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無意識

長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》

 はじめに

私がロシア文学の研究を始めたのは、ブログにも記したように「他人を殺すことは自分を殺すことになる」という深い思想を、主人公の身体や感情だけでなく、他者との関わりの中で明らかにした長編小説『罪と罰』や『白痴』に強く魅せられたからであった。

2年間のブルガリアでの留学を終えた後で、私が「初期ドストエフスキー作品の研究」というテーマでロシアに留学したのは、当時のソ連では宗教的な内容をも含む後期の作品を考察するのは難しいと考えたことが一番の理由であった。しかし、『貧しき人々』という作品の内容とその構造の意外な面白さに魅せられてもいた私は、ドストエフスキー作品の全体像を把握するためには、初期作品からきちんとその傾向と深まりを分析すべきだとも考えていた。

そのような意図で留学した私が、218分という長さのレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》から感じたのは、帝政ロシアの厳しい検閲下で作品を創作したドストエフスキーのように、体制は異なっても厳しい検閲下にあったソヴィエトでもドストエフスキー作品の意義をなんとか伝えようとする強い意志であった。

 

1,ロシア社会と映画《罪と罰》

ロシアで生活して感じたのは、同じくギリシア正教を受容していたブルガリアと比較すると宗教を宣伝することは禁止されていたにせよ、ロシアの方が宗教的にはより寛容ではないかということであった。

私がドストエフスキー作品の研究をしたいと告げると学科では最初は怪訝な顔をされたが、それでもゼミの教員を紹介してもらえたし、私が『罪と罰』や『白痴』の研究を目指していることを知ると、自宅に食事に招待して研究への助言をしてくれたり、ドストエフスキー関係の映画や演劇を紹介してくれる研究者が現れたが、かれらは皆、ドストエフスキー作品から精神的な支えを得ていた敬虔な正教の信者であった。

宗教的な宣伝が禁じられていたソヴィエトで公開されたレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》では、『聖書』に描かれているラザロの復活の場面をソーニャが読む場面や主人公ラスコーリニコフに十字架を渡すシーンなどは省略されている。

しかし私が驚いたのは、ラスコーリニコフがソーニャの部屋で見付けた『聖書』が、彼が高利貸し老婆とともに殺したリザヴェータから贈られた本であることを告げる場面や、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかと問い質す場面や、自分は有害な老婆を殺したにすぎないと主張するラスコーリニコフに自首を決意させることになるソーニャの次のような言葉もきちんと映画で描写されていたことである。

「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

精神分析学者のフロイトに先だって無意識の分野に注目したドストエフスキーは、長編小説『罪と罰』において重要な役割を果たしている「やせ馬が殺される夢」や「殺された老婆が笑う夢」、そして最後の「人類滅亡の悪夢」などのラスコーリニコフが見る夢を詳しく描いていたが、当時のソ連では夢の解釈はフロイト主義として厳しく批判されており、この映画でも検閲を配慮してと思われるがすべて省かれていた。

しかし、ラスコーリニコフが見た「殺された老婆が笑う夢」をあたかも目撃していたかのように、彼の枕元に現れた地主のスヴィドリガイロフが語る彼の妻・マルファの幽霊の話は、ほぼ原作通りに再現されており、他者にたいする自分の欲望を正当化して、ラスコーリニコフの妹にも現代のストーカーのように付きまとっていたスヴィドリガイロフの孤独と苦悩も浮き彫りにされていた。

長編小説『罪と罰』も推理小説的な構造を持っているが、初めから犯人やトリックを明かしつつ、むしろ犯人の心理や動機に迫るという構造なので、『罪と罰』の粗筋の紹介もかねて、ここでは2部から成る映画《罪と罰》の特徴を簡単に記すことにする。

 

2、映画《罪と罰》の構造とその特徴

映画はいきなり観客を19世紀のペテルブルグの居酒屋へと誘う。すなわち、主人公のラスコーリニコフ(タラトルキン)が酔っぱらった元役人のマルメラードフから貧乏の辛さと借金の苦労を訴えかけられる場面から映画は始まり、犯行の下見のために高利貸しの老婆のアパートを訪れたときの彼の回想をはさんで、役所をリストラされたために娘のソーニャを売春婦にしてしまったことを嘆くマルメラードフの独白と激しい苦悩をラスコーリニコフが聞く場面で、ようやくタイトルが入るのである。

こうして、クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》は、19世紀のロシア社会の状況をきちんと踏まえた上で、「出口」がない状況に追い込まれていた主人公の状況や苦悩を、元役人のマルメラードフとの会話を通してまず示唆していた。

この映画構成の見事さは、「悪人」とみなした「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフと予審判事ポルフィーリイとの3回にわたる息詰まるような対決だけではなく、マルメラードフの家族の悲劇をきちんと具体的に描くことで、家族を養うために売春婦に身を落としたソーニャの苦悩をとおして、兄の立身出世のために中年の弁護士ルージンとの愛のない結婚を決意したラスコーリニコフの妹ドゥーニャの苦悩をも浮かび上がらせていることだろう。

たとえば、事故にあって重傷を負ったマルメラードフを彼の部屋に運んだラスコーリニコフは、そこで元5等官の娘で最初の結婚で3人の子供をもうけた後で夫に死なれて、再婚してソーニャの継母となったカテリーナの強い自尊心とののしりながらも夫に示す複雑な愛情、そして深い苦悩を目の当たりにする。そこに駆け込んで来た「燃えるように赤い羽根をつけた」ソーニャからは運命的な出会いを感じ、母から届いたなけなしのお金を法事のために渡して戻ることが描かれている(第2部第7節)。

結婚のために上京してきた妹のドゥーニャと母が、ラスコーリニコフの狭苦しい部屋で兄の友人のラズミーヒンをまじえて緊迫した会話を交わしているところに、突然、ソーニャが現れる場面からは、黒澤映画《白痴》でガーニャの家族が結婚をめぐって激しく論争しているところにナスターシヤが突然登場する場面を想起させる。

日本ではドストエフスキーの作品に描かれている家族を解体して個人に焦点をあてることで、主人公の孤独に迫るという解釈の流れがあるが、黒澤映画《白痴》と同じようにクリジャーノフ監督の映画《罪と罰》も家族間の軋轢にも注意を向けることで、主人公の苦悩をいっそう明瞭に描き出しているといえよう。

しかも、この場面はラスコーリニコフによってその利己主義的な考えを暴露され、婚約を解消された悪徳弁護士のルージンが、その復讐のためにマルメラードフの法事の席で、虐げられた貧しいソーニャに金を施すふりをして、ひそかに彼女のポケットに大金を入れてソーニャを泥棒にしようとする場面へと直結しており、侮辱されて部屋からも追い出されたカテリーナは、「正義」にも絶望して、ついに発狂して亡くなるのである。

ことに、ラスコーリニコフと予審判事のポルフィーリイ(スモクトゥノフスキー)との対決は見事に映像化されており、クリジャーノフ監督はこの3回にわたる息詰まるような対決をとおして、「英雄」には「悪人」を殺す権利があるとするラスコーリニコフの「非凡人の理論」に潜む危険性をも明らかにしていた。

そして、地主のスヴィドリガイロフが兄ラスコーリニコフの秘密を知っていると語って妹のドゥーニャに迫る密室での息詰まるような場面までを一気に描くことで、この映画は追い詰められた主人公の不安感を浮き彫りにする。

自分を見つめるソーニャ(ベードワ)の真摯な眼差しに促されるようにラスコーリニコフが自首をするという印象的な場面で映画は終わる。

彼の精神的な復活が描かれているエピローグが省略されていたのは残念だったが、観客の身体的な疲労をも考慮に入れるならば、賢明な方針だったとも思える。緊迫した映画の流れで218分の長さも感じられず、見終わってから深く考えさせられる映画である。

 

(台詞の引用は、佐藤千登勢『映画に学ぶロシア語――台詞のある風景』東洋書店、2008年より。クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》については、「長編小説『罪と罰』で映画《夢》を解読する」『黒澤明研究会誌』第29号、2013年3月に一部発表)。