高橋誠一郎 公式ホームページ

ブルガリア

「研究活動・前史」と「引率時の体験とIDSでの発表」など

「研究活動・前史」

都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていた。このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』や、自己と他者との深い関わりが示唆されていた『白痴』と出会ったことがロシア文学に関心を持つきっかけとなった。

 東海大学文学部文明学科ヨーロッパ専攻に入学した後、ブルガリアのソフィア大学に2年間留学して、「辺境」の「小国」と思われていたこの国で学び、東ローマ帝国と「ブルガリア帝国」との関わりを詳しく知った。

この時期に東欧の視点から西欧やロシアを見ることができたことが私の文明観の形成したばかりでなく、『坂の上の雲』などの司馬遼太郎の作品への関心を深まる遠因ともなったと思える。

 大学院文学研究科(文明研究専攻)の時期には1年間モスクワ大学に留学してドストエフスキーの初期作品の研究をした。

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「引率時の体験とIDSでの発表」
引率教員としてモスクワを訪れた1986年にはチェルノブイリ事故と遭遇して、原子爆弾や原子力発電の問題の大きさを再認識することになった。

 国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(IDS)への参加
リュブリャーナで行われた1989年の第7回大会では、『罪と罰』における「良心」の問題を発表したが、この時期には旧ユーゴスラヴィアの共和国間の対立が芽生えていた。その後の経過からは、それまで仲良く共存していた民族でも過去の問題を互いに非難し始めると戦争にまで到ることを痛感させられた。オスロで開かれた1992年の第8回大会の帰途では混乱期のロシアと遭遇した。             

1994年4月から1年間は、ロシアと日本の近代化の比較をテーマとして、イギリス・ブリストル大学のロシア学科で研究したが、この時にイギリスの近代化をも視野に入れた研究することができたことで私の視野も広がり、ほぼ私の文明観や研究方法が定まったと思える。

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「追記」

中学時代の初めに読んだ本で印象に残っているのは、武者小路実篤の作品だった。今になってみるとこのときの読書体験が、『白痴』や『イワンの馬鹿』との出会いを準備していたと思える。下村湖人の『次郎物語』を読んだことで社会的な視野が広がり、夏目漱石の『坊っちゃん』や『三四郎』、島崎藤村の『破戒』や芥川龍之介の作品などの読書へとつながった。

高校時代には文芸部に入っていたこともあり文学書は乱読したが、『論語』や『聖書』、仏教書の他にキルケゴールの『死に至る病』なども頭をひねりながら読んだ。ドストエフスキーの長編小説を読み終えた後で、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』やツルゲーネフの『その前夜』、さらにはトルストイの『戦争と平和』などを読んだことが現在の研究につながっていると思える。

(7月7日に記載、12月23日加筆)

ブルガリアのオストロフスキー劇

ブルガリアの地図オストロフスキーの像

(ブルガリアの地図、図版は「ウィキペディア」より)、(オストロフスキーの記念像、Материал из Википедии )

はじめに

最近、筆者はロシアの劇作家オストロフスキーに関心を持って調べているが、その中でブルガリアにおけるオストロフスキー劇の受容について述べたシマチョーワ氏の論文と出会い、彼の劇がブルガリアの演劇の確立と発展にかなり深く関わっていることが判った1)。 たとえば後に詳しく触れるが、ブルガリアのガリバルディとも称される独立運動の闘士レフスキ(Васил Левски,1837~1873)は1871年にオストロフスキーの歴史劇『コジマ・ザハーリチ・ミーニン』の主人公ミーニンの台詞を借りて独立への思いを訴えかけているのである。

また、ブルガリアのチェーホフ研究者С・カラコストフ氏が「ツルゲーネフの劇作法やその新しい性質は、我が国の演劇ではあまりよく認識されなかった。しかし、オストロフスキーの戯曲はとてもよく知られており、それらは70年代末から80年代に、我が国においてもチェーホフ劇が現れるのを準備した」2)と述べているように、ロシアだけでなくブルガリアにおいてもオストロフスキー劇は、チェーホフ劇への道をひらいたのである。

ロシアの劇作家オストロフスキー(А・Н・Островский,1823~1886年)は、その生涯に50本に近い創作劇と若い劇作家との多くの共作を書いた他、シェークスピアやセルバンテスなどの劇の翻訳にも力を注ぎ、さらには「ロシア劇作家・作曲家協会」の設立にも指導力を発揮して、ロシア国民劇の確立に多大な貢献をした3)。

だが、R・ヒングリーが「ロシア以外ではあまり彼については知られていない――知る価値は十分あるのに」とオストロフスキーについて書いている4)。この劇作家のことは日本でもあまり知られていないのである5)。以下、この稿ではシマチョーワ氏の論文に依りながら、ブルガリアの社会情勢やオストロフスキー劇の内容についても触れることで、ブルガリア演劇の確立にオストロフスキー劇がどのように関わったのかを明らかにしてみたい。

第一章ではまず、ブルガリアの政治的状況の変化とそれに伴う演劇の発生をロシア・ブルガリアの関係にも注意を払いながら概観し、第二章では劇団「涙と笑い」が果たした役割をオストロフスキーの劇を中心に紹介する。そして、第三章では「自由劇場」や「国民劇場」で演じられたオストロフスキー劇に光をあてながら、第一次大戦までのブルガリア演劇の発展を調べてみたい。

 

第一章  ブルガリアの独立運動とオストロフスキー劇

ブルガリア演劇の発展は永年にわたるオスマン・トルコの支配によって阻止されてきた。トルコはブルガリア人に改宗を強制することはせず、ギリシャの総主教にその権限を残したが、ギリシャの総主教はブルガリア語の公用を禁じて学校を閉鎖し、各図書館を焼き払うように命じたのだった。こうして数世紀を経ると多くのブルガリア人はかっての自国の歴史すらも知らないような事態が生まれた。それゆえ、ブルガリアの独立運動には単にトルコからの政治的な独立ばかりでなく、それに先んじて宗教的にはギリシャの総主教からの独立と、自国語で教える学校の創立が急務だったのである。以下、ブルガリア学校で対話劇が演じられ、重要な意味を果たすに至る歴史を簡単に振り返っておこう 6) 。

1762年に修道僧パイーシイ(Паисий Хилендарски,1722-1773)は『スラヴ・ブルガリア史』を書いて東ローマ帝国をも脅かすほどの力を持っていた第一次・第二次ブルガリア王国の栄光について語るとともに、「自分の民族について知ろうともせず、他国の文化や外国語に興味を持ち、自国語について配慮もせず、読むための努力もせずに、ギリシャ語で話し、自分がブルガリア人であると呼ばれることを恥ずかしく思っている」ブルガリア人がいることを激しく批判して、ブルガリア人としての自覚をうながした。彼の書は独立運動に灯をともしたのである。そして、1765年にパイシイと出会った修道僧ソフロニ(Софрони Врачански,1739~1813)は彼の著作を写本して彼の事業を継続し、それを量的に広めただけでなく質的にも深めた。

ミュシャ、ボヘミア大ミュシャ、ブルガリア

このようなパイシイやソフロニの理念は、教育者ペタル・ベロン(Петр Берон,1800-1871)によって受け継がれる。彼は1824年に最初の「ブルガリア人学校のための教科書」を書きあらわす。彼は自著の前書きで「諸外国に初めて子供たちが自国語で書かれた本を読んでいるのを見た時、私は初めて…中略…我々の子供たちがいかに無益な苦しみを被っているかを理解した」と書き、ブルガリア学校の必要性を説いた。

彼は広い知識をもつ学者で、体罰の禁止、上級生による下級生の教育、授業に遊びを取り入れることなど多くの先進的な理念を持ち、その初等読本は手軽で合理的に組織され、百科事典的な内容を持つ教科書であった。それゆえ、この一冊の教科書を用いるだけで、生徒はアルファベットや文法の知識とともに、歴史、物理、地理、自然科学、算数なども学べ、そして面白く教訓的な読みものや動物の絵も入っていたのである。この教科書は子供だけでなく、大人たちにも軽い読みものとして人気があり、40年から60年にかけて五版を重ねた。またこの教科書はその実践的な応用すなわち、ブルガリア学校の創設をも準備し、出版から11年後に最初の世俗の学校が創立される。

ところで、1806~1812年に亙る露土戦争は修道僧ソフロニに「トルコの野蛮な迫害から自分たちを救ってくれるキリスト教徒の農民たちの軍隊」であるロシアの軍隊に大きな期待を寄せさせたが、確かにこの戦争は多くのブルガリア人に同じ宗教のロシアに強い親近感を抱かさせ、これ以降ベッサラビアや南ロシアへの移住が増えた 7) 。

たとえば、後に名著『古代および現代ブルガリア人のロシア人にたいする政治的、民族学的歴史的、宗教的関係』(1829)を書くことになるユリイ・ヴェネリン(Юрий Венелин,1802~39)はリボフ市の大学で学問にたずさわり、1823年にキシニョフに滞在した期間に多くのブルガリア人移民と知り合い彼らの言語文化を知る機会を得たのである。ヴェネリンのこの本は主にブルガリアが中世ロシアに対してどのような影響をおよぼしたかを研究したものであり、「ブルガリアをスラブ古代の『古典的な土地』として考える熱狂的な親スラブ感情によって書かれていた」。

この本や著者との交際はオデッサの富裕なブルガリア人商人ヴァシル・アプリロフ(Васил Априлов,1789~1847)に決定的な影響を与えた。商人の町ガブロヴォに生まれた彼は、モスクワで教育を受けギリシア人のサークルで活動していたが、これ以降ブルガリアの民族文化と教育にたずさわるようになる。そして1835年には彼の胆入りでガブロヴォに初めての世俗学校が創立され、それはブルガリア学校の将来のモデルとなったのである。そして、1840年代に入るとブルガリアの学校では学校の教師たちが作った演劇的対話が、生徒たちによってブルガリア語で演じられ始めたが、それは独立の気運が高まってくるのと時期を同じくしてもいたのである。

1850年代に入ると社会意識の発展がブルガリアの文化生活にも一層反映され、民族の自治の理念が広がった。ロシアがトルコなどと戦ったクリミア戦争(1853~1856)はロシアの敗北にもかかわらず、バルカン半島のスラヴ人たちにロシアに対する期待を膨らませた。 クリミア戦争の直前にはラコフスキ(Георги Раковски)の指導の元に蜂起の準備が行われ、ロシア軍と共に行動する「秘密組織」が創設され、戦争中には約2000人のブルガリア人の義勇軍が参加した。1856年に戦争が終わるとサルタンの命令で全ての国民に平等の権利と信仰の自由が約束された。1860年にはブルガリア人の聖職者たちが公式にギリシャの総主教を否定し、1870年にはついにトルコ政府がブルガリア教会の独立を承認することになるのである。

又、ベネリとアプリロフの活動の結果、ブルガリア学校の教師たちの視線は強くスラヴの諸国や殊にロシアに注がれた。ヨーロッパ諸国の最新の学校教育の体験を踏まえて、ブルガリアの教育者たちは次々と設備のととのった中等学校や高等学校にあたる学校を設立していった。それらの学校ではロシアで学んだ多くの教師が働いており、その中にはオデッサで学び、後に『ブルガリア語辞典』(全6巻)を編集したナイデン・ゲロフ(Найден Геров,1823~1900)もいた。

よく知られているように、ツルゲーネフは1860年にクリミア戦争前のモスクワ大学を舞台に、自らの命をも賭けてトルコからの独立を願うブルガリアの留学生インサーロフと知性と美貌に恵まれた乙女エレーナの激しい恋を描いた『その前夜』を発表した8)。このようなブルガリア人学生のロシアへの派遣に際しては、1854年にオデッサにおかれたブルガリア主任司祭の職と1858年にモスクワに設立されたスラヴ委員会の援助が少なからぬ役割を演じた。以下、将来のブルガリアの文化と教育をになうようになる有能なブルガリア人留学生の名を列記しておこう。

マリン・ドリノフ(Малин Дринов)、歴史学者、ルーマニアのブライラに1869年に設立されたブルガリア文芸協会の会長。

コンスタンチン・ミラディノフ(Константин Миладинов,1830~1862)、1861年に兄ディミタル(Димитр Миладинов,1810~1862)と共にザグレブで『ブルガリア民謡集』を出版。

ヴァシル・ドルメフ(Васил Друмев,1840~1901)、戯曲『アッセンの殺害者、イワンコ』の作者。

リュベン・カラヴェロフ(Любен Каравелов,1834~1879)、1861年にモスクワで『ブルガリア人の民俗記録』を出版。

フリスト・ボテフ(Христо Ботев,1848~1876)、詩人、革命家 などである。

ブルガリア国民学校の教師たちは各地の社会活動の中心的役割を占め、学校だけでなく社会においても教師として深い尊敬を払われた。多くの学校には「チターリシタ(読書室)」と呼ばれる大衆教育活動のセンターが設けられ、そこでは図書館やアマチュア演劇集団が創設され、また文盲者のための日曜学校や展覧会が開かれ、集会や講義も行われたのである。それゆえ、ブルガリア人の教員の中から詩人、作家、劇作家、劇の組織者が生まれたのも偶然ではなかったのである。

こうして、50年代末から60年代始めにかけてブルガリア演劇が形成されていったが、それは学校を基盤にした学校演劇やアマチュア演劇と深く結びついていたのである。劇の上演はしばしばその組織者と反対者の間に鋭い対立を生みだし、上演禁止や劇の参加者の逮捕といった事態も起きたのだった。

ブルガリアにおける最初の翻訳劇の上演はシューメンとロチで教師C・ドブロプロドニ(Савва Доброплодни,1820~1894)とK・ピシュルカ(Кръстьо Пишурка,1823~1875)のもとでアマチュア劇団によって実現された。ブルガリア演劇の父とも呼ばれるドブリ・ヴォイニコフ(Добри Войников,1831~1878)は始め、シューメンで教師として働き、演劇活動に携わったのち、1866年に国外のブルガリア人の文化的中心地の一つルーマニアの都市ブライラでブルガリアの移民たちからなる最初の常設のアマチュア劇団を創設し、翻訳劇やオリジナル劇を上演し大成功を収めた。彼はまた、その著『文学入門』の中でプーシキンなどとともにオストロフスキーについても言及している9) 。

ブルガリアとオストロフスキー劇の出会いは、その後のブルガリア史を変えるほどのものであった。1971年3月10日のブルガリア「中央委員会」の回想によれば、委員会の指導者であったレフスキはオストロフスキーによって書かれた歴史劇『コジマ・ザハーリチ・ミーニン』(Козьма Захарьич Минин-Сухорук) の主人公ミーニンの次のような言葉で仲間に呼び掛けたのである10)。

「兄弟よ、聖なる祖国を助けよう

我々の心は石と化したのか

我らはみな、同じ母なる祖国の子供ではないのか」

この時、ブルガリアはようやく教会の独立を1870年にトルコから勝ち取っていたとはいえ、まだ完全な独立とはほど遠く、カラヴェーロフやレフスキらの革命家たちは、一斉蜂起を実現するために「委員会」を設立し、ことにブルガリアのガリバルディとも称されたレフスキは、命の危険もかえりみずブルガリアを旅して「委員会」を各地に組織していったのであった。

ミーニンは17世紀初頭のニジニ・ノヴゴロドの商人であり、彼はポーランドに占領されたモスクワを解放するために義勇軍を組織し、ポジャルスキイ公を指揮者としてポーランド軍と戦い、モスクワを解放したのだった。五幕物の歴史劇『コジマ・ザハーリチ・ミーニン』に対する評価はロシアではかならずも高くはなかったが、ツルゲーネフはドストエフスキーへの1862年3月2日の手紙で、「韻文はすばらしく、言葉は美しい」と書いていた11)。その演劇的な言葉は、遠いブルガリアでいかなる俳優よりもその役にふさわしいレフスキの口を通して語られたのである。

レフスキは解放を前に1873年に殺されるが、彼の望みは1876年のボテフによる四月蜂起、そして1877年の露土戦争への義勇軍としての参加へと受けつがれて、ついに1878年のサン・ステファノ条約でトルコ主権下の自治国を勝ち取るのである。

だが、1878年にサン・ステファノ条約で自治国を勝ち取ったかに見えたブルガリアは、その直後のベルリン条約でソフィアを首都とするブルガリア公国とプロヴディフを首都とする東ルメリヤ、そしてオスマン帝国に残されたマケドニアの三つに分割され、問題を後に残した。

1880年代になるとまだアマチュア劇の性格を有していたブルガリアの劇は次第に半ば職業的な劇の性格を持ちはじめてきた。

当時東ルメリヤの首都であったプロヴディフには、サプーノフ、ポジャーロフ、ポポフ、などが劇団員となって働き始めた「ルメリヤ劇団」が現れたが、この劇団の活動はアマチュア劇団の多くが半職業劇団へと成熟していく過程をよく示している。この劇団にはまだ職業俳優がいなかった。ブカレストの音楽院で歌と朗読のクラスを卒業し、ルーマニヤの劇場で演じたことのあるサプーノフ(Константин Сапунов,1844~1916)以外は、職業劇団の舞台に立ったこもなかったのである。それゆえこの当時の批評には「舞台に出る時はより自然で一層生き生きとした態度でなければならない。自分の役のせりふをそれに伴った身振りをし、四方を見回すことは妨げにならず、じっと一箇所に留まってはいけない」といった注意までたびたび載っていた。この劇団の主なレパートリーはブルガリアと西欧の戯曲であり、ロシアの戯曲からはツルゲーネフの『貴族団長宅の朝食』が上演されている。こうしたレパートリイは自分たちの劇団の水準を同時代の西欧の文化の水準にまで近づけようとする努力の現れと見ることができるだろう。

なお、この「ルメリヤ劇団」は1883年にフランスの劇作家デ・レリの戯曲『夫たちの隷属』によってその活動を始めたが、研究者のデルジャーヴィンはサプーノフが依ったのはオストロフスキーが翻訳かつ改作したロシア語版であると想定している 12)。すなわち、この劇は1872年にオストロフスキーの著作集に掲載されているのである。なお、オストロフスキーの改作では、登場人物や土地の名前がすべてロシア風に直されている 13)。オストロフスキーはさらに原作にはいない人物を出していが、それは註によれば恐らく役者の要求によって登場人物を一人増やしたものであろうと想定し、その登場人物は、劇の骨格を殆ど変えてはいないし、翻訳は優れたものであると記している 14)。

ところで、オストロフスキーが1886年に亡くなると、この劇作家の死はブルガリアの社会でも大きく取り上げられ、この当時の多くの論文はこの劇作家の作品の意味を普遍化し、評価を与えようと試みていた。ブルガリアにおいてオストロフスキーの作品が本格的に取り上げられるようになるのは、間もないことのように見えた。だが、ブルガリアとロシアの政治的な関係の複雑化は、オストロフスキーの劇がブルガリアの舞台で上演される時期をさらに遅らせることになる。

すなわち、ベルリン条約で意図を挫かれたロシア政府は、その後ブルガリア公国のみを自国の影響下に引き付けて置こうとしたが、それは公国のロシア化を計るものとの疑いを招き、東ルメリヤとオスマン帝国に残されたマケドニアの解放をも望むブルガリア人の激しい反発を招いた。1885年に東ルメリヤがブルガリアに合併されると、ロシア政府はこの統一に反対してブルガリア軍に残っていた将校を引き上げ、さらにはブルガリアがセルビアとの戦いに独自で勝つと親露派の将校や僧侶を利用して1886年八月にクーデターを遂行させた。だが、このクーデターは一週間の内に逆転し、スタンボロフ(Стефан Стамболов,1854~1895)を首班とする新しい反露的な政権(~1894年)が樹立されたのである。

スタンボロフが採った政策について詳しく見る余裕はないが、ここでは二つの見方を並記しておく。「ブルガリアのナショナリズム」の筆者マリン・V・ブンデフ氏はスタンボロフが民族経済の発展を促進させ、1878年に義務教育制を導入し、1889年の高等教育機関の設置や1904年のソフィア大学の設立など、ブルガリア民族の教育発展の基礎を作ったと述べている 15)。

それに対して、シマチェーワ氏は「スタンボロフが政権に就いていたこの期間、ブルガリアは陰欝な時期を苦しんだが、90年代の始めに反対勢力の新しい潮流が活発化した」と書き、高級官僚の収賄を厳しく批判していたオストロフスキーの戯曲『収入の多い地位』が、1893年に初演されて大成功を収めたのはスタンボロフ体制に対する批判として受け取られたと記している 16)。

いずれにせよ、『収入の多い地位』が初演された1893年がスタンボロフ失脚の前年であり、1894年からは再びロシアとの関係が正常化されたことを思い起こせば、この劇の上演も深くブルガリアの情勢と関わっていたことはたしかである。そして、官僚における収賄の問題を扱った『収入の多い地位』がそれだけの反響を呼んだという事実は、レフスキが民族の解放を呼び掛けた『コジマ・ザハーリチ・ミーニン=スホルーク』の抜粋を朗読してから20年余りで達成したブルガリアの政治的・経済的な発展をも反映していたと言えるだろう。

 第二章  オストロフスキー劇と劇団「涙と笑い」

ブルガリアの国民演劇の確立に重要な役割を果たしたのは、1892年に首都のソフィアに創立された劇団「涙と笑い」(1892~1904)である17)。ゴーゴリの『結婚』によって出発したこの劇団は、ゴーゴリの『検察官』、スホヴォ・コヴイリンの『クレチンスキーの結婚』、チェーホフの『熊』等を上演し、その他シェークスピアの戯曲やモリエール、シラー等の劇も上演しているが、殊にオストロフスキーの戯曲を多く上演した。オストロフスキーの名前はこの劇団「涙と笑い」と密接に結び着いていると言えるだろう。

さて、「涙と笑い」が最初に上演したオストロフスキーの創作劇は、『収入の多い地位』である。この五幕の喜劇は1857年に「ロシア談話」に発表されたが、その内容のためにロシアでは長い間上演を許可されなかった。しかし1863年に上演されるとモスクワやペテルブルグで大変評判になった。ブルガリアではこの劇は1893年10月17日に『脂っぽい小骨』という題名で初演され、演出家のR・カネリ(Радул Канели, 1868~1913)が主人公ジャードフを演じた。

ジャードフは理想家肌の若者で、オストロフスキーは彼の理想と苦悩を描き出すことで、当時のロシアの抱える問題点を鋭く衝いたのだった。むろん彼は観念的な操作のみで描くことをせず、ジャードフに純真で可愛いが、他人に影響されやすい妻のポリーナとその姉で打算的なユーリヤを、さらにそのユーリヤの夫に彼の同僚でお世辞がうまく世渡りが上手なベログーボフとその上司のユーソフを配することで登場人物たちの行動を比較し、問題点を浮彫りにしている。殊にジャードフと彼の伯父で賄賂を受け取ることを当然と見なす高級官僚ヴイシネーフスキイの対立と論争はこの劇の主題を明確にしている。

この劇はブルガリアでも大成功を収めたが当時の劇評を読むと、題名だけでなく内容の点でもかなりの変更があったことが判る。「疑いもなく、カネリの演ずるジャードフは何よりもまず、完全な強い性格である。ジャードフが自分も皆と同じようにあるべきか否かをためらう場面をカネリが全部削ったのは偶然ではない。カネリの演ずるジャードフはどのような試練がその生活に待ち受けていようと自分の信念を曲げはしないのである。彼には自分を取り巻いているユーソフとかベログーボフといった輩やあらゆる下劣さを無関心に見つめることはその信念からもできないのである」18)。

すなわち、オストロフスキーの劇ではジャードフは第三幕に入ると既に自分の苦悩を友人に打ち明け、その後も迷い続け、第五幕ではついに折れて「収入の多い地位」を求めて伯父の元に謝りに行くのだが、ブルガリアの舞台ではそういった迷いは一掃されていたのである。ここにも新興ブルガリアの一途な性格が現れていると見るのは行き過ぎだろうか。

ペテルブルグの雑誌「演劇と芸術」の特派員は「戯曲はこれまでブルガリアの演劇にはなかったセンセーションを巻き起こし、何回もの大入りを出したのだ。この原因はまず、これまでブルガリアの舞台で幅をきかせていた喜劇や悲劇の大げさなモノローグに変わる、オストロフスキーの生き生きとした活気のある言葉の魅力だろう」と伝えている19)。こうして1893年の劇『収入の多い地位』の上演はブルガリアの社会的・文化的な出来事となった。多くのアマチュア劇団や半職業劇団はこの戯曲を自分たちのレパートリーに取り入れた。ソフィアに続いてルーセ、ガブロヴォ、ラーズグラト、ローム、カルノバートやその他の都市でも上演され、ジャードフのモノローグはブルガリアの若者たちの合言葉となったのである。

『収入の多い地位』で成功を収めた劇団「涙と笑い」はそれ以降毎年のように、そして多い年には1年に2本もオストロフスキーの戯曲を上演することになり、10年間にオストロフスキーの10の戯曲がブルガリアの舞台で上演されることになる。以下、戯曲の題名とブルガリアでの初演の年度を書き出してみよう。

1893年  『収入の多い地位』(Доходное место)

1894年  『貧しさは罪にあらず』(Бедность не порок)

『持参金のない娘』(Бесприданница)

1895年  『あぶく銭』(Бешеные деньги)

『雷雨』(Гроза)

1899年  『ワシリーサ・メレーンチエワ』(Василиса Мелентьева)

1900年  『幸せな日』(Счастливый день)

『求めよ、さらば与えられん――バリザミーノフの結婚』(За чем пойдёшь,то и найдёшь――Женитьба Бальзаминова)

1901年  『狼と羊』(Волки и овцы)

1902年  『罪なき罪人』(Без вины виноватые)

 

ところで、1905年以降は1909年までしばらく間があいており、しかも上演作品の傾向が違っているが、これは1905年を境に主な演出家が異なっているためだろう。前半の『あぶく銭』以外の四本はすべてカネリが演出し、ことに『持参金のない娘』は彼自身で翻訳した。R・カネリは演劇の教育を受けた最初のブルガリア人俳優であり、彼はレニングラードで演劇コースを終えた後、1893年に劇団「涙と笑い」に入団した。彼が舞台人としてのデビューしたジャードフの役については既に一部劇評を引用したが、それはもっぱら演出家として彼が『収入の多い地位』をどのように捉えたかを物語るものである。俳優としての彼にかかわる別の感想も引用しておこう。ブルガリア人民共和国の人民芸術家タチョ・タネフはこう書いている。「カネリの演ずるジャードフが声をあげて泣き涙ながらに生活における不正への怒りに燃えた時、また彼が高級官僚は主に泥棒とペテン師たちからなり立っていると激しく糾弾した時、私の若い記憶に強く残った。それゆえ、今でも当時の観客が一様に拍手かっさいしたように彼に拍手を送りたいという望みが生じるのである」 20)。以下、簡単に『あぶく銭』をも含めてこれらの戯曲をみておきたい。カネリの演出の傾向がある程度はっきりする筈である。

『収入の多い地位』に続いて上演された『貧しさは罪にあらず』(1854年、括弧内は戯曲が発表された年。以下同じ))では、モスクワの商人の家庭を舞台にやはり貧しいが真面目な手代と商人の娘リュボーフィの愛を縦糸に描かれている。しかし、リュボーフィの父親の横暴さのために彼女は無理矢理、大金持ちの老人に嫁がされそうになる。しかし、そこに伯父のリュービムがあらわれ、老人の過去を暴露して彼らの愛を救うのである。ことに彼の「リュビーム・トルツォーフは酔っぱらいにはちがいない。だが、てめえらよりはまっとうな人間だ。さあ道を開けてくれ、リュビーム・トルツォーフ様のお通りだ」というたんかは観客をわかせた 21)。シマチョーワはこの劇について何もふれてないがその後もオストロフスキーの劇が続いたのを見ると、ブルガリアの舞台でもやはり好評を博したものと思われる。

第三番目の『持参金のない娘』(1869年)は一転してオストロフスキー後期の作品であり、第五番目の『雷雨』(1860年)と同時に女主人公の死で終る。ここでオストロフスキーは持参金がないゆえに憧れの男性と結婚できない女性の苦悩をリアルに描き出し、他方でやはり貧しさのゆえに真面目ではありながら様々のコンプレックスから抜け切れぬ男カランドゥイシェフの悲劇を描いている。殊にカランドゥイシェフの形象は多くの点でドストエフスキーの登場人物と共通するものがあり、ロシアの舞台では大変な話題となった。

第四の『あぶく銭』は1870年に発表されたものであるが、ここには既に後年の『持参金のない娘』を予想させるものがいくつかある。たとえば、女主人公のリリヤもラリーサと同じように美しくはあるが、持参金がなく、自分の美貌でなんとか良い玉のこしに乗りたいと考えている。又、彼女の母親もラリーサの母親のように、ただ娘に安穏な生活をさせようと願うだけの母親なのある。それゆえ、父からの仕送りを受け取ることができなくなったと知ると、リリヤは「美貌は価値があるのよ。心配しなくてもいいわ。美男子は少ないけど、お金持ちのばかなら沢山いるわ」 22)といって、地方出で、風貌はさえないが金鉱をもっているといわれるサーヴァの求婚に同意するのである。こうして、『持参金のない娘』と同様にこの戯曲でも彼らの結婚は始めから破滅を予感させるのである。そして、事実、夫サーヴァが彼女を甘やかさず、質素な生活を営むと「私は蝶と同じで、金粉がないと生きられないのよ…最大の罪は貧しさだわ。これまで私少しはコケティッシュに振る舞ってきたけど、どれだけ恥知らずに行動ができるか自分を試してみるわ」 と母に宣言して大金持ちと思われる二人の男性に愛想をふりまき、愛人になることもいとわないと告げるのだ23)。

だが、この劇ではオストロフスキーはどんでん返しを用意している。すなわち、一見華やかに暮らしていた二人の紳士が共に借金で生活していたこと、それに反して質素な生活を送っていたサーヴァが大儲けをしたことが第五幕で明らかになるのだ。こうして劇は夫をあらためて見直したリリヤが、彼の言葉にしたがって彼の村で義母につかえながら生活を学ぼうと決意するところで幕になる。

チェーホフは後に『桜の園』において貴族の夫人と元農奴だった商人とを対置し、彼女の領地が彼に買われるという筋を用意して、貴族の時代から商人の時代へと移った時代の変化を鮮明に描きだしたが、オストロフスキーは既にこの劇においてその徴候を見事にとらえていたと言えるだろう。借金生活者の一人テリャーテフの「今では金(かね)もより賢くなり、仕事の出来る人間の所に全部行くんだ。以前は金はもっと愚かだったがね。我々の所にあるのは、あぶく銭ばかりだ。汗水たらして得た金は賢く、そいつらはおとなしくおさまっているが、我々がそいつらを招いても来はしない」というセリフはこの戯曲の主題をよく物語っていると言えるだろう24)。

同じ年に上演された『雷雨』はオストロフスキーの代表作である。この作品でオストロフスキーはボルガ川沿岸の架空の町カリーノフを舞台に、横暴で無知な上に迷信深いロシアの小都市の商人たちの実態をあからさまに描き出し、美しい風景や雷雨という激しい自然現象と共に女主人公カテリーナの悲劇を生き生きと伝えている。

すなわち、嫁ぐまで「自由な小鳥のような日を送っていた」カテリーナの姑カバノーワは、うわべは信心深い女性を装ってはいるが、ことあるごとにねちねちと彼女をいびる。だが、夫のチーホンは母に頭が上がらず、親の目を盗んではうさばらしに酒を飲みに行くのだった。こうして、冒頭から劇はカテリーナの心理的な苦悩を描き出して激しい緊張の中にある。二週間の商用での旅を新たに言いつけられたチーホンは、旅行を止めるか、せめて一緒に連れていって下さいと懇願するカテリーナの頼みを振り切って、足枷のない自由な日々を夢見て命の洗濯とばかり、いさんで出かけていってしまう。

そして、彼女の恐れは事実になる。彼女の気持ちを理解しない夫がいなくなった空虚なカテリーナの心に、モスクワで立派な教育を受けながら両親の突然の死によって横暴な伯父にこき使われて働いている同じ境遇の若者ボリースに対する思いがつのる。一方、義理の妹ワルワーラは、母親に隠れて夜毎に恋人クドリャーシュとのあいびきに出ていたが、カテリーナがひそかにボリースに思いを寄せていることを知ると彼女を焚き付け木戸の鍵を渡すのだった。カテリーナは激しく迷うが結局ボリースと会ってしまい、その後も密会を重ねる。しかし、夫が帰宅すると彼女は罪の意識に悩まされ、雷雨の日にすべてを告白し、数日後に岸からボルガ川に身を投げてしまうのである。

この戯曲が1860年に発表されると大変な評判を呼んだ。たとえば、ドブロリューボフは「闇の王国の一筋の光」を書いて、主人公カテリーナの形象に注目し、オストロフスキーがこの作品で横暴で無知な親たちに対する彼女の反抗を通して未来の光を描いたと高く評価した。この劇がブルガリアではどのような評価を受けたのかを知ることのできる資料は手元にないが、演劇評論家のカラコストフはキルコフ(Васил Кирков,1870~1931)が演じたボリースには「柔軟さ、やさしさ、リリシズム」があったと指摘するとともに、「同時にキルコフは、貴族の息子であり、余計者でもあるボリースが本質的には、はっきりした自分の意志を持っていないことも明らかにした」と述べている 25)。

なお、この劇は1902年にも再演されたが、この時キルコフ(ボリース)、キーロフ(クリーギン)、キルチェフ(チーホン)、M・カネリ(ワルワーラ)、サラフォフ(クドリャーシュ)等のブルガリア人俳優に混じって客演したロシアの女優マサロワは1904年の回想録の中で次のように書いている。「ブルガリアのスラヴの友人の中では、外国にいるという感じがしません。私はロシア語で演じ、他の人達はブルガリア語で演じました。それによる困難さは観客にも、俳優たちにもありませんでした。なぜならば、ブルガリア人はほとんどみんながロシア語知っているからです。あらゆるスラヴの言葉の中でブルガリア語は我々の言葉に一番似ています」。 26)

これら五本のレパートリーとその内容に言及したシマチョーワは、この劇団の最初の指導者ナルブロフ27)、と「カネリの貢献はレアリスチックな芸術の原則の確立を意図的に追求したことである」という言葉を裏付けているように見える 28)。ころで、後半の1899年以降再び連続してオストロフスキー劇が上演されるが、これはクロアチアの第一級の悲劇俳優であるアダム・マンドローヴィチ(Адам Мандрович,1839~1912)が監督となった事と、ロシアの演劇学校でレンスキー(А.П.Ленскии,1847~1908)やダヴィドフ(В.Н.Давыдов,1849~1925)の元で学んだブルガリア人の生徒たちが祖国に戻ったことと深く関係している。

たとえば、第六番目の戯曲『ワシリーサ・メレーンチエワ』(1868年)はレンスキーの教え子であるブデフスカ(Адриана Будевска,1878~1955)やキーロフ(Гено Киров,1866~1944)によって演じられ、キーロフはこの戯曲の翻訳もしている。

レンスキーはシェークスピア劇のすぐれた俳優としての定評があるが、オストロフスキー劇にもしばしば出演し、彼が教えていたモスクワ演劇学校でも、18年間、試験の劇のレパートリーは常にオストロフスキーの戯曲であり、オストロフスキーの戯曲の一部や全体が34編演じられた。オストロフスキーもフェドートフの劇『狼』を見た折りに「重苦しい、不愉快な戯曲だが演技はよかった。レンスキーのメーキャップは上出来で、自分の役もすべて立派にこなしていた」と1886年の日記に記し29)、また別の箇所では「サドフスキー、レンスキー、ルィバコフその他の若い俳優たちは私を父親のように慕ってくれています」と書いている30)。

ところで、キーロフ等が選んだ『ワシリーサ・メレーンチエワ』はオストロフスキーの歴史劇の一つで、イワン雷帝の皇后アンナの一介の女官にすぎなかったワシリーサが、自分を恋する若者コルィチェフを使って皇后アンナを陥れて修道院に追いやり、自ら妃になるまでの野望とその結末を描いている。オストロフスキーの意気込みに反して不人気だった一連の歴史劇とは異なり、この劇ではワシリーサを始め登場人物の心理と性格がくっきりと描き出され、その劇的な筋と共に評判を呼んだ。演劇学校のブルガリア人学生たちは、フェドートワが主役を演じたマールイ劇場の劇を見た筈である。

ブルガリアではキーロフがイワン雷帝を、ブデフスカがワシリーサを演じた他、マリュータ・スクラートフをやはりレンスキーの愛弟子ガンチェフが、彼女の恋人コルィチェフをV・キルコフが演じている。こうしてロシアの演劇学校で学んだブルガリア人俳優が多く出演したこの劇はそれまでのブルガリアの演技方法を多くの点で打ち破っており劇団に新しい時代が来たことを印象付けた。新聞の劇評は「劇団の成功は予想をはるかに越えるほどであった。実際オストロフスキーの劇そのものは、取り立てていうべき程のものではないが、俳優たちのすぐれた演技こそが多くの観客の関心を生み、彼らの大成功を呼んだという事を証明している」と述べている。

『ワシリーサ・メレーンチエワ』の上演から4ケ月後に、やはりキーロフの翻訳になる『幸せな日』の初演が行われた。この戯曲はオストロフスキーが若い劇作家ソロヴィヨーフ(Н.Я.Соловьев,1845~1898)と共に書き上げ、1877年に発表した三幕ものの喜劇である。

ゴーゴリは戯曲『検察官』の中で、おしのびで検察官が現われるということを知った地方都市のお偉方の右往左往を見事に描き出したが、この戯曲でも、日頃賄賂を受け取ったり、かってに課税したりしていた郵便局長が部下に訴えられ監査を受けるに至る騒ぎが主題になっている。だが、この作品で主要な役を演じるのは局長の対照的な二人の娘、リーポチカとナースチャである。やり手の母親は家族を救ってくれる一切の望みを、美しく、魅惑的で悪知恵も働くナースチャにかける。そして、事実彼女は持ち前の愛敬と機知で、まず出入簿を調べている若い官吏の気をそそり、また監査官にも「あなたの個人秘書になりたいわ」と取り入って局長を解雇しようと思っていた彼の気をやすやすと変えてしまうのである。一方、母親から「寝ることとピローグを作ることだけしか、才能がない」と言われ 31)、何ら期待を抱かれていないリーポチカは実は創造性のない生活にあきあきしており裁縫師にでもなって働きたいと願い、彼女の恋人の地方医は「私は医学が好きですし、この学問の未来を信じています」と述べて、私達にチェーホフの主人公たちを想起させるのである 32)。

こうして、この劇はナースチャを通して地方官僚の腐敗ぶりを機知に富んだ対話で描き出す一方で、リーポチカとその恋人の医者の形象を通してロシアの可能性をも描き出すことに成功しているのである。

この劇ではナースチャを演じたブデフスカの演技が光った。この役を彼女はレンスキーの指導で準備したのだった。1897年に彼女は「稽古をしていた時、レンスキーは満足し、とても上機嫌でしたが、これはよい徴候です」と手紙で知らせている。だが、この劇自体は評判にはならず、2回演じられただけであった。

同じ年に上演された『求めよ、さらば与えられん――バリザミーノフの結婚』(1863年)は、金持ちの未亡人に見染められることを期待して町中を足を棒にして歩き回っている少し間の抜けた男を主人公にした戯曲の三番目にあたる作品で、雑誌『時代』に掲載された。ドストエフスキーはこの作品について「私の率直で遠慮のない感想をとの御要望ですが、傑作の一語に尽きます」とオストロフスキーへの手紙に書き、この劇の登場人物が皆生彩に富んでいることを取り上げるとともに「主人公が非常に生き生きとして、現実的であり、今ではもう一生全場面が頭から消えることはないと思われる程です」と記している33)。

この劇はА・マンドロヴィチの演出で上演された。彼は単に名悲劇俳優であったばかりでなく、すぐれた教育者でもあり、彼の活動は若い役者たちのレベルを引き上げ、また古い役者たちの芸域を広めたのだった。

この翌年には『狼と羊』(1875年)が上演された。この劇に登場する女地主ムルザヴェツカヤも又、『雷雨』の姑カバノーワと同じように、うわべは信心深い女性のふりをしているが、実際は未亡人クパーヴィナの経営上の無知につけこんで、彼女の夫が莫大な借金を背負っていたような手紙を代言人に偽造させ、なんとか示談にもち込んで、自分の甥を彼女の夫にして、広大な領地をものにしようと企んでいるのだ。

このような企みは、クパーヴィナが秘かに思いを寄せていた夫の若い友人ベルクートフの機知であやうく回避され、彼らはめでたく結婚する。だが、この劇では思慮深くかつ大胆なベルクートフも肯定的な人物とは描かれていない。彼は友人に「いや、僕はもう久しく目をつけていたのだ」と語り、クパーヴィナさんにかい、という問いに対しては「いいや、この領地にだ」と告白し、もちろん彼女にもだがねと付け加えるのである。彼は又、既に彼女の領地に鉄道が敷かれるという決定がなされていることをどこからか聞き込んでおり、又、彼女の領地が美しいだけでなく「ぶどう酒の醸造工場」を建てるにも適している事を見越している。そして彼は結婚の承諾と同時にクパーヴィナの領地の管理権をもゆずり受けてしまうのである。

偽造文書をでっちあげた元管財人のチュグノーフは、「私やあなたがなんで狼です。私どもはにわとりです。鳩です。一粒ずつついばんで決して腹一杯にはなりません。あの連中こそ狼です。あの連中はいっぺんにぐっとのみこんでしまうんです」とぼやく 34)。確かにオストロフスキーがこの劇で描き出したベルクートフは、法律の裏をかいてこそこそともうける小悪党や、古いタイプの暴君型女地主をも堂々と手玉に取ってしまう、新しいタイプの経済人であるといえるだろう。

ブルガリアの上演では、ズラタレヴァが演ずる信心深さを装った暴君的な女地主ムルザヴェツカヤの形象を中心に、彼女の軽薄な甥の役をキーロフが、クパーヴィナの隣人で人の良い地主ルイニャーエフをガーネフが演じた他、ベルクーロフの役をキルチェフが演じている。俳優たちはオストロフスキー劇の本質を理解し、風刺的な舞台を作り上げた。

この劇が上演されると激しい賛否両論が巻き起こった。すなわち、この劇の風刺性が高く評価された反面、この劇に『収入の多い地位』の主人公ジャードフのモノローグのような台詞を期待していた多くの観客を失望させ、肯定的な主人公の欠如が鋭く批判されたのである。それと共に、シマチョーワはこの戯曲に作者のペシミズムを読み取った劇評を紹介しながら、「オストロフスキーの劇作の暴露主義的な傾向は、西欧のメロドラマ的傾向に慣れていた、批評家たちを驚かしたのである」と説明している 35)。

劇団「涙と笑い」が上演した最後のオストロフスキー劇は、А・キルチェフの翻訳した『罪なき罪人』(1884年)である。この劇は1904年にこの劇団が解散した後も、劇団「自由劇場」のレパートリーとして受け継がれることになるので、次章で改めて論じたい。

1903年の次のような劇評は、劇団「涙と笑い」を通してオストロフスキー劇がどのような位置を獲得していたかを如実に物語っている。

「ロシアの劇作家オストロフスキーはブルガリアの演劇や知識人の間でほとんど身内の者となった。ブルガリアでは他のいかなる劇作家も、オストロフスキー程の尊敬を受けてはいない。その理由は多く挙げられるが、その内の一つは決定的なものである。それはオストロフスキーがその戯曲の中で示した筋や作中人物が、我々の現実に非常に近く、その中から汲み取られたように感じられるからである」 36)。

 

第三章  オストロフスキー劇からチェーホフ劇へ

1904年に行われたいくつかの劇団の再編と統一の結果(その中には劇団「涙と笑い」もあった)、ソフィアに国家予算で運営されるブルガリア国民劇場が創立された。だが、主に新しいレパートリーの選択をめぐり、劇場の指導に満足しなかった劇団の有能な俳優サラフォフとキルチェフが劇団を離れ、さらに1905年にはガンチェフ、ストイチェフ、スネジナ、さらにはブデフスカなどの優れた俳優たちが参加してヴァルナに「自由劇場」を組織した。

この劇団はオストロフスキーの戯曲『罪なき罪人』と『森林』を上演したが、この「自由劇場」を何よりも特徴付けるのはチェーホフの劇『ワーニャ伯父さん』(1904)と『かもめ』(1895)を上演したことだろう。チェーホフのヴォードヴィルは既に劇団「涙と笑い」も『熊』(1901)や『結婚申し込み』(1904)といったヴォードヴィルを上演し、また国民劇場も『ワーニャ伯父さん』を取りあげてはいた。しかし「チェーホフの劇作法は国民劇場の舞台でではなく、1905年から1906年にかけて存続した自由劇場の舞台において最も深く習得された」のである 37)。

こうして、ブルガリアにおける劇団「涙と笑い」から「自由劇場」へという過程は、オストロフスキーの家と呼ばれた「マールイ劇場」ややはりオストロフスキーの劇を多く取り上げたアレクサンドリンスキイ劇場からチェーホフ劇の「モスクワ芸術座」へと移行したロシアの流れとほぼ重なるように見える。

この点で興味深いのは、アタナス・キルチェフ(Атанас Кирчев,1879-1912)の存在だろう。彼はヴァルナのアマチュア劇団で演技を始めるが、後にペテルブルグの演劇学校のダヴィドフで学び、またアレクサンドリンスキイ劇場でダヴィドフ、ヴァルラーモヴァ、サーヴィナ等の名優の芸を見る機会を得た。キルチェフのオストロフスキーにたいする敬愛には彼の師ダヴィドフからの影響が見られる。ダヴィドフはオストロフスキー劇のすぐれた俳優の一人であり、その生涯にオストロフスキー劇の80以上の役を演じた。オストロフスキーも彼について「ダヴィドフは非常に才能に恵まれ、芸術を愛し情熱的に仕えている」と高く彼の才能と情熱を評価している 38)。

1907年から翌年にかけて、キルチェフは再びロシアに戻り、今度はモスクワ芸術座で学び、殊にスタニスラフスキイから強い影響を受けた。残念ながら彼は働き盛りの33歳で亡くなったが、その生涯に多くの仕事をなし遂げ、ブルガリアにおけるオストロフスキーからチェーホフへの橋渡しをしたように見える。キルチェフにはオストロフスキーの『罪なき罪人』、『森林』や『温かみのない光』(Светит,да не греет)などの戯曲の翻訳があるが、面白いことにこれらの劇はいずれもどこかの点でチェーホフの劇を予想させるものがある。

たとえば、劇団「涙と笑い」だけでなく「自由劇場」でも上演されたオストロフスキーの劇『罪なき罪人』は、その女主人公に女優がなっており、チェーホフの劇『かもめ』を幾分思い起こさせもするのである。

よく知られているように『かもめ』では大女優の母とその息子で小説家のトリゴーリンの心理的な葛藤が描かれている他、トリゴーリンに恋して一子までもうけるが、彼に捨てられ子供も失ってしまうが、念願の女優になり、地方の劇場をまわりながらも、女優としての使命に燃えて生きていく若い女性ニーナの形象もくっきりと描かれている。同じように、1884年に書かれた『罪なき罪人』でも大女優と息子との心理的な葛藤が劇の重要な位置を占めており、この女主人公クルチーニナも、若い官吏との間に子供までもうけながら、立身出世を望む彼に捨てられ、さらにあずけていた子供も病死したという知らせを受け、心の痛みをいやすために女優になり、内地を回るのである。

だが、『罪なき罪人』では息子が死んだという知らせは、実は彼女との縁を完全に断ち切るために恋人が考え出した策略で、死にかけていた息子は元気を取り戻し子供のない夫婦に預けられていたのだ。こうして劇は、再び故郷に大女優として戻ってきた彼女と、養父にも死に別れ厳しい人生の試練を経て粗野で乱暴だが才能ある俳優に育ってきた息子の出会いを中心に進んでいき、大団円で彼女はその若い俳優が自分の息子であることを知るのである。

全体にチェーホフの劇と比べると幾分センチメンタルな感は否めない。しかし、妻の遺産で町の名士となり市長に立候補しよういう野望を持ち、彼女の存在が邪魔で早く追い出そうとするかつての恋人ムーロフを横に見ながら、息子に「あなたの父親は探すには値しない人よ…中略…あなたは立派な俳優になるわ、名字は誇りを持って私の名字を名乗るの。それは他のどんな名字にもひけをとらないわ」という彼女の最後のモノローグには苦労しながらもようやく自分の道を見つけた女優の自信と誇りが響いている 39)。

そして、このような俳優の賛歌はすでに1871年の名作『森林』(Лес)のなかでも高らかに響いているのである。主人公のネスチャストリーフツェフは貴族の家に生まれながら、両親に早く死なれ、今では旅芸人に身を落としている。自分の育て主の伯母の領地のそばを通りかかった彼は、15年ぶりに会いたいと思い立ち退役軍人と身分を偽り、同僚の役者を従者にしたてて訪れる。

だが、そこで彼が見たのはうわべでは信心深い女性を装いながら、遠い親戚の娘アクシーニヤの婿にと呼びよせた若い軽薄な男に恋をし、アクシーニヤを領地から追い出そうとするが、彼女には持参金を付けてやるのも惜しい打算的な伯母の姿であり、彼女の元で苦しむアクシーニヤの姿だった。絶望したアクシーニヤが湖に入水しようとするのを助けた彼は、せめて千ルーブルの持参金をつけてあげるようにと裕福な伯母に懇願する。しかし冷たく拒絶された彼は自分の権利として譲り受けた有り金全部をアクシーニヤの持参金に譲り、貴族たちを前に「道化師ですって? いいや我々は俳優です。高潔な俳優です。道化師はあなた方です。…中略…助けるときには有り金を全部だしても助けます。でも、あなたたちは…」 という有名なモノローグを述べて、再び徒歩で旅に出るのである40)。

殊に最後の彼のモノローグは男と女の違いはあれ、「わたしはかもめ。いいえ、そうじゃない…中略…私はもう本物の女優なの。……わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの」という戯曲『かもめ』のニーナのセリフと重なる部分が多いように見える 41)。

なお、この「自由劇場」のレパートリイには、チェーホフやオストロフスキーらの戯曲のほかにはゴーリキーの『どん底』やドストエフスキーの『白痴』の劇化、そして、西欧の作家ではイプセンの『海の夫人』、ハウプトマンの『織工』が入っていた。これらの戯曲はこの集団の傾向をはっきりと物語っているだろう。

「自由劇場」の舞台では上演されなかったが、やはりキルチェフの訳で第一次世界大戦後に「国民劇場」の舞台で演じられた『温かみのない光』についても簡単に見ておきたい。これはオストロフスキーが若い劇作家ソロヴィヨーフと共に1881年に書き上げた戯曲であり、美しく才能がありながら暇を持て余している若い女地主が森林を売り払うために一時的に領地に戻ってき、暇つぶしのために、生真面目な若者を誘って楽しい日々を過すが、その間に初めは彼女に冷たく振る舞っていた青年が次第に夢中になり、それを知った青年の恋人が自殺し、責任を感じた若者も自殺するという暗い内容の戯曲であり、ここには俳優も登場しない。

しかし地主が森林を売るために一時的に領地を訪れるという筋はチェーホフの『桜の園』や『ワーニャ伯父さん』にも共通のものであり、殊に、セレブリャコーフ教授の若い妻エレーナはその美貌でワーニャや医師アーストロフを魅惑して夢中にさせ、アーストロフに「あなたはこの世で、何ひとつする仕事のないひとだ」と批判させながら、同時に「僕はすっかりのぼせあがって、まるひと月というもの何ひとつやらなかった」と言わさしめているのである42)。

シマチョーワ氏の論文によりながら、その後の歩みを簡単に見ておきたい。1906年に「国民劇場」にチェコ人のシュマハ(Йозев Шмаха,1845~1915)が新しい演出家になり「自由劇場」の要求が入れられた。それに伴って「自由劇場」は解散し、俳優たちは国民劇場に戻った。国民劇場の歩みはこれ以降も平坦なものではなく危機や創作能力の低下した時も経験したが、創立された時からこの劇場はずっと国の文化生活の中核を担ったといえるだろう。「国民劇場」は初めから国家予算で運営されたが、1907年には劇場の新館の開場式が荘重に取り行われた。レパートリイの面では「涙と笑い」の舞台にかけられた『狼と羊』が残っていたが、さらに、1907年から翌年にかけて『収入の多い地位』と『森林』が上演された。

キルチェフは、1908年2月16日付けの手紙で劇の成功を師モロゾフ(П.О.Морозов,ペテルブルグ演劇学校の教師)の息子に次のように伝えている。

「今週私達の『国民劇場』の舞台で『森林』と『収入の多い地位』が相次いで上演されたことをとり急ぎお伝えします。しかも両戯曲は未曽有の成功を収めました。大変な大成功でした。『森林』は既に超満員の劇場で演じられ、これからも続演されます。一方、『収入の多い地位』も多くの観客を集め続けています。『森林』ではネスチャストリーフツェフの役を、翻訳者でもある私が演じ、スチャストリーフツェフの役はやはりダヴィドフの弟子のР.ストイツェフが演じました。数日中に第二幕の一場面の写真をお送りします。『収入の多い地位』ではジャードフの役をК・サラフォフが、ユーソフの役をН・ガンチェフが演じています。(二人共レンスキーの教え子です)。この週間を『オストロフスキーの祝典』とすら呼んでもいい位です」。

劇『森林』はロシアの演出家イワノフスキーの演出で上演され、キルチェフとストイチェフの他には女地主ライーサの役をスネージナが、アクシーニヤの役をストイチェフの夫人ストイチェワが、そして彼女の恋人ピョートルの役をキーロフ、さらに彼の頑固な父の役をガンチェフが演じた。

この時演じられた『収入の多い地位』は、この劇団の歴史の中で一時期を画するものとなり、劇評の一つは初日の熱狂を次のように伝えている。「観客は戯曲のすばらしい演技と舞台で彼らの眼前に示された形象に歓喜した。現在の体制が舞台の観客の前にありありと描き出されたことに、観客は全員が一致して満足の気ちを何回も表現したのだった。観客が等しくした感激は、鳴り止まぬ嵐のような拍手となってあらわれ、その場にいあわせたすべての者を感動させた」。この劇は翌年のマケドニアへの客演のレパートリーにも取り入れられた。サラフォフとガンチェフ以外ではストヤノフ夫妻がヴィシーネフスキイ夫妻の役を、ベログーボフをキーロフが演じている。

同じく1908年にはゲオルギー・ゲー(Георгий Ге)のドラマ劇団がブルガリアで公演したが、そのレパートリーの中には『罪なき罪人』も入っていた。この劇はブルガリアの観客の間でも大評判となったが、「演劇と芸術」の特派員ベルベンコは、解放者であるロシア人の劇団がブルガリア人の間で温かく迎えられたことを紹介し、さらに、クルニチナを演じたホルムスカヤは「見事に自分の役を演じて非常な能力を発揮した。…中略…涙が流れ出たが、私達はそれを恥とはしなかった」というブルガリアの劇評を紹介している。この劇はソフィアの他にプロヴディフ、トゥルノヴォ、ヴァルナの各都市でも演じられた。

また、1901年から1912年にかけてブルガリアには、俳優と監督を兼ねたイコノモフによって指導される強力な移動劇団「現代劇場」があった。この劇場のポスターには『収入の多い地位』と『森林』の二つが載っていた。1968年に雑誌『演劇』にはこの劇場の俳優アナスタソフの日記が載ったが、そこにはこの劇場が1911~1912演劇年度に14のレパートリイを持ち、171回の上演をしたが、そのうちの26回が『森林』であったことが記されている。

以上、簡単にではあるが、ブルガリア演劇の発達におけるオストロフスキー劇の役割を一瞥した。シマチョーワ氏はブルガリアにおいてオストロフスキー劇での関心が生まれたのは、劇場の組織への関心からばかりでなく、演技の問題とも当然深くかかわっていると指摘し、オストロフスキー劇の演技者たちは、単にロシアの著名な俳優たちから演技をまなんだのではなく、オストロフスキー劇の登場人物たちのきわめて独自なタイプや、彼らの行動の鋭い心理的な動機付けも俳優を育て、彼らの専門的な芸に磨きをかけて、俳優たちの人間や文化に対する理解を深めたのである、と記している43)。

実際、俳優を主人公にしたオストロフスキーの劇は、彼らの苦しみや人道的なモノローグを通して単に観客に温かい人間的な感情を呼び起こしただけではなく、演じる側の俳優にも職業としての自覚や誇りを持たせたことも確かであると思う。たとえば絶望して身を投げようとしたアクシーニヤに女優になるようにすすめ「ここではお前の泣き叫ぶ声にも答えはない。しかし舞台ではお前の一粒の涙に何千もの目から涙が落ちるのだ」と語って一緒に巡業しようと説く、ネスチャストリーフツェフの言葉は説得力に富んでいる44)。

こうして、オストロフスキー劇はブルガリア近代演劇の成立に大きな役割を果したが、第一次世界大戦が始まるとブルガリアはドイツと提携し、1915年にロシアの使節団はソフィアを離れた。それと共に「国民劇場」で6年間演出家の地位にいたР・イワノフスキーも又、ロシアに帰国した。長い空白の期間を経て、ブルガリアにおけるオストロフスキー劇は新しい段階を迎える45)。

ブルガリア、ソフィア大学ブルガリアSt_Clement_of_Ohrid

(ブルガリア・ソフィア大学と聖クリメントオフリドスキー出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 

1.Т.А.Симачева,′Островский в Болгарии′,Литературное наследство,т.88.А.Н.Островский, кн.2 Наука,Москва,1974,   с.351~372

2.Стефан Каракостов,′Драматургията на Чехов на Българската сцена′, ″А.П.Чехов,1860~1960″,Българска Академия на науките, София,1961,с.54

3.Александр Николаевич Островский,Полное собрание сочинений в двенадцати томах,Москва, Искусство,1973~1980.

4.R・ヒングリー、『一九世紀ロシアの作家と社会』川端香男里訳、中公文庫、昭和59年,220頁。

5.中村喜和・灰谷慶三・島田陽著『ロシア文学案内――世界文学シリーズ』(朝日出版社、昭和52年)によれば以下の6つの戯曲が日本語に訳されている。

『収入ある地位』(「世界古典文庫」) 石山正三訳 日本評論社 昭22

『賢者の抜け目』(「世界戯曲全集」24) 熊沢復六訳 其刊行会  昭2

『どんな賢者にもぬかりはある』(「世界古典文庫」)  石山正三訳 日本評論社 昭24

『狼と羊』(世界文庫)、 石山正三訳 弘文堂   昭23

『森林』(「世界戯曲全集」24)、熊沢復六訳 其刊行会  昭2

『嵐』(「近代劇大系」16) 、米川正夫訳 其刊行会  大13

『嵐』(「ロシア文学全集」35)、米川正夫訳 修道社   昭34

『雷雨』(「世界戯曲全集」23)、矢住利雄訳 其刊行会  昭3

『雷雨』(「近代劇全集」27)、山内封介訳 第一書房  昭3

『雷雨』(ロシア・ソビエト文学全集1)、米川正夫訳、平凡社  昭41

『雪姫』(「世界童話大系」20)、松田衛訳  其刊行会  大13

『雪姫』(「世界少年少女文学全集」31)、池田豊訳  創元社   昭29

 

6.第二章は主として次の本を参考にしてこの時期のブルガリア史を概観した。

Ⅰ.マリン・V・ブンデフ,「ブルガリアのナショナリズム」,『東欧のナショナリズム――歴史と現在』,287~367頁,刀水書房,1981.

Ⅱ.″Болгарская литература,хрестоматия″,Высшая школа,Москва,1987.

Ⅲ.В.Д.Андреев,″История болгарской литературы,Высшая школа,Москва,1987.

Ⅳ.″Кратка българска енциклопедия  в 5 тома,Бьлгарска Академия на науките, София,1963.

7.1812年のブカレスト条約以降ベッサラビア(現在のモルダビア社会主義共和国)  には約4万のブルガリア人が移住した。

また、南ロシアのオデッサにも「オスマン・トルコの鎖から逃れて何千ものブルガリア人が移民して」、「19世紀の中頃に、オデッサはブルガリア国外の文化の中心の一つとなった」。オデッサにはその一室がブルガリア文学に当てられている国立文学博物館がある。その博物館が発行している博物館案内から、ブルガリアとのかかわりのある部分を要約して引用しておこう。「オデッサにはブルガリア史のロシア人研究家Ю・ヴェネリと、В・チェプリャコフが住んでいた。1841年にはブルガリアの教育や出版活動の様々な面について述べたアプリロフの『ブルガリアの教育のありかた』という本がここで出版され、1840年代にオデッサはトルコからの独立運動に参加したブルガリア人たちの避難所となった。Г・ラコフスキもここに住み、『ブルガリア語の手引き』などを出版したが、それらはブルガリアやロシアの若者の間で大評判となった。作家イヴァン・ヴァーゾフ(Иван Вазов,1850~1921)も又オデッサに住み、短編や1876年の4月蜂起を招いた長編『くびきの下に』の一部を書き上げた。後に彼は『私は約一年間オデッサに追放になったが、この追放の期間に感謝している』と書いている。1881年にオデッサで学んだアレコ・コンスタンチノフ(Алеко Константинов,1863~1897)はプーシキン、シェフチェンコ、レールモントフ等の作品をブルガリア語に訳した」(Одесский государственный литературный  музей: Путеводитель,Одесса,Маяк,1986,стр.131~133)

8.ツルゲーネフの『その前夜』とオストロフスキーの戯曲などとドストエフスキーの新しい理念の模索との関わりについては、拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2000年、72~74頁参照。『その前夜』の構造と『白夜』の構造との比較については、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年、192~195頁参照。

9.Д.Войников,″Ръководство за словесност″Виена,1874.с.127,より引用。

なお、Велчо Велчевはで、シシコフ(Т.Н.Шишков)もオストロフスキーに言及していると指摘している。(Българо-руски литературни взаимоотношения през ⅩⅨ-ⅩⅩ в、с.45、с.47)

10.この戯曲の抜粋は1877年にブルガリアで、作品集『スラヴの兄弟』にロシア語で掲載された。

11.Островский А.Н.,Полное собрание сочинений в двенадцати томах. Москва,Искусство,1973~1980. т.6,стр.568.(以下、オストロフスキーの全集は巻数とページ数のみを記す)

12.К.Державин.Болгарский театр.М.Л.,1950,стр.95.

13.″Рабство Мужей″,Полное собрание сочинений,т.9,стр.568.

14.Там же,стр.612.

15.マリン・V・ブンデフ,前掲論文,329頁

16.Т.Симачева,там же,стр.352

17.なお、この「涙と笑い」という名前とはブルガリア演劇史の中で度々出会うが、1909年から1930年にかけて様々な時期に5つの劇団がこの名前で存在していた。

18.Т.Танев. Спомени от първите години.《Театър》,1954,№12,стр.29

19.А.В.Каменец-Бежоева.Театр в Болгарии,《Театр и искусство》,1906,№38,стр.581

20.Л.Атанасова. Островски и столичната драматическа трупа 《Сълза и смях》 пред 90те години на миналия век.

21.Т.1,стр.374.

22.Т.3,стр.192.

23.Т.3,стр.210.

24.Т.3,стр.238.

25.С.Каракостов.Васил Кирков.-В кн.:《Годишник на Висшия институт за театрално изкуство 《Кръсто Сарафов》,т.2,1957、 София,1958,стр.19.

26.В.М.Масалова. На родной чужбине.-《Петербугский дневник театрала》,1904,№17,стр.7.

27.Васил Наллбуров,1863~1893。スタラ・ザゴラ市で生まれ、ニコラエフ市で教育をうけ、1890年から首都オペラ・ドラマ劇団の俳優となり、後に劇団「涙と笑い」の支配人となり、ゴーゴリの『検察官』、『結婚』を上演した。また、俳優としてもシラーの『たくらみと恋』のヴルム,ドルメフの『アッセンの殺害者、イワンコ』のイサクなどの役を演じた。

28.Т.Симачева,там же,стр.352.

29.Т.10,стр.432.

30.Т.10,стр.248.

31.Т.8,стр.11.

32.Т.8,стр.16.

33.Ф・М・Достоевский,Полное собрание сочинений,т.28,стр.23.なお、拙論「ドストエーフスキイとオストロフスキー(2)」東海大学紀要,第10輯,1990年、94~95頁参照。

34.Т.4,стр.

35.Т.Симачева,там же,стр.354

36.《Софийски ведомости》,1903,№146.стр.3.

37.Стефан Каракостов,′Драматургията на Чехов на Българската сцена′,″А.П.Чехов 1860~1960″,Българска Академия на науки

те, София,1961,с.54.

38.Записка по поводу проекта 《Правил о премиях императорских театров за драматические произвдения》,Полное собрание сочинений,т.10, стр.224.

39.Т.5,стр.424.

40.Т.3,стр.337.

41.А・П・Чехов,″Чайка″,Избранные произведения в 3 т,т.3 стр.428.(チェーホフ、『かもめ』、神西清訳、新潮文庫、97~98頁)。

42.А・П・Чехов,″Дядя Ваня″,Избранные произведения в 3 т,.т.3 стр.470~471. (チェーホフ、『ワーニャ伯父さん』、神西清訳、新潮文庫、184~185頁)。 43.Т.Симачева,там же,стр.360

44.Т.3,стр.313.

45.1967年にブルガリアには39の劇場があった。その内28がドラマ劇場、人形劇場が8箇所、残りの3つが軽演劇場である。

 

本稿の執筆に際しては、下記の日本語文献も参考にさせて頂いた。

『ロシヤ十九世紀文学史』上・下、岡沢秀虎著 早稲田大学出版部、昭51

『ソビエト文学史』 マークス・スローニム著 池田健太郎・中村喜和訳、新潮社、昭51

『ロシア文学の理想と現実』 P・クロポトキン著 高杉一郎訳、岩波書店、昭59

『ロシア・ソヴェート文学史』、昇曙夢著、昭51

『ロシア文学史』 木村彰一、北垣信行、池田健太郎 明治書院、昭47

『ロシア文学史』 川端香男里著  岩波全書、昭61

『ロシヤ文学案内』 金子幸彦著 岩波文庫、昭36

なお、本論の執筆に際しては小船井文司教授より貴重なご助言を頂いた。

        (『バルカン・小アジア研究』第16号、1990年)