に従って自首をしたラスコーリニコフがなぜ、シベリアで「復活」しえたのかという深い理由を説明しているとさえ思える。

 ではなぜ、偶然の一致とはいえないようなこれほどの類似が見られるのだろうか。

この意味で注目したいのは、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄が、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していたことである*4(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁── 以下、巻数と頁数を〔〕内に六・四五、五三のように表記する)。

 さらに小林は、第四章で詳しく見るように、一九三六年に書いた映画評ではスタンバーグ監督の映画《罪と罰》などに言及しながら、表現手段としての「文学」と「映画」を比較して、映画では『罪と罰』の深みを描くことはできないと批判していた〔四・二二四~二二六〕。

 一方、黒澤の映画における師といえる山本嘉次郎監督は、夏目漱石の『坊つちやん』を映画化して一九三五年に公開し、その翌年には『吾輩は猫である』を原作とした映画《吾輩は猫である》も公開していた。映画という表現手段を批判した小林の記述は、一九三六年にPCL映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社し、一九三八年には映画《綴方教室》に製作主任として参加する黒澤に、文学作品の映画化についての深い考察を迫っていたといえるだろう。

  実際、小林秀芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していたが〔一・一五二〕、戦後の一九五〇年に公開した映画《羅生門》で黒澤は、夏目漱石の弟子にあたる芥川の深いドストエフスキー理解と芥川作品の現代的な意義を示していた。

 さらに最近になって、戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本に黒澤が深く関わっていたことが明らかになった*5。本論で詳しく見るように小林秀雄はシベリア流刑後にドストエフスキーが唱えた「大地主義」に否定的だったが、黒澤は『死の家の記録』などこの時期に書かれた作品を高く評価しており、彼が中心的な役割を担ったこの映画の脚本でも『虐げられた人々』からの影響がすでに強く見られる。

 ことに、沖縄で冤罪から死刑にされかかったことのある復員兵を主人公とした映画《白痴》の結末は、『白痴』の主人公ムィシキンがスイスからではなく、「シベリヤから還つた」とし、その結末についても「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何んの責任も持たない」と一九三四年に「『白痴』についてⅠ」で書いていた小林の記述とは正反対ともいえるほどに異なっていたのである〔六・一〇〇〕。

三、消えた「対談記事」

 小林秀雄は映画《白痴》を初めとする黒澤映画についてはほとんど語っていないので、彼が黒澤明監督のドストエフスキー観をどのように考えていたかは判らない。しかし小林は、映画《白痴》が公開された翌年の一九五二年から五三年にかけて八章からなる「『白痴』についてⅡ」を発表し、その後半では黒澤映画《白痴》ではあまり描かれていなかったレーベジェフやイッポリートに焦点をあてて論じていた。

 興味深いのは、その小林が一九五六年一二月に黒澤との対談を行っていたことである*6。この前年に黒澤は映画《生きものの記録》を公開していたが、「第五福竜丸」事件をきっかけに三千万以上の署名が集まるほど高まった反核の動きは、「ついに太陽をとらえた」と題して読売新聞に連載された特集や「原子力平和利用博覧会」の開始によって急速に流れが変わり、この時期には原爆の危険性を指摘することはすでに「季節外れ」のように見なされるようになっていた*7。

 しかし、第二章で詳しく見るように、小林秀雄は一九四八年に「人間の進歩について」と題して行われた物理学者の湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」の「平和利用」という湯川の考えの危険性をいち早く指摘し、「道義心」の視点から厳しく批判していたが、その後に行われた黒澤明との対談で湯川秀樹は映画《生きものの記録》を高く評価していた。

 『白痴』の結末に対しては正反対の見解を示す一方で、「原子力エネルギー」の危険性を深く認識していた二人の巨匠がどのような対談を行っていたのだろうか。残念ながら、掲載されれば必ず売り上げを伸ばすと思われる二人の著名人による対談記事が雑誌に載らなかったために、対談の詳細な内容は明らかになっていない。

 しかし、飛行機事故などでは「ブラックボックス」を探し出して回収することが事故解明の第一歩とされるが、幸いこの時の対談については、その時の写真が残されているだけでなく*8、司会者などの短い回想も残されている。その後の二人の記述や映画などからは、『白痴』の結末の解釈などにたいする強いこだわりが感じられ、この時の対談が巨匠たちに残した痕跡の深さが感じられる。

 原発の推進が「国策」となると小林秀雄は「原子力エネルギー」の危険性についてほとんど語らなくなったが、映画《赤ひげ》の制作が発表された翌年の一九六四年に発行した『「白痴」について』(角川書店)では短い第九章を加えて、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだらう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである(後略)」と書いていた〔傍線引用者。六・三四〇〕。名指しこそしてはいないものの、「不注意な読者」という表現は黒澤明監督を強く意識している可能性が高いと思われる。

 一方、映画《どですかでん》が営業的な失敗に終わった後で発作的に自殺を図っていた黒澤は、探検家アルセーニエフと自らをナナイ人(大地の人)と呼ぶ少数民族・ゴリド族の狩人デルスとの交流を描いた『デルスウ・ウザーラ』を原作とする映画《デルス・ウザーラ》をシベリアで撮って見事に復活した*9。    

この映画を一九七五年に日本で公開した後に若者たちと行った座談会で黒澤明は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語ったが*10、その言葉に強い反発を覚えたかのように小林は、スリーマイル島の原発事故が起きた一九七九年に河上徹太郎と行った対談でも「『白痴』はシベリアから還ってきたんだよ」と繰り返して主張している*11。

 このような『白痴』の結末をめぐる互いを強く意識したと思われる両者の発言に注目するとき、映画《夢》はドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」の成果だと言っても過言ではないとさえ思える。

 本書ではまず作者と主人公の問題に注目しながら、ムィシキンが「シベリヤから還つた」とする小林秀雄の『罪と罰』論と『白痴』論との関連を分析し、さらに主な登場人物の解釈の問題点を明らかにすることで、本論の方向性を確認する。第一章からは小林秀雄のドストエフスキー観と比較しつつ、映画の公開順に映画《白痴》から映画《夢》にいたる黒澤明監督のドストエフスキー理解の深まりに迫ることにしたい。

 消えた「対談記事」の謎に注目しつつ、小林秀雄と黒澤明のドストエフスキー観を具体的に比較することで、なぜ黒澤監督が映画《夢》で東京電力福島第一原子力発電所の悲劇を予言しえたかという「謎」にも迫ることができるだろう。

 

*1 チェルノブイリ原発事故については、「高橋誠一郎 公式ホームページ」の「映画・演劇評」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」を参照。

*2 『全集 黒澤明』第四巻、岩波書店、一九八八年、一四〇頁。

*3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年参照。

*4 『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、四五頁、五三頁。

*5 (編)石割平、円尾敏郎、谷輔次『はじめに喜劇ありき』ワイズ出版、二〇〇五年、一五一頁。

*6  黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明』第四巻、講談社、二〇一〇年、八一六頁(以下、『大系 黒澤明』と略記して、巻数と頁数のみを記す)。

*7  中日新聞社会部『日米同盟と原発──隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年参照。

*8  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、三六六頁。

*9  アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ──沿海州探検行』東洋文庫、一九六五年、三〇八頁、映画化に際しては日本語では発音しにくいことから、主人公のデルスウの名前はデルスと表記されたので、本書でも基本的にはデルスと記す。

*10  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、二八八頁。

*11  小林秀雄『考える人』春季号/新潮社、二〇一三年、四五頁。

 

 

小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤明

リンク「主な研究(活動)」タイトル一覧 

リンク「主な研究(活動)」タイトル一覧Ⅱ 

 

小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤明

1,小林秀雄の芥川観とドストエフスキー論      

 芥川龍之介(1892~1927)が最後の年に検閲制度の厳しさを鋭く批判した作品『河童』を書いていたことはよく知られている。

芥川の自殺を取り上げた評論「芥川龍之介の美神と宿命」(『大調和』)を同じ年に書いた文芸評論家の小林秀雄(1902~83)は、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ一九三二(昭和七)年に発表した評論「現代文学の不安」で「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定した。

興味深いのは、このような厳しい芥川の批判と対をなすようにして小林が、ドストエフスキー作品の本格的な考察への意欲を記していることである。

すなわち、ドストエフスキーについて「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記した小林は、「『憑かれた人々』は私達を取り巻いてゐる。少くとも群小性格破産者の行列は、作家の頭から出て往来を歩いてゐる。こゝに小説典型を発見するのが今日新作家の一つの義務である」と続けていた〔『小林秀雄全集』第1巻〕。

  こうして小林は、「近代知識人の宿命を体現した人物として」論じられてきた芥川作品を、正面から論じて批判するのではなく、ドストエフスキーを引き合いに出すというレトリックを用いることで、芥川作品の文学的な価値を低めることに成功していた。

 2,黒澤明の芥川龍之介観

しかし、果たして芥川は「人間一人描き得なかつたエッセイスト」であり、ドストエフスキーとは無縁の作家だったのだろうか。以下、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』より映画《羅生門》を考察した節の一部を引用することで、黒澤明の芥川観とドストエフスキー観の一端に迫ることにしたい(引用に際しては注の番号などは省いた)。

短編「羅生門」(1915)において価値が混乱した戦乱の世で老婆の服を盗むことも厭わない下人の荒々しいエネルギーを描きだした芥川龍之介(1892~1927)は、短編「藪の中」(1922)では「一つの事件」を三人のそれぞれの見方をとおして描いていた。このことを思い起こすならば、比較文学者の国松夏紀が指摘しているように、芥川はドストエフスキーのポリフォニー的な方法で短編「藪の中」を描いていたといえるだろう。

 映画《羅生門》(脚本・橋本忍、黒澤明)で、芥川のこれら二つの短編を組み合わせるとともに木樵の証言も加えた黒澤は、最後の場面では赤ん坊の服を盗むことも厭わない下人と対比しながら、苦しい生活ながらも捨てられた赤ん坊を育てようとする木樵とその言葉を信じようとする旅法師の姿を描いた。

 映画監督のクレイマンは、「多義性のイデアは(漢字を用いてきた)日本の芸術的思惟に古来存在した」もので、「この映画を見たあと、観客は殺人の探偵小説的謎解きをではなく、真実と存在、世界のなりたちの非一義性に関する”ドストエーフスキイ的”思想を持ち帰るのだ」と述べて高く評価している。

 この言葉はモノローグ的な形で主人公を描くことを避け、登場人物たちとの人間関係をとおして「ムィシキンという謎」を解くことを読者に求めていた『白痴』と同じような手法で、《羅生門》における「事件」が描かれていることを明らかにしているだろう。

 一方、「芥川はすべてのモラルの価値、すべての真実に疑問を投げることで満足した」と書いた映画評論家リチーは、最後のシーンについて「だが黒澤はあきらかに違う。黒澤はアナーキストでも人間嫌いでもない。彼は希望に執着する」と解釈した。しかし、大正5年に発行されたロマン・ロランの『トルストイ』の翻訳にも関わっていた芥川は、最晩年に書いた『西方の人』で、「クリストの祈りは今日(こんにち)でも我々に迫る力を持ってゐる」と書いていた。

 しかも、1922年に書いた『将軍』で「正義の戦争」とされた日露戦争の問題点を鋭く突いていた芥川は「藪の中」で、客観的に見えた「一つの事件」を、さまざまな人物の視点から見ると全く異なった「事件」に見えることを示し、現代の「歴史認識」の問題にもつながるような「事実」の認識の問題を提起していた。

 このことに注目するならば、最後のシーンは二つの短編だけでなく芥川作品の全体を視野に入れた黒澤明の深い解釈であり、それは1932(昭和7)年に発表した評論「現代文学の不安」で芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していた小林秀雄の芥川観への鋭い批判であった可能性さえあると思える。

  そして、戦乱で荒廃した都を舞台に「我欲に走る」ようになった人間像とともに、人間に対する深い信頼をも描いて芥川の深い人間観や世界観を描いた映画《羅生門》は、悲惨な戦争でうちひしがれていた観客に感動を与え、1951年9月のヴェネチア映画祭ではグランプリを獲得した。(リンク先→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』)

 

  3,晩年の芥川龍之介とドストエフスキー作品

 私は夏目漱石の弟子でもあった芥川がドストエフスキー作品のもっとも深い理解者の一人であり、黒澤監督はその一面を見事に映像化したと考えている。

今回の拙著ではドストエフスキーの初期作品についてはほとんど言及することができなかったので、最後に「暗黒の三〇年」と呼ばれるニコライ一世治下のロシア帝国ときわめて似た相貌を示すようになっていた昭和初期の日本の問題点を、芥川の『河童』をとおして簡単に考察しておきたい。

*    *    *

  福沢諭吉は、西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしていたので福沢諭吉が「未曽有(みぞう)の専制」と断じていた。

しかし、日本やロシアのように西欧とは異なる「伝統」と持つ国家において、「国権」が強調されるとき、国の方針に反対する者を「非愛国的」と見なすような傾向も生まれる。

 このような大正から昭和にかけての悲劇を象徴するような出来事が、第一高等学校から東京大学へと進み、第四次『新思潮』の同人として短篇『鼻』で漱石の激賞を受け、華々しく文壇にデビューした芥川龍之介の自殺であろう。

 評論家の関口安義氏は、芥川が第一高等学校在学中に蘆花の「謀叛論」を聞いたという実証はできないとしながらも、親友井川恭や成瀬正一などが受けた強い印象の記述をとおしてその影響を見ている。たしかに成瀬正一によるロマン・ロランの『トルストイ』の翻訳にもかかわっていた龍之介は、その早すぎる晩年には『将軍』や『桃太郎』などの短篇で「自国の正義」を主張して、国民を戦争へと駆り立てることを厳しく批判していたのである。

 しかし、1925(大正14)年に公布された治安維持法について司馬は、国家そのものが投網やかすみ網のようになっていたとし、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と鋭く批判した。このような状況下で書かれたのが、1927年に書かれた『歯車』である。

   ドストエフスキーにおける「分身」のテーマに注目した井桁貞義氏は、ここで芥川が『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』に言及しつつ、自己の分裂の危機を描いていると指摘している。さらに同じ年に書かれた『河童』で芥川は、「ある精神病院の患者」が語った話を記したという形で、「河童の国を借りて取り上げられる諸問題は、文明・風俗習慣・生誕・恋愛・家族制度・芸術・官憲の横暴・資本主義・法律・自殺・宗教」などの問題を取りあげていた。

 このことを指摘した評論家の関口安義氏は、河童の国の音楽会で警察により「演奏禁止」が命じられる場面をとおして、芥川が「当時の日本の官憲による言論・表現への諸検閲制度を暗に皮肉っている」とした。

 実際、語り手の〈僕〉に、「そんな検閲は乱暴じゃありませんか?」と河童の国を批判させた芥川は、河童のトックに「何、どの国の検閲よりもかえって進歩している位ですよ。たとえば日本を御覧なさい。現につい一月ばかり前にも……」と反論させながら、途中で沈黙させていたのである。

 しかも、芥川は河童の国では、「労働者の見方をする新聞さえも実は資本家ゲエルに(さらにはゲエル夫人に)支配されている」とも書いていた。日露戦争に際してはこれを批判する者たちが「平民新聞」を創刊していたが、すでに昭和の初期には「国家」が行う戦争を批判するような「言論の自由」さえもが失われ始めていた。

 事実、芥川が自殺した翌年の1928(昭和3)年に出された『統帥参考』という参謀本部の将校か陸軍大学校の学生しか見ることのできない「極秘中の極秘の本」に、「国が戦争になった場合、統帥機関が日本国民を統治する」と記されていた。さらに1935(昭和10)年には、それまで高等教育機関で使われていた美濃部達吉の著作『憲法講義』が発禁処分となって、「国民」の権利を保障する盾の役目を果たしていた「憲法」は完全に形骸化されるにいたった。こうして、明治時代に「国民」となったはずの日本の若者が、「臣民」として「国家」が遂行する「聖戦」に学徒動員などで戦場に駆り出される可能性が開かれることになったのである*1。

 「言論・表現の自由を阻害することは、あってはならないと芥川は考えていた」とした関口氏は、「『将軍』への伏せ字問題その他で、彼自身が体験してきたやりきれない日本の現実であった」と続けている。このことは日本でも若きドストエフスキーが生きた「暗黒の三〇年」と同じように、まともな形で正論を唱えれば「狂人」とされるので、「狂人の手記」という虚構の形でしか正論を語れない時代が、すぐ近くまで来ていたことを明確に物語っているだろう。

4,長編小説『若き日の詩人たちの肖像』とドストエフスキーの『白夜』

 大学受験のために上京した日に二・二六事件に遭遇した若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、堀田善衛はラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、ニコライ一世治下の厳しい検閲制度と迫り来る戦争の重圧の中で描かれた『白夜』の冒頭の美しい文章に何度も言及している。

 この作品で堀田は烈しい拷問によって苦しんだいわゆる「左翼」の若者たちや、イデオロギー的には異なりながらも彼らに共感を示して「言論の自由」のために文筆活動を行っていた主人公の若者の姿をとおして、昭和初期の暗い時代を活き活きと描いていたのである。

 しかもここで堀田善衛は、厳しい言論弾圧のもとに「右傾化」する時勢の中でドストエフスキーの読み方を変えていった愛読者の姿も描いているが、太平洋戦争へと突入する時期に『罪と罰』を西欧的な世界への挑戦の書物とする見方が日本で高まったのも、このような政治の流れと無関係ではない。(中略)

 すなわち、ニーチェによるドストエフスキー理解を踏まえたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人とした。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですら、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在になっていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定した。それは「近代人が近代に克つのは近代によってである」として、欧米との戦争を評価した小林の近代観から導かれたものでもあった。

(拙著ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ成文社、2007年、230~236頁より注などを省略した形で引用)。

 *1、「統帥権」の問題を深く考察した作家・司馬遼太郎の芥川龍之介観については、拙論「司馬遼太郎と小林秀雄――『軍神』の問題をめぐって」(『全作家』第90号)参照。 (4月23日加筆)

 

「生命の水の泉」と「大地」のイデア

 

(スラヴ圏)スラヴのコスモロジー

 〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉

                           

はじめに――投げかけられた問い

 お手元にレジュメは届いていますでしょうか?

2枚目のところにスラヴの神話や民話に出てくる森の精や水の精などの絵があります。

私の専門はドストエフスキーなのですが、『罪と罰』とか『白痴』という世界がそういうロシアの民衆的な民話的な世界や宇宙観とも深く結びついており、それが普遍性をおびているために世界中で読まれて深い感動を与えているという話を今回はしたいと思いました。ただ、レジュメにも書きましたけれども、3月に起きた原発事故のために私のふるさとの福島県の二本松でも祖先の墓の上に放射能が降り注ぐなど、日本の大地、大気、川が汚されるという大変な事態がおきました。

さらに私は25年前にチェルノブイリで起きた原発事故の際にモスクワに滞在していましたが、そのときに留学生を引率していたので事故の情報の問題、当時のソ連から情報が流れてこないというのはわかるのですが、日本大使館からも流れてこない。それでヨーロッパの留学生たちがそれぞれの大使館から持ってくる情報を集めてどう対応すべきかなどを考えざるを得なかったということがありました。

実は司馬遼太郎の作品に入っていくきっかけも情報の問題からです。司馬さんは大地震の問題についてもたびたび書いています。たとえば、『竜馬がゆく』の中でも竜馬が大地震に際して深く感じることのできる詩人のような心を持っていたと冒頭近くで説明されています。原発は「国益」という形で進められてきましたが、果たして一部の人たちが握っている情報が我々にちゃんと伝えられているのか、その問題が明治以降もいまだに続いていると思えます。

一方、『坂の上の雲』の第3巻において司馬さんは、東京裁判におけるインド代表判事のパル氏の言葉を引用しつつ、「白人国家の都市に落とすことはためらわれたであろう」と原爆投下を厳しく批判しておりました。実はこの原爆の投下の問題は、原発の問題と結びついており、司馬さんはチェルノブイリ事故の後で「この事件は大気というものは地球を漂流していて人類は一つである、一つの大気を共有している、さらにいえばその生命は他の生命と同様もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていました。

実際にチェルノブイリについてはヨーロッパ各国が大変な危機感を持ちました。私の場合は、幸い住んでいたモスクワの方には風の向きが違っていたので流れてこなかったのですが、風の向きが変わればどのような被害が及ぶかはわからなかったのです。それゆえ、今回はスラヴやロシアのコスモロジーを視野に入れることで民話的なレベルから見ても原発がおかしいということを明らかにしていきたいと思います。

*   *   *

先ほど見ていただいたのはギランの『ロシアの神話』という本に掲載されている絵ですが、スラヴでは自然崇拝が強く、ことに大地は「母なる湿潤の大地」というふうに讃えられており、このような世界観はドストエフスキーが『罪と罰』の後半で描いていますが、それよりも前にプーシキンがおとぎ話のような形で書いていました。

時間がないので、ごく一部を紹介します。「入り江には緑の樫の木があった。その樫の木には猫が繋がれていた。そして右に歩いては歌を歌い、左へ行ってはおとぎ話を語る。そこには不思議なことがある。森の精が徘徊し、水の妖精ルサールカが枝に座る」。こういう形で民話の主人公を紹介したプーシキンは、「そこにはロシアの精神がある、ロシアの匂いがする」と続け、物知りの猫が私に語った物語のひとつをこれからお話しましょうという形で『ルスランとリュドミーラ』というおとぎ話が始まります。

『罪と罰』のあらすじについては、ほとんどの方がご存知のことと思いますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害するにいたる過程とその後の苦悩が描かれています。ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと、民衆の感覚を失ってしまったという批判をしていることです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが彼にはわからなかったのです。しかし彼はシベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになるのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、しかしロシアの民話を集めてロシアのグリムとも言われているアファナーシエフの『スラヴ民族の詩的自然観』の第一巻が既に『罪と罰』が書かれている時期に出版されていました。そのことを指摘した井桁貞義氏は、ウクライナやセルヴィアを初めスラヴには古くから聖なる大地という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

さらにソーニャという存在が囚人たちから、「お前さんは私らのやさしい慈悲深いお母さんだ」と語られていることに注目して、ソーニャという女性が大地の神格であると同時に聖母の意味も背負っているという重要な指摘をしています。

 このようなロシアの自然観や宇宙観は民話などでやさしく語られており、日本でも知られているものがあるので幾つか紹介して、それが文学作品にどうかかわっているかを少し見てみます。

 まず、『イワンと仔馬』という作品は、これは永遠の生命を持つ火の鳥が出てくる作品で、手塚治虫の『火の鳥』にも影響を与えています。次に『森は生きている』もあちこちで上演されることもありますしアニメーションにもなっているので、知っている人も多くおられると思いますが、これは月の精の兄弟たちとみなしごの少女、そしてわがままな女王との物語です。

 わがままな若い女王の命令で少女は、大晦日に雪深い森の奥に春の花の待雪草を探しに行かされるのですが、たまたま焚き火を囲んでいた12人の兄弟(十二ヵ月の精)たちと出会い、少女が森を大切にして一生懸命に生きているのを知っていた彼らから待雪草を贈られるのです。

一方、人間関係のみで成立している「城」の世界しか知らなかったやはり孤児だった女王は、自分でも待雪草を摘みたいと願って、私も森に行くから案内しなさいと命令して森に行く。つまり、「支配する者」と「支配される者」からなる「城」において絶対的な権力者となった女王は、「自然」や「季節」をも「支配」しようとしたのです。つまり「城」というのは、ここでは現代の日本に言い換えれば「原子力村」と考えればわかりやすいでしょう。「原子力村」の論理だけで生きている人は、「自然」のことを理解できないために、「自然」や「季節」をも支配しようとする。しかし実際には、そういうことはあり得ないのです。そのために女王も「森」に行くと、一瞬にして再び冬の季節に戻って彼女は自分の無力さを感じるのですが、やさしい少女に救われるというストーリーです。

ここで注目したいのはやさしい少女を『罪と罰』のソーニャに、それから自然をも支配できると考えている女王をラスコーリニコフに置き換えると、骨格としては『罪と罰』と同じような自然観が浮かび上がってくるということになることです。

 それから『雪娘』というおとぎ話では「桃太郎」などと同じように、子供に恵まれなかった老夫婦が雪を丸めて雪だるまをつくるとその雪だるまの女の子は、老夫婦の気持ちを理解したかのように動き出して、その家の娘になります。しかし、「かぐや姫」が時間がたって、月に戻っていくように、その「雪娘」も春になると一筋の雲になって、天に昇ってしまうのです。

このおとぎ話について先ほどのアファナーシエフはこういうふうに解釈しています。「雨雲が雪雲に変わる冬、美しい雪の娘が大地に、人間が住むこの世に降りてきて、その白さで人々を感動させる。夏が訪れると娘は大気の新たな姿をとり、地上から天に昇って軽やかな翼を持つほかのニンフたちと共に天を飛翔する」。

 すなわち、雪娘は溶けて「亡くなる」のではなく、別な形を取って生き続け、さらにまた季節が巡れば、「復活」するという考え方が、ロシアの民話を通して語られているということになります。

一方、『罪と罰』のエピローグでは、知力と意志を授けられた旋毛虫に侵されて、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地上に数名のものしか残っていないという主人公が見る「人類滅亡の悪夢」が描かれています。

実際、この作品が書かれた当時は、オーストリアとの戦いに勝ったプロシアが軍事力をつけたために、フランスとの間での戦争がおき、さらにロシアもまたそういう大戦争に巻き込まれるかもしれないという恐怖感が、欧州の世界で広まっていたのです。そして、軍事力の必要を各国が認識したために戦争に近代兵器が持ち込まれるのです。日露戦争では機関銃が登場し、第一次世界大戦でも用いられ、さらに第二次世界大戦では原子爆弾が用いられるということになります。

つまり長編小説『白痴』の時代は、ドストエフスキーにとって「ローマ帝国」の強力な軍事力でユダヤの反乱が鎮圧され、さらにキリスト教徒が弾圧された時代に書かれた『ヨハネの黙示録』の世界と重なるところが多く、「世界の終わり」への恐れとそれを救う「本当に美しい人」への熱烈な願いが記されていたといえます。

11月18日の新聞に「イラン攻撃現実に」という題で、イスラエルがイランの原発開発に強い危機感を抱いているという気になる記事があったので持ってきました。この記事は原爆と原発が結びついていることを物語っているでしょう。つまり、イランの原発開発はアメリカと仲がよかったときは認められていたのです。しかし革命後に政策が変わると、原発の開発は、いつ攻撃の対象になるかもしれないのです。つまり現代という「核の時代」では、原発が世界中の国で広まっていくということは、その国が政策を変えたときに核戦争のきっかけになりうるという危険性を持っているのです。

その意味で注目したいのは、『白痴』ではマルサスの人口論だけでなく、生存闘争の理論や、西欧近代の投機的な自由主義経済、さらに新しい科学技術の危険性が登場人物たちの会話をとおして批判されており、ことに近代文明を象徴する鉄道は『ヨハネ黙示録』の地上に落ちて「生命の水の泉」を混濁させる「苦よもぎ(チェルノブイリニク)の星」の話と結び付けられて解釈されていました。

それゆえ、チェルノブィリ原発事故が起きると『白痴』の予言性が話題となりましたが、それはチェルノブィリという地名が、「苦よもぎ」を意味する単語と非常に似ていたために、ロシアやウクライナ、ベラルーシなどでは原発がそういうのろわれたものであり、それを作ったソ連の政権が神の罰を受けたという批判が強く出たのです。そして、このような『黙示録』の解釈も影響して、この原発事故は神による共産党政権に対する罰だという解釈が広がったことや、原発事故による莫大な経済的損失は、ソ連政権が崩壊する一因となったのです。

 一方、非常に自然環境に恵まれている日本から見ると旧約聖書などで描かれている神の罰という考えは、非情に見えます。しかし古代からのことを考えると、神や天というのは、人智を超えた存在であって、富士山も単に美しくて高い存在であっただけではなくて、大噴火を起こして、我々日本人を深く畏怖させたのです。これについては明日のシンポジウムでも論じられると思います。

 こうして、大自然に対する畏怖というものは、これからの時代にも重要だと思えますが、放射能は水に流しても消えるものではなく「循環の思想」に反しており、大自然を汚すものだといえるでしょう。その意味でも早期の「脱原発」が求められており、そのためにはこの学会も含めて全力を尽くしていくべきではないかというのが、私の考えです。

 どうもありがとうございました。

「研究活動・前史」と「引率時の体験とIDSでの発表」など

「研究活動・前史」

都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていた。このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』や、自己と他者との深い関わりが示唆されていた『白痴』と出会ったことがロシア文学に関心を持つきっかけとなった。

 東海大学文学部文明学科ヨーロッパ専攻に入学した後、ブルガリアのソフィア大学に2年間留学して、「辺境」の「小国」と思われていたこの国で学び、東ローマ帝国と「ブルガリア帝国」との関わりを詳しく知った。

この時期に東欧の視点から西欧やロシアを見ることができたことが私の文明観の形成したばかりでなく、『坂の上の雲』などの司馬遼太郎の作品への関心を深まる遠因ともなったと思える。

 大学院文学研究科(文明研究専攻)の時期には1年間モスクワ大学に留学してドストエフスキーの初期作品の研究をした。

   *   *   *

「引率時の体験とIDSでの発表」
引率教員としてモスクワを訪れた1986年にはチェルノブイリ事故と遭遇して、原子爆弾や原子力発電の問題の大きさを再認識することになった。

 国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(IDS)への参加
リュブリャーナで行われた1989年の第7回大会では、『罪と罰』における「良心」の問題を発表したが、この時期には旧ユーゴスラヴィアの共和国間の対立が芽生えていた。その後の経過からは、それまで仲良く共存していた民族でも過去の問題を互いに非難し始めると戦争にまで到ることを痛感させられた。オスロで開かれた1992年の第8回大会の帰途では混乱期のロシアと遭遇した。             

1994年4月から1年間は、ロシアと日本の近代化の比較をテーマとして、イギリス・ブリストル大学のロシア学科で研究したが、この時にイギリスの近代化をも視野に入れた研究することができたことで私の視野も広がり、ほぼ私の文明観や研究方法が定まったと思える。

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「追記」

中学時代の初めに読んだ本で印象に残っているのは、武者小路実篤の作品だった。今になってみるとこのときの読書体験が、『白痴』や『イワンの馬鹿』との出会いを準備していたと思える。下村湖人の『次郎物語』を読んだことで社会的な視野が広がり、夏目漱石の『坊っちゃん』や『三四郎』、島崎藤村の『破戒』や芥川龍之介の作品などの読書へとつながった。

高校時代には文芸部に入っていたこともあり文学書は乱読したが、『論語』や『聖書』、仏教書の他にキルケゴールの『死に至る病』なども頭をひねりながら読んだ。ドストエフスキーの長編小説を読み終えた後で、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』やツルゲーネフの『その前夜』、さらにはトルストイの『戦争と平和』などを読んだことが現在の研究につながっていると思える。

(7月7日に記載、12月23日加筆)

詩人プレシチェーエフ――劇作家オストロフスキーとチェーホフをつなぐ者

 

斬新な視点から「コジマ・プルトコフ」という架空のユーモア作家とドストエフスキーとの関係を考察した金澤友緒氏の論文については、「ニュースレター」では紙面の都合上あまり深く言及できなかったが、雑誌《ズボスカール》との対比や共作という視点からもたいへん興味深い論考であった(『ドストエーフスキイ広場』第22号)。

たとえば、文壇への復帰を願っていたドストエフスキーがトルストイの『幼年時代』に強い関心を抱いて「Л・Нとは誰のことか」と手紙で尋ねていたという指摘からは、オストロフスキーの作品に強い興味を示していた手紙のことを思い起こし、「プルトコフ」の生涯をとおしてこの時代をも浮かび上がらせていると感じた。

『ステパンチコヴォ村とその住民達』においてドストエフスキーが「プルトニコフ」の作品から引用するだけでなく、それに対する登場人物の反応を描いているとの指摘は、長編小説『白痴』においてプーシキンの詩『貧しき騎士』が果たしている役割にも通じており、ドストエフスキーの創作方法の一端をも明らかにしていた。

さらに論文を読み返しながら私が思い起こしていたのは、ベケートフ兄弟のサークルに接近した際に知り合ったペテルブルグ大学の学生で、詩人のプレシチェーエフ(一八二五~九三)とドストエフスキーとの関係のことであった。

 

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1,プレシチェーエフへの献辞

ドストエフスキーは、一八四七年の四月一三日から六月一五日まで五回にわたって『サンクト・ペテルブルグ報知』にフェリエトン『ペテルブルグ年代記』を連載したが、これはドストエフスキーだけの作品ではなく、プレシチェーエフとの共作であった。

きわめて興味深いのは一八四七年四月二七日のフェリエトンには、『白夜』に書かれることになる「夢想家」についての考察がすでにはっきりと見られることである。

つまり、そこには「自分のもっているいいところを現わす」手段がないと、人間は「酒で身を持ちくずしたり」、「トランプに手を出し」たり、さらには、「自負心で頭がおかしくなったりする」と指摘され、その文末近くでは「われわれはみんな多少とも夢想家ではないのか!」という特徴的な文章も記されているのである。

よく知られているように『白夜』は、「感傷的な物語」という副題の他にも、「夢想家の思い出より」という副題をも持っているが、研究者のコマローヴィチは「作品を献ずることにおいては概して吝惜の人であった」ドストエフスキーにはめずらしく、『白夜』には当初プレシチェーエフにへの献辞が掲げられていたことを指摘している。

すなわち、ドストエフスキーが献辞を付した作品は、兄ミハイルに捧げられた『虐げられた人たち』と姪のソフィアに捧げられた『白痴』、そして妻アンナに献じられた『カラマーゾフの兄弟』の三作と、『白夜』だけだったのである。

さらに、『白夜』が掲載された雑誌の少し後の号で発表されたプレシチェーエフの中編小説『友情ある忠告』でも主人公が「夢想家」であり、その内容が「酷似しているのは、何も驚くべきことではない」としたコマローヴィチは、「この二つの中編小説は、親友であった作者たちの同質の精神状態から生まれた」のであり、彼らの共通のテーマは疑いもなく「フランス・ユートピア思想の諸々のテーマ」だったと続けている。

このように見るとき、ドストエフスキーはニコライ一世の「暗黒の三〇年」と呼ばれる時期を、まさに詩「進め!」のように、プレシチェーエフとともに心を奮い立たせながら「手に手をとって」前へと進もうとしていたといえよう。

(拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、成文社、第4章「『白夜』とペトラシェフスキー事件事件」参照)

 

 2, プレシチェーエフからの手紙

ドストエフスキーが逮捕された容疑の一つは、反ロシア的な文書とされていた「ベリンスキーの手紙」を朗読したことであったが、その手紙のコピーをモスクワで入手したのがプレシチェーエフであり、ドストエフスキーはそのモスクワから送られてきたそのコピーを翌年の四月に朗読し、その直後に逮捕されているのである。

こうして、ドストエフスキーはシベリア流刑という厳しい体験を強いられることになったのだが、かれらの交際は流刑後も続いていた。

劇作家のオストロフスキーの戯曲がドストエフスキーの「大地主義」の形成に大きな役割を果たしたことは、以前にこのHPでもふれたが、たとえば、詩人のプレシチェーエフはドストエフスキーに「君の『雷雨』評を首を長くして待っている」と手紙に書いていた。

ドストエフスキー自身はこの論文を書かなかったが、彼の兄ミハイルが雑誌『たいまつ』にこの戯曲の劇評を書いており、それはドストエフスキーのプーシキン観とも深く関わるだけでなく、フリードレンデルが指摘しているようにこの論文にはドストエフスキーの手も入っていると考えられる。

ミハイルはこの論文でそれ以前に書かれた主な戯曲にも触れた後で、オストロフスキーが『雷雨』で「まだ誰も手を付けていなかったロシアの生活の幾つかの新しい側面を取り上げ」たと主張し、殊にカチェリーナの性格は「作者によって大胆にきわめて正確に創造されている」と述べ、オストロフスキーがプーシキンの『オネーギン』の「タチヤーナ以降、記されることのなかったロシア女性の美しさ」をもその戯曲の中で描いたと指摘している。

それとともにミハイルは「我々の考えではその作品においてオストロフスキー氏はスラヴ派でも西欧派でもなく、ロシアの生活とロシア人の心を深く知る一芸術家なのである」と高く評価した。それはオストローフスキイの「新しい言葉を信じている」と述べたドストエフスキーの思想にも重なるものであり、このオストロフスキー論はドストエフスキー兄弟が発刊することになる雑誌の理念をも表明していたのである。

(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、74頁参照)。

 

3,プレシチェーエフとチェーホフ

こうしてプレシチェーエフは、シベリアから帰還したドストエフスキーが文壇に復帰する際に、オストロフスキーとの関係の橋渡しをしていたといえるだろう。

興味深いのは、「チェーホフと知合う以前から、このユーモア作家に注目していた」プレシチェーエフが、チェーホフの出世作『大草原』の誕生にも係わっていることをロシア文学研究者の佐藤清郎氏が明らかにしていることである(『チェーホフの生涯』筑摩書房、一六六~一六八頁)。

このことは詩人プレシチェーエフがチェーホフのうちに、若きドストエフスキーの作風の継承者を見ていたとも考えられ、きわめて興味深い。(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』終章、注*21)。

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(最近、『ロシア語ロシア文学研究』第45号に「プレシチェーエフの青春」と題する高橋知之氏の論文が掲載された。ロシア語文献だけでなく、欧米の文献にも広く目を配って、事件発覚前のモスクワにおけるプレシチェーエフ行動の意味に迫った好論文だと思える。地味だが重要なテーマであり、ドストエフスキーとの詳細な比較も課題としているとのことなので今後も期待したい。)