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「生命の水の泉」と「大地」のイデア

「生命の水の泉」と「大地」のイデア

 

(スラヴ圏)スラヴのコスモロジー

 〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉

                           

はじめに――投げかけられた問い

 お手元にレジュメは届いていますでしょうか?

2枚目のところにスラヴの神話や民話に出てくる森の精や水の精などの絵があります。

私の専門はドストエフスキーなのですが、『罪と罰』とか『白痴』という世界がそういうロシアの民衆的な民話的な世界や宇宙観とも深く結びついており、それが普遍性をおびているために世界中で読まれて深い感動を与えているという話を今回はしたいと思いました。ただ、レジュメにも書きましたけれども、3月に起きた原発事故のために私のふるさとの福島県の二本松でも祖先の墓の上に放射能が降り注ぐなど、日本の大地、大気、川が汚されるという大変な事態がおきました。

さらに私は25年前にチェルノブイリで起きた原発事故の際にモスクワに滞在していましたが、そのときに留学生を引率していたので事故の情報の問題、当時のソ連から情報が流れてこないというのはわかるのですが、日本大使館からも流れてこない。それでヨーロッパの留学生たちがそれぞれの大使館から持ってくる情報を集めてどう対応すべきかなどを考えざるを得なかったということがありました。

実は司馬遼太郎の作品に入っていくきっかけも情報の問題からです。司馬さんは大地震の問題についてもたびたび書いています。たとえば、『竜馬がゆく』の中でも竜馬が大地震に際して深く感じることのできる詩人のような心を持っていたと冒頭近くで説明されています。原発は「国益」という形で進められてきましたが、果たして一部の人たちが握っている情報が我々にちゃんと伝えられているのか、その問題が明治以降もいまだに続いていると思えます。

一方、『坂の上の雲』の第3巻において司馬さんは、東京裁判におけるインド代表判事のパル氏の言葉を引用しつつ、「白人国家の都市に落とすことはためらわれたであろう」と原爆投下を厳しく批判しておりました。実はこの原爆の投下の問題は、原発の問題と結びついており、司馬さんはチェルノブイリ事故の後で「この事件は大気というものは地球を漂流していて人類は一つである、一つの大気を共有している、さらにいえばその生命は他の生命と同様もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていました。

実際にチェルノブイリについてはヨーロッパ各国が大変な危機感を持ちました。私の場合は、幸い住んでいたモスクワの方には風の向きが違っていたので流れてこなかったのですが、風の向きが変わればどのような被害が及ぶかはわからなかったのです。それゆえ、今回はスラヴやロシアのコスモロジーを視野に入れることで民話的なレベルから見ても原発がおかしいということを明らかにしていきたいと思います。

*   *   *

先ほど見ていただいたのはギランの『ロシアの神話』という本に掲載されている絵ですが、スラヴでは自然崇拝が強く、ことに大地は「母なる湿潤の大地」というふうに讃えられており、このような世界観はドストエフスキーが『罪と罰』の後半で描いていますが、それよりも前にプーシキンがおとぎ話のような形で書いていました。

時間がないので、ごく一部を紹介します。「入り江には緑の樫の木があった。その樫の木には猫が繋がれていた。そして右に歩いては歌を歌い、左へ行ってはおとぎ話を語る。そこには不思議なことがある。森の精が徘徊し、水の妖精ルサールカが枝に座る」。こういう形で民話の主人公を紹介したプーシキンは、「そこにはロシアの精神がある、ロシアの匂いがする」と続け、物知りの猫が私に語った物語のひとつをこれからお話しましょうという形で『ルスランとリュドミーラ』というおとぎ話が始まります。

『罪と罰』のあらすじについては、ほとんどの方がご存知のことと思いますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害するにいたる過程とその後の苦悩が描かれています。ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと、民衆の感覚を失ってしまったという批判をしていることです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが彼にはわからなかったのです。しかし彼はシベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになるのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、しかしロシアの民話を集めてロシアのグリムとも言われているアファナーシエフの『スラヴ民族の詩的自然観』の第一巻が既に『罪と罰』が書かれている時期に出版されていました。そのことを指摘した井桁貞義氏は、ウクライナやセルヴィアを初めスラヴには古くから聖なる大地という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

さらにソーニャという存在が囚人たちから、「お前さんは私らのやさしい慈悲深いお母さんだ」と語られていることに注目して、ソーニャという女性が大地の神格であると同時に聖母の意味も背負っているという重要な指摘をしています。

 このようなロシアの自然観や宇宙観は民話などでやさしく語られており、日本でも知られているものがあるので幾つか紹介して、それが文学作品にどうかかわっているかを少し見てみます。

 まず、『イワンと仔馬』という作品は、これは永遠の生命を持つ火の鳥が出てくる作品で、手塚治虫の『火の鳥』にも影響を与えています。次に『森は生きている』もあちこちで上演されることもありますしアニメーションにもなっているので、知っている人も多くおられると思いますが、これは月の精の兄弟たちとみなしごの少女、そしてわがままな女王との物語です。

 わがままな若い女王の命令で少女は、大晦日に雪深い森の奥に春の花の待雪草を探しに行かされるのですが、たまたま焚き火を囲んでいた12人の兄弟(十二ヵ月の精)たちと出会い、少女が森を大切にして一生懸命に生きているのを知っていた彼らから待雪草を贈られるのです。

一方、人間関係のみで成立している「城」の世界しか知らなかったやはり孤児だった女王は、自分でも待雪草を摘みたいと願って、私も森に行くから案内しなさいと命令して森に行く。つまり、「支配する者」と「支配される者」からなる「城」において絶対的な権力者となった女王は、「自然」や「季節」をも「支配」しようとしたのです。つまり「城」というのは、ここでは現代の日本に言い換えれば「原子力村」と考えればわかりやすいでしょう。「原子力村」の論理だけで生きている人は、「自然」のことを理解できないために、「自然」や「季節」をも支配しようとする。しかし実際には、そういうことはあり得ないのです。そのために女王も「森」に行くと、一瞬にして再び冬の季節に戻って彼女は自分の無力さを感じるのですが、やさしい少女に救われるというストーリーです。

ここで注目したいのはやさしい少女を『罪と罰』のソーニャに、それから自然をも支配できると考えている女王をラスコーリニコフに置き換えると、骨格としては『罪と罰』と同じような自然観が浮かび上がってくるということになることです。

 それから『雪娘』というおとぎ話では「桃太郎」などと同じように、子供に恵まれなかった老夫婦が雪を丸めて雪だるまをつくるとその雪だるまの女の子は、老夫婦の気持ちを理解したかのように動き出して、その家の娘になります。しかし、「かぐや姫」が時間がたって、月に戻っていくように、その「雪娘」も春になると一筋の雲になって、天に昇ってしまうのです。

このおとぎ話について先ほどのアファナーシエフはこういうふうに解釈しています。「雨雲が雪雲に変わる冬、美しい雪の娘が大地に、人間が住むこの世に降りてきて、その白さで人々を感動させる。夏が訪れると娘は大気の新たな姿をとり、地上から天に昇って軽やかな翼を持つほかのニンフたちと共に天を飛翔する」。

 すなわち、雪娘は溶けて「亡くなる」のではなく、別な形を取って生き続け、さらにまた季節が巡れば、「復活」するという考え方が、ロシアの民話を通して語られているということになります。

一方、『罪と罰』のエピローグでは、知力と意志を授けられた旋毛虫に侵されて、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地上に数名のものしか残っていないという主人公が見る「人類滅亡の悪夢」が描かれています。

実際、この作品が書かれた当時は、オーストリアとの戦いに勝ったプロシアが軍事力をつけたために、フランスとの間での戦争がおき、さらにロシアもまたそういう大戦争に巻き込まれるかもしれないという恐怖感が、欧州の世界で広まっていたのです。そして、軍事力の必要を各国が認識したために戦争に近代兵器が持ち込まれるのです。日露戦争では機関銃が登場し、第一次世界大戦でも用いられ、さらに第二次世界大戦では原子爆弾が用いられるということになります。

つまり長編小説『白痴』の時代は、ドストエフスキーにとって「ローマ帝国」の強力な軍事力でユダヤの反乱が鎮圧され、さらにキリスト教徒が弾圧された時代に書かれた『ヨハネの黙示録』の世界と重なるところが多く、「世界の終わり」への恐れとそれを救う「本当に美しい人」への熱烈な願いが記されていたといえます。

11月18日の新聞に「イラン攻撃現実に」という題で、イスラエルがイランの原発開発に強い危機感を抱いているという気になる記事があったので持ってきました。この記事は原爆と原発が結びついていることを物語っているでしょう。つまり、イランの原発開発はアメリカと仲がよかったときは認められていたのです。しかし革命後に政策が変わると、原発の開発は、いつ攻撃の対象になるかもしれないのです。つまり現代という「核の時代」では、原発が世界中の国で広まっていくということは、その国が政策を変えたときに核戦争のきっかけになりうるという危険性を持っているのです。

その意味で注目したいのは、『白痴』ではマルサスの人口論だけでなく、生存闘争の理論や、西欧近代の投機的な自由主義経済、さらに新しい科学技術の危険性が登場人物たちの会話をとおして批判されており、ことに近代文明を象徴する鉄道は『ヨハネ黙示録』の地上に落ちて「生命の水の泉」を混濁させる「苦よもぎ(チェルノブイリニク)の星」の話と結び付けられて解釈されていました。

それゆえ、チェルノブィリ原発事故が起きると『白痴』の予言性が話題となりましたが、それはチェルノブィリという地名が、「苦よもぎ」を意味する単語と非常に似ていたために、ロシアやウクライナ、ベラルーシなどでは原発がそういうのろわれたものであり、それを作ったソ連の政権が神の罰を受けたという批判が強く出たのです。そして、このような『黙示録』の解釈も影響して、この原発事故は神による共産党政権に対する罰だという解釈が広がったことや、原発事故による莫大な経済的損失は、ソ連政権が崩壊する一因となったのです。

 一方、非常に自然環境に恵まれている日本から見ると旧約聖書などで描かれている神の罰という考えは、非情に見えます。しかし古代からのことを考えると、神や天というのは、人智を超えた存在であって、富士山も単に美しくて高い存在であっただけではなくて、大噴火を起こして、我々日本人を深く畏怖させたのです。これについては明日のシンポジウムでも論じられると思います。

 こうして、大自然に対する畏怖というものは、これからの時代にも重要だと思えますが、放射能は水に流しても消えるものではなく「循環の思想」に反しており、大自然を汚すものだといえるでしょう。その意味でも早期の「脱原発」が求められており、そのためにはこの学会も含めて全力を尽くしていくべきではないかというのが、私の考えです。

 どうもありがとうございました。

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