高橋誠一郎 公式ホームページ

ブリストル大学

リチャード・ピース名誉教授の訃報に接して

リンク「主な研究(活動)」タイトル一覧Ⅱ 

リンク「主な研究(活動)」タイトル一覧 

 

リチャード・ピース名誉教授の訃報に接して

 

“sad news“ という件名でのIDSからのメールを木下先生から転送して頂き、Richard Peaceブリストル大学名誉教授のご逝去を知ったのは昨年一二月八日のことであった。

グラナダのシンポジウムで久しぶりにお会いできることを楽しみにしている旨を記したピース教授夫妻へのクリスマス・カードを書き終えて、投函する直前だったので、この思いがけない訃報にしばらく茫然自失の状態だった。

英国大学スラヴィスト学会の会長やハル大学の文学部長などを歴任した世界的に著名なロシア文学者のピース教授と初めてお会いしたのは、一九九二年にオスロで開かれた国際ドストエフスキイ学会においてであった。混沌とした当時のロシアの政治・経済状況と比較しつつ、『地下室の手記』の直後に書かれた短編小説『鰐(クロコダイル)』の現代性を浮き彫りにした氏の発表からは新鮮な感銘を受け、お話しするなかで深い学識に支えられた重厚で温和なお人柄に魅せられた。            

その後『罪と罰』をきちんと分析するためには、『冬に記す夏の印象』や『地下室の手記』の考察が必要であると考えて「日露両国の近代化の比較」というテーマでイギリスでの研究を望んだところ、ブリストル大学(University of Bristol)に快く迎え入れて頂いた。一年間という短い期間であったが、一八七六年創設という古い伝統を持つ総合大学の図書館を自由に利用させて頂いたばかりでなく、ピース教授の授業への参加やロシア学科の同僚の教員の方々との歓談の機会や二度にわたる研究発表の場も与えて頂いた。

個人的にもブリストルやヨークシャーのご自宅に招待して頂き、奥様とともにヒースの咲く北部の要衝ヨークを散策し、バイキング博物館を案内して頂いた際には、イギリスの歴史と文化の深さを実感した。

二〇〇〇年に行われた千葉大学での国際研究集会には、奥様の体調がすぐれなかったためにお一人での来日となったが、妻とともに京都・奈良の旅行をしたことが貴重な思い出になっている。ピース教授のご著書Dostoevsky`s Notes from Undergroundと論文Russian Concepts of Freedomを編集して『ドストエフスキイ 「地下室の手記を読む』(のべる出版企画、二〇〇六年)という題で池田和彦氏の訳で出版した際には、「日本の読者の皆様へ」という献辞も頂いた。

教授の著書を日本で出版するに際しては、主要作品における登場人物の名前や分離派の問題の重要性を広い視点から明らかにして欧米やロシアだけでなく、日本人の研究者にも強い影響を及ぼした主著Dostoyevsky: An Examination of the Major Novels  (Cambridge University Press,1971)の一部を訳出することも考えたが、この書の内容は江川卓教授や作田啓一教授の著書ですでにたびたび引用・紹介されていた。

それゆえ、文学的・思想的な背景やそれまでの批評史を踏まえて、言語学や比較文学の手法を用いながらテキストの綿密な分析を行った『地下室の手記』論が、後期の大作を理解するための基礎的な文献にもなると考えてこの著書を選んだ。

しかし、その後の日本ではピース教授の研究に依拠しながら、それをゆがめた形で用いている著作が流行っている。このような日本の状況をゴンチャローフの『フリゲート艦パルラダ号』などの研究をとおして日本の歴史・文化に強い関心を持たれ、江戸東京博物館などへの小旅行も満喫されていた親日家のピース教授が知られたら激しく落胆されたと思う。『白痴』論のみでも訳出すべきだったかとの悔いも残るが、ご研究の意義をホームページなどで少しずつでも明らかにしていきたい。

IDSの副会長という要職にもおられたピース教授からはその後もシンポジウムへの参加のお誘いを頂いていたが、学務が忙しくなったこともありご依頼に添えなかった。次回のスペインの大会でお会いできないのは痛恨の極みだが、せめて先生のお写真も載っている訳書を持参して、日本における先生の学説の広く深い受容についてご報告することで、学恩に少しでも報いたいと考えている。

   (『ドストエーフスキイ広場』第23号、2014年4月)

 

「研究活動・前史」と「引率時の体験とIDSでの発表」など

「研究活動・前史」

都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていた。このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』や、自己と他者との深い関わりが示唆されていた『白痴』と出会ったことがロシア文学に関心を持つきっかけとなった。

 東海大学文学部文明学科ヨーロッパ専攻に入学した後、ブルガリアのソフィア大学に2年間留学して、「辺境」の「小国」と思われていたこの国で学び、東ローマ帝国と「ブルガリア帝国」との関わりを詳しく知った。

この時期に東欧の視点から西欧やロシアを見ることができたことが私の文明観の形成したばかりでなく、『坂の上の雲』などの司馬遼太郎の作品への関心を深まる遠因ともなったと思える。

 大学院文学研究科(文明研究専攻)の時期には1年間モスクワ大学に留学してドストエフスキーの初期作品の研究をした。

   *   *   *

「引率時の体験とIDSでの発表」
引率教員としてモスクワを訪れた1986年にはチェルノブイリ事故と遭遇して、原子爆弾や原子力発電の問題の大きさを再認識することになった。

 国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(IDS)への参加
リュブリャーナで行われた1989年の第7回大会では、『罪と罰』における「良心」の問題を発表したが、この時期には旧ユーゴスラヴィアの共和国間の対立が芽生えていた。その後の経過からは、それまで仲良く共存していた民族でも過去の問題を互いに非難し始めると戦争にまで到ることを痛感させられた。オスロで開かれた1992年の第8回大会の帰途では混乱期のロシアと遭遇した。             

1994年4月から1年間は、ロシアと日本の近代化の比較をテーマとして、イギリス・ブリストル大学のロシア学科で研究したが、この時にイギリスの近代化をも視野に入れた研究することができたことで私の視野も広がり、ほぼ私の文明観や研究方法が定まったと思える。

*   *   *

「追記」

中学時代の初めに読んだ本で印象に残っているのは、武者小路実篤の作品だった。今になってみるとこのときの読書体験が、『白痴』や『イワンの馬鹿』との出会いを準備していたと思える。下村湖人の『次郎物語』を読んだことで社会的な視野が広がり、夏目漱石の『坊っちゃん』や『三四郎』、島崎藤村の『破戒』や芥川龍之介の作品などの読書へとつながった。

高校時代には文芸部に入っていたこともあり文学書は乱読したが、『論語』や『聖書』、仏教書の他にキルケゴールの『死に至る病』なども頭をひねりながら読んだ。ドストエフスキーの長編小説を読み終えた後で、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』やツルゲーネフの『その前夜』、さらにはトルストイの『戦争と平和』などを読んだことが現在の研究につながっていると思える。

(7月7日に記載、12月23日加筆)