高橋誠一郎 公式ホームページ

トルストイ

サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会の報告

リンク→「主な研究」のページ構成

 

はじめに

2003年9月16日から22日まで国際比較文明学会とそれに続いて学術研修旅行がサンクト・ペテルブルクの建設300周年を記念してロシアで開かれ、筆者は「日本におけるドストエフスキー受容ーーサンクト・ペテルブルクのテーマと方法としての対話」という発表を行った。

主な関心はサンクト・ペテルブルクとロシア文学との関わりを再考察するとともに、比較文明学の創始者の一人とも言われるダニレフスキーや文学作品において深い歴史的考察を行ったプーシキンやその伝統を受け継ぐドストエフスキーやトルストイなどの大作家を輩出しているロシアにおいて、比較文明学の大会がどのように受け入れられるかに強い興味を持ったからでもある。

1280px-Alexander_Nevsky_Lavra

(アレクサンドル・ネフスキー大修道院の外観。図版は「ウィキペディア」より)

もう一つの関心は学会での発表が終わったあとに組まれていた学術旅行で、そこにはロシア建国の際の都市であるノヴゴロドやプーシキンゆかりの都市であるプスコフなどとともに、ロシア最古の都市として耳慣れない都市の名前も書かれており、きわめて強い関心をもった。

ただ、ロシアの経済が混乱から完全には脱し切れていない中で、国際比較文明学会と国立エルミタージュ美術館、ソローキン・コンドラチェフ研究所、ロシア科学アカデミー歴史部門などロシア側の5学術団体が共同して行うこのような規模での国際学会を果たしてきちんと乗り越えられるかにも強い不安もあった。実際、運営方法をめぐっては様々ないきさつがあったようで、最初の日程表とは異なるものとなり、レジュメを送ってからもそれに対する応答がほとんどなく、さらには送金先の銀行に対する情報がなく入金されるかどうかは確信がありませんと日本の銀行から言われたり、ビザも出発間際までとれるかどうかもわからないなど、多くの不安を抱えたままでの出発となった。

それゆえ、モスクワからの夜行列車でサンクト・ペテルブルクの駅に16日の早朝に着いて、出迎えの係りの人から報告者の名前が記入された正式な予定表を渡された時には、ほっとした。なぜならば様々な困難に直面して途中で参加を取りやめにした方も多いと聞いていたが、そこには多くの日本人研究者の名前があったからだ。

すなわち、後でロシア側の組織者からもらった資料によれば、ロシア人約110名の他に、外国からも、アメリカ、日本、アイルランドから4名、スイス、フィンランド、スペイン、韓国などから44名(同伴者を含む)が参加していたが、アメリカ人の19名に次ぐ14名の方が万難を排して日本から参加されていたのである。お名前を記してその労に報いたい。すなわち、伊東俊太郎夫妻、川窪啓資夫妻、服部英二父子、宮原一武夫妻、奥山道明、松崎登、犬飼孝夫と私の他に、サンクト・ペテルブルク大学大学院で研究中で通訳などの労も買ってくれた大高まどか氏とホームページで見て飛び入りで参加された藤原ゆりこの各氏である。

以下、このときの大会と学術旅行の模様を簡単に報告する(本稿では原則として敬称を略す)。

 

1,サンクト・ペテルブルクでの学会

宿泊のホテルは、ネヴァ川添いにありアレクサンドル・ネフスキー大修道院の向かいに位置する大きなモスクワ・ホテルであった。この大修道院にはドストエフスキーやチャイコフスキー、さらにモスクワ大学の創設者ロモノーソフなどの墓があるので、いわばロシアの歴史と直面しながらの学会となり、初日から船による市内観光が組まれており、時間的な制約のなかでの精一杯の歓迎ぶりがみられた。

2日目の午前中は、4つのグループに分かれて、国立エルミタージュ美術館、文化人類学・民族学博物館(クンストカメラ)、科学アカデミー・東洋学研究所、科学アカデミー物質文化史研究所などを見学し、専門員からの説明を受けた。

私はピョートル一世によって創設され、ロモノーソフなどとも関係が深い文化人類学・民族学博物館(クンストカメラ)を訪れた。残念ながら、日本人学校の教師ゴンザなどのデスマスクを見ることはできなかったが、日本人の研究者が多いのを知った係員からラクスマンからエカテリーナ二世に献上された漂流民・大黒屋光太夫ゆかりの品物などや日本にも訪れたことのあるラングスドルフがアメリカで収集した物品のコーナーなどの詳しい説明があった。

Kunstkamera_SPB

(クンストカメラ。図版は「ウィキペディア」より)

国立エルミタージュ美術館での昼食を挟んで、美術館に納められているトラキアやギリシャの金製品の多くには専門の研究者も目をみはっていた。さらにこの後には噴水で有名なピョートル宮殿への小旅行が実施され、夜には主催者による晩餐会も用意されていた。

18日の10時から科学アカデミーの学術センター会議室で行われた発表は、「サンクト・ペテルブルクーー文明間の対話の都市」、「東西の諸文明と諸文化の交流におけるロシア」、「グローバリゼーションと文明の未来」の3つの部会に分かれていた。しかし、いずれの部会も同じ会議室で行われたことや、ロシア側の実行委員会の組織が5つの学術団体で組織されていたために、予想通りそれぞれの組織から多くの発表希望者が出たので、その場で発表時間を大幅に制限され、さらに質疑応答の時間も削られるなどの不備がでた。ただ、発表はロシア語と英語で行われ、英語には2名の同時通訳者がついた。また、直前まではレジュメが印刷されているかどうか分からずに心配していた資料集は、下記のような2冊の論文・レジュメ集の形で渡され、発表時間の不足の不備を補ってあまりあるものだった。

たとえば、『東西の諸文明と諸文化の対話におけるサンクト・ペテルブルク』と題された191頁からなる論文・レジュメ集には、編者の一人であるソローキン・コンドラチェフ研究所所長のヤコベッツ氏の論文「諸文明の対話と相互関係におけるロシア――歴史的経験と21世紀の展望」が巻頭を飾っており、それに続く「第1部 サンクト・ペテルブルク--諸文明と諸文化の対話の都市」と、「第2部 東西の諸文明と諸文化の相互関係におけるロシア」に、最初の二つの部会で発表された多くの論文のレジュメが収められていた。それゆえ、本書ではテーマの関係もあり、ロシア人の発表が多かったが、それらとともに東京が今年400周年にあたることを紹介しながら、佐久間象山におけるピョートル大帝の改革やプスコフの修道士プロフェイの「第三ローマ・モスクワ」説にも言及しながら、トインビーの視点からロシア文明の特徴を考察した川窪啓資氏の「比較文明学的観点から見たサンクト・ペテルブルク」や私のレジュメも載せられていた。

私の発表「日本におけるドストエフスキーの受容――サンクト・ペテルブルクのテーマと方法としての対話」では、2001年に千葉大学で行われた国際ドストエフスキー集会の模様などについても言及しつつ、日本の近代化と『罪と罰』の受容との関わりを分析して、第二次世界大戦の前には、「生存闘争」を自然の法則と捉えた主人公に対する共感をしめすような解釈もあったことを紹介した。それとともに、ドストエフスキーが文学における対話という手法をとることによって、単一的な声ではなく、「多声的」(ポリフォニー)な世界を描きだしていたことに注意を払いながら、そのエピローグでは主人公に「人類滅亡の夢」を見させることにより、それまでの「自己中心的な世界観」を批判していることを指摘した。

さらに、司馬遼太郎の長編小説『菜の花の沖』に言及しつつ、ロシアにナポレオン一世が侵攻した1812年に、戦争という手段の問題点を根気強く説明することにより、領海侵犯の咎などで捉えられていたゴロヴニーンの解放に成功し、日露間で生じていた「文明の衝突」の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛の「対話的な方法」の意義を考察した。そして、後期の江戸時代が有した高い文化水準と多様性が、ゴロヴニーンの『日本幽囚記』によって紹介されたことが、後に来日してロシアの文化を伝えることになる宣教師ニコライにも大きな影響を与えたことを指摘して、江戸時代が有した多様性についても注意を喚起して、単一的な原理による「グローバリゼーション」の問題をも指摘した。

最後の第3部会「グローバリゼーションと文明の未来」で発表された論文のレジュメは、『グローバリゼーションと諸文明の運命――グローバリゼーションの新しいモデルと文明間の交流をめざして』と題され、4部からなる論文・レジュメ集に収められていた(総頁数322頁)。これは科学アカデミーのチモフェーエフ教授、ソローキン・コンドラチェフ研究所のヤコベッツ所長、ブレッドソー国際比較文明学会長の編になるもので、多くの論文には発表者の紹介とともに簡単なロシア語訳がつけられていた。

この本の構成で眼を惹いたのは、第1部には「国連総会決議 56/6(2001年9月9日)/ ユネスコ一般声明(2001年)、/ ロシア・イラン国際シンポジウム・アピール」などの文書が資料として載せられていたことである。さらに第4部では「著書紹介」として比較文明学関係のロシアの書物が紹介されていたことである。それはもう一冊の場合も同様で、その分野におけるロシアの「研究論文集紹介」も収められていた。

第2部として編集された「グローバリゼーションと文明間の対話」には、国際比較文明学の会員だけでなくチモフェーエフ氏の「グローバル化する世界における文明間の相互関係の諸問題」やボンダレンコ氏の「グローバル社会認識のための方法論諸相」など多くのロシア人の論文も掲載されていたが、経済関係の専門家が多かったせいもあり、このような視点からの「グローバリゼーション」の問題点を論じたものが多いとの印象を受けた。

ここでは、国際比較文明学の形成を論じたブレッドソー氏の「文明間の対話――トインビー、クレーバー、ソローキンとコンドラチェフ」に続いて、”文明交流圏”という考えの重要性を説いた伊東俊太郎氏の「文明の対話と”文明交流圏”」のレジュメが国際比較文明学会・終身名誉会長の肩書きの紹介とともに載り、また国連における「文明間の対話の試みやイランのハタミ大統領による提案などを紹介しつつ、そのような対話の重要な例としてのシルクロードの意味を論じた服部英二氏の「シルク・ロードと文明間の対話」が掲載されていた。

また、国連の活動に注目しながら、「不殺生・共存共生・公正」という3つの原則を説いた伊東俊太郎氏の提案にも言及した犬飼孝夫氏の「地球企業市民のための〈シヴィリゼーショナル・ミニマム〉とは? 国連グローバル・コンパクト」のレジュメや、第3部の「グローバリゼーションの時代における文化と宗教の対話」には、主に明治期における神道と国家神道との関わりを論じた奥山道明氏の「日本と西欧との対話および近代宗教制度の確立」が掲載されていた。

こうして、日本人研究者の発表はいずれも大きな関心をもって受け止められた。ただ、先にも記したように時間的な制限のために質疑応答の時間がなく、また、最後に第4部として予定されていた討議と会議総括の時間もあまりとれなかったのは残念であった。

しかし、その夜に日本人の研究者10人が集まってホテルのレストランで催された夕食会では、ロシアに対する様々な理解を「神話」と断じて新しいロシア像を示したヤコベッツ氏の「北西ロシアの過去とロシア文明の未来」というきわめて興味深い論文を取り上げた伊東俊太郎名誉会長の問題提起を受けて、ロシア文明の位置をめぐって質疑応答の時間のたっぷりある議論が交わされ、思いがけぬ「円卓会議」となり、楽しいひとときを持つことができた。実際、次節でみるようにこの論文は「ロシア文明の源」を訪ねた学術旅行へのテーゼの如きものでもあったのである。

2,学術旅行「北西ロシア――ロシア文明の源とその絶頂」

学会の後に組まれた旅行は、外国人向けの国内旅行に少し学問的な色彩を加えた程度のものかと最初は思っていた。しかし、ほぼ毎日開かれた「円卓会議」など、朝は8時から時には夜の10時半の夕食といったいささかハードなスケジュールの中で「ロシア国家の建国や理念」をめぐって、知的好奇心を刺激するきわめておもしろい論争や場所が示された。まず、スケジュールを掲げる。

9月19日 レニングラード攻防戦記念パノラマ館、スタラヤ・ラドガ――ロシア最古の都市で古代ロシア最初の首都、歴史的記念物と考古学的発掘の見学、文明の対話の方法(スタラヤ・ラドガ1250周年記念円卓会議)、ノヴゴロド到着

9月20日 ベリーキー・ノヴゴロド――歴史と文化の探訪、ロシア文明の歴史におけ るノブゴロド共和国(円卓会議)

Nowgorod_2005_w

(ノヴゴロドのクレムリン。図版は「ウィキペディア」より)。

9月21日 プスコフ、イズボルスク、ウスペンスキー修道院のあるエストニア近くのペチョールィ訪問

9月22日 ロシア文明の西の前哨地点(プスコフ1100周年記念円卓会議)、プーシキンゆかりの地訪問、サンクト・ペテルブルク帰還

 

議論の焦点の一つは、これまでロシア最古の都市とされてきたノヴゴロドよりも古く、1250年前に創られたとされるロシア最古の町スタラヤ・ラドガ(Staraya Lagoda)の発掘現場と展示館の見学であった。

ロシアの建国にかかわる論争は、ピョートル一世によって創設された科学アカデミーに招かれたドイツ人の歴史家バイエルが『原初年代記』によって、ノヴゴロドがバイキングの一族であるバリャーグ族の長リューリクによって創られたとしたときから持ち上がっていた。これは日本の建国がそれまでいた民族ではなく、朝鮮からきた少数の「騎馬民族」によって形成されたとする江上波夫説を思いださせるようないわば「ロシアの騎馬民族説」論争ともいえるようなものであった。

ロモノーソフをはじめとするロシア人の歴史家は、平和的に招いたと書かれていたことや、その後のリューリク朝ではスラヴ的な要素が強いことなどから、すでにロシアが高い文化的水準をもっていたことを示してロシアの独自性を示そうとしてきたのである。しかしドストエフスキーもこのことに言及しているが、これまでの歴史的な研究からはバイエルによって指摘された「ロシア国家のバイキング起源説」を覆すのは難しいように思われていたのである。

これに対してスタラヤ・ラドガの発掘は、すでにノヴゴロドの建設に先立ってスラヴ的な要素の強い都市が造られていたことを示すものとして、高い関心を呼んでいるのである。たとえば、現在の発掘責任者のキルピチニコフ氏は、今回の発掘とロモノーソフの説の正しさを証明するのかとの私の質問に対して、たしかにこの発掘成果はロモノーソフの先見性を実証するものであると強く語った。この議論についての結論がでたのかとおもわれたのだが、ノヴゴロドで行われた「円卓会議」では、発見されたものは古いがしかしヴァイキング的な性格を持つとして、歴史学者から前日の結論に対する疑問が出されて、激しい議論となった。日本の王朝が朝鮮系の騎馬民族によって創られたとする江上波夫説に対する反発が強く激しい議論を巻き起こしたが、ロシアでもふたたび「ロシアの騎馬民族説」とでも名付けられるような議論がふたたび巻き起こっているのである。

さらにノヴゴロドやプスコフの「円卓会議」では、ハンザ同盟との関わりを論じた発表やプーシキンとミハイロフスコエ村との関わりが論じられるなど、「ロシア国家の理念」にかかわるもう一つの重要な議論もなされた。

すなわち、「ロシア最古の都市」であったノヴゴロドやプスコフは、国家の中心がキエフに移り、キエフ・ロシアが形成された後でも、ハンザ同盟に加入して、「ロシアの〈自由都市〉と呼ばれる共和政体の都市として発展し、政治的にもその後のロシア史上に例を見ない独自の一時期を画した」が、その後「分裂したロシアの再統一を進めるモスクワによって」、15世紀末から16世紀初頭にかけて次々と併合されていた(『ロシア・ソ連を知る事典』平凡社)。

これらの都市の独自性については、歴史家だけでなくロシアの改革を試みたデカブリストたちがが強い関心を抱いたことは知られているが、ロシア国家の統一性が重要視されるなかで、政治的な意味でこれらの都市にスポットライトがあてられることは少なかった。

しかし、これまではロシア最初の国家として位置づけられてきたキエフ・ロシアの中核をなしていたかつてのキエフ公国を受け継いだウクライナが独立し、新しい「ロシア国家の理念」が求められる中で浮かんできたのが、モスクワ公国にも受け継がれたキエフ・ロシアの専制的な政治原理とはことなる民主的な原理による「ノヴゴロド・ロシア」あるいは「北西ロシア」の理念なのである。

残念ながら、学術旅行への参加者は半数以下であり、日本人も私を含めて4人だったが、宮原夫妻とはロシア正教の現在をめぐって、犬飼氏とはロシアの自然環境問題などについて意見を交わすことができ、また個人的にも長い間の念願でもあったロシア民話に出てくる蜂蜜酒を古風なロシア風のレストランで飲むことができた。こうして、付随的だと思われていた旅行は、終わってみると私にとってはむしろこちらの方の収穫の方が大きかったとも感じられるほどに充実した内容であった。

 

結語

ロシアでの初めての国際比較文明学会は一般の外国からの参加者にとっては、様々なロシアの歴史的事物やエルミタージュ美術館などを訪れることができた一方で、かなりハードなスケジュールのために発表や質問時間が制限されたという不満も残ったようだ。

しかし、ロシア研究者である私にとっては、現在のロシアの政治・経済状況を知ることができるとともに、「ロシアの理念」が現在のロシアにおいて、どのように構築されようとしているのかをも知ることができ、きわめて有益な大会となった。

ただ、多くの外国人研究者の中でロシア語を話すのが筆者一人であったことや、単独行動主義的な原則を強めている現在のアメリカ政府に対する厳しい批判をしているフランスやドイツからの参加者が全くいなかったのはさびしかった。川窪国際委員長はかつて総会で、国際比較文明学会でも日本人が日本語で発表できるように通訳をつける制度を作ってはどうかと提案されたことがあったが、今回はロシア側の発表者が全員ロシア語で発表していたのが印象に残った。先に言及した国際ドストエフスキー学会ではロシア語の他にも英独仏の各言語の使用が認められているが、梅棹忠夫氏がフランスで国際交流の必要性を通訳をつけて日本語で語っていたことを思い起こすならば、文明間の共存と多様性の重要性を訴える国際比較文明学会においては、将来、日本語も含めた形での使用言語の多言語主義が考えられる時期にきているのかとも思った。

また、ロシア文明の独自性を強く主張する一方で、国連の「多元的な原理」をも重視しながら、新しい「グローバリゼーション」のモデルを探そうとする今回のロシア側の姿勢や戦略は、ブッシュ・ドクトリンの一元的な原理に従う傾向が強いように見える日本の戦略から見るときわめてしたたかに映った。また、今回の学術旅行も単なる研究活動とせずに、外国人の研究者に対してロシアの新しい観光旅行の魅力をもアピールする場ともなっていたのは、いささか功利的な色彩も少し感じたが、しかしそれはペレストロイカからロシアへの移行期の時期に、ロシアの経済が二流国へと低迷するようになったことへの厳しい反省の中で、なんとか自立的な形でロシアの経済を改革しようとする力強い試みの一環として評価できよう。

日本の比較文明学の創始者の一人である山本新は、トインビーの考察を深めることによって、日本とロシアにおける近代化を比較して「欧化と国粋」の問題に気づき、「100年以上の距離をおいて、二つの文明のあいだに並行現象がおこっている」と鋭く重い分析をした。この意味で筆者はこれまでロシアと日本の近代化の比較を中心に研究してきたが、日本の今後の方向性を考える上でもロシアの比較文明学(文化学)の状況を追っていくことはこの意味でも重要であろう。

今後ともロシアにおけるこのような研究の流れを注意深く見守っていきたいと思う。

(「サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会報告」『文明研究』第22号、2003年。再掲に際しては、人名の表記や文体などを一部変更した)。

『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

リンク→「主な研究(活動)」タイトル一覧 

リンク→「主な研究(活動)」タイトル一覧Ⅱ 

 

『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

はじめに

昨年の3月に「日本トルストイ協会」で行われた講演で籾内裕子氏は、内田魯庵訳の『復活』への二葉亭四迷の関わりを詳しく考察し、12月にはトルストイの劇《復活》を上演した島村抱月主宰の劇団・藝術座百年を記念したイベントも開かれました。

さらに、夏には故藤沼貴氏による長編小説『復活』の新しい訳が岩波文庫から出版され、「解説」には『罪と罰』の結末との類似性の指摘がされていました。その記述からは、改めてドストエフスキーとトルストイのテーマと問題意識の深い繋がりや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とした文芸評論家の小林秀雄の『罪と罰』解釈の問題点が感じられました*1。

本稿では『復活』とその訳に注目することで、対立して論じられることの多いドストエフスキーとトルストイの作品の内的な深い関係をエッセー風に考察したいと思います(図版はいずれも「岩波文庫」より)。

35700503570060

一、雑誌『時代』とトルストイ

農奴制の廃止や言論の自由などを求めたために1848年のペトラシェフスキー事件で逮捕され、死刑の宣告を受けた後に減刑されてシベリアに流刑されたドストエフスキーは、流刑中の1852年に『同時代人』に掲載された『幼年時代』に記されている「Л.Н.とはだれのことか」と兄ミハイルへの手紙で尋ねていました*2。

農奴解放だけでなく法律や教育制度の改革も行われた「大改革」の時期に首都に帰還したドストエフスキーは、兄とともに総合雑誌『時代』を創刊し、多くが文盲の状態に取り残されている民衆に対する教育の普及の重要性を強調し、そこで1862年2月に創刊された月刊教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』の紹介を行ったばかりでなく、『死の家の記録』では厳しい検閲の下にもかかわらず、監獄の状況を鋭く描き出しました*3。

それゆえ、トルストイはこの長編小説について「我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いているのです*4。

一方、ドストエフスキーが唱えた「大地主義」について、「その教義は、要するに西欧派とスラヴ派との折衷主義であつて、…中略…穏健だが何等独創的なものもない思想であり、確固たる理論も持たぬ哲学であつた」とした文芸評論家の小林秀雄は、『死の家の記録』についても「厭人と孤独と狂気とが書かせた」ゴリャンチコフの「手記だつた事を思ひ出す必要がある」と書いています*5。

しかし、この作品が一時、「検閲官」の差し止めで中止されるなど厳しい検閲下で書かれていたことを忘れてはならないでしょう。興味深いのは、雑誌『時代』の創刊号から7ヵ月にわたって連載された長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でドストエフスキーが登場人物にトルストイの作品にも言及させていることです。

「大改革」の時代のロシアが抱えていた問題を浮き彫りにしているこの作品のことはあまり知られていないので、まずその粗筋を紹介しその後で『罪と罰』との関連にふれることにします。

この長編小説は、主人公のイワンがみすぼらしい老人と犬の死に立ち会うというシーンから始まり、その後で少女ネリーをめぐる出来事とイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる筋が並行的に描かれていきます。

物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ワルコフスキー公爵の犯罪的な詐欺によるものであることがはっきりしてくるのです。すなわち、物語の冒頭で亡くなるネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったのですが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていました。

一方、150人の農奴を持つ地主で、主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も900人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきたことに起因しています。しばしばイフメーネフ家を訪れて懇意になったワルコフスキー公爵は、自分の領地の管理を依頼し、5年後にはその経営手腕に満足したとして新たな領地の購入とその村の管理をも任せたのです。

ここで注目したいのは、ワルコフスキーがイワンに「私はかつて形而上学を学びましたし、博愛主義者になったこともあるし、ほとんどあなたと同じ思想を抱いていたこともある」と語っていることです。父親からあまり関心を払われずに親戚の伯爵の家に預けられていた息子のアリョーシャは、トルストイの『幼年時代』と『少年時代』を熱中して読んだとイワンに伝えていますが、この時彼は父親のうちに、自分の領地ヤースナヤ・ポリャーナに学校や病院を建設して農民の養育に励んだトルストイのような面影を見ていたように思えます。人の良いイフメーネフ老人がワルコフスキー公爵を信じて彼の領地の管理や新たな領地の購入を手伝ったのは、改革者のような彼の姿勢に幻惑されたためだったといえるでしょう*6。

しかし、領地を購入した後でワルコフスキー公爵は、領地の購入代金をごまかされたという訴訟を起こし、隣村の地主たちを抱き込んでさまざまな噂を流し、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだために、裁判に敗れて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのです。

この小説が連載された雑誌『時代』(1861年1月号~1863年4月号)が検閲で発行禁止となった後、ドストエフスキーは新たに創刊した雑誌『世紀』に『地下室の手記』などを発表してなんとか存続させようとしましたが、この雑誌も1865年には廃刊になりました。その翌年に発表されたのが、「強者のみに有利なる法律」に激しい怒りを覚え、「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定して殺した元法学部の学生・ラスコーリニコフの苦悩と行動を詳しく描いた長編小説『罪と罰』でした。

二、内田魯庵訳の『復活』と新聞『小日本』

日本では内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て1892年に『罪と罰』の第一部を、翌年には第二部を英語から訳していましたが、充分な購買者数を得ることができなかったために『罪と罰』の後半部分は出版されませんでした。それにも関わらず、評論「『罪と罰』の殺人罪」できわめて深い解釈を記したのが北村透谷だったのです*7。

『罪と罰』を訳していた内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に連載されたのは、日露戦争終結前の1905年4月5日から12月22日にかけてでした*8。魯庵はこの訳を掲載する前日に「トルストイの『復活』を訳するに就き」との文章を載せて、そこでこの長編小説の意義を次のように記していました。

「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

私が強い関心を抱いたのは、どのような経緯で魯庵訳の『復活』が『日本』に掲載されたのかということでした。そのことに関連してまず注目したいのは、正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』に掲載された文芸評論家・北村透谷の自殺についての次のような記事が子規によって書かれていた可能性が高いことです*9。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

shonihon

(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻・別巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

この記事が掲載された新聞『小日本』は明治八年に発布された「讒謗律」や「新聞紙条例」によってたびたび発行停止処分を受けていた新聞『日本』を補う形で創刊されたのですが、俳句や和歌のコーナーを設けて投稿を広く呼びかけた子規は、その創刊号からは自分の小説「月の都」を卯之花舎(うのはなや)の署名で掲載していました。

若い仏師の悲恋を描いた幸田露伴の『風流仏』に強い感銘を受けた子規が、1891年の冬期休暇中に一気に書き上げたこの小説の原稿は「露伴氏の一閲を乞うた」ものの批評が芳しくなかったために、社主の羯南翁から自恃(じじ)居士(高橋建三氏)の手に渡り、二葉亭四迷のところまで行っていたのです*10。

それゆえ、夏目漱石が英国から親友の正岡子規に書いた手紙でトルストイの破門についてのイギリスの新聞の記事を紹介していたのは一方的な紹介ではなく、子規の関心に応えていたという可能性さえあると思われます。

さらに、『罪と罰』を高く評価した北村透谷は、トルストイの長編小説『戦争と平和』や『イワンの馬鹿』を英訳で読み、徳冨蘆花よりも早くにトルストイの戦争観にも言及して、両者をともに高く評価していました*11。二葉亭四迷の勧めで1908年に連載した長編小説『春』で島崎藤村が、『文学界』の同人であった北村透谷との友情やその死について描いていたことはよく知られていますが、短い記事とはいえ子規はすでに北村透谷の意義を高く評価する記事を書いていたのです。

子規が書いた短い記事を視野にいれると二葉亭四迷だけでなく、夏目漱石も深い印象を受けただろうと推測され、内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に掲載されるようになった遠因は正岡子規にあったと言ってもよいのではないかと思えます。

さらに正岡子規や北村透谷との関連で注目したいのは、1910年に修善寺で大病を患った夏目漱石が、「思い出す事など」で「無意識裡に経過した大吐血の間の死の数瞬間」とドストエフスキーの「癲癇時の体験」との比較をしつつ、ペトラシェフスキー事件で捉えられ、刑場に連れ出された「寒い空と、新しい刑壇と刑壇の上にたつ彼の姿と、襯衣一枚で顫えてゐる彼の姿を根氣よく描き去り描き來って已まなかった」と記していたことです。

比較文学の清水孝純氏はこの時漱石が「時代を震撼させた」日本の大逆事件を「思い浮かべていたことは想像に難くない」と記しています*12。この指摘は重要でしょう。ペトラシェフスキー事件の翌年にオーストリア帝国の要請によってハンガリー出兵に踏み切っていたロシア帝国はその数年後にクリミア戦争へと突入していました。大逆事件で幸徳秋水などを逮捕した年に「日韓併合」を行った日本も、その後大陸への進出を強めることになったのです。

三、トルストイの『罪と罰』観と『復活』

トルストイの『罪と罰』観を考える上で重要なのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花からロシアの作家のうち誰を評価するかと尋ねられた際に、「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」と続けていたことです*13。

そのような高い評価に注目するならば、トルストイは「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定してその殺害を正当化した主人公ラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、ソーニャとの関わりに読者の注意を促しながら、シベリアの流刑地で森や泉の尊さを知る民衆との違いを認識させていたエピローグの意義を深く理解していたと思えます。

たしかに、ドストエフスキーは『罪と罰』の本編では、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい?」と妹に問わせ、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁もさせていました*14。

しかし、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていた後で、「罪の意識」に目覚めた主人公が徐々に変わっていく「新しい物語」を次のように示唆していたのです。

「ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。」

自分の理論が核兵器の発明にも利用されてしまったことを知ってから、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続けた物理学者のアインシュタインは、ドストエフスキーについて「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と述べていました*15。兵器の改良により大量殺人が可能になった現代では、新たな戦争が「人類滅亡」につながる可能性が実際に出てきていたのであり、ドストエフスキーやトルストイはその危険性をいち早く洞察していたといえるでしょう。

一方、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、ラスコーリニコフには「罪の意識」はなかったと断言し、エピローグも「半分は読者の為に書かれた」と記していました。そして、戦後に書いた『罪と罰』論でもエピローグの結末に記された「新しい物語」に言及した小林は、ドストエフスキーが『白痴』で「この『新しい物語』を書かうと考へた事は確かである」としながらも、主人公が「次第に更生し、遂に新しい現実を知ることは可能であるか」と読者に問い、不可能であると断言していたのです*16。

このような解釈と正反対の解釈を示したのがトルストイ研究者の藤沼貴氏でした。『罪と罰』の粗筋を「誤った『超人』思想に駆られて殺人を犯し、シベリアに流刑されたラスコーリニコフは、彼と共に流刑地まで来たかつての娼婦ソーニャの純粋な愛によってよみがえり、自分の罪を認めて復活する」と簡明に記した藤沼氏は、『復活』の結末の次のような文章が『罪と罰』の結末に酷似していることを指摘していました*17。

「この夜から、ネフリュードフにとってまったく新しい生活が始まった、それは彼が新しい生活条件に入ったからというよりむしろ、このとき以来彼の身に生じたすべてのことが、彼にとって以前とまったく別の意味を得ることになったからだった。ネフリュードフの人生のこの新しい時期がどのようなかたちで終わるか、それは未来が示してくれる」。

四、『復活』のネフリュードフと『白痴』のムィシキン

トルストイの劇《復活》で松井須磨子が「カチューシャの唄」を歌ってから百年に当たることを記念して行われたイベントでは、トルストイの原作とそれを劇化したアンリ・バタイユの脚本やその英訳をしたビアボム・トゥリーの脚本をもとにした島村抱月の劇との違いも論じられました*18。

私にとってことに興味深かったのは、名門貴族のネフリュードフが奔走したかいがあり、皇帝からの特赦状が届いてカチューシャ(マスロワ)は自由になるが、彼女は政治犯のシモンソンとともにシベリアへいくことを選ぶことです。

この後で、トルストイは「奇妙な斜めを向いた目とあわれを誘うような微笑の中に」、ネフリュードフが彼女は自分を愛していたが、彼女は娼婦だった「自分を彼に結びつければ、彼の一生をだいなしにすると考え、シモンソンといっしょに姿を消して、ネフリュードフを自由にしようとしていたのだ」と読み取ったと記しています*19。

トルストイの『復活』が誘惑した後で捨てた小間使いのカチューシャと裁判所で再会したことで「良心の呵責」に苦しむようになった貴族のネフリュードフの物語であることに注意を払うならば、その描写は、子供の時の火事が原因で孤児となり貴族のトーツキーによって養われていたが、美しい乙女になると犯されて妾にさせられていたナスターシヤが、ムィシキンからのプロポーズに歓喜しながらも、子供のように純粋な彼の一生をだいなしにすると考えて、ロゴージンとともに去っていたことを思い起こさせます。

『罪と罰』の結末に記された「ひとりの人間が徐々に更生していく物語」という記述に注目しながら、『復活』と『白痴』の第一部を比較するとき、主人公と虐げられた女性との関係の描かれ方の類似性に驚かされます。

トルストイは長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と高く評価していました*20。

長編小説『罪と罰』や『白痴』における「良心」という単語の用法に注目しながら読むとき、しばしば否定的に論じられるムィシキンの行動は、名門貴族の末裔であったという「贖罪的な意識」から自分の非力さを知りつつも「殺すなかれ」という理念を広めようとしていたと解釈できるのではないでしょうか*21。

おわりに

ドストエフスキーとトルストイはしばしば対立的な作家として対置されてきましたが、ドストエフスキーはトルストイの農民に対する教育活動を高く評価していましたし、トルストイもまた「大地主義」の理念に深い関心を寄せていたのです。

長編小説『復活』と『罪と罰』の結末に記された「新しい物語」の記述の類似性を指摘した藤沼氏の言葉に注目しながら、『罪と罰』から『白痴』への流れを分析するとき、両者の相互関係を深く理解することが、二人の大作家の作品を正しく理解する上でも必要不可欠であることを物語っているでしょう。

 

《注》

*1  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、45頁。

*2  川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』NHK出版、2013年。

*3  ドストエフスキー、望月哲男訳『死の家の記録』光文社、2013年参照。

*4  グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁。

*5  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第5巻、新潮社、66頁。

*6  高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第2章〈「大改革の時代」と「大地主義」〉参照。

*7  北村透谷「『罪と罰』の殺人罪」『北村透谷選集』岩波文庫、1970年参照。

*8  籾内裕子「内田魯庵と二葉亭四迷――『復活』初訳をめぐって」『緑の杖』(日本トルストイ協会報)第12号、2015年、2~13頁。

*9  『「小日本」と正岡子規』大空社、1994年、34頁。

*10柴田宵曲『評伝正岡子規』岩波文庫、2002年。

*11北村透谷、前掲書、1970年。

*12 清水孝純「日本におけるドストエフスキー ――大正初期に見る紹介・批評の状況」、『ロシア・西欧・日本』朝日出版社、昭和51年、452~454頁。

なお蘆花のトルストイ観については、阿部軍治『徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』(改訂増補版)彩流社、2008年参照。

*13 徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁。

*14 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』岩波文庫より引用。

*15 クズネツォフ、小箕俊介訳『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年、9頁。

*16 小林秀雄、前掲書、『小林秀雄全集』第6巻、291頁。小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年参照。

*17 藤沼貴「トルストイ最後の長編小説『復活』」、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、2014年。初出は『トルストイ』第三文明社、2009年、504頁。

*18 昨年12月7日のパネルデスカッション「カチューシャの唄大流行と大衆の時代」、および、木村敦夫「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」、東京藝術大学音楽学部紀要、第39集、平成26年、39~58頁参照。

*19 トルストイ、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、440頁。

*20 トルストイ、訳は『白痴』新潮文庫下巻、「あとがき」の木村浩訳より引用。

*21 髙橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年参照。

(『緑の杖』〈日本トルストイ協会報〉第12号、2015年)

 

「研究活動・前史」と「引率時の体験とIDSでの発表」など

「研究活動・前史」

都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていた。このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』や、自己と他者との深い関わりが示唆されていた『白痴』と出会ったことがロシア文学に関心を持つきっかけとなった。

 東海大学文学部文明学科ヨーロッパ専攻に入学した後、ブルガリアのソフィア大学に2年間留学して、「辺境」の「小国」と思われていたこの国で学び、東ローマ帝国と「ブルガリア帝国」との関わりを詳しく知った。

この時期に東欧の視点から西欧やロシアを見ることができたことが私の文明観の形成したばかりでなく、『坂の上の雲』などの司馬遼太郎の作品への関心を深まる遠因ともなったと思える。

 大学院文学研究科(文明研究専攻)の時期には1年間モスクワ大学に留学してドストエフスキーの初期作品の研究をした。

   *   *   *

「引率時の体験とIDSでの発表」
引率教員としてモスクワを訪れた1986年にはチェルノブイリ事故と遭遇して、原子爆弾や原子力発電の問題の大きさを再認識することになった。

 国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(IDS)への参加
リュブリャーナで行われた1989年の第7回大会では、『罪と罰』における「良心」の問題を発表したが、この時期には旧ユーゴスラヴィアの共和国間の対立が芽生えていた。その後の経過からは、それまで仲良く共存していた民族でも過去の問題を互いに非難し始めると戦争にまで到ることを痛感させられた。オスロで開かれた1992年の第8回大会の帰途では混乱期のロシアと遭遇した。             

1994年4月から1年間は、ロシアと日本の近代化の比較をテーマとして、イギリス・ブリストル大学のロシア学科で研究したが、この時にイギリスの近代化をも視野に入れた研究することができたことで私の視野も広がり、ほぼ私の文明観や研究方法が定まったと思える。

*   *   *

「追記」

中学時代の初めに読んだ本で印象に残っているのは、武者小路実篤の作品だった。今になってみるとこのときの読書体験が、『白痴』や『イワンの馬鹿』との出会いを準備していたと思える。下村湖人の『次郎物語』を読んだことで社会的な視野が広がり、夏目漱石の『坊っちゃん』や『三四郎』、島崎藤村の『破戒』や芥川龍之介の作品などの読書へとつながった。

高校時代には文芸部に入っていたこともあり文学書は乱読したが、『論語』や『聖書』、仏教書の他にキルケゴールの『死に至る病』なども頭をひねりながら読んだ。ドストエフスキーの長編小説を読み終えた後で、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』やツルゲーネフの『その前夜』、さらにはトルストイの『戦争と平和』などを読んだことが現在の研究につながっていると思える。

(7月7日に記載、12月23日加筆)

「トルストイで司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」(レジュメ)

 

Ⅰ.トルストイの受容と司馬遼太郎

a.「小さくなった」トルストイ――森鴎外『青年

「……日本人は色々な主義、色々なイズムを輸入して来て、それを弄んで目をしばだたいてゐる。何もかも日本人の手に入っては小さいおもちやになるのであるから、元が恐ろしいものであつたからと云つて、剛(こは)がるには当らない。何も山鹿素行や、四十七士や、水戸浪士を地下に起して、その小さくなつたイブセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」(『青年』)。

b.夏目漱石とトルストイの民話『イワンの馬鹿』

「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候。イワンの教訓は西洋的にあらず寧ろ東洋的と存候」(内田魯庵訳の『イワンの馬鹿』への礼状)。

c.夏目漱石の日露戦争観と司馬遼太郎

長編小説『三四郎』で、夏目漱石は自分と同世代の登場人物広田先生に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせているばかりでなく、「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」とした三四郎の反論にたいしては「亡びるね」と断言させていた。

司馬遼太郎は、広田の「予言が、わずか三十八年後の昭和二十年(一九四五)に的中する」と指摘して、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と絶讃していた(『本郷界隈』『街道をゆく』第37巻)。

d.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――「坂」という単語の両義性

「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

 

Ⅱ.日本の近代化のモデルとしてのロシア――トルストイのドストエフスキー観

  a.徳冨蘆花の『トルストイ』と『戦争と平和』論

「露国政治上の圧政は万の迹出口を塞いで内に燃え立つ満腔の不平感懐は仮寓文字の安全管を通じて出るの外なかったのである」。

「『戦争と平和』は実に奈翁入寇前後露国社会の大パノラマである」。「花やかな人形の斬合や、小供役者の真似芝居でなくて、活人間の動く活社会が歴々と浮み出る」。

 b.司馬遼太郎の正岡子規観と徳冨蘆花観

  「少年のころの私は子規と蘆花によって明治を遠望した」(『この国のかたち』)。

 c.トルストイの『戦争と平和』観とダニレフスキーの評価

「愛国に過ぎたる所あり」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

ロシアの思想家ダニレフスキーは、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』で、トルストイの『戦争と平和』を高く評価しながら、大国フランスに勝つことによって抑圧されていたスラヴの諸民族にも独立の気概を与えたと「祖国戦争」の意義を讃えていた。

d.トルストイの『罪と罰』観と「大地(土壌)主義」の評価

「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

「当時のロシアの現実は貴族であろうと民衆であろうと破滅させてしまうような厳しいもの」であり、「トルストイが情熱を注いだ教育活動は、貴族と民衆の融合・調和を目指していました」(川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』)。

「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」としたドストエフスキーも、ピョートル大帝による「文明開化」以降に生まれた「民衆」と「知識人」との間の断絶を克服するためには、農奴制の中で遅れたままの状態に取り残されている民衆に対する「教育の普及」こそが「現代の主要課題である」と強調していた。

e.トルストイと『死の家の記録』――近代の制度としての法律、監獄、病院

「数日来病気で、暇にまかせて『死の家』を読みました。我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」(批評家のストラーホフへの手紙)。

f.『アンナ・カレーニナ』とドストエフスキーの『作家の日記』

「『アンナ・カレーニナ』は芸術作品としては、まさに時宜を得てさっと現われた完成された作品であって、現代のヨーロッパ文学中、何ひとつこれと比べることができないような作品である。第二に、これはその思想的内容から言って、何ともロシア的なものである。われわれ自身と血でつながっているものである」(『作家の日記』)。

しかし、主人公のリョーヴィンが次のように語る箇所を引用したドストエフスキーはトルコによる大量虐殺を指摘しながら、次のような考えをそれは「復讐」ではないと厳しく批判している。

「……自分の兄をもふくむ数十人の人びとが、首都からやって来た何百人かの口達者な義勇兵たちの話を根拠にして、民衆の意志と思想とを表現しているのは、新聞と、それから自分たちであると揚言する権利をもっているという考えには、彼はとうてい同意することはできなかった。しかもその思想たるや、復讐と殺人とによって表現されるものではないか。」

g.トルストイの『白痴』観と『イワンの馬鹿』

「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」(『白痴』の主人公ムィシキン評)。

 

Ⅲ.『坂の上の雲』における「教育」と「軍隊」の制度の考察

a.「二つの祖国戦争」――『戦争と平和』の最近の評価と『坂の上の雲』

ロシア語書籍の最良作品リストのアンケート。

1位、トルストイ『戦争と平和』、32パーセント。

3位、ドストエフスキー『罪と罰』、16パーセント。

(2位、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、19パーセント。)

b.トルストイの困惑と司馬遼太郎の德富蘆花観

「日露戦争そのものは国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争であった」が、「近代を開いたはずの明治国家が、近代化のために江戸国家よりもはるかに国民一人々々にとって重い国家をつくらざるをえなかった」。「蘆花は、そういう国家の重苦しさに堪えられなかった。かれは国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」した(『坂の上の雲』「あとがき五」)。

c.『戦争と平和』における主人公と作品の構成

d.『坂の上の雲』における主人公と作品の構成

e.ピエールの戦争観察と正岡子規の従軍

f.『坂の上の雲』における「普仏戦争」の考察

「プロシャ憲法をまねした」明治憲法には、「天皇は陸海軍を統率するという一項があり、いわゆる統帥権は首相に属して」おらず、「作戦は首相の権限外」だった。

「首相の伊藤博文も陸軍大臣の大山巌もあれほどおそれ、その勃発をふせごうとしてきた日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手ぎわよく勝ってしまった」が、「昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家がほろんだことをおもえば、この憲法上の『統帥権』という毒物のおそるべき薬効と毒性がわかるであろう」(第2巻「日清戦争」)。

 

Ⅳ.『坂の上の雲』の広瀬武夫と『戦争と平和』

a.『坂の上の雲』における秋山真之の親友・広瀬武夫

「少尉当時からロシアに関心をもち、ロシア語を独習」していたために、兵学校の卒業席次がきわめて劣等だったにもかかわらず、ロシアに派遣された。広瀬武夫がロシアでは、「プーシキンの詩の幾編かを漢詩に訳したり、ゴーゴリの『隊長ブーリバ』」やアレクセイ・トルストイの全集に熱中するなど「日本人としては、ロシア文学をロシア語で読むことができたごく初期のひとびとの一人であろう」(第3巻「風雲」)。

b.「軍神・西住戦車長」と広瀬武夫

菊池寛の『西住戦車長伝』によりながら、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいない」としながらも、西住戦車長が「軍神」になりえたのは、陸軍が「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があった」からであると冷徹な記述をした司馬氏は、その一方で比較文学者の島田謹二が描いた『ロシヤにおける広瀬武夫』を読んで「この個性的な明治の軍人がすぐれた文化人の一面をもっていたことを知った」と続けている(「軍神・西住戦車長」)。

c.広瀬武夫と『知恵の悲しみ』

トルストイの『復活』を読み、「叙事詩『ルスランとリュドミーラ』を脚色したミハイル・グリンカの楽劇をマリヤ座でみた」広瀬は、帝政ロシアの貴族社会を痛烈に批判してデカブリストたちにも影響を与えた「グリボエードフの『知恵の悲しみ』を見にいった。モスクワの上流社会を舞台にした風俗劇だ。…中略…セリフは口語にちかい言葉でありながら、りっぱな詩になっているのが耳にこころよい」との感想も記していた(『ロシアにおける広瀬武夫』)。

d.広瀬のロシア観とピエールへの共感

「いろいろな方面で、せまかった私の眼をロシヤは開いてくれました」と語った広瀬は、「あのころは日本からもっていった日本人の眼で、ロシヤの風俗を外から眺めて、日本人の心で判断して、笑ったり怒ったりしていたのだと思います」とし、「国家としては、日本の恐るべき敵でしょうが、個人的な交際を考えると、いい人が多いですな」とも続けたことが描かれている。

「とうとう僕も『戦争と平和』をよみあげました」と語った広瀬は『戦争と平和』の構造について、「ずいぶん長いもので、はじめは迷宮にはいったよな気がしましたが、だんだん家族と家族の結びつきがわかってきました。しまいにはボルコンスキー家と、ロストフ家の人々が記録の中からぬけだして、生きてきました」と分析した。

そして、「ピエール・ベズーホフがことにいい。結婚に失敗して、社交界のつまらぬことを知るでしょう。それから生き甲斐のあるものをいろいろ求めるでしょう。…中略…わが命一つをなげだして、圧制者ナポレオンを暗殺しようとするでしょう。あすこがいい」と、広瀬は激賞したと描かれている。

その言葉を聞いた川上が笑いながら、「君にもピエールのようなところがあるよ」というと、「そう。理想家というのでしょうね。ピエールは、神秘家でもなければ、聖者でもありません。ただ心をきよくして単純な生き方をしているうちに、満ちわたる生命(いのち)の光をあびたんです。澄んだ眼をしている男と書いてありますね。……」と分析した広瀬は、「日本の将校だから、日本のために戦うのは当然だが、同時に、ロシヤにも報いるような道をみつけたい。それが人道というものでしょうね」と続けたと描かれている。

e.『坂の上の雲』における『セヴァストーポリ』への言及

トルストイは「下級将校として従軍」して「籠城の陣地で小説『セヴァストーポリ』を書き、愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戮だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」(第5巻「水師営」)。

 

Ⅴ.『翔ぶが如く』における「内務省」と「法律」の考察

a.「藩閥政治」の腐敗と「征韓論」

「孤絶した環境にある日本においては、外交は利害計算の技術よりも、多分に呪術性もしくは魔術性をもったものであった」。「明治初年になってふたたび朝鮮問題がもちあがったとき、桐野(利秋)など多くの壮士的征韓論者は、(豊臣)秀吉の無知の段階からすこしも出ていなかった」と続けている(括弧内は引用者の補注、第1巻「情念」)。

b.内務省の問題と木戸孝允の危惧

大久保利通は「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようとした」(第1巻「征韓論」)。

「内務省は各地方知事を指揮するという点で、その卿たる者は事実上日本の内政をにぎってしまうということになる。知事は地方警察をにぎっている。従って内務卿は知事を通して日本中の人民に捕縄(ほじょう)をかけることもできる」(第1巻「小さな国」)。

幕末に活躍していた木戸孝允(桂小五郎)には、「内務省がいかにおそるべき機能であるかということ」を「十分想像できた」ので、「欧州から帰ったあと憲政政治を主唱」した(第2巻「風雨」)。

 c.正岡子規の退寮問題と与謝野晶子の批判

内務官僚の佃一予が、「常磐会寄宿舎における子規の文学活動」を敵視し、「正岡に与(くみ)する者はわが郷党をほろぼす者ぞ」と批判したことを紹介した司馬は、「官界で栄達することこそ正義であった」佃にとっては、「大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない」とし、「この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」と続けている。

実際、日露戦争の最中に『君死にたまふことなかれ』を書いた与謝野晶子は、評論家の大町桂月によって「教育勅語」を非議したと激しく批判されることになる。

d.明六社と新聞紙条例

「『明六雑誌』は創刊の明治七年以来、毎月二回か三回発行されたが、初年度は毎号平均三千二百五部売れたという。明治初年の読書人口からいえば、驚異的な売れゆきといっていい。しかしながら、宮崎八郎が上京した明治八年夏には、この雑誌は早くも危機に在った」(第5巻「明治八年・東京」)。

「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」。

e.中江兆民と宮崎八郎――「壮士」から「民権論者」へ

「宮崎八郎は本来、思想的体質のもちぬしであったが、しかし文明とはたとえば人類共通の思想であるということを、この時期、わずかでも思ったことがない」(第5巻「壮士」)。

宮崎八郎がルソーの『民約論』を中江兆民訳で読んだ後では「泣いて読む、廬騒(ルソー)民約論」と「あたかも雷に打たれたような感動を発し」て大きく変わることを指摘した司馬は、「幕末にルソーの思想が入っていたとすれば、その革命像はもっと明快なものになっていたにちがいない。中江兆民という存在が、十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、おそらく世界に共通する普遍性が付与されたに相違ない」と続けていた(第5巻「肥後荒尾村」)。

f.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――近代国家の「原形」の考察

西南戦争がおさまったあとで、「もういっぺんこんなことがあったら明治政府はしまいだ」と考えた山県有朋がその翌年に「軍人訓戒」を出し、さらに西南戦争から五年たった明治15年には軍人勅諭が出されたが、それは「教育勅語」へと直結しているように見える。

デカブリスト事件を書き始めたトルストイが、その原点となった「祖国戦争」の時代へと関心を深めて『戦争と平和』を書くことになることはよく知られている。『坂の上の雲』で正岡子規の退寮問題で内務官僚にふれていた司馬も、その原点ともいうべき明治初期の時代を『翔ぶが如く』で描いたといえるだろう。

 

おわりに――「小さくされた」司馬遼太郎

学徒動員で満州の戦車部隊に配属された司馬遼太郎は、「防衛と日本史」という講演で、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」が、自分もそのような教育を受けた「その一人です」とし、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析している(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

『坂の上の雲』を書く中で近代戦争の発生の仕組みや近代兵器の威力を観察し続けていた司馬は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」とも書いていた(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

さらに司馬は自衛隊の海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と記している(『歴史の中の日本』)。

ここには『イワンの馬鹿』を高く評価した夏目漱石と同じようなトルストイの深い理解が反映されているように思える。

 

主な参考文献

阿部軍治『〔改訂増補版〕徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』、彩流社、2008年。

阿部軍治『白樺派とトルストイ――武者小路実篤・有島武郎・志賀直哉を中心に』、彩流社、2008年。

梅棹忠夫『近代世界における日本文明――比較文明学序説』、中央公論社、2000年。

大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』、NHK出版、2013年。

グロスマン著、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年。

司馬遼太郎『坂の上の雲』(全8巻)、文春文庫、1978年。

司馬遼太郎『「昭和」という国家』、NHK出版、1998年。

司馬遼太郎『翔ぶが如く』(全8巻)、文春文庫(新装版)、2002年。

島田謹二『ロシアにおける広瀬武夫』(上下)朝日選書、1976年。

Данилевский,Н.Я., Россия и Европа. СПб.,изд.Глагол и изд.С-Петербургского университета, 1995.

徳冨蘆花『トルストイ』(『徳冨蘆花集』第1巻)、日本図書センター、1999年。

徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』(第42巻)、筑摩書房、昭和41年。

ドストエフスキー著、川端香男里訳『作家の日記』(『ドストエフスキー全集』第17巻~第19巻)、新潮社、1980年。

トルストイ著、藤沼貴訳『戦争と平和』(全6巻)、岩波文庫、2006年。

ヒングリー著、川端香男里訳『19世紀ロシアの作家と社会』、中公文庫、1984年。

藤沼貴『トルストイ』、第三文明社、2009年。

藤沼貴『トルストイ・クロニクル――生涯と活動』、ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

法橋和彦『古典として読む 「イワンの馬鹿」』未知谷、2012年。

柳富子『トルストイと日本』、早稲田大学出版会、1998年。

米川哲夫「第四回日ソシンポジウムに参加して――報告の要約と雑感」『ソヴェート文学』第95号、群像社、1986年。