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《風の谷のナウシカ》

『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》 ――ソーニャからナウシカへ

  はじめに

前回の「映画・演劇評」では、当時のソヴィエトの検閲の厳しさに注意を促しながら、このような時代に撮られたレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》の素晴らしさを指摘した。 ただ、エピローグで主人公のラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」などの夢の描写が行われなかったこともあり、原作の『罪と罰』で描かれている深みが出ていないとの不満も残っていた。

そのためもあったのだろうが、初めて《風の谷のナウシカ》で「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」と科学文明の終焉が描かれているのを見たときには、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」が見事に映像化されていると感じた。

  1,「大地との絆」

核ミサイルが発射されて全世界が壊滅状態になった後の世界を描いた作品には、フランクリン・J・シャフナー監督の《猿の惑星》(1968年)や、ジェームズ・キャメロン監督の《ターミネター》Ⅰ・Ⅱ(1984年、1991年)などがある。

《風の谷のナウシカ》の場面でことに『罪と罰』との関わりを感じたのは、核戦争後に発生した「腐海の森」から発生する有毒ガスで、生き残った人々の生存も危うくなる中で、「土壌の汚れ」の原因を突き止めようとするナウシカの出現を予言する次のような言葉が語られていたからである。

「その者青き衣(ころも)を/ まといて金色(こんじき)の野に/ おりたつべし」/ /「失われた大地との/ 絆(きずな)を結ばん」

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(《風の谷のナウシカ》、図版は「Facebook」より)。

一方、『罪と罰』においてドストエフスキーは、戦争で敵を殺しても罪に問われないように、自分も「悪人」を殺しただけだと考えていたラスコーリニコフにたいしてソーニャに次のように語らせていた。 「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

よく知られているように、後にレイチェル・カーソンは名著『沈黙の春』において、「害虫」を殺虫剤によって抹殺しようとした人間の行為が「土壌の世界」を汚染し、植物だけでなく、食物連鎖により鳥や野生動物、さらには人間にもより深刻な被害を生み出したことを明らかにしている。 家族を養うために売春をしていたソーニャは、一見、か弱いだけの女性のようにも見えるが、先の言葉に注目するならば、ソーニャの素朴な考えは、カーソンの思想を先取りしていたともいえるだろう。実際、ソーニャという愛称はギリシア語で「英知」を意味するソフィアという名前から作られており、このことはドストエフスキーが彼女を民衆的な英知を持つ女性として描いていたことを示唆していると思える。

この点で興味深いのはドストエフスキーが若い頃参加していたサークルに、後に「ロシア植物学の父」と呼ばれるようになるアンドレイ・ベケートフがおり、彼は『罪と罰』が発表されることになる『ロシア通報』に、「ヨーロッパ・ロシアの気候」(1858)という論文を発表して、現在の環境問題を先取りするような指摘をし、さらには「弱肉強食の思想」の危険性を明らかにする「生態学」的な思想をもすでに表明していたことである。(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、「第10章 他者としての自然――生命の輝き」参照)。

2,ナウシカの怒りとラスコーリニコフ

ソーニャとナウシカの類似性を指摘するだけで『罪と罰』と《風の谷のナウシカ》との内的な関連を強調することに我無理があるが、ラスコーリニコフとナウシカの類似性も加えることで説得力が増すだろう。

《風の谷のナウシカ》の冒頭では、巨大な「王蟲」に襲われる騎士を救い、さらに騎士のつれていたキツネリスに噛まれた際にも、その小動物の不安を察知して怒らなかったナウシカの優しさが描かれている。

そのことで、墜落する飛行機に捕虜として囚われていた小国ペジテの王女ラステルに対する残虐な体刑の痕を見付け、さらに急襲してきたトルメキア帝国の兵士によって父親が殺害されたことを知って怒りのあまり敵兵を斬すシーンでのナウシカの激しい怒りと悲しみが浮かび上がる。

このシーンが冒頭で描かれることで、ラステルの兄アスベルや、自分の国を滅ぼされた小国ペジテの人々に復讐をやめるように必死に呼びかけるナウシカの言葉に説得力が生まれるのである。

一方、高利をむさぼる高利貸しの老婆を「憎しみ」から殺害する『罪と罰』のラスコーリニコフにはこのような行動は見られない。しかし、ドストエフスキーは彼が自己中心的な若者ではなく、在学中には貧しい肺病患者の学友を助けたことや火事の際には自分が火傷をおいながらも二人の子供を助けたことをエピローグの裁判の場面で明かしている。 。

3.「やせ馬が殺される夢」と「王蟲」の子供が殺される夢

ことに注目したいのは、『罪と罰』ではラスコーリニコフが「高利貸しの老婆」を殺す前に見た夢で、子供の頃に酔っぱらいの馭者が力まかせにやせ馬を鞭うっているのを見て、やせ馬に駆け寄って守ろうとしたシーンを見ることが描かれていることである。

《風の谷のナウシカ》でもナウシカが夢の中で、子供の頃に「王蟲」の子供が殺されそうになっているのを見て「殺さないで」と叫ぶのを再び見るシーンが描かれており、それはナウシカが自分の危険もかえりみずに傷ついた「王蟲」の子供を守るという《風の谷のナウシカ》の感動的なラストシーンへと直結しているのである。 この二つの夢の類似性は単なる偶然かもしれない。

しかし、宮崎監督が尊敬していた漫画家の手塚治虫は『罪と罰』を「常時学校へも携えていき、ついに三十数回読み返してしまった」と記していた(『手塚治虫 ぼくのマンガ道』新日本出版社、二〇〇八年)。

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

宮崎監督も「ドストエフスキーの『罪と罰』は正座するような気持ちで読みました」と書いていた。

『本への扉』

(図版は「アマゾン」より)

 さらに、宮崎が対談した黒澤明監督もドストエフスキーの長編小説『白痴』を映画化した《白痴》を撮っていたばかりでなく、その他の映画からもドストエフスキー作品への深い理解が感じられる。それらのことにも留意するならば、ナウシカが見る「王蟲」の子供が殺される夢には、ラスコーリニコフが見た「やせ馬が殺される夢」が反映されているといえるかもしれない。  

おわりに

本稿では、漫画『風の谷のナウシカ』(『アニメージュ』徳間書店、1982年2月号~1994年3月号)は考察の対象からははずした。 アニメ映画が公開された後も書き続けられ、SF的な手法でテレパシーや念動力、幽体離脱などが描かれ、不安や絶望などの感情が込められている結論が書かれたこの漫画の世界には、ソヴィエトの崩壊からユーゴスラヴィアの悲惨な内戦に到る時期の混乱が強く反映していると考えるからである。

人間の社会や人間と自然の関係は、《もののけ姫》(1997)でより深く考察されていると思えるので、この問題については稿を改めて考えたい。

(2013年9月18日改訂、2019年1月4日加筆)