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映画《白痴》から映画《生きる》へ

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(映画《生きる》の「ポスター」、製作:Toho (c) 1952。図版は「ウィキペディア」による)

 

映画《生きる》とイッポリートの可能性

長編小説『白痴』において重要な役割を果たしているイッポリートについてのエピソードは映画《白痴》ではまったく描かれてはいない。しかし、その翌年に公開された映画《生きる》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)について、黒澤は「しみじみと感情を堪えて」というエッセーでこう書いている。

 「ぼくはときどき、ふっと自分が死ぬ場合のことを考える。すると、これではとても死に切れないと思って、いても立ってもいられなくなる。もっと生きているうちにしなければならないことが沢山ある。僕はまだ少ししか生きていない。こんな気がして胸が痛くなる。《生きる》という作品は、そういう僕の実感が土台になっている。この映画の主人公は死に直面してはじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかったのである」。

 このような黒澤の言葉に注意を払うならば、体調を壊して病院に行ったことで隣り合わせた人物から胃癌の詳しい症状を聞かされ、自分の余命がほとんどないことを知って、「死刑の宣告」を受けたように苦しむ定年退職前の市民課の課長・渡辺の苦悩と、新しい生きがいを見つけた喜びをモノクロのトーンでしっくりと描いた映画《生きる》は、長編小説『白痴』におけるイッポリートのテーマを受け継いでいると思える。

 実際、子供のためだけに三〇年も務めてきた自分の人生を振り返って自暴自棄になり、やけ酒を飲んでは無断欠勤を繰り返すようになった渡辺は、飲み屋で知り合った小説家から、「人間、生きることに貪欲にならなくちゃ駄目です」と説得されて、ダンス・ホールやストリップ劇場などを案内されたが、いっこうに癒されずに深い絶望感を味わう。

 しかし、自宅へと朝帰りをする途中で、市役所を辞職したいので急いで判がほしいという若い部下のとよと出会い、自宅で書類に判を押した渡辺は、市役所が退屈だったと語る部下が、自分にも密かに「ミイラ」というあだ名を付けていたことを知って思わず久しぶりの笑いを浮かべた。そして、イッポリートが美しく生命力にあふれたアグラーヤに密かに強い関心を抱いていたように、とよの生き生きとした姿に強く惹かれた渡辺も彼女を映画館や食事に誘うようになる。

 自分との付き合いにしか喜びを見いだせない渡辺にとよは、自分が工場で作っているウサギのおもちゃを喫茶店で渡して「何か作ってみたら」と諭した。するとしばらくそれを手にとって見つめていた主人公は、不意に「やる気になればできる」とつぶやき、おもちゃを手にとって急いで階段をおり始める。その時に、退出する男の後を追うように、若者たちの陽気なハッピー・バースデイの合唱が始まり、階段を登ってくる若い乙女とすれ違うのである。

 この場面で響く乙女の誕生日を祝う若者たちの陽気な歌声は、それまで市役所での仕事を嫌々こなしてきた「ミイラ」のような初老の男が、あたかも「復活」して真に生き始めるのを祝福する歌のように感じられるのである。前年度に撮られた《白痴》における前半の山場が、精神的な復活を計ろうとしていた妙子(ナスターシヤ)の誕生祝いだったことを思い起こすならば、続けて撮られた二つの映画の類似性は明らかだろう。

 しかも、《生きる》の後半では、葬儀の会葬者たちの会話をとおして、亡くなった市役所の課長が「胃癌と闘いながら」、市民たちの強い願いでありながら官僚的なたらい回しにあっていた公園の建設に邁進して、それを成し遂げていたことが明らかになってくる。

 警官の証言では公園で行き倒れのように亡くなっていたと思われていた男が、雪の降る公園で「命短し、恋せよ乙女」という歌をブランコにのって、しみじみと満足そうに歌っていたことが明らかになる。すると通夜の席で課員たちは次々と「僕も生まれ変わったつもりで」などと語り、改革への意欲が盛り上がったのだった。

 しばらくするとその時の興奮と感激を忘れたかのように職員たちが再び惰性に流された仕事ぶりに戻っていく。課長の遺志を継ごうとしながらもそのような職場にむなしさを感じていた一人の職員が、渡辺の行動で実現した公園に行く。そこで楽しげに遊ぶ子供たちの姿を見つけて、彼が渡辺のしたことの意義を感じるところで映画は終わるのである。

 こうして、なかなか「他者」からは理解されなかった主人公の行動の描写や、部下たちの「記憶」が重ね合わされることで、生前の渡辺の意義が浮かび上がってくるという映画《生きる》の構造は、映画《白痴》のエピローグにおける薫と綾子の「記憶」をめぐる会話を強く思い起こさせる。

 このように見てくるとき、映画《生きる》において黒澤が描いたのはイッポリートが望みながら死期を告げられたことで断念してしまった「他者を変え、そして生かす思想」の実現であるといっても過言ではないと言えるだろう。

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、272~275頁より。なお、前の文章との関連を示すために言葉を補い文体を少し直した他、注は省略した)。

現代の日本に甦る「三人姉妹」の孤独と決意――劇団俳優座の《三人姉妹》を見て

久しぶりにチェーホフの《三人姉妹》を劇団俳優座で見た。

案内状によれば、劇団俳優座の10年ぶりの上演となるこの《三人姉妹》の「舞台はロシアではなく、ある施設」で、「そこに入居している老婦人たちは毎日のように『三人姉妹』を読み、彼女たちはその世界に魅入られ、迷い込んでいく……」という設定であった。

しかも、百名ほどの観客で満席となる五階稽古場での上演ということもあり、広い空間を吹き抜けていく風の雰囲気さえも伝わるような演出によるロシアの劇の舞台と比較しながら、ソファーや机が置かれ、ラジオが鳴っているだけの幕もない小さな舞台を見下ろして、どのような劇になるのかとの不安を抱きつつ開演の時を待った。

*    *   *

思い込みが強すぎると笑われそうだが、私がイリーナの「名の日」から始まる『三人姉妹』に強い愛着を感じているのは、ドストエフスキーの長編小説『白痴』で描かれたエパンチン家の三姉妹の孤独のテーマがそこにも響いていると感じるからである。

たとえばイリーナからは愛されていないことを知りつつも、彼女を誠実に愛し続けようとしたトゥーゼンバフ男爵が、働いて生活するために軍人を辞めて背広を着て現れたときのことがこの劇で語られている。そのエピソードはアグラーヤの有力な花婿候補だった貴族のエヴゲーニイが軍服から背広に着替えて現れ、エパンチン家の三人姉妹から可笑しがられていたことを思い起こさせる。

イリーナの花婿となるはずだったトゥーゼンバフ男爵は、レールモントフを気取る軍人のソリョーヌイに決闘で殺されることになるが、『白痴』では決闘のことがたびたび話題となっているばかりでなく、決闘を描いたレールモントフの小説が重要な役割を果たしていたのである。

「ひょっとすると、わたしたちだって、さも存在しているように見えるだけのことで、じつはいないのかも知れない」(神西清訳、新潮文庫)と語る酔っ払いの医師チェブトイキンには、大嘘つきのイーヴォルギン将軍の面影が感じられる。

さらに、ロシアの混乱を象徴するような第三幕の大火の場面からは、『白痴』の後で書かれた『悪霊』のシーンさえ浮かんでくる。混迷のロシアに生きる三姉妹を主人公としたチェーホフの劇は、「60代の女優陣を中心に起用」された俳優座の劇でどのように演じられるのだろうか。

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舞台では医師や看護婦と思われる白い服を着た俳優たちが、新聞を読んだり、普段の会話を交わしたりしていたが、それぞれの扉をパッと開けて「三人姉妹」とナターシャを演じる女性たちが入ってきた時から、雰囲気が一気に変わった。

かつて暮らしたモスクワでの生活にあこがれながらも、地方都市の単調な暮らしに埋もれていく若い三人姉妹の4年間の歳月が戯曲では描かれているが、劇《三人姉妹》は時代や場所を約百年後の日本に移しながらも、原作で描かれた登場人物の台詞や性格を忠実に活かしている。

レールモントフを気取る軍人のソリョーヌイの形象や台詞は、現代の日本人の観客には伝わりにくいと思われた。しかし、病院のありふれた情景や衣服をとおして描かれることで、自分が愛して言い寄っていたイリーナから振られるとストーカーのようにつきまとい、ついには結婚の決まっていたトゥーゼンバフ男爵にいちゃもんをつけて喧嘩をしかけて殺してしまうソリョーヌイからは、現代の日本でも見られる自己中心的な若者像が浮かび上がってくる。

ドストエフスキーは『地下室の手記』で言葉や理想への強い懐疑を抱くようになった主人公の孤独と苦悩を描き出していたが、劇《三人姉妹》でも登場人物たちの会話から成立している戯曲であるにもかかわらず、彼らの会話はしばしばかみあわず、それぞれの人物たちの孤独を担った重たい言葉の多くは、モノローグのように空しく虚空に消えていく。

しかし、おそらくそれゆえに、互いの孤独な言葉がまれに出会った際には見えない火花が散り、登場人物を行動へと促すような迫力さえも持ち得るのである。

ここではそれぞれの役柄について詳しく考察する余裕はないが、責任感が強く校長をひきうけることになるオーリガや恋するマーシャをはじめ、端役の乳母や守衛に至るまで役柄は深く彫り込まれており鮮明であった。

ことに、3姉妹の兄アンドレイに見初められて結婚した農民出のナターシャが次第に家の実権を握って、ついには老いた乳母を役立たずとののしって追い出そうとする場面は、現代日本の光景とも重なるような迫力をもっていた。

劇中ではロシアの歌の代わりに日本の歌が取り入れられていた。その時代に流行った歌は観客の生きた時代をも想起させる力を持っているので、その場面にあうように適切に選ばれた曲も、この劇を日本の劇として違和感のないものとするのに大きな役割を果たしていたと思える。

こうして、大がかりな舞台装置もない小劇場で、現代の日本のありふれた衣装で演じられることにより、この劇は『三人姉妹』という作品の現代性を鮮烈に浮かび上がらせることに成功していたのである。

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見終わったあとでは、俳優たちが百年後の世界について語るチェーホフ劇『三人姉妹』が、森一の演出で見事に百年後の日本で甦ったという感慨を持った。三人姉妹のきわめて困難な状況を描きつつも、最後の場面では彼女たちの「生き抜く」覚悟と決意を描いたチェーホフ劇の現代的な意義をこの劇は示していると思う。

残念ながら、六本木での上演はすでに終わったが、都心での優雅な暮らしにあこがれつつも、原発事故の影響に今も苦しめられる地方都市や、過疎化などの過酷な状況下で生活している地方の人々のためにこの劇が上演され続けることを望みたい。

映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観

文庫本で2巻からなる妹尾河童氏の自伝的小説『少年H』は、発行された時に読んで少年の視点から戦争に向かう時期から敗戦に至る時期がきちんと描かれていると感心して読んだ。

妹尾河童氏の『河童が覗いた…』シリーズを愛読していたばかりでなく、ことに日露両国の「文明の衝突」の危機に際して、冷静に対処して戦争の危機を救った一介の商人高田屋嘉兵衛を主人公とした司馬遼太郎氏の長編小説『菜の花の沖』を高く評価していたので、ジェームズ三木氏の演出で舞台化され、妹尾氏が舞台美術にかかわった「わらび座」の劇《菜の花の沖》からも深い感銘を受けていたからだ。

すなわち、妹尾河童氏は劇《菜の花の沖》を映像化したVHSの《菜の花の沖》(制作、秋田テレビ)で、「舞台の上に、嘉兵衛が挑んだ海の広さが表現できればいいなと思っています」と語っているが、実際に劇では大海原を行く船の揺れをも表現するとともに、牢屋のシーンでは光によって嘉兵衛の内面の苦悩を描くことに成功し、ことに最後の場面における菜の花のシーンは圧巻であった。

それゆえ、この作品がテレビドラマ《相棒》にも深く関わったプロデューサー松本基弘氏の企画と古沢良太氏の脚本により、降旗康男監督のもとで『少年H』がどのような映画化されるかに強い関心を持っていたのである。

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映画の冒頭では長男のために編んだセーターに当時は敵性言語とされていた英語で肇のイニシャルのHを母親が縫い込んだことで、からかわれる場面が描かれており、当時の排外的な雰囲気とともに《少年H》という映画の主題が明確に表現されていた。

そのような時代に肇少年は、クリスチャンであった両親につれられて教会に通っていたが、時代の流れのなかで、日本を離れたアメリカ人の女性からエンパイアーステートビルの絵はがきをもらったことで、次第に「非国民」視されるようになる過程が、洋楽好きの青年が思想犯としてとらえらたり、「オトコ姉ちゃん」と呼ばれていた役者が軍隊から脱走して自殺したするなどのエピソードをはさみながら描かれていく。

注目したいのは、洋服店を営んでいた父親が修繕を行った服の中には杉原千畝のビザを受け取って来日したユダヤ人たちが、日本がナチスドイツなどと三国同盟を結んだために、ようやく到着した日本からも脱出しなければならなくなるという光景も描かれることにより、国際的な関わりも示唆し得ていたことである。

少年Hよりも少し前に学徒動員で満州の戦車部隊に配属された司馬遼太郎氏は、『坂の上の雲』で帝政ロシアと比較しながら日露戦争を描いた後で、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とし、自分もそのような教育を受けた「その一人です」とし、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析している(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

この映画が描いた時代には、奉安殿に納められていた教育勅語と現人神である天皇のご真影への最敬礼が義務づけられていたが、遅刻しかけて慌てて忘れたために殴られる場面を初めとして、外国人を顧客としていた洋服屋の父親などの情報から、その戦争に違和感を抱くようになっていた肇が学校に派遣されていた教練の教官から目の敵とされて、ことあるごとに殴られるシーンも描かれていた。

実は、「戦車第十九連隊に初年兵として入隊したとき、スパナという工具も知らなかった」ために若き司馬氏も、古年兵から「スパナをもってこい」と命じられた時に、「足もとにそれがあったのにその名称がわからず、おろおろしていると、古年兵はその現物をとりあげ、私の頭を殴りつけた。頭蓋骨が陥没するのではないかと思うほど痛かった」という体験もしていたのである(「戦車・この憂鬱な乗物」『歴史の中の日本』)。

映画の圧巻は、神戸の大空襲のシーンであろう。この場面は《風立ちぬ》で描かれた関東大震災のシーンに劣らないような迫力で描かれており、当時はバケツ・リレーによる防火訓練が行われていたが、実際には焼夷弾は水では消火することはできず、そのために生命を落とした人も少なくなく、映画でも主人公の少年と母親が最後まで消火しようと苦闘した後で道に出てみると、ほとんどの町民はすでに逃げ出していたという場面も描かれていた。

このシーンは、戦争中のスローガンと行動が伴ってはいなかったことをよく示していたが、終戦後にはそれまで「国策」にしたがって肇に体罰を与えていた教官が、ころっと見解を変えたことで、かえって肇が傷つくという場面も描かれていた。

こうして初めは、やんちゃな少年だった主人公が苦しい時代にさまざまな試練にあいながらもくじけずに戦争を乗り越えて自立するまでを見事に描き出しており、《少年H》は現代の青少年にも勇気を与えることのできる映画になっていた。

脇役を固めた役者も母親役の伊藤蘭を初めとして、岸部一徳や國村隼などの渋い役者や小栗旬や早乙女太一、原田泰造や佐々木蔵之介などの旬な役者が脇を固めていたほか、妹役の花田優里音の愛らしさも印象に残った。

なかでも律儀な洋服屋の役を演じた水谷豊の演技には刮目させられた。水谷豊という俳優には、かたくななまでに正義と真実を貫こうとする天才肌の警部役という難しい役柄を見事に演じたころからことに注目していたが、髙橋克彦原作の『だましゑ歌麿』をテレビドラマ化した《だましゑ歌麿》で、狂気をも宿したような天才画家になりきって演じた際には、一回り大きくなったと感じた。時代の流れの中でおとなしくしかし信念を曲げずに家族を守って生きた今回の父親役からは、演技の重みさえも感じることができた。

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司馬遼太郎氏は「昭和十八年に兵隊に取られるまで」、「外務省にノンキャリアで勤めて、どこか遠い僻地の領事館の書記にでもなって、十年ほどして、小説を書きたい」と、「自分の一生の計画を考えて」いた。そして司馬氏は、「自国に憲法があることを気に入っていて、誇りにも思っていた」が、「太平洋戦争の最中、文化系の学生で満二十歳を過ぎている者はぜんぶ兵隊にとるということ」になって、自国の憲法には「徴兵の義務がある」ことが記されていることを確認して「観念」したと書き、敗戦の時には「なぜこんなバカなことをする国にうまれたのだろう」と思ったと激しく傷ついた自尊心の痛みを記している(「あとがき」『この国のかたち』第5巻)。

それゆえ、『坂の上の雲』を書く中で近代戦争の発生の仕組みを観察し続けていた司馬氏は、自国の防衛のための自衛隊は認めつつも、その海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と書いていたのである(『歴史の中の日本』)。

かつて司馬作品の愛読者であることを多くの政治家は公言していたが、その人たちは司馬氏のこの言葉をどのように聞くのだろうか。

戦前の教育や憲法がどのような被害を日本やアジアの国々にもたらしたかを知るためにも、「改憲」を主張する人々にもぜひ見て頂きたい映画である。

『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》 ――ソーニャからナウシカへ

  はじめに

前回の「映画・演劇評」では、当時のソヴィエトの検閲の厳しさに注意を促しながら、このような時代に撮られたレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》の素晴らしさを指摘した。 ただ、エピローグで主人公のラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」などの夢の描写が行われなかったこともあり、原作の『罪と罰』で描かれている深みが出ていないとの不満も残っていた。

そのためもあったのだろうが、初めて《風の谷のナウシカ》で「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」と科学文明の終焉が描かれているのを見たときには、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると感じた。

  1,「大地との絆」

核ミサイルが発射されて全世界が壊滅状態になった後の世界を描いた作品には、フランクリン・J・シャフナー監督の《猿の惑星》(1968年)や、ジェームズ・キャメロン監督の《ターミネター》Ⅰ・Ⅱ(1984年、1991年)などがある。

《風の谷のナウシカ》の場面でことに『罪と罰』との関わりを感じたのは、核戦争後に発生した「腐海の森」から発生する有毒ガスで、生き残った人々の生存も危うくなる中で、「土壌の汚れ」の原因を突き止めようとするナウシカの出現を予言する次のような言葉が語られていたからである。

「その者青き衣(ころも)を/ まといて金色(こんじき)の野に/ おりたつべし」/ /「失われた大地との/ 絆(きずな)を結ばん」

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

一方、『罪と罰』においてドストエフスキーは、戦争で敵を殺しても罪に問われないように、自分も「悪人」を殺しただけだと考えていたラスコーリニコフにたいしてソーニャに次のように語らせていた。 「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

よく知られているように、後にレイチェル・カーソンは名著『沈黙の春』において、「害虫」を殺虫剤によって抹殺しようとした人間の行為が「土壌の世界」を汚染し、植物だけでなく、食物連鎖により鳥や野生動物、さらには人間にもより深刻な被害を生み出したことを明らかにしている。 家族を養うために売春をしていたソーニャは、一見、か弱いだけの女性のようにも見えるが、先の言葉に注目するならば、ソーニャの素朴な考えは、カーソンの思想を先取りしていたともいえるだろう。実際、ソーニャという愛称はギリシア語で「英知」を意味するソフィアという名前から作られており、このことはドストエフスキーが彼女を民衆的な英知を持つ女性として描いていたことを示唆していると思える。

この点で興味深いのはドストエフスキーが若い頃参加していたサークルに、後に「ロシア植物学の父」と呼ばれるようになるアンドレイ・ベケートフがおり、彼は『罪と罰』が発表されることになる『ロシア通報』に、「ヨーロッパ・ロシアの気候」(1858)という論文を発表して、現在の環境問題を先取りするような指摘をし、さらには「弱肉強食の思想」の危険性を明らかにする「生態学」的な思想をもすでに表明していたことである。(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、「第10章 他者としての自然――生命の輝き」参照)。

2,ナウシカの怒りとラスコーリニコフ

ソーニャとナウシカの類似性を指摘するだけで『罪と罰』と《風の谷のナウシカ》との内的な関連を強調することに我無理があるが、ラスコーリニコフとナウシカの類似性も加えることで説得力が増すだろう。

《風の谷のナウシカ》の冒頭では、巨大な「王蟲」に襲われる騎士を救い、さらに騎士のつれていたキツネリスに噛まれた際にも、その小動物の不安を察知して怒らなかったナウシカの優しさが描かれている。

そのことで、墜落する飛行機に捕虜として囚われていた小国ペジテの王女ラステルに対する残虐な体刑の痕を見付け、さらに急襲してきたトルメキア帝国の兵士によって父親が殺害されたことを知って怒りのあまり敵兵を斬すシーンでのナウシカの激しい怒りと悲しみが浮かび上がる。

このシーンが冒頭で描かれることで、ラステルの兄アスベルや、自分の国を滅ぼされた小国ペジテの人々に復讐をやめるように必死に呼びかけるナウシカの言葉に説得力が生まれるのである。

一方、高利をむさぼる高利貸しの老婆を「憎しみ」から殺害する『罪と罰』のラスコーリニコフにはこのような行動は見られない。しかし、ドストエフスキーは彼が自己中心的な若者ではなく、在学中には貧しい肺病患者の学友を助けたことや火事の際には自分が火傷をおいながらも二人の子供を助けたことをエピローグの裁判の場面で明かしている。 。

3.「やせ馬が殺される夢」と「王蟲」の子供が殺される夢

ことに注目したいのは、『罪と罰』ではラスコーリニコフが「高利貸しの老婆」を殺す前に見た夢で、子供の頃に酔っぱらいの馭者が力まかせにやせ馬を鞭うっているのを見て、やせ馬に駆け寄って守ろうとしたシーンを見ることが描かれていることである。

《風の谷のナウシカ》でもナウシカが夢の中で、子供の頃に「王蟲」の子供が殺されそうになっているのを見て「殺さないで」と叫ぶのを再び見るシーンが描かれており、それはナウシカが自分の危険もかえりみずに傷ついた「王蟲」の子供を守るという《風の谷のナウシカ》の感動的なラストシーンへと直結しているのである。 この二つの夢の類似性は単なる偶然かもしれない。

しかし、宮崎監督が尊敬していた漫画家の手塚治虫は『罪と罰』を「常時学校へも携えていき、ついに三十数回読み返してしまった」と記していた(『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、二〇〇八年)。

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

宮崎監督も「ドストエフスキーの『罪と罰』は正座するような気持ちで読みました」と書いていた。

『本への扉』

(図版は「アマゾン」より)

 さらに、宮崎が対談した黒澤明監督もドストエフスキーの長編小説『白痴』を映画化した《白痴》を撮っていたばかりでなく、その他の映画からもドストエフスキー作品への深い理解が感じられる。それらのことにも留意するならば、ナウシカが見る「王蟲」の子供が殺される夢には、ラスコーリニコフが見た「やせ馬が殺される夢」が反映されているといえるかもしれない。  

おわりに

本稿では、漫画『風の谷のナウシカ』(『アニメージュ』徳間書店、1982年2月号~1994年3月号)は考察の対象からははずした。 アニメ映画が公開された後も書き続けられ、SF的な手法でテレパシーや念動力、幽体離脱などが描かれ、不安や絶望などの感情が込められている結論が書かれたこの漫画の世界には、ソヴィエトの崩壊からユーゴスラヴィアの悲惨な内戦に到る時期の混乱が強く反映していると考えるからである。

人間の社会や人間と自然の関係は、《もののけ姫》(1997)でより深く考察されていると思えるので、この問題については稿を改めて考えたい。

(2013年9月18日改訂、2019年1月4日加筆)

長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》

 はじめに

私がロシア文学の研究を始めたのは、ブログにも記したように「他人を殺すことは自分を殺すことになる」という深い思想を、主人公の身体や感情だけでなく、他者との関わりの中で明らかにした長編小説『罪と罰』や『白痴』に強く魅せられたからであった。

2年間のブルガリアでの留学を終えた後で、私が「初期ドストエフスキー作品の研究」というテーマでロシアに留学したのは、当時のソ連では宗教的な内容をも含む後期の作品を考察するのは難しいと考えたことが一番の理由であった。しかし、『貧しき人々』という作品の内容とその構造の意外な面白さに魅せられてもいた私は、ドストエフスキー作品の全体像を把握するためには、初期作品からきちんとその傾向と深まりを分析すべきだとも考えていた。

そのような意図で留学した私が、218分という長さのレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》から感じたのは、帝政ロシアの厳しい検閲下で作品を創作したドストエフスキーのように、体制は異なっても厳しい検閲下にあったソヴィエトでもドストエフスキー作品の意義をなんとか伝えようとする強い意志であった。

 

1,ロシア社会と映画《罪と罰》

ロシアで生活して感じたのは、同じくギリシア正教を受容していたブルガリアと比較すると宗教を宣伝することは禁止されていたにせよ、ロシアの方が宗教的にはより寛容ではないかということであった。

私がドストエフスキー作品の研究をしたいと告げると学科では最初は怪訝な顔をされたが、それでもゼミの教員を紹介してもらえたし、私が『罪と罰』や『白痴』の研究を目指していることを知ると、自宅に食事に招待して研究への助言をしてくれたり、ドストエフスキー関係の映画や演劇を紹介してくれる研究者が現れたが、かれらは皆、ドストエフスキー作品から精神的な支えを得ていた敬虔な正教の信者であった。

宗教的な宣伝が禁じられていたソヴィエトで公開されたレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》では、『聖書』に描かれているラザロの復活の場面をソーニャが読む場面や主人公ラスコーリニコフに十字架を渡すシーンなどは省略されている。

しかし私が驚いたのは、ラスコーリニコフがソーニャの部屋で見付けた『聖書』が、彼が高利貸し老婆とともに殺したリザヴェータから贈られた本であることを告げる場面や、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかと問い質す場面や、自分は有害な老婆を殺したにすぎないと主張するラスコーリニコフに自首を決意させることになるソーニャの次のような言葉もきちんと映画で描写されていたことである。

「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

精神分析学者のフロイトに先だって無意識の分野に注目したドストエフスキーは、長編小説『罪と罰』において重要な役割を果たしている「やせ馬が殺される夢」や「殺された老婆が笑う夢」、そして最後の「人類滅亡の悪夢」などのラスコーリニコフが見る夢を詳しく描いていたが、当時のソ連では夢の解釈はフロイト主義として厳しく批判されており、この映画でも検閲を配慮してと思われるがすべて省かれていた。

しかし、ラスコーリニコフが見た「殺された老婆が笑う夢」をあたかも目撃していたかのように、彼の枕元に現れた地主のスヴィドリガイロフが語る彼の妻・マルファの幽霊の話は、ほぼ原作通りに再現されており、他者にたいする自分の欲望を正当化して、ラスコーリニコフの妹にも現代のストーカーのように付きまとっていたスヴィドリガイロフの孤独と苦悩も浮き彫りにされていた。

長編小説『罪と罰』も推理小説的な構造を持っているが、初めから犯人やトリックを明かしつつ、むしろ犯人の心理や動機に迫るという構造なので、『罪と罰』の粗筋の紹介もかねて、ここでは2部から成る映画《罪と罰》の特徴を簡単に記すことにする。

 

2、映画《罪と罰》の構造とその特徴

映画はいきなり観客を19世紀のペテルブルグの居酒屋へと誘う。すなわち、主人公のラスコーリニコフ(タラトルキン)が酔っぱらった元役人のマルメラードフから貧乏の辛さと借金の苦労を訴えかけられる場面から映画は始まり、犯行の下見のために高利貸しの老婆のアパートを訪れたときの彼の回想をはさんで、役所をリストラされたために娘のソーニャを売春婦にしてしまったことを嘆くマルメラードフの独白と激しい苦悩をラスコーリニコフが聞く場面で、ようやくタイトルが入るのである。

こうして、クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》は、19世紀のロシア社会の状況をきちんと踏まえた上で、「出口」がない状況に追い込まれていた主人公の状況や苦悩を、元役人のマルメラードフとの会話を通してまず示唆していた。

この映画構成の見事さは、「悪人」とみなした「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフと予審判事ポルフィーリイとの3回にわたる息詰まるような対決だけではなく、マルメラードフの家族の悲劇をきちんと具体的に描くことで、家族を養うために売春婦に身を落としたソーニャの苦悩をとおして、兄の立身出世のために中年の弁護士ルージンとの愛のない結婚を決意したラスコーリニコフの妹ドゥーニャの苦悩をも浮かび上がらせていることだろう。

たとえば、事故にあって重傷を負ったマルメラードフを彼の部屋に運んだラスコーリニコフは、そこで元5等官の娘で最初の結婚で3人の子供をもうけた後で夫に死なれて、再婚してソーニャの継母となったカテリーナの強い自尊心とののしりながらも夫に示す複雑な愛情、そして深い苦悩を目の当たりにする。そこに駆け込んで来た「燃えるように赤い羽根をつけた」ソーニャからは運命的な出会いを感じ、母から届いたなけなしのお金を法事のために渡して戻ることが描かれている(第2部第7節)。

結婚のために上京してきた妹のドゥーニャと母が、ラスコーリニコフの狭苦しい部屋で兄の友人のラズミーヒンをまじえて緊迫した会話を交わしているところに、突然、ソーニャが現れる場面からは、黒澤映画《白痴》でガーニャの家族が結婚をめぐって激しく論争しているところにナスターシヤが突然登場する場面を想起させる。

日本ではドストエフスキーの作品に描かれている家族を解体して個人に焦点をあてることで、主人公の孤独に迫るという解釈の流れがあるが、黒澤映画《白痴》と同じようにクリジャーノフ監督の映画《罪と罰》も家族間の軋轢にも注意を向けることで、主人公の苦悩をいっそう明瞭に描き出しているといえよう。

しかも、この場面はラスコーリニコフによってその利己主義的な考えを暴露され、婚約を解消された悪徳弁護士のルージンが、その復讐のためにマルメラードフの法事の席で、虐げられた貧しいソーニャに金を施すふりをして、ひそかに彼女のポケットに大金を入れてソーニャを泥棒にしようとする場面へと直結しており、侮辱されて部屋からも追い出されたカテリーナは、「正義」にも絶望して、ついに発狂して亡くなるのである。

ことに、ラスコーリニコフと予審判事のポルフィーリイ(スモクトゥノフスキー)との対決は見事に映像化されており、クリジャーノフ監督はこの3回にわたる息詰まるような対決をとおして、「英雄」には「悪人」を殺す権利があるとするラスコーリニコフの「非凡人の理論」に潜む危険性をも明らかにしていた。

そして、地主のスヴィドリガイロフが兄ラスコーリニコフの秘密を知っていると語って妹のドゥーニャに迫る密室での息詰まるような場面までを一気に描くことで、この映画は追い詰められた主人公の不安感を浮き彫りにする。

自分を見つめるソーニャ(ベードワ)の真摯な眼差しに促されるようにラスコーリニコフが自首をするという印象的な場面で映画は終わる。

彼の精神的な復活が描かれているエピローグが省略されていたのは残念だったが、観客の身体的な疲労をも考慮に入れるならば、賢明な方針だったとも思える。緊迫した映画の流れで218分の長さも感じられず、見終わってから深く考えさせられる映画である。

 

(台詞の引用は、佐藤千登勢『映画に学ぶロシア語――台詞のある風景』東洋書店、2008年より。クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》については、「長編小説『罪と罰』で映画《夢》を解読する」『黒澤明研究会誌』第29号、2013年3月に一部発表)。

モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

はじめに

今回は私が留学生の引率として1985年6月から10ヵ月間モスクワに滞在した時に見た演劇について記します。演劇の専門家ではないので、モスクワの演劇の全体像を描き出すことはできませんので、ここではドストエフスキー関係の劇を中心にモスクワ演劇の動向を簡単に紹介します。

一、

モスクワの演劇のレパートリーで、まず私の目を惹いたのは、想像以上に古典物が多く演じられていることであった。チェーホフの作品は相変わらず、人気が高いのは当然であるが、この他にもアレクセイ・トルストイの歴史劇、レフ・トルストイの三部作(この内『死せる屍』は三つの劇場で上演されていた)が演じられていた。また日本ではほとんど知られていないが、レフ・トルストイやチェーホフへの道を開いたA・オストロフスキーは18本の戯曲が上演され、しかもそれらの何本かは、同時に二箇所の劇場で演じられていた。

それとともに古典小説の劇化もまたかなり積極的になされていることが私の興味を惹いた。少し振り返っただけでもトルストイの『アンナ・カレーニナ』や、『クロイツェル・ソナタ』、ツルゲーネフの『その前夜』などが浮かんで来る。その他レスコフやシチェドリンの作品もまたレパートリーを飾っている。そしてもちろんドストエフスキーもその例外ではない。

私が大学院生の時に留学の機会を得て初めてソヴィエトを訪れた時、モスクワでは、ドストエフスキーの劇はザワートスキイの『ペテルブルクの夢』(『罪と罰』に基づく)が大当たりし、エーフロスの『兄弟アリョーシャ』(『カラマーゾフの兄弟』に基づく)が話題を呼んでいた。また『ステパンチコヴォ村とその住民』がモスクワ芸術座に掛かり、小さなスタジオでは『貧しき人々』が二人だけで演じられていた。

これらの劇ことに『ペテルブルクの夢』は、予想に反して私に強い印象を与えた。それまで小説の映画化などで原作が損なわれるのを何回も見てきた私は、あまり劇に期待をかけてもいなかったのだ。だがザワートスキイは、巧みな演出と鋭い問題意識で観客の心を捉え、それまでドストエフスキーの孤独な読者であった私は、見知らぬ多くの観客達と共通の気分に浸りながら、このような形でのドストエフスキーの受容もありえることを再確認していた。

確かに劇化や映画化に際しては、原作の著しい短縮は避けられえず、それゆえ原作を損なうこともありえる。だが演出家が深く作品を理解し、その主題を鋭く提示するとき、小説は舞台においてもそのリアリティーを主張しえるのである。そして私はその後、ドストエフスキー自身が若い時、演劇に凝り、戯曲を書き、自分でも演じたことがあることを知った。私のドストエフスキー理解には大きな欠落があったのである。

私が日本に帰ってからモスクワの舞台では、リュビーモフの『罪と罰』や、フォーキンの『俺も行く、俺も行く』(『地下室の手記』と『おかしな男の夢』に基づく)が人間存在の根底に迫る鋭い演出でソヴィエト演劇の枠を大きく広げた(なお、これらの劇に関しては、ルドニーツキイの論文「理念の冒険」に詳しい。残念ながら、リュビーモフはあれからモスクワを去り、以上の劇の内で現在も演じられているのは、『ペテルブルクの夢』一本になってしまった。

だが、ソヴィエト演劇界におけるドストエフスキーの受容は留まることなしに、これまでの成果を踏まえながら、更に新たなる模索をしているといえよう。たとえばモスソヴィエト劇場ではザワートスキイの業績を受け継いだホームスキイの『カラマーゾフの兄弟』が、十年以上のロング・ランを続ける『ペテルブルクの夢』と並んで上演されている。タガンカ劇場では『空想家の手記』(『白夜』と『地下室の手記』に基づく)が初演されており、モスクワ芸術座では『おとなしい女』が、そしてソヴィエト軍劇場の小舞台では『白痴』が演じられている。

二、

モスクワの友人がこの頃劇場の券を手に入れるのが大変むずかしくなったと言った。何故かと問うと恐らくテレビに飽きたらなくなって劇場に来る人々が増えたのだろうと言う。確かにモスクワの劇場は券が安いこともあって(高いものでも七〇〇円位)求め易く、少しよい劇になると、なかなか手に入らず、チケット売り場を求め歩いてもらちがあかず、キャンセルを期待して二時間程前から劇場の前に並ぶことになる。だが驚くべきことには、そこにも既に例の行列ができており、何枚でるかわからない券を延々と待っているのだ。ただこの行列だけは特別で元来劇好きの者ばかりが並んでいるので時には話に花が咲いたりもする。そして苦労して出会った劇との対面には感慨も深いのである。

大きな劇場が、最近いずれも小舞台を別に持つようになった理由の一つは、このような観客数の増加もあるだろう。だが演劇人に語らせると、小舞台の流行は、単に量の問題から来るのではなく、質の問題とも深く関わっていると言う。すなわち小舞台では多少、実験的なこともでき、そこで成功したものを大舞台に懸けることもできる。そしてそれとともに小舞台では俳優と観客の間に距離的なものから来る一種の緊張感も生まれるのだ。

ソヴィエト軍劇場における『白痴』もそうした劇の一つである。期待が大き過ぎただけに劇を見た後は、軽い失望感に襲われたが、それでもこの劇も小舞台の長所を生かしていたとは言える。例えばナスターシヤ・フィリポヴナの提言で、彼女の家に集まった面めんが、誰にも言えなかった心の秘密を語る場面では、単に舞台の上のことではなく観客の一人一人に問いかけるだけの鋭さを有していた。

同じことがタガンカ劇場の旧舞台で演じられた『空想家の手記』にも当てはまる。ここでも場内の空間的狭さは、欠点とはならず、舞台と観客とを結び付ける働きをしている。この劇は一見まったく異なっているように見える二つの作品を空想家という共通項によって統一したものだが、演出家はロマンチストと絶望者という全く相反する二人の主人公を、彼らの分身を登場させることによって説得力豊かに結び付けている。例えば、劇中で女主人公達が語る次のような言葉は、二人の主人公の同質性をまざまざと証明している。

「だって、あなたのお話はまるでご本でも読んでいらっしゃるようなんですもの」(『白夜』)、「あなたはなんだか……まるで本でも読んでいるような話し方をするんですもの」(『地下室の手記』、ともに米川正夫訳)。

さらにリュビーモフは劇『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ作)や、トリーフォノフの『交換』において、悪魔や黒い服を着た仲買人の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していた。

そして、『空想家の手記』でも黒い服を着た分身も盛んに観客に話しかけてはいたが、残念ながらこの分身はことに第一部の『白夜』においては劇から浮いて、ロマンチックな恋を冷ややかに見つめる解説者に成り下がっていた。発想がユニークなだけに突っ込みの足りなさが惜しまれた。

モスクワ芸術座(支部)で演じられた『おとなしい女』は以前レニングラードで上演されていたものだが、主演のボリ-ソフのモスクワ移転に伴ってモスクワでも見られるようになった。

この劇も又、小舞台的な、と言うよりも、小舞台向きの劇だと思える。舞台は妻の自殺の場面が、観客に息を飲ませる位で、他には特に凝った装置はない。しかし初めはぼそぼそとしたボリーソフの声は、次第に力が入り、時には彼の話を直に聞かされていると錯覚する程の迫力を帯びた。

ところで私はこの劇場を見終わってから、なぜか劇『クロイツェル・ソナタ』を思い起こし、これらの劇が今モスクワの劇場で上演されることに興味を覚えた。周知のように『おとなしい女』は、自殺した若い妻の遺骸の脇での高利貸しの男の考えを記したものであり、トルストイの『クロイツェル・ソナタ』もまた妻との精神的つながりを失い、嫉妬から彼女を殺した中年の男の告白である。これら両作品に共通しているのは、愛と性にたいする根本的な反省と洞察であると言えよう。これらの作品の劇化は、離婚が頻発するなかで新しい家族像を模索するソヴィエト社会を反映しているように思える。

三、

モスソヴィエト劇場で演じられた二つの劇は、大舞台のよさを十二分に生かしていた。『ペテルブルクの夢』では、舞台後方に金貸しの老婆が住む古びた建物が再現され、ラスコーリニコフの殺人に至る場面や逃走の場面では、実際に彼が階段を登ったり降りたりする状況がリアルに描かれ、緊迫感を盛り上げている。だがそれとともにザワートスキイもまた観客を単なる観客としてほおってはおかず、事件の目撃者に引きずりこむ。劇が始まる前に、真っ暗な場内に左右から差し込んだ光は、舞台ではなく観客席の真ん中に突き刺さる。舞台に現れたラスコーリニコフも、また舞台には留まらずに、丁度花道のように作られた道を通って、観客席の六列目まで入り込み、そこで自分の考えを述べるのである。更に殺人を犯す前にも彼は観客席に入り込み、そこで隠されていた斧を取り出す。こうししてザワートスキイは緊迫した劇づくりで観客を引き付け、彼らの前にラスコーリニコフの犯罪を暴露するのである。

ホームスキイの『カラマーゾフの兄弟』では、観客は客席に足を踏み入れた途端に劇の世界に入り込むことになる。すなわち舞台には既に居酒屋が存在し、そこでは或る者はギターを弾き、他の者は女を膝に抱いて口説いているのである。そしてホームスキイは、ザワートスキイの問題意識を更に押し進め、スメルジャコフにかなり焦点をしぼって殺すことの意味を問うている。

 舞台作りの上ではザワートスキイが最後のエピローグでは、たぎる霧の中に巨大な十字架をあたかも世界の救済のごとくに浮かび上がらせ、観客をあっと言わせたが、ホームスキイは、居酒屋の場面を一転させて僧院の一室に変えた。するとそれまで天井を形成していたすのこ状の板が半回転して壁となり、そこにはキリストを抱いたマリアの像が無彩色で描かれていた。少なくともこれらの劇を見た範囲では、ソヴィエトにおいても単に宗教を否定するのではなく、そのよい部分は吸収しようとする新しい流れを感じた。

なおこのことに関連して思い起こされるのは、ドストエフスキーの作品による劇『俺も行く、俺も行く』を演出したフォーキンの『語れ』である。この劇は党の在り方を問題にしているのだが、終わり近くで上からの指導を批判し、下からの意見がなければだめだと主人公に語らせながら、最後に相変わらず十年一日のごとくに決まりきった報告書を読みあげる女性のノートを取り上げ、「(自分の声で)語れ」と言った時には、観客の熱い共感が湧き起こった。これまでこのエルモーロワ劇場の券はほとんどいつでも取れたのだがこの劇については、券を手に入れるのがむずかしかった。また今回は見ることができなかったのだが、ロック・ミュージカルなどで若者達に絶大な人気を持つレン・コンソモール劇場が、『良心の独裁』を初演している。この劇は今モスクワで最も人気のある劇の一つであり、ここでは『悪霊』のスタブローギンが登場し、良心の在り方が問題になっているとのことである。

ドストエフスキー研究者のグラーリニクは、その論文で「ドストエフスキーを克服する」のがかつての課題であったが、今では「ドストエフスキーを理解する」ことが必要であると述べ、カリャーキンも『罪と罰』を分析しながら、「どんな『良心』も『知性』を欠いては、あるいはどんな『知性』も良心を欠いては、世界を理解し、改造することはできない」と結論しているが、極めて間接的ではあるが、これらの劇もまた現在のソヴィエトにおけるドストエフスキーの受容を物語っているように思える。

こうしてソヴィエトにおいてもドストエフスキー理解の深まりは、直接的に劇にも反映しドストエフスキー劇以外の劇にも影響を及ぼしていると言えよう、ソヴィエトのドストエフスキー劇がどのような地平を開くのかこれからも注意深く見つめたいと思う。(本稿では肩書きは省略した)。

初出は『人間の場から』第9号、1987年11月1日。その後『ドストエーフスキイの会 会報』第103号、1988年、および『場 ドストエーフスキイの会の記録』Ⅳに再掲。HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更した)。

 

 

『白夜』の鮮烈な魅力――「甘い空想」の破綻を描く

《『白夜』》ヴィスコンティ

(映画《Белые ночи》 1957年のポスター、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

ヴィスコンティの映画《白夜》のニュープリント修復版が十月下旬から公開される。これは「北のヴェニス」と呼ばれるサンクト・ペテルブルクの街を散策することが好きな若者が、白夜の季節に味わったひとときの恋を描いたドストエフスキーのロマンチックな佳作の映画化である。一九五七年にモノクロで撮られたものなので、半世紀近くも昔の映画といえよう。

しかし、一九六九年の《地獄に堕ちた勇者ども》でナチス政権下のドイツの青年達の「欲望」と「他者」への「敵意」を見事に映像化していたヴィスコンティは、トーマス・マンの『ベニスに死す』の映画化では、近づいてくる第一次世界大戦の足音を聞きながらベニスへ「逃避」した作家の「退廃」を、美しい映像を通して描き出すことになる。原作の舞台をイタリアに置き換えた比較的初期の映画《白夜》にも、「おとぎ話のような」物語の内部に鋭い棘(とげ)を秘めており、クリミア戦争に突入するほんの数年前に書かれた原作の緊迫した時代背景も伝え得ている。

たとえば、小説『白夜』の冒頭で描かれる中年の紳士が主人公の女性をつけ回すという有名なシーンの代わりに、映画『白夜』ではオートバイに乗った若者たちが騒音と共にナタリアを追いかけ廻しているが、ここには第二次世界大戦前のイタリアを想起させるようなヴィスコンティのすぐれた時代感覚が現れているだろう。

しかも、マストロヤンニ演じる主人公がバーで夢中になって踊る場面や恋に破れたあとでの娼婦との会話などのシーンをとおして、ヴィスコンティは息苦しい社会の中で「甘い空想」に破れた若者の「苦悩」だけでなく、「退廃」の予兆さえも映像化している。

ことに、夜でもなく昼でもない「白夜」の奇妙な時代感覚を、ヴェニスに降った雪による「白い空間」で表現した幕切れ近くのシーンは圧巻である。奇蹟をもたらしたかに見えた時ならぬ「美しい雪」が、失恋の痛みの中で近づいてくる「冬の時代」の到来を告げるような「冷たい雪」へと変わるのである。

時代の「閉塞感」が強まる中で、「他者」への「敵意」が強まり、「新しい戦争」の足音さえ聞こえ始めた現在、若者の「孤独」と「甘い空想」の破綻を強烈な映像美で描いた映画と『白夜』は、きわめて今日的な作品と映る。

(コラム「知的空間」『東海大学新聞』、2002年9月5日)

(2017年5月5日、図版を追加)

 

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》

黒澤明研究会の会誌には、映画《夢》や《生きものの記録》の考察が掲載されているばかりでなく、広島の被曝をテーマにした黒木和雄監督の《父と暮らせば》や「第五福竜丸」の被爆後に撮られた本多猪四郎監督の映画《ゴジラ》や新藤兼人監督の映画《第五福竜丸》などについての優れた考察が掲載されている。

この会誌をなかなか目にする機会がないと思われるので、いずれ筆者の了解を得た後で紹介していきたいと考えているが、ここでは「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」という日本映画専門チャンネルの2012年の映画特集の前に行われた仙台出身の岩井俊二監督と鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事を紹介しておきたい(注1)。

福島第一原子力発電所の大事故の後で、一気に深まったように見えた黒澤明監督の映画《夢》などへの関心は、当然放映すると思われた「公共放送」のNHKが取り上げなかったこともあり、広まることなく現在に至っているように見えるが、2012年の初めにこのような好企画で特集が組まれていたのを知ったのは新鮮な驚きであった。

スタジオジブリの鈴木敏夫氏については、これまで私の中では敏腕なプロデューサーというイメージが強かったのだが、この対談記事を読んだ後ではイメージが一変し、宮崎監督が全幅の信頼を寄せるのも当然だと思うようになった。

DVDボックスのような形でこの好企画で放映された映画を購入することができれば素晴らしいと思えるので、ここでは《生きものの記録》について語られている箇所を中心にこの対談記事を紹介する(テキスト・構成・撮影:CINRA編集部、2011/12/30)。

*   *   *

岩井:日本映画専門チャンネルで「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」という特集を組むことになりました。今回は黒澤明監督の映画『生きものの記録』などさまざまな作品を放映します。今回の作品ラインナップはいかがでしょうか?

鈴木:放映される作品の中で一番印象に残ったのは、『生きものの記録』ですね。震災後に改めて観ると、以前にくらべて「受け取る印象がこうも違うのか」と思いましたし、すごくリアリティがあった。黒澤っていう人は面白いなと、つくづく思いましたね。

岩井:確か『七人の侍』の翌年に製作され、脚本陣も同じチームで自信を持って作ったそうですが、お客さんは全然入らなかったそうですよ。

鈴木:たぶんそうでしょうね、三船敏郎は良かったけれど(笑)。メークアップも撮影も漫画っぽくしてあったりするけれど、今観ると言いたいこともはっきりしているからすごくリアリティがあって。多くの人に、今観てほしい作品です。

岩井:『日本沈没』もそうで、3.11以降に観ると後半部分には「日本はこれからどうなるのか」というテーマが切実に描かれていると思ったし、思想的にも哲学的にも考えさせられる内容ですよね。いわゆるパニック映画とはちょっと違うテイストで。しかも「御用学者」なんて言葉も登場しているし、真実をぼかして報道するメディアに対する批判もある。(中略)今回放送されるラインナップは、震災前に観るとピンとこなかった作品もありますよね。『生きものの記録』なんて、出てくるセリフの単語のひとつひとつが、震災後に耳にする言葉だったりしますし。

鈴木:黒澤監督は、関東大震災を目の当たりにしているそうなんですね。たくさんの瓦礫と人の死が自分の記憶の底に残った、と著書に書いていて(注2)、そういう意味でも戦争や核の問題に対して敏感だったんでしょう。昔観たときは、『生きものの記録』はむしろ「喜劇映画かよ」っていう印象でしたが、震災を経ることによって、黒澤監督が作品に込めた考えが、やっと伝わってきたような気がしています。

   *   *   *

引用者注                                                                   1,「日本本映画専門チャンネル」で2012年1月5日(木)から2月23(木)毎週木曜日23:00から放送                           1月放送作品:『生きものの記録』/『日本沈没』/『風が吹くとき』/『ヒバクシャ HIBAKUSHA 世界の終わりに』/
『特別番組「岩井俊二×鈴木敏夫 特別対談(仮)」』
2月放送作品:『夢』/『空飛ぶゆうれい船』/『六ヶ所村ラプソディー』/『原子力戦争 Lost Love』/
『特別番組「岩井俊二×坂本龍一 特別対談(仮)」』

2,黒澤明『蝦蟇の油――自伝のようなもの』岩波書店、1990年。

《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

作家・堀辰雄の小説『風立ちぬ』と同じ題名を持つ宮崎駿監督の久しぶりのアニメ映画《風立ちぬ》では、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎と本庄季郎という2人の設計士の友情をとおして、当時の日本の社会情勢もきちんと描かれていた。手元に脚本がないので記憶が定かでない箇所もあるが、ここではその問題と『魔の山』との関係を考察したい。

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印象に残るシーンの一つは、すでに暗くなった街角で親の帰りを待つ少女を見た二郎が、買い求めていた「シベリア」という甘いお菓子を与えようとすると、喉から手が出そうになりながらも、「やせ我慢をして」受け取らずに走り去る場面である。

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ここには西欧列強との戦争に勝つために、最新の兵器の購入や研究には惜しみなく経費を注ぎ込みながらも、「ほしがりません勝つまでは」というスローガンのもとに国民に耐乏生活を強いるようになる政策の問題点が象徴的に描き出されていた。その後の本庄との会話では、経済力などの面から攻撃こそは最大の防御であるとされて、爆撃機や戦闘機も設計された問題点も指摘されていたが、映像でも一瞬ではあったがの場面が描かれていた。

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宮崎監督が次のように語っているのは、おそらくこの場面のことだったと思える。 「二郎の友人に設計士の本庄季郎という人がいるんですが、造った爆撃機が重慶まで出撃した。これは歴史的にも残る無差別爆撃で、同時にその爆撃機を援護したのは堀越二郎の造った零戦だった。」

戦闘員だけでなく一般の市民をも無差別に爆撃したアメリカ軍による「東京大空襲」などの非人道性は指摘されることは多いが、それに先だつ日中戦争で日本軍は重慶の無差別爆撃を行っていたのである。

これらの問題がきちんと描かれているのを見て、ようやく私は『零戦 その誕生と栄光の記録』(角川文庫、2012年)という華々しい題名を持つ堀越氏の著作を購読することにした。第七章が「太平洋上に敵なし」と名付けられているだけでなく、「十三機で敵二十七機を屠(ほふ)る」や、「五十機撃墜、損害は三機」などの小見出しがついていることから、これらが編集者の意向によるものが強いだろうとは思いながらも買うのをためらっていたのである。

実際、著作ではモノローグ的な手法で記されているために、対話的な手法で問題が浮き彫りにされている映画ほどの明瞭さはないが、「昭和十五年の春、中国大陸では、三年前にはじまった日華事変が、ますます根が深くなり、日本はいわゆる泥沼に足をつっこんだような状態に落ちこんでいた」(129ページ)などと《風立ちぬ》の二郎的な視点もきちんと記述されている。

ことに注目したのは、この映画の「企画書」では堀越二郎氏について「トーマス・マンとヘッセを愛読し、シューベルトを聴き、大軍需組織のなかでみなに認められ、平然と世わたりしつつ、自分の美しい飛行機を創りたいという野心をかくしている」と描かれていたが、この著作でも「私には、ナチスドイツが第一次世界大戦のドイツの二の舞いを演じるとしか思えなかった。そしてナチスドイツの前途は暗く、そのドイツとともに歩むことは、日本にとって危険な賭けだと考えざるをえなかった」(181)と明確に記されていることであった。

この二つの記述を読むまでは、避暑地のホテルで山盛りにしたクレソンをムシャムシャと食べ、ナチス政権を批判している謎のドイツ人のモデルは、スパイとして処刑されたゾルゲだろうと私は考えていた。むろん、舞台が日本であることを考えるならばその可能性は強いのだが、この人物が『魔の山』の主人公と同じカストルプという名字を与えられているにも留意するならば、著者のトーマス・マンの形象や思想も投影されていると思える。

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なぜならば、アニメ映画《風立ちぬ》では飛行機の設計の技術などを学ぶためにドイツを訪れた二郎たちが見ることになる、政治警察に追われるドイツ人の場面が印象的な「影」の映像でヒトラー政権におけるゲシュタポ(政治警察)の問題をも暗示していたからである。

一方、トーマス・マンがこの長編小説を書くきっかけとなったのは、スイスのサナトリウムで療養していた妻を見舞った際に夫人から聞いた多くのエピソードであった。

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この長編小説を著す前年の1923年にマンは著作『ドイツ共和国について』でナチスの危険性とワイマール共和制への支持をドイツの知識層に呼びかけていた(「ウィキペディア」)。

『魔の山』の主人公の名前との一致からここまで類推するのは、飛躍のしすぎと感じる方もおられると思う。

しかし、宮崎監督が敬愛した作家の掘田善衛氏は、大学受験のために上京した日に二・二六事件に遭遇した若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、烈しい拷問によって苦しんだいわゆる「左翼」の若者たちや、イデオロギー的には異なりながらも彼らに共感を示して「言論の自由」のために文筆活動を行っていた主人公の若者の姿をとおして、昭和初期の暗い時代を活き活きと描いていた。

堀田氏はこの作品で、ラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、ニコライ一世治下の厳しい検閲制度と迫り来る戦争の重圧の中で描かれたドストエフスキーの『白夜』の美しい文章に何度も言及していたが、司馬遼太郎氏などとの鼎談『時代の風音』ではこの厳しい時代に雑誌『驢馬(ろば)』の同人だった作家・堀辰雄についても語られていたのである。

   *   *   *   *

零戦の設計者・堀越二郎氏の著作『零戦 その誕生と栄光の記録』(角川文庫、2012年)で感心したのは、「第四章  第一の犠牲」や「第六章 第二の犠牲」で、テスト飛行での失敗の原因とその対策について、詳しく記されていることであった。

それは失敗の原因を明らかにしなければ先に進むことができない技術者という視点からは、当然の記述であるといえるかもしれないが、注目したいのはこのような記述が、政府や郡部による「事実」の「隠蔽」に対するきわめて鋭い批判となっていることである。

たとえば、太平洋戦争が始まると「以前にも増して熱にうかされたような勝利の報道がなされつづけた」と記した堀越氏は、「太平洋戦争の転回点となったミッドウェー海戦」についても、「当時の新聞には、『東太平洋の敵根拠地を急襲』といった見出しが一面のトップの最上段全体にわたって掲げられ」ていたが、「戦後明らかにされた事実は、まったく逆だった」と続けていた(203~4ページ)。

さらに、「ガダルカナルをめぐる戦い」も「日本軍の敗北で終わった」が、「新聞には、ガダルカナルからの『転進』であると書かれ、この敗北は国民には隠されていた」と記している(211)。

問題はこのときと同じような事態が、現在の日本で起きていることである。

素人の見解に過ぎないが、私には放射能の濃度が高すぎて原子炉の破損の状況を具体的に調べることができないだけでなく、大量の汚染水が毎日、海洋へと流れ出ている福島第一原子力発電所の事故は、「太平洋戦争の転回点となったミッドウェー海戦」と同じようなレベルでの「原子力の平和利用」政策の破綻であると思える。

新聞やテレビなどのマスコミに求められるのは、「熱にうかされたような」経済効果についての報道ではなく、現実に起きていることとその対策をきちんと「国民」に伝えることだろう。

《風立ちぬ》論のスレッド(Ⅰ~Ⅲ)と【書評】  アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ(Ⅰ) 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風 《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

2024/03/19、ツイートを追加

《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風

《風立ちぬ》の冒頭で描かれた夢のシーンの後に、「大地」が揺れることを実感させられる関東大震災の圧倒的な描写がある。

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汽車に乗っていた主人公の二郎は、大地震の際に菜穂子との運命的な出会いをすることになるのだが、長編小説『竜馬がゆく』で1854年の「東海地震」に遭遇した竜馬の心理と行動を詳しく描いていた司馬遼太郎氏は、「大国」土佐の領主となる山内一豊の妻・千代を主人公とした『功名が辻』でも、地震について二度触れている。

すなわち、長浜城主に封ぜられてから四ヵ月目の夜に起きた「天正地震」で、最愛の娘を失った山内一豊夫妻はその衝撃から抜け出せずに「ひと月あまり廃人同然になった」と書かれている。そして、「伏見大地震」の際には怖がる千代を一豊が「いまおなじ大地で太閤殿下も揺れている。江戸内大臣殿(家康)も揺れている。みな裸か身で揺れておるわい」と慰め、「権勢富貴などは地が一震すれば無になるものだ」という哲学的な言葉を語らせている。(『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、2009年、54~56ページ参照)。

ここには人間は大自然の激動の前にはほとんど無力であるという司馬氏の自然観がよく出ているだろう。それはニヒリズムではなく、地球という星を創造し、火山活動によって日本列島を産み出した大自然への深い畏敬の念なのである。

「太国」土佐の領主となった山内一豊は、征服された後も抵抗をやめない長曾我部家の家臣たちを「鬼」とみなして計略で殺してしまう。その後で司馬氏は「一豊様が一国のあるじになっていただくことが、わたくしの夢でした」が、その夢のために「領民がくるしんでいるとすれば、この夢はわたくしたち夫婦の我執にみちた立身欲だっただけのことになります」と千代に語らせている(第四巻・「種崎浜」)。

司馬氏はそれまでは「殺さない武将」として豊臣秀吉を高く評価していた千代の眼をとおして、「朝鮮征伐」を行うようになった豊臣秀吉を「英雄」の「愚人」化と厳しく批判している。このとき司馬氏は「権力」を得ることによって慢心した政治家は、人の生命の尊さだけでなく、大自然に対する畏敬の念さえも失ってしまうことを示唆していたようにも思える。

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《風立ちぬ》における大地震の描写からは、その激しい揺れが観客席にまで伝わってくるような衝撃を受けたが、高台に停車した列車から脱出した二郎と菜穂子の眼をとおして観客は、大地震の直後に発生した火事が風に乗って瞬く間に広がり、東京が一面の火の海と化す光景を見ることになる。しかも、菜穂子を実家に連れて行こうと歩き出した二郎の歩みとともに逃げ惑う民衆の姿がアニメ映画とは思えない克明さで描かれているのである。

このときの「風」と原発事故後の「風」について宮崎監督は、インタビューででこう語っている。

「福島の原発が爆発した後、風が轟々と吹いたんです。絵コンテに悩みながら、上の部屋で寝っころがっていると、その後ろの木が本当に轟々と鳴りながら震えていました。子供を持っているスタッフたちは線量計を買っていましたが、『ああ、これも風なんだ』と思いましたね。爽やかな風じゃない、轟々と吹く、放射能を含んだ風もこの世界の一部なのだと思いました。そういうことですね、風って」(アトリエ「二馬力」での完成会見より、「風立ちぬ特別号」『スポーツ報知』 )。

宮崎監督のこの言葉を読んだときに思い出したのが、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の後で行われた講演会で語られた司馬遼太郎氏の言葉であった。

「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」(「人と樹木」『十六の話』、中公文庫)。

しかも司馬氏は「平凡なことですが、人間というのはショックが与えられなければ、自分の思想が変わらないようにできているものです」と続けていたが、福島第一原子力発電所の大事故はチェルノブイリ原発事故に匹敵するものであり、しかも後者はともかくも「石棺」によって放射能の流出は止まったが、フクシマからはいまも膨大な量の汚染水が太平洋へと注ぎ出ているのである。

現在の日本に必要なのは、対外的な問題のみを強調して危機感を煽り立てる政治家ではなく、日本の大地や近海だけでなく地球環境をも破壊しつつある重大な問題を直視して、このような原発を推進した者の責任を明らかにするとともに、地球環境の保全のためにもきちんとした対策を立てることのできる政治家であるだろう。

《風立ちぬ》論のスレッド(Ⅰ~Ⅲ)と【書評】  アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ(Ⅰ) 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風 《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

2024/03/18、ツイートを追加