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樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

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映画《にごりえ》(今井正監督、1953年)*1。図版は「ウィキペディア」より。

前回は島崎藤村が長編小説『春』において樋口一葉と『文学界』同人たちとの関係をどのように描いていたかを見ましたが、北村透谷の『罪と罰』観の一端は、「一週間ばかり実家へ行っていた夫人」からその時期に何をしていたのかを尋ねられた青木(透谷)の答えをとおして描かれています。すなわち青木に『俺は考へて居たサ』と答えさせた藤村は、さらにこう続けていました。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ、銭とりにも出かけないで、一体何をして居る、と下宿屋の婢に聞かれた時、考へることをして居る、その主人公が言ふところが有る。ああいふ事を既に言つてる人があるかと思ふと驚くよ。考へる事をしてゐる……丁度俺のはあれなんだね。』」(『春』二十三)。

注で示した資料では同人たちによるドストエフスキーの作品やトルストイの『戦争と平和』、さらにユゴーの『レ・ミゼラブル』やエマーソンの論文などの翻訳を挙げることにより、内田魯庵の『罪と罰』訳やこの雑誌の精神的な指導者であった透谷の『罪と罰』論がいかに大きな影響を同人たちに与えていたかを確認しました。

リンク→正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

比較文明学的な視点からの分析は、北村透谷の場合などを論じた「日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって」という論文で行っていましたが、ここでは比較文学論の視点から「樋口一葉における『罪と罰』の受容」についてもきちんと考察しておきたいと思います。

*   *   *

近代日本文学の研究者・平岡敏夫氏は論文〈「にごりえ」と『罪と罰』――透谷の評にふれて〉において、「この『罪と罰』が日本近代文学に及ぼした影響については、まだまだ言い尽くされているとは言いがたい。 その一例が樋口一葉の場合である」と記し、「奇跡の十四か月といわれる期間に」一葉はなぜこのような作品を生み出し得たのかと問い、「この〈奇跡〉はドストエフスキー『罪と罰』の影響抜きには考えられないというのが私などの立場である」と主張していました(『北村透谷――没後百年のメルクマール』、おうふう, 2009年)。

銘酒屋「菊の井」の人気酌婦・お力が、彼女におぼれて長屋住いの土方の手伝いに落ちぶれた元ふとん屋の源七に殺されるという「夕暮れの惨劇」を描いた小説「にごりえ」は、母親による男児殺しを描いた透谷の「鬼心非鬼心」と『罪と罰』における老婆殺しの影響を受けているとの見解を示した平岡氏は、マルメラードフ夫婦と源七夫婦との比較をした研究も紹介しています*2。

注目したいのは、その後で氏が「お力が、突然ラスコーリニコフ的歩行をするところに、この作品の深さと面白さがある」と書いた秋山駿氏の考察の重要性を指摘していることです。

「お力は一散に家を出て、行かれる物ならこのままに唐天竺《からてんぢく》の果までも行つてしまいたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処《ところ》へ行《ゆ》かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時《いつ》まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて暫時《しばらく》そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに、仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい(以下略)」

この文章を引用した秋山駿氏は「主人公が自分の心を直視しながら歩く。一葉がよくもこんなラスコーリニコフ的歩行の場面を採用したものだ」と感心するとともに、さらにこの後の文章も引用して「マルメラードフの繰り言」との類似や「身投げなど思うお力にはソーニャの面影がある」とも書いていることも指摘していたのです(『私小説という人生』新潮社)。

平岡氏が「一葉がことに翻訳小説が好きで、不知庵の『罪と罰』を借したときは、たいへんに悦び、くり返しくり返し数度読んだと『文学界』の同人戸川残花が語っている」ことにも言及していることに留意するならば、社会の底辺で生きる人々を描いた一葉の小説と『罪と罰』との類似性は明らかでしょう。

さらに木村真佐幸氏が「一葉”奇跡の十四ヶ月の要因」と題した章で*3、1894年に顕真術者・久佐賀義孝に面会して「一身をいけにえにして相場ということをやってみたい、教え給えと哀願」した一葉の言葉には「鬼気迫る壮絶観がある」と記していることを紹介した平岡氏はこう続けています。

「ラスコーリニコフと金貸しの老婆の存在、一葉と一葉が借金を申し込む久佐賀の存在とは、ある種の相似がありはしないか」。

 

*1 映画《にごりえ》は、「十三夜」「大つごもり」と「にごりえ」の3編を原作とした文学座・新世紀映画社製作、松竹配給のオムニバス映画。

*2 銘酒屋とは飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した店。

*3 木村真佐幸『樋口一葉と現代』翰林書房。

(続く)

リンク→日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

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