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チェルノブイリ原発事故

「広場」23号合評会・「傍聴記」

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「広場」23号合評会を聴いて

                     

 7月19日の例会では『ドストエーフスキイ広場』第23号の論文を中心に合評会が行われた。紙面の都合から議論となった争点を中心に順を追って紹介していきたい。

 原口美早紀氏の論文「『白痴』におけるキリスト教思想」を論じた福井勝也氏は、ドストエフスキーの手紙を引用することで「ドストエフスキイのキリスト教思想はヨハネ福音書に多く依っている」ことを指摘したこの論文を高く評価する一方で、手紙の同じ箇所を引用しつつも小林秀雄が「ポジとしてのイエス」に対して「陰画(ネガ゙)としてのイエス」という視点を提示していたことを強調した。

 この論文に関してはもっとも注目されたのは、原口氏の視点で、『白痴』のムィシキンには「ヨハネ福音書」のイエス像と同じように「喜びの福音を伝える者」としての要素が大きく、またイッポリートが「弁明」を書いた理由も彼が「饗宴」を求めたからだろうとの解釈だった。この解釈は説得力があるという意見が目立った。

 高橋論文「『シベリヤから還った』ムィシキン」を論じた木下豊房氏は、E.H.カーが小林秀雄の視点に及ぼした影響はかなり強く、ナスターシャが「商人の妾」であることや「キリスト教への発心」の時期が『悪霊』以降であるという説をカーが書いていることを明らかにするとともに、「小林にとっての最大の関心事は、観念に憑りつかれた人間が、駆り立てられるようにカタルシスに向かってたどる心理的プロセス」であったと指摘し、小林のドストエフスキー論の背景に戦争に向かう当時の時代情況を見ようとすることやエウゲーニイにムイシキンの告発者としての役割などを見ることは「深読み」であろうとの批判がなされた。

 しかし、ムィシキンを「シベリヤから還った」者と規定した小林秀雄が、『罪と罰』論では殺人を犯した主人公には「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していたことやエヴゲーニイがプーシキンの愛読者でもあったことにも注意を払わねばならないだろう。「黒澤と小林を対比する方法によって、小林についていろいろ見えてくるものがあるのは確か」との指摘はきわめて重要だと思われた。

 大木昭男氏の論文「ドストエーフスキイとラスプーチン」を論じた近藤靖宏氏は、まず中編小説『火事』が書かれたのが、チェルノブイリ原発事故があったことに聴衆の注意を促すことで、この作品が書かれたソ連の時代状況を示し、『カラマーゾフの兄弟』の「ガラリアのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写と比較しながら、『火事』でも実際の風景と心象風景が組み合わされて迫力のある描写になっていることを指摘した。

 その一方で、この作品で描かれている農村や主人公の情況が日本の読者には不明な点が多いので、二人の作家の内的な関係が今ひとつ分かりにくいとの感想もあったが、その点では論文では削除されていたが、報告では触れられていた『おかしな男の夢』における「覚醒」の問題や、『火事』でも頻出する「良心」という単語の役割がより明確になると二人の作家の比較が説得力をもったのではないかとの意見も出された。

 清水孝純氏の「ドストエフスキーとグノーシス」の予定していた論評者が出席できなくなったために、急遽、代役を引き受けられた木下氏は清水論文の問題提起を受けて「グノーシス主義にとって、善悪の問題は知による認識にかかわるもの」だが、ドストエフスキーにとって善悪の問題は、「信仰、不信仰の問題と深く結びついていて、人物創造の基軸をなしている」とし、作家が子供の頃に読み『カラマーゾフの兄弟』でもゾシマ長老に語らさせていた「「『旧・新約聖書の百四つの物語』という美しい絵入りの本」にも収められていた「ヨブ記」の重要性を指摘した。

 すでに字数を大幅に越えたが、主人公たちの娼婦に対する言説を考察した西野常夫氏の「椎名麟三の『地下室の手記』論と『深尾正治の手記』」のテーマがきわめて深い内容であり、椎名麟三への関心もあるので、ぜひ例会での発表をお願いして質疑応答をゆっくりとしたいとの言葉が印象に残った。

 残念ながら、当日の参加者は少なかったが、「ドストエーフスキイの会」を活性化するためにも、遠方の会員も参加しやすいような形が模索されるべき時期に来ているのではないかと感じられた。

 

「放射能の除染の難しさ」と「現実を直視する勇気」

 

原発事故の後も福島県に残って、こどもたちの健康を守るための「放射能測定」などの地道なボランティア活動を行っている吉野裕之氏は、「空間線量」などを毎日計り続けると精神的にきつくなると説明し、個人的に放射線量を測り続けることの難しさときちんとした組織的な対応が必要であると指摘した。

すなわち、「地表から5㎝、50㎝、1メートルの3点」や同じ道でもアスファルトの部分と植え込みのある部分を測定すると、同じ地点でも高さが違うだけで放射能の値は異なることや、近い場所にもホットスポットが存在していることが明らかになったのである。

安倍政権の説明を受け入れるならば、きちんとした「放射能の除染」が行われれば再び子供たちも健康に暮らせるとの印象を受ける。しかし、汚染された土地を取り除くということは、何十年もかけて創り上げた豊かな「土壌」をはぎ取ることを意味するだけでなく、教育施設や市街地だけでなく、山や森にも降り注いだ放射能は、時間の経過と共に雨や風によって市街地にも流れてくるので、一度除染をすればそれで完了したことにはならないのである。

今回の報告を聞いて「放射能の除染」という作業の難しさを改めて強く感じるととともに、このような困難な状況にもかかわらず子供たちの健康を守る地道な活動を続けているひとびとの誠実な活動を通じて未来に向けての展望も見えてくるように思えた。

2015年に仙台で開かれる国連による「防災会議」でも、「複合災害」という形で原発事故の問題も取り上げられることになったとのことなので、福島県外にいる者としても「原発の危険性」と事故の予防を今後もを訴え続けていきたい。

*   *   *

ボランティアの方々のこのような地道な努力を徒労に感じさせるような事態が7月14日に発生した。すなわち、「福島県南相馬市で昨年秋に収穫されたコメから基準値(一キログラム当たり一〇〇ベクレル)を超える放射性セシウムが検出された」のでである。

これに対して東電の広報担当者は当初、「がれき撤去でセシウムが遠くまで飛散したとの見方に関し『否定できないが、コメの基準値超えとの因果関係は分からない』」と農水省に対して説明していた。しかし、それから10日もたたない23日には、がれきの撤去作業との関係が明白になった。「東京新聞」のデジタル版から引用しておく。

「福島第一原発のがれき撤去で飛散した放射性セシウムが昨年八月、数十キロ離れた水田のコメなどを汚染した可能性が出ている問題で、東京電力は二十三日、この撤去作業で飛散した放射性物質が一兆一二〇〇億ベクレルに上ったとの推計結果を明らかにした。原子力規制委員会の廃炉に関する会合で説明した。」

現在も「平常時の放出量は毎時一〇〇〇万ベクレルのため」、「免震重要棟前で観測された放射性物質濃度を基に毎時二八〇〇億ベクレルの放出が四時間続いたとして試算」すると、「一時間当たり二万八千倍に相当する」放射能が飛散したことになる。

*   *   *

東電は「敷地外の汚染との関連は分からないが、がれき撤去での飛散防止対策は強化する」としているとのことだが、1986年のゴルバチョフ書記長の時に起きたチェルノブイリ原発事故に際しては、ソ連は全力を注いでともかくも「石棺」を作りあげて、放射能を封じ込めることになんとか成功していた。

一方、安倍総理が「放射能の汚染水」はせき止められていると胸をはって海外に「公約」した日本では、未だに「汚染水」の問題だけでなく、「平常時の放出量は毎時一〇〇〇万ベクレル」と記されているように、大気中の「放射能」も完全にはせき止められていない。

昨日の朝刊にはカナダの外相から安倍政権の支持率低下の理由を聞かれた菅官房長官が、「国民が安全保障に臆病だから」と答えたとの短い記事が載っていた。

事実はその反対で、近隣諸国との対立については多くの情報を発して危機感を煽っている「安倍政権」が、日本に今在る「原発事故」の「危険性を直視する勇気がなく」、きちんとした対応を取ることができていないことに多くの国民が気づき始めたからだと思える。

*   *   *

会場では国際協力NGOセンター(JANIC)、ADRA Japan、こどもみらい測定所の共同製作によって作られた小冊子『はかる、知る、くらす。――子供たちを放射能から守るために、わたしたちができること。』が回覧された。

ここではその目次を紹介しておく。

第1章 放射能ってなに?

菅谷昭さんに聞く/「被ばくによる健康被害と、私たちができること」

第2章 放射線測定について

小豆川勝見さんに聞く/「測定を続けることの意義」

座談会/「市民測定所が見てきたこと、これから行なうこと」

第3章 「これから」をくらすために

絵で見る「これからをくらすためのポイント集」/ 5つの気をつけること

最初にこの冊子を読んだ時には、イラスト入りの子供にも分かり易い冊子なのでこの冊子が廉価で販売されればよいと考えたが、その後の事故の状況や住民避難の安全性も確保されていないうちに、強引に原発を再稼働しようとしている政官財の「原子力ムラ」の行動を見ている中で、このような冊子は原発を再稼働しようとしている電力会社が、周辺の住民に配布すべきだろうと考えるようになった。

その理由の一つは、安倍政権が危険な火山地帯にある川内原発の再稼働も強引に進めていることである。

*   *   *

7月25日の「東京新聞」には次のような記事が掲載されていた。    

「火山の巨大噴火リスクを抱える九州電力川内(せんだい)原発(鹿児島県)で、九電は予兆を察知した場合には核燃料を安全な場所に緊急移送すると明言しながら、実際には原子炉を止めて運び出すまでに二年以上かかる上、搬出方法や受け入れ先の確保なども具体的に検討していないことが分かった。(小倉貞俊)」

「文明史家」ともいえる司馬遼太郎氏は、「土地バブル」を煽って「大地」に対する日本人の感覚を狂わせた政治家や大蔵省の対応を厳しく批判して次のように記していた。

「本来、生産もしくは基本的には社会存立の基礎であり、さらに基本的にいえば人間の生存の基礎である土地が投機の対象にされるという奇現象がおこった。大地についての不安は、結局は人間をして自分が属する社会に安んじて身を託してゆけないという基本的な不安につながり、私どもの精神の重要な部分を荒廃させた。」(『土地と日本人』中公文庫)。

原発の再稼働や海外への輸出によって利益を上げようとしている安倍政権や経産省には「事実を直視」する勇気が欠けているばかりでなく、人智を超えた圧倒的な「自然の力」に対する敬虔な「畏れ」の気持ちも欠けているように見える。

司馬氏がすでに指摘していたように、近代化を急いだ日本では、いまだに「国策」として決められた「政策」が失敗しても、誰も責任を取らなくてもよい制度になっているようだが。しかし、「国民の生命」や「大地」、さらには「地球環境」に重大な危険を与えるような事態に対しては、企業だけでなく官僚や政治家に対しても「倫理的な責任」を求めるような制度を確立することが必要だと思える。

「原発の危機と地球倫理」――「地球システム・倫理学会」の研究例会に参加して

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「原発の危機と地球倫理」――「地球システム・倫理学会」の研究例会に参加して

「国際社会の信頼を回復するために」と題された「地球システム・倫理学会」の5月の研究例会での報告者は、フクシマの大事故が起きる前から原発の危険性を指摘してこられた村田光平・元駐スイス大使であった。                                                           

 重たいテーマでの研究報告であったが、ユネスコ事務総長顧問でもある服部英二会長の国際的な視野に立脚した司会により、現在の日本が抱える問題を浮き彫りにするとともに、将来への展望が開かれような深い知的刺激に富むものとなった(以下、敬称略)。

*   *   *

服部会長は冒頭で、事故直後に原発事故の処理にあたるべき東電の社員の9割が逃げ出していたことが明らかになった朝日新聞のスクープに言及し、村田氏が原発の危険性について発言をされていたことに注意を促し、放射能廃棄物などの問題が山積するなか村田氏の報告がまさに「地球倫理」の確立に深く関わることを指摘して、講演の後の活発な議論を望むと結んだ。

報告で村田氏は「福島の教訓」を忘れて、「原発再稼働、輸出、放射能廃棄物」などの動きが続く日本が、「不道徳社会と化し」、実質的には「国際社会における名誉ある地位」が失われたことをまず指摘した。そして、安倍首相が「日本人の暮らしと生命を守るため」として、強引に進めている「集団的自衛権」の問題を、本末転倒であり、未だに収束していない福島第一原子力発電所の事故を解決することがに急務であると力説した。

このような村田氏の論調は批判が厳しすぎると感じ読者もいるだろうが、チェルノブイリ原発事故の際には問題を重大視したソ連政府が30万人を動員して、7ヶ月で「石棺」を作り上げていたことの説明は、当時モスクワにいた私にとっては、原発の問題を解決することが「日本人の暮らしと生命を守る」ことになるという主張はきわめて説得力に富んでいると思われた。        

 実際、「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4で、菅直人・元首相は政府事故調中間報告の図面資料を用いながら、四号機プールに水が残っていなかったら、二五〇㎞圏に住む五千万人の避難が必要という「最悪のシナリオ」になった可能性があったことを詳しく説明した。問題は同盟国のアメリカはもちろん、さまざまな体験からその危険性も認識していたと思えるロシア政府なども知っていたと思われるこの事実が、その生命を守るべき「日本の国民」にはほとんど知らされていないままに、原発の再稼働の動きが始められていることである。

次に、村田氏はこのような問題が未だに日本で解決されていない原因の一つとして、「経済至上主義」による「情報の隠蔽」の問題を指摘し、日本国民の生命にかかわるだけでなく、地球環境にも大きな影響を及ぼす大事故の危険性を軽視している現政権の倫理性を鋭く追求し、最後に緊急課題として「IAEAの改革及び東京オリンピックからの名誉ある撤退」の必要性を強調した。

「オリンピックからの撤退」はきわめて難しい問題だと思えるが、情報がきちんと伝えられていない日本とは異なり、むしろ事故発生当初から確実な情報を得ていた外国の方が危機感が強く、村田氏は遅かれ早かれ選手団を日本に派遣することになる外国からの開催の辞退を要求する声により、開催が不可能になる可能性が高いことを示唆した。             

辞退を要求されてから取りやめるのではなく、日本政府がそれを決断して一刻もはやくに原発事故の収束に向けて全力を尽くすべきだとの議論には説得力があった。

*   *   *

講演後の質疑応答で私は十分な議論もなく採択された「特定秘密保護法」にも言及しながら、1955年に公開された黒澤映画《生きものの記録》の時期にもすでに同じような「情報の隠蔽」の問題があったのではないかとお尋ねし、おそらくそうだろうとの回答を得た。

また、脱原発に踏み切ったドイツなどとは異なり、現在も原発を推進しているフランスの問題についての質問と議論もあった。福島第一原子力発電所に設置されたアレバ社の放射性物質除去装置の問題や、フランスでも使用済み核燃料の最終処分場の問題はまったく解決されていないことなどが指摘されて、いずれは脱原発に向かわざるを得ないだろうとの予測が語られた。

一時的な目先の利益ではなく、遠い将来も見据えた真摯なと質疑応答からは、現状に対する認識はきわめて厳しい一方で、「天地の摂理」が働いてもいずれは解決されるだろうという報告者の文明論的な見通しの正しさ示されたと感じた。

書き漏らしたことも多々あると思われるので、会場で配布されたレジュメを以下に記すことで報告の流れを補っておく。

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「国際社会の信頼を回復するために」

1, 失われた「国際社会における名誉ある地位」

 不道徳社会と化した日本社会

 原発再稼働、輸出、放射能廃棄物

 地震原因説への対応

 4号機危機の下の「バンド演奏が続けられるタイタニック」

2.  福島事故の教訓

原発の存在と安全保障問題

ゼロ原則の確立と科学技術の限界

父性文明から母性文明への転換の必要性

指導者の必要条件

3.  「奇妙な独裁」――国際原子力独裁

福島切捨てから日本切捨てへ

世界の命運を左右する電力会社

4.  国家の危機への対応

電力会社の経営危機から国家危機への対応へ

立場の相違を乗り越え総力の結集を

「ロシア秘密文書」の教訓

5.文明の危機への対応

経済至上主義の限界

文明の視点の欠如

力の父性文明から和の母性文明へ

注目され出した母性文化論

6.日本の歴史的役割

三位一体の目標(国連倫理サミットの開催による地球倫理の確立、母性文明の創設、民事、軍事を問わない核廃絶の実現)

緊急課題――IAEAの改革及び東京オリンピックからの名誉ある撤退

「生命の水の泉」と「大地」のイデア

 

(スラヴ圏)スラヴのコスモロジー

 〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉

                           

はじめに――投げかけられた問い

 お手元にレジュメは届いていますでしょうか?

2枚目のところにスラヴの神話や民話に出てくる森の精や水の精などの絵があります。

私の専門はドストエフスキーなのですが、『罪と罰』とか『白痴』という世界がそういうロシアの民衆的な民話的な世界や宇宙観とも深く結びついており、それが普遍性をおびているために世界中で読まれて深い感動を与えているという話を今回はしたいと思いました。ただ、レジュメにも書きましたけれども、3月に起きた原発事故のために私のふるさとの福島県の二本松でも祖先の墓の上に放射能が降り注ぐなど、日本の大地、大気、川が汚されるという大変な事態がおきました。

さらに私は25年前にチェルノブイリで起きた原発事故の際にモスクワに滞在していましたが、そのときに留学生を引率していたので事故の情報の問題、当時のソ連から情報が流れてこないというのはわかるのですが、日本大使館からも流れてこない。それでヨーロッパの留学生たちがそれぞれの大使館から持ってくる情報を集めてどう対応すべきかなどを考えざるを得なかったということがありました。

実は司馬遼太郎の作品に入っていくきっかけも情報の問題からです。司馬さんは大地震の問題についてもたびたび書いています。たとえば、『竜馬がゆく』の中でも竜馬が大地震に際して深く感じることのできる詩人のような心を持っていたと冒頭近くで説明されています。原発は「国益」という形で進められてきましたが、果たして一部の人たちが握っている情報が我々にちゃんと伝えられているのか、その問題が明治以降もいまだに続いていると思えます。

一方、『坂の上の雲』の第3巻において司馬さんは、東京裁判におけるインド代表判事のパル氏の言葉を引用しつつ、「白人国家の都市に落とすことはためらわれたであろう」と原爆投下を厳しく批判しておりました。実はこの原爆の投下の問題は、原発の問題と結びついており、司馬さんはチェルノブイリ事故の後で「この事件は大気というものは地球を漂流していて人類は一つである、一つの大気を共有している、さらにいえばその生命は他の生命と同様もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていました。

実際にチェルノブイリについてはヨーロッパ各国が大変な危機感を持ちました。私の場合は、幸い住んでいたモスクワの方には風の向きが違っていたので流れてこなかったのですが、風の向きが変わればどのような被害が及ぶかはわからなかったのです。それゆえ、今回はスラヴやロシアのコスモロジーを視野に入れることで民話的なレベルから見ても原発がおかしいということを明らかにしていきたいと思います。

*   *   *

先ほど見ていただいたのはギランの『ロシアの神話』という本に掲載されている絵ですが、スラヴでは自然崇拝が強く、ことに大地は「母なる湿潤の大地」というふうに讃えられており、このような世界観はドストエフスキーが『罪と罰』の後半で描いていますが、それよりも前にプーシキンがおとぎ話のような形で書いていました。

時間がないので、ごく一部を紹介します。「入り江には緑の樫の木があった。その樫の木には猫が繋がれていた。そして右に歩いては歌を歌い、左へ行ってはおとぎ話を語る。そこには不思議なことがある。森の精が徘徊し、水の妖精ルサールカが枝に座る」。こういう形で民話の主人公を紹介したプーシキンは、「そこにはロシアの精神がある、ロシアの匂いがする」と続け、物知りの猫が私に語った物語のひとつをこれからお話しましょうという形で『ルスランとリュドミーラ』というおとぎ話が始まります。

『罪と罰』のあらすじについては、ほとんどの方がご存知のことと思いますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害するにいたる過程とその後の苦悩が描かれています。ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと、民衆の感覚を失ってしまったという批判をしていることです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが彼にはわからなかったのです。しかし彼はシベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになるのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、しかしロシアの民話を集めてロシアのグリムとも言われているアファナーシエフの『スラヴ民族の詩的自然観』の第一巻が既に『罪と罰』が書かれている時期に出版されていました。そのことを指摘した井桁貞義氏は、ウクライナやセルヴィアを初めスラヴには古くから聖なる大地という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

さらにソーニャという存在が囚人たちから、「お前さんは私らのやさしい慈悲深いお母さんだ」と語られていることに注目して、ソーニャという女性が大地の神格であると同時に聖母の意味も背負っているという重要な指摘をしています。

 このようなロシアの自然観や宇宙観は民話などでやさしく語られており、日本でも知られているものがあるので幾つか紹介して、それが文学作品にどうかかわっているかを少し見てみます。

 まず、『イワンと仔馬』という作品は、これは永遠の生命を持つ火の鳥が出てくる作品で、手塚治虫の『火の鳥』にも影響を与えています。次に『森は生きている』もあちこちで上演されることもありますしアニメーションにもなっているので、知っている人も多くおられると思いますが、これは月の精の兄弟たちとみなしごの少女、そしてわがままな女王との物語です。

 わがままな若い女王の命令で少女は、大晦日に雪深い森の奥に春の花の待雪草を探しに行かされるのですが、たまたま焚き火を囲んでいた12人の兄弟(十二ヵ月の精)たちと出会い、少女が森を大切にして一生懸命に生きているのを知っていた彼らから待雪草を贈られるのです。

一方、人間関係のみで成立している「城」の世界しか知らなかったやはり孤児だった女王は、自分でも待雪草を摘みたいと願って、私も森に行くから案内しなさいと命令して森に行く。つまり、「支配する者」と「支配される者」からなる「城」において絶対的な権力者となった女王は、「自然」や「季節」をも「支配」しようとしたのです。つまり「城」というのは、ここでは現代の日本に言い換えれば「原子力村」と考えればわかりやすいでしょう。「原子力村」の論理だけで生きている人は、「自然」のことを理解できないために、「自然」や「季節」をも支配しようとする。しかし実際には、そういうことはあり得ないのです。そのために女王も「森」に行くと、一瞬にして再び冬の季節に戻って彼女は自分の無力さを感じるのですが、やさしい少女に救われるというストーリーです。

ここで注目したいのはやさしい少女を『罪と罰』のソーニャに、それから自然をも支配できると考えている女王をラスコーリニコフに置き換えると、骨格としては『罪と罰』と同じような自然観が浮かび上がってくるということになることです。

 それから『雪娘』というおとぎ話では「桃太郎」などと同じように、子供に恵まれなかった老夫婦が雪を丸めて雪だるまをつくるとその雪だるまの女の子は、老夫婦の気持ちを理解したかのように動き出して、その家の娘になります。しかし、「かぐや姫」が時間がたって、月に戻っていくように、その「雪娘」も春になると一筋の雲になって、天に昇ってしまうのです。

このおとぎ話について先ほどのアファナーシエフはこういうふうに解釈しています。「雨雲が雪雲に変わる冬、美しい雪の娘が大地に、人間が住むこの世に降りてきて、その白さで人々を感動させる。夏が訪れると娘は大気の新たな姿をとり、地上から天に昇って軽やかな翼を持つほかのニンフたちと共に天を飛翔する」。

 すなわち、雪娘は溶けて「亡くなる」のではなく、別な形を取って生き続け、さらにまた季節が巡れば、「復活」するという考え方が、ロシアの民話を通して語られているということになります。

一方、『罪と罰』のエピローグでは、知力と意志を授けられた旋毛虫に侵されて、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地上に数名のものしか残っていないという主人公が見る「人類滅亡の悪夢」が描かれています。

実際、この作品が書かれた当時は、オーストリアとの戦いに勝ったプロシアが軍事力をつけたために、フランスとの間での戦争がおき、さらにロシアもまたそういう大戦争に巻き込まれるかもしれないという恐怖感が、欧州の世界で広まっていたのです。そして、軍事力の必要を各国が認識したために戦争に近代兵器が持ち込まれるのです。日露戦争では機関銃が登場し、第一次世界大戦でも用いられ、さらに第二次世界大戦では原子爆弾が用いられるということになります。

つまり長編小説『白痴』の時代は、ドストエフスキーにとって「ローマ帝国」の強力な軍事力でユダヤの反乱が鎮圧され、さらにキリスト教徒が弾圧された時代に書かれた『ヨハネの黙示録』の世界と重なるところが多く、「世界の終わり」への恐れとそれを救う「本当に美しい人」への熱烈な願いが記されていたといえます。

11月18日の新聞に「イラン攻撃現実に」という題で、イスラエルがイランの原発開発に強い危機感を抱いているという気になる記事があったので持ってきました。この記事は原爆と原発が結びついていることを物語っているでしょう。つまり、イランの原発開発はアメリカと仲がよかったときは認められていたのです。しかし革命後に政策が変わると、原発の開発は、いつ攻撃の対象になるかもしれないのです。つまり現代という「核の時代」では、原発が世界中の国で広まっていくということは、その国が政策を変えたときに核戦争のきっかけになりうるという危険性を持っているのです。

その意味で注目したいのは、『白痴』ではマルサスの人口論だけでなく、生存闘争の理論や、西欧近代の投機的な自由主義経済、さらに新しい科学技術の危険性が登場人物たちの会話をとおして批判されており、ことに近代文明を象徴する鉄道は『ヨハネ黙示録』の地上に落ちて「生命の水の泉」を混濁させる「苦よもぎ(チェルノブイリニク)の星」の話と結び付けられて解釈されていました。

それゆえ、チェルノブィリ原発事故が起きると『白痴』の予言性が話題となりましたが、それはチェルノブィリという地名が、「苦よもぎ」を意味する単語と非常に似ていたために、ロシアやウクライナ、ベラルーシなどでは原発がそういうのろわれたものであり、それを作ったソ連の政権が神の罰を受けたという批判が強く出たのです。そして、このような『黙示録』の解釈も影響して、この原発事故は神による共産党政権に対する罰だという解釈が広がったことや、原発事故による莫大な経済的損失は、ソ連政権が崩壊する一因となったのです。

 一方、非常に自然環境に恵まれている日本から見ると旧約聖書などで描かれている神の罰という考えは、非情に見えます。しかし古代からのことを考えると、神や天というのは、人智を超えた存在であって、富士山も単に美しくて高い存在であっただけではなくて、大噴火を起こして、我々日本人を深く畏怖させたのです。これについては明日のシンポジウムでも論じられると思います。

 こうして、大自然に対する畏怖というものは、これからの時代にも重要だと思えますが、放射能は水に流しても消えるものではなく「循環の思想」に反しており、大自然を汚すものだといえるでしょう。その意味でも早期の「脱原発」が求められており、そのためにはこの学会も含めて全力を尽くしていくべきではないかというのが、私の考えです。

 どうもありがとうございました。

第7回国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(1989年)に参加して

第七回国際ドストエフスキー・シンポジウムは「ドストエフスキーと二〇世紀」の大テーマの元にユーゴスラヴィア北部、スロヴェニア共和国の首都リュブリャーナで1989年の7月22日から29日にわたって行われた。

リュブリャーナは城のある丘を取り囲むように静かに流れるリュブニツァ川に寄りそうように広がる、古いドイツの城下町を思わせる美しい町である。今回、日本からの参加者はモスクワの長期滞在を終えたばかりの井桁貞義氏と私の二人だけであったが、私たちはモスクワと比べて豊富な品物やサービスの良さだけでなく、一年半で二〇倍にも跳上がるインフレにも驚かされた。しかし、この町の人々はインフレを気にするふうもなく、あちこちに点在する南国風のカフェには日暮れともなるといずこともなく若者たちが集まり、物静かに談笑していた

さて、シンポジウムは「ドストエフスキーと二〇世紀の歴史的現実」、「ドストエフスキーの作品における象徴とロシアの象徴主義者たち」、「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」、「ドストエフスキーと二〇世紀文学」、「二〇世紀の演劇及び芸術におけるドストエフスキー」の五つのテーマをめぐって発表や討論が行われ、ドストエフスキーが二〇世紀に与えた影響が詳細かつ、多面的に考察された。この他、夕食後には、「ドストエフスキー ――病気と芸術的創造」という題や「ドストエフスキーと黙示録」という題の二〇世紀末の現在を反映するような共同討議も持たれ、フロイトとドストエフスキーの関係を論じたものやチェルノブイリの原発事故を論じた報告者も出るなど白熱した論議が行われた。

ところで、今回も世界各地から八十名近い研究者が集ったが、ことにソ連からはG・フリードレンデル氏を始め、八名の研究者とレニングラードおよびスターラヤ・ルッサのドストエフスキー博物館の二人の館長が大挙参加した。そして、ソ連側の報告にはこれまでの伝統的な研究の他に、ドストエフスキーの作品が『われら』に及ぼした影響を論じたトゥニマーノフ氏の発表や、『悪霊』をとりあげて権力と潜称者について論じたサラースキナ女史の発表、そしてロシア・イミグラントたちの宗教的なドストエフスキー論を取り上げたベローフ氏の報告など、これまでの研究領域を大きく踏み出すものが見られた。研究者の一人は「ペレストロイカの時期だから来ることができた」と語ったが、確かにペレストロイカの動向はドストエフスキー研究にも無視しえない影響を与えているようだ。

今回は特に「ユーゴスラヴィアの日」が設けられ、「ドストエフスキーとユーゴスラヴィア文学」のテーマでユーゴの各共和国の研究者を中心に一〇本の報告が発表された。このような試みもまた各民族の独自性を尊重しようとするペレストロイカの流れと無関係ではないであろう。

だが、ペレストロイカでの歴史の見直しや個性や自由の再評価は、バルト三国を始めアルメニアなど各共和国で民族意識の昂揚をも生みだしており、前世紀の末に多くの流血と犠牲の上に民族の枠を越えた国家として成立した筈のソ連邦は、一世紀を経過して今世紀の末に再び民族の単位で分裂する危険性をすらかかえているように見えた。そして、民族問題はソ連邦にとどまらず、かつて私が遊学したことのあるブルガリアでもトルコ人の抑圧の問題が、そして開催地のユーゴでも各共和国間の対立が新聞で取り上げられていた。南スラヴの一都市で開かれたこのシンポジウムに、ソ連邦や東欧がかかえるこれらの問題がどのような形でドストエフスキーを通して論じられるのかということに私は強い関心と期待を抱いていた。そして、その期待は裏切られなかった。

シンポジウムの間中、私は多くの個性的ですぐれた名優たちがドストエフスキーという主題をめぐって演ずる劇場にまぎれこみ、筋書のない、時には思いがけぬ展開を見せる劇の観客になったような興奮につねにとらえられていた。たとえば、プログラムにはブラット湖への旅行が20ドルで組まれていたが、東欧やソ連の研究者からの強い批判が起き、ついには全員が無料で参加することになったことがある。マケドニアの学者から同じユーゴでもマケドニアとスロヴェニアでは3倍の貧富の差があり、20ドルというのは自分達にとっては大変な高額だと説明されて半信半疑だった私は、次にポーランドの研究者から彼の祖国では20ドルあれば一ケ月を裕福に暮せると聞かされて言葉を失った。びっしりと組まれたプログラムを終えた後、私たちは場所を変えてビールを片手にドストエフスキーやペレストロイカをめぐって話しつづけたが、その時すでに重大な出来事は丁度、チェーホフ劇のように舞台の外で起きていたのだろう。シンポジウムの幕がおりた八月に入ってから、今に至っても続く東欧の激動が始まったのである。

この意味で私が一番関心を抱いたのは、井桁氏が司会をされた「ドストエフスキーと二〇世紀の歴史的現実」の部会で発表したポーランドの研究者ラザリ氏の報告である。彼はドストエフスキーの「ナロードノスチ(国民性、民族性)」という概念を取り上げ、この概念が社会主義ソ連では初め否定的な形で捉えられていたが、スターリンの時代に復権し、文芸評論家たちによって重用されていたと分析したのである。氏の直後に立ったソ連側の報告者は気分を害して「ロシア語を理解しない参加者もいるようですから、私の報告は五分程で終わらせてもらいます」と語り、司会者から宥められるような一幕も生みだしたが、彼の報告は参加者の間で激しい反発や困惑を招いた。すなわち、ある者はドストエフスキーが侮辱されたと怒り、ある者はドストエフスキーの小説と評論は分けて論じるべきではないかと語った。しかし、東欧の研究者を中心に高い評価も得ていた。それは彼の指摘が現代の多民族国家ソ連や東欧圏の問題点をも突いていたからだろう。

さて、私は「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」の部会で「『罪と罰』における良心の概念の問題」という題で発表した。ベルジャーエフは「何びともドストエフスキー以前、彼ほどに良心の呵責と悔恨を研究したものはいなかった」と述べてその重要性を指摘したが、個々の作品における具体的な「良心」の概念の分析はあまりなされていないように見えたからだ。

長編小説『罪と罰』において、一見、良心は否定的な働きをしているかに見える。しかし、私たちは『罪と罰』が哲学書ではなく、小説であることに注意を払わねばならないだろう。単語「良心」は生身の体を持つ登場人物の口を通して様々な人間関係の中で語られるのである。さて、小説の冒頭で大学生は対話者に「我々は義務や良心をどう解釈しているのか」という問いを発しながら、自分の問いには答えていない。しかし、彼と同じような理論を有するラスコーリニコフは彼の言葉を補うかのように「非凡人」は「自分の内部で、良心に照らして、血を踏み越える許可を自分に与える」のだと語るのである。こうして、冒頭で発せられた大学生の問いは『罪と罰』全体を覆っており、ドストエフスキーは『罪と罰』の中で読者と共にラスコーリニコフの「良心」解釈について深い考察を行っているのである。

そしてこの点に注意する時、この長編小説では単語「良心」は様々な状況の元で何人もの人間によって語られ、しかもそれらの使用法では意味が異なっている場合もあることが明らかになる。たとえば、学生と将校との会話やラスコーリニコフとポルフィーリイとの対話の中での用法はよく知られているが、この他の緊張した会話の中でも「良心」は無視しえない役割を担っているのである。たとえば、母の手紙を読み終えたラスコーリニコフは、兄のために愛してもいない人物との結婚を承諾したドゥーニャのことを考えながら「おお、こういう場合我々は、自分の道徳的感情をも押さえつけてしまうし、自由も安逸も、はては良心までも、何もかも一切合財、ぼろ市にだしてしまうのだ」と考えている。一方、スヴィドリガイロフは、奥さんを殺したのはあなたでしょう、というラスコーリニコフに対して「自分の良心はこの点にかけては、しごく平静なものです」と語り、ドゥーニャにも彼女が兄のために自分の要求を認めて体を許しても「あなたの良心には、なにもやましいところはない」と説得している。一方、スヴィドリガイロフから兄の理論を聞いたドゥーニャは「でも、良心の呵責ってものが? そうすると、あなたは兄に道徳的な感情がまるっきりないと思っていらっしゃるんですね」と問い詰めているのである。

このように見ていく時、私たちはラスコーリニコフの「良心」の用法においても二つの対立的な概念と出会う。第一の概念はカントと同様に義務の概念と強く結びついている。それはそれ自体は何も悪いものではないが、間違った理論と結び付くことによって、ラスコーリニコフを犯罪へと追いやる。第二の概念は、道徳的感情と結び付いている。作者はラスコーリニコフの感触を正確に描き出しながら、彼の感覚が常に理性の決定に反対していたが、あまりに理性を高く評価したラスコーリニコフは自分の感情を軽蔑しそれに注意を払わなかったことを強調しているのである。

幸い私の報告は好意的な評価を受けたが、その理由の一つは冒頭で中国の事件に言及し「人が死ぬことを恐れるな。北京で十万人死んでも大丈夫だ。北京でこのような暴徒を完全に排除しなければ、将来に禍根を残す」という高官が語ったと伝えられる言葉と「……とにかく一億人の首だって、そう恐れるにはあたりません。なぜかと言って、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食い尽くしてしまいますからね」(江川卓訳)という『悪霊』のピョートルの言葉を比較しながら、ピョートルにも彼独自の良心の理論があったことを指摘したためかもしれない。

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々がその真理を主張して互いに殺し合いを始め、ついにはほんの数人を除く全人類が亡んだという、すさまじい夢をラスコーリニコフに見させる。ドストエフスキーは「良心」理解が、誤った思い込みに陥った時の危険性を鋭く批判していたのであり、残念ながら地球が何回もゆうに消滅するだけの核兵器を有しながら、イデオロギーや宗教の違い、さらには民族のちがいなどによってなおも争いを続ける「現代」の持つ危険性を鋭く予言しえていたと言えるだろう。

総会では、人事と次期の開催地の問題が議題として取り上げられ、ノイホイザー氏が会長に選出され、日本側委員には木下豊房氏が再選された。また、次回は1992年の8月1日から5日までノルウェーのオスロで、開かれることが選挙の結果決定された。会議の席では、会の財政上の困難が指摘され、機関誌(“Dostoevsky Studies”)の購買を含めた会員の援助が求められた。なお、私たちは『ドストエーフスキイ研究』第三号と最近の例会会報を手渡したが、その時、それらは日本の「ドストエーフスキイの会」が活動していることを物語ってはいても、何が書かれているかを外国人には何も伝えていないということ、つまり、丁度経済力はあるけれども何を考えているかは分からない「無口な日本人」、あるいは閉鎖的な日本文化のイメージと重なるかもしれないということを痛感した。

実際にそのことを若い研究者たちから率直な批判もされた。確かに情報の点でも単に外国の研究を紹介する段階から、日本での研究をも積極的に外国に発信する機能も持つべき時期に来ているようだ。その年度のドストエフスキー関係の論文、書物一覧を載せるだけでなくその欧文訳や、さらに一歩進めて欧文の目次や論文のレジュメもこれからは掲載してもよいようにも思える。

シンポジウムを終え飛行便を待っていた私は、帰国の前夜レニングラード出身のトゥニマーノフ氏とともに川辺を歩いたが、その折、氏は「美しい川だ」という感慨をポツリと語った。以前、とうとうたるネワの流れと比較しながら、こんな小さな川では川という感じがしないなあという感想を語っていた氏の言葉に私はなぜか、大国ソヴィエトのペレストロイカの遅々たる歩みや民族問題に心を痛めるロシア人研究者の苦悩をも感じた。

リュブリャーナのシンポジウムで私は単に様々なドストエフスキー研究者たちと知り合うことができただけでなく、改めて現代社会の相互の緊密な係わりをも実感しえたように思う。民族問題を初め様々な問題を抱えるソヴィエトや東欧がこの後どのように進んでいくのか、ドストエフスキーの問題と共に見つめていきたい。(本稿では肩書きは省略した)。

(「第100回例会報告」、『ドストエーフスキイの会会報』第111号、1989年。『場 ドストエーフスキイの会の記録』Ⅳ、1999年に再掲。HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更するとともに、文意を正確に伝えるための最低限の訂正を行った