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小林秀雄

「不注意な読者」をめぐって――黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

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一九五二年から翌年にかけて八章からなる「『白痴』について」Ⅱ」を発表していた評論家の小林秀雄(一九〇二~一九八三年)は、長い間中断した後で一九六四年に長編小説の結末について考察した短い第九章を書き、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。〈後略〉」と結んでいた(傍線引用者、小林秀雄『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、三四〇頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数を漢数字で示した)。

小林が時々用いる「不注意な読者」という表現に出会ったときは、この言葉は特定の人物を指すのではなく、一般的な読者に向けられていると感じていた。しかし、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社)を書くなかで、ここでは一九五一年に映画《白痴》を公開していた黒澤明監督(一九一〇~一九九八年)を指している可能性が強いと考えるようになった。

なぜならば、一九三四年に書いた「『白痴』についてⅠ」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と書き、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と断じていた小林は〔八二〕、戦後の一九四八年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである」と断じていたからである〔二五〇〕。

しかも戦前の一九三七年に「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と書いた小林秀雄は、未完に終わった『悪霊』論を「小さな拳を振り上げてゐる」マトリョーシャの「身振り、これがどうしても堪らないのだ……」というスタヴローギンの「手記」からの意味ありげな引用で中断していた〔傍線引用者、一五八~一六五〕。

すでに一九三四年の「『白痴』についてⅠ」において小林が、ナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことを思い起こすならば〔九五〕、小林の『白痴』論は後に日本で開花することになる「サド・マゾ的心理分析」の端緒を開いていたとも思える。しかも、そこで「人々の平安は又ムイシュキン故に破れる」とも書いた小林は、「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と続けていたのである〔傍線引用者、九〇~九一〕。

さらに、ドストエフスキー論の絶筆となる一九六四年の『白痴』論で小林は、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していた〔三三九〕。

ここで注意を払っておきたいのは、このような小林の結論が「このホルバインの絵は、ドストエフスキイの思想の動きが、通過する、恐らく繰返し通過しなければならぬ、最も危険な地点を指示する様に思はれる」と書いた直後に記されている次のような考察から導き出されていたことである。 「ドストエフスキイには、外遊中、ルナンが感嘆してゐる様なルネッサンスの美しい宗教画を見る機会はいくらもあつただらうと思はれるが、彼がさういふものに感動した形跡は、彼の書いたもののうちには見当らない。恐らく、美しい宗教画など、彼には何んの興味もなかつたのである」〔二七七〕。

よく知られているようにドストエフスキーはドレスデンの美術館で「美しい宗教画」から強い感動を受けていた(『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』、木下豊房訳、河出書房新社参照)。そしてグロスマンは、「このころ高遠なルネッサンスの造形美術に接したことは、ドストエフスキイの創作歴上の一大事件となった」と指摘し、『緑色のカーテン』(冨岡道子、未来社)では、『白痴』とラファエロの絵画との関係が詳しく分析されている。 しかも、小林は先の文章に続けて「ルナンが『イエス伝』を書いたのは、ドストエフスキイがシベリヤからペテルブルグに還つて間もなくの事である。この一世を風靡した書物をドストエフスキイが読んだかも知れないが、興味を覚へたとは考えられない」と書いている。

しかし、ルナンの『イエス伝』についての考察は一八六四~六五年の「手帖」だけでなく、『白痴』の草稿にも記されていることが明らかになっているのである(高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、一四一頁)。 これに対して、黒澤明監督は小林が『白痴』論を再開する前年に公開された映画《白痴》のラストシーンで、綾子(アグラーヤ)に「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語らせていた(黒澤明『黒澤明全集』第三巻、岩波書店、一四五頁)。

そして、一九五六年の年末に小林との対談を行っていた黒澤明は、ソ連で撮った映画《デルス・ウザーラ》が公開された一九七五年の若者たちとの座談会では、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語っていた(黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、二八八頁)。 実際、八五〇万人以上の死者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と高く評価していた(高橋 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、六頁)。

黒澤明監督も五千万人以上の死者を出した第二次世界大戦後に公開した映画《白痴》では、原作の舞台を日本に置き換えるとともに、主人公を沖縄で死刑の判決を受けるが冤罪が晴れて解放された復員兵とすることで、映像をとおして敵を殺すことで自国の「正義」を貫こうとする「戦争」の「野蛮性」を強く訴えていたのである。

これらのことに注意を払うならば、「真に美しい善意の人」を主人公とした黒澤映画《白痴》では、自分の『白痴』観に対する徹底的な批判がなされていると小林秀雄が感じていたとしても不思議ではなく、一九六四年に書かれた「不注意な読者」という言葉からは自分のドストエフスキー論に行き詰まりを感じていた小林の捨て台詞のような響きさえも感じるのである。

昨年の秋に私は日本比較文学会・東京支部の大会で「黒澤明監督のドストエフスキー理解」を口頭発表し、原爆や原子力発電所の危険性を描いていた黒澤映画《夢》が、エピローグの意味とラスコーリニコフの「悔悟」を否定した小林秀雄の『罪と罰』観の鋭い批判ともなっていることを具体的に示した。

ドストエフスキーの文明観の問題は日露の近代化や現在の日本の状況とも深くかかわるので、黒澤明監督の映画をとおして小林秀雄のドストエフスキー観の問題点を詳しく検証する著作をなるべく早くに公刊したいと考えている。

(『ドストエーフスキイ広場』第22号、2013年。再掲に際して文体を改正し図版を追加

 リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

 

司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

リンク→「主な研究」のページ構成

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(芥川龍之介の肖像、Yokohama045、図版は「ウィキペディア」より)

はじめに

本稿では言論統制の強化が進み始めたころに書かれた芥川龍之介の『将軍』などに対する小林と司馬の考察を比較することで、イデオロギーから自由であった司馬遼太郎の歴史認識の広さと深さを明らかにできるだろう。

一、司馬遼太郎の『殉死』と芥川龍之介の『将軍』

『坂の上の雲』を書く一年前に乃木大将を主題とした『殉死』(文春文庫)を発表した司馬遼太郎は、この小説の冒頭近くで直接名前は出さないものの芥川龍之介の『将軍』に言及して、「筆者はいわゆる乃木ファンではない」が、自分には「大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪もない」と断り、この作品を「小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめる」つもりで書くと続けていた。

それゆえ、この記述では芥川と自分の乃木観の違いが強調されていると考えた私は、旅順の激戦にも言及しつつ乃木大将を批判的に描いていた芥川龍之介の小説が気になりながらも、この短編と『殉死』とを具体的に比較することは行ってこなかった。

しかし、司馬遼太郎の『殉死』や『坂の上の雲』にも影響を及ぼしたと思われる夏目漱石の短編「趣味の遺伝」における旅順の戦いの描写や乃木将軍への言及に注目しながら、改めて芥川の『将軍』を読んだ際には先の言葉は司馬氏独特の韜晦的な表現であり、実際は芥川龍之介のこの小説の影響を強く受けているだろうと感じるようになった。

芥川龍之介の短編小説『将軍』は現在あまり読まれていないので、まずその内容を詳しく紹介し、その後で司馬の『殉死』との関係を考察することにしたい。

芥川龍之介の『将軍』は、司馬が「旅順総攻撃」の章でもふれていた「白襷(しろだすき)隊」について書いている第一章の「白襷隊」から始まり、「間諜」、「陣中の芝居」と続いて、乃木大将の殉死をめぐる父と息子との会話を描いた第四章「父と子と」から成立っている(引用は『芥川龍之介全集』岩波書店による)。

第一章の「白襷隊」は次のような文章で始まっている。「明治三十七年十一月二十六日の未明だった。第×師団第×聯隊(れんたい)の白襷隊(しろだすきたい)は、松樹山(しょうじゅさん)の補備砲台(ほびほうだい)を奪取するために、九十三高地(くじゅうさんこうち)の北麓(ほくろく)を出発した」。

その後で芥川龍之介はこう記している。少し長くなるが、司馬遼太郎の「軍神」観にも関わるので引用しておく。

「路(みち)は山陰(やまかげ)に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だった。その草もない薄闇(うすやみ)の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷(しろだすき)ばかり仄(ほのめ)かせながら、静かに靴(くつ)を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数(くちかず)の少い、沈んだ顔色(かおいろ)をしているのだった。が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。それは一つには日本魂(やまとだましい)の力、二つには酒の力だった。」(太字は引用者)

そして、「聯隊長はじめ何人かの将校」が「最後の敬礼を送っていた」のを見た田中一等卒が「どうだい? たいしたものじゃないか? 白襷隊になるのも名誉だな」と語るのを聞いて、「苦々しそうに、肩の上に銃をゆすり上げた」堀尾一等卒が、「何が名誉だ?」と聞き返し、「こちとらはみんな死にに行くのだぜ。してみればあれは××××××××××××××そうっていうのだ。こんな安上がりなことはなかろうじゃねえか?」と反論した。すると田中一等卒が、「それはいけない。そんなことを言っては×××すまない」と語ったと芥川は記している。

ここで注目したいのは、『澄江堂雑記』に「官憲」によって「何行も抹殺を施された」と芥川は記しているが、将校たちから「最後の敬礼」に送られて突撃をする兵士たちの苦悩が具体的に描き出されていたこの会話の部分も、検閲で伏せ字になっていることである。原稿が遺されていないために確定できないが、注の記述は最初の個所では「名誉の敬礼で生命を買い上げて殺(そう)」という文章が、次の個所では「陛下に」という文字が入っていただろうと想定している。

そして、第二章の「間諜」では、ロシア側のスパイを見つけた「将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝」き、「斬れ! 斬れ!」と命じた場面などが描かれている。「午前に招魂祭を行なったのち」に催された「余興の演芸会」での出来事が記されている第三章「陣中の芝居」では、将軍が「男女の相撲」や「濡れ場」のある余興の上演を二度にわたって直ちに取りやめさせるのを見た「口の悪いアメリカの武官」が隣にすわったフランスの武官に、「将軍Nも楽じゃない。軍司令官兼検閲官だから」と話しかける場面が描かれ、ピストル強盗を捉えつつも傷ついた巡査が亡くなるという芝居ではN将軍が、「偉い奴じゃ。それでこそ日本男児じゃ」と深い感激の声をあげたと記されている(下線引用者)。

最後の「父と子と」の章では、日露戦争当時は軍参謀の少佐だった中村少将とその息子との大正七年の夜の会話が淡々と描かれている。壁にあった「N閣下の額画」が別の絵に懸け換えられているのに気づいた少将から、肖像画が壁に掛かっているレンブラントについて尋ねられた息子は「ええ、偉い画かきです」と答え、さらに「まあN将軍などよりも、僕らに近い気もちのある人です」と続けている。

一方、彼が追悼会に出ていた友人が「やはり自殺している」ことを告げた青年は、自殺する前に「写真をとる余裕はなかったようです」と続けて暗にN将軍を批判したことを咎められると、「僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします」としながらも、「しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られることを、――」と続けようとした。

すると、「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない、徹頭徹尾至誠の人だ」と父から憤然とさえぎられるが、息子は「至誠の人だったことも想像できます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりとのみこめないのです。僕等よりのちの人間には、なおさら通じるとは思われません。……」と語り、雨が降ってきたことに気づく場面で終わる。

大正一〇年に書かれたこの小説で芥川は青年に「ただその至誠が僕等には、どうもはっきりとのみこめないのです」と語らせていたが、この小説が発表された二年後には戦死者でなかったために靖国神社に入ることのできなかった乃木を祭る神社が創建され、「活躍した偉人を祭神とする神社の先例」となった(山室建徳『軍神――近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡』中公新書、二〇〇七年)。

さらに、昭和に入ると「偉大なる明治を思い返すべきという動き」が強まり、満州事変勃発の直後に廣瀬武夫を祀る神社創設の許可が内務省からおりて、日露戦争戦勝三〇周年にあたる昭和一〇年に廣瀬神社が鎮座した。芥川が自殺した翌年の昭和一五年には「本人の意志など問題ではなく」なり、東郷平八郎が神になることを「もってのほかでごわす」と拒否したにもかかわらず東郷神社が創建された。

一方、明治二〇年から一年間ドイツに留学していた乃木希典が帰国後に書いた意見具申書で、「我邦(わがくに)仏教の如キハ、目下殆(ほと)ンド何ノ用ヲ為ストコロナク」と書いている文章に注目した司馬は、『殉死』において乃木が「軍人の徳義の根元は天皇と軍人勅諭と武門武士の伝統的忠誠心にもとめるほかない」と報告していたばかりでなく、「日本は神国なるがゆえに尊し」という感動をもって書かれた山鹿素行の『中朝事実』を、師の玉木文之進から「聖典」のごとくに習っていた乃木希典が、ドイツ留学から戻った後でこれを読みなおすことで、「ついにはその教徒のごとくになった」と書いていたのである。

司馬と同じころに青春を過ごした哲学者の梅原猛は『殉死』や『坂の上の雲』において、「乃木希典は純真きわまりない人間」としてだけでなく、「戦争は大変下手で、無謀な突撃によっていたずらに多くの兵隊の血を流した将軍」として描かれていると指摘し、「乃木大将は東郷元帥とともに戦前の日本ではもっとも尊敬された軍神であった」ので、「戦前ならば、死刑にならないまでも、軍神を冒涜するものと作者は社会的に葬られたにちがいない」として、この作品を書いた司馬の勇気を高く評価している(「なぜ日本人は司馬文学を愛したか」『幕末~近代の歴史観』)。

芥川龍之介は治安維持法が強化されて特別高等警察が設置される前年の昭和二年に自殺したが、大正時代の青年たちを主人公とした『ひとびとの跫音』(中公文庫)で司馬は、大正十四年には治安維持法が公布されて国家そのものが「投網」や「かすみ網」のようになったと記し、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と続けている。

芥川が遺書ともいえる「或旧友へ送る手記」で、「みずから神にしない」と書き、自己の英雄化を拒否していることに注目するならば、「軍神を冒涜するもの」は「社会的に葬られた」時代に青春を過ごした司馬の芥川龍之介に対する思いはきわめて深く重かったと思える。

二、小林秀雄の『将軍』観と司馬遼太郎の「軍神」批判

一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」とした小林秀雄は、「思い出話で纏(まと)まつた伝記ではないのですが、乃木将軍といふ人間の面目は躍如と描かれてゐるといふ風に僕は感じました」と書いていた(『小林秀雄全集』第七巻二一二頁)。

小林の読んだ本は、日露戦争の際にシカゴ・ニュースの記者として従軍したウォシュバンが書いた『NOGI』という原題の伝記で、『乃木大将と日本人』という邦題で、徳冨蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版されていたものである(講談社学術文庫、一九八〇年)。

その直後に芥川の『将軍』に言及した小林は「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続けている(下線引用者))。

そして、「『将軍』の作者が、この作を書いた気持ちは、まあ簡単でないと察せられますが、世人の考えてゐる英雄乃木といふものに対し、人間乃木を描いて抗議したいといふ気持ちは、明らかで、この考へは、作中、露骨に顔を出してゐる」とした小林は「敵の間諜を処刑する時の、乃木将軍のモノマニア染みた残忍な眼とか、陣中の余興芝居で、ピストル強盗の愚劇に感動して、涙を流す場面だとかを描いてゐる」が、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈している(下線引用者)。

さらに、「最後に、これもポンチ絵染みた文学青年が登場していまして」と続けて、乃木将軍を批判した青年の言葉を紹介し、「作者にしてみれば、これはまあ辛辣な皮肉とでもいふ積りなのでありませう」と書いた小林は、ウォッシュバンの書いた伝記が「芥川龍之介の作品とまるで違つているのは、乃木将軍といふ異常な精神力を持つた人間が演じねばならなかつた異常な悲劇といふものを洞察し、この洞察の上にたつて凡ての事柄を見てゐるといふ点です。この事を忘れて、乃木将軍の人間性などといふものを弄くり廻してはゐないのであります」と賛美していた。

ここで小林は、「学生時代に読んで、大変面白かつた」記憶がある『将軍』を、ついでに読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた」と書いていたが、その理由は現在の読者には明らかだろう。つまり、学生時代には自分にも戦場で戦うことになる可能性があったので、芥川が青年に語らせた言葉は小林にとっても切実なものだった。しかし、この評論を書いた翌年には大東亜文学者会議評議員に選出され、青年たちを戦場へと送り出す役割をいっそう強く担うことになる小林にはすでにそのような危険性は無くなっていたのである。

司馬遼太郎の歴史観との関連で興味深いのは、小林が「疑惑 Ⅱ」というエッセーで、日中戦争の時に二五歳で戦死し、「軍神」とされた戦車隊の下士官・陸軍中尉西住小次郎を扱った「菊池寛氏の『西住戦車長伝』を僕は近頃愛読してゐる。純粋な真実ないゝ作品である」と書いていることである(『小林秀雄全集』第七巻、六八頁)。そして、「友人に聞いても誰も読んでゐる人がない。恐らくインテリゲンチャの大部分のものは、あれを読んではゐないであらう。当然な事なのだ」と書いた小林は、「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪へられないのである。思想の古さに堪へられないとは、何といふ弱い精神だろう」と続けて、日本の近代的な知識人を批判していた。

さらに、「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いてゐる様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪へぬ様な、一と口に言へば大和魂といふ、インテリゲンチャがその曖昧さに堪へぬ様な思想にほかならないのではないか」と記して、夏目漱石が『吾輩は猫である』でスローガンとして使われていることへの危機感を表明していた「大和魂」にも言及した小林は、「伝統は生きてゐる。そして戦車といふ最新の科学の粋を集めた武器に乗つてゐる」と続けていたのである(太字は引用者)。

一方、『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に軍神・西住戦車長」というエッセーを書いた司馬遼太郎は、そこで「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった。最初はだれの知恵から出たものかはわからないが、もっとも安あがりの軍需資源といっていい」と厳しく批判していた(『歴史と小説』、集英社文庫)。

そして、「日露戦争では、海軍は旅順閉塞隊の広瀬武夫中佐、陸軍では遼陽で戦死した橘周太中佐が軍神」になっていたことを紹介した司馬は、菊池寛の『西住戦車長伝』から「剛胆不撓(ごうたんふとう)、常に陣頭に立ちつつ奮戦又奮戦真に鬼神を泣かしむる行動を敢行して、よく難局を打開し」という記述を引用して、「事実、そのとおりであろう。西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいない」と記している。(なお、司馬はここで菊池寛の伝記を『昭和の軍神・西住戦車長伝』と、「昭和の軍神」を付け加えて誤記しているが、それは軍神に対する司馬の強い関心をも示しているだろう)。

ただ、その後で司馬は比較文学者の島田謹二が描いた『ロシヤにおける広瀬武夫』(弘文堂刊)に描かれている「この個性的な明治の軍人がすぐれた文化人の一面をもっていたことを知ったが、昭和の軍神はそうではなかった。学校と父親からつくった鋳型から一歩もはみ出ていなかった」と続けているのである。

すなわち司馬によれば、西住戦車長が「軍神」になりえたのは彼が戦車に乗っていたからであり、「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があった」のであり、当時の日本陸軍は「世界第二流の軍隊だった」が、「国家が国民をいつわって世界一と信じこませていたのである」(太字は引用者)。

西住戦車長が戦死した翌年にノモンハン事件が起きると、その「いつわり」のつけはすぐに払わねばならなくなった。冷静な事実の記述でありながら、内に激しい怒りがこもっている司馬の文章を少し長くなるが引用しておきたい。

「ソ連のBT戦車というのもたいした戦車ではなかったが、ただ八九式の日本戦車よりも装甲が厚く、砲身が長かった。戦車戦は精神力はなんの役にも立たない。戦車同士の戦闘は、装甲の厚さと砲の大きさで勝負のつくものだ。ノモンハンでの日本戦車の射撃はじつに正確だったそうだが、(中略)タマは敵戦車にあたってはコロコロところがった。ところがBT戦車を操縦するモンゴル人の大砲は、命中するごとにブリキのような八九式戦車を串刺しにして、ほとんど全滅させた。」

つまり、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で日露戦争の際に、乃木大将の指揮した軍隊が崩壊したことなどが隠蔽されたことを指摘していたが、そのような軍事上の事実の「隠蔽」はノモンハン事件での大敗北の際にも行われて、国民には知らされていなかったのである。

この意味で重要と思われるのは、『昭和という国家』の「誰が魔法をかけたのか」と題された第一章で、「ノモンハンには実際には行ったことはありません。その後に入った戦車連隊が、ノモンハン事件に参加していました」と語り、「いったい、こういうばかなことをやる国は何なのだろうということが、日本とは何か、ということの最初の疑問となりました」とし、「私は長年、この魔法の森の謎を解く鍵をつくりたいと考えてきました」と続けた司馬が、「参謀本部という異様なもの」について言及して、「そういう仕組みがいつでき始めたかというと、大正時代ぐらいから始まっています。もうちょっとさかのぼれば、日露戦争のときが始まりでした」と書いていることである。

このように見てくるとき、『坂の上の雲』を書いたときの司馬の関心が、「軍神」を作り出して、本来ならばその生命を守るべき「国民」を戦争に駆り立てた「参謀本部」というシステムにあったことは確実だといえるだろう。

事実、「ノモンハンで生きのこった日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して廃人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう」とも記していた司馬は、「昭和に入って、軍部はシナ事変をおこし、さらにそれを拡大しようとしたために、国民の陣頭にかざす軍神が必要になった」と説明し、「つづいて大東亜戦争の象徴的戦士として真珠湾攻撃のいわゆる『九軍神』がえらばれ」たが、「日本の軍部がほろびるとともに、その神の座もほろんだ」と結んでいたのである(『歴史と小説』)

それゆえ司馬は、『坂の上の雲』を書き終わった年に発表した「戦車・この憂鬱な乗り物」と題した一九七二年のエッセーでは、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判している(太字は引用者)。このとき司馬の批判が「大和魂」を強調しつつ、「伝統は生きてゐる。そして戦車といふ最新の科学の粋を集めた武器に乗つてゐる」と書いて、国民の戦意を煽っていた小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性は高かったと思える。

(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉『全作家』第90号、2013年より、芥川龍之介観の考察を独立させ、それに伴って改題した。2月6日、青い字の箇所とリンク先を追加)

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→小林秀雄と「一億玉砕」の思想

リンク→« 隠された「一億玉砕」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(4)

司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→「主な研究」のページ構成

はじめに

私がドストエフスキーの作品と出合ったのは、ベトナム戦争が行われていた高校生のころで、原子爆弾が発明され投下されるなど、兵器の近代化によって五千万人もの戦死者を出した第二次世界大戦の後も戦争が続けられることに憤慨して、私は宗教書や哲学書、さらに文学書を学校の授業もおろそかにして読みふけって価値観を模索していた。

それゆえ、長編小説『罪と罰』や『白痴』を読んだ際には、社会状況をきちんと分析しながら、自己と他者の関係を深く考察することで個人や国家における「復讐の問題」を極限まで掘り下げているこれらの作品は、「殺すこと」が正当化されている状況を根本的に変える力になると思えたのである。そして、そのような思いから戦後も高く評価されていた小林秀雄のドストエフスキー論も一時期、熱心に読んだ。

1,情念の重視と神話としての歴史――小林秀雄の歴史認識と司馬遼太郎

しかし、私がロシア文学ではなく文明学を研究対象とした理由の一端は、一九三五年から一九三七年にかけて雑誌『文學界』に連載されていた小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』の冒頭におかれていた「歴史について」と題された「序」にあった。

この「序」で、「歴史は神話である。史料の物質性によつて多かれ少かれ限定を受けざるを得ない神話だ」と規定した小林は、「既に土に化した人々を蘇生させたいといふ僕等の希ひと、彼等が自然の裡に遺した足跡との間に微妙な均合が出来上る」とし、「歴史とは何か、といふ簡単な質問に対して、人々があれほど様々な史観で武装せざるを得ない所以である」とし、「一見何も彼も明瞭なこの世界は、実は客観的といふ言葉の軽信或は過信の上に築かれてゐるに過ぎない」と記していた((下線引用者、『小林秀雄全集』第五巻、新潮社、一九六七年、一四~一六頁。引用に際しては、旧漢字は新漢字に改めた。)。

この『ドストエフスキイの生活』が発表されていた一九三六年に日本はロンドン軍縮会議からの脱退を宣告し、一九三七年からは太平洋戦争に直結することになる日中戦争が始まっていたが、「僕は本質的に現在である僕等の諸能力を用ひて、二度と返らぬ過去を、現在のうちに呼び覚ます」と記した小林は、「僕は一定の方法に従つて歴史を書かうとは思はぬ」と宣言し、「立還るところは、やはり、さゝやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない」と情緒的な言葉で自分の「方法」の特徴を示し、「要するに僕は邪念といふものを警戒すれば足りるのだ」という言葉で「序」を結んでいた。

こうして、この「序」で「自然」や「歴史」の問題に言及しながら、自分の方法の特徴を端的に記した小林は、「自分の情念」を大事にしながら、自分の選んだ作品の主人公や主要な登場人物について考察している。しかし、青年に達した「死児」はすでに自分独自の交友関係を有しているのであり、いかに子供を深く愛していても「母親」の「情念」だけでは、「死児」の全体像を描き出すのは難しいと思われる。

実際、日本では恋愛小説として理解されている長編小説『白痴』では、貧富の格差や貴族たちのモラルの腐敗の問題が、きわめて鮮明に描き出されているが、小林秀雄の『白痴』論ではこれらの問題にはほとんど言及されていない。

最初はこのことを不思議に感じたが、「四民平等」を謳った明治維新後に導入された「華族制度」は、帝政ロシアの貴族制度とも似ていたので、『白痴』に描かれているこれらの問題に言及することは、日本の華族制度の批判とみなされる危険性があったのである。しかも問題は、戦後になって厳しい検閲制度が廃止された後でも小林が自分の『白痴』観を変えなかったことである。

それゆえ、そのような小林秀雄の歴史認識に疑問を感じていた私は、帝政ロシアの問題をきちんと分析していない小林秀雄のドストエフスキー論が戦後も高く評価されていることに深い危機感を抱いた。なぜならば、クリミア戦争の敗北後に帝政ロシアでは、農奴制の廃止や言論の自由などの「大改革」が行われたが、しかし自分たちの利権が失われることを嫌った貴族たちによって改革は骨抜きにされて再び厳しい言論統制がおこなわれるようになり、露土戦争での勝利や日露戦争での敗戦を経て革命にいたっていたからである。

一方、司馬遼太郎は『昭和という国家』(NHK出版、一九九八年)の「買い続けた西欧近代」と題された第九章で、真珠湾攻撃の後に行われた「近代の超克」という座談会に「当時の知識人の代表者」だった小林秀雄も参加していたことを紹介し、「小林秀雄さんを尊敬しております」と断りつつも、このときの座談会については「太平洋戦争の開幕のときの不意打ちの成功によっても、日本のインテリは溜飲を下げた」ときわめて厳しい批判を投げかけていた。

このことに注目しながら、戦争中に書かれた小林の「歴史と文学」や「疑惑 Ⅱ」というエッセーを読むと、芥川龍之介の『将軍』観や菊池寛の『西住戦車長伝』観が、司馬遼太郎の見方とは正反対であることに気づく。(リンク→)最後に戦時中に書かれた「歴史と文学」における小林の歴史認識と司馬遼太郎との違いを確認することで、これまで矮小化されてきた司馬遼太郎の「文明史家」としての大きさを明らかにしたい。

2、小林秀雄の「隠された意匠」と「イデオロギーフリー」としての司馬遼太郎

「歴史と文学」の第一章で小林秀雄は、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕等の愛情の念といふものであって、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます」と記していた。

そして、「大正以来の日本の文学は、十九世紀後半のヨオロッパ文学の強い影響」下にあることを指摘し、「作家たちによる、人間性といふものの無責任な乱用」や、唯物史観の影響下にある文学を批判した小林秀雄は、『大日本史』の列伝では「様々な人々の群れが、こんなに生き生きと跳り出す」ことを指摘して、作家たちが「腕に縒りをかけて、心理描写とか性格描写とかをやつてゐる」、「現代の小説」のつまらなさを糾弾していた(二一七頁)。

さらにこの文章の末尾で「僕は、日本人の書いた歴史のうちで、『神皇正統記』が一番立派な歴史だと考えてゐます」とも記した小林は、この書を小田城などの陣中で書いた北畠親房が「心性明らかなれば、慈悲決断は其中に有り」と記していることに注意を促して、物事を判断する「悟性」よりも「心性を磨くこと」の大切さを強調し、「この親房の信じた根本の史観は、今もなほ動かぬ、動いてはならぬ」と主張していた。

一方、『竜馬がゆく』(文春文庫)には「歴史こそ教養の基礎だ」とする武市半平太が、宋の学者司馬光が編んだ「古代帝国の周の威烈王からかぞえて千三百年間の中国史」を描いた「編年体」の『資治通鑑(しじつがん)』を自分が教えると誘うが、坂本竜馬はこの提案を断って漢文で書かれたこの難解な歴史書を我流で読んで、書かれている事実を理解するという場面が面白おかしく描かれていた(第二巻・「風雲前夜」)。

このエピソードは一見、竜馬の直感力の鋭さを物語っているだけのようにも見えるが、「イデオロギーフリー」としての司馬の歴史観を考えるうえではきわめて重要だろう。なぜならば、『竜馬がゆく』において幕末の「神国思想は、明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観」となったと記した司馬は、さらに「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているからである(第三巻・「勝海舟」)。

実は、作家の海音寺潮五郎が司馬との対談『日本の歴史を点検する』(講談社文庫)で語っているように、古代の中国の歴史観では自国を世界の中心と見なす「中華思想」が強く、ことに漢民族が滅亡するかもしれないという危機の時代に編まれた『資治通鑑』には、「尊王攘夷」や「大義名分」などの考え方が強く打ち出されていた。そして司馬は、南北朝の時代に『神皇正統記』を著した北畠親房を「中国の宋学的な皇帝観の日本的翻訳者」と位置づけているが、危機的な時代に著された『神皇正統記』にはそのような「尊王攘夷」史観が強く、徳川光圀が編纂した『大日本史』もそのような見方を強く受け継いでいたのである。

しかも、「歴史と文学」の第一章で、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない」と記していた小林秀雄は、敗戦後の一九四六年に行われた座談会で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言を問い質されると、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた。

この発言について司馬は何も言及していない。しかし、満州の戦車隊で「五族協和・王道楽土」などのイデオロギーというレンズの入った「窓」を通してみることの問題点を痛感した司馬は、もし戦場から生きて帰れたら「国家神話をとりのけた露わな実体として見たい」と思うようになり、この「露わな実体」に迫るために「自分への規律として、イデオロギーという遮光レンズを通して物を見ない」という姿勢を課していた(「訴える相手がないまま」『十六の話』)。

そして、ノモンハン事件の研究者クックから戦前の日本では、国家があれほどの無茶をやっているのに、国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったではありませんかと問われた司馬は、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。そのことを、ほとんどの人が感じ始めている。『ノモンハン』が続いているのでしょうな」と答えていたのである。(「ノモンハンの尻尾」『東と西』朝日文庫)。

司馬遼太郎は「唯物史観」の批判者という側面のみが強調されることが多いが、「大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」、「尊王攘夷史観」の徹底した批判者でもあったのである。

青年のころに「神州無敵」といったスローガンに励まされて学徒出陣したことで、「イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに、『絶対のうそ』」があります」と書いている(「ブロードウェイの行進」『「明治」という国家』NHK出版)。国家が強要する「”正義の体系”(イデオロギー)」によってではなく、世界史をも視野に入れつつ自分が集めた資料や隣国の歴史などとの比較によって日本史を再構築しようとした司馬遼太郎の試みは壮大だったということができるだろう。

さらに、「二十一世紀に生きる君たちへ」という自分の文明観を分かりやすく子供たちに語りかけた文章で、「私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考え」の必要性を訴えた司馬は、「今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きている」ことを強調し、「自国」だけでなく「他国」の文化や歴史をも理解することの重要性を明確に示していた(『十六の話』)。

分かりやすい文章で書かれた司馬遼太郎の長編小説では、描かれている個々の人物も屹立した樹木のように見事なので、一部分だけが引用されると誤解されることが多いが、その全体像は鬱蒼たる森のように奥深く、彼の文明観は厳しい形で幕が開いた二十一世紀のあり方を考える上でもきわめて重要だと思える。

(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉『全作家』第90号、2013年より、歴史認識の問題を独立させ、それに伴って改題した)。

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

 

作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

リンク→「主な研究」のページ構成

 

 作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

はじめに

文芸評論家・小林秀雄(1902~1983)のドストエフスキー論からは高校生の頃に強い影響を受けたが、小林秀雄の『白痴』論をドストエフスキーのテキストと具体的に比較しながら読んだ時に、客観的に分析されているように見えたその解釈が、きわめて情念的で主観的なものであることに気づいた。

フランス文学者・寺田透(1915~1995)の『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房、1978年)については、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)で簡単に触れたが*1、自分の感性によってドストエフスキーのテキストを深く読み込むことで、ドストエフスキー作品の独自な解釈を行った小林秀雄の方法と同じように研究書には依拠せずに書きたいと考えていたために、寺田透の小林秀雄観については手つかずのままであった。

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ようやく調べ初めてみるとすぐれた卓見が随所に見つかった。私自身はフランス語にうといので、翻訳の問題に深く立ち入ることはできないが、小林の翻訳や文体についてだけでなく、『ゴッホの手紙』などの伝記的研究の問題点についても鋭い分析を行っていた寺田透の記述を年代の流れに沿って考察することにより、小林秀雄のドストエフスキー解釈の問題に迫りたい(本稿においては、敬称は略した)。

1、文体の問題と伝記的研究

1951年に発表された「小林秀雄論」で、小林の最初の評論集が上梓された時は、「中学四年の末、高等学校の入学試験準備に忙しい最中だった」と記した寺田は、「まず僕を魅したのは、かれの自我の強烈さだった、ということが今になれば分る。僕はかれの思想に食い込まれるというより、かれの精神の運動に眩惑されたというべきだ」と書いた*2。そして、「たしかにかれはその文体によって読者の心理のうちに生きた」と強烈な文体からの印象を記した寺田は、「いわば若年の僕は、そういうかれの文体に鞭打たれ、薫染されたと言えるだろう」と続けていた。

しかしその後で、小林のランボーの訳詞などに徐々に違和感を募らせたことを記した寺田は、伝記的研究の『モーツアルト』において「二つの時代が、交代しようとする過渡期の真中に生きた」とモーツアルトを規定し、「彼の使命は、自ら十字路と化す事にあった」と記していた小林自身は、「みずから現代の十字路と化すかわりに、現代の混乱と衰弱を高みから見降し、過去をたずね、そこからかれ迄通じている歴史の脈路を見出すことに、かれの資質にかなった生き方を見出す」と分析して、両者の違いを明らかにした。

さらにここではそのような解釈の方法は、小林が「対象を自分に引きつけて問題の解決をはかる、何というか、一種の狭量の持ち主であることをも語っている」と記されているが、それは小林の『ゴッホの手紙』に対する批判にも通じている。

1953年に書かれた「ゴッホ遠望」で寺田は、「批評家小林秀雄には多くのディレンマがある。そのひとつは芸術家の伝記的研究などその作品の秘密をあかすものではないと、デビュの当初から考え、…中略…それを喧伝するかれが、誰よりも余計に伝記的研究を世に送った文学評論家だということのうちに見出される」と指摘しているのである*3。

さらに寺田は、小林秀雄が度々伝記を調べて評伝を書いている理由を、「そこにあるのは、評伝が芸術作品の代用をつとめうるという仮設、といっては余りにも無態だが、巧みに書かれた評伝は、その評伝の主人公である人間の芸術作品によって惹起される感動を近似的に再現しうるのじゃないかという願望である」と想定している。

実際、小林秀雄の生活と初期の作品を小林的な方法で詳しく考察した文芸評論家の江藤淳も、伝記的研究の『小林秀雄』でE・H・カーのドストエフスキー論と比較しながら、「いはばカアの主人公はペテルスブルグの街路を歩いているが、小林のドストエフスキイは彼自身の心臓の上を歩いている」と書き、『白痴』の最後の場面の解釈について「ことに小林が『滅んで行く』三つの生命に、自分と中原中也と長谷川泰子との、『憎み合うことによつて、……協力する』あの『奇怪な三角関係』を投じて見ていることは疑いをいれない」と解釈している*4。

このような江藤の指摘は、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』と『白痴』論との関連をも示唆していると思える。すなわち、「『白痴』についてⅡ」では、ムィシキンの癲癇という病や、主人公とナスターシヤをめぐるロゴージンとの三角関係などに焦点をあてて解釈されるとともに、やはり癲癇という病を持ち愛人との三角関係も体験していたドストエフスキーとの類似性に注意を促していたのである。

一方、小林の伝記的研究へのこだわりを指摘した寺田は、その後で「それはそうとゴッホに対してこの小林のやり方はうまく行っただろうか。/世評にそむいて僕は不成功だったと思っている」と続けていた*5。

そして、「これらのゴッホの作品を叙する小林秀雄の論鋒は奇妙に変転し、評価のアクロバットと言いたいような趣きを呈する」と指摘した寺田は、「小林流にやったのでは」、「絵をかくものにとって大切な、画家ゴッホを理解する上にも大切な考えは、黙過されざるをえない」と指摘していた。

この批判は小林秀雄の『白痴』論にも当てはまるだろう。拙論「長編小説『白痴』における病とその描写」でも指摘したが、家族関係を解体して「孤独な個人」に焦点をあてた小林の解釈では、長編小説に描かれている複雑な人間関係が意図的に省略されているために、長編小説全体の理解に重大な「歪み」が生じているのである*6。

さらに注目したいのは、ルナンの『イエス伝』がゴッホに与えた強い影響に言及した小林が、「ルナンが『キリスト伝』を書いたのは、ドストエフスキイが、シベリヤから還つて来て間もない頃である。ドストエフスキイが、この非常な影響力を持った有名な著書を読んだかどうかは明らかではないが、読んだとしても、恐らく少しも動かされることはなかったであらう」と断言し、「恐らく、美しい宗教画など、彼には何んの興味もなかつたのである」と続けて、「無気味なものや奇怪な現象に強い興味を示したムィシキン」と作者との類似性を強調していたことである*7。

ゴッホとドストエフスキーとを比較しつつ描かれているこれらの記述は、映画監督を目指す前にはゴッホやセザンヌのような画家になることを目指していた黒澤に、強い反発心を起こさせたと思える。

なぜならば、黒澤明監督は木下恵介監督により1948年に公開された映画《肖像》のシナリオで、『白痴』のナスターシヤと同じような境遇のミドリを主人公とし、老画家から頼まれて肖像画のモデルとなったミドリに、「私ね、じっと座ってその画描きの綺麗な眼でじっと見られていると、なんだか、澄んだ冷い流れに身体をひたしている様な気がするの」と告白させていたからである。こうして、黒澤はこの脚本で画家の家族にも励まされて苦しくとも自立しようとするミドリの姿を描き、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることを強調していたのである*8。

映画《夢》を論じた拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の第4章では、この映画が『罪と罰』における夢の構造との驚くような類似性があることを示して、そのような類似性が生じたのは小林秀雄の『罪と罰』観を黒澤明が批判的に考察し続けたことの結果ではないかと記した*9。

さらに、ゴッホの絵の展覧会場で絵に見入っていた主人公の「私」が絵の中に入り込み、ゴッホと出会うシーンが描かれている第五話「鴉」が挿入されているのも、小林秀雄のゴッホ観への批判が根底にあったかではないかという想定をしていた。「ゴッホ遠望」における寺田の考察は、私のこの想定を支える有力な根拠となりうると思える。

この考察に続いて1955年に発表した「小林秀雄の功罪」という題のエッセーでも寺田透は、「ゴッホにとっては、その内部に蠢(うごめ)き、かれをつき動かし、かれに静止を許さなかったその情熱的な、というより宿命的な生の規範が、小林氏にとっては、いわば箴言(しんげん)にすぎなくなっているのを見た」と小林の『ゴッホの手紙』を痛烈に批判していたのである*10。

 2、「自意識過剰」という訳語――翻訳と解釈

「その頃のヴァレリー受容」と題された1983年の日本フランス語フランス文学会関東支部春季総会の講演で、小林秀雄の『テスト氏』の翻訳が出版された1932年に、「僕は第一高等学校の文科丙類の生徒で、二年生」であったと語った寺田透は、当時は「ひどい就職難の時代で」、「こういう閉塞状態が自意識、自己意識の問題を発達させた」こともあり、

「それで小林秀雄氏の訳したヴァレリーの『テスト氏』の中の訳語、自意識過剰というようなものも、たちまち行き渡り、時代の、少なくも青春にかかわる一般的命題になった」と当時のヴァレリー受容と時代との関わりを語った*11。

その後で小林秀雄が「exces」*という原文を「過剰」と訳していることにふれて、「過剰といいますと、だいたい量的に多すぎるということがその日本語としての語感」であるのに対し、「excesという言葉は」、「分量の問題よりも程度の問題になってくる。平面的にひろがる多さではなく、高く、強く、上にのびる大きさということになる」と説明している。

そして寺田は、『テスト氏』の主人公が「そのころの青年たちが抱えていた自意識過剰とは違う、もっといわば能動的、積極的な、自分をふたりとない強力な存在として意識するときの誇り高い自意識に苦しんでいた」ことを指摘し、「それは批評家として乗り出して行こうとしている小林さんの自意識とはずいぶん性格のちがうものだったと考えていいでしょう」と続けて、原文と訳語のニュアンスの違いに注意を促していた。

この指摘から思い起こされたのは、小林秀雄が「『白痴』についてⅠ」で「『白痴』は一種の比類のない恋愛小説には相違ないが、ムイシュキン、ナスタアシャ、ラゴオジン、アグラアヤの四人の錯雑した関係のうちに、読者は尋常な恋愛感情、恋愛心理を全く読みとる事は出来ない」と断定し、ことにナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことである*12。長編小説『白痴』にプーシキンの作品からだけではなく、フランスの『椿姫』や『レ・ミゼラブル』からの強い影響と、独自な受容を見ていた私はこのような解釈にたいへん驚かされた。このように規定されてしまうと、小林秀雄のドストエフスキー論の読者は、ナスターシヤの内に精神的な自立を目指した女性や、彼女にふさわしい男性になろうとしてプーシキンの作品を読み、ロシア史を学ぼうと努力していたロゴージンの可能性を読み落とすことになると思われる。

さらに、主人公の「善」と「悪」の意識に関わる重要な箇所を小林秀雄が意図的に誤訳したと指摘している寺田の次の指摘は小林秀雄のドストエフスキー論の厳しい批判ともなっている。少し長くなるが引用しておきたい。

「こういう、より情緒的、より人間臭く、そして、じかに生理にはたらきかけてくる表現の方向をとる小林さんの傾向は『テスト氏』の翻訳の中にも頻繁に見出され」と書いた寺田透は、「『善と縁を切る』といった訳語でなければならない」、「s’abstraire de」という原文を、「『善に没頭する事はひどく拙い』と小林さんのように訳しては、話が反対になってしまいはしないでしょうか。/小林さんはこういった間違いを不注意でやったのではないと僕は感じるのです」と記して、こう続けている*13。

「善を断つにはひどい苦渋を伴うが、悪を断つことは楽々とできるテスト氏の性分を暗示した対句ととらなければなりませんでしょう。/あとのほうを小林さんは『悪には手際よく専念している……』と訳していますが、こうなると、ある人間解釈にもとづく、積極的な誤訳としかいいようがありません」(太字は引用者)。

そして「小林秀雄氏の死去の折にⅢ」という副題を持つ講演記録では、「小林さんは良心の導き手である宗教人といったものを、俗物ときめてかかったのではないか」という深刻な疑問も記されているのである。

寺田が『テスト氏』で感じた疑問は、主人公には「罪の意識も罰の意識も」ないと解釈して、ラスコーリニコフの精神的な「復活」を描いた『罪と罰』のエピローグが読者のために書かれたと小林が解釈していたこととも深く結びついているだろう。

3,「後世のために自分の姿を作つて行くひと」

1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談で、原爆の発明と投下について、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語った小林秀雄は、「高度に発達する技術」の危険性を指摘するとともに、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と強調していた*14。

問題はそのように時代を先取りするような倫理的な発言をしていた小林が、原発が国策となると沈黙していただけでなく、さらに、「国策」としての戦争の遂行を擁護するような戦前に書いた文章を全集に収録する際に改竄したり削除していたことである。

一方、寺田透は『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、次のように明記していた*15。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

小林秀雄の文芸評論は今も高く評価されているように見えるが、寺田の小林評は日本における文学の意義を再構築する上できわめて重要だと思える。

 

フランス語の「exces」にアクサン・グラーヴが付けられれないので、そのままになっている。

*1 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、155頁。

*2 寺田透「小林秀雄論」『小林秀雄集』(『現代日本文學大系』60)、1969年、427頁。

*3 寺田透「ゴッホ遠望」、前掲書『小林秀雄集』、438頁。

*4 『江藤淳著作集』第3巻、講談社、1977年、137~146頁。

*5 寺田透、前掲論文「ゴッホ遠望」、439~441頁。

*6 高橋「長編小説『白痴』における病とその描写――小林秀雄の『白痴』論をめぐって」『世界文学』117号、2013年参照。

*7 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、186~187頁、277頁。

*8 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、34~38頁。

*9 平野具男氏の精緻な「書評的短見」では、哲学的な議論が多い第4章については「論の運びが突っ込みと展開にやや物足りない観」があるとの厳しい指摘とともに非常に温かい評価を頂いた。『世界文学』120号、2014年、100~108頁。

*10 寺田透「小林秀雄の功罪」、前掲書『小林秀雄集』、441~448頁。

*11 寺田透「その頃のヴァレリー受容――小林秀雄氏の死去の折にⅢ」『私本ヴァレリー』、筑摩叢書、1987年、58~63頁。

*12 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、94~95頁。

*13 寺田透、前掲論文「その頃のヴァレリー受容」、74~77頁

*14 『小林秀雄全作品』第16巻、新潮社、2004年、51~54頁。

*15 寺田透「小林秀雄氏の死去の折に」『文學界』、1983年、70頁。

(『世界文学』第122号、2015年12月、96~100頁)

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「陶酔といふ理解の形式」と隠蔽という方法――寺田透の小林秀雄観(2)

「事実をよむ」ことと「虚構」という方法――寺田透の小林秀雄観(3)

(2016年2月1日、関連記事一覧を追加。2017年11月9日、書影を追加))

「様々な意匠」と隠された「意匠」

リンク→4,「主な研究」のページ構成

 

「様々な意匠」と隠された「意匠」

『全作家』の第九〇号に「司馬遼太郎と小林秀雄」という評論を発表して小林秀雄のドストエフスキー観に言及したことが、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の発行につながった。

予想をしていたように、少し刺激的な副題をつけたこともあり厳しい批判も頂いたが、その反面、「批評の神様と奉られている小林秀雄をよくぞ取り上げた」との好意的な礼状も多く頂いた。また、平成二六年度の全作家合同出版記念会には参加することができなかったが、フェイスブックで思いがけず拙著の題名の垂れ幕がかかっているのを見てありがたく感じた。

実は、前回の評論では言及しなかったが、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、二〇〇二年)に収録した『竜馬がゆく』論で簡単にふれていたように、『罪と罰』を読んでその文明論的な広い視野と哲学的な深い考察に魅せられた私は、幕末の混乱した時期を描いた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで感動し、そこでは日本を舞台としながらもクリミア戦争敗戦後の価値の混乱したロシアの問題点を鋭く描きだしていたこの長編小説のテーマが深い形で受け継がれていると感じていた。

さらに、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いたドストエフスキーが、次作の『白痴』ではこのような危機を救うロシアのキリスト(救世主)を描きたいと考えて、悲劇には終わるが、混迷のロシアで「殺すなかれ」と語った主人公・ムィシキンの理念も『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬には、強く反映されているとも考えていた。

一方、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──主人公)には現れぬ」と記した文芸評論家の小林秀雄は、「『白痴』についてⅠ」でも「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と記し、一九六四年の『白痴』論では、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していた。

それゆえ、私は「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論から一時期、強い影響を受けていたものの、小林が『白痴』論で描いたムィシキン像よりは、『竜馬がゆく』で日本のキリスト(救世主)として描かれている坂本竜馬像の方が、むしろドストエフスキーのムィシキン像に近いのではないかとひそかに思っていた。

原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じ、一九二九年のデビュー作「様々な意匠」で小林秀雄が「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していることに深く納得させられもした。

「様々な意匠」は次のように結ばれている。「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。」

しかし、改めてこの文章を読んだ私は強い違和感を覚えた。なぜならば、『竜馬がゆく』第二巻の「勝海舟」ではその頃の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったばかりでなく、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判されていたからである。

ここで詳しく論じる余裕はないが、司馬が「昭和初期」の「別国」と呼んだこの時期には「尊皇攘夷思想」という「意匠」が、政界や教育界だけでなく文壇の考えをも支配していた。そのことに留意するならば司馬の痛烈な批判の矛先は戦前の代表的な知識人の小林秀雄にも向けられているのではないだろうか。

司馬の視線をとおして「様々な意匠」を読み直すとき、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張されているが、ここでは当時の文壇の考えを支配していた重要な「意匠」が「隠されて」おり、それはライフワークとなった『本居宣長』で再び浮上することになったのではないかと思われる。この重たい問題については稿を改めて考察したい。

(『全作家』第98号、2015年)

「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

 

一、 小林秀雄の『白痴』論と三種類の読者

小林秀雄氏の『白痴』論を何度か読み直す中で強い違和感を抱くようになった最初のきっかけは、小林氏が読者を「注意深い読者」と「多くの読者」、「不注意な読者」の三種類に分類していることであった(〔〕内のアラビア数字は、『小林秀雄全集』(第6巻、新潮社)のページ数を示す)。

すなわち、1934年9月から翌年の10月まで連載した「『白痴』について1」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」と繰り返し強調した小林氏は、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と書き〔82~83〕、さらに死刑について語った後でムィシキンが「からからと笑ひ出し」たことを、「この時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と説明し、「作者は読者を混乱させない為に一切の説明をはぶいてゐる」ので、「突然かういふ断層にぶつかる。一つ一つ例を挙げないが、これらの断層を、注意深い読者だけが墜落する様に配列してゐる作者の技量には驚くべきものがある」と続けていた〔下線引用者、90~91〕。

これらの解釈には重大な問題があるが、1937年に発表した「『悪霊』について」で小林氏は「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と断言して〔下線引用者、158~159〕、自分の読み方とは異なる読み方をする者を「不注意な読者」と決めつけていた。

この他に小林氏は、「夢の半ばで目覚める苦労は要らない」ような一般的な「多くの読者」にも言及している〔96〕。

そのような小林氏の読み方からは、人間を「非凡人」「凡人」「悪人」の三種類に分類していた知識人ラスコーリニコフの「非凡人の理論」との類似性が感じられ、小林氏の解釈に疑いを抱くようになったのである。

二、「沈黙」あるいは「無視」という方法

ここで注目したいのは、自分の読み方とは異なる読み方をする「不注意な読者」との論争の際に、小林氏が自分の気に入らない主張や相手の質問に対しては、「沈黙」という方法により無視して、自分の考えのみを主張するという方法をとっていたことである。

そのような方法が数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)からも感じられる。ここでは具体的に引用することで、ムィシキンを好きだと率直に語っていた岡氏が、「専門家」の小林に言い負かされていく様子を分析することにする。

この対談が行われたのは、『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された1964年5月の翌年のことであり、10月に雑誌『新潮』に掲載された(〈〉内のアラビア数字は、文庫本『人間の建設』(新潮社)のページ数を示す)。

『白痴』が好きだった岡潔氏はこの対談で、「ドストエフスキーの特徴が『白痴』に一番よくでているのではないかと思います」とすぐれた感想を直感で語っていた〈85〉。

これに対して小林秀雄氏はなぜ岡氏がそう思ったかを尋ねることをせずに、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と早速、厳しい反論をしている〈87〉。それを聞いた岡氏が、「それにしてもドストエフスキーが悪漢だったとはしらなかった」と語ると、小林氏はさらに「悪人でないとああいうものは書けないですよ」と言葉を連ねて説明している。

それに対して岡氏は、「そうですか。悪人がよい作品を残すとは困ったのですな」という率直な感想を漏らしている〈90〉。

このような経過を読むと、一方的に自分の読み方を批判されている岡氏に同情したくなるが、小林氏は矛を収めずにさらに「『白痴』もよく読むと一種の悪人です」と発言して「不注意な読者」を戒め、「ムイシキン公爵は悪人ですか」と問いただされると、「悪人と言うと言葉は悪いが、全く無力な善人です」と言い直した小林氏は、前年に発行した『白痴』論で、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう」という言葉の後の文言を繰り返すかのように次のように発言している。

「小説をよく読みますと、ムイシキンという男はラゴージンの共犯者なんです。ナスターシャを二人で殺す、というふうにドストエフスキーは書いています。…中略…あれは黙認というかたちで、ラゴージンを助けているのです」。

そして小林氏は、「これは普通の解釈とはたいへん違うのですが、私は見えたとおりを見たと書いたまでなのです」と文芸評論家としての権威を背景にして語り、こう諭している。

「作者は自分の仕事をよく知っていて、隅から隅まで計算して書いております。それをかぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから」(下線引用者)。

これに対して自分のことを専門家ではない「多くの読者」の一人と感じていた岡氏は、「なるほど言われてみますと、私はただおもしろくて読んだだけで、批評の目がなかったということがわかります」と全面的に自分の読みの浅さを認めてしまっていた。

三、長編小説『白痴』の解釈とイワンの「罪」の「黙過」

ただ、岡氏は「悪人」が書いたそのような作品を「なぜ好きになったかという自分をいぶかっているのです」と続けていた〈100〉。ガリレオが裁判で自分の間違いを認めた後で「それでも地球は回る」とつぶやいたように、岡氏のつぶやきは重たい。果たして岡氏の読みは間違っていたのだろうか。

注目したいのは、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と語っていた文芸評論家の小林氏が、小説の構造の秘密を「かぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから」と主張していたことである。

しかし、小林氏は本当に「作者」が「隠していること」を「かぎ出した」のだろうか、「狡猾なところがある」のはドストエフスキーではなく、むしろ論者の方で、このように解釈することで、小林氏は自分自身の暗部を「隠している」のではないだろうか。

このように感じた一因は、岡氏との対談でムィシキンを「共犯者」と決めつけた小林氏が、その後で『白痴』論から話題を転じて、ドストエフスキーは「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と続けていたことにある(下線引用者)。

なぜならば、「『白痴』についてⅠ」で「キリスト教の問題が明らかに取扱はれるのを見るには、『カラマアゾフの兄弟』まで待たねばならない」と書いていた小林氏は、太平洋戦争直前の1941年10月から書き始めた「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完)では、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と書き、「完全な形式が、続編を拒絶してゐる」と断言していたからである〔170〕。

よく知られているように、長編小説『カラマーゾフの兄弟』では自殺したスメルジャコフに自分が殺人を「指嗾」をしていたことに気づいたイワンが「良心の呵責」に激しく苦しむことが描かれている。一方、小林氏はこのことに触れる前に「カラマアゾフの兄弟」論を中断していた。

そのことを思い起こすならば、戦争中に文学評論家として「戦争」へと「国民」を煽っていたことを認めずに、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と戦後に発言していた小林氏は、イワンの「罪」を「黙過」するために今度は『カラマーゾフの兄弟』の解釈を大きく変えたのではないかとさえ思えるのである。

*   *    *

キューバ問題で核戦争の危機が起きた1962年の8月には、アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」が収められている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)が発行されていた。

それから3年後の1965年に行われてアインシュタインとベルグソンとの関係も論じられたこの対談は、「原子力エネルギー」や「道義心」の問題も含んでおり、福島第一原子力発電所の大事故が起きた現在、きわめて重たいので、稿を改めて考察することにしたい。

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リンク→「不注意な読者」をめぐってーー黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

 

『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

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『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

はじめに

昨年の3月に「日本トルストイ協会」で行われた講演で籾内裕子氏は、内田魯庵訳の『復活』への二葉亭四迷の関わりを詳しく考察し、12月にはトルストイの劇《復活》を上演した島村抱月主宰の劇団・藝術座百年を記念したイベントも開かれました。

さらに、夏には故藤沼貴氏による長編小説『復活』の新しい訳が岩波文庫から出版され、「解説」には『罪と罰』の結末との類似性の指摘がされていました。その記述からは、改めてドストエフスキーとトルストイのテーマと問題意識の深い繋がりや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とした文芸評論家の小林秀雄の『罪と罰』解釈の問題点が感じられました*1。

本稿では『復活』とその訳に注目することで、対立して論じられることの多いドストエフスキーとトルストイの作品の内的な深い関係をエッセー風に考察したいと思います(図版はいずれも「岩波文庫」より)。

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一、雑誌『時代』とトルストイ

農奴制の廃止や言論の自由などを求めたために1848年のペトラシェフスキー事件で逮捕され、死刑の宣告を受けた後に減刑されてシベリアに流刑されたドストエフスキーは、流刑中の1852年に『同時代人』に掲載された『幼年時代』に記されている「Л.Н.とはだれのことか」と兄ミハイルへの手紙で尋ねていました*2。

農奴解放だけでなく法律や教育制度の改革も行われた「大改革」の時期に首都に帰還したドストエフスキーは、兄とともに総合雑誌『時代』を創刊し、多くが文盲の状態に取り残されている民衆に対する教育の普及の重要性を強調し、そこで1862年2月に創刊された月刊教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』の紹介を行ったばかりでなく、『死の家の記録』では厳しい検閲の下にもかかわらず、監獄の状況を鋭く描き出しました*3。

それゆえ、トルストイはこの長編小説について「我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いているのです*4。

一方、ドストエフスキーが唱えた「大地主義」について、「その教義は、要するに西欧派とスラヴ派との折衷主義であつて、…中略…穏健だが何等独創的なものもない思想であり、確固たる理論も持たぬ哲学であつた」とした文芸評論家の小林秀雄は、『死の家の記録』についても「厭人と孤独と狂気とが書かせた」ゴリャンチコフの「手記だつた事を思ひ出す必要がある」と書いています*5。

しかし、この作品が一時、「検閲官」の差し止めで中止されるなど厳しい検閲下で書かれていたことを忘れてはならないでしょう。興味深いのは、雑誌『時代』の創刊号から7ヵ月にわたって連載された長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でドストエフスキーが登場人物にトルストイの作品にも言及させていることです。

「大改革」の時代のロシアが抱えていた問題を浮き彫りにしているこの作品のことはあまり知られていないので、まずその粗筋を紹介しその後で『罪と罰』との関連にふれることにします。

この長編小説は、主人公のイワンがみすぼらしい老人と犬の死に立ち会うというシーンから始まり、その後で少女ネリーをめぐる出来事とイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる筋が並行的に描かれていきます。

物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ワルコフスキー公爵の犯罪的な詐欺によるものであることがはっきりしてくるのです。すなわち、物語の冒頭で亡くなるネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったのですが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていました。

一方、150人の農奴を持つ地主で、主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も900人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきたことに起因しています。しばしばイフメーネフ家を訪れて懇意になったワルコフスキー公爵は、自分の領地の管理を依頼し、5年後にはその経営手腕に満足したとして新たな領地の購入とその村の管理をも任せたのです。

ここで注目したいのは、ワルコフスキーがイワンに「私はかつて形而上学を学びましたし、博愛主義者になったこともあるし、ほとんどあなたと同じ思想を抱いていたこともある」と語っていることです。父親からあまり関心を払われずに親戚の伯爵の家に預けられていた息子のアリョーシャは、トルストイの『幼年時代』と『少年時代』を熱中して読んだとイワンに伝えていますが、この時彼は父親のうちに、自分の領地ヤースナヤ・ポリャーナに学校や病院を建設して農民の養育に励んだトルストイのような面影を見ていたように思えます。人の良いイフメーネフ老人がワルコフスキー公爵を信じて彼の領地の管理や新たな領地の購入を手伝ったのは、改革者のような彼の姿勢に幻惑されたためだったといえるでしょう*6。

しかし、領地を購入した後でワルコフスキー公爵は、領地の購入代金をごまかされたという訴訟を起こし、隣村の地主たちを抱き込んでさまざまな噂を流し、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだために、裁判に敗れて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのです。

この小説が連載された雑誌『時代』(1861年1月号~1863年4月号)が検閲で発行禁止となった後、ドストエフスキーは新たに創刊した雑誌『世紀』に『地下室の手記』などを発表してなんとか存続させようとしましたが、この雑誌も1865年には廃刊になりました。その翌年に発表されたのが、「強者のみに有利なる法律」に激しい怒りを覚え、「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定して殺した元法学部の学生・ラスコーリニコフの苦悩と行動を詳しく描いた長編小説『罪と罰』でした。

二、内田魯庵訳の『復活』と新聞『小日本』

日本では内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て1892年に『罪と罰』の第一部を、翌年には第二部を英語から訳していましたが、充分な購買者数を得ることができなかったために『罪と罰』の後半部分は出版されませんでした。それにも関わらず、評論「『罪と罰』の殺人罪」できわめて深い解釈を記したのが北村透谷だったのです*7。

『罪と罰』を訳していた内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に連載されたのは、日露戦争終結前の1905年4月5日から12月22日にかけてでした*8。魯庵はこの訳を掲載する前日に「トルストイの『復活』を訳するに就き」との文章を載せて、そこでこの長編小説の意義を次のように記していました。

「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

私が強い関心を抱いたのは、どのような経緯で魯庵訳の『復活』が『日本』に掲載されたのかということでした。そのことに関連してまず注目したいのは、正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』に掲載された文芸評論家・北村透谷の自殺についての次のような記事が子規によって書かれていた可能性が高いことです*9。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻・別巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

この記事が掲載された新聞『小日本』は明治八年に発布された「讒謗律」や「新聞紙条例」によってたびたび発行停止処分を受けていた新聞『日本』を補う形で創刊されたのですが、俳句や和歌のコーナーを設けて投稿を広く呼びかけた子規は、その創刊号からは自分の小説「月の都」を卯之花舎(うのはなや)の署名で掲載していました。

若い仏師の悲恋を描いた幸田露伴の『風流仏』に強い感銘を受けた子規が、1891年の冬期休暇中に一気に書き上げたこの小説の原稿は「露伴氏の一閲を乞うた」ものの批評が芳しくなかったために、社主の羯南翁から自恃(じじ)居士(高橋建三氏)の手に渡り、二葉亭四迷のところまで行っていたのです*10。

それゆえ、夏目漱石が英国から親友の正岡子規に書いた手紙でトルストイの破門についてのイギリスの新聞の記事を紹介していたのは一方的な紹介ではなく、子規の関心に応えていたという可能性さえあると思われます。

さらに、『罪と罰』を高く評価した北村透谷は、トルストイの長編小説『戦争と平和』や『イワンの馬鹿』を英訳で読み、徳冨蘆花よりも早くにトルストイの戦争観にも言及して、両者をともに高く評価していました*11。二葉亭四迷の勧めで1908年に連載した長編小説『春』で島崎藤村が、『文学界』の同人であった北村透谷との友情やその死について描いていたことはよく知られていますが、短い記事とはいえ子規はすでに北村透谷の意義を高く評価する記事を書いていたのです。

子規が書いた短い記事を視野にいれると二葉亭四迷だけでなく、夏目漱石も深い印象を受けただろうと推測され、内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に掲載されるようになった遠因は正岡子規にあったと言ってもよいのではないかと思えます。

さらに正岡子規や北村透谷との関連で注目したいのは、1910年に修善寺で大病を患った夏目漱石が、「思い出す事など」で「無意識裡に経過した大吐血の間の死の数瞬間」とドストエフスキーの「癲癇時の体験」との比較をしつつ、ペトラシェフスキー事件で捉えられ、刑場に連れ出された「寒い空と、新しい刑壇と刑壇の上にたつ彼の姿と、襯衣一枚で顫えてゐる彼の姿を根氣よく描き去り描き來って已まなかった」と記していたことです。

比較文学の清水孝純氏はこの時漱石が「時代を震撼させた」日本の大逆事件を「思い浮かべていたことは想像に難くない」と記しています*12。この指摘は重要でしょう。ペトラシェフスキー事件の翌年にオーストリア帝国の要請によってハンガリー出兵に踏み切っていたロシア帝国はその数年後にクリミア戦争へと突入していました。大逆事件で幸徳秋水などを逮捕した年に「日韓併合」を行った日本も、その後大陸への進出を強めることになったのです。

三、トルストイの『罪と罰』観と『復活』

トルストイの『罪と罰』観を考える上で重要なのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花からロシアの作家のうち誰を評価するかと尋ねられた際に、「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」と続けていたことです*13。

そのような高い評価に注目するならば、トルストイは「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定してその殺害を正当化した主人公ラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、ソーニャとの関わりに読者の注意を促しながら、シベリアの流刑地で森や泉の尊さを知る民衆との違いを認識させていたエピローグの意義を深く理解していたと思えます。

たしかに、ドストエフスキーは『罪と罰』の本編では、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい?」と妹に問わせ、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁もさせていました*14。

しかし、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていた後で、「罪の意識」に目覚めた主人公が徐々に変わっていく「新しい物語」を次のように示唆していたのです。

「ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。」

自分の理論が核兵器の発明にも利用されてしまったことを知ってから、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続けた物理学者のアインシュタインは、ドストエフスキーについて「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と述べていました*15。兵器の改良により大量殺人が可能になった現代では、新たな戦争が「人類滅亡」につながる可能性が実際に出てきていたのであり、ドストエフスキーやトルストイはその危険性をいち早く洞察していたといえるでしょう。

一方、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、ラスコーリニコフには「罪の意識」はなかったと断言し、エピローグも「半分は読者の為に書かれた」と記していました。そして、戦後に書いた『罪と罰』論でもエピローグの結末に記された「新しい物語」に言及した小林は、ドストエフスキーが『白痴』で「この『新しい物語』を書かうと考へた事は確かである」としながらも、主人公が「次第に更生し、遂に新しい現実を知ることは可能であるか」と読者に問い、不可能であると断言していたのです*16。

このような解釈と正反対の解釈を示したのがトルストイ研究者の藤沼貴氏でした。『罪と罰』の粗筋を「誤った『超人』思想に駆られて殺人を犯し、シベリアに流刑されたラスコーリニコフは、彼と共に流刑地まで来たかつての娼婦ソーニャの純粋な愛によってよみがえり、自分の罪を認めて復活する」と簡明に記した藤沼氏は、『復活』の結末の次のような文章が『罪と罰』の結末に酷似していることを指摘していました*17。

「この夜から、ネフリュードフにとってまったく新しい生活が始まった、それは彼が新しい生活条件に入ったからというよりむしろ、このとき以来彼の身に生じたすべてのことが、彼にとって以前とまったく別の意味を得ることになったからだった。ネフリュードフの人生のこの新しい時期がどのようなかたちで終わるか、それは未来が示してくれる」。

四、『復活』のネフリュードフと『白痴』のムィシキン

トルストイの劇《復活》で松井須磨子が「カチューシャの唄」を歌ってから百年に当たることを記念して行われたイベントでは、トルストイの原作とそれを劇化したアンリ・バタイユの脚本やその英訳をしたビアボム・トゥリーの脚本をもとにした島村抱月の劇との違いも論じられました*18。

私にとってことに興味深かったのは、名門貴族のネフリュードフが奔走したかいがあり、皇帝からの特赦状が届いてカチューシャ(マスロワ)は自由になるが、彼女は政治犯のシモンソンとともにシベリアへいくことを選ぶことです。

この後で、トルストイは「奇妙な斜めを向いた目とあわれを誘うような微笑の中に」、ネフリュードフが彼女は自分を愛していたが、彼女は娼婦だった「自分を彼に結びつければ、彼の一生をだいなしにすると考え、シモンソンといっしょに姿を消して、ネフリュードフを自由にしようとしていたのだ」と読み取ったと記しています*19。

トルストイの『復活』が誘惑した後で捨てた小間使いのカチューシャと裁判所で再会したことで「良心の呵責」に苦しむようになった貴族のネフリュードフの物語であることに注意を払うならば、その描写は、子供の時の火事が原因で孤児となり貴族のトーツキーによって養われていたが、美しい乙女になると犯されて妾にさせられていたナスターシヤが、ムィシキンからのプロポーズに歓喜しながらも、子供のように純粋な彼の一生をだいなしにすると考えて、ロゴージンとともに去っていたことを思い起こさせます。

『罪と罰』の結末に記された「ひとりの人間が徐々に更生していく物語」という記述に注目しながら、『復活』と『白痴』の第一部を比較するとき、主人公と虐げられた女性との関係の描かれ方の類似性に驚かされます。

トルストイは長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と高く評価していました*20。

長編小説『罪と罰』や『白痴』における「良心」という単語の用法に注目しながら読むとき、しばしば否定的に論じられるムィシキンの行動は、名門貴族の末裔であったという「贖罪的な意識」から自分の非力さを知りつつも「殺すなかれ」という理念を広めようとしていたと解釈できるのではないでしょうか*21。

おわりに

ドストエフスキーとトルストイはしばしば対立的な作家として対置されてきましたが、ドストエフスキーはトルストイの農民に対する教育活動を高く評価していましたし、トルストイもまた「大地主義」の理念に深い関心を寄せていたのです。

長編小説『復活』と『罪と罰』の結末に記された「新しい物語」の記述の類似性を指摘した藤沼氏の言葉に注目しながら、『罪と罰』から『白痴』への流れを分析するとき、両者の相互関係を深く理解することが、二人の大作家の作品を正しく理解する上でも必要不可欠であることを物語っているでしょう。

 

《注》

*1  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、45頁。

*2  川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』NHK出版、2013年。

*3  ドストエフスキー、望月哲男訳『死の家の記録』光文社、2013年参照。

*4  グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁。

*5  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第5巻、新潮社、66頁。

*6  高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第2章〈「大改革の時代」と「大地主義」〉参照。

*7  北村透谷「『罪と罰』の殺人罪」『北村透谷選集』岩波文庫、1970年参照。

*8  籾内裕子「内田魯庵と二葉亭四迷――『復活』初訳をめぐって」『緑の杖』(日本トルストイ協会報)第12号、2015年、2~13頁。

*9  『「小日本」と正岡子規』大空社、1994年、34頁。

*10柴田宵曲『評伝正岡子規』岩波文庫、2002年。

*11北村透谷、前掲書、1970年。

*12 清水孝純「日本におけるドストエフスキー ――大正初期に見る紹介・批評の状況」、『ロシア・西欧・日本』朝日出版社、昭和51年、452~454頁。

なお蘆花のトルストイ観については、阿部軍治『徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』(改訂増補版)彩流社、2008年参照。

*13 徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁。

*14 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』岩波文庫より引用。

*15 クズネツォフ、小箕俊介訳『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年、9頁。

*16 小林秀雄、前掲書、『小林秀雄全集』第6巻、291頁。小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年参照。

*17 藤沼貴「トルストイ最後の長編小説『復活』」、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、2014年。初出は『トルストイ』第三文明社、2009年、504頁。

*18 昨年12月7日のパネルデスカッション「カチューシャの唄大流行と大衆の時代」、および、木村敦夫「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」、東京藝術大学音楽学部紀要、第39集、平成26年、39~58頁参照。

*19 トルストイ、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、440頁。

*20 トルストイ、訳は『白痴』新潮文庫下巻、「あとがき」の木村浩訳より引用。

*21 髙橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年参照。

(『緑の杖』〈日本トルストイ協会報〉第12号、2015年)

 

木下豊房氏「小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観」を聴いて

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木下豊房氏「小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観」を聴いて                 

 今回の発表の前半ではこれまでの研究史を踏まえつつ文献学的な視点から唐木順三や森有正などの研究者と小林秀雄のドストエフスキー論との関連についての詳しい検証が行われ、E.H.カーと小林秀雄のドストエフスキー観との具体的な比較が行われた中頃から佳境に入り、ぐいぐいと引きつけられた。

「小林の『ドストエフスキイの生活』はE.H.カーの評伝のコピーのようにいう者がいるが、必ずしもそうとはいえない。しかしカーの視点の影響は、かなり強いのではないか」とした木下氏は、「金持の商人に捨てられた妾」(280頁)だけでなく、監獄で「枉(まげ)られた視力」(94頁)の指摘、「ドストエフスキーのキリスト教への発心が『悪霊』後」(315頁)などの記述が、カーの『ドストエフスキー』(中橋一夫、松村達男訳、1952年)にあることを具体的に挙げた。

その一方で木下氏は、E.H.カーが「ドストエフスキーは原始キリスト教の理想を近代文学の姿で」表現していると記していたことや、ジイドも福音書の教えをドストエフスキーほど立派に実践した芸術家はいないと記していたことにも注意を促した。

そして、米川正夫訳の『白痴』の創作ノートを分析することにより、最終的なプランが最初の構想とは全く異なっており、ロゴージンやガーニャの愛の形と対置する形で「キリスト教的な愛――公爵」と明記されていることを指摘した氏は、小林秀雄がこの記述を知りつつも「独自の解釈に舵を切ったといえよう」と分析した。

小林秀雄のドストエフスキー論の独自性を示す文章として示された「空想が観念が理論が、人間の頭の中でどれほど奇妙な情熱と化するか、この可能性を作者はラスコーリニコフで実験した」という記述は、まさにかつて私が魅了されるきっかけとなった記述でもあったので、これらの重要な指摘からは小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』論の形成過程の現場に立ち会っているような知的興奮を覚えた。

ただ、木下論文「ドストエフスキーと漱石」にも言及しながら『白痴』における「憐憫」と小林の著作『本居宣長』の「物のあはれ」との類似性を指摘した福井氏の問題提起を受け、デビュー作「様々な意匠」で「指嗾」という用語を用いながら、「劣悪を指嗾しない如何なる崇高も言葉」もないと書いた小林が、「人々に不安を与える無能なムイシキン」の最後に、「作者の憐憫の眼差しを見ている」とした見解には違和感を覚えた。

福井氏は質疑応答の際に自説を重ねて主張したが、『草枕』における「那美」と主人公の画工との関係とムイシキンとナスターシヤとの関係を「憐れ」と「非人情」の視点から比較した木下論文からは私も強い知的刺激を受けていたが、「あはれ」という単語を重視して、『白痴』と小林秀雄の『本居宣長』とを直接的に結び付けることは難しいと思われる。なぜならば、熊谷氏が質問で指摘したように本居宣長の「物のあはれ」は「漢意(からごころ)」との対比で論じられているからである。なお、『本居宣長』の問題については、評論家の柄谷行人と作家の中上健次が1979年に行われた対話「小林秀雄をこえて」で詳しく考察しており、現在は講談社文庫の『全対話』に収められている。

マルチン・ブーバーの〈われ-汝〉の関係に言及した分析は非常に興味深かったという感想を述べた前島氏は、ブーバーの「われわれの運命の高貴な悲しみ」という記述と、小林が「『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものもついに現れなかった」と解釈していたこととの関連について質問した。「来たものは文字通りの破局」であったと続けていた小林の『白痴』論についての前島氏の質問は、小林秀雄のドストエフスキー論は当時としては白眉の評論ではあるが、「著者に成り代わって」主観的にテキストを解釈するという現在の風潮をも導いてしまったのではないかという私の懸念とも重なる。

字数の制限から言及することの出来ない点も多く残ったが、配布されたB5版で16頁になる詳しい資料に従って行われたこともあり、2時間半に及ぶ発表にもかかわらず、ほぼ満席となった会場の聴衆は最後まで席を立たず、質疑応答も短いが充実したものとなった。

 

「広場」23号合評会・「傍聴記」

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「広場」23号合評会を聴いて

                     

 7月19日の例会では『ドストエーフスキイ広場』第23号の論文を中心に合評会が行われた。紙面の都合から議論となった争点を中心に順を追って紹介していきたい。

 原口美早紀氏の論文「『白痴』におけるキリスト教思想」を論じた福井勝也氏は、ドストエフスキーの手紙を引用することで「ドストエフスキイのキリスト教思想はヨハネ福音書に多く依っている」ことを指摘したこの論文を高く評価する一方で、手紙の同じ箇所を引用しつつも小林秀雄が「ポジとしてのイエス」に対して「陰画(ネガ゙)としてのイエス」という視点を提示していたことを強調した。

 この論文に関してはもっとも注目されたのは、原口氏の視点で、『白痴』のムィシキンには「ヨハネ福音書」のイエス像と同じように「喜びの福音を伝える者」としての要素が大きく、またイッポリートが「弁明」を書いた理由も彼が「饗宴」を求めたからだろうとの解釈だった。この解釈は説得力があるという意見が目立った。

 高橋論文「『シベリヤから還った』ムィシキン」を論じた木下豊房氏は、E.H.カーが小林秀雄の視点に及ぼした影響はかなり強く、ナスターシャが「商人の妾」であることや「キリスト教への発心」の時期が『悪霊』以降であるという説をカーが書いていることを明らかにするとともに、「小林にとっての最大の関心事は、観念に憑りつかれた人間が、駆り立てられるようにカタルシスに向かってたどる心理的プロセス」であったと指摘し、小林のドストエフスキー論の背景に戦争に向かう当時の時代情況を見ようとすることやエウゲーニイにムイシキンの告発者としての役割などを見ることは「深読み」であろうとの批判がなされた。

 しかし、ムィシキンを「シベリヤから還った」者と規定した小林秀雄が、『罪と罰』論では殺人を犯した主人公には「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していたことやエヴゲーニイがプーシキンの愛読者でもあったことにも注意を払わねばならないだろう。「黒澤と小林を対比する方法によって、小林についていろいろ見えてくるものがあるのは確か」との指摘はきわめて重要だと思われた。

 大木昭男氏の論文「ドストエーフスキイとラスプーチン」を論じた近藤靖宏氏は、まず中編小説『火事』が書かれたのが、チェルノブイリ原発事故があったことに聴衆の注意を促すことで、この作品が書かれたソ連の時代状況を示し、『カラマーゾフの兄弟』の「ガラリアのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写と比較しながら、『火事』でも実際の風景と心象風景が組み合わされて迫力のある描写になっていることを指摘した。

 その一方で、この作品で描かれている農村や主人公の情況が日本の読者には不明な点が多いので、二人の作家の内的な関係が今ひとつ分かりにくいとの感想もあったが、その点では論文では削除されていたが、報告では触れられていた『おかしな男の夢』における「覚醒」の問題や、『火事』でも頻出する「良心」という単語の役割がより明確になると二人の作家の比較が説得力をもったのではないかとの意見も出された。

 清水孝純氏の「ドストエフスキーとグノーシス」の予定していた論評者が出席できなくなったために、急遽、代役を引き受けられた木下氏は清水論文の問題提起を受けて「グノーシス主義にとって、善悪の問題は知による認識にかかわるもの」だが、ドストエフスキーにとって善悪の問題は、「信仰、不信仰の問題と深く結びついていて、人物創造の基軸をなしている」とし、作家が子供の頃に読み『カラマーゾフの兄弟』でもゾシマ長老に語らさせていた「「『旧・新約聖書の百四つの物語』という美しい絵入りの本」にも収められていた「ヨブ記」の重要性を指摘した。

 すでに字数を大幅に越えたが、主人公たちの娼婦に対する言説を考察した西野常夫氏の「椎名麟三の『地下室の手記』論と『深尾正治の手記』」のテーマがきわめて深い内容であり、椎名麟三への関心もあるので、ぜひ例会での発表をお願いして質疑応答をゆっくりとしたいとの言葉が印象に残った。

 残念ながら、当日の参加者は少なかったが、「ドストエーフスキイの会」を活性化するためにも、遠方の会員も参加しやすいような形が模索されるべき時期に来ているのではないかと感じられた。

 

あとがきに代えて──小林秀雄と私

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あとがきに代えて──小林秀雄と私

 

 「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論は、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけになった。原作の文章を引用することにより作品のテーマに迫るという小林秀雄の評論からは私の文学研究の方法も大きな影響を受けていると思える。

 『カラマーゾフの兄弟』には続編はありえないことを明らかにしていただけでなく、「原子力エネルギー」の危険性も「道義心」という視点から批判していた小林の意義はきわめて大きい。

 しかし「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と書いた小林秀雄が、「『白痴』についてⅠ」で「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と記していたことには強い違和感を覚えた。

 さらに、小林秀雄のドストエフスキー論を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「物語」であり、これは「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

 ただ、これまで上梓した著作でほとんど小林秀雄に言及しなかったのは、長編小説『白痴』をきちんと読み解くことが意外と難しく、イッポリートやエヴゲーニーの発言に深く関わるグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの作品をも視野に入れないとムィシキンの恩人やアグラーヤの名付け親など複雑な人物構成から成り立っているこの長編小説をきちんと分析することができないことに気づいたためである。

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)でようやく黒澤監督の映画《白痴》を通してこの長編小説を詳しく分析したが、小林秀雄のドストエフスキー論について言及するとあまりに議論が拡散してしまうために省かざるをえなかった。

 少年の頃に核戦争の危機を体験した私がベトナム戦争のころには文学書だけでなく宗教書や哲学書なども読みふけり、『罪と罰』や『白痴』を読んで深い感銘を受けたことや、『白痴』に対する私の思いが揺らいだ際に「つっかえ棒」になってくれたのが黒澤映画《白痴》であったことについては前著の「あとがき」で書いた。ここでは簡単に小林秀雄のドストエフスキー論と私の研究史との関わりを振り返っておきたい。

 *    *  *

  小林秀雄は、戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書いた。そして、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていた。〔二四八〕

 しかし、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆していた。この文章を読んだときには小林が戦争という悲劇を体験したあとでも、自分が創作した「物語」を守るために、原作を矮小化して解釈していると感じた。

  それゆえ、修士論文「方法としての文学──ドストエフスキーの方法をめぐって」(『研究論集 Ⅱ』、一九八〇年)では、感覚を軽視したデカルト哲学の問題点を批判していたスピノザの考察にも注意を払いながら、社会小説の側面も強く持つ『貧しき人々』から『地下室の手記』を経て『白痴』や『未成年』に至る流れには、シェストフが見ようとした断絶はなく、むしろテーマの連続性と問題意識の深まりが見られることを明らかにしようとした。

  上梓した時期はかなり後になったが、厳しい検閲制度のもとで戦争の足音が近付く中で、なんとか言論の自由を確立し農奴制を改革しようとしたドストエフスキーの初期作品の意味をプーシキンの諸作品などとの関わりをとおして考察した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、二〇〇七年)には、私の大学院生の頃の問題意識がもっとも強く反映されていると思える。

 ラスコーリニコフの「罪の意識と罰の意識」については、「『罪と罰』における「良心」の構造」(『文明研究』、一九八七年)で詳しく分析し、その論文を元に国際ドストエフスキー学会(IDS)で発表を行い、そのことが機縁となってイギリスのブリストル大学に研究留学する機会を得た。イギリスの哲学や経済史の深い知識をふまえて、『地下室の手記』では西欧の歴史観や哲学の鋭い批判が行われていることを明らかにしていたピース教授の著作は、後期のドストエフスキー作品を読み解くために必要な研究書と思える(リチャード・ピース、池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版企画、二〇〇六年)。

 この時期に考えていた構想が『「罪と罰」を読む──「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、一九九六年、新版〈追記――『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』〉、二〇〇〇年)につながり、そこでラスコーリニコフの「良心」観に注意を払いつつ、「人類滅亡の夢」にいたる彼の夢の深まりを考察していたことが、映画《夢》の構造との類似性に気づくきっかけともなった。

 日露の近代化の類似性と問題点を考察した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)でも、雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』、『死の家の記録』、『冬に記す夏の印象』などの作品を詳しく分析することで小林秀雄によって軽視されていた「大地主義」の意義を示そうとした。

 プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』については授業では取りあげていたが、僭称者の問題を扱う予定の『悪霊』論で本格的に論じようとしていたためにこれまで言及してこなかった。今回、この作品における「夢」の問題にも言及したことで、『罪と罰』から『悪霊』に至る流れの一端を明らかにできたのではないかと考えている。

 「テキスト」という「事実」を自分の主観によって解釈し、大衆受けのする「物語」を「創作」するという小林の方法は、厳しい現実を直視しないで威勢のよい発言をしていた鼎談「英雄を語る」*などにおける歴史認識にも通じていると思える。このような方法の問題がきちんと認識されなければ、国民の生命を軽視した戦争や原発事故の悲劇が再び繰り返されることになるだろう。

 「『罪と罰』をめぐる静かなる決闘」という副題が浮かんだ際には、少し大げさではないかとの思いもあった。しかし、本書を書き進めるにつれて、映画《白痴》が小林の『白痴』論に対する映像をとおしての厳しい批判であり、映画《夢》における「夢」の構造も小林の『罪と罰』観を生涯にわたって批判的に考え続けていたことの結果だという思いを強くした。黒澤明は映画界に入る当初から小林秀雄のドストエフスキー観を強く意識しており、小林によって提起された重たい問題を最後まで持続して考え続けた監督だと思えるのである。

 時が経つと不満な点も出て来るとは思うが、現時点では本書がほぼ半世紀にもわたる私のドストエフスキー研究の集大成となったのではないかと感じている。

 黒澤明監督を文芸評論家・小林秀雄の批判者としてとらえることで、ドストエフスキー作品の意義を明らかにしようとした本書の方法については厳しい批判もあると思うので、忌憚のないご批判やご助言を頂ければ幸いである。

 

注 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2014年5月3日、注の加筆:7月14日)