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《生きる》

映画《白痴》から映画《生きる》へ

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(映画《生きる》の「ポスター」、製作:Toho (c) 1952。図版は「ウィキペディア」による)

 

映画《生きる》とイッポリートの可能性

長編小説『白痴』において重要な役割を果たしているイッポリートについてのエピソードは映画《白痴》ではまったく描かれてはいない。しかし、その翌年に公開された映画《生きる》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)について、黒澤は「しみじみと感情を堪えて」というエッセーでこう書いている。

 「ぼくはときどき、ふっと自分が死ぬ場合のことを考える。すると、これではとても死に切れないと思って、いても立ってもいられなくなる。もっと生きているうちにしなければならないことが沢山ある。僕はまだ少ししか生きていない。こんな気がして胸が痛くなる。《生きる》という作品は、そういう僕の実感が土台になっている。この映画の主人公は死に直面してはじめて過去の自分の無意味な生き方に気がつく。いや、これまで自分がまるで生きていなかったことに気がつくのである。そして残された僅かな期間を、あわてて立派に生きようとする。僕は、この人間の軽薄から生まれた悲劇をしみじみと描いてみたかったのである」。

 このような黒澤の言葉に注意を払うならば、体調を壊して病院に行ったことで隣り合わせた人物から胃癌の詳しい症状を聞かされ、自分の余命がほとんどないことを知って、「死刑の宣告」を受けたように苦しむ定年退職前の市民課の課長・渡辺の苦悩と、新しい生きがいを見つけた喜びをモノクロのトーンでしっくりと描いた映画《生きる》は、長編小説『白痴』におけるイッポリートのテーマを受け継いでいると思える。

 実際、子供のためだけに三〇年も務めてきた自分の人生を振り返って自暴自棄になり、やけ酒を飲んでは無断欠勤を繰り返すようになった渡辺は、飲み屋で知り合った小説家から、「人間、生きることに貪欲にならなくちゃ駄目です」と説得されて、ダンス・ホールやストリップ劇場などを案内されたが、いっこうに癒されずに深い絶望感を味わう。

 しかし、自宅へと朝帰りをする途中で、市役所を辞職したいので急いで判がほしいという若い部下のとよと出会い、自宅で書類に判を押した渡辺は、市役所が退屈だったと語る部下が、自分にも密かに「ミイラ」というあだ名を付けていたことを知って思わず久しぶりの笑いを浮かべた。そして、イッポリートが美しく生命力にあふれたアグラーヤに密かに強い関心を抱いていたように、とよの生き生きとした姿に強く惹かれた渡辺も彼女を映画館や食事に誘うようになる。

 自分との付き合いにしか喜びを見いだせない渡辺にとよは、自分が工場で作っているウサギのおもちゃを喫茶店で渡して「何か作ってみたら」と諭した。するとしばらくそれを手にとって見つめていた主人公は、不意に「やる気になればできる」とつぶやき、おもちゃを手にとって急いで階段をおり始める。その時に、退出する男の後を追うように、若者たちの陽気なハッピー・バースデイの合唱が始まり、階段を登ってくる若い乙女とすれ違うのである。

 この場面で響く乙女の誕生日を祝う若者たちの陽気な歌声は、それまで市役所での仕事を嫌々こなしてきた「ミイラ」のような初老の男が、あたかも「復活」して真に生き始めるのを祝福する歌のように感じられるのである。前年度に撮られた《白痴》における前半の山場が、精神的な復活を計ろうとしていた妙子(ナスターシヤ)の誕生祝いだったことを思い起こすならば、続けて撮られた二つの映画の類似性は明らかだろう。

 しかも、《生きる》の後半では、葬儀の会葬者たちの会話をとおして、亡くなった市役所の課長が「胃癌と闘いながら」、市民たちの強い願いでありながら官僚的なたらい回しにあっていた公園の建設に邁進して、それを成し遂げていたことが明らかになってくる。

 警官の証言では公園で行き倒れのように亡くなっていたと思われていた男が、雪の降る公園で「命短し、恋せよ乙女」という歌をブランコにのって、しみじみと満足そうに歌っていたことが明らかになる。すると通夜の席で課員たちは次々と「僕も生まれ変わったつもりで」などと語り、改革への意欲が盛り上がったのだった。

 しばらくするとその時の興奮と感激を忘れたかのように職員たちが再び惰性に流された仕事ぶりに戻っていく。課長の遺志を継ごうとしながらもそのような職場にむなしさを感じていた一人の職員が、渡辺の行動で実現した公園に行く。そこで楽しげに遊ぶ子供たちの姿を見つけて、彼が渡辺のしたことの意義を感じるところで映画は終わるのである。

 こうして、なかなか「他者」からは理解されなかった主人公の行動の描写や、部下たちの「記憶」が重ね合わされることで、生前の渡辺の意義が浮かび上がってくるという映画《生きる》の構造は、映画《白痴》のエピローグにおける薫と綾子の「記憶」をめぐる会話を強く思い起こさせる。

 このように見てくるとき、映画《生きる》において黒澤が描いたのはイッポリートが望みながら死期を告げられたことで断念してしまった「他者を変え、そして生かす思想」の実現であるといっても過言ではないと言えるだろう。

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、272~275頁より。なお、前の文章との関連を示すために言葉を補い文体を少し直した他、注は省略した)。