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芥川龍之介の自殺と『若き日の詩人たちの肖像』――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』終章より

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徳富蘇峰の「教育改革」論

徳冨蘆花の「謀叛論」の講演から強い影響を受けていた成瀬正一が、芥川龍之介などの『新思潮』の同人をさそって、第一次世界大戦中に反戦論を唱えていたロマン・ロランの『トルストイ』を翻訳して一九一六(大正五)年に出版すると、それは新聞にも紹介記事が載るなどの大きな反響を呼んだ*22。

 このような若者たちの動きに立ちふさがったのが、『軍人勅諭』や『教育勅語』の発布によって、「国権」の強化を果たした山県有朋の後ろ盾を得て、軍部とのつながりも強めていた徳富蘇峰だった*23。すなわち、彼は一九一六年に『大正の青年と帝国の前途』を著して、「我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」とし、大正青年に共通する特色は、「彼ら一切の青年を統一す可き、中心信条」がないことであると断定した。そして、相変わらず自分の新聞を『国民新聞』と名づけつつも、「されば帝国臣民の教育は、愛国教育を以て、先務とせざる可らず」として、「国民」を「臣民」と位置づけた蘇峰は、「日本魂」を「忠君愛国の精神」であるとし、青年が「日本帝国に全身を」献げるような「教育改革」の実施を求めたのである*24。

 しかもここで西欧列強の「二重性」を批判しつつ、「白閥を打破し、黄種を興起」することが、「我が日本帝国の使命にして、大和民族の天職」であると強調した蘇峰は、大正青年の精神のたるみは「全国皆兵の精神」が、「我が大正の青年に徹底」していないためだとし、「尚武の気象を長養するには、各学校を通して、兵式操練」をするだけでなく、「学校をして兵営の気分を帯ばしめ」ることが必要だと記して「世界的大戦争」への覚悟を求めていた*25。

 一方、第一次世界大戦の激戦に巻きこまれることのなかった日本は、「アジアのドイツ領や権益をおさえ」、「海軍はドイツ領南洋諸島を占領」することによって、第一次世界大戦による利益を手中に収めていた*26。それゆえ、国際的な危機を強調することで国民に戦争への意識を普及しようとした徳富蘇峰の主張は、政府の高官や軍人に受け入れられたこともあり、急速に「教育改革」の理念として国策としても取り入れられた。

 たとえば、昭和一二年に文部省から発行された『国体の本義』では、大正デモクラシーを想定しながら、その後も「欧米文化輸入の勢いは依然として盛んで」、「今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起」したとして、これらの混乱を収めるべき原則として『教育勅語』の意義が強調された*27。

 さらに文部省教学局は、『国体の本義解説叢書』の一冊として『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子を発行して、「日本の国体」においては、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」として、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調したウヴァーロフ的な「教育改革」を断行するようになるのである*28。

 一八七九年に書いた『民情一新』で福沢諭吉は、西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」

を見るのを禁じただけでなく、「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世治下の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じていたが、日露戦争に勝った後の日本は「暗黒の三〇年」と呼ばれるニコライ一世治下のロシア帝国ときわめて似た相貌を示すようになっていたのである*29。

 芥川龍之介の『河童』と狂気の問題

 しかも、日本やロシアのように西欧とは異なる「伝統」と持つ国家において、「国権」が強調されるとき、国の方針に反対する者を「非愛国的」と見なすような傾向も生まれる。

 このような大正から昭和にかけての悲劇を象徴するような出来事が、第一高等学校から東京帝国大学へと進み、第四次『新思潮』の同人として短篇『鼻』で漱石の激賞を受け、華々しく文壇にデビューした芥川龍之介(一八九二~一九二七)の自殺であろう。

 評論家の関口安義氏は、芥川が第一高等学校在学中に蘆花の「謀叛論」を聞いたという実証はできないとしながらも、親友井川恭や成瀬正一などが受けた強い印象の記述をとおしてその影響を見ている*30。たしかに成瀬正一によるロマン・ロランの『トルストイ』の翻訳にもかかわっていた龍之介は、その早すぎる晩年には『将軍』一九二二(大正一一)年、『桃太郎』(一九二四)などの短篇で「自国の正義」を主張して、国民を戦争へと駆り立てることを厳しく批判していたのである。

 しかし、一九二五(大正一四)年に公布された治安維持法について司馬は、国家そのものが投網やかすみ網のようになっていたとし、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と鋭く批判した*31。このような状況下で書かれたのが、一九二七年に書かれた『歯車』である。ドストエフスキーにおける「分身」のテーマに注目した井桁貞義氏は、ここで芥川が『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』に言及しつつ、自己の分裂の危機を描いていると指摘している*32さらに同じ年に書かれた『河童』で芥川は、「ある精神病院の患者」が語った話を記したという形で、「河童の国を借りて取り上げられる諸問題は、文明・風俗習慣・生誕・恋愛・家族制度・芸術・官憲の横暴・資本主義・法律・自殺・宗教」などの問題を取りあげていた。

 このことを指摘した評論家の関口安義氏は、河童の国の音楽会で警察により「演奏禁止」が命じられる場面をとおして、芥川が「当時の日本の官憲による言論・表現への諸検閲制度を暗に皮肉っている」とした*33。

 実際、語り手の〈僕〉に、「そんな検閲は乱暴じゃありませんか?」と河童の国を批判させた芥川は、河童のトックに「何、どの国の検閲よりもかえって進歩している位ですよ。たとえば日本を御覧なさい。現につい一月ばかり前にも……」と反論させながら、途中で沈黙させていたのである*34。

 しかも、芥川は河童の国では、「労働者の見方をする新聞さえも実は資本家ゲエルに(さらにはゲエル夫人に)支配されている」とも書いていた。日露戦争に際してはこれを批判する者たちが「平民新聞」を創刊していたが、すでに昭和の初期には「国家」が行う戦争を批判するような「言論の自由」さえもが失われ始めていた。

 事実、芥川が自殺した翌年の一九二八(昭和三)年に出された『統帥参考』という参謀本部の将校か陸軍大学校の学生しか見ることのできない「極秘中の極秘の本」に、「国が戦争になった場合、統帥機関が日本国民を統治する」と記されていた。さらに一九三五(昭和一〇)年には、それまで高等教育機関で使われていた美濃部達吉の著作『憲法講義』が発禁処分となって、「国民」の権利を保障する盾の役目を果たしていた「憲法」は完全に形骸化されるにいたった。こうして、明治時代に「国民」となったはずの日本の若者が、「臣民」として「国家」が遂行する「聖戦」に学徒動員などで戦場に駆り出される可能性が開かれることになったのである*35。

 「言論・表現の自由を阻害することは、あってはならないと芥川は考えていた」とした関口氏は、「『将軍』への伏せ字問題その他で、彼自身が体験してきたやりきれない日本の現実であった」と続けている。このことは日本でも若きドストエフスキーが生きた「暗黒の三〇年」と同じように、まともな形で正論を唱えれば「狂人」とされるので、「狂人の手記」という虚構の形でしか正論を語れない時代が、すぐ近くまで来ていたことを明確に物語っているだろう。

 『若き日の詩人たちの肖像』と『白夜』

 日露両国の近代化の問題を『坂の上の雲』などの長編小説で深く考察した作家の司馬遼太郎は、堀田善衛や宮崎駿と行った鼎談で、芥川龍之介が自殺した後で中野重治など同人雑誌『驢馬』に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」と指摘している*36。そして司馬は、「後世の人たち」は「その理由がよくわからないでしょう」が、「私は年代がさがるので一度もなったことはないけれども」と断りつつも、「昭和初年、多くの知識青年が左翼になった」「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けていたのである。

 つまり、「国家」への忠誠を求められる一方、自国の欠点に対する批判や軍部の方針を批判することも禁じられていた「昭和初期の日本」では、「出口」が見いだせないなかで、感受性豊かな青年たちが極端な「国粋思想」を批判する左翼的な思想に共感を示すようになったのである。

 検閲の厳しかった昭和初期の暗い「別国」の時代に青春を過ごした司馬遼太郎の言葉は、自由思想すらも厳しく規制されていたニコライ一世の「暗黒の三〇年」の時期に、なぜドストエフスキーがペトラシェフスキー事件に関与するようになったのかをも説明し得ているであろう。

 国内の劣悪な政治状況を放置したまま「為政者」にではなく「国民」に「道徳」を課し、これを批判する者を厳しく罰したこのような政治体制は、ロシアの場合と同じように「欧化と国粋」の対立の激化をも招くことになったのである。

 さらに芥川は「河童」において、「職工屠殺法」によって河童の国では首になった職工を、肉にし、食糧に用いるということが法律で認められていると語る河童のゲエルに、語り手の〈僕〉にその非道さを批判させるが、しかしその後でゲエルに、「あなたの国でも第四階級の娘たちは売笑婦になってゐるではありませんか? 職工の肉を食ふことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ」と答えさせていた。

 すなわち、江戸時代には比較的安定した生活をしてきた農民たちは、明治維新後に地租税などが導入されたことや、さらに度重なる戦争による軍備費増大のための増税や徴兵により貧困化が進んだ。ことに冷害などの被害にあった東北地方などでは、家族のために娘を売らねばならなくなる農家も出てきており、「富国強兵」策により莫大な富を手にした軍需産業や政治家などの一部の特権階級と民衆との間に極端な格差が生まれていた。このような時代の状況が、幕末の日本と同じように二・二六事件などの軍事クーデターやテロを多発させる遠因になったと言っても過言ではないだろう。

 大学受験のために上京した日に二・二六事件に遭遇した若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、堀田善衛はラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、ニコライ一世治下の厳しい検閲制度と迫り来る戦争の重圧の中で描かれた『白夜』の冒頭の美しい文章に何度も言及している*37。

 この作品で堀田は烈しい拷問によって苦しんだいわゆる「左翼」の若者たちや、イデオロギー的には異なりながらも彼らに共感を示して「言論の自由」のために文筆活動を行っていた主人公の若者の姿をとおして、昭和初期の暗い時代を活き活きと描いていたのである。

 しかもここで堀田善衛は、厳しい言論弾圧のもとに「右傾化」する時勢の中でドストエフスキーの読み方を変えていった愛読者の姿も描いているが、次節で見るように、太平洋戦争へと突入する時期に『罪と罰』を西欧的な世界への挑戦の書物とする見方が日本で高まったのも、このような政治の流れと無関係ではない*38。

 『罪と罰』の解釈と「大東亜共栄圏」

 評論家の松本健一氏は真珠湾攻撃の翌年に出版された堀場正夫の『英雄と祭典』にふれて、彼が『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしたことを紹介している。

 むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、明らかな「誤読」であると言える。しかし、堀場の「誤読」には、時代的な背景もあった。すなわち、ニーチェによるドストエフスキー理解を踏まえたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人とした*39。

 このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですら、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在になっていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定したのであった*40。それは「近代人が近代に克つのは近代によってである」として、欧米との戦争を評価した小林の近代観から導かれたものでもあった*41。

(拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』成文社、2007年、終章より。転載に際してはわかりやすいように、一部改訂を行った)。

 

狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって

はじめに

今年は堀田善衞(1919~1998)の生誕100周年、没後20年にあたるが、堀田はキューバ危機後の1963年8月1日に朝日新聞に掲載された「原民喜の文学と現代」で、被爆した原が「私はあの原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落して来た人間のやうな気持ちがするのであった」と書いていることに注意を向けてこう記していた*1。

「われわれは現在、二つの死にはさまれて生きているようなものなのかも知れない。一つは各人の内部にあってゆっくりと成長し成熟しつつある死であり、もう一つは核弾頭の大群のなかですでに蓄積されている『慌しい無造作』な死である」。

 後に堀田が東京大空襲の体験を踏まえて、『方丈記私記』を書いていることを考えるならば、彼が原民喜の詩をどのように捉えていたかがこの短い文章からも伝わってくる。昨年は「核兵器禁止条約」が結ばれ、ICANにノーベル平和賞が与えられるなど新しい流れが生まれたが、その一方で、『原子力科学者会報』は核戦争の懸念の高まりやトランプ米大統領の「予測不可能性」などを理由に、今年の「終末時計」の時刻がついに1953年と同じ残り2分になったと発表した。

「核の危険性」や地球環境を全く理解していないトランプ大統領が核の使用についても言及したことから、再び、核兵器を中心とした軍拡が進むことは明白で、世界はふたたび「人類滅亡」の危機を迎えているといっても過言ではないと思える。

この意味で注目したいのは、原爆投下の先導を務めた天候観測機の機長で帰国すると英雄として歓迎されたが、後に罪の意識から自殺をはかったばかりでなく、何度も強盗事件を起こして自らを「犯罪者」としようとしたことで、狂人とされた原爆パイロットがいたことである。 

本稿ではそのイーザリー元少佐をモデルとした堀田善衞の中編小説『零から数えて』と長編小説『審判』を、小林秀雄のドストエフスキー論やエッセー「良心」を視野に入れつつ、『白痴』と『罪と罰』との関連で分析することによりこれらの作品の深みと現代性を明らかにしたい。 (本稿では敬称は略し、『堀田善衞全集』からの引用に関しては、本文中のかっこ内に巻数と頁を示す)。

,中編小説『零から数えて』とドストエフスキーの『白痴』

宮本研の戯曲『ザ・パイロット』(1964)は、戦争の「英雄」が起こした犯罪がアメリカの地域社会にもたらした困惑を判事の言葉をとおして見事に描き出している*2。それゆえ、堀田の作品を考察する前にこの場面を簡単に見ておきたい。

「被告クリストファ・リビングストンは、三つの点においてわが地域社会に名声を博しておる人物であります。一つは、第二次大戦における特殊な勲功により名誉勲章を授けられた当市の英雄であること。二つは、にもかかわらず、被告は前後七回にわたる強盗事件を惹起していること。三つは、それら七回にわたる犯罪のすベてについて、法廷においてつねに、みずから、無罪をではなく有罪を主張していることであります」。

そして、判事はこの裁判が「特殊に困難な判断を陪審員諸君に要求していること」を強調したうえで、「本件の有罪ないし無罪を評決するにあたって、アメリカ合衆国ならびにテキサス州の正義と良心を十二分に示されるよう期待します。神のお恵みが当法廷と諸君の上にありますように」と結んでいた*3。

このような事件を起こして狂人とされていた原爆パイロットをモデルとして堀田善衞が最初に書いたのが、1959年11月から翌年の2月まで『文学界』に連載された中編小説「零から数えて」であり、1960年6月に文藝春秋から単行本として刊行された(5・393~394)。

4つの章から構成されているこの中編小説の最初の節には「雨ノナカヲアルイテイルダケダヨ」という題名が付けられているが、読者は冒頭から現実的な世界ではなく、奇妙な世界へと引きずり込まれる。

すなわち、そこでは「高い、二階までぶちぬきの空間で」、ゆらりゆらりと「チカチカと神経を刺すような光り方」をしながらゆっくりと揺れるように廻っている「モビルまたはモビレ」の様子だけでなく、壁に掛けられている八枚の巨大な「インカ帝国の相撲とりの絵」について長々と描かれているのである(5・171~172)。

しかも、ハイ・ファイ・ステレオからはそれまでのモーツァルトの音楽にかわって「――ジャスト・ウォーキング・イン・ザ・レイン/ ――雨ノナカヲアルイテイルダケダヨ」というフレーズが何度も繰り返される音楽が流れてくる。

このような異空間ともいうべき風天堂という名の喫茶店に、主人公が待ち合わせていた女性の代わりに、友人のFがデーヴィッドという得体の知れない西洋人を連れて現れ、さらに原爆被爆者だった恩師が首吊り自殺したことによって到着が遅れていたY女がようやく到着するところから物語が動き出す。

重要な登場人物が頭文字で記されることには最初、強い違和感を覚えたが、この節ばかりでなくその後の章でも何度となく繰り返されている「雨ノナカヲアルイテイルダケダヨ」というフレーズにも違和感を覚えながら読み進める内に既視感を思えた。評論家の寺田透が指摘していたように、ドストエフスキーの『白痴』では、エパンチン家の次女アデライーダの婚約者は単にS公爵とのみ記されており、その後では謎の「貧しき騎士」についての議論が記されていたのである*4。

一方、戦時中に書いた卒論で「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を論じていた堀田善衞も*5、その手法を意図的に用いていることで、読者の注意をデーヴィッドに向けようとしているように思えた。なぜならば、彼を紹介したFの言葉を記したあとで、主人公は「こいつひとり、ばかに具体的な名前を持っている。デーヴィッドか、つまりダビデだな」という感想を抱き、Y子が「誰かに追われてでもいるの、兇状持ちなの?」と尋ねてもデーヴィッドは明確に答えなかったので、この男の正体はわからないままに物語は進められていくからである(5・178~187)。

解説者の佐々木基一は冒頭の記述などを例に挙げながら、「作者自身にも整理のつかない精神の揺れ」などが「作品を溷濁させている」と書き(5・387、390)、研究者の鈴木昭一も平野謙の言葉を引用しながら、「直截な描写」をさける「推理小説的手法がかなり目ざわり」であると批判している*6。

たしかに、朝鮮戦争が勃発する緊迫した時期を描いて芥川賞を受賞した堀田の短編「広場の孤独」には、主人公の木垣が訳した探偵小説『さまよう悪魔』のことが記されているが*7、年譜によればそれが同じ1951年に堀田によって翻訳されたアガサ・クリスティーの『白昼の悪魔』(早川書房)のもじりであることがわかる*8。堀田は1957年にも『A・B・C・殺人事件』(東京創元社)を翻訳刊行しているので、このような批判は事実の一端を穿っているだろう*9。

しかし、主人公を「謎」の人物としながら書き進めるという方法に注目するとき、デーヴィッドの形象から強く連想されるのは、スイスで精神の治療を受けていたが莫大な遺産を譲り受けたことで、人々の役に立ちたいと祖国に戻り、初対面の相手にギロチンによる処刑の非人道性を語るなど奇矯な言動で人々を驚かせたムィシキンである。

堀田善衞も後に受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まる自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を連載し、そこでは「外界」から「入って」来たムイシュキンは、混乱したロシアの欲望のウズに巻き込まれて、「その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの癲狂院へもどらざるをえない」と記していた*10。

一方、 “A”の恐怖を人々に語りかけるデーヴィッドも登場人物のみどりからは「あの人はキリストだ」と思われるが(5・251)、最後には「月光党」という謎の団体が行うパーティで、青い光を浴びて揺れながら光っている「アルミのモビルあるいはモビレ」の垂れ下がる舞台で、演説をしている最中に「スパイ機関」か「気違い病院の人」たちに連行されるのである(5・301~305)。

中編小説『零から数えて』では普通は数字で示される各章の節に、第一章ではA,B,Cが、第2章では小文字でα、β、γが、後半の第3章と第4章には最後の文字であるX、Y,Zと、χ、φ、ωが付けられている。非常に奇妙な節の番号の付け方だが、デーヴィッドに「水素爆撃(ヘル・ボーム)のおちる前に、わたしは、インセクトになりたい、と思います」と語らせた堀田は、デーヴィッドに「……5,4,3,2、1……0」と英語でカウントをとらせている(5・187)。

原子爆弾のことが“A”で示唆されていることも考えるならば、『零から数えて』という人を食ったような題名が付けられているこの長編小説にわざわざギリシャ語のアルファベットで節の番号が記されているのは、「私はアルファでありオメガである」という新約聖書の「ヨハネ黙示録」第22章13節に記された神ヤハウェの言葉を示唆しつつ、“A”が開発された後に来る「世界の終末」を読者に連想させようとしていたからだと思える。

事実、広島と長崎に原爆が落とされた2年後の1947年には、アメリカの科学誌『原子力科学者会報』が世界終末時計を発表して、その時刻がすでに終末の七分前であることに注意を促していたが、中編小説『零から数えて』が刊行されてから2年後に起きたキューバ危機では、核戦争による「世界の終わり」の可能性さえも語られていた。原爆パイロットをモデルとしたこの長編小説からは、目の前の経済的な繁栄に惑わされて、核の時代の現実から目を背けている日本人の歴史認識に対する厳しい問いかけが感じられる。

2,小林秀雄のエッセー「良心」と堀田善衞の長編小説『審判』

やはりイーザリー少佐をモデルとした長編小説「審判」は1960年1月から1963年3月号まで短い休載をはさみながら雑誌『世界』に連載されたが、不思議なのは「零から数えて」の連載が文藝春秋の発行する雑誌『文学界』でまだ続いていた時期に堀田善衞がこの長編小説を書き始めていることである。

おそらくその理由は、中編小説「零から数えて」の初回と同じ1959年11月に、小林秀雄が雑誌『文藝春秋』に発表したエッセーで、「良心は、はっきりと命令もしないし、強制もしまい。本居宣長が、見破っていたように、恐らく、良心とは、理智ではなく情なのである」と書き、「思想の高邁を是認するものは思想であり、行為の卑劣残酷に堪えないものは感情である」と記していたことと深く関わっているのではないかと思える*11。

なぜならば、ドストエフスキーが1866年に発表した長編小説『罪と罰』では、ギリシャ語などで「共―知」を意味する「良心」の問題が深く考察されていたが*12、小林秀雄は言論に対する弾圧が厳しくなり始めていた1933年に書いた『罪と罰』論で、核心となる良心の問題にはとんどふれずに「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と断言していたからである*13。

しかも、戦時中の発言などについて鋭く問いただした本多秋五にたいして小林は、「自分は黙って事件に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい」と啖呵を切っていた*14。

しかし、大岡昇平との対談で埴谷雄高が明かしているように「それは、小林さんは座談会のときは言ってなくて、あとで書いたもの」だったのであり、大岡も「あとでほかの人がいってることを先にとるのはいけないね」と語り、さらに「黙って事件に処してはいないよ、あいつ(笑)」と語っていた*15。

一方、1962年8月に『ヒロシマわが罪と罰』という題で翻訳書が公刊された原爆パイロット・イーザリーと精神科医アンデルスとの往復書簡の原題は、“Off limits für das Gewissen(良心の立ち入り禁止)”であった*16。

この題名からはこの著書の主要なテーマが、原爆投下についての主人公の「良心の呵責」の問題であることが明確に示されており、先に見たように『罪と罰』でも「良心」の問題が主要なテーマの一つであったことを想起するならば、「ヒロシマわが罪と罰」という邦題も適訳であったといえるだろう。

小林秀雄も1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談では、原子爆弾について「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語り、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ」と続けていた*17。

エッセー「良心」で長編小説『悪霊』の主題となるネチャーエフ事件に言及して「もし見る人に良心が働かなければ、ネチャアエフ自身におけるが如く、問題とはなり得ない。良心の針は秘められている。だから、私達は皆ひそかにひとり悩むのだ」と記しつつ、原爆の非人道性を鋭く指摘したイーザリーの言動については完全に沈黙している小林の「良心」理解が問われるだろう。

一方、中国人の知識人の視点から南京虐殺を描いた長編小説『時間』を1955年に刊行していた堀田は、この長編小説『審判』でもイーザリーをモデルにしたポール・リボートだけでなく、戦時中に中国大陸で上官に命じられて老婆を虐殺した生々しい記憶に苦しんで自殺を試み、離人症にもかかっていた高木恭助の深い苦悩をも描いている(6・56~62)。

原爆の問題を直視する原民喜の文学についての考察も深めていた堀田善衞は、1954年のエッセーで「裁判を扱う偉大な作品」として『ベニスの商人』『赤と黒』『復活』などとともに『罪と罰』を上げ、さらに「キリストもまた、裁判について痛烈なことばをのこし、また自ら十字架にかかっている」と記していた*18。そのことに留意するならば、『審判』という題名は、主人公の「良心の呵責」を描いたドストエフスキーの『罪と罰』を強く意識して付けられていたように思える。

実際、第一部第一章の題名は「一つの物語の終わりから」と付けられているが、『罪と罰』の愛読者ならば、この題名が「ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語」と始まり、「しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった」と結ばれるエピローグの最後の文章から取られていることがわかるだろう*19。

しかも、自分の理論を信じて高利貸しの老婆とその義理の妹を殺したラスコーリニコフが「復活」するのが流刑先の厳寒の地であるシベリアだったことを思い起こすならば(6・18~21)、原爆パイロットのポール・リボートが「『日本から』来た」冷寒地研究家の出(いで)教授と出会ったグリーンランドも、「ひとりの人間が徐々に更生していく物語」の出発点となるはずだった。

しかし、日本に行くことに「ほとんど全部を賭け」ていたポールが「対ソ作戦用の、主としてシベリアを目指した寒冷地研究」で有名な出教授の洋館に寄寓したことで、彼は安全保障条約が調印される前年の1959年の騒然とした日本の政治・社会状況に巻き込まれることになる。

同居することを条件にこの洋館を姉夫婦に売りつけた高木恭助とともに住む教授の家族構成も、日本の社会状況をきちんと見渡すことができるように工夫がなされている。すなわち、出教授の母の郁子は明治の自由民権運動の体験者であり、大学でドイツを中心とした国際関係史を教えている講師の長男・信夫もアメリカを批判的に見ているが、女優となった長女雪見子には外務大臣の愛人がおり、次女の唐見子は卒業と同時に家を出て玩具輸出商に勤めており、教養学部の学生である次男の吉備彦は、安保条約に対する反対するデモにも参加しているのである。

そのことが「倶会一処(くえいっしょ)」と題された第2部の第8章ではカーニバル的な手法で、ポールが主賓として招かれた晩餐会に派手好きな妻の弓子のところに女官長となった女友達が訪れ、さらに安全保障条約に反対するデモに参加して瀕死の重傷を負った吉備彦の友人・柳村がタクシーで運ばれてくるという緊迫した場面を描くことを可能にしている(6・181~200)。

こうして、『罪と罰』が当時の帝政ロシアの政治・社会状況をきわめて正確に映し出していたように、この長編小説も「戦争の最高責任者の一人であった人間」が総理大臣になり、原爆投下の罪をアメリカ政府に問うことなく、むしろその意向に迎合するかのように核武装をも示唆するようになっていた1959年の騒然とした日本の政治・社会状況を見事に描いている。

さらに、『罪と罰』では自首の決意をしたラスコーリニコフが、自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と妹に反駁したと描かれているが、「キリストは一人か」と題された『審判』の第2部第14章では、恭助との対話でポールに平時には「人を殺した人は、罰せられなければ」ならないが、戦争の場合は国家が国民に「敵国民を殺せ」と命令するが、「殺した人の罪を、国家は決して背負って」くれませんと語らせている(6・260)。

このポールの言葉からは著者がラスコーリニコフの重たい問いをも受け継いでいることが感じられるが、その反面、多くのテーマを盛り込んだために登場人物の掘り下げが不十分でリアリティに乏しく、長編小説全体の印象が散漫になったという感はぬぐえない。

ただ、長編小説『審判』の最後近くで堀田はポールを追って広島を訪れた恭助に、「もし原子爆弾や水素爆弾が悪であり否定し廃止すべきものであるとしたら、それはこの武器が、一切を虚無化して行くからなのだ」と考えさせている(6・504)。日本でも心の平和を得られなかったポールが、口まで裂けた能面の「橋姫」の表情を思いつつ、「ワタシハ―……オニデス……」と叫びながら、平和大橋から自殺するという結末は重たい。

ドストエフスキーの『罪と罰』を踏まえつつ、多くの市民を虐殺した原爆の非人道性に苦しんだ原爆パイロット・イーザリーをモデルにして1960年代初頭に書かれた長編小説『審判』は、現代の日本国民にも核兵器廃絶への意志を問いかけていると言えるだろう。

 

*1『堀田善衞全集』第16巻、筑摩書房、1974年、196~197頁。

*2 宮本研は「『ザ・パイロット』の美学」で同じテーマの作品として、いいだ・ももの『アメリカの英雄』(1965)を挙げているが、扇田昭彦は「解説」でつかこうへいの長編小説『広島に原爆を落とす日』(1986)も挙げている(『宮本研戯曲集』第2巻、白水社、1989年、322頁、340頁)。

*3 同上、93頁。

*4 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、155~157頁。

*5 『堀田善衞全集』第16巻、筑摩書房、 1975年、8頁。

*6 鈴木昭一「堀田善衞諭――「審判」を中心として」『日本文学』16巻2号、1967年、85頁。

*7 堀田善衞『広場の孤独 漢奸』、集英社文庫、1998年、111頁。

*8 ジブリのwebサイト「堀田善衞『時代と人間』」掲載の年譜より。なお、作品の構造は全く異なるが、この作品の山場となる謎の外国人から渡されたドルの札束を燃やすというシーンは、明らかに『白痴』のナスターシヤが渡された持参金を暖炉に投げ入れるというシーンを意識していると思われる。

*9 『若き日の詩人たちの肖像』でもアガサ・クリスティーの『そして、誰もいなくなった』が効果的に引用されているが、ドストエフスキーもエドガー・アラン・ポーの推理小説的な方法を高く評価していた(染谷茂訳「ポーの三つの短編小説」、『ドストエフスキー全集』第25巻、新潮社、1980年、349頁)。

*10 堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』下巻、集英社文庫、1977年、100頁。この記述がムィシキンが「外国」からではなく「シベリヤから還つた」と解釈した小林秀雄の『白痴』論に対する批判である可能性が強いことについては、高橋「公式ホームページ」参照。http://www.stakaha.com/?p=7796

*11 小林秀雄「良心」『考えるヒント』、文春文庫、新装版、2004年、70~71頁。

*12 С.Такахаси Проблема совести в романе ”Преступление и наказание” //Достоевский: Материалы и исследования. Л.,  Наука, 1988. Т.10. С.56-62. および、高橋、『「罪と罰」を読む(新版)』(成文社、2000年)、98~102頁、158~163頁、180~184頁参照。なお、ドストエフスキーの作品において重要な役割を担っている「共苦(サストラダーニエ)」については、高橋「公式ホームページ」、書評・大木昭男著『ロシア最後の農村派作家――ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社、 2015年)http://www.stakaha.com/?p=5997 参照。

*13 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、45頁。および、高橋「公式ホームページ」、高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見てhttp://www.stakaha.com/?p=7972 参照。

*14 『小林秀雄全作品』第15巻、新潮社、2003年、34~36頁。

*15 『大岡昇平全集』別巻. 筑摩書房, 1996年、211~212頁。

*16 『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(篠原正瑛訳、1962年、筑摩書房)。なお、同書に収められているロベルト・ユンクの解説「良心の苦悩」、および髙橋「公式ホームページ」、「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧 http://www.stakaha.com/?p=4559 参照。

*17 『小林秀雄全作品』第16巻 、新潮社、2004年、51~54頁。

*18 『堀田善衞全集』第15巻、筑摩書房、 1975年、78頁。

*19 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』下巻、岩波文庫、2000年、404頁。

  *   *

追記

*9 アガサ・クリスティーの『そして、誰もいなくなった』では、日本語に訳すとまだ固い感じのある「良心」という単語が、効果的に5回(92,102,135、329、367)も用いられており、「自分は絶対に正しいと、信じ切っている」人物(153)による殺人と「良心」の問題が深く考察されている。

*12 ドストエフスキーは大学生に「問題はわれわれがそれら(義務や良心ーー引用者)をどう理解するかだ」と根源的な問いを発しさせているように、「良心とはなにか」という問いは小説の終わりまでロシアや欧米読者の強い関心を引きつけて、ラスコーリニコフが発言した「良心に照らして流血を認める」ということが可能かどうかを詳しく検証していた。

(『世界文学』(127号)より転載。転載に際しては、堀田善衛の表記を堀田善衞に改めた)。

 

 

ドストエーフスキイのプーシキン観――共生の思想を求めて

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序章 「ねずみ」たちについて

 『未成年』の主人公アルカージイは、『吝嗇の騎士』について「これこそ、思想的に見て、プーシキンの創造した最高のものだ」(工藤精一郎訳)と述べている。これは自分が蓄えた多量の金貨を見ながら、「わしは悪魔さながらに、ここから世界を支配できるのだ」(栗原成郎訳)とつぶやくけちな男爵とその父のせいで騎士としての対面も保てないような生活を強いられる息子アルベールとの激しい対立から、ついには、決闘ざたから息子が父親を殺すに至る物語詩である。

 この作品のテーマは、やはり「父親殺し」のテーマを扱った『カラマーゾフの兄弟』を強く思い起こさせるが、ソヴィエトの研究者ブラゴーイは、親子の対立を裁いてもらおうとした長老の前で父フョードルと息子ドミートリイが激しく言い争う『カラマーゾフの兄弟』の冒頭の場面と、やはり、親子のどちらが正しいかを裁いて貰おうとして大公の前で親子が激しく争う『吝嗇の騎士』の最後の場面との類似をも指摘している。

 ところで、この『吝嗇の騎士』には「親父が俺を、地下の穴倉で生まれた二十日ねずみのようにではなく、れっきとした貴族の息子として扱ってくれるようにしてみせるぞ」(傍点筆者)という息子アルベールの台詞がある。ブラゴーイは、これら傍線をひいた単語は、やはり自分のことを「ねずみ」にたとえた『地下室の手記』の主人公を連想させると指摘している。確かにここで「地下の穴倉」と訳されているのは「地下室」とも同じ単語なのである。

 だが、「ねずみ」という単語が呼び起こす連想は「地下室の男」にとどまらない。たとえば、『未成年』の創作ノートにはアルカージイの父親の前身となる人物について「彼にとって人間はねずみである」という表現が記されている。また、桶谷氏は「地下室の男」が自分のことを「ねずみ」と呼んでいることに注意をうながしながら、ムイシュキンという名前が、「小ねずみ」(ムイシュカ)に由来することを指摘して、「地下室の男の強烈な自意識の原因である苦痛は、ムイシュキンを病気にした苦しみとおそらく同じものなのである」(桶谷秀昭、『ドストエフスキイ』)と述べている。そして、精神錯乱に陥った男について「私の考えでは、精神病患者というよりも、むしろおそろしく苦しみぬいた男のような気がします。これこそが彼の病気のすべてだったのです」とムイシュキンが語っているのを引用しながら、「ムイシュキンはたくまずして自分のことを語っている。彼が白痴になったのは、『おそろしく苦しみぬいた』からである」と説明している。確かに、ムイシュキンは苦しむイポリートに対して「人より余計に苦しむことのできた人は、当然、ひとより余計に苦しむ値打ちのある人なんですよ」と慰めているが、他者と共に「苦しむ能力」とはムイシュキンの能力を恐らく端的に表すものであり、桶谷秀昭氏の指摘はムイシュキンの本質を突いているように思える。 

 ところで、「ねずみ」というこの言葉は、自ら「古鼠」と名乗っていたもう一人の主人公『貧しき人々』のジェーヴシキンを思い起こさせる。ドストエーフスキイは、ドン・キホーテについて「彼が美しいのは、それと同時に彼が滑稽であるためにほかなりません」と説明しているが、「ムイシュキン(小鼠)」という名字が滑稽感を読者に与えているように、「ジェーヴシカ(娘)」という名詞から作られたジェーヴシキンの名字も滑稽な感じを読者に与えている。さらに、ドストエーフスキイは一八六八年一月一日の手紙で「他人から嘲笑されながら、自分の価値を知らない美しきものに対する憐憫が表現されているので、読者の内部にも同情が生れるのです。この同情を喚起させる術のなかにユーモアの秘密があるのです」と述べているが、ジェーヴシキンを特徴付けるのもこの同情という言葉なのである。すなわち、ワルワーラはジェーヴシキンについて「あなたはほんとに変なご性分ですこと!…中略…どなたでもあなたは善良なお心を持っていらっしゃるというでしょうけれども、あたくしにいわせるなら、あなたのお心はあまりに善すぎるのです。…中略…もし人のことを何から何までそんなふうに気にかけていたら、いちいちそんなに同情していたら、もうだれよりも不幸な人になるに決っていますわ。」(木村浩訳、傍点筆者)と語っているがこの言葉は、そのままムイシュキンについて当てはまる。ことに最後の傍線の箇所はムイシュキンの悲劇をも予告しているだろう。周知のようにナスターシャ・フィリポヴナやロゴージンへの同情から彼はついには病を再発し、再び白痴に戻ってしまうのである。

 この「同情」という単語は日本語で書くと非常に甘ったるい感じになるが、ロシア語では字義どおり訳せば「共ー苦」の意味を持つ単語であり、やはり同情とも訳される単語「共ー感」と共にドストエーフスキイにおいてはしばしば用いられている。後に詳しく見るように、ドストエーフスキイは「良心」(字義どおり訳せば「共ー知」)について深く考察し、人間の行動を善い方向に導くはずの「良心」が、誤った理論に導かれて非人道的な行為に走る危険性を鋭く指摘した。ドストエーフスキイはこのような誤った理論に導かれて「良心」が間違った決定を出すことを防ぐ機能を、「共ー苦」や「共ー感」といった感情の内に見い出したといえるかも知れない。

 ムイシュキンは哲学の点で体系だった論述をしていないが、それでも、この「同情」という言葉は後にムイシュキンの「思想」の根幹をなすものとして語られているのである。すなわち、ムイシュキンは殺人を犯しかねないロゴージンについて「彼は苦悩することも同情をよせることもできる大きな心を持っているのだ」と考え、さらに「その同情はロゴージン自身の眼を開かせ、彼を教えさとすであろう。同情こそ全人類の生活にとって最も重要な、ひょっとすると唯一の法則だからである」と結論しているのである。

 そして、このような同情(「共ー苦」)の概念はプーシキンと密接に結びついていた。すなわち、「ロゴージンが本を読んでいるーーいったいこれが《憐れみ》じゃないというのか」とムイシュキンが思う箇所があるが、後に彼が「二人でプーシキンを読みました。いや、すっかり読んだのです」(木村浩訳)と述べていることから、それがプーシキンの本であることが分かる。

 ドストエーフスキイは亡くなる前年の演説でプーシキンの「特殊な芸術的天才の一面、ーーすなわち全世界的共鳴の才能、他国の天才に同化する才能」に大きな注意を喚起しているが、おそらく、この時もムイシュキンに、プーシキンの作品を読むロゴージンの内に「他者と共に苦しむ」才能や「他者と共に感じられる」才能が目覚めることを期待させていたのだと断言してもよいだろう。

 そしてこの点に留意する時、ムイシュキンが持つほとんど唯一の事務的能力」である能筆も、新たな意味を持って来るように思える。「浄書係り」をしていたジェーヴシキンは同僚の者から馬鹿にされていたが、ムイシュキンにおいて「浄書」は、単に一つの事務的能力を表すばかりでなく、人間としての彼の能力をも現しているように思える。たとえば、司馬遼太郎氏は『空海の風景』の中で、どんなタイプの字もかける空海の能力に、どんなものとも心を通わせることのできた「共感できる」能力をみているが、他人の筆跡を驚くほど上手に真似できるムイシュキンの才能にも、他人と「共感できる」能力を見ることができるかもしれない。         

 小林秀雄は「地下室の男」について論じながら「作者はやっとここまで歩いて来た。『二重人格』のゴリアドキンが、この作の主人公まで育って来たのである」(『ドストエフスキイ』)と書いているが、私たちも同じように、「『貧しき人々』の主人公ジェーヴシキンもようやく『白痴』の主人公まで育ってきたのである」と言えるだろう。

 プーシキンがドストエーフスキイに及ぼした影響は、ほとんど彼の一生に及ぶほど長く、また深かった。この稿では、主に『貧しき人々』から『白痴』に至るまでの作品を取り上げながら、「社会正義」と「良心」という二つの側面に光を当てて、ドストエーフスキイの作品に及ぼしたプーシキンの影響についてエッセー風に論じてみたい。

 

第一章   社会正義を求めてーーペトラシェーフスキイ事件まで 

第一節  『貧しき人々』と『駅長』        

よく知られているように、『貧しき人々』は貧しい中年の官吏と彼の遠い親戚でみなし子の娘ワルワーラとの往復書簡とワルワーラの手記から成り立ち、二人の精神的な成長が描かれているが、その過程でプーシキンの作品は共に重要な位置を占めている。すなわち、手記の中ではワルワーラがポクローフスキイから借りた本で次第に新しい世界に目覚めて、さらに彼の誕生日に彼女がポクローフスキイの父と共に贈ったプーシキンの全集は彼らの幸福のシンボルともなっていたのである。そして、貧しい官吏の心の成長と人間としての尊厳の目覚めが描かれている手紙では、小説『ベールキン物語』の中の『駅長』が中心的な役割を果たしているのである。

 ところで、プーシキンは『エヴゲーニイ・オネーギン』の中で「一年一年、私は荒っぽい散文に心を引かれ、一年一年腕白なリズムから引きはなされて、ーーため息とともに打ち明けるのだが、ーーリズムを追いまわすのが億劫になって来た」(池田健太郎訳)と打ち明けているが、ブラゴーイは当時の批評界はプーシキンの詩から散文への移行を彼の詩才の明らかな衰退と捉えていたと記している。プーシキンのよき理解者であったベリーンスキイですら『ベールキン物語』を「この中にはまったくすぐれた点がないとは言えないにしても、この小説はプーシキンの才能にも彼の名前にも値しない」と論じ、プーシキンに多くを負っていたゴーゴリでさえ「今ではプーシキンを繰り返してはならない。現在我々の規範となるべきなのはプーシキンではない」と断言したのだった。

 では、ドストエーフスキイはジェーヴシキンの筆を通してプーシキンの散文をどのように評価したのだろうか。

 「今度きみのご本で『駅長』を読みました。これだけはいっておきますが、長年生きているくせに、自分の生活をそっくりまるで掌をさすように書いたが、身近にあることを知らずにいることもあるものなんですね。それに、今まナ自分でも気づかないでいたことが、こんな本を読んでいるうちに、少しずつ思いだしたり、気づいたり、なるほどと納得してくるのです。それから最後に、もうひとつきみの本が好きになった理由があるのです。それはほかでもありません。そこらにある本は、読んでも読んでも、どうにもむずかしくて、わからないような時がよくあるんです。たとえば、わたしなんか愚鈍なたちで、生まれながらの鈍才ですから、あまりむずかしい本は読まないのですが、この本を読んでいると、まるで自分で書いたような気がするんです」

 ドストエーフスキイは後にペトラシェーフスキイ事件裁判で、文学は「民衆の生活の表現の一つであり、社会を写す鏡である」と述べ、さらに「誰が新しい考えを、民衆が理解できるようなかたちに作り直すのかーー文学でなくて誰がそれをなすでしょうか」と主張したが、このような文学観はヂェーヴシュキンの筆を通して既に『貧しき人々』において簡単な言葉で記されていたのである。つまり、ドストエーフスキイはこの時点で既にプーシキンの作品に文学のあるべき姿を見ていたと言えるだろう。     

 だが、ドストエーフスキイはここで『駅長』を高く評価しているだけではない。『駅長』は宿屋に何度か立ち寄ったことのある語り手を通して、一人娘に去られた駅長の悲しみを描いた物語であるが、その登場人物や筋自体も『貧しき人々』の内容と深くかかわっているのである。この作品を読んだヂェーヴシュキンは「わたしはあの男が罪ぶかい話ながら気を失うほどやけ酒をのみ、一日じゅう羊皮の外套をかぶって寝すごし、悲しみをまぎらすためにポンスをあおり、迷子になった仔羊のようなドゥニャーシャのことを思いだしては、汚い外套の裾で目をこすりながら、哀れっぽく泣き声をあげるというところを読んだとき、思わず涙がこぼれそうになりました!」と書くが、『貧しき人々』の結末でもやはり、ワルワーラもやはりジェーヴシキンの元から去っていってしまうのである。ジェーヴシキンは最後の手紙で「生みの娘のように愛していました」と告白し、さらにワルワーラの馬車を追って、「力のかぎり、息の根が絶えるまで、駆けていきます」と書いている。この文を読んだ時、読者の記憶にはドゥーニャを失ったヴィリンの悲しみが重なるだろう。

 さらに、別れが避けられないことを知ったジェーヴシキンは手もとに残された『ベールキン物語』を「わたしへのプレゼントにしてください」と悲しみの中で書いているが、恐らくだがこの言葉はプーシキンのテーマと重なることで、ポクローフスキイ葬儀の日に彼の父親が、プーシキンの全集など息子の本をポケットに詰め込めるだけ詰め込んで、息子の棺をつんだ馬車の後を走って追ったというエピソードをも呼び起こすのである。

 ところで、ジェーヴシキンは『駅長』を絶賛し、実際この本は彼が人間としての尊厳に目覚めさせる契機を果たした。だが、ネチャーエワはジェーヴシキンのこのような高い評価が実は、娘に出て行かれたヴイリンの孤独と悲しみにワルワーラの注意を向け、今まさに、家庭教師の職を探して自立しようとしていた彼女を自分の元に引き留めておこうとするジェーヴシキンの意図と深く結びついていたことに注意を向けている(『若きドストエーフスキイ』、露文)。

 この指摘を受けてヴェトローフスカヤは、秩序の問題という観点から見る時、ドストエーフスキイがジェーヴシキンに述べさせた『外套』についての感想は、プーシキンの『駅長』の中の秩序のテーマを受け継いでいると述べている(「ドストエーフスキイの長編小説『貧しき人々』」、露文)。興味深い指摘なので、少し見ておこう。

 『駅長』には「官位はこれ、一四等官。宿場にあっては独裁官」という題辞が掲げられており、プーシキンは本文でこれを受けて「そもそも駅長とは何者だろうか? 一四等官の官等をもつ紛れもない受難者で、この官位のおかげでわずかに殴打を免れているに過ぎず、それとても常に免れるものとは限っていないのである」(神西清訳)と書いている。この一四等官とはピョートル大帝によって新たに布かれた制度の一番下の官位であるが、プーシキンは語り手の口を借りて「……私は、上下の詮議だてのやかましい給仕が、県知事の昼餐で私の皿をあと回しにするのにも、長い間慣れっこになれなかったものである」と記し、主人公の官位に言及することで社会的地位の問題をさりげなく小説の中に持ち込んでいたのだ。さらに、彼は「今になってみれば、それもこれも、まことに理の当然という気がする。まったく、もし『物ごとは位順』というすこぶる通りのいい規則の代わりに、何か別の規則、たとえば『物ごとは知恵の順』が用いられだしたとしたら、いったいどんなことになるだろうか? …中略…給仕はだれから先に料理を配ったらいいだろうか?」(傍点筆者)と皮肉とユーモアを込めて書いている。

 ところが、『貧しき人々』の主人公ジェーヴシキンはこの皮肉を全く感じとれず、字句通りにこの言葉を受け取り、勤めに出て働こうとするワルワーラに「お願いですから、そんな自由思想は頭の中からたたきだして、わたしをいたずらに苦しめないでください。…中略…もう一度注意ぶかくきみの本をよく読みかえしてください。きっとなにかためになりますから」と説得するのだ。

 『駅長』に対する評価の基準を当てはめるとすれば、主人公の服装の貧しさ、浄書をする主人公にたいする同僚たちの侮蔑と嘲りといった状況が、目の前に生き生きと浮かんでくるように描き出される『外套』は、前者と同様の賞賛に値すべきはずであった。だが、ジェーヴシキンはそのようには反応せずに、「こんなにわたしを追いつめるなんて、ほんとに、いけませんね。」とたしなめて、ようやく買い求めた外套をその夜のうちに、盗まれてしまった貧しい中年の九等官、アカーキイの物語に対しては激しい反発を示した。

 それはまさにこの小説が自分の貧困さなど、彼がワルワーラに知られたくなかったことが描かれていたからに他ならなず、また、アカーキイの死後、彼の幽霊が出没し、ついにはかの閣下の橇を止めて彼の外套をはぎ取ったなどという後日譚は、ワルワーラにも当時の秩序に対する反抗心を植え付けるように思えたからである。それゆえジェーヴシキンは『外套』の感想を述べながら「人間の境遇というものは、だれでも至高の神様から決められているのですよ。…中略…ある人は他人に命令をくだし、ある人は不平もいわずに戦々兢々としながら、その命令に服従するようになっています」と『駅長』の語り手が用いた「物事は位順」という規則を持ち出して当時の秩序のあり方を全面的に認めながら、今の「境遇」に満足せず職を求めて自立しようとしているワルワーラを非難するのである。さらに彼は、アカーキイが外套探しに奔走してとうとう閣下に直訴するがかえって叱り飛ばされ、ショックのあまり死んでしまうという結末にふれて、「われわれ下っぱの役人は、叱るべきときには叱りとばすのが当り前です」とし、その理由を「官等にはいろいろあって、それぞれの官等がちゃんとその分に相応した譴責を必要とするので、懲戒にもいろい

ろなニュアンスがでてくるのも自然と言うものでしょう、これは当然の話ですよ! …中

略…(それでーー筆者)、世の中ももっていくのです。この予防法がなかったなら、世の中もたっていきませんし、秩序も何もあったものではありませんよ」(傍点筆者)と書き、ここでも『駅長』の語り手が用いた「理の当然」という言葉(訳語では、当然の話)を使いながら、自分が誤読した『駅長』の語り手の論理を用いて『外套』を批判しているのである。

 ところで、ドストエーフスキイはこのようなジェーヴシキンに皮肉な結果を用意している。つまり、ジェーヴシキンは、『外套』の終わり方を批判して「いちばんいいのは、この気の毒な男を死なさずに」、彼の美徳を知った閣下が彼の「官等を上げてやり、俸給もたんまり上げてやる、というふうにしたらどうでしょう」と提案している。そして『貧しき人々』では、閣下の前で失態を犯したジェーヴシキンが、その身なりのあまりの貧弱さに同情した閣下から服代として大金を貰うという、まさに彼が望んだように事態が発生する。こうして、閣下の恩恵によって、自分の借金も返済しワルワーラにお金を送ることもできたジェーヴシキンは窮状から脱することができたかに見えた。だが、そうはならず、既に見たようにワルワーラは彼の元から去っていくのである。つまり、ドストエーフスキイは、閣下の恩恵を得るというエピソードによって、ジェーヴシキンが夢みたような解決策が、実際には気休め的なものに過ぎないことを強く読者に訴えているのである。

こうして、ドストエーフスキイはジェーヴシキンに、『駅長』の語り手が「物事は位順」という規則を主張していると誤読させることにより、「ちっぽけな人間」を扱った『駅長』と『外套』を「社会秩序」という面でも強く結び付け、ジェーヴシキンの悲劇を通して当時の社会の不平等さを鋭く浮き彫りにしていると言えるだろう。

 キルポーチンもドスエーフスキイが『貧しき人々』において『駅長』と『外套』とを取りあげたことによって、当時の文学者の内で一番早く両作品に見られるプーシキンとゴーゴリとの関係を示したと述べている。さらに、彼は「いや、これは作りごとじゃない! 読んでごらんなさい、まったく自然そのままです!」というジェーヴシキンの言葉に注目して、ドストエーフスキイはゴーゴリと共にプーシキンをも「自然派」の創始者の一人に入れたのであると述べ、ベリーンスキイがプーシキン論の中で「自然派」が「カラムジーンやドミートリエフからではなくプーシキンとゴーゴリから始まった」と記しているのは『貧しき人々』を読んでドストエーフスキイの見解の正しさを認めたからだろうと推測している(『ドストエーフスキイ』、露文)。

 これらの指摘はドストエーフスキイのプーシキン理解が当時のロシアの文壇においてもラジカルなものであったことを裏付けているだろう。

第二節 「ネワ河の幻影」と『青銅の騎士』

こうして、ドストエーフスキイは『貧しき人々』において、当時の社会の不正義を痛烈に描いた。それと同時にこの小説においてドストエーフスキイは既に、都市ペテルブルクについての深い考察も行っており、その考察も深くプーシキン、ことに彼の後期の作品『青銅の騎士』と関わっているように見える。

 すなわち、プーシキンはこの詩の序詩でまず、「汝を愛す、ピョートルの創れるものよ、汝のおごそかにも姿よい眺めを、ネワの威力ある流れを、その岸のみかげ石を、汝の柵の鋳鉄の唐草模様を…」(谷耕平訳)とその美しさを讃える。だが、それに続く二つの長詩ではペテルブルグを襲った大洪水で最愛の婚約者を失い、茫然として街をさまよい、ついにはペテルブルグの建設者ピョートル大帝を形どった「青銅の騎士」に追いかけられているという脅迫観念に駆られて狂気に陥った若い官吏エヴゲーニイの悲劇を歌いあげた。こうしてプーシキンは「ペテルブルグの史詩」という副題を持つこの作品で、ペテルブルグの持っている二面性を明らかにしたのである。さらに彼は主人公のエヴゲーニイが「自分が貧しいということ、働いて、自ら暮らしもたて、体面も、たもたねばならない」ことを痛切に自覚する一方で、「何もしない、しあわせな人間もあるではないか、思慮深からぬなまけ者、そのくせ生活のふしぎにも楽な」者たちがいることをも鋭く認識していたことをも指摘していた。

 ドストエーフスキイもまた『貧しき人々』の中で夕暮れ時のフォンタンカの通りを歩く貧しい人々を克明に描写した後で、華やかなゴローホワヤ街やそこを馬車で通る金持ちの人々を描き出して、このような二面性を強調している。そして、このような描写の後で、ジェーヴシキンは「こんなことを考えてはいけない、これは自由思想だってことはわかっていますよ」と断りながらも「立派な人が荒野におきざりになっているのに、別の人には向うから幸福がとびこんでくるというのは、いったいどういうわけでしょう」と問いかけて社会的な不公平さを訴えていたのである。

そして、ペテルブルクの二重性は第二作『分身』においていっそう深く追求されており、グロスマンが指摘しているように、『分身』の主人公もプーシキンの『青銅の騎士』の主人公エヴゲーニイと同様に、「ペテルブルクにおびえきっており、その結果彼は発狂する」(『ドストエフスキイ』、北垣信行訳)のである。さらに、中編小説『弱い心』には、その内容だけでなく、表現のレヴェルでも『青銅の騎士』からの強い影響を見ることが出来るのである。

 周知のように、『弱い心』の主人公ワーシャもまたエヴゲーニイと同じようにペテルブルグのコロムナという地区に住む若い官吏であり、プロポーズが受け入れられ許婚者との甘い結婚生活を夢みていた。しかし、幸せに有頂天になった彼は仕事が手に付かず、頼まれていた清書の仕事を期限までに仕上げられられなくなり、発狂に至るのである。ここには『青銅の騎士』のような半ば人災による洪水はなく、主人公の発狂も自分の気持ちを制することの出来なかった「弱い心」によるもののように見える。だが、ドストエーフスキイは最後に親友を失ったアルカージイがネワ河の辺で体験した次のようなエピソードをつけ加えている。

 「ネワの河面は、針のような霜に名ごりの夕陽を反射して、幾千万とも知れぬ細かい火花を散らしていた。零下二十度からの凍が襲いかかっていた。…中略…両側の河岸通りに並ぶ家々の屋根からは、巨人のような煙の柱が立ちのぼって、互いに縺れたり、解けたりしながら、上へ上へと昇っていった。…中略…それどころか、この黄昏どきには全世界が、強弱すべての人間も、その住居もーー貧者のあばら家も富者の喜びである金殿玉楼も、何もかもひっくるめて、何かの夢のように」(米川正夫訳)思われた。

 そして、この幻影を見たアルカージイの心に「奇妙な想念」が訪れる。「彼はぴくりとした。彼の心はこの瞬間、いままで経験したことのない、力強い感覚の刺激で、とつぜん沸き立った血の泉に浸ってしまった。彼はいまやっと初めて、この不安の感じがすっかりわかったように思われた。そして、なぜあの不幸なワーシャが、自分の幸福に堪えきれないで、発狂したかということを悟った」。この後、アルカージイは彼がワーシャと共に住んでいたコロムナの家から離れるのである。

 ブラゴーイは、このアルカージイの気持ちの描写(傍線の箇所)とペテルブルグの建設者ピョートル大帝を形どった「青銅の騎士」の像の前に立ち、「よし、驚くべき建設者よ、今にみろ!」と憎しみにふるえてつぶやいたエヴゲーニイの気持ちの描写の間に重なるものが多いことを指摘し、状況の類似なども考え合わせればこれらの一致は全くの偶然とは言えないだろうと述べている。さらに、「何もかもひっくるめて、何かの夢のように」思われたという最後の箇所も『青銅の騎士』の中の「それとも、われらが人生などというものは、すべてむなしい夢に似て、天上のなす、地上への嘲笑である、というのか」(傍点筆者)というエヴゲーニイの感慨とも重なっているように思える。 

 ところで、アカデミー版全集の註は面白い事実を伝えている。それはこの小説がドストエーフスキイの友人のブートコフの生活のエピソードに基づいて書かれたものであり、ブートコフはワーシャという主人公の原型であると考えられ、小説の中ではアルカージイが骨身を惜しまず世話しているが、ドストエーフスキイ自身もブートコフに対して様々な形で面倒を見ていたという指摘である。

 このように見る時アルカージイの形象とドストエーフスキイ自身との間にかなり深い係わりを見ても、それほど不自然ではないだろう。事実、アルカージイが見るこの「ネワ河の幻影」というモチーフは「ペテルブルグの夢」、『罪と罰』などで重要な意味を持ちながら度々用いられており、ことにフェリエトン「ペテルブルグの夢」の中では作者自身の感想として記されているばかりでなく、この幻影の後で『貧しき人々』の構想が浮かんできたことも記されているのである。そして、やはりアルカージイと名付けられた『未成年』の主人公もまた「ネワ河の幻影」について語っている。むろん、作者と作中人物をそのまま同一視することはできないにしても、ドストエーフスキイがアルカージイと名付けた登場人物の口を通してかなり率直に自分の心情を託しているとは言えそうである。

 さらに、この小説の終わり近くには、この出来事にショックを受け、これは「かなり重大な出来事だから、このままうっちゃてはおけない」と告げて回るワーシャの同僚の男が出てくる。ドストエーフスキイはこの男が「熱狂的な自由思想家」として知られていたという初版にあった説明を一八六五年以降の版では削っているのである。(なお、ベリチコフは『分身』の改作の際にも、ドストエーフスキイが自由思想をめぐる議論を削除していることに注意を促している。『ドストエフスキイ裁判記録』、中村健之介訳)。このことは、『弱い心』を書いた時、ドストエーフスキイがこの「熱狂的な自由思想家」に託してこの出来事を鋭く批判していたことを物語っているように思える。すると、幻影を見た後のアルカージイの変化についてドストエーフスキイが書いている「この瞬間、何かある新しいものを洞察したような具合だった。……彼はそれから気難しい退屈な男になって、今までの快活さをすっかり失くしてしまった」(傍点筆者)という文章は、意味深である。この中編小説が発表された一八四八年がドストエーフスキイがペトラシェーフスキイのサークルとの関わりが深まった時期であり、この翌年に逮捕されることを考え合わせれば、「ある新しいものを洞察した」という表現は、ドストエーフスキイの決意表明とも受けとめられなくはないかもしれない。

第三節 「警告する」ものとしての「良心」

 ところで、私達の興味をひくのは、この時期、すなわちドストエーフスキイがペトラシェーフスキイのサークルに近づいていた一八四八年に書かれた作品には比較的この単語が多く用いられ、しかも重要な意味を持っていることである。たとえば、賄賂の問題を扱った短編『ポルズンコフ』の中で主人公は、賄賂を取ったことを認めながら「たくさんよこしたかね?」という問いに対して、「まあ、現代人のあるものが自分の良心を、ありったけのヴァリエーションで売る、それくらいの額ですがね……ただし、良心に金を出すものがあれば、の話なんで。しかし、わたしは金をポケットへ入れた時、煮え湯を浴びせられたような気がしましたよ」と答えている(米川正夫訳)。あるいは、『正直な泥棒』ではその泥棒が「悲しみと良心」の痛みのせいで亡くなったと書かれていた(一八四八年版、後の版では省略された)。

 そして、ドストエーフスキイは既に『貧しき人々』の中でジェーヴシキンに、いけないのは金持ちの耳元に口を寄せて「自分ひとりのことばかり考えるのは、自分ひとりのために生きていくのはたくさんだ」とささやく者がいないことだと書き記していた。『弱い心』では幸せのまっただ中にいる主人公が「良心がぼくを苦しめる」と語っており、その理由を親友のアルカージイは「自分一人だけが幸せになることがつらいのだ」と説明している。

 ここで注目したいのは、プーシキンが『エヴゲーニイ・オネーギン』の中で「大胆な風刺の王であり自由の友」と呼び、ドストエーフスキイも後の裁判において、プーシキンと共に名前を挙げているフォンヴィージン(一七四五ー一七九二)における「良心」の用法である。すなわち、『旅団長』は登場人物の一人の「良心を持って暮らすことは辛いことだと言われているが、今度という今度は良心なしに生きるということが一番悪いということを身にしみて理解したよ」という言葉で終わる。一方、「自分一人だけが幸せだというようなことはありえない」という言葉も見つかる喜劇『親がかり』では、「誰もが美徳の人になれるのでしょうか?」という姪の問いに対して、スタロドゥームが「良心に責められることをしないこと」だよと答え、さらに「いいかい、良心は、いつでも友人のように、裁判官が罰するより一足さきに、警告するのだよ」と説明しているのである。

 これらの作品で「良心」(共ー知)は、「心の裁判官」とでも言えるような働きをし、当時の法律では問われないがしかし自分の罪をとがめ、多少自分にとて不利な場合でも社会的な不公正には異議を唱え、さらには、不幸な人々を見捨てて自分一人だけが幸せになることに異議を唱える内面の声としてあらわれているといえるだろう。ドストエーフスキイのペトラシェーフスキイ・サークルへの積極的な参加は、こうしたドストエーフスキイの良心理解とも無縁ではなかった筈である。

 一八四九年四月二三日未明、ドストエーフスキイは寝入りばなを起こされ逮捕された。その容疑はペトラシェーフスキイ・サークルの「集会に出席」し「出版の自由、農民解放、裁判制度の変更の三問題に関する討論に加わりゴロヴィンスキイの意見に賛成」したこと及び「ベリンスキイのゴーゴリへの手紙を朗読」したことであった。

 このサークルの性格について、メンバーの一人アフシャルーモフはその回想記に次のように書いている。「週に一度ペトラシェーフスキイの所で集まりがあった。それはその時代の様々な事件、政府の施策、様々な学問分野の最新の著作などに関する多彩きわまりない意見の興味深い万華鏡のようなものだった。あらゆることがなんの気兼もなく大きな声で話題にされた。時々だれかが講義のような形でレポートをやった。ヤストルジェムプスキイが経済学について論じ、ダニレフスキイがフーリエの思想体系について語り、ある集まりではゴーゴリに宛てたベリンスキイの手紙がドストエーフスキイによって朗読された」(中村健之介訳)。

 だが、ドストエーフスキイがここで読み上げたのは、ベリーンスキイの手紙だけではない。ドストエーフスキイの詩の朗読には定評があり、晩年にも「予言者」を始めとする多くのプーシキンの詩を朗読したが、この事件に連座して捕まえられたミリュコーフはドストエーフスキイが「おお、友よ、私は見るだろうか! 迫害されない人民を/ツァーリの命で 農奴身分の廃止されるのを/そして啓蒙された自由の祖国に/ついに美しい朝やけがおとずれるのを?」というプーシキンの政治詩『農村』をこのサークルでも朗読したと語っている。一八一九年に書かれたこの詩の構成は、前節で見た『青銅の騎士』の構成をも思い起こさせる。すなわち、ここでもプーシキンはまず、農村の風景の美しさを歌いあげる。だが、詩人の目は単に美しいものだけに留まらず、「おそろしい思いが心を暗くかげらせる」と続けて「ここでは 心になんの希望も好意もはぐくめずに、/だれもが 墓場まで重いくびきをひきずっていく」(草鹿外吉訳)と同じこの村の持つ二面性を厳しく指摘し、農奴制を厳しく批判しているのである。

 ここには美の歌い手であると共に圧制に苦しむ人々に温かい眼差しを注いだプーシキンの詩才が既に現れているが、プーシキンはこの詩を含む一連の政治詩が原因で、シベリアに流刑になりかけ、友人たちの尽力で罪一等を減じられて南方のコーカサスへ左遷された。むろん、ドストエーフスキイがこのことを知らない筈はなく、ペトラシェーフスキイのサークルでこの詩を朗読した時、自分もまた危険を犯しながらもプーシキンと同じ理念を広めようとしているのだという、心の高まりを覚えたことであろう。

 ところで、アフシャルーモフが挙げているベリンスキイの手紙とは、彼がそれまで高く評価していたゴーゴリが『友人達との行復書簡抄』を出版して、専制政治や教会そして農奴制や体刑までも擁護し、民衆にとって読み書きの知識は有害であるとすら説いたのを厳しく批判したもので、ベリンスキイはこの手紙で、「現在のロシアで最も焦眉の国家的課題は農奴制と体罰の廃止」であると述べ、「文学のみが、タタール的な検閲に苦しみながらも、いまだ活力と前途」を示していると主張した。

 ドストエーフスキイは後に何故ベリンスキイの手紙を読んだのかという問いに対して「文学上の記念的作品」であるからと釈明するが、一読して分るように、ベリンスキイの遺言ともみられるこの手紙にはロシアの政治制度の苛酷さに対する激しいいきどおりがあふれている。そして、ドストエーフスキイも検閲制度に対するベリンスキイの見解や怒りをそのまま受け継ぐかのように、この検閲制度に対する批判を述べるのである。「検閲官は作家を、彼が何かを書きあげる以前に、既に何か政府に対する生まれながら敵のように見て、明らかに偏見をもって原稿を調べにかかること、ーーそれは私にとって気の迷入ることでした…中略…そのような状況では、実に多くの芸術分野が消滅せざるをえません。諷刺文学や悲劇はもはや存在しえません。現在のような酷しい検閲のもとでは、グリボエードフやフォンヴィージンのような作家、いやプーシキンでさえ存在できません」。

 ここで、プーシキンの名前が出てきていることに注意を払いたい。第一節で『駅長』との関連でみたドストエーフスキイの文学観はこのすぐ後に書かれているからである。さらに、『貧しき人々』のジェーヴシキンは自分が自由思想家と見られることを極度に恐れていたが、ドストエーフスキイは監獄の中での尋問という状況の中で「自分は祖国に対して善いことを希う権利があるのだと感じている人、そういう人が全て自由思想家と呼ばれるのなら、それと同じ意味で私は自由思想家です」とはっきり言明しているのである。

 そして、裁判において「如何なる事で私は罪ありとされているでしょうか? …中略…もし私に自分の個人的意見を述べる権利、あるいは強圧的な意見には同意しない権利が無いというのなら、何のために私は学んだのでしょうか」と鋭く問い返したドストエーフスキイは、後に刑場で死刑の判決を聞いた時にも「私達が裁かれた事柄、私達の精神をとらえた考えは、後悔を要しないものと思われたばかりか、何か私達を浄めるもののように、私達の多くのことを許してくれる殉教の対象のように」考えていたのだ。

 この時、ドストエーフスキイの脳裏で、理想に燃えながら決闘で倒れたプーシキンの姿が自分の姿に重なりはしなかっただろうか。むろん、プーシキンだけに対象を絞ってしまうのは間違えだろう。しかし、プーシキンの死亡を知って喪に服したいと考えもしたドストエーフスキイは、ある意味でそれ以降ずっとプーシキンの理念を求めて歩んで来たとも言えそうだ。そして、理想のために死ねるのなら後悔するはずもなかったのである。

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(セミョーノフスキー練兵場における死刑の場面、ポクロフスキー画。図版はロシア版「ウィキペディア」より)

第二章 「殺すこと」についての考察 ーー「良心」の問題をめぐって

第一節 「良心」の「自己流の解釈」

 ドストエーフスキイたちの死刑は執行されず、シベリアへの流刑が決まる。長いシベリアでの監獄生活の後、ドストエーフスキイの考えは彼自身も認めているように大きく変わった。

 その理由はいくつか考えられるが、ここでは、この論考のテーマとかかわると思われるものを三つあげておきたい。その第一の理由としては農奴の解放があげられるだろう。先に引用した『農村』という詩でプーシキンが望んだように、農奴はまさに皇帝の命令で解放されたのだった。そして、第二には、理想としていたヨーロッパの国々を旅行したことにより、ドストエーフスキイはあまりにも理想とはかけ離れたその現実をじかに己の目で観察したのであった。そして、第三にはドストエーフスキイがシベリアに流刑になる前に身をもって死の恐怖を体験させられたことがあげられるだろう。恐らくそのことによって彼は「殺すこと」について深く考えさせられ、さらに、『罪と罰』において「良心に従って血を流す事は可能か」という形で問われるように、「良心」について根本的な反省を強いられたのではないだろうか。

 この章では「殺すこと」に対するドストエーフスキイの考察の深まりをプーシキンの作品とのつながりを検証しながら調べてみたいが、まず最初に、何故「殺す事」と「良心」の問題が係わってくるのかを、ドブロリューボフとの係わりを通して見ておきたい。

 シベリア流刑後にドストエーフスキイが関心を示した劇作家にオストローフスキイがいるが、彼はその処女作『身内のものは後勘定』で、金儲けの為には手段を選ばぬ主人の策謀を利用して一儲けしようとする手代に「良心をわきまえなきゃならぬと人がいう、そうだ、もちろんのこと良心はわきまえなければならない、でもこれをどんな意味にとったらいいか。立派な主人に対してはどんな人間でも良心をもっている、だが主人自身が他人をだましているのでは、この場合どんな良心がありうるだろう」と語らせていた。ドブロリューボフはその評論において、この言葉を引用しながら、この手代について「(彼は)人非人ではなく、彼でも良心は知っている、ただしそれを自己流に理解しているだけである」(石山正三訳、傍点筆者)と述べた。こうして、ドブロリューボフはこの評論の中で、はっきりと良心の重要性ばかりでなく、悪人にも「良心」を「自己流に理解」する可能性があることも指摘しえていたのである。

 この評論集が出た一八五九年は、ドストエーフスキイが流刑から戻って再び文学活動に力を注ぎ出した頃であるが、「良心」を「自己流に理解」する可能性があるというドブロリューボフの指摘はドストエーフスキイに強い関心を抱かせたはずである。なぜならば、ドストエーフスキイは、彼がシベリアに流刑される前に書いた手紙で「私は自らの正しさを信じておりました。私は何もかも自供するということはしませんでした。そしてそのために刑は重くなったのでした」と書き、さらにそれ程長くない文書での釈明の中で「もし私が誤りを犯していたらどうなるのでしょう? 誤りは良心の問題なわけです」と述べ、さらに「これが私が与えられた質問に対し、良心にかけて答えることができることであります」と自分の証言の正しさを良心にかけて誓っていたのである。

 この点で私達の興味をひくのはペトラシェーフスキイ事件における若きドストエーフスキイの言葉とラスコーリニコフの言葉との類似である。たとえば、ラスコーリニコフは「だが、いったい何のために自首しに行くのか、自分でもわからない。罪? いったいどんな罪だい。……あんな貧乏人の汁を吸っていたばばあを殺すのはかえって四〇の罪が許される位だ」(米川正夫訳)とドーニャに語るが、ドストエーフスキイもまた裁判の場において「私が罪ありとされる背徳・有害・反逆性の程度を誰が量ったのでしょう。その計量はどんな尺度でなされるのでしょう」と、却って「罪」とは何かを鋭く問い返していたのである。

 むろん、ドストエーフスキイとラスコーリニコフの両者が罪に問われた状況は全く異なる。前者が罪に問われたのは農奴の解放、言論の自由、裁判制度の改革など今日から見ればきわめて穏当な要求であるのに対し、後者は殺人を犯しているのだ。だが、『罪と罰』の中でポルフィーリイは「あなたが、ただばあさんを殺しただけなのは、まだしもだったんですよ。もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」とラスコーリニコフに語っているが、両者に共通するのは、自分の思想は正しいという確信であり、良心に照らして見れば、裁き手よりも自分の方が正しいという思いなのである。

 そして、彼の言葉は殺人を犯さなかった若きドストエーフスキイにも当てはまるように思える。つまり、幸い露見せずに容疑の中には入らなかったが、秘密印刷所の開設の必要性を説いた時ドストエーフスキイは「この事業の神聖さについて大いに雄弁をふるいました」と述べたとマイコフは伝えており、またペトラシェーフスキイ・グループの一員だったパーリムは「ある時、議論が『もしも農奴解放は暴動による以外は不可能であるとわかったら?』ということになった。その時、ドストエーフスキイは、例の激しい反応の仕方で、『それならば、暴動によってでも!』と叫んだ」と伝えているが、この時期ドストエーフスキイは自分たちの思想を実現するためには、もしそれ以外に方法がなければデカブリストたちのようにほう起によって、言葉を代えれば、血を流してでも農奴制を覆そうと考えていたように思える。

 そしてドストエーフスキイ自身も深くこの事を意識していた。たとえば彼は後に『作家の日記』の中で、自分達のサークルと秘密結社「五人組」を組織し「政府に密告する恐れがある」という理由で会員の一人を殺したネチェーエフのサークルとを比較しながら、自分達がネシャーエフのグループの人間に成れるかと自問してこう答えているのである。「自分一人のことを言わしてもらえば、恐らく、私はネチャーエフの徒の一人には、断言はできないが、成ったかもしれない。青年時代の私なら、成ったであろう」。

 このように見てくる時、ドストエーフスキイが、「良心」とは何かについて深い反省を行なうのはきわめて必然的だったと言えるだろう。『罪と罰』の中で問題にされる「良心に従って血を流すことは可能か」という命題は単に抽象的なものではなく、ドストエーフスキイ自身の体験と密接に結びついたドストエーフスキイの身を焦がすような問いだったのである。

 ドストエーフスキイはドブロリューボフの論文に対する直接の論評を書いてはいないが、彼について触れながら「目的と手段」の問題を論じた一八六二年の論文からはその影響が見て取れるように思える。これは『時代』の編集者には明らかに良心が欠けていると指摘した質問者に対する反論の形で書かれているのだが、ドストエーフスキイはまず「真理のための闘士」も、「誤りを犯して、でたらめをいうこともある」のだと言い、「その生活からいえば、ほとんど義人といっていいほどで、深く神聖に真理を確信している」りっぱな人物が、「ただただ自分の高潔無比な目的を達せんがために」「壁に頭をぶっつけはじめる」ことだってあると主張する。そして、「この人物の誤り」は「彼が目的到達のために用いた手段に存する」ことは明瞭であると述べ、彼は「手段の点でのみ誤ったのである」と説明している(米川正夫訳)。

 さらに、ドストエーフスキイは「天才的な人間でも、自分の思想を実現する際、しばしば誤るものである。しかも、天才的であればあるほど、その誤りも大きくなる」と続け、その例をドブロリューボフにも求めて彼の民衆観を批判しながら、「彼の誤りそのものさえ時とすると、彼の精神的欲求があまりにも熱烈であったためかもしれない」と述べ、質問者は「このように重大な非難を他人に向けるには、もっと注意ぶかく、良心的であるべきである」と結んでいる。  

 ドストエーフスキイ自身も認めているように「壁に頭をぶっつけはじめる」という比喩は「乱暴」である。だが、この言葉を一層「乱暴」な「人を殺しはじめる」という表現言い換えれば、ドストエーフスキイがここで述べていることは、『罪と罰』のテーマとほとんど重なるようにみえる。「真理への愛に貫かれた聡明な人間」が、ポトハリュージンのように「良心」を「自己流に理解」したなら、ラスコーリニコフの悲劇が発生するであろう。極限すれば、この文脈のなかでドブロリューボフの代わりにラスコーリニコフを入れれば長編小説『罪と罰』はその思想的な骨格を既に得ることになるとも言いえるように思える。

第二節 『地下生活者の手記』と『その一発』

 ところで、ドストエーフスキイが『分身』を「徹底的に書き改めようとした」一八六一年にドブロリューボフの『打ちひしがれた人々』が出版された。彼は『虐げられた人々』までのドストエーフスキイの作品を論じたこの評論で『分身』をも取り上げ、この作品のテーマが「行動における小心な正直さと、陰謀に対する理論的な欲求との分裂」であると指摘して、このテーマの重要性と現代性に注意をうながした。さらに、ドブロリューボフは、この作品を高く評価し、よく手を入れられるならば、ゴリャートキンは単なる奇妙な人物ではなく、現代人のよくあるタイプの一つが生まれるだろうと書いた。ドブロリューボフはこの評論を書いた一八六一年に二五歳の若さで亡くなるのだが、ドストエーフスキイは彼の予言を裏付けるように、創作ノートの中でゴリャートキンは「地下室の男」の原形になったと書く。そして、『地下生活者の手記』(一八六四)において、その主人公「地下室の男」を「最近の時代に特徴的であったタイプの一つ」と言い、「いまなおその余命を保っている一世代の代表者なのである」とドブロリューボフの表現をほぼ踏襲して主人公を性格付けているのである。

 その意味で、『分身』の改作のためのノートに「新ゴリャートキンは、まるで旧ゴリャートキンの良心の権化であるかのように、旧ゴリャートキンのすべての秘密を知っている」という文章が書かれているのは、ドブロリューボフをめぐるドストエーフスキイの考察と無縁ではないように思える。

 なお、『分身』の創作ノートには将軍を決闘に呼び出すが、撃ち合う寸前に「閣下、私は満足です」とゴリャートキンが述べるというエピソードも記されている。この構想は実現されなかったが、『地下生活者の手記』において自尊心を傷付けられた主人公が、様々な復讐の方法を思いめぐらし、「空に向けて発砲」した後に行方も知れずに去って行こうと考える場面でいかされている。そして、ドストエーフスキイはその発想がプーシキンの『その一発』にも負っているということを、主人公が「正確に知り抜いていた」と書き記している。

 ところで、ウージンは『ベールキン物語』の中の『その一発』とドストエーフスキイの作品との内的な深い関わりに注目している。すなわち、この作品の主人公シリヴィオはかって平手うちにされた伯爵と決闘ざたになったが、相手が射ち損じ、いざ自分が射つ番になっても相手が桜んぼうを食べているのに腹を立て、自分の射つ権利を後に延ばして機会を窺う。数年後、伯爵が結婚するという知らせを受けるや、彼は勇躍相手の元へと出かけて行くのだ。そして、幸せに暮らしている相手を見つけると、自分の残されていた権利を要求し、じっくりを狙いを定める。彼の腕前をすれば相手には確実な死が待っているはずであった。だが、彼はすぐには撃たずに二度も中断して、伯爵をさんざん待たせ、死の恐怖を味あわせた後に「僕は満足した。僕は君の取り乱したところも怖気付いたところも、とっくり拝見した…中略…君の身柄は君の良心に預けておくとしよう」(神西清訳)と言い残して去って行くのである(傍点筆者)。  

 ウージンはこの「良心」という単語の用法に注意を払って「ここにいるのはもはや復讐者ではなく、公平で厳しい裁判官である。彼は伯爵に「良心」を返して、生命の尊厳とその意味を悟った以上、伯爵は生き続けることができるという、判決を告げるのである」と指摘し、さらに「この有名な場面」の「ゆっくりしたテンポ」に注目して、それはシリヴィオが実験者のように、人間の生命の秘密を解こうとして、実験の結果を確実に計測しようとして注意深く、冷静に観察しているためだと主張している。ポドドーブナヤは「ウージンの解釈がプーシキンの『その一発』のテキストにどれ程近いかは別にしても」と断定を避けながらも、「シリヴィオの行為をこのように解釈すれば、この決闘の場面自体がまさしくドストエーフスキイ的であるとは言える」(『ドストエーフスキイ、資料と研究』、第八巻、露文)と述べている。

 だが、私たちはウージンの読みがプーシキンの意図にも重なるのと断言してもよいように思える。たとえば、この作品『その一発』には「余は決闘の認むる当然の権利によって彼を射ち殺さんと心に誓った…後略」というエピグラフがあり、この作品でもプーシキンがかなり復讐のテーマを意識していたことが分かるが、浅岡氏は「復讐の権利を主張する」主人公の考えが、当時のジプシーの社会ばかりでなく「少なくとも西欧文明社会では歴史的に広く、根強く支持されてきた思想である」ことを確認して、次のように結論している。プーシキンは「当然の権利として認められた《血の復讐》」の問題を取り上げることによって、「《良心の呵責》を受けることなく」それが可能か否かを問いかけ「《血の復讐》の不当性を追求」したのではないか(浅岡宣彦、「『ジプシー』に於ける復讐のテーマ」)。

 すなわち、プーシキンは一八二四年の時点で既に「血の復讐」を厳しく批判していたのだ。その意味で「殺される瞬間」を冷静な観察者の眼で描いた『その一発』(一八二八年)は、「血の復讐」についてのプーシキンの考察の一つの到達点であるとも言い得るのではないだろうか。なお、この作品の冒頭近くでは「決闘したことがあるか」という問いに対して、シルヴィオが不快そうに「ある」と答えたことから「どうやらその良心には、何者か彼の戦慄すべき腕前の不幸な犠牲者が横たわっているらしい」(傍点筆者)という記録者の感想が記されている。ここでは「良心」という言葉もまだそれほどの重みを持ってはいない。だが、結末近くでこの言葉は「その一発」を発射することを止めたシルヴィオ自身によって「きみの身柄はきみの良心に預けておくとしよう」という形で繰り返されることにより、殺したことに対する反省が暗示されているのだ。

 『地下生活者の手記』の中で『その一発』に言及したドストエーフスキイは、『罪と罰』において殺人者ラスコーリニコフの心理を詳しく描き出し、『白痴』では「ところが、死刑では、それがあれば十倍も楽に死ねるこの最後の希望を、確実に奪い去っているんですからね。…中略…いや、この世にこの苦しみよりひどい苦しみはありませんよ」とムイシュキンは殺される者にほとんどなりきり、彼の意識を通して殺される瞬間の苦しみを述べているのである。これらの描写はウージンの読み方の正確さを裏付けているだろう。このように見てくる時、哲学的な小説『地下生活者の手記』の中にシルヴィオの名前が出てきたのは、単なる偶然とは言えないだろう。そして、ドストエーフスキイは地下室の男に、「現代の人間」は奴隷を虐待したクレオパトラの行為を野蛮だと言うが、ナポレオン戦争や南北戦争では、理念や理想の名のもとに「血は川をなして流れている」ではないかと批判させている。ドストエーフスキイは『その一発』の場面に単に復讐の深い心理を読みとっただけではなく、「殺すこと」に対するプーシキンの深い考察を見ていたと断言してもよいと思われる。

第三節 『罪と罰』と『スペードの女王』

 ところで、プーシキンが「殺すこと」の問題を良心との関わりの中で考えたのは作品『ジプシー』や『その一発』のみにとどまらない。

 序章で見た『吝嗇の騎士』には、男爵が金櫃を開けながら「世の中には/殺人にも快感を覚える手合いがいる、という。/わしも、こうして、錠前に鍵をさしこむとき、/人殺しどもが生け贄にナイフを突き立てるときに、感じるのと/同じ感覚を味わうのだ」と不遜にも呟くばかりでなく、「良心、それはこころをかきむしる、鋭い爪をもった獣、/良心、それは招かざる客、こうるさい話あいて、/…中略…その良心の呵責を知らぬというのか?……」と独白している箇所がある。また、初期の物語詩『盗賊の兄弟』でも、「短剣と暗い夜」を友として多くの悪事を働いていた弟が病に侵された時、「良心の呵責」に襲われ「眼の前に幻がむらがり」、なかでも、かつて「切り殺した老人の姿が、ことしげく 彼の心にやってきた」と書かれている。あるいは、『ボリス・ゴドゥノフ』でも皇位に就くために幼い皇太子を殺したボリスの「耳のなかでは、鉄槌でたたくように、非難の声がひびく。…中略…血まみれ少年たちの姿がまぶたに浮かぶ…中略…まこと、良心の汚れた人間はあわれなものだ」という苦しみの独白が書かれている。

 だが、ことに私達の興味をひくのは、『未成年』の主人公アルカージイが「これは稀に見る偉大な創造で、完全にペテルブルグ人の一典型」であると規定した、『スペードの女王』の主人公ゲルマンの形象と彼の良心理解である。後に見るようにゲルマンの良心理解は、ラスコーリニコフの良心理解と深いところで結びついているように思える。

 よく知られているように、ゲルマンは堅実な生活を送っていたが、たまたま友人の祖母がカルタで絶対に勝てる方法を知っているという話を聞いた彼は、何とかその秘密を知り大金を得ようとする。彼は老婆の養い子リーザを利用して老婆の屋敷に忍び込み秘密を聞き出そうとして、心ならずも彼女を死に至らせ、自分も後に狂気に陥るのである。

 良心理解の問題を別にしても、彼とラスコーリニコフとの間には、幾つかの類似点がある。たとえば、前者の横顔がナポレオンに似ていると描かれているのに対し、ラスコーリニコフの理想もナポレオンになることと記されている。あるいは、両者がともに「確実に」大金を得ることができると知った時に行動に踏み切ること、また、老婆に誠心誠意仕えながら主人公の犠牲になる若い女性は共にリザヴェータという名前である。そして、『スペードの女王』の中には殺された老婆が笑うシーンがあるが、ラスコーリニコフの多くの夢の中でも「殺された老婆が笑う夢」はきわめて印象深いのである。

 このように見て来るとき『罪と罰』が『スペードの女王』から多くの啓示を受けて書かれたのは明らかであり、ドストエーフスキイもまた小説の中でそれを認めているように思える。そして、このことは『罪と罰』における「良心」の考察についてもあてはまるように見える。ドストエーフスキイはペテルブルクを舞台とした長編小説『罪と罰』において、「殺すこと」と「良心」の問題を「良心に従って殺す事は可能か」という形で深く考察しているが、プーシキンもまた「ペテルブルク人の一典型」であるゲルマンの良心理解について、何度か言及しているのである。むろん、短編小説『スペードの女王』に「良心」という単語が頻繁に用いられるということはないが、それでも重要な場面で用いられており、その中には『罪と罰』における「良心」の用法を想起させるようなものもある。以下、最初に『スペードの女王』における良心の用法を分析し、『罪と罰』の中の用法と比較してみたい。

 最初に良心という言葉が用いられるのは、リーザとの逢引を約束して忍び込んだゲルマンが自室へと階段を登っていく彼女の足音を聞いたときで「彼の心には、良心の呵責めいたものがちょっと感じられたが、たちまち静まってしまった」(中村白葉訳)と書かれている。

 次に用いられるのは、その晩の舞踏会の席でリザヴェータに語ったトームスキイのゲルマン評の中でであり、そこで彼はゲルマンについて「横顔はナポレオン、心はメフィストフェレス」と評した後で、「彼の良心には、すくなくとも三つの罪業があるね」と語る。しかし、それがどのような「罪業」なのかは、話題が変わり語られていない。

 だが、その夜リザヴェータの元にゲルマンが現れ、老伯爵夫人を殺してしまったようだと告白する。リザヴェータは先ほど語られた言葉を思い出す。彼女はゲルマンの本音を知って「辛い後悔」に激しく泣きだす。だが、ゲルマンは「死んだ老夫人のことを思っても、良心の呵責は覚えなかった」。

 こうして、ゲルマンは嘆き悲しむリザヴェータを残して去っていく。だが、そんな彼でもその三日後に行なわれた故伯爵夫人の葬儀には参加した。なぜならば「後悔は感じなかったものの、それでもやはりーー貴様は老婆殺しだと繰り返す良心の声を、完全におさえてしまう術もなかったからである」。

 このように見て来る時、ゲルマンの「良心理解」に三つの段階を見て取ることが出来る。すなわち、最初ゲルマンは自分が行なおうとすることに「良心」の傷みを全く感じていない。そして、老婆を殺してしまった後でも、「良心の呵責は覚えなかった」のである。だが、彼は後悔は感じなかったが、「良心の声」にせき立てられて、葬儀に参列したのだった。

 このようなゲルマンの良心理解は、ラスコーリニコフのそれとほとんど重なっていると言っても過言ではあるまい。ラスコーリニコフもまた自分の行なおうとすることに「良心の傷みは感じていなかった」し、かえって高利貸しの老婆を殺すことが正しいと考えていたのだ。そして、シベリアでも「彼は峻厳に自己をさばいてみたけれど、たけり狂った彼の良心は…中略…自分の過去にかくべつ恐るべき罪を見いださなかった」。しかし、それにもかかわらず、「良心の呵責が、にわかに彼を悩ましたような」感触がラスコーリニコフを襲うのである。

 プーシキンはゲルマンに彼独自の思想や良心についての見解を述べさせてはいない。しかし、自分の思想や欲望に捉えられたとき、人間が「殺すこと」すらも厭わないことに、鋭い危機感を抱いたドストエーフスキイは、プーシキンが『スペードの女王』の中で展開した一見何気ないような、ゲルマンの良心理解に深い興味と理解を示し、それを『罪と罰』の中で展開し、さらに深めたと言えるのではないだろうか。

 この意味で興味深いのは百万長者のロスチャイルドになることを「自分の理想」とした『未成年』の主人公アルカージイの次のような考察である。「なにか頭の中に常に動かぬ強いものをもっていて、それにすっかり熱中していると…中略…まわりに起こるいっさいのことがその本質にふれずにすべりぬけてしまうものである。印象でさえもゆがめられたものになる。しかも、その上、もっとも悪いのは、いつも言い訳ができることである…中略…『なに、おれには『理念』がある、それ以外はみな些細なことさ』ーーこう自分に言い聞かせればすむらしい」。ここで「理想」の箇所に「大金持ちになること」をいれればゲルマンの、「ナポレオンになること」を入れればラスコーリニコフの心理のきわめて的確な描写になると言えるだろう。

 ドイツの哲学者H・クーンは、「良心」が誤る可能性を否定したカントやフィヒテの説を引用しながら「誤りえない良心という説は良心を余りにも高揚させるがために、良心が良心たることをとめてしまう」と批判し、さらに「良心の迷誤には多くの形態がある」ことを指摘しながら、その主な原因は「思惟者がその根本原理にもとずいて定式化した良心」に、「あたかもそれが良心そのものであるかのごとくに、頼ることにある」(『存在との出会い』、斎藤博、玉井治訳)と分析している。論理的で説得力に富むクーンのこのような良心論は、恐らくナチズムに対する深い内省に支えられていると思われるが、ドストエーフスキイは既に『罪と罰』においてラスコーリニコフの「良心」理解を通して、誤った思い込みに陥った時の危険性を鋭く指摘していたのである。すなわち、ラスコーリニコフは「自然法則に従って」人類が「凡人」と「非凡人」とに分かれていると述べた後に、「非凡人」は「ある種の障害を踏み越えることを自分の良心に許す権利」を持っており、非凡人は「自分の内部で、良心に照らして、血を踏み越える許可を自分に与える」のだと説明しているのであり、ここでも「自分の内部で」と記されているように、自分の良心の自律性が明白に主張されていたのである。

 ベルジャーエフは「何びともドストエーフスキイ以前、彼ほどに良心の呵責と悔恨を研究したものはいなかった」(『ドストエーフスキイの世界観』、宮崎信彦訳)と書いたが、確かにドストエーフスキイは、プーシキンの良心理解を深めながら、『罪と罰』において、「良心」理解が誤った思いこみに陥った際の危険性を鋭く指摘したのである。それは多くの核兵器を有しながら、イデオロギーや宗教、国益の違いなどからなおも争いを続ける「現代」の持つ危険性をも鋭く予言しえていたと言えるであろう。

 そして、ムイシュキンが「骨の髄まで悪のしみこんだ者でも、やはり自分が犯罪者であるということを知っているんですね。つまり、まるっきり後悔をしていないにしろ、自分の良心に照らして悪いことをしたと考えているんですよ。…中略…(ところが思想に基づいて殺した者はーー筆者)自分のことを犯罪者と考えようとしないばかりか、そうする権利があったのだ……いや、自分のしたことは善いことだ……と、まあ、そんなふうに考えているんですからねえ」と語っているように、「良心」と「思想」の問題は、『白痴』においてもしっかりと受け継がれているのである。

 『未成年』のアルカージイは「もっとも簡単で、もっとも明白な思想ーーこういうものこそ理解が難しいのである」と言っているが、恐らく、ムイシュキンが聖書から引用した「殺すなかれ」という思想もそれにあてはまるだろう。ムイシュキンはこの言葉を引用しながら、「人が人を殺したからといって、その人を殺してもいいものでしょうか? いいえ、絶対にいけません」と続けている。

 大規模な戦争の危険性が未だに存在する現在、私達もドストエーフスキイとともに「殺すな」という思想について、もう一度じっくり考えねばならないように思える。

 

註 

ドストエーフスキイの作品からの引用は次の全集に依りました。

 一、『ドストエフスキー全集』、新潮社

 二、『ドストエーフスキイ全集』、河出書房新社

 また、プーシキンの作品からの引用は、河出書房新社版『プーシキン全集』の他に、『スペードの女王』、『ベールキン物語』、『エヴゲーニイ・オネーギン』は岩波文庫版、『青銅の騎士』は筑摩書房版、『世界文学体系』を利用させて頂きました。なお、引用などに際しては、原則として表記を統一しました。

 

 

 

 

(『ドストエーフスキイ広場』創刊号、1991年)

 

「不注意な読者」をめぐって――黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

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一九五二年から翌年にかけて八章からなる「『白痴』について」Ⅱ」を発表していた評論家の小林秀雄(一九〇二~一九八三年)は、長い間中断した後で一九六四年に長編小説の結末について考察した短い第九章を書き、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。〈後略〉」と結んでいた(傍線引用者、小林秀雄『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、三四〇頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数を漢数字で示した)。

小林が時々用いる「不注意な読者」という表現に出会ったときは、この言葉は特定の人物を指すのではなく、一般的な読者に向けられていると感じていた。しかし、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社)を書くなかで、ここでは一九五一年に映画《白痴》を公開していた黒澤明監督(一九一〇~一九九八年)を指している可能性が強いと考えるようになった。

なぜならば、一九三四年に書いた「『白痴』についてⅠ」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と書き、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と断じていた小林は〔八二〕、戦後の一九四八年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである」と断じていたからである〔二五〇〕。

しかも戦前の一九三七年に「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と書いた小林秀雄は、未完に終わった『悪霊』論を「小さな拳を振り上げてゐる」マトリョーシャの「身振り、これがどうしても堪らないのだ……」というスタヴローギンの「手記」からの意味ありげな引用で中断していた〔傍線引用者、一五八~一六五〕。

すでに一九三四年の「『白痴』についてⅠ」において小林が、ナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことを思い起こすならば〔九五〕、小林の『白痴』論は後に日本で開花することになる「サド・マゾ的心理分析」の端緒を開いていたとも思える。しかも、そこで「人々の平安は又ムイシュキン故に破れる」とも書いた小林は、「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と続けていたのである〔傍線引用者、九〇~九一〕。

さらに、ドストエフスキー論の絶筆となる一九六四年の『白痴』論で小林は、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していた〔三三九〕。

ここで注意を払っておきたいのは、このような小林の結論が「このホルバインの絵は、ドストエフスキイの思想の動きが、通過する、恐らく繰返し通過しなければならぬ、最も危険な地点を指示する様に思はれる」と書いた直後に記されている次のような考察から導き出されていたことである。 「ドストエフスキイには、外遊中、ルナンが感嘆してゐる様なルネッサンスの美しい宗教画を見る機会はいくらもあつただらうと思はれるが、彼がさういふものに感動した形跡は、彼の書いたもののうちには見当らない。恐らく、美しい宗教画など、彼には何んの興味もなかつたのである」〔二七七〕。

よく知られているようにドストエフスキーはドレスデンの美術館で「美しい宗教画」から強い感動を受けていた(『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』、木下豊房訳、河出書房新社参照)。そしてグロスマンは、「このころ高遠なルネッサンスの造形美術に接したことは、ドストエフスキイの創作歴上の一大事件となった」と指摘し、『緑色のカーテン』(冨岡道子、未来社)では、『白痴』とラファエロの絵画との関係が詳しく分析されている。 しかも、小林は先の文章に続けて「ルナンが『イエス伝』を書いたのは、ドストエフスキイがシベリヤからペテルブルグに還つて間もなくの事である。この一世を風靡した書物をドストエフスキイが読んだかも知れないが、興味を覚へたとは考えられない」と書いている。

しかし、ルナンの『イエス伝』についての考察は一八六四~六五年の「手帖」だけでなく、『白痴』の草稿にも記されていることが明らかになっているのである(高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、一四一頁)。 これに対して、黒澤明監督は小林が『白痴』論を再開する前年に公開された映画《白痴》のラストシーンで、綾子(アグラーヤ)に「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語らせていた(黒澤明『黒澤明全集』第三巻、岩波書店、一四五頁)。

そして、一九五六年の年末に小林との対談を行っていた黒澤明は、ソ連で撮った映画《デルス・ウザーラ》が公開された一九七五年の若者たちとの座談会では、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語っていた(黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、二八八頁)。 実際、八五〇万人以上の死者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と高く評価していた(高橋 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、六頁)。

黒澤明監督も五千万人以上の死者を出した第二次世界大戦後に公開した映画《白痴》では、原作の舞台を日本に置き換えるとともに、主人公を沖縄で死刑の判決を受けるが冤罪が晴れて解放された復員兵とすることで、映像をとおして敵を殺すことで自国の「正義」を貫こうとする「戦争」の「野蛮性」を強く訴えていたのである。

これらのことに注意を払うならば、「真に美しい善意の人」を主人公とした黒澤映画《白痴》では、自分の『白痴』観に対する徹底的な批判がなされていると小林秀雄が感じていたとしても不思議ではなく、一九六四年に書かれた「不注意な読者」という言葉からは自分のドストエフスキー論に行き詰まりを感じていた小林の捨て台詞のような響きさえも感じるのである。

昨年の秋に私は日本比較文学会・東京支部の大会で「黒澤明監督のドストエフスキー理解」を口頭発表し、原爆や原子力発電所の危険性を描いていた黒澤映画《夢》が、エピローグの意味とラスコーリニコフの「悔悟」を否定した小林秀雄の『罪と罰』観の鋭い批判ともなっていることを具体的に示した。

ドストエフスキーの文明観の問題は日露の近代化や現在の日本の状況とも深くかかわるので、黒澤明監督の映画をとおして小林秀雄のドストエフスキー観の問題点を詳しく検証する著作をなるべく早くに公刊したいと考えている。

(『ドストエーフスキイ広場』第22号、2013年。再掲に際して文体を改正し図版を追加

 リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

 

司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

リンク→「主な研究」のページ構成

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(芥川龍之介の肖像、Yokohama045、図版は「ウィキペディア」より)

はじめに

本稿では言論統制の強化が進み始めたころに書かれた芥川龍之介の『将軍』などに対する小林と司馬の考察を比較することで、イデオロギーから自由であった司馬遼太郎の歴史認識の広さと深さを明らかにできるだろう。

一、司馬遼太郎の『殉死』と芥川龍之介の『将軍』

『坂の上の雲』を書く一年前に乃木大将を主題とした『殉死』(文春文庫)を発表した司馬遼太郎は、この小説の冒頭近くで直接名前は出さないものの芥川龍之介の『将軍』に言及して、「筆者はいわゆる乃木ファンではない」が、自分には「大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪もない」と断り、この作品を「小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめる」つもりで書くと続けていた。

それゆえ、この記述では芥川と自分の乃木観の違いが強調されていると考えた私は、旅順の激戦にも言及しつつ乃木大将を批判的に描いていた芥川龍之介の小説が気になりながらも、この短編と『殉死』とを具体的に比較することは行ってこなかった。

しかし、司馬遼太郎の『殉死』や『坂の上の雲』にも影響を及ぼしたと思われる夏目漱石の短編「趣味の遺伝」における旅順の戦いの描写や乃木将軍への言及に注目しながら、改めて芥川の『将軍』を読んだ際には先の言葉は司馬氏独特の韜晦的な表現であり、実際は芥川龍之介のこの小説の影響を強く受けているだろうと感じるようになった。

芥川龍之介の短編小説『将軍』は現在あまり読まれていないので、まずその内容を詳しく紹介し、その後で司馬の『殉死』との関係を考察することにしたい。

芥川龍之介の『将軍』は、司馬が「旅順総攻撃」の章でもふれていた「白襷(しろだすき)隊」について書いている第一章の「白襷隊」から始まり、「間諜」、「陣中の芝居」と続いて、乃木大将の殉死をめぐる父と息子との会話を描いた第四章「父と子と」から成立っている(引用は『芥川龍之介全集』岩波書店による)。

第一章の「白襷隊」は次のような文章で始まっている。「明治三十七年十一月二十六日の未明だった。第×師団第×聯隊(れんたい)の白襷隊(しろだすきたい)は、松樹山(しょうじゅさん)の補備砲台(ほびほうだい)を奪取するために、九十三高地(くじゅうさんこうち)の北麓(ほくろく)を出発した」。

その後で芥川龍之介はこう記している。少し長くなるが、司馬遼太郎の「軍神」観にも関わるので引用しておく。

「路(みち)は山陰(やまかげ)に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だった。その草もない薄闇(うすやみ)の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷(しろだすき)ばかり仄(ほのめ)かせながら、静かに靴(くつ)を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数(くちかず)の少い、沈んだ顔色(かおいろ)をしているのだった。が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。それは一つには日本魂(やまとだましい)の力、二つには酒の力だった。」(太字は引用者)

そして、「聯隊長はじめ何人かの将校」が「最後の敬礼を送っていた」のを見た田中一等卒が「どうだい? たいしたものじゃないか? 白襷隊になるのも名誉だな」と語るのを聞いて、「苦々しそうに、肩の上に銃をゆすり上げた」堀尾一等卒が、「何が名誉だ?」と聞き返し、「こちとらはみんな死にに行くのだぜ。してみればあれは××××××××××××××そうっていうのだ。こんな安上がりなことはなかろうじゃねえか?」と反論した。すると田中一等卒が、「それはいけない。そんなことを言っては×××すまない」と語ったと芥川は記している。

ここで注目したいのは、『澄江堂雑記』に「官憲」によって「何行も抹殺を施された」と芥川は記しているが、将校たちから「最後の敬礼」に送られて突撃をする兵士たちの苦悩が具体的に描き出されていたこの会話の部分も、検閲で伏せ字になっていることである。原稿が遺されていないために確定できないが、注の記述は最初の個所では「名誉の敬礼で生命を買い上げて殺(そう)」という文章が、次の個所では「陛下に」という文字が入っていただろうと想定している。

そして、第二章の「間諜」では、ロシア側のスパイを見つけた「将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝」き、「斬れ! 斬れ!」と命じた場面などが描かれている。「午前に招魂祭を行なったのち」に催された「余興の演芸会」での出来事が記されている第三章「陣中の芝居」では、将軍が「男女の相撲」や「濡れ場」のある余興の上演を二度にわたって直ちに取りやめさせるのを見た「口の悪いアメリカの武官」が隣にすわったフランスの武官に、「将軍Nも楽じゃない。軍司令官兼検閲官だから」と話しかける場面が描かれ、ピストル強盗を捉えつつも傷ついた巡査が亡くなるという芝居ではN将軍が、「偉い奴じゃ。それでこそ日本男児じゃ」と深い感激の声をあげたと記されている(下線引用者)。

最後の「父と子と」の章では、日露戦争当時は軍参謀の少佐だった中村少将とその息子との大正七年の夜の会話が淡々と描かれている。壁にあった「N閣下の額画」が別の絵に懸け換えられているのに気づいた少将から、肖像画が壁に掛かっているレンブラントについて尋ねられた息子は「ええ、偉い画かきです」と答え、さらに「まあN将軍などよりも、僕らに近い気もちのある人です」と続けている。

一方、彼が追悼会に出ていた友人が「やはり自殺している」ことを告げた青年は、自殺する前に「写真をとる余裕はなかったようです」と続けて暗にN将軍を批判したことを咎められると、「僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします」としながらも、「しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られることを、――」と続けようとした。

すると、「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない、徹頭徹尾至誠の人だ」と父から憤然とさえぎられるが、息子は「至誠の人だったことも想像できます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりとのみこめないのです。僕等よりのちの人間には、なおさら通じるとは思われません。……」と語り、雨が降ってきたことに気づく場面で終わる。

大正一〇年に書かれたこの小説で芥川は青年に「ただその至誠が僕等には、どうもはっきりとのみこめないのです」と語らせていたが、この小説が発表された二年後には戦死者でなかったために靖国神社に入ることのできなかった乃木を祭る神社が創建され、「活躍した偉人を祭神とする神社の先例」となった(山室建徳『軍神――近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡』中公新書、二〇〇七年)。

さらに、昭和に入ると「偉大なる明治を思い返すべきという動き」が強まり、満州事変勃発の直後に廣瀬武夫を祀る神社創設の許可が内務省からおりて、日露戦争戦勝三〇周年にあたる昭和一〇年に廣瀬神社が鎮座した。芥川が自殺した翌年の昭和一五年には「本人の意志など問題ではなく」なり、東郷平八郎が神になることを「もってのほかでごわす」と拒否したにもかかわらず東郷神社が創建された。

一方、明治二〇年から一年間ドイツに留学していた乃木希典が帰国後に書いた意見具申書で、「我邦(わがくに)仏教の如キハ、目下殆(ほと)ンド何ノ用ヲ為ストコロナク」と書いている文章に注目した司馬は、『殉死』において乃木が「軍人の徳義の根元は天皇と軍人勅諭と武門武士の伝統的忠誠心にもとめるほかない」と報告していたばかりでなく、「日本は神国なるがゆえに尊し」という感動をもって書かれた山鹿素行の『中朝事実』を、師の玉木文之進から「聖典」のごとくに習っていた乃木希典が、ドイツ留学から戻った後でこれを読みなおすことで、「ついにはその教徒のごとくになった」と書いていたのである。

司馬と同じころに青春を過ごした哲学者の梅原猛は『殉死』や『坂の上の雲』において、「乃木希典は純真きわまりない人間」としてだけでなく、「戦争は大変下手で、無謀な突撃によっていたずらに多くの兵隊の血を流した将軍」として描かれていると指摘し、「乃木大将は東郷元帥とともに戦前の日本ではもっとも尊敬された軍神であった」ので、「戦前ならば、死刑にならないまでも、軍神を冒涜するものと作者は社会的に葬られたにちがいない」として、この作品を書いた司馬の勇気を高く評価している(「なぜ日本人は司馬文学を愛したか」『幕末~近代の歴史観』)。

芥川龍之介は治安維持法が強化されて特別高等警察が設置される前年の昭和二年に自殺したが、大正時代の青年たちを主人公とした『ひとびとの跫音』(中公文庫)で司馬は、大正十四年には治安維持法が公布されて国家そのものが「投網」や「かすみ網」のようになったと記し、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と続けている。

芥川が遺書ともいえる「或旧友へ送る手記」で、「みずから神にしない」と書き、自己の英雄化を拒否していることに注目するならば、「軍神を冒涜するもの」は「社会的に葬られた」時代に青春を過ごした司馬の芥川龍之介に対する思いはきわめて深く重かったと思える。

二、小林秀雄の『将軍』観と司馬遼太郎の「軍神」批判

一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」とした小林秀雄は、「思い出話で纏(まと)まつた伝記ではないのですが、乃木将軍といふ人間の面目は躍如と描かれてゐるといふ風に僕は感じました」と書いていた(『小林秀雄全集』第七巻二一二頁)。

小林の読んだ本は、日露戦争の際にシカゴ・ニュースの記者として従軍したウォシュバンが書いた『NOGI』という原題の伝記で、『乃木大将と日本人』という邦題で、徳冨蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版されていたものである(講談社学術文庫、一九八〇年)。

その直後に芥川の『将軍』に言及した小林は「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続けている(下線引用者))。

そして、「『将軍』の作者が、この作を書いた気持ちは、まあ簡単でないと察せられますが、世人の考えてゐる英雄乃木といふものに対し、人間乃木を描いて抗議したいといふ気持ちは、明らかで、この考へは、作中、露骨に顔を出してゐる」とした小林は「敵の間諜を処刑する時の、乃木将軍のモノマニア染みた残忍な眼とか、陣中の余興芝居で、ピストル強盗の愚劇に感動して、涙を流す場面だとかを描いてゐる」が、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈している(下線引用者)。

さらに、「最後に、これもポンチ絵染みた文学青年が登場していまして」と続けて、乃木将軍を批判した青年の言葉を紹介し、「作者にしてみれば、これはまあ辛辣な皮肉とでもいふ積りなのでありませう」と書いた小林は、ウォッシュバンの書いた伝記が「芥川龍之介の作品とまるで違つているのは、乃木将軍といふ異常な精神力を持つた人間が演じねばならなかつた異常な悲劇といふものを洞察し、この洞察の上にたつて凡ての事柄を見てゐるといふ点です。この事を忘れて、乃木将軍の人間性などといふものを弄くり廻してはゐないのであります」と賛美していた。

ここで小林は、「学生時代に読んで、大変面白かつた」記憶がある『将軍』を、ついでに読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた」と書いていたが、その理由は現在の読者には明らかだろう。つまり、学生時代には自分にも戦場で戦うことになる可能性があったので、芥川が青年に語らせた言葉は小林にとっても切実なものだった。しかし、この評論を書いた翌年には大東亜文学者会議評議員に選出され、青年たちを戦場へと送り出す役割をいっそう強く担うことになる小林にはすでにそのような危険性は無くなっていたのである。

司馬遼太郎の歴史観との関連で興味深いのは、小林が「疑惑 Ⅱ」というエッセーで、日中戦争の時に二五歳で戦死し、「軍神」とされた戦車隊の下士官・陸軍中尉西住小次郎を扱った「菊池寛氏の『西住戦車長伝』を僕は近頃愛読してゐる。純粋な真実ないゝ作品である」と書いていることである(『小林秀雄全集』第七巻、六八頁)。そして、「友人に聞いても誰も読んでゐる人がない。恐らくインテリゲンチャの大部分のものは、あれを読んではゐないであらう。当然な事なのだ」と書いた小林は、「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪へられないのである。思想の古さに堪へられないとは、何といふ弱い精神だろう」と続けて、日本の近代的な知識人を批判していた。

さらに、「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いてゐる様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪へぬ様な、一と口に言へば大和魂といふ、インテリゲンチャがその曖昧さに堪へぬ様な思想にほかならないのではないか」と記して、夏目漱石が『吾輩は猫である』でスローガンとして使われていることへの危機感を表明していた「大和魂」にも言及した小林は、「伝統は生きてゐる。そして戦車といふ最新の科学の粋を集めた武器に乗つてゐる」と続けていたのである(太字は引用者)。

一方、『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に軍神・西住戦車長」というエッセーを書いた司馬遼太郎は、そこで「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった。最初はだれの知恵から出たものかはわからないが、もっとも安あがりの軍需資源といっていい」と厳しく批判していた(『歴史と小説』、集英社文庫)。

そして、「日露戦争では、海軍は旅順閉塞隊の広瀬武夫中佐、陸軍では遼陽で戦死した橘周太中佐が軍神」になっていたことを紹介した司馬は、菊池寛の『西住戦車長伝』から「剛胆不撓(ごうたんふとう)、常に陣頭に立ちつつ奮戦又奮戦真に鬼神を泣かしむる行動を敢行して、よく難局を打開し」という記述を引用して、「事実、そのとおりであろう。西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいない」と記している。(なお、司馬はここで菊池寛の伝記を『昭和の軍神・西住戦車長伝』と、「昭和の軍神」を付け加えて誤記しているが、それは軍神に対する司馬の強い関心をも示しているだろう)。

ただ、その後で司馬は比較文学者の島田謹二が描いた『ロシヤにおける広瀬武夫』(弘文堂刊)に描かれている「この個性的な明治の軍人がすぐれた文化人の一面をもっていたことを知ったが、昭和の軍神はそうではなかった。学校と父親からつくった鋳型から一歩もはみ出ていなかった」と続けているのである。

すなわち司馬によれば、西住戦車長が「軍神」になりえたのは彼が戦車に乗っていたからであり、「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があった」のであり、当時の日本陸軍は「世界第二流の軍隊だった」が、「国家が国民をいつわって世界一と信じこませていたのである」(太字は引用者)。

西住戦車長が戦死した翌年にノモンハン事件が起きると、その「いつわり」のつけはすぐに払わねばならなくなった。冷静な事実の記述でありながら、内に激しい怒りがこもっている司馬の文章を少し長くなるが引用しておきたい。

「ソ連のBT戦車というのもたいした戦車ではなかったが、ただ八九式の日本戦車よりも装甲が厚く、砲身が長かった。戦車戦は精神力はなんの役にも立たない。戦車同士の戦闘は、装甲の厚さと砲の大きさで勝負のつくものだ。ノモンハンでの日本戦車の射撃はじつに正確だったそうだが、(中略)タマは敵戦車にあたってはコロコロところがった。ところがBT戦車を操縦するモンゴル人の大砲は、命中するごとにブリキのような八九式戦車を串刺しにして、ほとんど全滅させた。」

つまり、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で日露戦争の際に、乃木大将の指揮した軍隊が崩壊したことなどが隠蔽されたことを指摘していたが、そのような軍事上の事実の「隠蔽」はノモンハン事件での大敗北の際にも行われて、国民には知らされていなかったのである。

この意味で重要と思われるのは、『昭和という国家』の「誰が魔法をかけたのか」と題された第一章で、「ノモンハンには実際には行ったことはありません。その後に入った戦車連隊が、ノモンハン事件に参加していました」と語り、「いったい、こういうばかなことをやる国は何なのだろうということが、日本とは何か、ということの最初の疑問となりました」とし、「私は長年、この魔法の森の謎を解く鍵をつくりたいと考えてきました」と続けた司馬が、「参謀本部という異様なもの」について言及して、「そういう仕組みがいつでき始めたかというと、大正時代ぐらいから始まっています。もうちょっとさかのぼれば、日露戦争のときが始まりでした」と書いていることである。

このように見てくるとき、『坂の上の雲』を書いたときの司馬の関心が、「軍神」を作り出して、本来ならばその生命を守るべき「国民」を戦争に駆り立てた「参謀本部」というシステムにあったことは確実だといえるだろう。

事実、「ノモンハンで生きのこった日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して廃人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう」とも記していた司馬は、「昭和に入って、軍部はシナ事変をおこし、さらにそれを拡大しようとしたために、国民の陣頭にかざす軍神が必要になった」と説明し、「つづいて大東亜戦争の象徴的戦士として真珠湾攻撃のいわゆる『九軍神』がえらばれ」たが、「日本の軍部がほろびるとともに、その神の座もほろんだ」と結んでいたのである(『歴史と小説』)

それゆえ司馬は、『坂の上の雲』を書き終わった年に発表した「戦車・この憂鬱な乗り物」と題した一九七二年のエッセーでは、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判している(太字は引用者)。このとき司馬の批判が「大和魂」を強調しつつ、「伝統は生きてゐる。そして戦車といふ最新の科学の粋を集めた武器に乗つてゐる」と書いて、国民の戦意を煽っていた小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性は高かったと思える。

(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉『全作家』第90号、2013年より、芥川龍之介観の考察を独立させ、それに伴って改題した。2月6日、青い字の箇所とリンク先を追加)

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→小林秀雄と「一億玉砕」の思想

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司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

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はじめに

私がドストエフスキーの作品と出合ったのは、ベトナム戦争が行われていた高校生のころで、原子爆弾が発明され投下されるなど、兵器の近代化によって五千万人もの戦死者を出した第二次世界大戦の後も戦争が続けられることに憤慨して、私は宗教書や哲学書、さらに文学書を学校の授業もおろそかにして読みふけって価値観を模索していた。

それゆえ、長編小説『罪と罰』や『白痴』を読んだ際には、社会状況をきちんと分析しながら、自己と他者の関係を深く考察することで個人や国家における「復讐の問題」を極限まで掘り下げているこれらの作品は、「殺すこと」が正当化されている状況を根本的に変える力になると思えたのである。そして、そのような思いから戦後も高く評価されていた小林秀雄のドストエフスキー論も一時期、熱心に読んだ。

1,情念の重視と神話としての歴史――小林秀雄の歴史認識と司馬遼太郎

しかし、私がロシア文学ではなく文明学を研究対象とした理由の一端は、一九三五年から一九三七年にかけて雑誌『文學界』に連載されていた小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』の冒頭におかれていた「歴史について」と題された「序」にあった。

この「序」で、「歴史は神話である。史料の物質性によつて多かれ少かれ限定を受けざるを得ない神話だ」と規定した小林は、「既に土に化した人々を蘇生させたいといふ僕等の希ひと、彼等が自然の裡に遺した足跡との間に微妙な均合が出来上る」とし、「歴史とは何か、といふ簡単な質問に対して、人々があれほど様々な史観で武装せざるを得ない所以である」とし、「一見何も彼も明瞭なこの世界は、実は客観的といふ言葉の軽信或は過信の上に築かれてゐるに過ぎない」と記していた((下線引用者、『小林秀雄全集』第五巻、新潮社、一九六七年、一四~一六頁。引用に際しては、旧漢字は新漢字に改めた。)。

この『ドストエフスキイの生活』が発表されていた一九三六年に日本はロンドン軍縮会議からの脱退を宣告し、一九三七年からは太平洋戦争に直結することになる日中戦争が始まっていたが、「僕は本質的に現在である僕等の諸能力を用ひて、二度と返らぬ過去を、現在のうちに呼び覚ます」と記した小林は、「僕は一定の方法に従つて歴史を書かうとは思はぬ」と宣言し、「立還るところは、やはり、さゝやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない」と情緒的な言葉で自分の「方法」の特徴を示し、「要するに僕は邪念といふものを警戒すれば足りるのだ」という言葉で「序」を結んでいた。

こうして、この「序」で「自然」や「歴史」の問題に言及しながら、自分の方法の特徴を端的に記した小林は、「自分の情念」を大事にしながら、自分の選んだ作品の主人公や主要な登場人物について考察している。しかし、青年に達した「死児」はすでに自分独自の交友関係を有しているのであり、いかに子供を深く愛していても「母親」の「情念」だけでは、「死児」の全体像を描き出すのは難しいと思われる。

実際、日本では恋愛小説として理解されている長編小説『白痴』では、貧富の格差や貴族たちのモラルの腐敗の問題が、きわめて鮮明に描き出されているが、小林秀雄の『白痴』論ではこれらの問題にはほとんど言及されていない。

最初はこのことを不思議に感じたが、「四民平等」を謳った明治維新後に導入された「華族制度」は、帝政ロシアの貴族制度とも似ていたので、『白痴』に描かれているこれらの問題に言及することは、日本の華族制度の批判とみなされる危険性があったのである。しかも問題は、戦後になって厳しい検閲制度が廃止された後でも小林が自分の『白痴』観を変えなかったことである。

それゆえ、そのような小林秀雄の歴史認識に疑問を感じていた私は、帝政ロシアの問題をきちんと分析していない小林秀雄のドストエフスキー論が戦後も高く評価されていることに深い危機感を抱いた。なぜならば、クリミア戦争の敗北後に帝政ロシアでは、農奴制の廃止や言論の自由などの「大改革」が行われたが、しかし自分たちの利権が失われることを嫌った貴族たちによって改革は骨抜きにされて再び厳しい言論統制がおこなわれるようになり、露土戦争での勝利や日露戦争での敗戦を経て革命にいたっていたからである。

一方、司馬遼太郎は『昭和という国家』(NHK出版、一九九八年)の「買い続けた西欧近代」と題された第九章で、真珠湾攻撃の後に行われた「近代の超克」という座談会に「当時の知識人の代表者」だった小林秀雄も参加していたことを紹介し、「小林秀雄さんを尊敬しております」と断りつつも、このときの座談会については「太平洋戦争の開幕のときの不意打ちの成功によっても、日本のインテリは溜飲を下げた」ときわめて厳しい批判を投げかけていた。

このことに注目しながら、戦争中に書かれた小林の「歴史と文学」や「疑惑 Ⅱ」というエッセーを読むと、芥川龍之介の『将軍』観や菊池寛の『西住戦車長伝』観が、司馬遼太郎の見方とは正反対であることに気づく。(リンク→)最後に戦時中に書かれた「歴史と文学」における小林の歴史認識と司馬遼太郎との違いを確認することで、これまで矮小化されてきた司馬遼太郎の「文明史家」としての大きさを明らかにしたい。

2、小林秀雄の「隠された意匠」と「イデオロギーフリー」としての司馬遼太郎

「歴史と文学」の第一章で小林秀雄は、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕等の愛情の念といふものであって、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます」と記していた。

そして、「大正以来の日本の文学は、十九世紀後半のヨオロッパ文学の強い影響」下にあることを指摘し、「作家たちによる、人間性といふものの無責任な乱用」や、唯物史観の影響下にある文学を批判した小林秀雄は、『大日本史』の列伝では「様々な人々の群れが、こんなに生き生きと跳り出す」ことを指摘して、作家たちが「腕に縒りをかけて、心理描写とか性格描写とかをやつてゐる」、「現代の小説」のつまらなさを糾弾していた(二一七頁)。

さらにこの文章の末尾で「僕は、日本人の書いた歴史のうちで、『神皇正統記』が一番立派な歴史だと考えてゐます」とも記した小林は、この書を小田城などの陣中で書いた北畠親房が「心性明らかなれば、慈悲決断は其中に有り」と記していることに注意を促して、物事を判断する「悟性」よりも「心性を磨くこと」の大切さを強調し、「この親房の信じた根本の史観は、今もなほ動かぬ、動いてはならぬ」と主張していた。

一方、『竜馬がゆく』(文春文庫)には「歴史こそ教養の基礎だ」とする武市半平太が、宋の学者司馬光が編んだ「古代帝国の周の威烈王からかぞえて千三百年間の中国史」を描いた「編年体」の『資治通鑑(しじつがん)』を自分が教えると誘うが、坂本竜馬はこの提案を断って漢文で書かれたこの難解な歴史書を我流で読んで、書かれている事実を理解するという場面が面白おかしく描かれていた(第二巻・「風雲前夜」)。

このエピソードは一見、竜馬の直感力の鋭さを物語っているだけのようにも見えるが、「イデオロギーフリー」としての司馬の歴史観を考えるうえではきわめて重要だろう。なぜならば、『竜馬がゆく』において幕末の「神国思想は、明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観」となったと記した司馬は、さらに「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているからである(第三巻・「勝海舟」)。

実は、作家の海音寺潮五郎が司馬との対談『日本の歴史を点検する』(講談社文庫)で語っているように、古代の中国の歴史観では自国を世界の中心と見なす「中華思想」が強く、ことに漢民族が滅亡するかもしれないという危機の時代に編まれた『資治通鑑』には、「尊王攘夷」や「大義名分」などの考え方が強く打ち出されていた。そして司馬は、南北朝の時代に『神皇正統記』を著した北畠親房を「中国の宋学的な皇帝観の日本的翻訳者」と位置づけているが、危機的な時代に著された『神皇正統記』にはそのような「尊王攘夷」史観が強く、徳川光圀が編纂した『大日本史』もそのような見方を強く受け継いでいたのである。

しかも、「歴史と文学」の第一章で、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない」と記していた小林秀雄は、敗戦後の一九四六年に行われた座談会で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言を問い質されると、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた。

この発言について司馬は何も言及していない。しかし、満州の戦車隊で「五族協和・王道楽土」などのイデオロギーというレンズの入った「窓」を通してみることの問題点を痛感した司馬は、もし戦場から生きて帰れたら「国家神話をとりのけた露わな実体として見たい」と思うようになり、この「露わな実体」に迫るために「自分への規律として、イデオロギーという遮光レンズを通して物を見ない」という姿勢を課していた(「訴える相手がないまま」『十六の話』)。

そして、ノモンハン事件の研究者クックから戦前の日本では、国家があれほどの無茶をやっているのに、国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったではありませんかと問われた司馬は、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。そのことを、ほとんどの人が感じ始めている。『ノモンハン』が続いているのでしょうな」と答えていたのである。(「ノモンハンの尻尾」『東と西』朝日文庫)。

司馬遼太郎は「唯物史観」の批判者という側面のみが強調されることが多いが、「大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」、「尊王攘夷史観」の徹底した批判者でもあったのである。

青年のころに「神州無敵」といったスローガンに励まされて学徒出陣したことで、「イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに、『絶対のうそ』」があります」と書いている(「ブロードウェイの行進」『「明治」という国家』NHK出版)。国家が強要する「”正義の体系”(イデオロギー)」によってではなく、世界史をも視野に入れつつ自分が集めた資料や隣国の歴史などとの比較によって日本史を再構築しようとした司馬遼太郎の試みは壮大だったということができるだろう。

さらに、「二十一世紀に生きる君たちへ」という自分の文明観を分かりやすく子供たちに語りかけた文章で、「私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考え」の必要性を訴えた司馬は、「今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きている」ことを強調し、「自国」だけでなく「他国」の文化や歴史をも理解することの重要性を明確に示していた(『十六の話』)。

分かりやすい文章で書かれた司馬遼太郎の長編小説では、描かれている個々の人物も屹立した樹木のように見事なので、一部分だけが引用されると誤解されることが多いが、その全体像は鬱蒼たる森のように奥深く、彼の文明観は厳しい形で幕が開いた二十一世紀のあり方を考える上でもきわめて重要だと思える。

(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉『全作家』第90号、2013年より、歴史認識の問題を独立させ、それに伴って改題した)。

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

 

司馬遼太郎の戦争観――『竜馬がゆく』から『菜の花の沖』へ

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(『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』、のべる出版企画)

司馬遼太郎氏の長編小説『竜馬がゆく』(一九六二~六六)と出会ったのは、ベトナム戦争が泥沼化する一方で、日本でも学生運動が過激化していた時期であった。

この長編小説に熱中して読むようになった一因は、自己と他者との関係の考察をとおして「殺すこと」の問題を根源まで掘り下げたドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』などの作品を、著名な文芸評論家の小林秀雄がテキストに忠実に読み解くのではなく、自分の主観によって矮小化していることに気づいたからだと思える。

小林は犯罪者の心理や主人公たちの三角関係のもつれに焦点をあてて扇情的な読み方をしているが、「暗黒の三〇年」と呼ばれるニコライ一世の治世下に青春を過ごし、言論の自由や農奴の解放を求める運動に参加して捕らえられたドストエフスキーには、その表現方法や歴史観などの変化がシベリア流刑後には認められるものの「憲法」や「良心」の重要性の認識においては、揺るぎはなかったのである。

一方、ペリー提督の艦隊が「日本人をおどすためにごう然と艦載砲をうち放った」ことに触れて、これは「もはや、外交ではない。恫喝であった」と記し、「近代日本の出発も、この艦載砲が、火を吐いた瞬間からであるといっていい」と続けていた司馬氏は、そのような厳しい状況下で攘夷思想を持つようになった竜馬が、勝海舟などとの出会いによって「憲法」の重要性に目覚める過程を描き、竜馬が記した「船中八策」を「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断乎として規定したもの」と位置づけていた。

しかも、二〇一〇年に放映されたNHKの大河ドラマ《龍馬伝》が、明治七年の台湾出兵や明治一〇年の西南戦争などで利益をあげて巨万の財を築くことになる岩崎弥太郎を語り手としていたが、『竜馬がゆく』で政商となる岩崎の負の面も描いていた司馬氏は、『坂の上の雲』(一九六八~七二)では戦争と経済の問題点を次のように鋭く指摘していた。

「日本の戦時国民経済がほぼ平時とかわらなかったのは、主として外国の同情によって順調にすすんだ外債のおかげであった。結果としての数字でいえば日露戦争は十九億円の金がかかった。このうち外債が十二億円であったから、ほとんどが借金でまかなった戦争といっていい」(五・「奉天へ」)。

司馬氏はさらに「自国の東アジア市場」を守るためにイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことであったと指摘して、軍事同盟の危険性も指摘していたのである(七・「退却」)。

それゆえ、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』から、『菜の花の沖』に至る司馬作品を分析した拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、二〇〇二年)を急いで発行したのは、「ならず者」国家に対しては、核兵器による先制攻撃も許されるとしたブッシュ・ドクトリンに引きずられて、日本が戦争に参加するようになることを危惧したためであった。

しかし、残念ながらそれは単なる杞憂には終わらなかった。八月一四日の安倍談話では日英の軍事同盟によって勝利した日露戦争の意義が強調され、国会でも十分な審議がなされないままに、戦争への参加を可能とする「安全保障関連法案」が「強行採決」によって可決された。その直後には武器の輸出を促進する「防衛装備庁」が発足したが、それに先だって経団連は「防衛産業を国家戦略として推進すべきだ」とする提言をまとめていたことが判明した。

この意味で注目したいのは、『坂の上の雲』において一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していた司馬氏が、江戸時代に起きた日露の衝突の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした『菜の花の沖』(一九七九~八二)では、一八一二年の「祖国戦争」にもふれつつ、嘉兵衛に「欧州ではナポレオンの出現以来、戦争の絶間がないそうではないか」と批判させていたことである。

そして嘉兵衛が、日本と帝政ロシアとの軍制の違いにふれて「日本の場合、どういう怨みがあっても、自国を固めることはあっても、不法に他国を攻めるようなことがない」と語ったと描いた司馬氏は、嘉兵衛が「愛国心を売りものにしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」と説いたことに注意を促して、「こういうことを大見得でもって言えたのは、江戸期の日本だったればこそであったろう」と続けている。

日本はアメリカとの軍事同盟により再び軍事大国への道を歩み始めているように見えるが、兵器の輸出などは一時的な景気の上昇にはつながっても長い目で見れば、国家経済を破綻へと導くことになるだろう。原爆の悲劇を体験した日本は、伝統的な平和観に基づく「憲法」の精神を再評価すべき時期に来ているように思われる。

(『全作家』第100号、2015年12月、132-133頁。表現を一部訂正して掲載)

「テロと新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性

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「テロと新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性

本書は「祖国戦争」から「大改革」の終焉に至る激動のロシア史とその特徴を、ドストエフスキーの作品を通して考察しようとした構想の第一部にあたる。

本来ならば、ドストエフスキーの初期作品を考察した本書から始めるべきであったが、折から同時多発テロの後で「新しい戦争」が「報復の権利」の名のもとに勃発する危険性が増大していたので、「自己の正義」を絶対化することで、「他者」の殺害をも正当化するような、近代西欧の問題点を明らかにしたクリミア戦争後の作品を扱った第二部を先に『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)として出版した。

(中略)

これまで時間がかかってしまったのは、ひとえに筆者の怠慢によるものだが、あえてその理由を探すならば、若きドストエフスキーと父親との関係やペトラシェフスキー事件に至るまでの道を選ぶことになるドストエフスキーの心象風景が、なかなか浮かんでこなかったためでもある。

ただ、テロへの「報復の正当性」を訴えて始められた無謀なイラク戦争が始まったことで、世界中でナショナリズムがいっそう高まり、日本でも「国権」の強化や「伝統」への回帰が見られる一方で、一気に格差社会が進んで子供たちの「いじめ」や「自殺」などの問題も頻発することになった。皮肉なことに、このような現象に心を痛めつつ、ドストエフスキーの初期作品を再考察する中で、若きドストエフスキーの心象風景がはっきりと見えてきたように思える。

また、本書の初校校正に入った頃にアメリカの大学における銃の乱射という痛ましい事件のニュースが届いて、イラク戦争を始めたアメリカが抱える銃社会という病巣を見せつけられた思いがしたが、同じ日に原爆の使用やイラク戦争を厳しく批判していた長崎市長への狙撃という暗いニュースが飛びこんできた。

日本もイラク戦争には深く係わっているので、これらの事件は戦争という形の武力によって自国の正義を主張する国の内外では、同じように「自分の正義」を力によって示そうという傾向が強くなることを象徴的に語っていると思える。

しかし、「新しい戦争」への懐疑を示して「古い国家」と揶揄されたヨーロッパでは、イラク戦争への支持を表明した政治家はすべて失脚し、また自由や平等の理念が尊重されるアメリカでも、イラク戦争への批判を行った若い代議士が有力な大統領候補として急浮上するなど戦争への反省が深まっている。

一方、戦争の悲惨さを忘れて「平和ぼけ」した日本では、イラク戦争への批判を語った若者たちへの激しい「いじめ」が報じられたが、その後も破綻した「ブッシュ・ドクトリン」に依拠する形で、巨大な軍事費の肩代わりを求める超大国アメリカの要求に忠実に従いつつ、沖縄の軍事基地の能率化や、アメリカによって定められたとする「平和憲法」の改正が急速に進められており、国際社会における孤立化の危険性さえ深まっているように見える。

日本が独自性を世界に対して主張しようとするならば、「被爆という現実」やイスラム世界と戦争したことがないという特徴ある歴史的な伝統を生かして、外交的な形で世界の平和の確立を目指すべきであろう。

「テロ」や「新しい戦争」によって幕が開けられ、地球の温暖化などの問題が山積する二一世紀において、日本が示す方向性は日本の国民にとってだけでなく、世界にとっても重たい意味を持つと思われる。「欧化」に対する激しい反撥である「暗黒の三〇年」の時代に新しい可能性を模索したドストエフスキーの試みを考察した本書が、そのような日本のおかれている状況を広い視野から再検討し、新しい歴史観を創造するためにささやかでも参考になればと願っている。

(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』「あとがき」より。語句を一部改訂。2016年2月14日。リンク先を追加)

リンク→「核の時代」と「改憲」の危険性

リンク→「暗黒の三〇年」と若きドストエフスキー

「暗黒の三〇年」と若きドストエフスキー

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26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

 

「暗黒の三〇年」と若きドストエフスキー

「謎」としての人間

将来の戦争をも予期されるようなフランスとの緊張関係の高まる中で、ドストエフスキーの父・ミハイルは軍医の養成が急務となっていた際の募集に応募してモスクワの医学校に転校し、「祖国戦争」では軍医として働いた。しかも、この戦争で知り合った軍医の紹介でモスクワ商人の娘のマリアと結婚することができたミハイルは、その親類の援助もあり、ロシアの皇室との関係も深かった病院の医師として転職することにも成功していたのである。

しかし、ロシア帝国が「祖国戦争」で奇跡的な勝利をおさめた後で、皇帝アレクサンドル一世は戦争で荒廃したロシアの内政にではなく、「諸国民の解放戦争」と新しい国際秩序の確立に力を注いだ。そのために皇帝が亡くなった後では、憲法の制定を求めて青年将校たちによるデカブリストの乱が起きたが、それを鎮圧したニコライ一世は、フランスなどの外国からの影響を防ぐために、秘密警察や検閲を強化し、彼の治世は「暗黒の三〇年」と呼ばれるような時代となった。

このような中で、一代で世襲貴族の地位にまで出世したミハイルは、モスクワ郊外の村を買いとって村では絶対的な権力を持つ領主となったが、農奴たちとの軋轢から殺害されることになった。父ミハイルの横死の後で、「人間は謎です。その謎は解き当てなければならないものです」と記していたドストエフスキーは、「人間の謎」を解くために職を辞して作家になるという決断をしたのである。

それゆえ、ドストエフスキーが選んだ作家という職業は、彼が背負わねばならなかった問題と深く結びついており、それは「父親」という「一個人の謎」に留まるものではなく、「自己」と「他者」との複雑な「関係性」を深く考察することで、「人間の謎」に迫ろうとするものであり、ドストエフスキーの視線はそのような人間関係を規定している「教育」や「法律」などの「制度」にも深く及んでいるのである。

「イソップの言葉」

緊迫した哲学的な対話を通して登場人物の隠された心理にも鋭く迫った後期の長編小説と比較すると、ドストエフスキーの初期の作品は軽視されることが多い。しかし、後期の作品と比較すればドストエフスキーの初期の作品では主人公たちの心理分析の甘さが目立つが、それは単にドストエフスキー自身の表現能力の未熟さを意味するのではない。

むしろこれから詳しく考察するように、それは「暗黒の三〇年」と呼ばれたニコライ一世治下の厳しい検閲制度とも深く関わっていたといえよう。すなわち、厳しい検閲の眼を逃れるために、ドストエフスキーは初期の作品からいわゆる「イソップの言葉」を用いることで、驚くほど果敢にロシアにおける権力の腐敗や人間の心理の問題などに迫っているのである。

それゆえセンチメンタルな小説にしかみえないような小説の構造や、「道化」的なタイプの登場人物、さらには主人公が親友に対して自分の婚約者と一緒に仲良く暮らそうという提案なども、検閲の問題との関わりで読み解くとき別な様相を示していることに気付く。

しかも、第一作『貧しき人々』の題名に用いられた「貧しい」(bednaya)という形容詞は、「哀れな」という意味も持っているが、ドストエフスキーの作品においては「文学」や「良心」といった重要な単語でさえも二義性を持っており、同じ単語でありながら語り手や時間が違うとその意味を変えるものさえあるのである。

たとえば、一見すると中年の官吏と若い女性のセンチメンタルな物語に見える『貧しき人々』には、プーシキンの作品やゴーゴリの作品などが複雑な形で組み込まれている。それらの作品を「イソップの言葉」を解読する「鍵」として、この小説を読み解くとき、そこにはすでに「父親に捨てられた母親と子供」のテーマが秘められているばかりでなく、ここでは、学校における外国語教育の問題や、職場における「リストラ」の問題、さらには「プライヴァシー」や「個人の権利」の問題など、きわめて現代的な問題が考察されていることに気付くのである。

さらに、第一作とは正反対のタイプの官吏を主人公とした第二作『分身』では、権力者に取り入って立身出世を図ろうとする人物の破滅を「欲望の模倣」というきわめて独自な視点から鋭く描き出すことに成功している。

そしてフランス二月革命の余波が全ヨーロッパに及んでいた一八四八年に書かれた『白夜』や『弱い心』などではプーシキンにおける「ペテルブルグのテーマ」が深く再考察されているばかりでなく、主人公の女性をめぐるライバルとの葛藤の問題をとおして「夢想家」のテーマなど、後の長編小説でも重要な役割を演じることになる重要なテーマが多く描かれている。

こうして、文学という方法で農奴制などの過酷な制度を批判し、農奴制の廃止や憲法の制定などを求めるペトラシェフスキーの会で積極的に活動していたドストエフスキーは、ロシア軍がハンガリーに派兵されたのと同じ月の一八四九年の四月に捕らえられ、八ヶ月間にわたる厳しい取り調べの後で、年末に死刑を宣告されて刑場に立つことになったのである。

以下、本書では『貧しき人々』から『白夜』にいたるドストエフスキーの作品の分析することにより、クリミア戦争の時期にまで続いたニコライ一世(在世――一八二五~五五年)の「暗黒の三〇年」の時期に、ドストエフスキーが「人間の謎」にどのように迫ったのかを明らかにしたい。(後略)

(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、「はじめに」より。語句や文体を一部改訂)

 

長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて

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長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて

ペレヴェルゼフ『ドストエフスキーの創造』(1989、みすず書房)の訳者として知られる長瀬隆氏は、その考察を踏まえた『ドストエフスキーとは何か』(2008、成文社)では、作家のレオーノフが「アインシュタインとドストエフスキー」を研究の課題とすべきだと語っていたことを紹介し、昨年には『トリウム原子炉革命――古川和男・ヒロシマからの出発』(展望社)を刊行している。

例会での発表は長年にわたる研究を反映した重厚なものであったが、時間的な制約のために全部は語り尽くされなかったので、びっしりと書き込まれたA4版・10枚の配布資料で補いながら感想を記すことにしたい。

発表の前半では個人史にもふれつつ、ドストエフスキーからの強い影響が指摘される作家レオーノフの作品を学生の頃に熱中して読んだことや、30年代後半の大粛清の真最中に書かれたレオーノフの戯曲『吹雪』が発表されるにいたる経過や来日の際の質疑応答などが詳しく語られた。また、アインシュタインがこの時期のソ連では批判の対象とされていたことや、検閲などのために厳しい制限を受けていたペレヴェルゼフの『ドストエフスキーの創造』が、日本でも1934年にその一部が翻訳掲載され、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』にもその名前が見えるなどのエピソードも語られた。

ただ、なかなか本題の「アインシュタインとドストエフスキー」に話が到達しないので気をもんだが、マクロの世界を支配するのが調和である」と信じ、その解明を目指して「相対性理論を創造した」アインシュタインが、『カラマーゾフの兄弟』を「いままで手にしたなかでもっともすばらしい本です」と記し、「ドストエフスキーはどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と絶賛していたことに言及するころから一気に佳境に入った。

すなわち、大著『アインシュタイン』の著者クズネツォフは、「非ユークリッド幾何学の最初の提唱者はロシアのロバチェフスキーであって、リーマンよりも30年も早く、その精神はドストエフスキーの中にも流れていた」と説明していた。それゆえ、「非ユークリッド幾何学なしには、空間の3点に時間を加えた四次元の世界(肉眼ではみえない)の発見、すなわち相対性理論の確立は無かった」とした長瀬氏は、「永遠の調和の瞬間」についても言及しているイワンが、「非ユークリッド幾何学の存在をしりながら、それが調和をもたらしていないことを指摘した」ことに注意を促して、アインシュタインがイワンの問題提起に強い関心を持ったのは、この統一場の理論の探求の時代になってからのようであるとした。

質疑応答もアインシュタインの調和との関連などについて議論が盛り上がり、充実したものとなった。小林秀雄が傾倒したベルグソンが「時間と空間のアマルガム(混合物)」と批判したことに対してアインシュタインが、「あなたには、時間(だけ)が有って空間が無い」と反批判したとの説明を聞いた時には、それまでの疑問が解消されたように思えた。

今年は原爆が日本に落とされたことに責任を感じてアインシュタインが哲学者のラッセルとともに組織したパグウォッシュ会議が初めて長崎市で行われた年でもある。質問でも指摘されたように、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャに対する発表者の評価については議論の余地があると思えるが、『罪と罰』では「人類滅亡の悪夢」が描かれていたことを想起するならば、ドストエフスキーの作品に対するアインシュタインの切実な関心は伝わってくる。

「ジャンルの境界」を超えてアインシュタインの倫理観とイワン観の重要性を指摘した今回の発表は、『カラマアゾフの兄弟』論で「完全な形式が、続編を拒絶してゐる」と断言していた小林秀雄が、なぜ「あれは未完なのです」と語るようになったのかを考える上でもきわめて示唆に富むものであった。

リンク→アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』