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『真実の「わだつみ」』

学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴》

 真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書

はじめに

戦没学徒の遺稿を集めた『きけ わだつみのこえ』(1949年、東大協同組合出版部)の中でも感動的な遺書を書いたことで知られる陸軍上等兵・木村久夫(1918~46年)の新たに見つかった遺書と事件の全容を記した『真実の「わだつみ」』が刊行された(以下、この本からの引用頁数は本文のかっこ内にアラビア数字で示す)*1。

「戦犯」の問題や死刑囚の精神的な苦しみだけでなく、当時の日本の統治の在り方などにも関わるその内容は、「無実の罪」で処刑された兵士の苦悩を描いた映画《私は貝になりたい》を思い起こさせるばかりでなく、死刑囚の気持ちも詳しく描いていたドストエフスキーの長編小説『白痴』の映画化を行った黒澤監督の映画《白痴》(1951年)の内容とも深く関わっていると思われる。

一、学徒兵・木村久夫の悲劇と『私は貝になりたい』

大阪府吹田市出身の木村は京都帝大に入学後、召集され、陸軍上等兵としてインド洋・カーニコバル島に駐屯した。説明によればこの島は、「『絶対国防圏』の西側の最前線」であり、もともとは英国領だったが日本軍が無血上陸し、翌年の秋には「第一飛行場の滑走路が完成していた」(122)。

この島で民政部に配属され通訳などをした木村は、「英語を話すインド系の住民だけでなく、現地語を覚えて先住民たちとも」熱心に交流していた(124)。しかし、当初は制空権も確保して平和に見えたこの地でも戦況が徐々に悪化し、ついには全滅も覚悟しなければならないほどに追い詰められるようになった。そのようななかで「スパイ事件」が起きたのである(130~146)。

陸軍から軍需米を盗んだ2名の原住民をスパイの疑いがあるとして取り調べることを依頼された木村が取り調べたところ、「民生部の協力者」で「ある程度、日本語も解する」インド人の医師ジョーンズとインド人から信号弾を手に入れたと2人は自供した。しかし、すでに2人は拷問を受けた形跡があり、さらに「海軍主導の民生部の捜査が甘い」とした陸軍参謀らは「住民を人間のように取り扱うのではなく、ぶって、急いで自白を引き出せ」と命じて凄惨な取り調べを行い、その結果、大規模なスパイ団にかかわっていたとされた者81人が軍律裁判抜きで死刑とされ、他にも取り調べ中に4名が死亡した。

日本軍が1945年10月に上陸した連合国軍によって日本軍が武装解除された後でこの事件が明るみに出、木村はスパイ容疑で住民を取り調べた際に拷問して死なせたとしてB級戦犯に問われた。しかし、シンガポールの戦犯裁判では、上官から真相を話すことを禁じられていた木村はあいまいな供述に終始した(147~156)。

その結果、「拷問を伴う取り調べを命じ、処刑を指示した参謀は無罪、中佐は懲役3年だったのに対し、指示通りに取り調べた」木村ら末端の兵士・軍属五人は死刑を言い渡されて、1946年5月に「絞首刑」の刑が執行された。木村は28歳だった。

木村は死刑を宣告されてから哲学者・田辺元の『哲学通論』を手にし、感激して読むとともに、本の余白に遺書を書き込んでいた。木村は「私のごとき者の例は、幾多あるのである」(28)と書いていたが、無実にもかかわらず戦犯として処刑されるというテーマは、加藤哲太郎の遺書『狂える戦犯死刑囚』を原作として、黒澤の映画《羅生門》や《生きる》《七人の侍》などにも脚本家として参加していた橋本忍がテレビドラマ化した《私は貝になりたい》(1958年)のテーマを思い起こさせる。

→1958年「私は貝になりたい」ダイジェスト – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=3eoum9iEKEk

 「上官の命令は事のいかんを問わず天皇陛下の命令だ」と言われて捕虜の殺害を命じられた兵士の清水豊松は、手元がブルブル震えたためにかすり傷を負わせただけだったので上官から「足腰も立たんほどブン殴られた」*2。

それにもかかわらず捕虜殺害の罪に問われた豊松は、裁判で「あなたは、その命令をどうして断らなかったのですか?」と問われると、「(呆れ返る)分からねぇんだな、そんなことしようもんなら銃殺だよ」と反論するが、判事からは「不当な命令と思えば、軍律会議に提訴すればよいではないか?」と厳しく批判され、力なく「日本の軍隊では、二等兵は牛や馬と同じなんですよ、牛や馬と!」呟いたのである*3。

解説者の保坂正康が書いているように、「BC級戦犯裁判」では「上官が命令したことを認めない」ために、「無実でありながら絞首刑や有期刑を宣告された人たちが多い」状態だったのである*4。

こうして、罪もなく処刑されることになった清水豊松の「深い海の底なら……戦争もない……兵隊もない……(中略)どうしても生まれ代わらなければいけないのなら……私は貝になりたい……」という深い絶望の言葉でこのドラマは終わる。

二、『真実の「わだつみ」』の木村久夫と映画《白痴》の亀田欽司

木村久夫はその遺書で「吸う一息の息、吐く一息の息、食う一匙(ひとさじ)の飯、これらの一つ一つのすべてが、今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く、やがて数日のうちには、私へのお呼びもかかって来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚なくして行ってきたこれらのことが、味わえばこれほど切なる味を持ったものなることを痛感する次第である」と書き、「ただ与えられた瞬間瞬間をただありがたく、それあるがままに、享受していくのである」と続けていた(59-60)。

ドストエフスキーも長編小説『白痴』で死刑囚の気持ちについて詳しく記していたが、その長編小説を映画化した黒澤監督は、主人公を戦犯の罪で「銃殺」されそうになっていたが、「きわどいところで執行停止」になっていた若い兵士の亀田にしていた。そして銃殺される寸前の気持ちを綾子(アグラーヤ)から尋ねられた亀田は、「もし死ななかったら」、「その一つ一つの時間を……ただ感謝の心で一杯にして生きよう……ただ親切にやさしく……そういう思いで胸が破けそうでした」と語っていた*5。

黒澤明自身は徴兵されたことはなかったが、盟友の本多猪四郎は三度も赤紙で兵役に召集されており、本多夫人は「戦争が終わってから亡くなるまでの間、年二、三回、夜中にうなされ」ていたという重い証言をしている*6。

映画《白痴》の冒頭では、戦場から帰還した復員兵が北海道に向かう青函連絡船の三等室で夜中に「悪夢」にうなされて悲鳴をあげるというシーンを描いていた。そして亀田には、その後何度も発作を起こして沖縄の病院で治療したものの、「その時のショックで頭が狂って了って」白痴になったと初対面の赤間(ロゴージン)に正直に告げさせ、「戦争」を体験した兵士の極限的な精神状態を描いていた*7。

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娘の黒澤和子も黒澤監督が本多監督とよく戦争のことを話しており、「軍から命令が下されれば、現場の状況が無視され、様々な人格が破壊される、それが戦争の『悪』だと言っていた」という趣旨のことを語っていたが、『イノさんのトランク』という題名のドキュメンタリー番組では、トランクから見つかった本多の手紙には、本多が目撃した現地の情況とともに、「上等兵が、途中、数人の鮮人の若者を銃剣で突き殺す…」という文言や、「秋空のもとでこんな記事を書いているオレも現実の生活になれてしまったのだ。といっても、平気でいなければ気でも狂うか、自殺でもしなければならない」との記述も見られるのである(下線引用者)*8。

『真実の「わだつみ」』で、「南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追う商人よりも根底の根性は下劣なものであった」という厳しい木村の言葉を紹介した加古は、木村らを犠牲にして生きのびた元中佐の坂上が、1957年に青森県弘前市で行われた聞き取り調査では、シンガポールで行われた戦犯裁判で口裏を合わせて虚偽の供述をしたのは、「軍の体面上又旅団長を救うため」だったと答えたことを紹介している*9。

旅団長の斎俊男少将自身が「責任は私にある」と潔く認めて「銃殺刑」に処せられていたことを考慮するならば、参謀たちが虚偽の供述を命じたのは自分を守るためだけだったことになる。しかし、木村の上官だった鷲見(すみ)豊三郎はその手記で、民生部側が「『死刑は数名にとどめ、残りは有期刑に』と提案したが、参謀の斎藤や中佐の坂上らは『刑務所のない孤島でいかにして実施しうるか』と、一蹴した」と記していた(138)。

加古はこの「スパイ事件」そのものが虚構だった可能性も指摘しているが、鷲見の記述から判断するとこの事件の隠蔽は単に自分たちの罪を隠すだけではなく、「戦争」に勝つことを至上目的とし、そのためには占領地の住民を殺すことも正当化していた参謀本部の思想そのものを隠蔽しようとしていた可能性さえあると思える*10。

これらのことに注意を向けるならば、木村久夫と同じように映画《白痴》の亀田欽司も、日常生活ではいかなる場合でも人を殺せば、「殺人犯」となるが、「敵」を多く殺した者が「英雄」になり勲章を与えられるという「戦争」というきわめて異常な事態のことをよく認識していた人物として描かれていたといえるだろう。

実際、本多監督は映画《白痴》をめぐる座談会で「人間が冷静な思考を常にもつことができるとしたならば、戦争などは起こらないはずである、/戦争というものは、決して打算をはじいたらできることではない、多くの生命を失い、資材も浪費する、たとえ勝っても──敗ければもちろんだが、勝ったって決して得のいかない戦争などということは、人間が理性を失わないかぎり起こるものではない」と語り、この映画の意義を強調していたのである*11。

しかもドキュメンタリー番組『イノさんのトランク』では、黒澤監督が一九四二年(昭和十七年)の手紙で、「実際に戦っている兵隊の苦労は、しょせん、内地に居ちゃわかる訳がない。すまんすまんと云うより外はなく、それもまた何か白々しく、それも結局、心の隅の方に絶えず戦っている兵隊さんの事が、良心の呵責のように積もり積もっていく」と書いていたことも紹介されていた(太字は引用者)。

「倫理」や「道徳」に深く関わる「良心」という単語は、日本の社会や日常生活においては深くは定着していないように見えるが、ドストエフスキー作品においては『罪と罰』や『白痴』などの長編小説で「核」ともいえる重要な役割を担っている「良心」という用語が、黒澤監督の手紙では自然な形で用いられていたのである。

「せめて一冊の著述でも出来得るだけの時間と生命が欲しかった」とその遺書に記した木村久夫の処刑が実行されなかったならば、亀田欽司のような復員兵になっていた可能性が高いだろうし、旧制高知高校時代の恩師・塩尻公明によって木村の遺書の抜粋が1948年に月刊誌『新潮』の6月号に発表されていたことを考慮するならば(164)、映画《白痴》の構想にも影響していた可能性さえあるかもしれない。

つまり、長編小説『白痴』について文芸評論家の小林秀雄は、三角関係の愛情のもつれなどに焦点を当てて解釈していたが、黒澤監督が映画《白痴》で示唆したようにこの長編小説では「敵」を殺す事を「正義」とする「戦争」に対する重たい問題が提起されていたといえるだろう*12。 新たに見つかった木村久夫の遺書は、当時の植民地政策の問題点を明らかにするとともに、国の根幹にかかわる「憲法」に抵触すると思われる「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」などが閣議決定されている現在の日本の危険性をも浮き彫りにしていると思える。  

 

*1 加古陽治『真実の「わだつみ」――学徒兵 木村久夫の二通の遺書』東京新聞、2014年。

*2 橋本忍『私は貝になりたい』(原作:加藤哲太郎『狂える戦犯死刑囚』)朝日文庫、2008年、59頁、79頁。

*3 同上、70頁。

*4 保坂正康「解説」、前掲書、『私は貝になりたい』、190頁。

*5 『全集 黒澤明』第3巻、岩波書店、1988年、87頁。

*6 ドキュメンタリー番組『イノさんのトランク』、NHK・BSプレミアム、2012年12月20日。

*7 『全集 黒澤明』第3巻、岩波書店、1988年、75頁。

*8 堀伸雄「試論・黒澤明の戦争観」(『黒澤明研究会誌』第二九号)より引用。なお、本多きみ『ゴジラのトランク 夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情』宝島社、2012年、『僕らを育てた本多猪四郎と黒澤明──本多きみ夫人インタビュー』アンド・ナウの会、平成22年なども参照。

*9  加古陽治「『わだつみ』木村久夫処刑」東京新聞、2014年8月15日 朝刊。

*10 司馬遼太郎は『坂の上の雲』において「国家のすべての機能を国防の一点に集中する」という「プロシャの参謀本部方式」を陸軍が取り入れたことが、日本を無謀な太平洋戦争にまで引きずりこむことになったことを明らかにしていた(高橋『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、2005年参照)。

*11 黒澤明・浜野保樹『大系  黒澤明』第1巻、講談社、2009年、627頁。

*12 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、成文社、2014年、序章参照。

追記:本稿を脱稿後に映画《白痴》の前年に公開された黒澤映画《醜聞(スキャンダル)》(1950年)でも主演した女優の山口淑子氏が亡くなられた。その後の報道番組で李香蘭という中国名で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった山口氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動に奔走されていたことを知った。彼女が語った「贖罪」という言葉は、映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像を考える上でもきわめて重要だと思える。

世界文学120号(『世界文学』No.120、2014)  

(2019年3月5日、書影とユーチューブを追加)