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『火事』

「広場」23号合評会・「傍聴記」

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「広場」23号合評会を聴いて

                     

 7月19日の例会では『ドストエーフスキイ広場』第23号の論文を中心に合評会が行われた。紙面の都合から議論となった争点を中心に順を追って紹介していきたい。

 原口美早紀氏の論文「『白痴』におけるキリスト教思想」を論じた福井勝也氏は、ドストエフスキーの手紙を引用することで「ドストエフスキイのキリスト教思想はヨハネ福音書に多く依っている」ことを指摘したこの論文を高く評価する一方で、手紙の同じ箇所を引用しつつも小林秀雄が「ポジとしてのイエス」に対して「陰画(ネガ゙)としてのイエス」という視点を提示していたことを強調した。

 この論文に関してはもっとも注目されたのは、原口氏の視点で、『白痴』のムィシキンには「ヨハネ福音書」のイエス像と同じように「喜びの福音を伝える者」としての要素が大きく、またイッポリートが「弁明」を書いた理由も彼が「饗宴」を求めたからだろうとの解釈だった。この解釈は説得力があるという意見が目立った。

 高橋論文「『シベリヤから還った』ムィシキン」を論じた木下豊房氏は、E.H.カーが小林秀雄の視点に及ぼした影響はかなり強く、ナスターシャが「商人の妾」であることや「キリスト教への発心」の時期が『悪霊』以降であるという説をカーが書いていることを明らかにするとともに、「小林にとっての最大の関心事は、観念に憑りつかれた人間が、駆り立てられるようにカタルシスに向かってたどる心理的プロセス」であったと指摘し、小林のドストエフスキー論の背景に戦争に向かう当時の時代情況を見ようとすることやエウゲーニイにムイシキンの告発者としての役割などを見ることは「深読み」であろうとの批判がなされた。

 しかし、ムィシキンを「シベリヤから還った」者と規定した小林秀雄が、『罪と罰』論では殺人を犯した主人公には「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していたことやエヴゲーニイがプーシキンの愛読者でもあったことにも注意を払わねばならないだろう。「黒澤と小林を対比する方法によって、小林についていろいろ見えてくるものがあるのは確か」との指摘はきわめて重要だと思われた。

 大木昭男氏の論文「ドストエーフスキイとラスプーチン」を論じた近藤靖宏氏は、まず中編小説『火事』が書かれたのが、チェルノブイリ原発事故があったことに聴衆の注意を促すことで、この作品が書かれたソ連の時代状況を示し、『カラマーゾフの兄弟』の「ガラリアのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写と比較しながら、『火事』でも実際の風景と心象風景が組み合わされて迫力のある描写になっていることを指摘した。

 その一方で、この作品で描かれている農村や主人公の情況が日本の読者には不明な点が多いので、二人の作家の内的な関係が今ひとつ分かりにくいとの感想もあったが、その点では論文では削除されていたが、報告では触れられていた『おかしな男の夢』における「覚醒」の問題や、『火事』でも頻出する「良心」という単語の役割がより明確になると二人の作家の比較が説得力をもったのではないかとの意見も出された。

 清水孝純氏の「ドストエフスキーとグノーシス」の予定していた論評者が出席できなくなったために、急遽、代役を引き受けられた木下氏は清水論文の問題提起を受けて「グノーシス主義にとって、善悪の問題は知による認識にかかわるもの」だが、ドストエフスキーにとって善悪の問題は、「信仰、不信仰の問題と深く結びついていて、人物創造の基軸をなしている」とし、作家が子供の頃に読み『カラマーゾフの兄弟』でもゾシマ長老に語らさせていた「「『旧・新約聖書の百四つの物語』という美しい絵入りの本」にも収められていた「ヨブ記」の重要性を指摘した。

 すでに字数を大幅に越えたが、主人公たちの娼婦に対する言説を考察した西野常夫氏の「椎名麟三の『地下室の手記』論と『深尾正治の手記』」のテーマがきわめて深い内容であり、椎名麟三への関心もあるので、ぜひ例会での発表をお願いして質疑応答をゆっくりとしたいとの言葉が印象に残った。

 残念ながら、当日の参加者は少なかったが、「ドストエーフスキイの会」を活性化するためにも、遠方の会員も参加しやすいような形が模索されるべき時期に来ているのではないかと感じられた。

 

大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン」を聴いて

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大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」を聴いて

今回の発表は、イタリアの国際的文学賞を受賞した短編などを収録した作家ラスプーチンの短編集『病院にて――ソ連崩壊後の短編集』〈群像社〉の翻訳を公刊したばかりの大木氏の発表であった。

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ラスプーチンとは個人的にも旧知の間柄である大木氏は、波乱にとんだ作家の人生を略年譜で分かりやすく説明しながら、中編小説『火事』のラストシーンでの「永遠に姿を消してしまう」という描写の謎に鋭く迫った。ことに、宮沢俊一訳を踏まえて新らしく訳出した最終章の朗読は、重厚で深い陰影と示唆に富む文体をとおして、ラスプーチン自身の生の声を聞くような感さえあり、聴衆の深い共感を呼んで『火事』全体を大木訳で読んで見たいという感想も出たほどであった。

そして、正教における「復活」の重要性を強調した氏は、ラスプーチンも洗礼を受けて正教徒となっていることに注意を促して、『火事』の主人公と『カラマーゾフの兄弟』の「ガリラヤのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写との類似性を指摘した。さらに、大木氏はドストエフスキーが1864年のメモで人類の発展を、1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代の三段階に分類していたことを指摘し、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると述べた。

特に私が関心を持ったのは、『白痴』における「サストラダーニエ(共苦)」という用語や「美は世界を救う」というテーマの重要性を強調した氏が、ムィシキンを「シベリアから還った」とする小林秀雄の解釈には無理があり、むしろ未来の「キリスト教の時代」から来たと言うほうが適切だろうと批判した点である。

たしかに、芦川進一氏が指摘するように「『白痴』Ⅱ」に記された「聖書には、生きる事に関する、強い素朴な一種異様な畏敬の念が一貫していて、これが十字架のキリストに至って極まっている様に見える」という文章は名文で心に深く残る。しかし、第3章に記されたこの文章は、第9章の「『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であって、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」という文章へと続いているのである。小林秀雄のムィシキン観の問題は、今後の詳しい検討の課題といえるだろう。

「農村」の重要性を訴えた作家の視点に対しては、果たしてこのような価値が現代において意味を持ちうるのかという鋭い質問も出されたが、「原発などによるすさまじい環境破壊」で「人類が危機的状況」にある一方で、夢物語のように思われていた自然エネルギーは、科学の発展によって可能性を増大させている。ドストエフスキーが唱えた「大地(土壌)主義」とその問題意識を現代に受けついでいる作家ラスプーチンとその作品の意味はきわめて大きいと思える。

「ドストエーフスキイの会 ニュースレター」117号

 (201年1月12日改訂、2015年3月26日、「ドストエーフスキイの会」〈第215回例会傍聴記〉より改題)。