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02月

樋口一葉における『罪と罰』の受容(2)――「十三夜」をめぐって

一葉の研究者である和田芳恵氏は、樋口一葉の婚約者だった渋谷三郎の兄で郵便局長だった渋谷仙二郎の家に、石阪昌孝を最高指導者とする自由民権運動の結社の事務所が置かれていたことを指摘しています(「樋口一葉 明治女流文学入門」『日本現代文学全集』第10巻)。

和田氏は一葉と渋谷三郎が会ったのが、大阪事件のあった明治18年で、この頃に三郎が自由民権運動から離脱していたことにもふれています。北村透谷の研究者には、よく知られていることと思われますが、一葉の経歴と透谷には、石阪昌孝という接点があったのです。

まだ奈津と結婚をするという覚悟の出来ていなかった三郎は、その後去っていったのですが、和田氏は顕真術者・久佐賀義孝に面会した後で一葉が記した激しい言葉に、「はじめて知ったころの、自由党の壮士渋谷三郎」との関わりを見ています。

*   *   *

樋口一葉が小説「十三夜」で描いたお関と『罪と罰』のドゥーニャとの簡単な比較は、「絆とアイデンティティ」という教養科目で用いた教科書『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』で行っていました。ここではそこでの考察を踏まえてもう少し掘り下げてみたいと思います。

研究者の菅聡子氏は「『十三夜』の闇」と題した章の冒頭で、こう記しています。

「『にごりえ』のお力が制度外の女性であったのに対して、『十三夜』で一葉が描いたのは、まさしく制度内の女--斎藤家の娘、原田の妻、太郎の母--としてのお関の姿であった」、「制度内の、あるいは家庭の中の女性にとって、〈娘・妻・母〉という制度内の役割以外の生は存在しないのだろうか」(『樋口一葉 われは女なりけるものを』NHK出版)。

正月の羽子板の羽が奏任官の原田の車に落ちるという偶然の出会いで原田勇に見初められ、身分の不釣り合いを超えて原田家に嫁いだお関は、初めの頃はちやほやされていたのですが、息子の太郎を出産した後は、教育のないことなどをさげすまれて、辛い毎日を送るようになっていたのです。

離婚を決意して戻ってきた娘の訴えを聞いた父親は、「お前が口に出さんとて親も察しる弟も察しる」と慰めるのですが、離縁という選択肢はほとんどありませんでした。このことについいて菅氏はこう説明しています。

「お関の父・斎藤主計(かずえ)は没落した士族であるらしい。その斎藤家の復興の望みが託されているのは、次期家長である亥之助(いのすけ)である。昼は勤めに出、夜は夜学に通う亥之助の、将来の立身出世がかなうか否かに斎藤家の将来もかかっているのだ。この彼の将来にとって、『奏任官』原田の力は絶大である」。

こうして一葉は「十三夜」で、勉強熱心な弟・亥之助や置いてきた幼い一人息子の太郎のことを持ち出されて説得され、「私の身体は今夜をはじめに勇のもの」と再び戻る決心をしたお関の苦悩を描き出していたのです。

このような「十三夜」の内容を詳しく知るとき、『罪と罰』で描かれているラスコーリニコフの妹・ドゥーニャの重い決心の理由もよく理解できるでしょう。

『罪と罰』で描かれることになる事件の発端は、ラスコーリニコフが母親からの手紙で、ドゥーニャが近くペテルブルクに事務所を開く予定の弁護士ルージンと婚約したことを知ったことにありました。

兄に送金するために「家庭教師として住みこむとき、百ルーブリというお金を前借り」していたドゥーニャは、雇用者のスヴィドリガイロフから言い寄られても、「この借金の片がつくまでは、勤めをやめるわけに」いかなかったのです。最初は、夫が誘惑されたと思い込んだ妻のマルファは悪い噂を広めたのですが、後にドゥーニャの潔白を知って、年配とはいえ立身出世していた自分の遠縁のルージンを結婚相手として紹介したのです。

ドゥーニャが婚約に至るまでのこのようないきさつを手紙で詳しく記した母のプリヘーリヤは、息子にやがてルージンの「共同経営者にもなれるのじゃないか、おまけにちょうどお前が法学部に籍を置いていることでもあるしと、将来の設計まで作っています」と書き、ドゥーニャについて「あの子が、おまえをかぎりもなく、自分自身よりも愛していることを知ってください」と書いた後で、「おまえは私たちにとってすべてです」と続けていました。

ここで注目したいのは、「十三夜」のお関の夫・原田が「明治憲法下の高等官の一種で、高等官三等から八等に相当する職とされていた」奏任官(そうにんかん)であったと記されていることです。弁護士のルージンも七等文官であると記されていますが、ロシアの官等制度のもとでは八等官になると世襲貴族になれたので、日本の制度に当てはめれば奏任官と呼べるような地位だったのです。

長編小説『罪と罰』の構成の見事さは、マルメラードフの家族の悲劇をきちんと具体的に描くことで、家族を養うために売春婦に身を落としたソーニャの苦悩をとおして、兄の立身出世のために中年の弁護士ルージンとの愛のない結婚を決意したラスコーリニコフの妹ドゥーニャの苦悩をも浮かび上がらせているにあると思います。

小説「にごりえ」でお力におぼれて長屋住いの土方の手伝いに落ちぶれた源七だけでなく、「自ら道楽者」と名乗る裕福な上客・結城朝之助も描いていた樋口一葉は、「十三夜」でも原田家に戻る途中のお関と「小綺麗な煙草屋の一人息子」であったが、おちぶれて「もっとも下層の職業の一つとされた」人力車夫に落ちぶれていた高坂録之助との出会いも描くことで、小説の世界に広がりを与えていたのです。

リンク→正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

リンク→樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

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映画《にごりえ》(今井正監督、1953年)*1。図版は「ウィキペディア」より。

前回は島崎藤村が長編小説『春』において樋口一葉と『文学界』同人たちとの関係をどのように描いていたかを見ましたが、北村透谷の『罪と罰』観の一端は、「一週間ばかり実家へ行っていた夫人」からその時期に何をしていたのかを尋ねられた青木(透谷)の答えをとおして描かれています。すなわち青木に『俺は考へて居たサ』と答えさせた藤村は、さらにこう続けていました。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ、銭とりにも出かけないで、一体何をして居る、と下宿屋の婢に聞かれた時、考へることをして居る、その主人公が言ふところが有る。ああいふ事を既に言つてる人があるかと思ふと驚くよ。考へる事をしてゐる……丁度俺のはあれなんだね。』」(『春』二十三)。

注で示した資料では同人たちによるドストエフスキーの作品やトルストイの『戦争と平和』、さらにユゴーの『レ・ミゼラブル』やエマーソンの論文などの翻訳を挙げることにより、内田魯庵の『罪と罰』訳やこの雑誌の精神的な指導者であった透谷の『罪と罰』論がいかに大きな影響を同人たちに与えていたかを確認しました。

リンク→正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

比較文明学的な視点からの分析は、北村透谷の場合などを論じた「日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって」という論文で行っていましたが、ここでは比較文学論の視点から「樋口一葉における『罪と罰』の受容」についてもきちんと考察しておきたいと思います。

*   *   *

近代日本文学の研究者・平岡敏夫氏は論文〈「にごりえ」と『罪と罰』――透谷の評にふれて〉において、「この『罪と罰』が日本近代文学に及ぼした影響については、まだまだ言い尽くされているとは言いがたい。 その一例が樋口一葉の場合である」と記し、「奇跡の十四か月といわれる期間に」一葉はなぜこのような作品を生み出し得たのかと問い、「この〈奇跡〉はドストエフスキー『罪と罰』の影響抜きには考えられないというのが私などの立場である」と主張していました(『北村透谷――没後百年のメルクマール』、おうふう, 2009年)。

銘酒屋「菊の井」の人気酌婦・お力が、彼女におぼれて長屋住いの土方の手伝いに落ちぶれた元ふとん屋の源七に殺されるという「夕暮れの惨劇」を描いた小説「にごりえ」は、母親による男児殺しを描いた透谷の「鬼心非鬼心」と『罪と罰』における老婆殺しの影響を受けているとの見解を示した平岡氏は、マルメラードフ夫婦と源七夫婦との比較をした研究も紹介しています*2。

注目したいのは、その後で氏が「お力が、突然ラスコーリニコフ的歩行をするところに、この作品の深さと面白さがある」と書いた秋山駿氏の考察の重要性を指摘していることです。

「お力は一散に家を出て、行かれる物ならこのままに唐天竺《からてんぢく》の果までも行つてしまいたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処《ところ》へ行《ゆ》かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時《いつ》まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて暫時《しばらく》そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに、仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい(以下略)」

この文章を引用した秋山駿氏は「主人公が自分の心を直視しながら歩く。一葉がよくもこんなラスコーリニコフ的歩行の場面を採用したものだ」と感心するとともに、さらにこの後の文章も引用して「マルメラードフの繰り言」との類似や「身投げなど思うお力にはソーニャの面影がある」とも書いていることも指摘していたのです(『私小説という人生』新潮社)。

平岡氏が「一葉がことに翻訳小説が好きで、不知庵の『罪と罰』を借したときは、たいへんに悦び、くり返しくり返し数度読んだと『文学界』の同人戸川残花が語っている」ことにも言及していることに留意するならば、社会の底辺で生きる人々を描いた一葉の小説と『罪と罰』との類似性は明らかでしょう。

さらに木村真佐幸氏が「一葉”奇跡の十四ヶ月の要因」と題した章で*3、1894年に顕真術者・久佐賀義孝に面会して「一身をいけにえにして相場ということをやってみたい、教え給えと哀願」した一葉の言葉には「鬼気迫る壮絶観がある」と記していることを紹介した平岡氏はこう続けています。

「ラスコーリニコフと金貸しの老婆の存在、一葉と一葉が借金を申し込む久佐賀の存在とは、ある種の相似がありはしないか」。

 

*1 映画《にごりえ》は、「十三夜」「大つごもり」と「にごりえ」の3編を原作とした文学座・新世紀映画社製作、松竹配給のオムニバス映画。

*2 銘酒屋とは飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した店。

*3 木村真佐幸『樋口一葉と現代』翰林書房。

(続く)

リンク→日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

安倍政権閣僚の「口利き」疑惑と「長州閥」の疑獄事件――司馬氏の長編小説『歳月』と『翔ぶが如く』

TPP秘密交渉を担当した甘利元経済再生相の「口利き」疑惑が一大疑獄事件へと発展しそうな気配になってきましたが、そんなか、今度は遠藤利明五輪相にも「口利き」の疑惑が発生しました。

リンク→アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

リンク→まとめ役は遠藤さん」…文科省職員証言毎日新聞)

*   *   *

このような事態は国内を揺るがした明治初期の汚職事件や疑獄事件を思い起こさせます。

まず発覚したのは、横浜で生糸相場を張るようになっていた元奇兵隊の隊長・野村三千三〔みちぞう〕から頼まれた山県有朋が「兵部省の陸軍予算の半分ぐらいに」相当するような巨額の金を貸したにもかかわらず、野村が生糸相場に失敗して公金を返せないという事態に陥った「山城屋事件」でした(『歳月』上・「長閥退治」)。

しかもこの事件の直後に、南部藩の御用商人・村井茂兵衛が得ていた尾去沢銅山の採掘権を、大蔵省の長官として「今清盛」とも呼ばれるような権力を握っていた井上馨によって没収されるという事件が起きたのです。前代未聞の汚職とその隠蔽の問題と直面した司法卿の江藤が、「信じられぬほどの悪政がいま、成立したばかりの明治政府において進行している」と憤激したことが、西南戦争につながったと司馬氏は指摘していました。

さらに、「フランス革命」の時期に利権で私腹を肥やし、「王政の復活のために暗躍」したタレーランと比較しながら「山県も似ている」と長編小説『翔ぶが如く』で記した司馬氏は、「『国家を護らねばならない』/と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した」と厳しく批判していたのです(二・「好転」)。

このような明治初期の考察を踏まえて、司馬氏が『坂の上の雲』で描いたのが、俳人・正岡子規が入社した新聞『日本』の記者たちの気概だったのです。

リンク→高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)

ことに第二次安倍政権に強く見られるようになった「おごり」や「腐敗」を厳しく追及する記事を書く気概を、現代の放送局や新聞社にも持って欲しいと願っています。

正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

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(樋口一葉の肖像。図版は「ウィキペディア」より)

 

前回は〈正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」〉という記事を書きました。

そこでは1894(明治27)年に新聞『小日本』に掲載された北村透谷の追悼記事が正岡子規によって書かれていた可能性が高いことを確認するとともに、後に長編小説『春』で、北村透谷との友情やその死について描くことになる島崎藤村と子規との出会いの意味についても考えてみました。

長編小説『春』で描かれているのは、明治女学校を辞めた藤村(小説では岸本捨吉)が放浪から戻った1893(明治26)年の夏より、仙台の東北学院の赴任が決まって出発する1896(明治29)年の8月末までの時期で、1893年1月に創刊された『文学界』の同人たちとの交友も記されています。

注目したいのは、1893年3月に発表した「雪の日」から、「琴の音」、「花ごもり」、「やみ夜」「大つごもり」、そして「たけくらべ」など複数の作品を『文学界』に掲載していた樋口一葉(1872~96年。小説では堤姉妹の姉)の家庭についても次のように描かれていることです。

「『どうだね、これから堤さんの許(ところ)へ出掛けて見ないか。足立君も行ってるかも知れないよ』/こう菅が言出した。」

「そこには堤姉妹が年老いた母親にかしずいて、侘(わび)しい、風雅な女暮しをしていた。いずれも苦労した、談話(はなし)の面白い人達であったが、殊(こと)に姉は和歌から小説に入って、既に一家を成していた。この人を世に紹介したのは連中の雑誌で、日頃親しくするところから、よく市川や足立や菅がその家を訪ねたものである*」(百九)。

*   *   *

よく知られているように、森鷗外は7回にわたり連載された「たけくらべ」が1896年4月に『文芸倶楽部』に一括掲載されると、『めさまし草』の「三人冗語」で「吾はたとへ世の人に一葉崇拝の嘲を受けむまでも、此人に誠の詩人といふ称を惜しまざるなり」と一葉を称賛しました。

森鴎外と深い交友のあった正岡子規も、新聞『日本』に1896(明治29)年に連載していた随筆「松蘿玉液」(しょうらぎょくえき)の5月4日の回で「たけくらべ」を高く評価するのですが、注目したいのはその前段の「小説」という項目を次のように書き始めていたことです。

「文学者として小説を読めば世に小説程つまらぬ者はあらず、先ず劈頭(へきとう)より文章がたるみたり言葉が拙しとそれにのみ気を取られ、」「吾れ従来小説が好きながら小説を読むことは稀なり」としながらも、最後を「あれこれと読みもて行けばここに一物あり」と結んでいるのです。

そして、次の段で「たけくらべ といふ」と書き始めた子規は、「汚穢(おわい)山の如き中より一もとの花を摘み来りて清香を南風に散ずれば人皆其香に酔ふて泥の如しと」続けていました。

さらに「一行を読めば一行に驚き一回を読めば一回に驚きぬ。…中略…西鶴を学んで佶屈(きつくつ)に失せず平易なる言語を以て此緊密の文を為すもの未だ其の比を見ず。…中略…或は笑ひ或は怒り或は泣き或は黙する処に於て終始嬌痴(きようち)を離れざるは作者の技倆を見るに足る」と記した子規は、「一葉何者ぞ」と記していたのです。

1894年の末に「大つごもり」を発表してから「奇跡の十四か月」と言われる期間に「にごりえ」「十三夜」や「われから」など多くの佳作を残して、樋口一葉は1896年の11月に結核で亡くなるのですが、「松蘿玉液」における子規の記述は今もその意義を失っていないと思えます。

なお、島崎藤村の長編小説『春』には、内田魯庵の『罪と罰』訳のこともでてくるので、稿を改めて、次回は樋口一葉と『罪と罰』との関わりを簡単に考察することにします。

 

*注、足立のモデルは馬場孤蝶(1869-1940)、菅は戸川秋骨(1870 – 1939)、そして、市川は平田禿木(とくぼく、1873 – 1943)で、いずれも多くの翻訳書がある英文学者である。この雑誌たちの傾向を知る上でも興味深いので、以下に内田魯庵および『文学界』同人が1917年までに翻訳した作品の一部を掲載する。[]内は現代の題名。

内田魯庵:『罪と罰』内田老鶴圃、1892~93年、『損辱』[虐げられし人々]、『国民之友』、1894年5月~95年6月/『馬鹿者イワン』[イワンの馬鹿]、『学鐙』1902年/『復活』、新聞『日本』1905年4月5日-12月22日

馬場孤蝶(足立):「小児の心」[ネートチカ・ネズワーノワ]『明星』、1908年10月/「博徒」[賭博者]『明星』、1908年 11月/『戦争と平和』泰西名著文庫、1914年。

戸川秋骨(菅):ツルゲーネフ『猟人日記』(共訳・重訳)1909年/ 『エマーソン論文集』上下、玄黄社、1911-12年/ユゴー『哀史』(ああ無情)[レ・ミゼラブル]、泰西名著文庫、1915-16年。

 平田禿木(市川):サッカレー『虚栄の市』、国民文庫刊行会、1914–15年/『エマアソン全集 第1- 5巻』、国民文庫刊行会、1917年/デフォー『新譯ロビンソン漂流記』、冨山房、1917年。

注は井桁貞義・本間暁編『ドストエフスキイ文献年表・解説』(『ドストエフスキイ文献集成』第22巻、1996年7月、大空社)、榊原貴教編「ドストエフスキイ翻訳作品年表」デジタル版、および「ウィキペディア」などを参照して作成。

〈司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって〉を「主な研究」に掲載

先ほど、論文〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉を二つに分割しましたので、後半の部分も「主な研究」に掲載します。

「司馬遼太郎と小林秀雄(2)」の構成は以下のとおりです。

はじめに

一、司馬遼太郎の『殉死』と芥川龍之介の『将軍』

二、小林秀雄の『将軍』観と司馬遼太郎の「軍神」批判

 

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

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(『文学界』創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

フランス文学者の寺田透は「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、…中略…子規の好奇心に満ちた多様性といふことである」と書いていましたが、寺田が指摘した明治27(1894)年には正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』第74号に次のような追悼記事が掲載されました。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

『「小日本」と正岡子規』の「解説」で浅岡邦男氏はこの追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いと記しています。たしかに、詩人の透谷が『文学界』の記者でもあったことに注意を促しながら、「遂に羽化して穢土の人界を脱す」と記し、子規の号でもある「ほととぎす」という単語を用いて「芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶ」とも記されているこの追悼文が、子規の文章である可能性はきわめて高いと思われます。

しかも、この年には子規が1892年に書き上げていた小説「月の都」が新聞『小日本』に連載されていましたが、透谷も同じ1892年の10月に『国民の友』に発表した評論「他界に対する観念」で、「物語時代の『竹取』、謡曲時代の『羽衣』、この二篇に勝(まさ)りて我邦文学の他界に対する美妙の観念を代表する者はあらず」と書き、「人界の汚濁を厭(いと)ふ」て、「共(とも)に帰るところは月宮なり」(200)と記していたのです。

さらに透谷の「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892)には「嘗()つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀()みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述がありますが、正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていたのです。

それゆえ、北村透谷の追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いとの記述を見つけたときは、子規と透谷との文学観の類似性にたいへん昂奮しました。

それは子規が文学作品における「虚構」という方法についても理解していることを示唆していると思えたからでした。つまり、すぐれた文学作品における「虚構」は、読者を昂奮させる「でたらめ」ではなく、むしろドストエフスキー作品に現れているように、なかなか見えにくい「事実」を明らかにするための方法といえるでしょう。

しかも日露戦争直後の1906年に長編小説『破戒』を自費出版することになる島崎藤村は、正岡子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説「花枕」についての感想も述べていたのです。

その藤村は1908年には長編小説『春』で、1893年1月に星野天知らと『文学界』~1898年1月)を創刊してその精神的な指導者となった北村透谷との友情やその死について描くことになります。

病身にもかかわらず木曽路の山道から美濃路へと徒歩で旅し、新聞『日本』に連載された紀行文「かけはしの記」を「信濃なる木曾の旅路を人問はゞ/ たゞ白雲のたつとこたへよ」という歌で結んでいた子規と、「木曾路(きそじ)はすべて山のなかである。…中略…一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」という印象的な文章で始まる長編小説『夜明け前』を書くことになる島崎藤村との出会いは日本の近代文学にとってもきわめて重要だったと思われます。

それゆえ、二人の出会いの光景を想像した時には、透谷の自殺から芥川龍之介の自殺に至る厳しい日本の近代文学史が走馬燈のように浮かんでくるような感慨に打たれたのです。

子規の「歌よみに与ふる書」と文芸評論家・小林秀雄

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(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫)

新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」で正岡子規が、「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」と記していたことについて、司馬氏は「歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし」たところころに「子規のすご味がある」と書いていました。

一方、小林秀雄はよく知られているように、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」し、「原子力エネルギー」の問題でも「反省なぞしない」ことが明らかになったのです。

それゆえ、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視して経済優先の政治が行われるようになった日本をみながら強く感じたのは、「事実をきちんと見る」ためには、「評論の神様とも言われる」小林秀雄のドストエフスキー観をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

2014年に『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)を上梓したのは、私がその頃、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていたためだと思われます。

それゆえ、以下に拙著(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年、第五章〈「君を送りて思ふことあり」――子規の眼差し〉より第一節の一部を抜粋して掲載します。

*   *   *

〈「竹ノ里人」の和歌論と真之――「かきがら」を捨てるということ〉より

秋山真之のアメリカ留学の前に子規が「君を送りて思ふことあり蚊帳〔かや〕に泣く」という句を新聞『日本』に載せたことを紹介した司馬氏は、「子規ほど地理的関心の旺盛な男はめずらしく、世界というものをこれほど見たがる人物もすくないと真之はかねがねおもっている。しかし皮肉なことに、運命はその後の子規を病床六尺に閉じこめてしまった」と続けていました(二・「渡米」)。

(中略)

閉ざされた空間の「子規庵」でガラス戸越しに見える庭の草木や風景を詠いながらその詩境を深めていたことに注意を促した俳人の柴田宵曲は、「ガラス障子にしたのは寒気防ぐためが第一で、第二にはいながら外の景色を見るためであった。果たしてあたたかい。果たして見える」と子規が記していることに注意を促していますが*3、子規は「ガラス戸」という洋語を用いて「ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ」という歌などを詠んでいたのです。

『坂の上の雲』では「庭のみえるガラス戸のそばに、小石を七つならべてある」ことにふれて、俳句仲間がその石を「満州のアムール河の河原でひろうたものぞな」と持ち帰ってくれたものであることが説明され、「七つの小石を毎日病床からながめているだけで、朔風(さくふう)の吹く曠野(こうや)を想像することができるのである」と書かれています。

子規に「古今(こきん)や新古今の作者たちならこの庭では閉口するだろうが、あしはこの小庭を写生することによって天地を見ることができるのじゃ」と語らせた司馬氏はこの後で、「竹ノ里人」の雅号で新聞『日本』に発表された「歌よみに与ふる書」という一〇回連載の歌論について「事をおこした子規は、最初から挑戦的であった」と書き、次のように詳しく考察しています。

「その文章は、まずのっけに、/『ちかごろ和歌はいっこうにふるっておりません。正直にいいますと、万葉いらい、実朝(さねとも)いらい、和歌は不振であります』/ という意味を候文で書いた。手紙の形式である。/『貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候』/という。歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし、和歌の聖典のようにあつかわれてきた古今集を、くだらぬ集だとこきおろしたところに、子規のすご味がある」。

しかし、「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」と主張した「子規への攻撃が殺到」します。

「子規の恩人である陸羯南などは、短歌にも一家言があり、『日本』の社長として子規の原稿に横ヤリなどは入れないが、しかし子規の論ずるところにはっきりと反対であった。また『日本』の社内には歌を詠んだり歌に関心のある記者が多い。これらが、ぜんぶといっていいくらいに子規の論に反対であった」。

そのような厳しい批判にもひるまずに子規は持論を展開したのですが、司馬氏は子規の歌論の意味を、「英国からもどって」きた真之との会話をとおして分かり易く説明しています。

すなわち、「あしはこのところ旧派の歌よみを攻撃しすぎて、だいぶ恨みを買うている。たとえば旧派の歌よみは、歌とは国歌であるけん、固有の大和言葉でなければいけんという。グンカンということばを歌よみは歌をよむときにはわざわざいくさぶねという。いかにも不自然で、歌以外にはつかいものにならぬ」と子規は語ったのです。

司馬氏は子規が外国語を用いることや「外国でおこなわれている文学思想」を取り入れることが、「日本文学を破壊するものだという考えは根本があやまっている」と主張し、「むかし奈良朝のころ、日本は唐の制度をまねて官吏の位階もさだめ、服色もさだめ、唐ぶりたる衣冠をつけていたが、しかし日本人が組織した政府である以上、日本政府である」と続けたと描いています。

一方、「日本人が、日本の固有語だけをつかっていたら、日本国はなりたたぬということを歌よみは知らぬ」という子規の歌論を聞き、彼が書いた新聞の切り抜きを読んだ真之は、「升サンは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている。あしも、それを考えている」と語ります。

そして真之は、古い伝統を持つスペイン海軍とアメリカ海軍を比較しながら、遠洋航海に出た軍艦には、「船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる」と指摘して、「作戦のもとになる海軍軍人のあたま」も、「古今集ほど古くなくても、すぐふるくなる」ので、「固定概念(かきがら)」は捨てなければならないと主張したのです(二・「子規庵」)。

この記述に注目するとき、子規の俳句論や和歌論は古今東西の海軍の戦術を丹念に調べてそれを比較することで最良の戦術を求めようとした真之の方法についてだけでなく、イギリスに留学した夏目漱石やロシアに留学した広瀬武夫の見方にも深く関わると思われます。

リンク→「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

(2016年2月4日。〈正岡子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ〉を改訂、改題)。

「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

Ⅰ、「物質への情熱」――小林秀雄の正岡子規論

小林秀雄に正岡子規の「歌よみに与ふる書」を論じたエッセイ「物質への情熱」があります(『小林秀雄全集』第一巻)。

この冒頭で「正岡子規に『歌よみに与ふる書』といふ文章がある事は誰でも知つてゐる。そのかたくなに、生ま生ましい、強靱な調子を、私は大変愛するのだが」と記した小林秀雄は、「読んでゐて、病床に切歯する彼の姿と、へろへろ歌よみ共の顔とが、並んで髣髴と浮んで来るには少々参るのだ」と続けていました。

さらに、「惟ふに正岡子規は、日本詩人稀れにみる論理的な実証的な精神を持つた天才であつた」と記した小林秀雄は、「どんな大きな情熱も情熱のない人を動かす事は出来ないのかも知れない。子規の言葉は理論ではない、発音された言語である」との理解を示していました。

ただ、このエッセイに戸惑いを覚えたのは、冒頭近くで正岡子規の主張に対しては「到底歌よみ共には合点が行かぬと私は思ふ。少くとも子規が難詰したい歌よみ共には通じまいと思ふ」と書き、「『歌よみに与ふる書』は真実の語り難いのを嘆じた書状である。果して他人(ひと)を説得する事が出来るものであらうか」とも記した小林が次のように続けていたことです。

「詩人は美しいものを歌ふ楽な人種ではない。在るものはたゞ現実だけで、現実に肉薄する為に美しさを頼りとしなければならぬのが詩人である。女に肉薄するのに惚れるといふ事を頼りにするのが絶対に必要な様なものである」。

Ⅱ、「歌よみに与ふる書」と『坂の上の雲』

正岡子規が新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」については、司馬氏も長編小説『坂の上の雲』でふれています。私はこの箇所こそが『坂の上の雲』の中核となっていると考えています。

リンク→子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ

なぜならば、『坂の上の雲』単行本の第4巻のあとがきでは、「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記し、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていると記されています。このような「事実」の隠蔽に対する怒りが、膨大な時間をかけつつ自分で戦史を調べてこの長編小説を書かせていたのだと思えるのです。

一方、よく知られているように、小林秀雄は敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」したのです。

それゆえ、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていた私は、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視した政治が行われるようになった日本をみながら、「事実をきちんと見る」ためには「評論の神様とも言われる」文芸評論家・小林秀雄の方法をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

Ⅲ、「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の正岡子規観

注目したいのは、小林秀雄が正岡子規論に「物質への情熱」という題名を付けたことに強い違和感を記していた寺田透が、『子規全集』第二巻に「従軍発病とその前後」という題の「解説」を書き、そこで子規の「多様性」に注意を促していることです。

「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、無論これは全部についても言へることだが、子規の多産であり、その病軀にもかかはらぬ健康であり、さらにこれが江戸時代の俳句と子規のそれを区別するもつとも明瞭なことだが、子規の好奇心に満ちた多様性といふことである。」

ここで言及されている明治27年には、日清戦争が勃発し、この翌年に子規は病身をおして従軍記者となるのですが、この時期についてはこのHPの「正岡子規・夏目漱石関連簡易年表」を引用することによって、この時期と子規との関連を簡単に説明しておきます。

*   *   *

1894(明治27) 子規、2月、上根岸82番地(羯南宅東隣)へ転居。2月11日『「小日本』創刊、編集責任者となり、月給30円。小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。3月 挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。5月、北村透谷の自殺についての記事を書く。7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。7月29日、清国軍を攻撃。8月1日、清国に宣戦布告。9月黄海海戦で勝利、11月、旅順を占領。

1895(明治28) 子規、3月、日清戦争への従軍許可がおりる。4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。「陣中日記」を『日本』に連載。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、一時重態に陥る。7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。」

*   *   *

日本にとってばかりでなく、子規にとってもたいへんな年であったことが分かりますが、「たとへば次の新年の句二句すら、題材が富士であり筑波であるにもかかはらず、陳腐さより、時代の新しさを感じさせる」とし、〈ほのほの(原文ではくりかえし記号)と茜の中や今朝の不二〉と〈白し青し相生の筑波けさの春〉の二句を紹介した寺田は、こう記しています。

「これらの句からは、藩境などといふもののなくなつた国土を、自由に走つて行ける眼と心の喜びと言つたものが直覚されるといふことは言はずにゐられない。」

そして、子規が独身であるにも関わらず、〈古妻のいきたなしとや初鴉〉という「虚構」を記した句も書いていることを注目した寺田は、「この春には春雨の題で、〈春雨のわれまぼろしに近き身ぞ〉/深々として不気味な句を作者は作つた」ことを紹介して、「これも、誰もまだ作ることのできなかつた句だと言へよう」と子規の句の「多様性」に注意を促していました。

さらに、〈あちら向き古足袋さして居る妻よ〉という句を評して、「この明るさは、現実に縛られず、その上に別種の世界をくりひろげる空想のそれだといふことである」とも寺田は書いていました。

子規に関していろいろな著書を調べていた際に、最も刺激を受けた子規論の一つが「虚構」をも許容する子規の「多様性」を指摘した寺田透のこの「解説」だったのです。

「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」との持論を展開した子規には、「虚構」をも許容する「多様性」があったという寺田の指摘は非常に重要だと思えます。

なぜならば、1908年に長編小説『春』で、北村透谷との友情やその死について描くことになる島崎藤村(1872~1943)は、北村透谷(1868~1894)の追悼記事を書いた可能性の高い子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説『花枕』についての感想も述べていたのです。

子規が小説「曼珠沙華」で部落民に対する差別の問題をも描いていることを考えるならば、後に長編小説『破戒』を書くことになる藤村が子規と会っていたことの意味は大きいでしょう。

リンク→正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

(2016年2月3日。〈「事実をよむ」ことと「虚構」という方法〉より改題し、大幅に改訂)

 

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