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齋藤博著『文明のモラルとエティカ――生態としての文明とその装置』(東海大学出版会、2006年)を「書評・図書紹介」に掲載しました

「書評・図書紹介」の最初のページに、学会誌『比較文明』(第23号)に掲載された『文明のモラルとエティカ――生態としての文明とその装置』の書評を再掲します。

齋藤博・東海大学名誉教授の文明学に対するご貢献については、論文集『文明と共存』の序文「混沌から共存へ」に記されているので、ここではそれを引用しておきます。

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新しい世紀を迎えた現在も世界の各地で宗教問題や民族問題を契機とした紛争が頻発し、イラク戦争も大義が見つからないままに混沌の度合いを深め、一部ではすでに宗教戦争の様相を示しているとの見方も出始めている。

このような意味で二十一世紀への新しい視点を確立するためにも、スピノザの専門的な研究成果をふまえて、「文明への問いは人間の共存の根拠を問うこと」であるとして、東海大学文明学の理論的な方向性を示された齋藤博教授の先駆的な学的試みは高く評価されねばならないだろう。

本著はそのような齋藤名誉教授の学恩を受けた大学院生卒業生の論文を中心にして編んだものであり、いわば各人における齋藤文明学の受容と自分の専門の視点からの発展が示されている。

本著が混迷から共存への方向性を模索する文明学の発展にささやかでも寄与できれば幸いである。

黒澤監督没後二〇周年と映画《白痴》の円卓会議

 黒澤監督没後二〇周年を記念した黒澤明研究会の『会誌』No.40が届きました。この号に入会のいきさつや映画《白痴》の円卓会議についての経過報告を投稿ましたので、以下に転載します。

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『白痴』の発表から一五〇周年に当たる今年の一〇月にブルガリアの首都ソフィア大学で開催されるドストエフスキーのシンポジウムでは、『白痴』が主なテーマの一つとなり、シンポジウムの最後を飾ることになる円卓会議では映画《白痴》が取り上げられることになりました。

ブルガリア、ソフィア大学(ソフィア大学、ブルガリア語版「ウィキペディア」)

この円卓会議では会員の槙田氏が基調講演を行い、その後で日本からは九州大学の清水孝純名誉教授と私の発表と、ブルガリア・ドストエフスキー協会のディミトロフ会長の発表が予定されています。

私は拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)の発行後に堀会員の強い勧めで入会しました。『会誌』の「黒澤明研究会四〇周年記念特別号」(第二七号、二〇一二年)を読み返していたところ、映画《白痴》についての思いと今後の抱負を記している記述がありましたので、要約して再掲します。

【高校時代にドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』を読んでロシア文学の研究を目指すようになったが、留学先のブルガリアでポーランドなどの東欧の学生から、ことに後期のドストエフスキー作品に対する厳しい批判があることを知ったことなどから、『白痴』に対する思いが揺らいだこともあった。しかし、映画『白痴』を見た際には、日本に舞台が移し替えられているものの、主人公の亀田(ムィシキン)をはじめとする登場人物が見事に描かれ、原作の理念が正しく伝えられていることに深い感動を受けた。

黒澤監督はドストエフスキーを「つっかえ棒」になってくれた作家と呼んでいたが、映画『白痴』も私にとってはドストエフスキー研究を続ける「支え」の役割を果たしてくれた。黒澤明監督が一九世紀のロシア文学をきわめ深く理解していたことを明らかにすることで、黒澤映画の魅力やその現代的な意義を伝え、黒澤映画を広めていきたい。】

 今回、映画《白痴》の円卓会議の企画にも関わることで、入会時の念願を果たすことができることになりました。

通常の三年ごとの大会の他に急遽、設定されたシンポジウムだったので、参加者がどのくらい集まるかに、最初は多少・不安がありました。しかし、ロシアからの出席者にはサンクトペテルブルクとモスクワの「ドストエフスキーの家博物館」の両館長もいます。

盛り上がった学会となり長編小説『白痴』とともに映画《白痴》の理解が深まることが期待されます。詳細については帰国後に報告することにし、ここでは六五名の参加者の国名と人数のみを記しておきます。

ロシア 二〇/ ブルガリア 一三 / イタリア 一〇/ 日本 五/ アメリカ合衆国 四/ ウクライナ 三 / イギリス 一/ ギリシア 一/ セルビア 一/ ドイツ 一/ ハンガリー 一/ ブラジル 一/ フランス 一/ ベラルーシ 一/ ポーランド 一/マケドニア 一/

(黒澤明研究会編『研究会誌』)、No.40号、2018年、16~17頁、転載に際して一部記述を変更した)

黒澤明監督の映画《夢》、BSプレミアムで9月30日深夜放映

黒澤明監督の映画《夢》をNHKが9月30日深夜に BSプレミアムで放映。

映画《夢》(1990年)は、福島第一原子力発電所の事故を予言していたとネットで話題になったが、黒澤明監督は全八話からなるオムニバス形式の映画の前半では「狐の嫁入り」の伝説を元にした「日照り雨」や「桃の節句」の美しい人形たちの舞を描いた第二話「桃畑」などをとおして自然の美しさを描き出していた。

展覧会でゴッホの絵に魅入っていた私(寺尾聰)が、いつの間にか絵画の世界へと入り込み、敬愛していたゴッホ(マーティン・スコセッシ)と出会うという第五話「鴉」も印象に残る。

さらに、黒澤監督は原発や核戦争の危険性と絶望的な状況を第六話「赤富士」と第七話「鬼哭」で描いただけでなく、第八話「水車のある村」で自然エネルギーの可能性も示すことで、絶望からの「復活」の方向性も示唆していた。

黒澤明監督が関東大震災で見たもの――朝鮮人虐殺から映画《生きものの記録》へ

1923年9月の関東大震災での朝鮮人虐殺を巡り、日本政府は百年後の6月15日の参院法務委員会で社民党の福島瑞穂党首の質問に対して、「当時の内務省が朝鮮人に関する流言を事実とみなし、取り締まりを求めた公文書を保管していることを認めた。」(共同通信社)

警察を所管していた内務省警保局が震災直後の9月3日、全国の地方長官に宛てて打った電報で「(朝鮮人が)爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり」などと認定した上で「厳密なる取り締まりを加えられたし」と記載されている。

(2023年6月18日加筆)

1923年9月1日に起きた関東大震災の犠牲者を追悼する大法要が都立横網町公園の慰霊堂で昨日営まれ、公園内では朝鮮人犠牲者追悼式も開かれた。しかし、「日本会議」代表委員の石原慎太郎氏でさえも、元都知事の際には寄せていた朝鮮人犠牲者への追悼文を小池都知事は3年連続で見送った。

この背景には1965年の「日韓請求権協定」問題のこじれなどから日韓政府が激しく対立することになったため安倍政権の経済政策を担って、原発の輸出などを推進してきた創生「日本」の副会長の世耕経産相が、雑誌などで「嫌韓」を煽るようになっていることがあるだろう。

しかし、元・文部科学事務次官の前川喜平氏が昨日の「東京新聞」で書いているように、震災後には「人々の心の中に巣くう偏見や差別意識が、不安や恐怖に突き動かされ、極めて残忍かつ醜悪な暴力として顕在化し」、「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「不逞朝鮮人が日本人を襲う」などの流言飛語を信じた「自警団」などによって朝鮮人が次々と虐殺されていた。

https://twitter.com/yunoki_m/status/1168158075133415426

今となっては信じがたいような大事件だが、これについては当時19歳で千駄ヶ谷に住んでいた演出家の千田是也が、その時に間違えられて危うく殺されそうになったことを証言し、「異常時の群集心理で、あるいは私も加害者になっていたかもしれない」と思い、「自戒を込めて」芸名を、「千駄(センダ)ヶ谷のKorean(コレヤ)」にした」と語っていた(毎日新聞社・編『決定版昭和史 昭和前史・関東大震災』所収)。

さらに、中学2年生時に被災した黒澤明監督も自伝『蝦蟇の油』(岩波書店)で、「関東大震災は、私にとって、恐ろしい体験であったが、また、貴重な経験でもあった。/ それは、私に、自然の力と同時に、異様な人間の心について教えてくれた」と記していた。

宮崎駿監督の映画《風立ちぬ》では朝鮮人虐殺のシーンなどは描かれていないが、座っている座席も地震で揺れているような錯覚に陥るほどの圧倒的な迫力で大地震とその直後に発生した火事が風に乗って瞬く間に広がり、東京が一面の火の海と化す光景が描かれている。

黒澤はその時「ああ、これがこの世の終わりか」とも思ったが、真に恐ろしい事態は大都会が闇に蔽われた時に訪れた。

「下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蠟燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その闇に脅えた人達は、恐ろしいデマゴーグの俘虜になり、まさに暗闇の鉄砲、向こう見ずな行動に出る。/ 経験の無い人には、人間にとって真の闇というものが、どれほど恐ろしいか、想像もつくまいが、その恐怖は人間の正気を奪う。/どっちを見ても何も見えない頼りなさは、人間を心の底からうろたえさせるのだ。/ 文字通り、疑心暗鬼を生ずる状態にさせるのだ。/ 関東大震災の時に起った、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である。」

実際、この時黒澤は「髭を生やした男が、あっちだ、いやこっちだと指差して走る後を、大人の集団が血相を変えて、雪崩のように右往左往する」のを自分の眼で見、朝鮮人を追いかけて殺そうとする人々が、日本人をも「朝鮮人」として暴行を加えようとした現場にも、立ち会っていた。

たとえば、「焼け出された親類を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた」が、父が「馬鹿者ッ!!」 と大喝一声すると、「取り巻いた連中は、コソコソ散っていった」。

それゆえ後年、黒澤明監督は娘の和子に「日本人は、付和雷同する民族だ、関東大震災や二度の世界大戦も知っているけど、恐怖にかられた人間は、常軌を逸した行動に走る」と指摘し、「この情報社会になってからは、日常の中にそういう現象が起こるようになった。これは、本当に恐ろしいことだよ」と語ったのである。

そして、前川氏も「韓国に対し殊更に強圧的な言辞をあからさまに吐く政治家たち」や「これでもかと嫌韓を煽るテレビのバラエティー」などに注意を促して、同じようなことは、「百年近く経った今日でも起こりかねないことだ」と指摘している。

一方、関東大震災の時に兄の丙午から「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。よく見れば、怖いものなんかあるものか」と教えられた黒澤明は、「第五福竜丸」事件の後では放射能の被曝を主題とした映画《生きものの記録》を公開した。

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(東宝製作・配給、1955年、「ウィキペディア」)。

映画《生きものの記録》が英語で《I Live In Fear (私は恐怖の中で生きている)と訳されていることもあり、いまだにこの主人公の老人・喜一は「恐怖」から逃げだそうとしたと誤解されることが多い。

しかし、むしろ彼は放射能の問題を直視しており、「あんなものにムザムザ殺されてたまるか、と思うとるからこそ、この様に慌てとるのです」と語り、「ところが、臆病者は、慄え上がって、ただただ眼をつぶっとる」と批判していたのである。

その意味でこの老人・喜一は自然の豊かさや厳しさを本能的に深く知っていた映画《デルス・ウザーラ》の主人公の先行者的な人物であったといえるだろう。(拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社)。

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小池百合子・都知事は、朝鮮人犠牲者への追悼文を見送ることで、朝鮮人虐殺の問題から都民の目を逸らさせ、「風化」させることを狙っているようだが、「日本の『負の歴史』に真摯に向き合おうとしなければ、忌まわしい過去は繰り返される」ことになるだろう。

前川氏が結んでいるように「九月一日は単なる防災の日ではない。大量虐殺という人災を繰り返さないための誓いの日でなければならないのだ。」

黒澤明と宮崎駿――《七人の侍》から《もののけ姫》へ(ロシア文学と民話とのかかわりを中心に)

6月25日に黒澤明研究会で標記の研究発表をしました。

中世史の研究者・網野義彦は《もののけ姫》のパンフレットに寄せた文章で、「山や森は神様が住む聖地なのだという捉え方が崩れはじめたのが室町時代だからで、これは歴史的な事実だといってもよいと思います」と記していましたが、作家の司馬遼太郎も堀田善衛や宮崎駿と一九九二年に行った鼎談で、日本では「弥生式のころから引き継いでいる大地への神聖観というのをどうも失いつつある」と指摘していました(『時代の風音』朝日文庫)。

ニーチェは『ツァラトゥストラ』の第一部の終わりに「すべての神々は死んだ。いまやわれわれは超人が栄えんことを欲する」という有名な言葉を記していたが(太字の箇所は訳書では傍点)、八百万の神々が共存するような多神教的な世界観は、日本でもすでに室町時代には崩れ始めていたのです。

そのことが、明治維新の際に西欧列強やロシア帝国の宗教を強く意識しながら、天皇を「一神教的な現人神」とし「全国の神社を官社と諸社に分け」て序列化を行った「国家神道」の成立を準備していたと思えます。

「こんな夢をみた」という字幕が最初に示されるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」でも原発事故の問題が鋭く提起されていますが、この映画の魅力は原発批判や戦争批判に留まらず、このような明治以降の「国家神道」の教えで失ってしまった地震や火山など自然の驚異や生命の神秘に対する畏敬の念も見事に再現していることでしょう(拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』のべる出版企画、2016年、141~142頁)

発表は2部からなり、第1部では「ロシア文学と民話とのかかわりを中心に」第2部では「《七人の侍》から《もののけ姫》へ」という題で考察しました。

 「映画・演劇評」のページに黒澤明と宮崎駿(1)――ロシア文学と民話とのかかわりを中心に」と「黒澤明と宮崎駿(2)――《七人の侍》から《もののけ姫》へを掲載します。

 

黒幕は誰か――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(9)

 

ネタバレあり

『永遠の0(ゼロ)』を読み始めた私は、そのトリックが明らかになる後半に近づくにしたがって、この作品が「文学」を侮辱しているばかりでなく、その「作者」が「人間」を馬鹿にしていると激しい怒りを覚えました。

「黒幕は誰か」という今回のテーマについては、一応、推理小説的な構造を持つこの作品のネタバレになるので躊躇していました。

しかし、「臆病者」と罵(ののし)られながらも、「家族」のことを大切に思い、「命が大切」と語っていた宮部久蔵が終戦間際に「突撃」して亡くなるという最後の不自然さについては、すでにアマゾンのカスタマーレビューなどでも指摘されています。

それゆえ、まだ読んでいない人にはネタバレになることをお断りしたうえで、『永遠の0(ゼロ)』という小説の構造において、誰が「オレオレ詐欺」グループの黒幕的な働きをしているのを明らかにしたいと思います。

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まず、『永遠の0(ゼロ)』(講談社文庫)の家族関係と人間関係を確認しておきます。

家族関係

宮部久蔵(祖父、零戦のパイロット、特攻隊員として死亡)

宮部松乃(祖母、久蔵の死後、大石賢一郎と再婚)

佐伯清子(宮部夫妻の娘、姉弟の母、夫の死後、会計事務所を経営)

佐伯健太郎(清子の息子、語り手、弁護士を志す若者)

佐伯慶子(清子の娘、フリーのライター)

 佐伯慶子をめぐる二人の男性

高山隆二(大手新聞社の終戦60周年のプロジェクトの一員。慶子に好意を抱く)

藤木秀一(大石賢一郎の法律事務所で学生時代からアルバイトをしながら司法試験を目指し、慶子が想いを寄せていた男性)

取材対象者

第2章/長谷川梅男(ラバウル航空隊の戦友、祖父の宮部を「臆病者」と罵る)

第3章/伊藤寛次(第一航空戦隊赤城時代の戦友。久蔵の空戦技術を高く評価)

第4章/井崎源次郎(ラバウル航空隊時代の部下。久蔵に二度助けられる)

第5章/井崎源次郎(ガダルカナル島での悲惨な戦いについて語る)

第6章/永井清孝(ラバウルで機体を整備。久蔵についての逸話を語る)。

第7章/谷川正夫(戦争後の苦労を語り、戦後のモラルの低下を批判)

第8章/岡部昌男(県会議員を4期勤める、「特攻は十死零生の作戦」と批判)

第9章/武田貴則(一部上場企業の元社長、徳富蘇峰を礼賛し、高山を追い返す)

第10章/景浦介山(祖父と空中戦を行って命を狙った・やくざ)

第11章/大西保彦(小さな旅館を営む元一等兵曹で沖縄戦の記憶を語る)

第12章/大石賢一郎(ここで初めて宮部久蔵との関わりを明かす)。

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察しのよい人ならば、この構成を見ただけで推測がつくと思いますが、この小説を姉弟の成長の物語として読もうとするとき、その致命的な欠陥が小説の構造と祖父・大石賢一郎が果たしている役割にあると思われます。

第1章で語り手の健太郎は、祖母・松乃の葬式からしばらく経って、祖父の大石賢一郎から、彼らの実の祖父が終戦間際に特攻で戦死した海軍航空兵で、祖父の死後に祖母は彼らの母・清子を連れて自分と再婚したことを知らされて驚いたが、「祖母からは前夫のことはほとんど知らされていなかったらしい」と記しています。

それから6年後に、司法試験に4度も落ちて「自信もやる気も失せて」いた「ぼく」が、フリーのライターをしている姉の慶子から取材のアシスタントを頼まれて、「特攻隊員」たちの取材をとおして戦争に迫ろうとするこの企画に参加するところから物語が始まります。

慶子から「本当のおじいさんがどんな人だったのか、とても興味があるわ。だってこれは自分のルーツなのよ」と語られた「ぼく」は、「突然、亡霊が現れたようなもの」と感じたと描かれており、なぜ祖父の大石賢一郎が自分の妻・松乃の死後まで彼らの実の祖父のことを黙っていたのだろうかという疑問が浮かんできますが、その疑問には答えられぬままに物語は進むのです。

*   *

祖父の大石賢一郎については、30歳を過ぎてから弁護士となった「努力の人」であり、「貧しい人たちのために走り回る弁護士」で、「ぼくはその姿を見て弁護士を目指していたのだ」と描かれているだけでなく、事務所でアルバイトをしていた苦学生の藤木からも尊敬されるような「理想」の人物であることが強調されています。

第3章の冒頭では「ぼく」が実の祖父の調査を始めたことを告げると、一瞬、祖父の大石が「ちょっと怖いようなまなざし」で、「じっとぼくの目を見つめた」と描かれていますが、そこでは何も語られません。

注目したいのはこの章で、アルバイトをしていた苦学生の藤木との楽しい思い出や、中学生だった姉との関係が簡単に記されており、それが新聞記者・高山との比較という形で続いていくことになることです。

たとえば、この小説の山場の一つである第9章では、慶子に好意を寄せる新聞記者・高山が、一部上場企業の元社長にもなっていた特攻隊員の武田貴則から怒鳴られてすごすごと引き返す場面が描かれていました。

それゆえ、高山には姉の慶子に合わす顔もないはずなのですが、「最後」と題された第11章では、高山が武田への発言を深く反省して姉にもプロポーズをするが、弟から「ぼくはあの人を義兄さんとは呼びたくないな」と言われたことで迷っていた慶子は断念し、藤木との結婚を考えることが示唆されているのです。

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このような流れを経てようやく「流星」と題された第12章で、「臆病者」と罵られていた実の祖父・宮部久蔵の実像が「祖父」の大石賢一郎から明かされることになります。

映画《永遠の0(ゼロ)》の宣伝文では「60年間封印されていた、大いなる謎――時代を超えて解き明かされる、究極の愛の物語」と大きく謳われています。

しかし、第12章で大石は「いつかお前たちに語らなければならないと思っていた」と説明していますが、「命の大切」さを訴えていた宮部の理念を娘の清子に伝えようとはせず、60年間も沈黙し続けたのでしょうか。

結論的にいえば、「命の大切」さを訴えていた宮部の理念ではなく、自分の思想を植え付けるためだったと思われます。

進化した「オレオレ詐欺」では、様々な役を演じるグループの者が限られた情報を一方的に伝えることによって次第に被害者を信じ込ませていきます。

それと同じように小説『永遠の0(ゼロ)』でも大石の沈黙こそが、巧妙に構成された順番に従って登場する「特攻隊員」の語る言葉とよって、次第に読者を「滅私奉公」の精神と「白蟻」の勇敢さを教えた戦前の「道徳」に基づいて行動するように誘導することを可能にしていたのです。

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次回の予告

このシリーズは年を越す前に一気に書き上げたいと考えていましたが、最終回は来年になります。

次回: 侮辱された主人公・宮部久蔵――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(10)

麻生財務相の箝口令と「秘められた核武装論者」の人数

武藤貴也衆院議員(36才)がツイッターで記した戦前の日本を彷彿とさせるような記述は非常に問題ですが、より大きな問題を孕んでいると思われるのは、「朝日新聞」のデジタル版によれば、麻生太郎財務相が8月6日の自民党麻生派の会合で、ツイッターでの記述などを念頭に「自分の気持ちは法案が通ってから言ってくれ。それで十分間に合う」と語ったことです(太字は引用者)。

麻生氏のこの発言は、さまざまな問題が指摘され、実質的には「戦争法案」の疑いがますます濃くなってきている「安全保障関連法案」の実態を隠そうとしているばかりでなく、「自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs=シールズ)」の言動を「極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろう」と決めつけるような歴史認識と道徳観を、この法案が通った暁には党として積極的に国民に押しつけることを明言しているとも思われるからです。

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それとともにとても奇異に感じられるのは、「日本は自力で国を守れるように自主核武装を急ぐべきなのです」と主張し、その理由を「核武装のコストについては様々な試算がありますが、私は安上がりな兵器だと考えています」と記していた麻生派所属の武藤議員に対する何らの批判も行われていないことです。

そのことからは安倍首相や麻生氏が勢力を持つ現在の自民党では、「日本の核武装反対論は、論理ではなく感情的なもの」と考えて、「日本の核武装」を当然視する議員が少なからずいるのではないかと感じられます。

各新聞社は「国民の生命」だけでなく、近隣諸国の国民の生命をも脅かすような「戦争法案」の審議が行われている現在、早急にアンケートを行って武藤貴也氏のように「日本の核武装」を当然視する自民党員が何人いるかを明らかにすべきでしょう。

さらに与党としてこの法案を積極的に進めている公明党にもこの問題を明らかにする責任があると思われます。

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核兵器だけでなく劣化ウラン弾の危険性や人道的な問題点については明らかなので記しませんが、「報復の権利」の危険性が全く考慮されていないことをここで指摘するにとどめておきます。

つまり、武藤議員が「安上がりな兵器だ」と考えている核兵器による攻撃は、かつての広島や長崎へ投下された原爆と同じように、一瞬にして「敵の軍隊」だけでなく、その周囲の市民を抹殺することができ、敵の戦意をくじいて一時的には戦争を勝利にみちびくことはできるでしょう。

しかし、人間の心理をも考慮に入れるならば、「兵器(安倍政権の用語によれば「弾薬」)」の威力による勝利は一時的なもので、使用されたことで敗北した民族や国家には暗い憎しみが生まれ、生き残った者の子や孫による「報復の戦争」が起きる危険性はきわめて高いのです。

卑近な例としては、「報復の権利」の行使としてブッシュ政権によって行われた「イラク戦争」こそが、アメリカに対する「報復」を主張してテロ行為を繰り返すISという国家の生みの親だった可能性が高いのです。この危険性を「戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて」と題した論考で示唆していましたが、文学作品にも言及したことで難しい展開となっていました。

「戦争法案」が可決される危険性がある現在の事態に対処するために、稿を改めて現在の状況をふまえつつもう少し分かりやすく、「正義の戦争」と「報復の権利」の危険性を説明したいと思います。

麻生副総理の歴史認識と司馬遼太郎氏のヒトラー観

「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と述べた麻生副総理の発言は内外に強い波紋を呼びました。

しかし、この問題の討議をするために野党側から求められていた衆院予算委員会での集中審議開催を与党が拒否したために、重要な問題についての論戦もないままに臨時国会がわずか7月2日から7日までの期間で閉会することになったようです。

今回の与党側の対応は、「寝た子を起こすな」という慣用句がある日本独特のものでしょう。

マス・メディアからも辞任を求めるような強い論調の記事はあまり書かれていないようなので、「汚染水の流出と司馬氏の「報道」観」というブログ記事に書いたように、「人の噂も75日」ということわざもある日本では、この発言についても多くの人は忘れることになるでしょう。

 しかし、世界の多くの国々は、「過去を水に流す」という文化を持つ日本とは異なり、事実を文書に残すことを重視する文化を持っています。

麻生副総理の今回の発言は、欧米などを中心にこれからもことあるごとに引用されることになると思いますので、ここではナチス政権の誕生と日露戦争との関わりを簡単に記しておきます。

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『わが闘争』においてヒトラーは、第一次世界大戦の敗戦の責任をユダヤ人に押しつけるとともに、敗戦後にドイツが創ったワイマール憲法下の平和を軟弱なものとして否定しました。

その一方でヒトラーは、フランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への「新たな戦争」へと突き進んだのです。

問題は、「明治国家」で日本の陸軍がモデルにしたのが、普仏戦争に勝利したそのプロイセン陸軍だったことです。『坂の上の雲』でこのことにも詳しくふれていた司馬氏は、日露戦争での勝利を強調することの危険性も熟知していたのです。

あまり知られていないようなので、司馬氏のヒトラー観を紹介します。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒットラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」と問いかけた司馬氏は、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判していたのです(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

鹿島茂著『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』を読む(未完)

ドーダの人、小林秀雄(朝日新聞出版)

一、「教祖」から「評論の神様」へ

敗戦後間もない1946年の座談会「コメディ・リテレール」ではトルストイ研究者の本多秋五などから文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)は戦時中の言動を厳しく追及された。

小林とは親しかった作家の坂口安吾もその翌年に発表した「教祖の文学――小林秀雄論」で、小林を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判していた。

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しかし、座談会での追及に対して「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と語っていた小林は1948年には「『罪と罰』についてⅡ」を『創元』に掲載し、そして黒澤明監督の映画《白痴》が公開された翌年の1952年から2年間にわたって「『白痴』についてⅡ」を連載した。

こうして、戦後にドストエフスキー論の執筆を再開した小林秀雄は、「団塊の世代」に属する鹿島茂氏が青春を送った「1960年・70年代までは、小林神話がいまだ健在で、大学の入学試験にはかならずと言っていいほど彼の文章が出題」されるようになっていたのである(13頁)。1980年には小林秀雄信者の教員が、「最も晦渋な(というよりも意味不明な)『様々なる意匠』」が出題して、「信者でもない一般の高校生・予備校生に『神様の大切なお言葉を解読せよ』と迫っていた」。

それゆえ、小林秀雄と同じフランス文学者の鹿島氏は、作家の丸谷才一が1980年に「小林秀雄の文章を出題するな」というエッセイを発表して、芥川龍之介の『少年』と『様々なる意匠』の2つの文章を並べて出題した「北海道大学の入試問題をこてんぱんにやっつけたときには、よくぞ言ってくれたと快哉を叫んだものである」と続けた。

この意味で注目したいのは、鹿島氏が1987年に、ドストエフスキーを魅了したユゴーの大作『レ・ミゼラブル』を当時の木版画を掲載することで当時の社会情勢をも示しつつ、分かり易く詳しく解説した『「レ・ミゼラブル」百六景』(文藝春秋)を出版していたことである。

「レ・ミゼラブル」百六景

その鹿島氏が2016年に出版した本書『ドーダの人、小林秀雄――わからなさの理由を求めて』(以下『ドーダの人、小林秀雄』と略す)をこれから少しずつ考察することにしたい。

(2019年3月3日、書影を追加。3月10日改訂、2022年2月13日改題)

高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見て

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

先月の3月27日に行われた国会で「森友問題」に関して佐川宣寿・前国税庁長官の「証人喚問」が行われました。 喚問に先立って「良心に従って真実を述べ何事も隠さず、また、何事も付け加えないことを誓います (日付・氏名)」との宣誓書を朗読したにもかかわらず、佐川前長官は証言拒否を繰り返し、偽証の疑いのある発言をしていました。

その時のテレビ中継を見ながら思ったのは、戦前の価値観への回帰を目指す「日本会議」に支えられた安倍政権のもとで立身出世を果たした高級官僚からは、日本国憲法の第15条には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と明記されているにもかかわらず、「良心」についての理解が感じられないということでした。

なぜならば、日本国憲法の第19条には、「人間は、理性と良心とを授けられて」おり、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とされ、日本国憲法76条3項には、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定められているからです。

そのことを考慮するならば、憲法にも記されている「良心」という用語を用いて、「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」と述べた宣誓はきわめて重たいはずなのですが、佐川前長官はその重みを感じていないのです。 それゆえ、このような高級官僚に対しては、宣誓の文言を「良心に従って真実を述べ何事も隠さず」の代わりに、「日本人としての尊厳に賭けて真実を述べ何事も隠さず」としなければ本当の証言は出ないだろうとすら感じました。

ただ、「良心」についての理解の欠如は彼らだけに留まらず、学校などで「良心」の詳しい説明がなされていないので、戦後の日本でも「良心」は日本語としてはそれほど定着しておらず、多くの人にとっては漠然としたイメージしか浮かばないでしょう。 「良心」という単語やその理論は、法哲学にもかかわるので、少し難しいかもしれませんが、ここではまず、なぜ「良心」にそのような重要な意義が与えられたのかを、主に吉沢伝三郎氏の記述によりながら、その歴史的な経過を簡単に振り返っておきましょう。

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すでにこの単語は、キリスト教の初期にもパウロなどによって多く用いられ大きな役割を演じましたが、近世に至るとキリスト教会では「免罪符」を乱発するなどの腐敗が目立つようになってきました。しかし、教皇に神の代理人としての地位が与えられている以上、それを批判することは許されませんでした。

このような中で教会の腐敗を批判したプロテスタントにおいては「知」の働きを持つ「良心」に、神の代理人である「教皇」であろうとも、不正を行っている場合にはそれを正すことのできる〈内的法廷〉としての重要な役割が与えられたのです。

皇帝に絶対的な権力が与えられていた近代のロシアにおいても、皇帝の絶対的な権力にも対抗できるような「良心」が重要視されたのでした。そして、自らをナポレオンのような「非凡人」であると考えて、「悪人」と規定した「高利貸しの老婆」の殺害を正当化した主人公を描いた長編小説『罪と罰』でも、「問題はわれわれがそれら(義務や良心――引用者)をどう理解するかだ」という根源的な問いが記されています。

「良心とはなにか」という問いは、ラスコーリニコフと司法取調官ポルフィーリイとの激論の中心をなしており、「良心に照らして流血を認める」ということが可能かどうかが主人公の心理や夢の描写をとおして詳しく検証され、エピローグに記されているラスコーリニコフの「人類滅亡の悪夢」は、こうした精緻で注意深い考察の結論が象徴的に示されているのです。

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一方、文芸評論家・小林秀雄は、二・二六事件が起きる二年前の一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で弁護士ルージンや司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて主観的に読み解いて、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」と記し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と結論していました。

この評論が書かれる数年前の一九二七年には、小説『河童』で検閲を厳しく批判した芥川龍之介が自殺するなど治安維持法が施行されて言論の自由が厳しく制限されており、評論の一年後には天皇機関説が攻撃されて「立憲主義」が骨抜きになります。

 小林秀雄が敗戦後の1948年11月に書いた「『罪と罰』についてⅡ」では、「事件の渦中にあつて、ラスコオリニコフが夢を見る場面が三つも出て来るが、さういふ夢の場面を必要としたことについては、作者に深い仔細があつたに相違ない」と記されているように、『罪と罰』の夢についての言及があります。 しかし、戦時中の自分の発言については「自分は黙って事件に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい」と記していた小林秀雄の戦後の『罪と罰』論でも、中核的なテーマである「良心」の考察には深まりが見られないのです。

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戦後に小林秀雄が「評論の神様」とまで称賛され、教科書でも彼の文章が引用されていることを考えるならば、そのような小林秀雄の「良心」観は、安倍政権によって出世した政治家たちや高級官僚たちの「良心」理解にも反映しているように思われます。

一方、長編小説『破戒』を日露戦争後に自費出版していた島崎藤村は一九二五年に発行した『春を待ちつつ』に収めたエッセーで、日本だけでなくロシアにおいてもドストエフスキーの評価がまちまちであることを指摘したあとでこう記していました。

「思うに、ドストイエフスキイは憐みに終始した人であったろう。あれほど人間を憐んだ人も少なかろう。その憐みの心があの宗教観ともなり、忍苦の生涯ともなり、貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう。」

この言葉からは「明治憲法」の公布に到る時期を体験していた島崎藤村が『罪と罰』における「良心」の問題を深く理解していたことが感じられます。

現在の日本における政治家や高級官僚の「道徳」的な腐敗を直視するためには、北村透谷や夏目漱石、正岡子規など明治の文学者たちの視点で、「立憲主義」が放棄される前年の1934年に書かれて現代にも強い影響力を保っている小林秀雄の『罪と罰』論と「良心観」の問題点を厳しく問い直す必要があると思えます。

(2018年4月27日加筆。重要箇所を太字で表記,2023/02/13、ツイートを追加)