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小林秀雄

坂口安吾の小林秀雄観(2)――バルザック(1799~1850)の評価をめぐって

FRANCE - HONORE DE BALZAC

(Honoré de Balzac ,Louis-Auguste Bisson – Paris Musées. 図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

1932(昭和6)年10月に創刊された同人誌『文科』(~昭和7年3月)で小林秀雄や河上徹太郎とともに同人だった作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したのはよく知られています。

しかし安吾は、その少し前に「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも断っていたのです。

実際、その翌年の1933年12月に発表した「『未成年』の独創性について」と題された論考で、「たうとう我慢がし切れないのでわたしは自分の実生活に於ける第一歩の記録を綴る事に決心した」という冒頭の言葉を引用した小林は、「『未成年』は全篇ドルゴルウキイといふ廿一歳の青年の手記である。彼の作品中で最も個性的な書出しで、この青年の手記は始る」ことに注意を促していました。

「告白」という文体の重要性を指摘した小林は、次のように記してドストエフスキー作品の特徴にも鋭く迫っていました〔一五〕。

「私は以前ドストエフスキイの作品の奇怪さは現実そのものの奇怪さだと書いた事があるが、彼の作品の所謂不自然さは、彼の徹底したリアリズムの結果である、この作家が傍若無人なリアリストであつたによる。外に秘密はない。さういふ信念から私は彼の作品を理解しようと努めてゐる」〔二〇〕。

相馬正一氏の『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の巻末に付けられた略年譜によれば、安吾もこの年の9月に「文学仲間を誘ってドストエフスキー研究会を立ち上げ」ていました。同じ年に書いた「ドストエフスキーとバルザック」で、「小説は深い洞察によって初まり、大いなる感動によって終るべきものだと考えている」と書いた安吾は、「近頃は、主として、ドストエフスキーとバルザックを読んでいる」と記し、こう続けていたのです。

「バルザックやドストエフスキーの小説を読むと、人物人物が実に的確に、而して真実よりも遙かに真実ではないかと思われる深い根強さの底から行動を起しているのに驚嘆させられる」と記した安吾は、「ところが日本の文学ではレアリズムを甚だ狭義に解釈しているせいか、『小説の真実』がひどくしみったれている」。

このような安吾のバルザック観やドストエフスキー観は、この時期の小林秀雄のドストエフスキー観とも深く共鳴しているように見えます。しかし、小林秀雄は戦後の1948年11月に『創元』に掲載した「『罪と罰』についてⅡ」では、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書き、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていました。

拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』では、バルザックの『ゴリオ爺さん』(一八三四)におけるヴォートランと若き主人公のラスティニャックとの関係とスヴィドリガイロフとラスコーリニコフとの関係を比較しました。ここでは詳しく検証する余裕はありませんが、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、むしろ、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆し得ていたと思われます。

この点で参考になるのが、1953年に『バルザック 人間喜劇の研究』(筑摩書房)を刊行していたフランス文学者・寺田透の考察です。寺田は1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に置いた『未成年』論をこう始めていました。

「しばらく外国の文学者について長い文章を書かずにゐた。中でもドストエフスキーについては、それを正面からとりあげて論文めいたものを書いたたことがない。バルザックとの関係で、あるいはリアリズムの問題を論ずるついでにとりあげたことはあつても」。

そして、「ドストエフスキーほどにはバルザックを読まない日本の読者たちのために」、『村の司祭』などの筋を紹介しながら、ことに『浮かれ女盛衰記』のリュシアンの「操り手だった」ジャク・コランの思想と『罪と罰』のラスコーリニコフの主張との共通性を指摘した寺田は、作者の手法の違いについてこう記しているのです。

「バルザックが政治的妥協によつて解決したかに見せたところを。ドストエフスキーは、罪を犯したひとりの人間にはどう手の施しやうもない情況を作ることによつて、かれを社会と対決させ、その向うでのかれの甦生をはかつたのである」。

寺田が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に『未成年』論を置いたのは、本格的なドストエフスキー論を1933年の『未成年』論で始めながら、その後バルザックの評価を大きく変えた小林秀雄への強い批判があったからではないかと私は考えています。

実は、「教祖の文学」の直前に『書評』に掲載した「通俗と変貌と」で坂口安吾はすでにこう記していたのです。少し長くなりますが、寺田透の小林観にもつながる観察ですので引用しておきます。

「いったいこの戦争で、真実、内部からの変貌をとげた作家があったであろうか。私の知る限りでは、ただ一人、小林秀雄があるだけだ。(中略)彼はイコジで、常に傲然肩を怒らして、他に対して屈することがないように見えるけれども、実際は風にもそよぐような素直な魂の人で、実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり、この戦争の影響で反抗や或いは逆に積極的な力の論者となり得ずに諦観へ沈みこんで行った」。

このように小林秀雄を分析した安吾は、それは「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と結んでいました。

少し寄り道をしましたが、次回は再び1948年に行われた小林秀雄と坂口安吾との対談に戻って、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる議論を分析することにします。

 

坂口安吾の小林秀雄観(1)――モーツァルト論とゴッホ論をめぐって

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(坂口安吾の写真。図版は「ウィキペディア」より)

『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房、1978年)という研究書もあるフランス文学者・寺田透(1915~1995)には、文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)についての一連の考察があります。

たとえば、1951年に発表された「小林秀雄論」で「たしかにかれはその文体によって読者の心理のうちに生きた」と小林の強烈な文体から受けた印象を記し、「いわば若年の僕は、そういうかれの文体に鞭打たれ、薫染されたと言えるだろう」と続けた寺田は、小林の伝記的研究『モーツアルト』についてこう記しているのです。

「二つの時代が、交代しようとする過渡期の真中に生きた」モーツアルトの「使命は、自ら十字路と化す事にあった」とを規定しながら、自分自身は、「みずから現代の十字路と化すかわりに、現代の混乱と衰弱を高みから見降し」た。

そして寺田は、そのような解釈の方法は小林が「対象を自分に引きつけて問題の解決をはかる、何というか、一種の狭量の持ち主であることをも語っている」と批判していたのです。

このことについては拙論 「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」(『世界文学』第122号、2015年)でふれていましたが、今回、相馬正一氏の『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』を読み直す中で、安吾が同じような批判を直接小林秀雄に投げかけていたことに気づきました。

評論「教祖の文学」を発表した1年後の1948年に行われた小林秀雄と坂口安吾との「伝統と反逆」と題した対談について、相馬氏は評論家の奥野健男が「真剣勝負とも形容したい名対談である」と評価していることを紹介していますが、「酒豪同士の酒席での対談」からは、時に剣戟の音が聞こえるような激しいものでした。

すなわち、すでに安吾は次のように迫っていたのです。「僕が小林さんに一番食って掛りたいのはね、こういうことなんだよ。生活ということ、ジャズだのダンスホールみたいなもの、こういうバカなものとモーツァルトとは、全然違うものだと思うんですよ。小林さんは歴史ということを言うけれども、僕は歴史の中には文学はないと思うんだ。文学というものは必ず生活の中にあるものでね、モーツァルトなんていうものはモーツァルトが生活してた時は、果して今われわれが感ずるような整然たるものであったかどうか、僕は判らんと思うんですよ」。

小林が「そう、そう。それで?」と発言を促すと、安吾は「僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ」といい、さらに「小林さんはモーツァルトは書いただろうけど音楽を知らんよ」と批判したのです。

これに対して「知らんさ」と答えた小林は、「僕は音楽家ではないから、僕は専門の音楽批評家と争おうとは少しも考えていなかった。そんな事は出来ない。あれは文学者の独白なのですよ。モオツァルトという人間論なのです。音楽の達人が音楽に食い殺される図を描いたのだ」と弁明していました。

そして、「今度ゴッホ書くよ。冒険することは面白い事だ」と語ると、安吾は「詰らないことだよ。あなた、画のことなんか知らんから画にぶつかるのが嶮しい道だと思ってる」と切り返し、「私はぶつかりたいのだよ」と繰り返した小林との間で次のような激しやりとりをしていたのです。

*   *   *

坂口 でも、あそこには小林秀雄の純粋性がないよ。つまり、小林がジカにぶつかっていないね。ひねくり廻してはいるが、争ってはいない。書斎の勤労はあるかも知れないが、レーゾン・デートルがあるわけじゃない。そして、何かモデルがあるよ。スタンダールとか、変テコレンなモデルがあるよ。

小林 新しい文学批評形式の創造、それがレーゾン・デートルだ。新しいモデルがなければ、新しい技術を磨く事が出来ない。新しい技術がなければ新しい思想も出て来ない。思想と技術を離すのは観念論者にまかせて置く。

坂口 しかし小林さんは文学者だからね、文学でやってくれなくちゃ。文学者がゴッホを料理するように、絵に近づこうとせずに。

*   *   *

1953年に書かれた寺田透の「ゴッホ遠望」はこの対談を踏まえて書かれていたと思われますが、そこで寺田は「批評家小林秀雄には多くのディレンマがある。そのひとつは芸術家の伝記的研究などその作品の秘密をあかすものではないと、デビュの当初から考え、…中略…それを喧伝するかれが、誰よりも余計に伝記的研究を世に送った文学評論家だということのうちに見出される」と指摘していたのです。

「ゴッホ遠望」では『ドストエフスキイの生活』という小林秀雄の伝記的な作品についてはふれられていませんが、『ドストエフスキーを讀む』を書くことになる寺田透は、このとき小林秀雄のドストエフスキー論の問題点を強く意識していたのではないかと私は考えています。ただ大きなテーマなので、この問題については稿を改めて論じることにします。

相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

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『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』で長編小説『夜明け前』を本格的に論じていた相馬正一氏は、それから二カ月後に発行した『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』((人文書館、2006年11月)の第5章「教祖・小林秀雄への挑戦状」では、戦後に文芸批評の「大家」として復権した文芸評論家・小林秀雄を厳しく批判していた作家・坂口安吾について詳しく考察していました。

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』でもその文章の一部を紹介しましたが、1947年に著した「教祖の文学──小林秀雄論」で、小林秀雄を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判した坂口安吾は、「思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と指摘していたのです。

相馬氏はこのような安吾の小林秀雄批判が、1947(昭和22)年に行われた鼎談「現代小説を語る」『文学季刊』〈昭和22年4月、実業日本社〉での盟友・太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で行われていたことを第2章「小説の神様・志賀直哉批判」で明らかにしていました。

私は坂口安吾や太宰治などの研究者ではないので、ここでは彼らの小林秀雄観などに絞って本書を紹介したいと思いますが、その前にまず『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の構成を簡単に見ておくことにします。

*   *   *

はじめに――いま、なぜ安吾なのか

一、倫理としての「堕落論」

二、小説の神様・志賀直哉批判

三、女体の神秘「白痴」の世界

四、自伝的小説という名の虚構

五、教祖・小林秀雄への挑戦状

六、「桜の森の満開の下」の手法

七、盟友・太宰治への鎮魂歌

八、純文学作家の本格推理小説

九、飛騨のタクミと魔性の美少女

十、安吾史譚・柿本人麿の虚実

十一、サスペンス・ドラマ「信長」

十二、巨漢・安吾の褌を洗う女

十三、安吾、全裸の仁王立ち

十四、未完の長篇「火」の破綻

十五、負ケラレマセン勝ツマデハ

十六、無頼派作家の変貌と凋落

十七、風雲児・安吾逝く

おわりに――詩魂と淪落と

坂口安吾・略年譜

あとがき

*   *   *

さて、平野謙の司会で行われた鼎談「現代小説を語る」には、坂口安吾の他に太宰治と織田作之助の三人が出席していました。この鼎談について相馬氏は「三人が一処に会するのはこれが初めてであった」だけでなく、その座談会から一と月後に織田が肺結核が悪化して34歳で亡くなっていることも紹介しています。

そして、「同人誌『現代文学』で安吾と仲間同士だったという気安さもあって」冒頭から挑発的な発言をした平野に太宰治が激しく反撥したことを伝えています。重要な鼎談だと思われるので、少し長く引用しておきます。

平野「大体現代文学の常識からいふと、志賀直哉の文学といふものが現代日本文学のいつとうまつたうな、正統的な文学だとされてゐる。さういふ常識からいへばここに集まつた三人の作家はさういふオーソドックスなリアリズムからはなにかデフォルメした作家たちばかりだと見られてゐるが……。」

太宰「冗談言つちゃいけないよ。」

このような太宰の反撥に共感した織田が、「志賀直哉はオーソドックスだと思つてはゐないけど、さういふものにまつり上げてしまつたんだ。オーソドックスなものに……」と批判したのを受けて、坂口が「あれを褒めた小林の意見が非常に強いのだよ」と語ると、鼎談の流れは一気に小林秀雄批判に傾いていたのです。

織田「さうさう(繰り返し記号)、小林秀雄の文章なんか読むと、一行のうちに『もつとも」といふ言葉が二つくらゐ出て来るだらう。褒めてゐるうちに褒めていることに夢中になつて、自分の理想型をつくつてゐるのだよ。志賀直哉の作品を論じてゐるのぢやない。小林の近代性が志賀直哉の中に原始性といふノスタルヂアを感じたでけで……。』

すると、坂口は「小林といふ男はさういふ男で、あれは世間的な勘が非常に強い。世間が何か気がつくといふ一歩手前に気がつく。さういふカンの良さに論理を托したところがある。だからいま昔の作家論を君たち読んでご覧なさい。実に愚劣なんだ、いまから見ると……。小林の作家論の一歩先のカンで行く役割といふものは全部終つてゐる役割だね」と語っていたのです。

私がこの書からことに強い刺激を受けたのは、この鼎談の翌年に太宰治が「如是我聞(にょぜがもん)」〈昭和23年3~7、『新潮』〉を書いて、自殺した芥川龍之介にも言及しながら「小説の神様」に収まっていた志賀直哉を徹底的に批判した文章を読んだときでした。

このエッセーを「太宰が後進に托した捨て身の〈遺書〉である」とした相馬氏は、太宰が「様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設ける」覚悟で書いたこのエッセーから本書でかなり長い引用をしています。

注目したいのは、志賀を評して「も少し弱くなれ、文学者なら弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るやうに努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまつてゐろ」と書いた太宰が、「君について、うんざりしてゐることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解つてゐないことである。/日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。/君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさへしてるやうだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開(あ)いた口がふさがらぬとはこのことである。」と書いていたことです。

そして、「腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。…中略…売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり」と宣言しておきながら、太宰はこの直後に自殺してしまったのです。

本書に掲載されている「略年譜」によれば、昭和2年に安吾は「私淑していた芥川龍之介の自殺に衝撃を受けて、自殺の誘惑に駆られ」ていました。このことを考えるならば、太宰の自殺から受けた安吾の衝撃の大きさが理解できます。

ただ、第7章「盟友・太宰治への鎮魂歌」で相馬氏は安吾が「不良とキリスト」で『斜陽』などの作品を「傑作として賞賛する一方で」、「死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない」と批判的に捉えていたことも紹介しています。

明治期の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷と徳富蘇峰との関係に関心を持っていた私が注目したのは、内閣情報局の主導で「日本文学報国会」(会長・徳富蘇峰)が結成された1942(昭和17)年6月に、安吾が『現代文学』第7号に「甘口辛口」と題する次のようなエッセーを発表して、国策文学を牽制していたことにも相馬氏が「あとがき」でふれていたことです。

すなわち、ここで「日本文学の確立ということは戦争半世紀以前から主要なる問題であった」と記した安吾は、「ところが戦争このかた、文学の領域では却ってこの問題に対する精彩を失い、独自なる立場を失い、人の後について行くだけが能でしかないという結果になっている」と続けていたのです。

こうして本書からはいろいろと考えさせられることがありましたが、相馬氏は「あとがき」で1948(昭和23)年10月に発表された安吾の「戦争論」にも言及していました。

原子爆弾のような人間の空想を遙かに超えた魔力が現われた以上、これからは「「戦争の力に頼ってその収穫を待つことは許されない。他の平和的方法によって、そして長い時間を期して、徐々に、然し、正確に、その実現に進む以外に方策はない」と当然の理を記した安吾は、すでにこう続けていたのです。

「今日、我々の身辺には、再び戦争の近づく気配が起りつつある。国際情勢の上ばかりではなく、我々日本人の心の中に」。

最後にこのような文筆活動を行っていた「坂口安吾の文学」の全体像を紹介した出版社の文章を引用することでこの小文を終えることにします。

 

坂口安吾の内部には、時代の本質を洞察する文明評論家と

豊饒なコトバの世界に遊ぶ戯作者とが同居しており、

それが時には鋭い現実批判となって国家権力の独善や欺瞞を糾弾し、

時には幻想的なメルヘンとなって読者を耽美の世界へと誘導する。

安吾文学の時代を超えた斬新さ、詩的ダイナミズムの文章力、

そして何よりも、奇妙キテレツな人間どもの生きざまを

面白おかしく説き明かす“語り”の巧さ、

などの魅力の秘密もそこに由来している。」

(2016年3月20日。青い字の部分を加筆)

 

小林秀雄の『夜明け前』評と芥川龍之介観

一,小林秀雄の『夜明け前』評

前回の小文で記したように、長編小説『夜明け前』を正面から論じた相馬正一氏の『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館)からは、いろいろと教えられることが多くありました。

たとえば、「長年藤村の告白文学に馴染んできた批評家の多くは『夜明け前』をもその延長線上で捉え、父・島崎正樹をモデルにした〈私小説〉だ」と評価してきたことを紹介した相馬氏は、批評家の篠田一士が「もし世界文学というべきものが近い将来構成されるとすれば、『夜明け前』は当然、たとえば、『戦争と平和』の隣りに並ぶことになるだろう」と述べ、作家の野間宏もこの作品を「近代を超えて現代に通じるものを内に大きくかかえこんでいる」、「近代日本文学のもっとも重要な作品の一つ」と絶賛していたことにもふれています。

ここでは昭和11年に『文学界』5月号に掲載された合評会で、この作品の脚色をした村山知義の「人間が充分に描けていない」という批判に対して、小林秀雄が「人間が描けていないという様な議論もあったが、これは作者が意識して人物の性格とかを強調しなかったところからくる印象ではあるまいか」と弁護していたことも記されています。この前年の1月から『文学界』に『ドストエフスキイの生活』(~37年3月号)を連載し始めていた小林秀雄のこのような評価は客観的で『夜明け前』の意義をすでに見抜いていたことはさすがだと感じました。

ただ、相馬氏の少し踏み込みが足りないと感じたのは、この後で出席者の多くが『夜明け前』を特定のイデオロギーで意味づけようとしていたのに対して小林秀雄が、「『夜明け前』のイデオロギイという言葉自体が妙にひびくほど、この小説は詩的である。この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい」と語って、「気質」を強調していたことが批判抜きで紹介されていたことです。

なぜならば、相馬氏は〈結、「夜明け前」と現代〉の章で、この長編小説と時代との関わりについてこう記していたからです。

「藤村が『夜明け前』第二部を発表した昭和七年から十年までは、日本が中国東北部に傀儡(かいらい)政権の〈満州国〉を造り上げて戦争へと突き進んだ時期であり、皇国史観と治安維持法を武器にして自由主義者や進歩的な学者への弾圧を強化した時期である」。

そして相馬氏は、「藤村にとっては、まさに戦前の恐怖政治を見据えての執筆だったのである」と続けていました。

長編小説『夜明け前』の合評会はこのような時期の直後の昭和11年に行われていたのですが、上海事変が勃発した1932(昭和7)年6月に雑誌『改造』に書いた評論「現代文学の不安」で、文芸評論家の小林秀雄は「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました〔『小林秀雄全集』第1巻〕。

こうして芥川文学の意義を低める一方で、小林はドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記し、「『憑かれた人々』は私達を取り巻いてゐる。少くとも群小性格破産者の行列は、作家の頭から出て往来を歩いてゐる。こゝに小説典型を発見するのが今日新作家の一つの義務である」と高らかに宣言していました。

執筆中の拙著『絶望との対峙――「坂の上の雲」の時代と「罪と罰」の受容』(仮題)で詳しく考察することにしますが――なお、ここで用いている「『坂の上の雲』の時代」とは、夏目漱石と正岡子規が生まれた1867年から日露戦争の終結までの時期を指しています――、私は絶望して自殺した北村透谷と同じように芥川龍之介もドストエフスキー文学の深い理解者だったと考えています。

それゆえ、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定することは、比較文明的な広い視野と文明論的な深い考察を併せ持つドストエフスキー文学をも矮小化する事にもつながっていると思えるのです。

二、小林秀雄の芥川龍之介論と徳富蘇峰の北村透谷観

一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で小林秀雄は、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」と、徳富蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版された『乃木大将と日本人』という邦題の伝記を高く評価していました。

問題はその直後に小林が日露戦争時の乃木大将をモデルにした芥川の『将軍』にも言及して、「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続け、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈していたことです(下線引用者))。

このことについてはすでに(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉(『全作家』第90号、2013年)で書きましたが、実はそのときに思い浮かべていたのが、明治期の『文学界』(1893年1月~1898年1月)の第2号に発表した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で、頼山陽を高く評価した山路愛山の史論を厳しく批判したことから徳富蘇峰の民友社からの激しい反論にあい、生活苦や論戦にも疲れて次第に追い詰められ日清戦争の直前に自殺した北村透谷と徳富蘇峰の関係のことでした。

徳富蘇峰はなぜが自殺に追い詰められたかを分析するのではなく、北村透谷や戦争中の1895年にピストル自殺した正岡子規より四歳年下の従兄弟・藤野古伯のことを念頭に、「文学界に不健全の空気充満せんとする……吾人は断然此種不健全の空気を文学界より排擠(せい)せんと欲す」と『国民新聞』で断じていたのです。

一方、先に見た昭和11年の『文学界』5月号に掲載された合評会で小林秀雄は言葉を継いで長編小説『破戒』なども視野に入れつつ、『夜明け前』をこう絶賛していました。

「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。この小説の静かな味わいはそこから生れているのである」。

ここで小林秀雄が『夜明け前』を高く評価していることは確かです。しかし、藤村が敬愛した北村透谷と徳富蘇峰との関係をも視野に入れるならば、「日本人の血」が強調されているのを読んだ藤村は、喜多村瑞見(モデルは栗本鋤雲)の「東西文明を見据えた公平な史観」などによりながら激動の時代を描いた自作が矮小化されているとの強い不満を感じたのではないでしょうか。

おわりに――島崎藤村から坂口安吾へ

こうして、多くの知的刺激を受けた相馬氏の『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』における小林秀雄の評価には、物足りなさと強い違和感を覚えていたのですが、その二ヶ月後に刊行された『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)を読んだ時に、その印象は一変しました。

太宰治の研究で知られる相馬氏は、太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で、太宰の盟友でもあった坂口安吾の厳しい小林秀雄批判にも言及していたのです。

この本については、稿を変えて紹介することにします。

リンク→相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

「原子力規制委員会」関連記事一覧

先ほど、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切って居直っていた日本の代表的な知識人・小林秀雄の「道義心」の問題を論じた記事をアップしました。

この問題は再稼働を許可した安倍政権の閣僚やことに「原子力規制委員会」に深く関わりますので、「原子力規制委員会」関連記事一覧を掲載します。

 

「原子力規制委員会」関連記事一覧

「僕は無智だから反省なぞしない」――フクシマ後の原発再稼働と知識人・小林秀雄

パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(に)くき者」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「アベノミクス」と原発事故の「隠蔽」

御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想

「放射能の除染の難しさ」と「現実を直視する勇気」

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

「僕は無智だから反省なぞしない」――フクシマ後の原発再稼働と知識人・小林秀雄

今日(2月27日)の「東京新聞」朝刊は、原発事故に関する二つの記事を一面のトップで伝えています。最初の記事は「高浜4号機 不安の再稼働 冷却水漏れ直後、予定通り」という大見出しと、「問われる責任 福島事故 生きない教訓」という見出しとともに掲載された下記の記事です。

*   *   *

〈関西電力は二十六日、高浜原発4号機(福井県高浜町)を再稼働させた。福島第一原発事故後の原子力規制委員会の新規制基準下では、九州電力川内(せんだい)原発1、2号機(鹿児島県)、高浜原発3号機に続き二カ所四基目。4号機では二十日、原子炉補助建屋でボルトの緩みが原因で放射性物質を含む一次冷却水漏れが起きたが、関電は同様の弁を点検するなど対策を済ませたとして、当初予定通りの日程で再稼働させた。〉

もう一つは「東電元会長ら3人 29日に強制起訴」という見出しの次のような記事です。

〈東京電力福島第一原発事故で、東京第五検察審査会から二度、起訴すべきとの議決を受けた東電の勝俣恒久元会長(75)ら旧経営陣三人について、検察官役の指定弁護士が二十六日に会見し、三人を二十九日に業務上過失致死傷罪で、在宅のまま強制起訴することを明らかにした。〉

*   *   *

これらの記事を読みながら思い出したのは、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されて、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語り、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切って居直っていた日本の代表的な知識人・小林秀雄のことです(下線は引用者)。

なぜならば、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と長編小説『罪と罰』を解釈した文芸評論家の小林秀雄の著作が、自民党の教育政策により教科書や試験問題でも採り上げられることにより「利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という道徳観が広まったことで、自分の発言に責任を持たなくともよいと考える政治家や社長が増えたと思えるからです。

しかも、1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談「人間の進歩について」で、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林秀雄は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語り、「原子力エネルギー」の危険性を指摘してこう続けていたのです。

「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」。

当時としてはきわめて先見の明のある発言だと思われますが、問題は「僕は無智だから反省なぞしない」と啖呵を切ることで戦争犯罪の問題を「黙過」していた小林が、原発の推進が「国策」となると今度は「原子力エネルギー」の危険性をも「黙過」するようになっていたことです。

それゆえ、代表的な知識人である小林が「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と発言していた文章を読み直したときには、「僕は政治的には無責任な一国民として事変に処した」と発言しているのと同じだと感じたのですが、小林秀雄の「道義心」の問題は「国民の生命」に関わる「原子力規制委員会」とも深く関わっています。それゆえ、再稼働を許可した「原子力規制委員会」関連記事一覧も次のブログで掲載します。

なお、自分の言葉がスメルジャコフに「父親殺し」を「使嗾」していたことに気づいたイワンが、深い「良心の呵責」に襲われ意識混濁や幻覚を伴う譫妄症にかかったと描かれている『カラマーゾフの兄弟』については、→アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』」を参照してください。  

追記:大岡昇平と埴谷雄高との対談「二つの同時代史」を読んだところ、この有名な台詞がその場で語られたものではなく、あとで付け足された文章であることを知った。その箇所を引用しておく。

大岡 小林秀雄で思い出したけれども「近代文学」が小林を呼んでやった座談会のときのあとで物議を醸した台詞があるだろう。自分は黙って事件(ママ)に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい、というやつ。

埴谷 ああ、それは、小林さんは座談会のときは言ってなくて、あとで書いたものなんだよ。だいたい小林さんは座談会の原稿は全部書き直して、はじめの言葉は一つもないくらいだよ。

大岡 しかし、小林の「黙って事件に処した」はあまりあてにならないな。黙って事件に処してはいないよ、あいつ(笑い)。 (……)座談会では日米けんかしたらむろん勝つさ、なんていっている。

(『大岡昇平全集』別巻、筑摩書房、211~212頁、2019年5月7日、加筆、リンク先を追加)

 

「原発再稼働問題」関連記事一覧

パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(に)くき者」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「アベノミクス」と原発事故の「隠蔽」

御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想

「放射能の除染の難しさ」と「現実を直視する勇気」

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

 

 

 

 

「主な研究」のタイトル一覧をテーマ別に変更

項目が増えてきて見つけにくくなりましたので、「主な研究(活動)」のタイトル一覧を年代順からテーマ別に変更し、ブログに連載した記事のタイトルも掲載することにしました。

タイトル一覧のⅠ.にはドストエフスキー、ロシア文学、小林秀雄関係の研究を、Ⅱ.には司馬遼太郎、近代日本文学関係の研究を掲載します。

今回は小林秀雄の良心観を『ヒロシマわが罪と罰』との関係を中心に考察した関連記事をタイトル一覧Ⅰ.に追加しました。

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

「一億総活躍」という標語と「一億一心総動員」 

2014年12月に行われた総選挙の際には、「アベノミクス」を前面に出した「景気回復、この道しかない。」というスローガンが、「国民」の目を戦争の実態から逸らし、今の困窮生活が一時的であるかのような幻想を振りまいた、「欲しがりません勝つまでは」という戦時中のスローガンと似ていることを指摘していました。

リンク→「欲しがりません勝つまでは」と「景気回復、この道しかない。」

高市総務相の「電波停止」発言に接した後では、戦前の内務大臣と同じような高市氏の言論感覚を問う記事を書きました。

リンク→武藤貴也議員と高市早苗総務相の「美しいスロ-ガン」――戦前のスローガンとの類似性

第3次安倍改造内閣では「一億総活躍社会」が目玉政策として掲げられ、その担当大臣まで任命されましたが、2月12日の「東京新聞」(夕刊)には〈「一億総活躍」への違和感〉と題された池内了氏の記事が掲載されていました。

「その言葉を聞くとなんだか気持ちが悪くなり、そっぽを向きたいという気になってしまう」と記した池内氏は、「大日本帝国がアジア太平洋戦争前および戦争中に、夥(おびただ)しい数の国策スローガン」を作ったが、そこでは「『一億』という言葉が頻繁に使われた」ことを指摘しています。

つまり、「一億日本 心の動員」などと心の持ち方が強調されていた標語は、物資が欠乏してくると「進め一億火の玉だ」、「一億一心総動員」などのスローガンとなり、戦況が厳しくなると「一億が胸に靖国 背に御国」から、「撃滅へ 一億怒濤(どとう)の体当たり」などと特攻隊のような標語となっていたのです。

このような標語の流れを詳しく分析した池内氏は、戦後は一転して「一億総懺悔(ざんげ)」と戦争責任がうやむやにされたことを指摘して、「標語に潜む意図」をきちんと読み解く必要性を説いています。

「日本新聞博物館」には、戦前の言論統制によって、新聞がきちんと事実を報道できなくなったことが、悲惨な戦争につながったことが時代的な流れを追って展示していました。

リンク→新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

安倍晋三氏が好んで用いる「積極的平和主義」からは、「日中戦争」や「太平洋戦争」の際に唱えられた「王道楽土」や「八紘一宇(はっこういちう)」などの戦前の「美しいスローガン」が連想されます。

1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、戦争に対して不安を抱いた林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけられた小林秀雄は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていました。

この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していたのです(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

「一億一心総動員」という戦時中の物資が欠乏してきた時代に用いられた標語によく似た「一億総活躍」という標語が、安倍内閣で用いられたということは今の時代の危険性をよく物語っているように思えます。

(2016年2月17日。青い字で書いた箇所とリンク先を追加)

リンク→小林秀雄と「一億玉砕」の思想

子規の「歌よみに与ふる書」と文芸評論家・小林秀雄

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(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫)

新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」で正岡子規が、「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」と記していたことについて、司馬氏は「歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし」たところころに「子規のすご味がある」と書いていました。

一方、小林秀雄はよく知られているように、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」し、「原子力エネルギー」の問題でも「反省なぞしない」ことが明らかになったのです。

それゆえ、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視して経済優先の政治が行われるようになった日本をみながら強く感じたのは、「事実をきちんと見る」ためには、「評論の神様とも言われる」小林秀雄のドストエフスキー観をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

2014年に『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)を上梓したのは、私がその頃、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていたためだと思われます。

それゆえ、以下に拙著(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年、第五章〈「君を送りて思ふことあり」――子規の眼差し〉より第一節の一部を抜粋して掲載します。

*   *   *

〈「竹ノ里人」の和歌論と真之――「かきがら」を捨てるということ〉より

秋山真之のアメリカ留学の前に子規が「君を送りて思ふことあり蚊帳〔かや〕に泣く」という句を新聞『日本』に載せたことを紹介した司馬氏は、「子規ほど地理的関心の旺盛な男はめずらしく、世界というものをこれほど見たがる人物もすくないと真之はかねがねおもっている。しかし皮肉なことに、運命はその後の子規を病床六尺に閉じこめてしまった」と続けていました(二・「渡米」)。

(中略)

閉ざされた空間の「子規庵」でガラス戸越しに見える庭の草木や風景を詠いながらその詩境を深めていたことに注意を促した俳人の柴田宵曲は、「ガラス障子にしたのは寒気防ぐためが第一で、第二にはいながら外の景色を見るためであった。果たしてあたたかい。果たして見える」と子規が記していることに注意を促していますが*3、子規は「ガラス戸」という洋語を用いて「ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ」という歌などを詠んでいたのです。

『坂の上の雲』では「庭のみえるガラス戸のそばに、小石を七つならべてある」ことにふれて、俳句仲間がその石を「満州のアムール河の河原でひろうたものぞな」と持ち帰ってくれたものであることが説明され、「七つの小石を毎日病床からながめているだけで、朔風(さくふう)の吹く曠野(こうや)を想像することができるのである」と書かれています。

子規に「古今(こきん)や新古今の作者たちならこの庭では閉口するだろうが、あしはこの小庭を写生することによって天地を見ることができるのじゃ」と語らせた司馬氏はこの後で、「竹ノ里人」の雅号で新聞『日本』に発表された「歌よみに与ふる書」という一〇回連載の歌論について「事をおこした子規は、最初から挑戦的であった」と書き、次のように詳しく考察しています。

「その文章は、まずのっけに、/『ちかごろ和歌はいっこうにふるっておりません。正直にいいますと、万葉いらい、実朝(さねとも)いらい、和歌は不振であります』/ という意味を候文で書いた。手紙の形式である。/『貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候』/という。歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし、和歌の聖典のようにあつかわれてきた古今集を、くだらぬ集だとこきおろしたところに、子規のすご味がある」。

しかし、「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」と主張した「子規への攻撃が殺到」します。

「子規の恩人である陸羯南などは、短歌にも一家言があり、『日本』の社長として子規の原稿に横ヤリなどは入れないが、しかし子規の論ずるところにはっきりと反対であった。また『日本』の社内には歌を詠んだり歌に関心のある記者が多い。これらが、ぜんぶといっていいくらいに子規の論に反対であった」。

そのような厳しい批判にもひるまずに子規は持論を展開したのですが、司馬氏は子規の歌論の意味を、「英国からもどって」きた真之との会話をとおして分かり易く説明しています。

すなわち、「あしはこのところ旧派の歌よみを攻撃しすぎて、だいぶ恨みを買うている。たとえば旧派の歌よみは、歌とは国歌であるけん、固有の大和言葉でなければいけんという。グンカンということばを歌よみは歌をよむときにはわざわざいくさぶねという。いかにも不自然で、歌以外にはつかいものにならぬ」と子規は語ったのです。

司馬氏は子規が外国語を用いることや「外国でおこなわれている文学思想」を取り入れることが、「日本文学を破壊するものだという考えは根本があやまっている」と主張し、「むかし奈良朝のころ、日本は唐の制度をまねて官吏の位階もさだめ、服色もさだめ、唐ぶりたる衣冠をつけていたが、しかし日本人が組織した政府である以上、日本政府である」と続けたと描いています。

一方、「日本人が、日本の固有語だけをつかっていたら、日本国はなりたたぬということを歌よみは知らぬ」という子規の歌論を聞き、彼が書いた新聞の切り抜きを読んだ真之は、「升サンは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている。あしも、それを考えている」と語ります。

そして真之は、古い伝統を持つスペイン海軍とアメリカ海軍を比較しながら、遠洋航海に出た軍艦には、「船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる」と指摘して、「作戦のもとになる海軍軍人のあたま」も、「古今集ほど古くなくても、すぐふるくなる」ので、「固定概念(かきがら)」は捨てなければならないと主張したのです(二・「子規庵」)。

この記述に注目するとき、子規の俳句論や和歌論は古今東西の海軍の戦術を丹念に調べてそれを比較することで最良の戦術を求めようとした真之の方法についてだけでなく、イギリスに留学した夏目漱石やロシアに留学した広瀬武夫の見方にも深く関わると思われます。

リンク→「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

(2016年2月4日。〈正岡子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ〉を改訂、改題)。

「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

Ⅰ、「物質への情熱」――小林秀雄の正岡子規論

小林秀雄に正岡子規の「歌よみに与ふる書」を論じたエッセイ「物質への情熱」があります(『小林秀雄全集』第一巻)。

この冒頭で「正岡子規に『歌よみに与ふる書』といふ文章がある事は誰でも知つてゐる。そのかたくなに、生ま生ましい、強靱な調子を、私は大変愛するのだが」と記した小林秀雄は、「読んでゐて、病床に切歯する彼の姿と、へろへろ歌よみ共の顔とが、並んで髣髴と浮んで来るには少々参るのだ」と続けていました。

さらに、「惟ふに正岡子規は、日本詩人稀れにみる論理的な実証的な精神を持つた天才であつた」と記した小林秀雄は、「どんな大きな情熱も情熱のない人を動かす事は出来ないのかも知れない。子規の言葉は理論ではない、発音された言語である」との理解を示していました。

ただ、このエッセイに戸惑いを覚えたのは、冒頭近くで正岡子規の主張に対しては「到底歌よみ共には合点が行かぬと私は思ふ。少くとも子規が難詰したい歌よみ共には通じまいと思ふ」と書き、「『歌よみに与ふる書』は真実の語り難いのを嘆じた書状である。果して他人(ひと)を説得する事が出来るものであらうか」とも記した小林が次のように続けていたことです。

「詩人は美しいものを歌ふ楽な人種ではない。在るものはたゞ現実だけで、現実に肉薄する為に美しさを頼りとしなければならぬのが詩人である。女に肉薄するのに惚れるといふ事を頼りにするのが絶対に必要な様なものである」。

Ⅱ、「歌よみに与ふる書」と『坂の上の雲』

正岡子規が新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」については、司馬氏も長編小説『坂の上の雲』でふれています。私はこの箇所こそが『坂の上の雲』の中核となっていると考えています。

リンク→子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ

なぜならば、『坂の上の雲』単行本の第4巻のあとがきでは、「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記し、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていると記されています。このような「事実」の隠蔽に対する怒りが、膨大な時間をかけつつ自分で戦史を調べてこの長編小説を書かせていたのだと思えるのです。

一方、よく知られているように、小林秀雄は敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」したのです。

それゆえ、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていた私は、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視した政治が行われるようになった日本をみながら、「事実をきちんと見る」ためには「評論の神様とも言われる」文芸評論家・小林秀雄の方法をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

Ⅲ、「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の正岡子規観

注目したいのは、小林秀雄が正岡子規論に「物質への情熱」という題名を付けたことに強い違和感を記していた寺田透が、『子規全集』第二巻に「従軍発病とその前後」という題の「解説」を書き、そこで子規の「多様性」に注意を促していることです。

「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、無論これは全部についても言へることだが、子規の多産であり、その病軀にもかかはらぬ健康であり、さらにこれが江戸時代の俳句と子規のそれを区別するもつとも明瞭なことだが、子規の好奇心に満ちた多様性といふことである。」

ここで言及されている明治27年には、日清戦争が勃発し、この翌年に子規は病身をおして従軍記者となるのですが、この時期についてはこのHPの「正岡子規・夏目漱石関連簡易年表」を引用することによって、この時期と子規との関連を簡単に説明しておきます。

*   *   *

1894(明治27) 子規、2月、上根岸82番地(羯南宅東隣)へ転居。2月11日『「小日本』創刊、編集責任者となり、月給30円。小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。3月 挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。5月、北村透谷の自殺についての記事を書く。7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。7月29日、清国軍を攻撃。8月1日、清国に宣戦布告。9月黄海海戦で勝利、11月、旅順を占領。

1895(明治28) 子規、3月、日清戦争への従軍許可がおりる。4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。「陣中日記」を『日本』に連載。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、一時重態に陥る。7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。」

*   *   *

日本にとってばかりでなく、子規にとってもたいへんな年であったことが分かりますが、「たとへば次の新年の句二句すら、題材が富士であり筑波であるにもかかはらず、陳腐さより、時代の新しさを感じさせる」とし、〈ほのほの(原文ではくりかえし記号)と茜の中や今朝の不二〉と〈白し青し相生の筑波けさの春〉の二句を紹介した寺田は、こう記しています。

「これらの句からは、藩境などといふもののなくなつた国土を、自由に走つて行ける眼と心の喜びと言つたものが直覚されるといふことは言はずにゐられない。」

そして、子規が独身であるにも関わらず、〈古妻のいきたなしとや初鴉〉という「虚構」を記した句も書いていることを注目した寺田は、「この春には春雨の題で、〈春雨のわれまぼろしに近き身ぞ〉/深々として不気味な句を作者は作つた」ことを紹介して、「これも、誰もまだ作ることのできなかつた句だと言へよう」と子規の句の「多様性」に注意を促していました。

さらに、〈あちら向き古足袋さして居る妻よ〉という句を評して、「この明るさは、現実に縛られず、その上に別種の世界をくりひろげる空想のそれだといふことである」とも寺田は書いていました。

子規に関していろいろな著書を調べていた際に、最も刺激を受けた子規論の一つが「虚構」をも許容する子規の「多様性」を指摘した寺田透のこの「解説」だったのです。

「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」との持論を展開した子規には、「虚構」をも許容する「多様性」があったという寺田の指摘は非常に重要だと思えます。

なぜならば、1908年に長編小説『春』で、北村透谷との友情やその死について描くことになる島崎藤村(1872~1943)は、北村透谷(1868~1894)の追悼記事を書いた可能性の高い子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説『花枕』についての感想も述べていたのです。

子規が小説「曼珠沙華」で部落民に対する差別の問題をも描いていることを考えるならば、後に長編小説『破戒』を書くことになる藤村が子規と会っていたことの意味は大きいでしょう。

リンク→正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

(2016年2月3日。〈「事実をよむ」ことと「虚構」という方法〉より改題し、大幅に改訂)

 

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