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映画《白痴》

「不注意な読者」をめぐって――黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

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一九五二年から翌年にかけて八章からなる「『白痴』について」Ⅱ」を発表していた評論家の小林秀雄(一九〇二~一九八三年)は、長い間中断した後で一九六四年に長編小説の結末について考察した短い第九章を書き、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。〈後略〉」と結んでいた(傍線引用者、小林秀雄『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、三四〇頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数を漢数字で示した)。

小林が時々用いる「不注意な読者」という表現に出会ったときは、この言葉は特定の人物を指すのではなく、一般的な読者に向けられていると感じていた。しかし、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社)を書くなかで、ここでは一九五一年に映画《白痴》を公開していた黒澤明監督(一九一〇~一九九八年)を指している可能性が強いと考えるようになった。

なぜならば、一九三四年に書いた「『白痴』についてⅠ」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と書き、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と断じていた小林は〔八二〕、戦後の一九四八年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである」と断じていたからである〔二五〇〕。

しかも戦前の一九三七年に「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と書いた小林秀雄は、未完に終わった『悪霊』論を「小さな拳を振り上げてゐる」マトリョーシャの「身振り、これがどうしても堪らないのだ……」というスタヴローギンの「手記」からの意味ありげな引用で中断していた〔傍線引用者、一五八~一六五〕。

すでに一九三四年の「『白痴』についてⅠ」において小林が、ナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことを思い起こすならば〔九五〕、小林の『白痴』論は後に日本で開花することになる「サド・マゾ的心理分析」の端緒を開いていたとも思える。しかも、そこで「人々の平安は又ムイシュキン故に破れる」とも書いた小林は、「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と続けていたのである〔傍線引用者、九〇~九一〕。

さらに、ドストエフスキー論の絶筆となる一九六四年の『白痴』論で小林は、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していた〔三三九〕。

ここで注意を払っておきたいのは、このような小林の結論が「このホルバインの絵は、ドストエフスキイの思想の動きが、通過する、恐らく繰返し通過しなければならぬ、最も危険な地点を指示する様に思はれる」と書いた直後に記されている次のような考察から導き出されていたことである。 「ドストエフスキイには、外遊中、ルナンが感嘆してゐる様なルネッサンスの美しい宗教画を見る機会はいくらもあつただらうと思はれるが、彼がさういふものに感動した形跡は、彼の書いたもののうちには見当らない。恐らく、美しい宗教画など、彼には何んの興味もなかつたのである」〔二七七〕。

よく知られているようにドストエフスキーはドレスデンの美術館で「美しい宗教画」から強い感動を受けていた(『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』、木下豊房訳、河出書房新社参照)。そしてグロスマンは、「このころ高遠なルネッサンスの造形美術に接したことは、ドストエフスキイの創作歴上の一大事件となった」と指摘し、『緑色のカーテン』(冨岡道子、未来社)では、『白痴』とラファエロの絵画との関係が詳しく分析されている。 しかも、小林は先の文章に続けて「ルナンが『イエス伝』を書いたのは、ドストエフスキイがシベリヤからペテルブルグに還つて間もなくの事である。この一世を風靡した書物をドストエフスキイが読んだかも知れないが、興味を覚へたとは考えられない」と書いている。

しかし、ルナンの『イエス伝』についての考察は一八六四~六五年の「手帖」だけでなく、『白痴』の草稿にも記されていることが明らかになっているのである(高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、一四一頁)。 これに対して、黒澤明監督は小林が『白痴』論を再開する前年に公開された映画《白痴》のラストシーンで、綾子(アグラーヤ)に「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語らせていた(黒澤明『黒澤明全集』第三巻、岩波書店、一四五頁)。

そして、一九五六年の年末に小林との対談を行っていた黒澤明は、ソ連で撮った映画《デルス・ウザーラ》が公開された一九七五年の若者たちとの座談会では、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語っていた(黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、二八八頁)。 実際、八五〇万人以上の死者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と高く評価していた(高橋 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、六頁)。

黒澤明監督も五千万人以上の死者を出した第二次世界大戦後に公開した映画《白痴》では、原作の舞台を日本に置き換えるとともに、主人公を沖縄で死刑の判決を受けるが冤罪が晴れて解放された復員兵とすることで、映像をとおして敵を殺すことで自国の「正義」を貫こうとする「戦争」の「野蛮性」を強く訴えていたのである。

これらのことに注意を払うならば、「真に美しい善意の人」を主人公とした黒澤映画《白痴》では、自分の『白痴』観に対する徹底的な批判がなされていると小林秀雄が感じていたとしても不思議ではなく、一九六四年に書かれた「不注意な読者」という言葉からは自分のドストエフスキー論に行き詰まりを感じていた小林の捨て台詞のような響きさえも感じるのである。

昨年の秋に私は日本比較文学会・東京支部の大会で「黒澤明監督のドストエフスキー理解」を口頭発表し、原爆や原子力発電所の危険性を描いていた黒澤映画《夢》が、エピローグの意味とラスコーリニコフの「悔悟」を否定した小林秀雄の『罪と罰』観の鋭い批判ともなっていることを具体的に示した。

ドストエフスキーの文明観の問題は日露の近代化や現在の日本の状況とも深くかかわるので、黒澤明監督の映画をとおして小林秀雄のドストエフスキー観の問題点を詳しく検証する著作をなるべく早くに公刊したいと考えている。

(『ドストエーフスキイ広場』第22号、2013年。再掲に際して文体を改正し図版を追加

 リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

 

学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴》

 真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書

はじめに

戦没学徒の遺稿を集めた『きけ わだつみのこえ』(1949年、東大協同組合出版部)の中でも感動的な遺書を書いたことで知られる陸軍上等兵・木村久夫(1918~46年)の新たに見つかった遺書と事件の全容を記した『真実の「わだつみ」』が刊行された(以下、この本からの引用頁数は本文のかっこ内にアラビア数字で示す)*1。

「戦犯」の問題や死刑囚の精神的な苦しみだけでなく、当時の日本の統治の在り方などにも関わるその内容は、「無実の罪」で処刑された兵士の苦悩を描いた映画《私は貝になりたい》を思い起こさせるばかりでなく、死刑囚の気持ちも詳しく描いていたドストエフスキーの長編小説『白痴』の映画化を行った黒澤監督の映画《白痴》(1951年)の内容とも深く関わっていると思われる。

一、学徒兵・木村久夫の悲劇と『私は貝になりたい』

大阪府吹田市出身の木村は京都帝大に入学後、召集され、陸軍上等兵としてインド洋・カーニコバル島に駐屯した。説明によればこの島は、「『絶対国防圏』の西側の最前線」であり、もともとは英国領だったが日本軍が無血上陸し、翌年の秋には「第一飛行場の滑走路が完成していた」(122)。

この島で民政部に配属され通訳などをした木村は、「英語を話すインド系の住民だけでなく、現地語を覚えて先住民たちとも」熱心に交流していた(124)。しかし、当初は制空権も確保して平和に見えたこの地でも戦況が徐々に悪化し、ついには全滅も覚悟しなければならないほどに追い詰められるようになった。そのようななかで「スパイ事件」が起きたのである(130~146)。

陸軍から軍需米を盗んだ2名の原住民をスパイの疑いがあるとして取り調べることを依頼された木村が取り調べたところ、「民生部の協力者」で「ある程度、日本語も解する」インド人の医師ジョーンズとインド人から信号弾を手に入れたと2人は自供した。しかし、すでに2人は拷問を受けた形跡があり、さらに「海軍主導の民生部の捜査が甘い」とした陸軍参謀らは「住民を人間のように取り扱うのではなく、ぶって、急いで自白を引き出せ」と命じて凄惨な取り調べを行い、その結果、大規模なスパイ団にかかわっていたとされた者81人が軍律裁判抜きで死刑とされ、他にも取り調べ中に4名が死亡した。

日本軍が1945年10月に上陸した連合国軍によって日本軍が武装解除された後でこの事件が明るみに出、木村はスパイ容疑で住民を取り調べた際に拷問して死なせたとしてB級戦犯に問われた。しかし、シンガポールの戦犯裁判では、上官から真相を話すことを禁じられていた木村はあいまいな供述に終始した(147~156)。

その結果、「拷問を伴う取り調べを命じ、処刑を指示した参謀は無罪、中佐は懲役3年だったのに対し、指示通りに取り調べた」木村ら末端の兵士・軍属五人は死刑を言い渡されて、1946年5月に「絞首刑」の刑が執行された。木村は28歳だった。

木村は死刑を宣告されてから哲学者・田辺元の『哲学通論』を手にし、感激して読むとともに、本の余白に遺書を書き込んでいた。木村は「私のごとき者の例は、幾多あるのである」(28)と書いていたが、無実にもかかわらず戦犯として処刑されるというテーマは、加藤哲太郎の遺書『狂える戦犯死刑囚』を原作として、黒澤の映画《羅生門》や《生きる》《七人の侍》などにも脚本家として参加していた橋本忍がテレビドラマ化した《私は貝になりたい》(1958年)のテーマを思い起こさせる。

→1958年「私は貝になりたい」ダイジェスト – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=3eoum9iEKEk

 「上官の命令は事のいかんを問わず天皇陛下の命令だ」と言われて捕虜の殺害を命じられた兵士の清水豊松は、手元がブルブル震えたためにかすり傷を負わせただけだったので上官から「足腰も立たんほどブン殴られた」*2。

それにもかかわらず捕虜殺害の罪に問われた豊松は、裁判で「あなたは、その命令をどうして断らなかったのですか?」と問われると、「(呆れ返る)分からねぇんだな、そんなことしようもんなら銃殺だよ」と反論するが、判事からは「不当な命令と思えば、軍律会議に提訴すればよいではないか?」と厳しく批判され、力なく「日本の軍隊では、二等兵は牛や馬と同じなんですよ、牛や馬と!」呟いたのである*3。

解説者の保坂正康が書いているように、「BC級戦犯裁判」では「上官が命令したことを認めない」ために、「無実でありながら絞首刑や有期刑を宣告された人たちが多い」状態だったのである*4。

こうして、罪もなく処刑されることになった清水豊松の「深い海の底なら……戦争もない……兵隊もない……(中略)どうしても生まれ代わらなければいけないのなら……私は貝になりたい……」という深い絶望の言葉でこのドラマは終わる。

二、『真実の「わだつみ」』の木村久夫と映画《白痴》の亀田欽司

木村久夫はその遺書で「吸う一息の息、吐く一息の息、食う一匙(ひとさじ)の飯、これらの一つ一つのすべてが、今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く、やがて数日のうちには、私へのお呼びもかかって来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚なくして行ってきたこれらのことが、味わえばこれほど切なる味を持ったものなることを痛感する次第である」と書き、「ただ与えられた瞬間瞬間をただありがたく、それあるがままに、享受していくのである」と続けていた(59-60)。

ドストエフスキーも長編小説『白痴』で死刑囚の気持ちについて詳しく記していたが、その長編小説を映画化した黒澤監督は、主人公を戦犯の罪で「銃殺」されそうになっていたが、「きわどいところで執行停止」になっていた若い兵士の亀田にしていた。そして銃殺される寸前の気持ちを綾子(アグラーヤ)から尋ねられた亀田は、「もし死ななかったら」、「その一つ一つの時間を……ただ感謝の心で一杯にして生きよう……ただ親切にやさしく……そういう思いで胸が破けそうでした」と語っていた*5。

黒澤明自身は徴兵されたことはなかったが、盟友の本多猪四郎は三度も赤紙で兵役に召集されており、本多夫人は「戦争が終わってから亡くなるまでの間、年二、三回、夜中にうなされ」ていたという重い証言をしている*6。

映画《白痴》の冒頭では、戦場から帰還した復員兵が北海道に向かう青函連絡船の三等室で夜中に「悪夢」にうなされて悲鳴をあげるというシーンを描いていた。そして亀田には、その後何度も発作を起こして沖縄の病院で治療したものの、「その時のショックで頭が狂って了って」白痴になったと初対面の赤間(ロゴージン)に正直に告げさせ、「戦争」を体験した兵士の極限的な精神状態を描いていた*7。

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娘の黒澤和子も黒澤監督が本多監督とよく戦争のことを話しており、「軍から命令が下されれば、現場の状況が無視され、様々な人格が破壊される、それが戦争の『悪』だと言っていた」という趣旨のことを語っていたが、『イノさんのトランク』という題名のドキュメンタリー番組では、トランクから見つかった本多の手紙には、本多が目撃した現地の情況とともに、「上等兵が、途中、数人の鮮人の若者を銃剣で突き殺す…」という文言や、「秋空のもとでこんな記事を書いているオレも現実の生活になれてしまったのだ。といっても、平気でいなければ気でも狂うか、自殺でもしなければならない」との記述も見られるのである(下線引用者)*8。

『真実の「わだつみ」』で、「南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追う商人よりも根底の根性は下劣なものであった」という厳しい木村の言葉を紹介した加古は、木村らを犠牲にして生きのびた元中佐の坂上が、1957年に青森県弘前市で行われた聞き取り調査では、シンガポールで行われた戦犯裁判で口裏を合わせて虚偽の供述をしたのは、「軍の体面上又旅団長を救うため」だったと答えたことを紹介している*9。

旅団長の斎俊男少将自身が「責任は私にある」と潔く認めて「銃殺刑」に処せられていたことを考慮するならば、参謀たちが虚偽の供述を命じたのは自分を守るためだけだったことになる。しかし、木村の上官だった鷲見(すみ)豊三郎はその手記で、民生部側が「『死刑は数名にとどめ、残りは有期刑に』と提案したが、参謀の斎藤や中佐の坂上らは『刑務所のない孤島でいかにして実施しうるか』と、一蹴した」と記していた(138)。

加古はこの「スパイ事件」そのものが虚構だった可能性も指摘しているが、鷲見の記述から判断するとこの事件の隠蔽は単に自分たちの罪を隠すだけではなく、「戦争」に勝つことを至上目的とし、そのためには占領地の住民を殺すことも正当化していた参謀本部の思想そのものを隠蔽しようとしていた可能性さえあると思える*10。

これらのことに注意を向けるならば、木村久夫と同じように映画《白痴》の亀田欽司も、日常生活ではいかなる場合でも人を殺せば、「殺人犯」となるが、「敵」を多く殺した者が「英雄」になり勲章を与えられるという「戦争」というきわめて異常な事態のことをよく認識していた人物として描かれていたといえるだろう。

実際、本多監督は映画《白痴》をめぐる座談会で「人間が冷静な思考を常にもつことができるとしたならば、戦争などは起こらないはずである、/戦争というものは、決して打算をはじいたらできることではない、多くの生命を失い、資材も浪費する、たとえ勝っても──敗ければもちろんだが、勝ったって決して得のいかない戦争などということは、人間が理性を失わないかぎり起こるものではない」と語り、この映画の意義を強調していたのである*11。

しかもドキュメンタリー番組『イノさんのトランク』では、黒澤監督が一九四二年(昭和十七年)の手紙で、「実際に戦っている兵隊の苦労は、しょせん、内地に居ちゃわかる訳がない。すまんすまんと云うより外はなく、それもまた何か白々しく、それも結局、心の隅の方に絶えず戦っている兵隊さんの事が、良心の呵責のように積もり積もっていく」と書いていたことも紹介されていた(太字は引用者)。

「倫理」や「道徳」に深く関わる「良心」という単語は、日本の社会や日常生活においては深くは定着していないように見えるが、ドストエフスキー作品においては『罪と罰』や『白痴』などの長編小説で「核」ともいえる重要な役割を担っている「良心」という用語が、黒澤監督の手紙では自然な形で用いられていたのである。

「せめて一冊の著述でも出来得るだけの時間と生命が欲しかった」とその遺書に記した木村久夫の処刑が実行されなかったならば、亀田欽司のような復員兵になっていた可能性が高いだろうし、旧制高知高校時代の恩師・塩尻公明によって木村の遺書の抜粋が1948年に月刊誌『新潮』の6月号に発表されていたことを考慮するならば(164)、映画《白痴》の構想にも影響していた可能性さえあるかもしれない。

つまり、長編小説『白痴』について文芸評論家の小林秀雄は、三角関係の愛情のもつれなどに焦点を当てて解釈していたが、黒澤監督が映画《白痴》で示唆したようにこの長編小説では「敵」を殺す事を「正義」とする「戦争」に対する重たい問題が提起されていたといえるだろう*12。 新たに見つかった木村久夫の遺書は、当時の植民地政策の問題点を明らかにするとともに、国の根幹にかかわる「憲法」に抵触すると思われる「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」などが閣議決定されている現在の日本の危険性をも浮き彫りにしていると思える。  

 

*1 加古陽治『真実の「わだつみ」――学徒兵 木村久夫の二通の遺書』東京新聞、2014年。

*2 橋本忍『私は貝になりたい』(原作:加藤哲太郎『狂える戦犯死刑囚』)朝日文庫、2008年、59頁、79頁。

*3 同上、70頁。

*4 保坂正康「解説」、前掲書、『私は貝になりたい』、190頁。

*5 『全集 黒澤明』第3巻、岩波書店、1988年、87頁。

*6 ドキュメンタリー番組『イノさんのトランク』、NHK・BSプレミアム、2012年12月20日。

*7 『全集 黒澤明』第3巻、岩波書店、1988年、75頁。

*8 堀伸雄「試論・黒澤明の戦争観」(『黒澤明研究会誌』第二九号)より引用。なお、本多きみ『ゴジラのトランク 夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情』宝島社、2012年、『僕らを育てた本多猪四郎と黒澤明──本多きみ夫人インタビュー』アンド・ナウの会、平成22年なども参照。

*9  加古陽治「『わだつみ』木村久夫処刑」東京新聞、2014年8月15日 朝刊。

*10 司馬遼太郎は『坂の上の雲』において「国家のすべての機能を国防の一点に集中する」という「プロシャの参謀本部方式」を陸軍が取り入れたことが、日本を無謀な太平洋戦争にまで引きずりこむことになったことを明らかにしていた(高橋『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、2005年参照)。

*11 黒澤明・浜野保樹『大系  黒澤明』第1巻、講談社、2009年、627頁。

*12 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、成文社、2014年、序章参照。

追記:本稿を脱稿後に映画《白痴》の前年に公開された黒澤映画《醜聞(スキャンダル)》(1950年)でも主演した女優の山口淑子氏が亡くなられた。その後の報道番組で李香蘭という中国名で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった山口氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動に奔走されていたことを知った。彼女が語った「贖罪」という言葉は、映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像を考える上でもきわめて重要だと思える。

世界文学120号(『世界文学』No.120、2014)  

(2019年3月5日、書影とユーチューブを追加)

あとがきに代えて──小林秀雄と私

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あとがきに代えて──小林秀雄と私

 

 「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論は、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけになった。原作の文章を引用することにより作品のテーマに迫るという小林秀雄の評論からは私の文学研究の方法も大きな影響を受けていると思える。

 『カラマーゾフの兄弟』には続編はありえないことを明らかにしていただけでなく、「原子力エネルギー」の危険性も「道義心」という視点から批判していた小林の意義はきわめて大きい。

 しかし「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と書いた小林秀雄が、「『白痴』についてⅠ」で「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と記していたことには強い違和感を覚えた。

 さらに、小林秀雄のドストエフスキー論を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「物語」であり、これは「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

 ただ、これまで上梓した著作でほとんど小林秀雄に言及しなかったのは、長編小説『白痴』をきちんと読み解くことが意外と難しく、イッポリートやエヴゲーニーの発言に深く関わるグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの作品をも視野に入れないとムィシキンの恩人やアグラーヤの名付け親など複雑な人物構成から成り立っているこの長編小説をきちんと分析することができないことに気づいたためである。

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)でようやく黒澤監督の映画《白痴》を通してこの長編小説を詳しく分析したが、小林秀雄のドストエフスキー論について言及するとあまりに議論が拡散してしまうために省かざるをえなかった。

 少年の頃に核戦争の危機を体験した私がベトナム戦争のころには文学書だけでなく宗教書や哲学書なども読みふけり、『罪と罰』や『白痴』を読んで深い感銘を受けたことや、『白痴』に対する私の思いが揺らいだ際に「つっかえ棒」になってくれたのが黒澤映画《白痴》であったことについては前著の「あとがき」で書いた。ここでは簡単に小林秀雄のドストエフスキー論と私の研究史との関わりを振り返っておきたい。

 *    *  *

  小林秀雄は、戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書いた。そして、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていた。〔二四八〕

 しかし、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆していた。この文章を読んだときには小林が戦争という悲劇を体験したあとでも、自分が創作した「物語」を守るために、原作を矮小化して解釈していると感じた。

  それゆえ、修士論文「方法としての文学──ドストエフスキーの方法をめぐって」(『研究論集 Ⅱ』、一九八〇年)では、感覚を軽視したデカルト哲学の問題点を批判していたスピノザの考察にも注意を払いながら、社会小説の側面も強く持つ『貧しき人々』から『地下室の手記』を経て『白痴』や『未成年』に至る流れには、シェストフが見ようとした断絶はなく、むしろテーマの連続性と問題意識の深まりが見られることを明らかにしようとした。

  上梓した時期はかなり後になったが、厳しい検閲制度のもとで戦争の足音が近付く中で、なんとか言論の自由を確立し農奴制を改革しようとしたドストエフスキーの初期作品の意味をプーシキンの諸作品などとの関わりをとおして考察した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、二〇〇七年)には、私の大学院生の頃の問題意識がもっとも強く反映されていると思える。

 ラスコーリニコフの「罪の意識と罰の意識」については、「『罪と罰』における「良心」の構造」(『文明研究』、一九八七年)で詳しく分析し、その論文を元に国際ドストエフスキー学会(IDS)で発表を行い、そのことが機縁となってイギリスのブリストル大学に研究留学する機会を得た。イギリスの哲学や経済史の深い知識をふまえて、『地下室の手記』では西欧の歴史観や哲学の鋭い批判が行われていることを明らかにしていたピース教授の著作は、後期のドストエフスキー作品を読み解くために必要な研究書と思える(リチャード・ピース、池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版企画、二〇〇六年)。

 この時期に考えていた構想が『「罪と罰」を読む──「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、一九九六年、新版〈追記――『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』〉、二〇〇〇年)につながり、そこでラスコーリニコフの「良心」観に注意を払いつつ、「人類滅亡の夢」にいたる彼の夢の深まりを考察していたことが、映画《夢》の構造との類似性に気づくきっかけともなった。

 日露の近代化の類似性と問題点を考察した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)でも、雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』、『死の家の記録』、『冬に記す夏の印象』などの作品を詳しく分析することで小林秀雄によって軽視されていた「大地主義」の意義を示そうとした。

 プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』については授業では取りあげていたが、僭称者の問題を扱う予定の『悪霊』論で本格的に論じようとしていたためにこれまで言及してこなかった。今回、この作品における「夢」の問題にも言及したことで、『罪と罰』から『悪霊』に至る流れの一端を明らかにできたのではないかと考えている。

 「テキスト」という「事実」を自分の主観によって解釈し、大衆受けのする「物語」を「創作」するという小林の方法は、厳しい現実を直視しないで威勢のよい発言をしていた鼎談「英雄を語る」*などにおける歴史認識にも通じていると思える。このような方法の問題がきちんと認識されなければ、国民の生命を軽視した戦争や原発事故の悲劇が再び繰り返されることになるだろう。

 「『罪と罰』をめぐる静かなる決闘」という副題が浮かんだ際には、少し大げさではないかとの思いもあった。しかし、本書を書き進めるにつれて、映画《白痴》が小林の『白痴』論に対する映像をとおしての厳しい批判であり、映画《夢》における「夢」の構造も小林の『罪と罰』観を生涯にわたって批判的に考え続けていたことの結果だという思いを強くした。黒澤明は映画界に入る当初から小林秀雄のドストエフスキー観を強く意識しており、小林によって提起された重たい問題を最後まで持続して考え続けた監督だと思えるのである。

 時が経つと不満な点も出て来るとは思うが、現時点では本書がほぼ半世紀にもわたる私のドストエフスキー研究の集大成となったのではないかと感じている。

 黒澤明監督を文芸評論家・小林秀雄の批判者としてとらえることで、ドストエフスキー作品の意義を明らかにしようとした本書の方法については厳しい批判もあると思うので、忌憚のないご批判やご助言を頂ければ幸いである。

 

注 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2014年5月3日、注の加筆:7月14日)

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎

   

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 一、フクシマの悲劇

 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起きたのは、大学の会議が終わった直後のことで、立っていることも出来ないような大きな揺れだった。慌てて会議室から外に出たあとでもう一度大きな揺れを感じながら、地殻変動でできた日本が地震大国であることを実感した。

 しかも、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の際には長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、風向きによっては被爆する可能性もあったが、ソ連のニュースだけでなく、日本大使館からもほとんど情報が伝わらずに、西欧から来た留学生たちが自国の大使館から得てくる情報に頼るしかなかったという経験をしていた*1。

 テレビやインターネットに映し出された福島第一原子力発電所の静止画像から目を離すことができずに食い入るように画像を見つめ続けていた私は、同僚の一人から日本の技術は進んでいるので大丈夫ですよと慰められた。

 しかし、イギリスのブリストル大学で研究をしていた一九九五年一月には、日本からの電話で慌ててテレビのニュースをつけると阪神淡路大震災で町中が燃えており、翌日には大地震でも大丈夫と喧伝されていた高速道路の橋桁が大きく曲がっている写真が大きく新聞に載っていた。その記事を読みながら、関東大震災から五〇年目の一九七三年に発表された小松左京の『日本沈没』を思い出して、日本では自然の恩恵は強調する一方でその猛威に対する認識はきわめて甘いのではないかという不安を強く持っていた。

 実際、大地震で止まった電車の回復を待っている時に福島第一原子力発電所の「炉心が冷却できない状態にある」ことを知った。翌朝も目覚めてからは三〇分おきにテレビのニュースで何事も起きていないことを確認していたが、午後四時過ぎに危惧していたことが起きた。

 一号機が水素爆発を起こしたあとで明らかになったのは、政・官・財が一体となって「絶対安全」だと宣伝していた原子力発電所には原子炉を冷やすために水を放水する消防車やきちんとした防護服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。そして、使用済み核燃料が放置された古タイヤのように燃え出し、原子炉がメルトダウンして放射線が空気中に放出されただけでなく、被爆した大量の水が海に流れ出た。チェルノブイリ原発事故にも匹敵するような大事故は、核実験を続けてきたフランスやアメリカの技術支援によってようやく、最大の危機を脱したが、汚染水の流出は事故から三年経った現在も止まっていない。

二、黒澤映画《夢》と長編小説『罪と罰』における夢の構造

 刻一刻と悪化する福島第一原子力発電所の状況を見ながら思い起こしたのは、一九九〇年に公開された全八話からなるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」で今回の事故を予言していたとも思えるほどの迫力で原発事故が描かれていたことであった。

 アメリカの水爆実験によって被爆した「第五福竜丸」事件の後で撮った映画《生きものの記録》(シナリオの最初の題名は『死の灰』)では、原爆実験や核戦争の危険性を本能的に感じて日本からブラジルへと移住しようとした老人の決意と苦悩を描き、そのラスト・シーンでは精神を病んで精神病院に収容された主人公が夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンを描いていた*2(『全集 黒澤明』第四巻、一四〇頁――以下、巻数をローマ数字で、頁数を漢数字でかっこ内に記す)。

 その場面からは私は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」を強く連想したが、富士山に建設された六つの原子力発電所が事故で次々と水素爆発を起こすという「赤富士」のシーンで黒澤明監督は、子供を連れて逃げ惑う母親に「原発は安全だ」と説明し原発を「国策」として推進してきた関係者を「縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」と悲痛な声で批判させていた(Ⅶ・二〇)。

 それゆえ、制作費などさまざまな問題などを乗り越えて、この映画を公開していた黒澤明監督の先見の明を改めて強く感じるとともに、原発の危険性に気付きながらもあまり発言をしてこなかった自分の不明を深く恥じた。

 しかも事故後に『黒澤明の遺言「夢」』という著作を読んで、映画《夢》(一九九〇年、脚本・黒澤明)の「ノート」に、黒澤明監督がドストエフスキーの『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の一節をそのまま書き写しただけでなく、その横に「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していたことを知った*3。  

 このことに注目してこの映画を見直すと、高利貸しの老婆を殺す前に見た「やせ馬が殺される夢」が、少年時代の体験と自然への畏れを描いた第一話「日照り雨」や、「桃の精」の苦しみが描かれている第二話「桃畑」などに対応していることに気づく。

 第三話「雪あらし」で描かれている「雪女」の哀しみは、『罪と罰』におけるソーニャの哀しみにも通じているだろう。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺した後で見る「殺された老婆が笑う夢」は、死んだ兵士たちの亡霊が出て来る第四話「トンネル」につながっていると思える。

 第六話「赤富士」の後で描かれている第七話「鬼哭」では、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の根底にあった「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」と「人類滅亡の悪夢」との深い因果関係が示唆されている。

 さらに、第八話「水車のある村」において、「近頃の人間は、自分達も自然の一部だという事を忘れている」と語り、「特に学者には、頭がいいのかも知れないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いので困る」と語る「モーゼの様な髭を生やした」老人の言葉は、血で「汚した大地に接吻なさい」と語ったソーニャの言葉に従って自首をしたラスコーリニコフがなぜ、シベリアで「復活」しえたのかという深い理由を説明しているとさえ思える。

 ではなぜ、偶然の一致とはいえないようなこれほどの類似が見られるのだろうか。

この意味で注目したいのは、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄が、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していたことである*4(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁── 以下、巻数と頁数を〔〕内に六・四五、五三のように表記する)。

 さらに小林は、第四章で詳しく見るように、一九三六年に書いた映画評ではスタンバーグ監督の映画《罪と罰》などに言及しながら、表現手段としての「文学」と「映画」を比較して、映画では『罪と罰』の深みを描くことはできないと批判していた〔四・二二四~二二六〕。

 一方、黒澤の映画における師といえる山本嘉次郎監督は、夏目漱石の『坊つちやん』を映画化して一九三五年に公開し、その翌年には『吾輩は猫である』を原作とした映画《吾輩は猫である》も公開していた。映画という表現手段を批判した小林の記述は、一九三六年にPCL映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社し、一九三八年には映画《綴方教室》に製作主任として参加する黒澤に、文学作品の映画化についての深い考察を迫っていたといえるだろう。

  実際、小林秀芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していたが〔一・一五二〕、戦後の一九五〇年に公開した映画《羅生門》で黒澤は、夏目漱石の弟子にあたる芥川の深いドストエフスキー理解と芥川作品の現代的な意義を示していた。

 さらに最近になって、戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本に黒澤が深く関わっていたことが明らかになった*5。本論で詳しく見るように小林秀雄はシベリア流刑後にドストエフスキーが唱えた「大地主義」に否定的だったが、黒澤は『死の家の記録』などこの時期に書かれた作品を高く評価しており、彼が中心的な役割を担ったこの映画の脚本でも『虐げられた人々』からの影響がすでに強く見られる。

 ことに、沖縄で冤罪から死刑にされかかったことのある復員兵を主人公とした映画《白痴》の結末は、『白痴』の主人公ムィシキンがスイスからではなく、「シベリヤから還つた」とし、その結末についても「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何んの責任も持たない」と一九三四年に「『白痴』についてⅠ」で書いていた小林の記述とは正反対ともいえるほどに異なっていたのである〔六・一〇〇〕。

三、消えた「対談記事」

 小林秀雄は映画《白痴》を初めとする黒澤映画についてはほとんど語っていないので、彼が黒澤明監督のドストエフスキー観をどのように考えていたかは判らない。しかし小林は、映画《白痴》が公開された翌年の一九五二年から五三年にかけて八章からなる「『白痴』についてⅡ」を発表し、その後半では黒澤映画《白痴》ではあまり描かれていなかったレーベジェフやイッポリートに焦点をあてて論じていた。

 興味深いのは、その小林が一九五六年一二月に黒澤との対談を行っていたことである*6。この前年に黒澤は映画《生きものの記録》を公開していたが、「第五福竜丸」事件をきっかけに三千万以上の署名が集まるほど高まった反核の動きは、「ついに太陽をとらえた」と題して読売新聞に連載された特集や「原子力平和利用博覧会」の開始によって急速に流れが変わり、この時期には原爆の危険性を指摘することはすでに「季節外れ」のように見なされるようになっていた*7。

 しかし、第二章で詳しく見るように、小林秀雄は一九四八年に「人間の進歩について」と題して行われた物理学者の湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」の「平和利用」という湯川の考えの危険性をいち早く指摘し、「道義心」の視点から厳しく批判していたが、その後に行われた黒澤明との対談で湯川秀樹は映画《生きものの記録》を高く評価していた。

 『白痴』の結末に対しては正反対の見解を示す一方で、「原子力エネルギー」の危険性を深く認識していた二人の巨匠がどのような対談を行っていたのだろうか。残念ながら、掲載されれば必ず売り上げを伸ばすと思われる二人の著名人による対談記事が雑誌に載らなかったために、対談の詳細な内容は明らかになっていない。

 しかし、飛行機事故などでは「ブラックボックス」を探し出して回収することが事故解明の第一歩とされるが、幸いこの時の対談については、その時の写真が残されているだけでなく*8、司会者などの短い回想も残されている。その後の二人の記述や映画などからは、『白痴』の結末の解釈などにたいする強いこだわりが感じられ、この時の対談が巨匠たちに残した痕跡の深さが感じられる。

 原発の推進が「国策」となると小林秀雄は「原子力エネルギー」の危険性についてほとんど語らなくなったが、映画《赤ひげ》の制作が発表された翌年の一九六四年に発行した『「白痴」について』(角川書店)では短い第九章を加えて、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだらう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである(後略)」と書いていた〔傍線引用者。六・三四〇〕。名指しこそしてはいないものの、「不注意な読者」という表現は黒澤明監督を強く意識している可能性が高いと思われる。

 一方、映画《どですかでん》が営業的な失敗に終わった後で発作的に自殺を図っていた黒澤は、探検家アルセーニエフと自らをナナイ人(大地の人)と呼ぶ少数民族・ゴリド族の狩人デルスとの交流を描いた『デルスウ・ウザーラ』を原作とする映画《デルス・ウザーラ》をシベリアで撮って見事に復活した*9。    

この映画を一九七五年に日本で公開した後に若者たちと行った座談会で黒澤明は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語ったが*10、その言葉に強い反発を覚えたかのように小林は、スリーマイル島の原発事故が起きた一九七九年に河上徹太郎と行った対談でも「『白痴』はシベリアから還ってきたんだよ」と繰り返して主張している*11。

 このような『白痴』の結末をめぐる互いを強く意識したと思われる両者の発言に注目するとき、映画《夢》はドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」の成果だと言っても過言ではないとさえ思える。

 本書ではまず作者と主人公の問題に注目しながら、ムィシキンが「シベリヤから還つた」とする小林秀雄の『罪と罰』論と『白痴』論との関連を分析し、さらに主な登場人物の解釈の問題点を明らかにすることで、本論の方向性を確認する。第一章からは小林秀雄のドストエフスキー観と比較しつつ、映画の公開順に映画《白痴》から映画《夢》にいたる黒澤明監督のドストエフスキー理解の深まりに迫ることにしたい。

 消えた「対談記事」の謎に注目しつつ、小林秀雄と黒澤明のドストエフスキー観を具体的に比較することで、なぜ黒澤監督が映画《夢》で東京電力福島第一原子力発電所の悲劇を予言しえたかという「謎」にも迫ることができるだろう。

 

*1 チェルノブイリ原発事故については、「高橋誠一郎 公式ホームページ」の「映画・演劇評」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」を参照。

*2 『全集 黒澤明』第四巻、岩波書店、一九八八年、一四〇頁。

*3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年参照。

*4 『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、四五頁、五三頁。

*5 (編)石割平、円尾敏郎、谷輔次『はじめに喜劇ありき』ワイズ出版、二〇〇五年、一五一頁。

*6  黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明』第四巻、講談社、二〇一〇年、八一六頁(以下、『大系 黒澤明』と略記して、巻数と頁数のみを記す)。

*7  中日新聞社会部『日米同盟と原発──隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年参照。

*8  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、三六六頁。

*9  アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ──沿海州探検行』東洋文庫、一九六五年、三〇八頁、映画化に際しては日本語では発音しにくいことから、主人公のデルスウの名前はデルスと表記されたので、本書でも基本的にはデルスと記す。

*10  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、二八八頁。

*11  小林秀雄『考える人』春季号/新潮社、二〇一三年、四五頁。

 

 

堀伸雄氏の「黒澤明と『カラマーゾフの兄弟』に関する一考察」を聴いて

リンク「主な研究(活動)」タイトル一覧 

リンク「主な研究(活動)」タイトル一覧Ⅱ 

堀伸雄氏の「黒澤明と『カラマーゾフの兄弟』に関する一考察」を聴いて

今回の例会は3月22日に行われたが、冒頭で堀氏は翌日の23日が黒澤監督の誕生日に当たるので、当日は監督が生きておられたら映画《夢》の第八話「水車のある村」の老人(笠智衆)と同じ103歳の最後の日にあたることを紹介した。

黒澤明監督の映画《白痴》については、1975年にこの会でも鑑賞会が開かれるなど関心が高いが、それ以外の作品におけるドストエフスキーとの関係については、《どですかでん》の発表以外はなかったと思われる。

『黒澤明 夢のあしあと』(黒澤明研究会編・共同通信社・1999年)の編纂に参加されていた堀氏は、発表の前半では、『藝苑』(厳松堂書店、1946年)に掲載された「わが愛読書」で、黒澤がトルストイとドストエフスキー、そしてバルザックを挙げていたことや、『死の家の記録』の映画化も真剣に考えていたことなどを地道な調査にも基づいて明らかにした。さらに、ポリフォニーやカーニバルの手法にも注目しながら、黒澤監督の「憐憫」と「直視」の精神とドストエフスキー作品との深いつながりを指摘した。

後半では『カラマーゾフの兄弟』の続編におけるアリョーシャのその後を描いてみたいと語った黒澤の言葉に注目しながら、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と「続編構想の日本への伝搬」について詳しく分析したあとで、《乱》(1985公開)およびシナリオ『黒き死の仮面』(未映画化・1977)と『カラマーゾフの兄弟』のシナリオの一部をテキストとして検証した。

私にとって興味深かったのは、「語り手」の問題の重要性に注意を促しながら、「アリョーシャを主人公とする続編」の問題点について指摘した木下氏の質問であった。実際、アリョーシャがその後、皇帝の暗殺を目指す革命家になるという説を認めると、『カラマーゾフの兄弟』の本編で描かれていた「殺すこと」を批判したアリョーシャ像を否定せざるをえなくなると思える。さらに、尊敬する師ゾシマの死体が発した死臭によって、「精神的な死」の危機を経験しながらも、大地への接吻で「復活」していたアリョーシャが再び「復活」することは不自然でもあるだろう。

発表者の堀氏も『カラマーゾフの兄弟』の「続編」という微妙なテーマを論じつつ、想像を膨らませるのではなく冷静なテキストの分析をとおして、信仰の問題や「神の存在」についての議論もある《乱》や『黒き死の仮面』と、『カラマーゾフの兄弟』との構造や「大審問官」などのテーマとの類似性を明らかにした。

最後の場面でのアリョーシャの台詞が《まあだだよ》の先生が語るメッセージの手法につながるという指摘は、ロシアの映画人からも高く評価された映画《白痴》を撮った黒澤監督の『カラマーゾフの兄弟』理解の深さをも示唆していると思えた。

堀氏は結論の箇所で、ドストエフスキーから受け継いでいると思える黒澤明の「直視の姿勢」が「核」や「環境」への関心とも深く結びついていることを確認し、映画《生きものの記録》などの重要性にも言及した。

シナリオ『黒き死の仮面』についてはあまり知られていなかったこともあり、映画評論家リチーの映画《白痴》観についての鋭い質問が出たほかは、会場での質問は残念ながら少なかったが、緻密に構成された発表と視覚的でかつ具体的な配付資料により、分かりやすく知的刺激に富む発表だった。それはバルザックと黒澤明についてなどのさまざまな質問が飛び交って盛り上がった懇親会にも反映していたと思える。

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎 

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎         

 一、フクシマの悲劇

 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起きたのは、大学の会議が終わった直後のことで、立っていることも出来ないような大きな揺れだった。慌てて会議室から外に出たあとでもう一度大きな揺れを感じながら、地殻変動でできた日本が地震大国であることを実感した。

 しかも、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の際には長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、風向きによっては被爆する可能性もあったが、ソ連のニュースだけでなく、日本大使館からもほとんど情報が伝わらずに、西欧から来た留学生たちが自国の大使館から得てくる情報に頼るしかなかったという経験をしていた*1。

 テレビやインターネットに映し出された福島第一原子力発電所の静止画像から目を離すことができずに食い入るように画像を見つめ続けていた私は、同僚の一人から日本の技術は進んでいるので大丈夫ですよと慰められた。

 しかし、イギリスのブリストル大学で研究をしていた一九九五年一月には、日本からの電話で慌ててテレビのニュースをつけると阪神淡路大震災で町中が燃えており、翌日には大地震でも大丈夫と喧伝されていた高速道路の橋桁が大きく曲がっている写真が大きく新聞に載っていた。その記事を読みながら、関東大震災から五〇年目の一九七三年に発表された小松左京の『日本沈没』を思い出して、日本では自然の恩恵は強調する一方でその猛威に対する認識はきわめて甘いのではないかという不安を強く持っていた。

 実際、大地震で止まった電車の回復を待っている時に福島第一原子力発電所の「炉心が冷却できない状態にある」ことを知った。翌朝も目覚めてからは三〇分おきにテレビのニュースで何事も起きていないことを確認していたが、午後四時過ぎに危惧していたことが起きた。

 一号機が水素爆発を起こしたあとで明らかになったのは、政・官・財が一体となって「絶対安全」だと宣伝していた原子力発電所には原子炉を冷やすために水を放水する消防車やきちんとした防護服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。そして、使用済み核燃料が放置された古タイヤのように燃え出し、原子炉がメルトダウンして放射線が空気中に放出されただけでなく、被爆した大量の水が海に流れ出た。チェルノブイリ原発事故にも匹敵するような大事故は、核実験を続けてきたフランスやアメリカの技術支援によってようやく、最大の危機を脱したが、汚染水の流出は事故から三年経った現在も止まっていない。

二、黒澤映画《夢》と長編小説『罪と罰』における夢の構造

 刻一刻と悪化する福島第一原子力発電所の状況を見ながら思い起こしたのは、一九九〇年に公開された全八話からなるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」で今回の事故を予言していたとも思えるほどの迫力で原発事故が描かれていたことであった。

 アメリカの水爆実験によって被爆した「第五福竜丸」事件の後で撮った映画《生きものの記録》(シナリオの最初の題名は『死の灰』)では、原爆実験や核戦争の危険性を本能的に感じて日本からブラジルへと移住しようとした老人の決意と苦悩を描き、そのラスト・シーンでは精神を病んで精神病院に収容された主人公が夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンを描いていた*2(『全集 黒澤明』第四巻、一四〇頁――以下、巻数をローマ数字で、頁数を漢数字でかっこ内に記す)。

 その場面からは私は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」を強く連想したが、富士山に建設された六つの原子力発電所が事故で次々と水素爆発を起こすという「赤富士」のシーンで黒澤明監督は、子供を連れて逃げ惑う母親に「原発は安全だ」と説明し原発を「国策」として推進してきた関係者を「縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」と悲痛な声で批判させていた(Ⅶ・二〇)。

 それゆえ、制作費などさまざまな問題などを乗り越えて、この映画を公開していた黒澤明監督の先見の明を改めて強く感じるとともに、原発の危険性に気付きながらもあまり発言をしてこなかった自分の不明を深く恥じた。

 しかも事故後に『黒澤明の遺言「夢」』という著作を読んで、映画《夢》(一九九〇年、脚本・黒澤明)の「ノート」に、黒澤明監督がドストエフスキーの『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の一節をそのまま書き写しただけでなく、その横に「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していたことを知った*3。  

 このことに注目してこの映画を見直すと、高利貸しの老婆を殺す前に見た「やせ馬が殺される夢」が、少年時代の体験と自然への畏れを描いた第一話「日照り雨」や、「桃の精」の苦しみが描かれている第二話「桃畑」などに対応していることに気づく。

 第三話「雪あらし」で描かれている「雪女」の哀しみは、『罪と罰』におけるソーニャの哀しみにも通じているだろう。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺した後で見る「殺された老婆が笑う夢」は、死んだ兵士たちの亡霊が出て来る第四話「トンネル」につながっていると思える。

 第六話「赤富士」の後で描かれている第七話「鬼哭」では、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の根底にあった「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」と「人類滅亡の悪夢」との深い因果関係が示唆されている。

 さらに、第八話「水車のある村」において、「近頃の人間は、自分達も自然の一部だという事を忘れている」と語り、「特に学者には、頭がいいのかも知れないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いので困る」と語る「モーゼの様な髭を生やした」老人の言葉は、血で「汚した大地に接吻なさい」と語ったソーニャの言葉に従って自首をしたラスコーリニコフがなぜ、シベリアで「復活」しえたのかという深い理由を説明しているとさえ思える。

 ではなぜ、偶然の一致とはいえないようなこれほどの類似が見られるのだろうか。

この意味で注目したいのは、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄が、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していたことである*4(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁── 以下、巻数と頁数を〔〕内に六・四五、五三のように表記する)。

 さらに小林は、第四章で詳しく見るように、一九三六年に書いた映画評ではスタンバーグ監督の映画《罪と罰》などに言及しながら、表現手段としての「文学」と「映画」を比較して、映画では『罪と罰』の深みを描くことはできないと批判していた〔四・二二四~二二六〕。

 一方、黒澤の映画における師といえる山本嘉次郎監督は、夏目漱石の『坊つちやん』を映画化して一九三五年に公開し、その翌年には『吾輩は猫である』を原作とした映画《吾輩は猫である》も公開していた。映画という表現手段を批判した小林の記述は、一九三六年にPCL映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社し、一九三八年には映画《綴方教室》に製作主任として参加する黒澤に、文学作品の映画化についての深い考察を迫っていたといえるだろう。

  実際、小林秀芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していたが〔一・一五二〕、戦後の一九五〇年に公開した映画《羅生門》で黒澤は、夏目漱石の弟子にあたる芥川の深いドストエフスキー理解と芥川作品の現代的な意義を示していた。

 さらに最近になって、戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本に黒澤が深く関わっていたことが明らかになった*5。本論で詳しく見るように小林秀雄はシベリア流刑後にドストエフスキーが唱えた「大地主義」に否定的だったが、黒澤は『死の家の記録』などこの時期に書かれた作品を高く評価しており、彼が中心的な役割を担ったこの映画の脚本でも『虐げられた人々』からの影響がすでに強く見られる。

 ことに、沖縄で冤罪から死刑にされかかったことのある復員兵を主人公とした映画《白痴》の結末は、『白痴』の主人公ムィシキンがスイスからではなく、「シベリヤから還つた」とし、その結末についても「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何んの責任も持たない」と一九三四年に「『白痴』についてⅠ」で書いていた小林の記述とは正反対ともいえるほどに異なっていたのである〔六・一〇〇〕。

三、消えた「対談記事」

 小林秀雄は映画《白痴》を初めとする黒澤映画についてはほとんど語っていないので、彼が黒澤明監督のドストエフスキー観をどのように考えていたかは判らない。しかし小林は、映画《白痴》が公開された翌年の一九五二年から五三年にかけて八章からなる「『白痴』についてⅡ」を発表し、その後半では黒澤映画《白痴》ではあまり描かれていなかったレーベジェフやイッポリートに焦点をあてて論じていた。

 興味深いのは、その小林が一九五六年一二月に黒澤との対談を行っていたことである*6。この前年に黒澤は映画《生きものの記録》を公開していたが、「第五福竜丸」事件をきっかけに三千万以上の署名が集まるほど高まった反核の動きは、「ついに太陽をとらえた」と題して読売新聞に連載された特集や「原子力平和利用博覧会」の開始によって急速に流れが変わり、この時期には原爆の危険性を指摘することはすでに「季節外れ」のように見なされるようになっていた*7。

 しかし、第二章で詳しく見るように、小林秀雄は一九四八年に「人間の進歩について」と題して行われた物理学者の湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」の「平和利用」という湯川の考えの危険性をいち早く指摘し、「道義心」の視点から厳しく批判していたが、その後に行われた黒澤明との対談で湯川秀樹は映画《生きものの記録》を高く評価していた。

 『白痴』の結末に対しては正反対の見解を示す一方で、「原子力エネルギー」の危険性を深く認識していた二人の巨匠がどのような対談を行っていたのだろうか。残念ながら、掲載されれば必ず売り上げを伸ばすと思われる二人の著名人による対談記事が雑誌に載らなかったために、対談の詳細な内容は明らかになっていない。

 しかし、飛行機事故などでは「ブラックボックス」を探し出して回収することが事故解明の第一歩とされるが、幸いこの時の対談については、その時の写真が残されているだけでなく*8、司会者などの短い回想も残されている。その後の二人の記述や映画などからは、『白痴』の結末の解釈などにたいする強いこだわりが感じられ、この時の対談が巨匠たちに残した痕跡の深さが感じられる。

 原発の推進が「国策」となると小林秀雄は「原子力エネルギー」の危険性についてほとんど語らなくなったが、映画《赤ひげ》の制作が発表された翌年の一九六四年に発行した『「白痴」について』(角川書店)では短い第九章を加えて、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだらう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである(後略)」と書いていた〔傍線引用者。六・三四〇〕。名指しこそしてはいないものの、「不注意な読者」という表現は黒澤明監督を強く意識している可能性が高いと思われる。

 一方、映画《どですかでん》が営業的な失敗に終わった後で発作的に自殺を図っていた黒澤は、探検家アルセーニエフと自らをナナイ人(大地の人)と呼ぶ少数民族・ゴリド族の狩人デルスとの交流を描いた『デルスウ・ウザーラ』を原作とする映画《デルス・ウザーラ》をシベリアで撮って見事に復活した*9。    

この映画を一九七五年に日本で公開した後に若者たちと行った座談会で黒澤明は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語ったが*10、その言葉に強い反発を覚えたかのように小林は、スリーマイル島の原発事故が起きた一九七九年に河上徹太郎と行った対談でも「『白痴』はシベリアから還ってきたんだよ」と繰り返して主張している*11。

 このような『白痴』の結末をめぐる互いを強く意識したと思われる両者の発言に注目するとき、映画《夢》はドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」の成果だと言っても過言ではないとさえ思える。

 本書ではまず作者と主人公の問題に注目しながら、ムィシキンが「シベリヤから還つた」とする小林秀雄の『罪と罰』論と『白痴』論との関連を分析し、さらに主な登場人物の解釈の問題点を明らかにすることで、本論の方向性を確認する。第一章からは小林秀雄のドストエフスキー観と比較しつつ、映画の公開順に映画《白痴》から映画《夢》にいたる黒澤明監督のドストエフスキー理解の深まりに迫ることにしたい。

 消えた「対談記事」の謎に注目しつつ、小林秀雄と黒澤明のドストエフスキー観を具体的に比較することで、なぜ黒澤監督が映画《夢》で東京電力福島第一原子力発電所の悲劇を予言しえたかという「謎」にも迫ることができるだろう。

 

*1 チェルノブイリ原発事故については、「高橋誠一郎 公式ホームページ」の「映画・演劇評」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」を参照。

 *2 『全集 黒澤明』第四巻、岩波書店、一九八八年、一四〇頁。

 *3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年参照。

*4 『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、四五頁、五三頁。

*5 (編)石割平、円尾敏郎、谷輔次『はじめに喜劇ありき』ワイズ出版、二〇〇五年、一五一頁。

*6  黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明』第四巻、講談社、二〇一〇年、八一六頁(以下、『大系 黒澤明』と略記して、巻数と頁数のみを記す)。

*7  中日新聞社会部『日米同盟と原発──隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年参照。

*8  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、三六六頁。

*9  アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ──沿海州探検行』東洋文庫、一九六五年、三〇八頁、映画化に際しては日本語では発音しにくいことから、主人公のデルスウの名前はデルスと表記されたので、本書でも基本的にはデルスと記す。

*10  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、二八八頁。

*11  小林秀雄『考える人』春季号/新潮社、二〇一三年、四五頁。

 

 

ムィシキンの観察力とシナリオ『肖像』――小林秀雄と黒澤明のムィシキン観をめぐって

 

1,「シベリヤから還つた」ムィシキン

 「『罪と罰』についてⅠ」(1934)の冒頭で、「重要な事は、告白体といふ困難な道からこの広大な作品を書かうと努めたほど、ラスコオリニコフといふ人物が作者に親しい人物であつたといふ事である」と記していた文芸評論家の小林秀雄は、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を示した(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、62~63頁。全集第6巻からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の〔〕内に頁数をアラビア数字で示す)。

 「『白痴』についてⅠ」(1934)においても、「本当に美しい人間」を描こうとしたドストエフスキーの「明瞭な企図」と「その実現された処」の違いの激しさを指摘した小林は、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と繰り返し強調している。

 そして、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と続けた小林は、「この小説の終りで、作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」と断言した〔82~83頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」(1952~53)でもムィシキンがスイスから帰国する「汽車の中で、独り言を繰返す」ことに注意を促した小林は、「詮索するにも及ぶまい。当人が『これから人間の中に出て行く』と言つてゐるのだから、この男には過去なぞないのだらう」と断定している〔299頁〕。

 しかし、ここで小林は「これから人間の中に出て行く」というムイシュキンの言葉が、汽車の中での「独り言」と説明しているが、この言葉はエパンチン家の令嬢たちにスイスの村でのマリーと子供たちの逸話を説明した後で語られた言葉であり、しかもムィシキンは「ぼくは自分の仕事を誠実に、しっかりとやり遂げようと決めました」と続けていた(第1部第6章)。

 つまり、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためであり、ドストエフスキーは小説の冒頭で自分が得た遺産を苦しんでいるロシアの人々のために尽くしたいと考えていたムィシキンと、莫大な遺産で女性を自分のものにしようと願ったロゴージンという対照的な若者の出会いを描いていたのである。

 ムィシキンが「シベリヤから還つた」と解釈すると彼が西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判が読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

 「『白痴』についてⅠ」で『白痴』の結末の異常性を強調した小林秀雄は、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた〔100~103頁〕。

 ムィシキンの帰国の理由を説明していたエパンチン家での会話の部分を読み落としたことが、このような陰惨な解釈にも直結していると思われる。

 

2,「アグラアヤの為に思ひ附いた画題」

 小林秀雄は「『白痴』についてⅠ」で「周知の事だが、作者はこの主人公を通じて、自分の二つの異常な生活経験を、熱烈に表現してゐる」として、癲癇の発作とともに死刑体験とを挙げていた〔90~91頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」でも、「この死刑の話は、執拗に、三通りの違つた形で繰返し語られ、恰も、作品の主音想(ライト・モチフ)が鳴るのを聞くやうだ」とした小林秀雄は、「ギロチンが落ちて来る一分間前の罪人の顔を描いてはどうか」という「三番目の話は、ムイシュキンがアグラアヤの為に思ひ附いた画題の話である」と続けている〔傍点引用者、281~2〕。

 しかし、ムィシキンが画題を示したのは絵の才能のある次女のアデライーダに対してであって、三女アグラーヤにではなかった。

 しかも、ムィシキンの「見る」能力を考察した川崎浹氏が指摘しているように、エパンチン家で「アデライーダに『見る』ことを示唆した」あとにスイスのことを話したムィシキン公爵は、スイスで見たギロチンの話をした後で死刑囚の顔を描きなさいと語っていたのである(第1部第5章、「『見る』という行為――ムイシュキン公爵とアデライーダ」、104頁)。

 この論考について木下豊房氏も「この物を見る目という本質的な問題を『白痴』のアデライーダの絵の題材への迷いに見て取り、背後に作家のリアリズム観の存在を指摘した川崎氏の慧眼を評価したい」と結論している。

 ドストエフスキー論の「大家」とされてきた文芸評論家の小林秀雄が、『白痴』においてきわめて重要な役割を演じているエパンチン家のアグラーヤとアデライーダの名前を取り違えていたことは、ムィシキンの「孤独」に焦点を絞って考察した小林秀雄の視野にはエパンチン家の家族関係だけではなく、ムィシキンの「観察力」も入っていなかったことを物語っているだろう。

 あるいは、「注意深い読者」であった小林秀雄の視野にはムィシキンの「観察力」も入っていたかもしれない。しかし、このような「事実」としての「テキスト」を忠実に読み解くことで「殺すなかれ」と語ったムィシキンを高く評価することは、戦争に走り出した当時の日本の「国策」に反することも知っていた。そのために、「軍国主義」を批判する評論の筆者として逮捕されることを逃れるために、「テキストから逃走」してしまった可能性も高いと思われる。

 問題は同じような事態が戦後にも起きていたと思われることである。よく知られているように小林秀雄は、科学者の湯川秀樹との対談では「原子力エネルギー」の危険性を「道義心」の視点から厳しく指摘していた。しかし、「第五福竜丸」事件の後で、「原子力の平和利用」が「国策」として打ち出されると、小林秀雄はこの問題を全く語らなくなってしまったのである(拙論「知識人の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と『死の家の記録』」、『黒澤明研究会誌』第30号、参照)。

 一方、このような小林秀雄のムィシキン観とは異なり、長編小説『白痴』におけるムィシキンの観察力をきわめて高く評価したのが黒澤明監督の映画《白痴》であった。

 

3,映画《白痴》とシナリオ『肖像』

 黒澤映画《白痴》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、1951年)の亀田(ムィシキン)には絵画を観察する能力は与えられていないが、戦争だけでなく死刑という極限的な体験をしていた亀田には人を見る直感的な観察力が与えられている。

 この意味で注目したいのは、この映画の3年前に黒澤明が木下恵介監督(1912~1998年)のために書いた映画《肖像》のシナリオの主人公の老年の画家がムィシキンを想起させるばかりでなく、老画家の家族を嫌がらせで追い出すためにその二階を間借りして住み込んだ悪徳不動産屋の愛人・ミドリも、ナスターシヤを思い起こさせることである。

 黒澤明監督は「僕は、映画におけるシナリオの地位は、米作における苗つくりのようなものだと思っている」と述べ、、「弱いシナリオから絶対に優れた映画は出来上がらない」と結んでいた(第3巻、286頁)。

 この言葉に留意するならば、シナリオ『肖像』は黒澤明監督の映画《白痴》におけるムィシキン理解の深さを知る上でも、きわめて重要な作品であるといえるだろう。

 井川邦子、小沢栄太郎、三宅邦子、三浦光子、菅井一郎、東山千栄子、佐田啓二などの出演で撮られ、1948年に公開されて第3回毎日映画コンクール監督賞を受賞したこの映画のシナリオの内容を簡単に見ておきたい(サイト「木下恵介生誕100年プロジェクト」の画像も参照)。

 

 まず注目したいのは、主人公の老画家から肖像画のモデルとなるように頼まれたミドリが、「でも、どうして、私なんか」と尋ねると、画家の野村は「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明していることである(『全集 黒澤明』第3巻、214頁)。この台詞は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ――原節子)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けた亀田(ムィシキン)の台詞を想起させる(シーン八)。

 一方、嫌々ながらもモデルを務めていたミドリは同じような境遇の芳子に「私ね、じっと座ってその画描きの綺麗な眼でじっと見られていると、なんだか、澄んだ冷い流れに身体をひたしている様な気がするの……自分の身体のいやなあぶらやあかみたいなものが洗い落されて行く様な……」と告白する。

 「いやだよ……お前さんその画描きに惚れるンじゃないのかい」と芳子から冷やかされると、ミドリは「その人、薄汚いお爺さんだわ」と言いながらも、「でも、私……その人好きよ……だんだん好きになって行くわ……初めは、随分まぬけな人だと思ってたけど……」と続けるのである。

 しかも、酔っぱらった勢いで自分が淑女ではなく愛人であると明かしてしまったミドリは、「こんなの私なものか……これが私の肖像だなんて……笑わせるわ」と言い放ち、「煙草を出して吸いつけると壁にもたれてあばずれたポーズ」を取ったが、画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得される。

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせるのである。そしてミドリは、結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ……私達、なんにもやって見もしないで、何もかも駄目だってきめてかかっていたような気がするわ」と語り、同じ稼業だった芳子に「弱虫なのは私達だわ」と続けて自立への決意を語ったのである。

 台詞自体は何人かの登場人物に分与されているが、画家の家族に励まされて苦しくとも自立しようとするミドリの決意は、ムィシキンに励まされたナスターシヤの思いとも対応しているだろう。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結している。 

テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に (発表要旨)

 

作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したことはよく知られている(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

しかし、小林秀雄とも同人誌『文科』の同人だった坂口は、この評論において「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも記していた(同上、232~233頁)。

実際、「『未成年』の独創性について」(1933)と題された論考など初期の論考にはきわめて深いドストエフスキー作品の理解が見られ、また『カラマアゾフの兄弟』論(1941)における「この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」との適確な指摘は、現在の通俗的な理解をも凌駕しているといえるだろう(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、170頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数をアラビア数字で示した)。

それゆえ、本稿では小林秀雄が何も語らなかった黒澤映画《白痴》(1951)を参考にしながら、ドストエフスキーの作品と小林秀雄の評論とを具体的に比較することによって、小林のドストエフスキー論の意義と問題点を検証したい。

*   *   *

最初に『永遠の良人』論と『未成年』論における小林の独創的な分析とその特徴を確認する。次に小林秀雄が「『罪と罰』についてⅠ」では、『地下室の手記』の主人公の言説とドストエフスキー自身とを結び付けることで、ドストエフスキーが前期の作品と訣別しそれまでの「理性と良識」を捨てたと主張したシェストフの『悲劇の哲学』からの強い影響を受け始めていることを明らかにする。

すなわち、「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いた小林は〔53〕、この評論の終わりで「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と読者に問いかけていたのである〔63〕。

次の「『白痴』についてⅠ」で小林は、『罪と罰』の終りで「作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」とラスコーリニコフの「悔悟」を否定し、「ラスコオリニコフは生きのびて来たドストエフスキイその人に他ならぬ」と断言していた〔83~84〕。

このような小林の解釈は、戦争に向けて走り出していた当時の日本社会では多くの読者に受け入れられた。なぜならば、「非凡人」には「悪人を殺す」ことも許されると考えて「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフが、シベリアで自分の罪を深く反省してしまっては、「自国の正義」のために「敵」と戦う「戦争」も否定されることになってしまうからである。

最も問題なのは、『罪と罰』との連続性を強調するために小林が「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」とテキストとは全く違う、読者の予想を超えるような大胆な解釈をしていたことである〔傍線引用者、63〕。

「『白痴』についてⅠ」もこのような解釈に従って記述されているが、シベリアから帰還したことになると、ムィシキンが治療を受けていたスイスの村で体験したマリーのエピソードがなくなることで、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解することが難しくなる。さらには、ムィシキンが西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判も読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

『白痴』のテキストが具体的に分析されている「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかし、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

*   *   *

研究者の相馬正一は、「教祖の文学」で「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」坂口安吾が、その直前に書いた「通俗と変貌と」(1947)でも、小林を「実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり」、「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と書いていたことを指摘している(『坂口安吾 戦後を駆け抜けた男』人文書館)。

領土問題などをめぐって近隣諸国との軋轢が強まっている現在、小林秀雄の評論が再び脚光を浴び始めている。本発表では坂口安吾のリアリズム観も紹介しながら具体的に小林の文章を引用しつつ論じることで、小林秀雄のドストエフスキー論の意義と問題点を明らかにしたい。忌憚のないご意見やご批判を頂ければ幸いである。(再掲に際しては、読みやすいように文体的な改訂を行った)。