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「湾岸戦争」

戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて(縮小版)

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戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて(縮小版)

 

はじめに 「湾岸戦争」から「人質事件」へ

ブログの記事にも書いたが、「人質殺害」の報に接した安倍首相が、「この(テロ殺害事件)ように海外で邦人が危害に遭ったとき、自衛隊が救出できるための法整備をしっかりする」との発言をしたことは大きな問題を孕んでいると思われる。

なぜならば、同時多発テロの後で自国の安全を脅かす「ならず者国家」に対しては核兵器などの先制使用も許されるとして、国連憲章に違反したイラクへの先制攻撃に踏み切ろうとした際には、イラクを崩壊させることはむしろアルカイダなどのテロ組織の拡大を招くことになるという正鵠を射た指摘がすでになされていたからである。

「人質を殺す」という残虐なテロ行為は厳しく咎められなければならない。しかし、国政をゆだねられている日本の首相としては、かつての太平洋戦争をも踏まえて、大規模な空襲や劣化ウラン弾を用いた攻撃で多くの市民や子供を死傷させたアメリが軍の行為が、この事態を招いたこともきちんと認識した上で発言する必要があったと思える。

それゆえ、少し古い出来事を扱ってはいるが、以下に「湾岸戦争」から「イラク戦争」への流れを比較文明学的な視点から分析するとともに、ドストエフスキーや司馬遼太郎の作品などをとおして「戦争の問題」を考察した論考の一部を再掲する。

 

一、「新しい戦争」と教育制度

二〇〇一年は国連によって「文明間の対話年」とされたが、残念なことにその年にニューヨークで旅客機を用いた同時多発テロが起きた。むろん、市民をも巻き込むテロは厳しく裁かれなければならないし、それを行った組織は徹底的に追及されなければならないことは言うまでもない。ただ、問題なのはこれを「新しい戦争」の勃発ととらえたブッシュ政権が、「卑劣なテロ」に対する「報復の権利」の行使として市民をも巻き込む激しいアフガニスタンの空爆を行い、それを「文明」による「野蛮の征伐」の名のもとに正当化したことである。

そして、「野蛮」なタリバン政権をあっけないほど簡単に崩壊させると、ブッシュ政権は敵対しているイラクや北朝鮮だけでなくアフガンの際には協力を求めたイランをも「悪の枢軸国」と名付けて、これらの国々に対する攻撃を示唆し、さらにイラクが国連決議を無視し続けていると厳しく批判した国連総会の演説に続いて、アメリカが「敵」とした国に対しては核兵器の使用も含む先制攻撃が出来るとするブッシュ・ドクトリンを公表し、実際にイラクへの攻撃を開始したのである。

「イラク戦争」が終わってすでに一年以上が経った現在も、攻撃の根拠となった「大量破壊兵器」はまだ見つかっておらず、イギリスではこの戦争を支持したブレア首相が窮地に立たされている。しかし、「同盟国」を助けることが「常識」であるとして、自衛隊の派遣を決めた日本政府は、その一方で行きすぎた「欧化」による弊害を防ぐためとして、「国家」としての一体感を確保するためには、「欧米的な理念」に基づく教育基本法を改変し、「自国」の独自な伝統や文化の価値、さらには「愛国心」をより強く教えるべきであるとする方向性をも強く打ち出している。

これら一連の事態をまだ多くの人々は、自分にはあまり関わりのない遠い出来事のように感じているようである。しかし、過去の歴史を振り返ると、「教育制度」の改変から「戦争」までは一直線だったのである。(以下、略)

三、「報復の連鎖」と「国際秩序」の崩壊

アメリカが危険と認めた国に対しては核兵器の使用も含む先制攻撃が出来るとするブッシュ・ドクトリンに対しては、仏独などの同盟国からも「国際法違反」との厳しい批判が出された。

この意味で興味深いのは、ドストエフスキーがすでに『虐げられた人々』(一八六一年)において、プーシキンによって鋭く提起されていた「血の復讐」の考察を深めて、一見正当に見える個人的なレベルでの「復讐の権利」の行使でさえ、「階級」や「国家」にも持ち込まれることによって「階級闘争」や「国家間の戦争」が拡大し、際限のない「報復」の連鎖となることを示唆していたことである。

イラク戦争勃発の危険性が高まるとともに、改めて「湾岸戦争」との係わりも論じられ始めた。この節では一九九一年の「湾岸戦争」の勃発時に同人誌『人間の場から』に書いた文章からいくつかの論点を抽出することにより、「報復の連鎖」という視点から「湾岸戦争」と「新しい戦争」との係わりを見ておきたい。

「一月一七日未明、ついに懸念されていた戦争が勃発してしまった。むろん、隣国を武力で併合したフセイン大統領の非は議論の余地無く明らかだ。だが、既に経済制裁がかなりの効果を挙げており、しかも撤退期限をほんの一六時間越えただけの時点で、犯罪的行為を理由に宣戦を布告したブッシュ大統領(注――父親)の『決断』も同じように大きな誤りであるように思える」。

なぜならば、「同じアラブの人々の大量の血が流された後では、反米、反イスラエルの感情が高まることはほぼ確実」であり、「戦争の後に平和が訪れたとしても、大量の爆弾とともにイラクやパレスチナの国民の心にまかれた憎しみの種は、もはや消える事はないのである」。

「今回の危機が、湾岸戦争に至ったことで、否応無くキリスト教世界とイスラム教世界との対立が深まるだろう。そして、それは国連決議に賛成したゴルバチョフ大統領に対するソ連内のイスラム系民衆の反感を招き、ソ連の分裂へと連動していくように思える。その一方で、多国籍軍側の徹底的な空爆は、ソ連軍部に恐怖感を植え付け、保守化に一層の拍車をかけるという危険性をも生み出したのではないか」。

しかも、国連安保理決議に従わずに占領を続ける「イスラエルに対しては経済制裁をもしなかったアメリカが、同じように他国の占領という暴挙に出たイラクの非を一方的に主張」する一方で、イスラエルの「報復の権利」を認めたことは、アラブの民衆の間に不正義に対する怒りと絶望を生み出すのである。

そして、出口のない絶望から「非凡人の理論」を生みだしてついに、高利貸しの老婆を殺害した『罪と罰』の主人公の心理に言及して、「『国際秩序』の確立を目的に始められた今回の戦争は、長期的な視野に立つとき、これまであった『国際秩序』すらも著しく破壊してしまったように私には思える」と結んだ(『人間の場から』第二二号、一九九一年参照)。

残念ながら、「湾岸戦争」後の経過は私の危惧の正しさを証明したように思える。すなわち、イスラエルのシャロン首相は、「報復の権利」を正当化したアメリカの論理にのっとって自爆テロに対する「自衛権の行使」として、パレスチナ自治区への武力侵攻を行い、お互いの「報復の応酬」によって、中東情勢は混迷の色を濃くしているからである。

このような中アメリカはようやく重い腰を上げて和平交渉に乗りだした。しかし、パレスチナ国家樹立への前提条件としてブッシュ政権はアラファト議長の退陣を強く示唆した。たしかに「自爆テロ」に断固とした対応をとれないでいる議長の排除は、アメリカ国内では評価されるかも知れないが、アナン国連事務総長がこの案の偏りを批判したように、国際的にはアメリカの「裁きの不公平さ」、あるいは「価値の二重性」を印象づけたように思われる。

このような「裁き」の危険性は、遠く江戸時代に起きた事件を想起するだけでも明白であろう。すなわち、殿中松の廊下での刃傷沙汰に対して吉良上野介の罪を問わなかったお上の裁きは、「喧嘩両成敗」の慣習に反するとして一般庶民からも批判され、「赤穂浪士」たちによる「復讐」が喝采を浴びることになったのである。

四、「非凡人の理論」とブッシュ・ドクトリン

自分を現在の法に従うべき「凡人」ではなく、未来の法の創り手である「非凡人」であると見なした『罪と罰』の主人公は、多くの者に嫌われている高利貸しの老婆を「有害な悪人」と規定して、その殺害に踏み切った(高橋誠一郎『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇〇年参照)。

興味深いのは、ドストエフスキーが一八六六年に『罪と罰』で鋭く批判したこの「非凡人の理論」が、二一世紀の初頭に発表されたブッシュ・ドクトリンときわめて似ていることである。すなわち、ブッシュ・アメリカ大統領は、一国単独行動主義を採って、ABM制限条約脱退や温暖化防止京都議定書の批准拒否、さらには国際刑事法廷への不参加など国際社会の協調を乱す一方で、イラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸国」と名付けて、自国の安全を脅かすこれらの「ならず者国家」に対しては、核兵器などの先制使用も許されるとして、国連憲章に違反したイラクへの先制攻撃に踏み切ったのである。

司馬遼太郎は日露戦争後に「国粋」の流れが強まり、反対する者を弾圧あるいは暗殺して「新たな戦争」に突き進んだ日本の歴史を分析して、「戦争は勝利国においてむしろ悲惨である」と記した。「冷戦」に勝利した「多民族国家」アメリカにおいて現在起きていることも、自国を「絶対化」し自国を批判するものを「悪」として排除するような「国粋」の流れのように見える。

しかも、ドストエフスキーは主人公のラスコーリニコフに自分の理論が、頭の中で考え出されたゲームではないかとの疑いを抱かせていた。トルストイも『戦争と平和』において、戦争をゲームのようにとらえたナポレオンを厳しく批判するとともに、戦争においては「犯罪行為」も正当化されてしまうと指摘した。

しかし、驚かされたのはイギリスやスペインの首相との三者会談のあとで、戦争の必然性を説いたブッシュ大統領が、そこでトランプのゲームを意識しながら、拒否権というカードが示された以上議論は無駄だと語り、さらに闘牛において「最後の一撃」を意味する「真実の時(正念場)」という単語を用いて、決戦への決意を語っていたことである。

多くの人命が失われることが確実視される戦争の必要性を、情念的な用語で説いたアメリカ大統領の演説は、「正義の戦争」が、テロのような「正義の犯罪」の論理と同レヴェルにあることを物語っている。

アメリカ大統領が「神の名を出して戦争を正当化」していると批判したローマ法王は、その翌日にも声明で「イラク戦争は人類の運命を脅かすものだ」と厳しく批判した。実際、「他国」を「悪」と規定するアメリカの姿勢に反発するかのように、フセイン大統領もアメリカを「悪」と断じて、「神の名」により「祖国防衛戦争」の正義を主張したのである。

しかし、ニューヨーク・タイムズ紙のフランク・リッチは、タリバン政権への攻撃には「反対しない」としながらも、「(アメリカ)国民の多数は、米国が冷戦中にアフガニスタンでイスラム過激派をソ連と戦わせていたことも、そしてその後にソ連が退却すると、アフガニスタンを見捨てたことも、理解していない」と指摘している(朝日新聞、二〇〇一年一二月七日)。つまり、アメリカ政府は「テロ」の「野蛮さ」を強調する一方で、なぜテロリストが生まれたのかを国民に説明しないまま「新しい戦争」へと突き進んでいたのである。

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグにおいて、自分だけが「真理」を知っていると思い込んだ人々が、互いに殺し合いを始め、ついに人類が滅亡に瀕するという悪夢を描いた。今度の戦争はそのような危険性すらも孕んでいると思える。

五、「核兵器の先制使用」と「非核三原則の見直し」

実際、アメリカに協力してアフガニスタンでのタリバン政権を崩壊させたばかりのパキスタンとインドとの間で軍事紛争が勃発し、一時は両国首脳が核兵器の使用も真剣に考えるほどに緊張が高まった。この危険は一応は回避されたが、このような緊張の高まりの背景には、国際連合などが有した「公平な裁き」に対する深刻な不信感があり、軍事力の増大によってしか自国を防衛できないという意識を各国が持ち始めたことにあるだろう。

このような国際機関の調停能力の低下には、インドとパキスタンの核実験に対しては経済制裁を両国に課すなど強力な批判を実行しつつも、核の超大国となったアメリカの度重なる未臨界実験や弾道弾迎撃ミサイル制限条約からの一方的な離脱にたいしては、苦言を呈することもできない被爆国日本の核政策もその責任の一端を担っていると、残念ながらいわざるをえないだろう。

こうして現在世界では核戦争が勃発する危険性すら生まれている中でブッシュ政権は「ならず者国家」に対する核兵器の先制使用をも言明した。ここには核兵器の使用が日本にもたらした惨状への無知が顕著であるが、このような中「有事法制」の制定を急ぐ日本政府からも、「非核三原則」の見直しを示唆するような福田官房長官の発言や、それを支持する石原都知事の発言が続いた。この発言が大きな反響を呼ぶと福田長官は、現政権では見直しは全く考えていないと弁明したが、問題は閣僚ではないとしても公職にある石原氏の発言が、「日本の核武装」を唱える氏の持論であることである。

こうした流れを受けて「いつまで日本はアメリカ帝国の属国でいるのか?」という刺激的な問いかけと共に、日本を「アメリカの核の傘の下で『平和病』にかかり、北朝鮮に国民を拉致されても何もできない腰抜け国家」と呼び、「自国を自力で守れない国は『国家』とは言わない」との説明を持つ『日本核武装』という本さえ上梓されるようになっている。

このような強硬な主張は、「野蛮視」された結果、広島と長崎の二都市に原子爆弾を投下された日本の国民の激しいルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨や復讐の感情)を煽る一方で、近隣の諸国に対しては強大な軍事力を持つ日本への恐怖心を与え、また「赤穂浪士」の上演を禁じるほどに日本からの復讐を恐れたアメリカにも、日本の将来に対する「深刻な不信感」を与えたように思える。

なぜならば、哲学的な書物においてルサンチマンの心理を鋭く分析したニーチェ自身の内に、「平等や自由」を普遍的な理念として自国の優位性を主張したフランス「文明」へのルサンチマンが強くあったように思えるからである。このような激しい感情を利用してドイツ国民の復讐心をあおり、「新しい戦争」へと駆り立てたのが天才的な大衆の煽動者だったヒトラーなのである。

この意味で注目したいのは、坂本龍馬の志を継いだ中江兆民が明治憲法発布の二年前に書いた『三酔人経綸問答』において、軍拡主義者の「豪傑君」に、文明の発達につれて「武器はいよいよ優秀に」なり、強国プロシアとフランスの国民は、「おたがいに以前の敗戦を恥じ」、「いつまでも絶えることのない復讐心」によって、「臥薪嘗胆」に耐えつつ「富国強兵」に努めたのだと説明させていることである。実際、ナポレオン戦争以降の世界では、戦勝国は一時的には繁栄を得たが、それは敗戦国の憎しみを生んで新たな「復讐」に遭い、互いに武器の増産と技術的な革新を競いあう中で、ついには生物・化学兵器や原子爆弾などの大虐殺兵器さえもが使用されるにいたったのである。

宇都宮徳馬は「核兵器の現状が人類を十回以上も死滅させる大量破壊能力をもつことはよく知られているが、それが人間を死にいたらしめるまでの激しい永続する苦痛については充分に知られていない」とし、その理由として、核兵器の使用者である米軍の当事者が、「被爆者の死にいたるまでの名状し難い苦しみや痛みを秘匿する政策」をとったばかりでなく、「日本の当局者もその顰みにならって現在にいたったからである」と指摘している。つまり、戦争犯罪は被害国が告発しなければ立件されないために、第一次世界大戦で用いられた「毒ガス」の使用は「戦争犯罪」として裁かれることになったが、日本政府が告発しなかったために三〇万人以上の日本人が苦しみながら亡くなった核兵器使用の非人道性は、アメリカ国内ではいまだによく理解されておらず、現在でもその使用は「戦争犯罪」にはあたらないとされているのである。

圧倒的な軍事力を有するアメリカの核の傘の下で「平和病にかかっている」日本政府は、世界中を永久的な戦争状態におとしいれる危険性のあるブッシュ・ドクトリンや、イラク戦争に際してアメリカ軍が劣化ウラン弾を使用したことに対してなんらの批判もしていないが、日本が真に自立していることを示すためには、いまだに一九世紀的な思考法で軍事力ですべての問題を解決できると考えているアメリカの錯誤とその危険性を指摘すべきであろう。

 

(本稿は日本価値観変動研究センターの季刊誌「クォータリーリサーチレポート」に連載した論考に、時間的な経過を踏まえて改訂を行い日本ペンクラブの「電子文藝館」に掲載した評論の一部である)。

(2015年1月27日.人質の殺害と以前の戦争との関わりについての考察を追加。2016年9月13日、「電子文藝館」版との違いを示すために題名に〈縮小版〉を追加)。