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司馬遼太郎

正岡子規の時代と現代(7)―― 司馬遼太郎の新聞観と『永遠の0(ゼロ)』の新聞観

 「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

大正の青年と…、表紙(書影はアマゾンより)

正岡子規の時代と現代(7)―― 司馬遼太郎の新聞観と『永遠の0(ゼロ)』の新聞観

司馬氏の新聞観で注目したいのは、日露戦争中の新聞報道の問題を指摘していた司馬氏が、「ついでながら、この不幸は戦後にもつづく」と書き、「戦後も、日本の新聞は、――ロシアはなぜ負けたか。/という冷静な分析を一行たりとものせなかった。のせることを思いつきもしなかった」と指摘した後で、こう続けていたことです。

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「かえらぬことだが、もし日本の新聞が、日露戦争の戦後、その総決算をする意味で、/『ロシア帝国の敗因』/といったぐあいの続きものを連載するとすれば」、ロシア帝国は「みずからの悪体制にみずからが負けた」という結論になったであろう(五・「大諜報」)。

さらに司馬氏は「退却」の章で、「日本においては新聞は必ずしも叡智(えいち)と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽(あお)っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった」と分析しています。そして、日露戦争後にはルーズヴェルトが「日本の新聞の右傾化」という言葉を用いつつ「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」と述べたことに注意を向けた後で司馬氏はこう記していたのです(六・「退却」)。

「日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ」。

この記述に注意を促したジャーナリストの青木彰氏は、平成三年(一九九一)に京都で開かれた第四〇回新聞学会(現在の日本マス・コミュニケーション学会)で司馬氏が行った記念講演「私の日本論」の内容を紹介しています*39。

すなわち、司馬氏によれば「『「情報(知識)』には『インフォメーション(Information)』、『ナレッジ(Knowledge)』と『ウィズダム(Wisdom)』の三種類がある」のですが、「日本ではインフォメーションやナレッジの情報が氾濫し、知恵や英知を意味するウィズダムの情報がほとんどない」と日本の「新聞やテレビなどマスコミに対する危機感」を語っていたのです。(『新聞への思い』、187~188頁)。

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一方、小説『永遠の0(ゼロ)』の第九章「カミカゼアタック」では、新聞記者の高山に対して、「夜郎自大とはこのことだ――。貴様は正義の味方のつもりか。私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけた主要な登場人物の一人で元社長の武田は、話題を太平洋戦争から日露戦争の終了時へと一転して、こう続けていました。

以下、近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』、第二部第三章〈「巧みな『物語』制作者」徳富蘇峰と「忠君愛国」の思想〉より引用します。

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「講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った」ことから「国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった」。

そして、『国民新聞』が焼き討ちされたことを例に挙げて、「私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺(ぶんすいれい)だと思っている。この事件以降、国民の多くは戦争讃美へと進んでいった」と断言したのである。

徳富蘇峰の『国民新聞』だけが唯一、講和条件に賛成の立場を表明していたのはたしかだが、ここには戦時中と同じような「情報の隠蔽」がある。なぜならば、日本政治思想史の研究者・米原謙が指摘しているように、「戦争に際して、『国民新聞』は政府のスポークスマンの役割を果たし」ており、「具体的には、国内世論を戦争遂行に向けて誘導し、対外的には日本の戦争行為の正当性を宣伝」していたのである*8

つまり、思想家・徳富蘇峰の『国民新聞』が焼き討ちされたのは彼が「反戦を主張した」からではなく、最初は戦争を煽りながら戦争の厳しい状況を「政府の内部情報」で知った後では一転して「講和」を支持するという政府の「御用新聞」的な性格に対して民衆の怒りが爆発したためであった。

実際、弟の徳冨蘆花が、「そうなら国民に事情を知らせて諒解させれば、あんな騒ぎはなしにすんだでしょうに」と問い質していたが、蘇峰は「お前、そこが策戦(ママ)だよ。あのくらい騒がせておいて、平気な顔で談判するのも立派な方法じゃないか」と答えていた*9。

司馬は後に戦争の実態を「当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい」と書いているが、蘇峰の発言を考慮するならば、この批判が『国民新聞』に向けられていた可能性が強いと思われるのである*10。

しかも、元会社社長の武田がここで徳富蘇峰に言及したのは偶然ではない。なぜならば、今年は徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』(一九一六年)が発行されてから百年に当たるが、坂本多加雄「新しい歴史教科書を作る会」理事は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰がこの書で指摘し得ていたとして高く評価していた*11。

そして、「若い世代の知識人たち」からは冷遇されたこの書物の発行部数が百万部を越えていたことを指摘して、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調していたのである*12。

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当時の政府の方針を代弁していた書物の部数に注目することで、その著作の内容があたかもすぐれているかのように強調するのは、今も変わっていないのが可笑しいのですが、提起されている問題は深刻だと思われます。

なぜならば、『永遠の0(ゼロ)』で多くの登場人物に戦時中の軍部の「徹底した人命軽視の思想」を批判させ、自らもこの小説で「特攻」を批判したと語り、安倍首相との対談では「百人が読んだら百人とも、高山のモデルは朝日新聞の記者だとわかります」と社名を挙げて非難した作者が、こう続けているからです。

「安倍総理も先ほどおしゃっていたように、この本を読んだことによって、若い人が日本の歴史にもう一度興味を持って触れてくれることが一番嬉しいですね」(『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』ワック株式会社)。

しかし、『大正の青年と帝国の前途』で「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」と書いた徳富蘇峰は前回のブログ記事で見たように、「大正の青年」たちに「白蟻」のように死ぬ勇気を求めていました。

このように見てくる時、司馬遼太郎氏が鋭く見抜いていたように、蘇峰の思想は軍部の「徹底した人命軽視の思想」の先駆けをなしており、そのような思想が多くの餓死者を出して「餓島」と呼ばれるようになったガダルカナル島での戦いなど、6割にものぼる日本兵が「餓死」や「戦病死」することになった「大東亜戦争」を生んだといえるでしょう。

つまり、名指しこそはしていませんが、「大正の青年」に「白蟻」となることを強いた徳富蘇峰への批判が、『坂の上の雲』における度重なる「自殺戦術」の批判となっていると思われます。このことに注目するならば、登場人物に徳富蘇峰が「反戦を主張した」と主張させることによって、日本軍の「徹底した人命軽視の思想」を批判する一方で、蘇峰の歴史認識を美化している『永遠の0(ゼロ)』は、日本の未来を担う青少年にとってきわめて危険な書物なのです。

それにもかかわらず、この小説や映画がヒットしたのは、「孫」を名乗る役だけでなく、警察官や関係者が何人も登場する劇場型の「オレオレ詐欺」と同じような構造をこの小説が持っているためでしょう。最初は距離を持って証言者たちに接していた主人公の若者・健太郎がいつの間にかこのグループの説得に取り込まれたように、読者をも引きずり込むような巧妙な仕組みをこの小説は持っているのです。

それゆえ、拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の第二部ではこのような『永遠の0(ゼロ)』を読み解くことによって隠された「日本会議」の思想の問題点を明らかにしようとしました。

(2016年11月4日、青い字の箇所を変更して加筆。11月28日、図版を追加)

 

 『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の目次

正岡子規の時代と現代(4)――明治6年設立の内務省と安倍政権下の総務省

「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(司馬遼太郎『翔ぶが如く』、文春文庫、第3巻「分裂」。拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』81頁))

「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」(『翔ぶが如く』、「書きおえて」)。

isbn978-4-903174-33-4_xl装画:田主 誠/版画作品:『雲』

 

正岡子規の時代と現代4――1873年(明治6年)の内務省と安倍政権下の総務省

司馬遼太郎氏は長編小説『翔ぶが如く』で、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通が、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたと書いていました(第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

これらの指摘は一見、現代の日本を考える上では参考になるとは見えません。しかし、ドイツが福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論と民衆の「英知」を結集して「脱原発」に踏み切る英断をしたのを見て、改めて痛感したのは、ドイツ帝国やヒトラーの第三帝国の負の側面をきちんと反省していたドイツと日本との違いです。

なぜならば、敗戦70年の談話で安倍首相は、「日露戦争の勝利」を強調していましたが、ヒトラーも『わが闘争』においてフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調していたのです。

こうして、ヒトラーはドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への「新たな戦争」へと突き進んだのですが、「官の絶対的威権を確立」したドイツ帝国を模範として第三帝国を目論んだヒトラー政権は、50年足らずで崩壊した「ドイツ帝国」よりもはるかに短期間で滅んでいました。

それゆえ、敗戦後に母国だけでなくヨーロッパ全域に甚大な被害を与えたナチスドイツの問題を詳しく考察したドイツでは、「官僚」の命令に従うのではなく、原発など「国民の生命」に関わる大きな問題を国民的なレベルで議論することを学んだのだろうと思われるのです。

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それに対して日本では、「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」とヒトラーの政治手法に言及した麻生副総理の発言は内外に強い波紋を呼んだものの、集中審議開催を与党が拒否したために、国会でのきちんとした論戦もないままに終わっていました。

本場のドイツとは異なり、日本では敗戦後も「内務省のもつ行政警察力」を中心とした「プロシア風の政体」の問題や政治家や経済界の責任を明らかにしなかったために、

『新聞紙条例』(讒謗律)が発布される2年前の明治6年に設置された内務省の危険性がいまもきちんと認識されていないようです。

一方、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏はナチスドイツと「昭和前期の日本」との類似性を意識しない日本の政治家の危険性を次のように厳しく批判していました。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒットラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

司馬氏のこのような問題意識は、『坂の上の雲』の終了後に書き始めた『翔ぶが如く』にも受け継がれています。

すなわち、その後書きで「土地バブル」に多くの民衆が踊らされて人々の生命をはぐくむ「大地」さえもが投機の対象とされていた時期に、「土地に関する中央官庁にいる官吏の人」から「私ども役人は、明治政府が遺した物と考え方を守ってゆく立場です」という意味のことを告げられた時の衝撃を司馬氏はこう書いているのです。

「私は、日本の政府について薄ぼんやりした考え方しか持っていない。そういう油断の横面を不意になぐられたような気がした」。

そして司馬氏は、「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」と続けていたのです(『翔ぶが如く』文春文庫、第10巻「書きおえて」)。

福島第一原子力発電所の大事故のあとで、原子力産業を優遇してこのような問題を発生させた官僚の責任が問われずに、地震大国である日本において再び国内だけでなく国外にも原発の積極的なセールスがなされ始めた時に痛感したのは「書きおえて」に記された司馬氏の言葉の重みでした。

*   *   *

それゆえ、11月28日に私は下記の文面とともに、「特定秘密保護法案に反対する学者の会」に賛同の署名を送りました。

〈「テロ」の対策を目的とうたったこの法案は、諸外国の法律と比較すると国内の権力者や官僚が決定した情報の問題を「隠蔽」する性質が強く、「官僚の、官僚による、官僚と権力者のための法案」とでも名付けるべきものであることが明らかになってきています。それゆえ私は、この法案は21世紀の日本を「明治憲法が発布される以前の状態に引き戻す」ものだと考えています。〉

特定秘密保護法案の衆議院強行採決に抗議し、ただちに廃案にすることを求めます

*   *   *

新聞報道の問題や言論の自由の問題のことを考えていたこの時期にたびたび脳裏に浮かんできたのは、郷里出身の内務省の官僚との対立から寄宿舎から追い出された後で、木曽路の山道を旅して「白雲や青葉若葉の三十里」という句を詠んだ正岡子規の姿でした。

日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』では、どうしても多くの頁数が割かれている戦闘の場面の描写の印象が強くなるのですが、この後で東京帝国大学を中退して新聞『日本』の記者となった正岡子規を苦しめることになる「内務省」や新聞紙条例などの問題もこの長編小説では詳しく分析されているのです。

それゆえ、子規の叔父・加藤拓川と新聞『日本』を創刊する陸羯南との関係にも注意を払いながらこの長編小説を読み進めるとき、「写生」や「比較」という子規の「方法」が、親友・夏目漱石の文学観だけでなく、秋山真之や広瀬武夫の戦争観にも強い影響を及ぼしていることを明らかにすることができると思えたのです。

(初出、2013年11月27日~29日。改訂しリンク先を追加、2016年11月1日)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(目次

人文書館のHPに掲載された「ブックレビュー」、新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』

正岡子規の時代と現代(1)――「報道の自由度」の低下と民主主義の危機

 「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(司馬遼太郎『翔ぶが如く』、文春文庫、第3巻「分裂」。拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』81頁)

isbn978-4-903174-33-4_xl装画:田主 誠/版画作品:『雲』

 

正岡子規の時代と現代(1)――「報道の自由度」の低下と民主主義の危機

2013年11月13日のブログ記事で私は長編小説『翔ぶが如く』の上記の文章を引用して、「世界を震撼させた福島第一原子力発電所の大事故から『特定秘密保護法案』の提出に至る流れを見ていると、現在の日本もまさにこのような状態にあるのではないかと感じる」と記しました。

その後の「安全保障関連法案」の強行採決から現在に至る安倍政権の手法は、薩長藩閥政権による独裁的な権力の成立と言論の弾圧にきわめて似ていると思われます。

たとえば、2013年12月6日の「東京新聞」(ネット版)は、「特定秘密保護法案が5日午後の参院国家安全保障特別委員会で、自民、公明両党の賛成多数により可決された」ことを伝え、〈官僚機構による「情報隠し」や国民の「知る権利」侵害が懸念される法案をめぐる与野党攻防は緊迫度を増した。〉と記していました。

「秘密保護法は党内で阻止する勇気が必要」、「党内議論がない総裁独裁が一番怖い」などの古賀誠元自民党幹事長の発言を掲載した翌日の「日刊 ゲンダイ」の文章を引用した私は、こう記しました。「現在の国会で圧倒的な議席を占める自民党や公明党の議員からも、これらの問題を指摘してさらなる慎重な審議を要求する声が出ても当然のように思えます。しかし、すでに自民党は『総裁』の『独裁』が確立し、与党内でも『言論の自由』が早くもなくなっているように見えます」。

そのことを裏付けるかのように日本の「報道の自由度」は一気に世界で72位まで落下し、今年10月25日の「東京新聞」は〈自民党は、党則で連続「2期6年」までと制限する総裁任期を「3期9年」に延長する方針を固めた〉ことを伝えています。

それゆえ、少し古い記事になりますが、明治の新聞人・正岡子規の視線をとおして、「特定秘密保護法案」や「安全保障関連法案」などの問題を、国内を二分した「西南戦争」から「日清・日露戦争」へと拡大していった明治時代における「教育勅語」や「新聞紙条例」と新聞報道などの問題を考察した記事を再掲します。

ただ、約3年前に書いた記事なので、関連する記事や新しい出来事などについての記述なども補った形で記すことにします。

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(目次

→人文書館のHPに掲載された「ブックレビュー」、新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビューを転載

“未来への警鐘として”

子規の写生と方法、漱石の冷徹な現実批評の

精神を受け継いで伝える!

isbn978-4-903174-33-4_xl  装画:田主 誠/版画作品:『雲』

 人文書館のHP・ブックレビューのページに、大木昭男・桜美林大学名誉教授の書評の抜粋が掲載されましたので転載します。

(人文書館のHPより) → 新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」

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                                           大木昭男

今年は作家司馬遼太郎(1923~96)の没後20周年にあたる。本書の著者、高橋誠一郎氏は、これまでに司馬遼太郎に関する多くの著書、論文を発表しており、今回は『坂の上の雲』を中心に、そこに登場する四国伊予松山出身の三人――陸軍騎兵の創始者となった秋山好古(1859~1930)、その弟で、海軍士官として活躍した秋山真之(1868~1918)、俳諧に革新をもたらした正岡子規(本名は常規、つねのり、1867~1902)――に焦点をあてて「開化期」の日本について、広範な資料を駆使して論述している。(中略)

本書では、松山出身の上記三人のうち、特に正岡子規の生涯が中心に据えられているので、その関連だけでも多数の人物との交友関係が紹介されている。そのうち特に興味ふかかったのは、子規と夏目漱石との関係である。(中略)

正岡子規と夏目漱石との交友は、1884(明治17)年に二人がともに東京大学予備門(のちの第一高等中学校)に入学した時点から始まる。……子規は此の頃記したエッセイにおいて、夏目金之助(漱石)を数ある朋友たちのうち、「畏友」として挙げている(『筆まかせ』の「交際」の章)。(中略)

漱石が子規から学んでいたこととして、著者、高橋氏が「『大和魂』を絶対化することの危険性」を指摘していることは、本書の眼目として重要な箇所である。それは、……自分の価値観を絶対化することの危険性の指摘である。このような子規の問題意識を最も強く受け継いでいる例として、著者は『吾輩は猫である』において描かれている第六話における苦沙弥先生の「大和魂」を揶揄的に連発する風刺的新体詩が挙げられている。その先、第十一話で漱石は、「子規さんとは御つき合でしたか」との東風君の問いに「なにつき合はなくつても始終無線電信で肝胆相照らして居たもんだ」と苦沙弥に応えさせる場面が紹介される。

「大和魂」を絶対化して「スローガン」のように用いることの危険性を、苦沙弥先生に語らせていた漱石の批判的指摘は、『坂の上の雲』の作者司馬遼太郎が言わんとしていることにつながっていく。すなわち、日本陸軍首脳部の「戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない、『必勝の信念』の鼓吹や『神州不滅』思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服を着た戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた」という考え方に。さらに、学徒兵として戦車隊に組み込まれた体験の持ち主である司馬氏が、『戦車・この憂鬱な乗り物』(1972)と題したエッセーで「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判していたことが指摘されている。

……高橋氏が本書を執筆するに到った動機のひとつは、『坂の上の雲』を賞賛する人だけでなく、批判する人の多くがこの小説では戦争が肯定的に描かれていると解釈していたことへの反発であったと思う。文学作品を評価する場合、作者の意図を正確に理解して読者大衆に伝えてゆく責務がある。『坂の上の雲』に描かれた日清・日露の戦争を、司馬は日本とロシアいずれの側にも偏することなく、出来うる限り歴史的事実に則して客観的に描いており、未来への警鐘とも受け止められる。その手法と歴史観は、子規の比較と写生の方法、漱石の冷徹な現実批評の精神を受け継いでいると見てよかろう。高橋氏の著書は、『坂の上の雲』で作者司馬遼太郎が日本国民に伝えようとした意図を豊富な資料を駆使して伝えている。

大木昭男(オオキ・テルオ、桜美林大学名誉教授、著書『漱石と「露西亜の小説」』など)

大木昭男著『ロシア最後の農村派作家――ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社、 2015年)

『世界文学』(2016年、第123号、世界文学研究会編「Ⅳ 書評」より)学会誌 世界文学会ページ 

「高橋誠一郎著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する」を転載

たいへん遅くなりましたが、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」の『読書会通信』No.154に、作家でドストエフスキー研究者・長瀬隆氏の拙著の紹介が載りましたので転載します。

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高橋誠一郎著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する

                長瀬隆

十数年前のドストエーフスキイの会の例会だった。報告者6人全員が前方に一列に並んで座り、順に報告したことがあった。左端の人と右端の高橋氏とが論争となり、高橋氏が「(私は)ドストエフスキーだけをやっているのではありません」と応ずる一幕があった。氏は全国でも珍しい東海大の文明学科の出身で、ロシア文学研究もその立場からのもので、ドストエフスキーは重要だが、しかし一構成要素であることを言ったのだった。その基底にあるのは日本とロシアの比較文明論であり、それに豊饒な材料を提供しているのが黒澤明(映画「白痴」その他)と司馬遼太郎(日露戦争を主題とした長編小説『坂の上の雲』その他)なのである。ともにかなり以前から取り組んできた主題であり、何冊もの先行関連著書があるのだが、2011・3・11に福島で大規模な原発事故があってその論点が煮詰められることとなった。前作の『黒澤明と小林秀雄――『罪と罰』をめぐる静かなる決闘』と同様、最新のこの書もフクシマ以前のものよりはるかに深くかつ明快なものとなっている。

ドストエフスキーは一度死刑を宣告されて減刑・流刑となり、以後生涯検閲を意識しつつしばしば筆を抑えまた逆説的に執筆した。そのことを「二枚舌」といったひと聞きの悪い言葉でいう人もいるが、高橋氏は上品にイソップの言葉と言ってきた。どこがイソップの言葉でどこが衷心の言葉であるかを見極めるのが、ドストエフスキー読解の要諦である。

60年代に設置が始まり54基に達したウラン原発を、フクシマ後、満州事変から敗戦に至る昭和日本の歴史と酷似するとなす言説が現れた。過去の誤りから学ばずに繰り返された誤りであると指摘するもので、もっともだった。またそれを遡って、明治維新に端を発するとする見解もまた提出された。その一つに梅原猛のものがあり、明治元年の「廃仏毀釈」が端緒だったとされた。絶対主義的天皇制の富国強兵国家をつくるためには、仏教の平和主義は「外来思想」として排除されねばならなかったのであって、欧米帝国主義の後を追う国づくりがなされ、明治国家が成立した。日露戦争後鞏固になったこの国家は、司馬史観によれば、80年後の1945年に終息崩壊した。しかし反省不足の者たちが、秘かに日本国家の近い将来の核武装を想定しつつ、その原料であるプルトニウムを産する核エネルギーサイクルを導入し、安全を高唱しつつフクシマをもたらしたのである。

司馬遼太郎(1923~96)は徴兵された戦中世代に属し、いわゆる15年戦争の日本の否定面を知る人である。しかし戦国時代に題材をとった娯楽もの的な時代小説の作家として出発しており、私などは、第一次戦後派の作家とは共通点のない異質の直木賞作家と見てきた。明治維新に筆が及ぶように至って、関心をもつことになったのであり、高橋氏が学び評価しているのもこの時代以降を扱った作品群である。昭和時代の誤謬に至る道が奇兵隊出身の山県有朋によって用意されたことが特記されている。中野重治が戦時下に『鴎外その側面』で論じていた問題であるが、司馬作品で分かりやすく書かれることになった。司馬フアンであってもかなりの部分が見過ごしている箇所を高橋氏は丹念に取り上げ注意を喚起しており傾聴にあたいする。

必要があって1922年のアインシュタインの来日を調べたが、大正の開かれた明るい国際主義的歓迎は、そのすぐ後の昭和の日本人の暗さとは別人の観がある。明治憲法、教育勅語、「国体の本義」等々にがんじがらめに縛られて死への暴走を始め、1945・8・15に至った。この時代はあまりにも悪すぎて書けなかったと司馬氏は述べており、それに較べれば「戦後は良い時代だった」と告白される。苦難の体験を強いられて日本人の多くは目覚め、1955年の米水爆実験を期に原水爆禁止の国民運動が起こった。ある場所に書いたのであるが、これは日本人が史上初めて人類の名で己を語った運動であった。しかしほとんど同じ時期に原発建設をふくむ核エネルギーサイクルの導入が始まっている。推進者は朝鮮戦争によって戦犯を解除された内務官僚(後に新聞社社主)、旧憲法に郷愁を抱く保守政治家たちだった。彼らは反対者たち(湯川秀樹ら物理学者)を排除し、このサイクルを国策として決定、ムラと呼ばれたが実態は強力な集団を形成した。銀行が加わったこの政産官複合体が、それなりの「危機感」から安倍政権をつくり出したのである。

現行サイクルを温存し原発の再稼働を目論む現政権は、安全関連法を強行採決し、戦争犠牲者たちが残してくれた貴重な非戦の憲法を改悪しようとしている。かくて高橋氏は、司馬作品を踏まえてのことであるが、帝政ロシアにおける憲法問題にまで言及する。その体制にも「教育勅語」は在って、それは「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調するものだった。ドストエフスキー文学の背景を明らかにする指摘であり、これを閑却すると理解は「孤独感」(小林秀雄)やたんなる「父殺し」の強調といった具合に矮小化する。

「(今日)日本や世界が『文明の岐路』」に差し掛かっている」と著者は述べ、私もまた同感である。『坂の上の雲』が戦争を肯定しているかのような把握を斥け、著者の真意にそった正しい読解のために本書は執筆された。副題にあるように、三人の主要登場人物のうち正岡子規が新聞『日本』との係わりにおいて今回とくに重視された。『岐路』を過たずに生き抜こうとする人々にとって本書はおおきな励ましである。

明治という激動と革新の時代のなかで 山茶花に新聞遅き場末哉(子規、明治32年、日本新聞記者として)司馬遼太郎の代表的な歴史小説、史的文明論でもある『坂の上の雲』等を通して、近代化=欧化とは、文明化とは何であったのかを…問い直す。

→ 長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて

司馬遼太郎の『沖縄・先島への道』と『永遠の0(ゼロ)』の沖縄観

長編小説『坂の上の雲』の完結した一九七二年に沖縄がようやくアメリカから返還されたが、その二年後の一九七四年に司馬遼太郎は沖縄を再び訪れた。この時の紀行が『沖縄・先島への道』である。

この作品の冒頭近くにおいて司馬は、「住民のほとんどが家をうしない、約一五万人の県民が死んだ」太平洋戦争時の沖縄戦にふれつつ、「沖縄について物を考えるとき、つねにこのことに至ると、自分が生きていることが罪であるような物憂さが襲って」くると書いている。

さらに、その頃論じ始められていた沖縄の独立論に触れつつ、「明治後、『日本』になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじになってしまう。ここ数年間そのことを考えてみたが、圧倒的に同じになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える」という重たい感想を記している(『沖縄・先島への道』「那覇・糸満」)。

この時、司馬遼太郎はトインビーが発した「国民国家」史観の批判の重大さとその意味を実感し、「富国強兵」という名目で「国民」に犠牲を強いた近代的な「国民国家」を超える新しい文明観を模索し始めるのである。(→高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』、のべる出版企画、2002年、〈第三章 「国民国家」史観の批判〉)。

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敗戦七〇年を経た現在、沖縄では住民の意向を無視してジュゴンが住む辺野古の海にアメリカ軍のより恒常的な基地がつくられようとしているだけでなく、ヤンバルクイナをはじめ多くの固有種が見られ、住民たちが「神々のすむ森」として畏敬してきた「やんばるの森」に多くの機動隊員が派遣されてヘリパッドが建設されようとしている。

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キャンペーン 沖縄・高江における米軍ヘリパッド建設中止を!

 〈沖縄戦の時、島袋文子さんは火炎放射器で焼かれて上半身に大火傷をした。そして、 大火傷を負った両手を上げて壕の中から投降した。今、その両手を上げ、基地建設のトラックの前に立ちはだかる。「この命はね、一度は死んだ命だったんだよ。私がトラックに轢かれて基地が止まるなら、それでいい」(引用は、斉藤かすみ氏のツイッターより、2016年10月10日:twitter.com/Remember311919… )

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日本の大地や河川、そして海までも放射能で汚染した「フクシマ」の悲劇の後でも、沖縄で戦前や戦中と同じような政策をごり押している安倍政権を強く支持している「日本会議」や「神社本庁」は、すでに真の宗教心を失って政治団体化しているのではないかとすら思われてくる。

一方、作家の百田尚樹は『永遠の0(ゼロ)』で、避けようとすれば避けられた太平洋戦争末期の「沖縄戦」について元やくざの景浦介山に、「沖縄では多くの兵士や市民が絶望的な戦いをしていた。圧倒的な米軍相手に玉砕(ぎょくさい)覚悟で戦っていたのだ。行っても無駄だからと、彼らの死を座視できるか。死ぬとわかっていても、助けに行くのが武士ではないか」と語らせて正当化させていた。

しかし、この頃には三国同盟を結んでいた国のうち、イタリアは一九四三年に、ナチスドイツも一九四五年の五月には降伏して、それ以降は日本だけが連合国との戦争を続けていたのである。言葉を換えれば、日本の降伏が遅くなったことが、沖縄戦の悲劇だけでなく、広島と長崎の悲劇を生んだのである。この事実を直視することが必要だろう。

(2016年10月29日、リンク先を追加)。

安倍政権による新たな「琉球処分」と司馬遼太郎の沖縄観

「新しい戦争」と「グローバリゼーション」(『この国のあしたーー司馬遼太郎の戦争観』の「はじめに」)を掲載

二〇〇一年は国際連合により「文明間の対話」年とされ、二一世紀は新しい希望へと向かうかに見えた。しかし、その年にニューヨークで「同時多発テロ」が起きた。むろん、市民をも巻き込むテロは厳しく裁かれなければならないし、それを行った組織は徹底的に追及されなければならないことは言うまでもない。ただ、問題はこれに対してアメリカのブッシュ政権が「報復の権利」の行使をうたって「文明」による「野蛮」の征伐を正当化して激しい空爆を行い、「野蛮」なタリバン政権をあっけないほど簡単に崩壊させた後には、イラクや北朝鮮だけでなく、タリバンへの空爆の際には協力を求めたイランをも「悪の枢軸国」と名付けて攻撃をも示唆したことである。このようなアメリカの論理にのっとってイスラエルのシャロン首相は、「自爆テロ」への「報復の権利」を正当化し、パレスチナ自治区への激しい武力侵攻を行い、お互いの「報復の応酬」によって中東情勢は混沌の色を濃くしたのである。

この意味で注目したいのは、なせ第一次世界大戦の敗戦後にヒトラーが政権を握りえたかを分析した社会学者の作田啓一が、「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついているとし、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘したことである*1。このことは強い「グローバリゼーション」の流れの中でナショナリズムが燃え上がるようになったかをよく物語っている。すなわち、このような民族主義・国家主義の傾向は、イスラエルに限ったことではなく、インドとパキスタンが互いに核実験を行って世界から顰蹙(ひんしゅく)を買ったのはまだ記憶に新しいが、ヨーロッパでもオーストリアでハイダー党首率いる民族主義政党が躍進して政権を担うに至り、最近ではフランスでヒトラー的な反ユダヤ主義を標榜するルペン党首が率いる極右政党「国民戦線」への支持が急激に増えるなど、世界大戦前のような民族主義の台頭が世界的に見られるのである。このような理由について作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している*2。

日本でも強い「グローバリゼーション」に対応するために低学年からの学習など英語教育の徹底する一方で、青少年における凶悪犯罪やモラルの低下が「自由と平等」を原則としたアメリカ的な原理に基づく戦後教育が原因だとして、愛国心や伝統の重要性が強調されるようになり、かつての強い「明治国家」を目指す「復古」的な主張や戦争を賛美するような言動も目だつようになってきている。しかも、このような過程でそれまでも高い評価を得ていた司馬遼太郎(一九二三~一九九六)の歴史小説が、司馬の死後には「国民的一大ブームといってよいほど」にもてはやされ、「神話化」され、「権威化」された「司馬史観」を背景にして、「公」としての「国家」を重んじることが、アジアで最初の「国民国家」である「明治国家」を讃えた司馬の遺志に適うかのような雰囲気が急速にかもしだされたのである*3。

しかし、はたして司馬遼太郎は「明治国家」や日露戦争の全面的な賛美者だったのだろうか。この意味で興味深いのは比較文明学的な視野から見るとき、「同時多発テロ」の発生以降、「同盟国」である超大国アメリカの「新しい戦争」を助けることが「常識」とされて、「グローバリゼーション」の圧力のもとに国会での議論もあまり行われないままに一連の「テロ関連法案」が通過し、さらに「有事法案」や「メディア規制法案」などにより「国権」の強化がはかられている「平成国家」日本の現状が、やはり「文明開化」という名の「欧化」の圧力のもとに、強い「国民国家」をめざして讒謗律、新聞紙条例、保安条例などの一連の法律を制定して国内の安定を保つとともに大国イギリスと同盟することで「日露戦争」へと突き進んだ「明治国家」の姿とも重なるように見えることである。

司馬遼太郎は日露戦争を主題として描いた『坂の上の雲』の前半では、すでに憲法を持っていた「国民国家」としての「明治国家」と専制政治下の「ロシア帝国」との戦いを「文明」と「野蛮」の戦いととらえていた。しかし、厖大な死傷者を出した近代戦争としての日露戦争の現実を「冷厳な事実」を直視して詳しく調べていくなかで司馬は、西欧列強に対抗するために日露両国が行った近代化の類似性に気付いて「国民国家」が行う戦争に対する疑問を強く持ち始め、一九三一年に起きた「満州事変」を「閉塞状態を、戦争によって、あるいは侵略によって解決しようとした」と鋭く批判するようになるのである(「何が魔法にかけたのか」『「昭和」という国家』ーー以下、『国家』と略す)。

つまり、『坂の上の雲』を書き上げた時、司馬は第一次世界大戦が生みだした戦争の惨禍を反省して大著『歴史の研究』を書き、西欧文明を唯一の文明として絶対的な価値を与えてきたそれまでの西欧の歴史観を「自己中心の迷妄」と断じて、近代の「国民国家」史観の克服をめざし、比較文明学の基礎を打ち立てたたイギリスの研究者トインビーに近い地点にいたのである。実際、ナポレオン戦争以降、「強国」は互いに自国を「文明」として強調しながら、「復讐の権利」を主張し合い、武器の増産と技術的な革新を競い合う中で戦争は拡大し、第二次世界大戦では原子爆弾が使用されて五千万以上ともいわれる死者を出すにいたったのである。

しかもトインビーは、古代ユダヤにおいてもローマ文明を「普遍的な世界文明として」認める考えと「ローマ化」を「文明の自己喪失として有害」とする「国粋」的な考えの鋭い対立があったことを記していたが*4、このような「周辺文明論」をさらに深めた山本新や吉澤五郎が指摘しているように、日本に先んじて「文明開化」を行っていたロシアでも「欧化と国粋」という現象は、顕著に見られたのである*5。

たとえば、ソ連崩壊後に「グローバリゼーション」の波に襲われたロシアではヒトラーの『わが闘争』のロシア語訳がいくつもの本屋で販売され、さらに過激な民族主義者ジリノフスキーの率いるロシアの自由民主党が選挙で躍進するなどの傾向が見られたが、このような現象は、クリミア戦争敗戦後の混乱の時期にも強く見られた。この意味で注目したいのは、激しい「欧化と国粋」の対立の中で、「血の復讐」を批判して「和解」の必要性を説く「大地主義」を唱えていたドストエフスキーが、「非凡人の理論」を生みだして「自己を絶対化」し、「悪人」と規定した「他者」の殺害を行った若者の悲劇を長編小説『罪と罰』(一八六六)において描き出していたことである。こうしてドストエフスキーは近代西欧社会に強く見られる「弱肉強食」の思想や「報復の権利」の行使が、際限のない「報復」の連鎖となり、ついには「階級闘争」や「国家間の戦争」となり「人類滅亡」にも至る危険性があることを明らかにしたのである*6。

比較文明学者の神川正彦は西欧の「一九世紀〈近代〉パラダイム」を根本的に問い直すには、「欧化」の問題を「〈中心ー周辺〉の基本枠組においてはっきりと位置づけ」ることや、「〈土着〉という軸を本当に民衆レベルにまで掘り下げる」ことの重要性を指摘した*7。方法論的にはそれほど体系化はされていないにせよ司馬遼太郎も、明治維新や日露戦争などの分析と考察を通して同じ様な問題意識にたどり着き、「辺境」に位置する沖縄の歴史の考察を行った『沖縄・先島への道』(一九七四)を経て、ナポレオンと同じ年に淡路島で生まれた高田屋嘉兵衛の生涯を描いた『菜の花の沖』(一九七九~八二)では、近代ロシアの知識人たちの人間理解の深さや比較文明学的な視野の広さに注意を払いつつ、日露の「文明の衝突」の危険性を防いだ主人公を生みだした「江戸文明」の独自性とその意味を明らかにしたのである。

こうして司馬遼太郎は戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、さらに、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と主張するようになるのである(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』)。

この時の対談者であった作家の井上ひさしは、「憲法」という用語が「日常語」ではなかったために「なかなか私たちのふだんの生活の中に入って」こなかったが、司馬が『この国のかたち』において「統帥権」などの「法制度」や「倫理」の問題を通して「憲法」の重要性を分かりやすい言葉で考察していることを指摘している*8。

こうして「新しい戦争」が視野に入ってきている現在、敗戦による「傷ついた自尊心」から日本人としてのアイデンティティを求めて小説家となり、幕末の激動の時期を描いた『竜馬がゆく』以降の作品では急速な「欧化」への対抗としておこったナショナリズムの問題をも直視することにより「戦争」だけでなく、近代化における「法制度」や「教育」の意味についても鋭い考察を行った司馬遼太郎の歩みをきちんと考察することは焦眉の課題といえよう。なぜならば、トルストイが『戦争と平和』において明らかにしたように、戦争という異常な事態は突然に生じるのではなく、日常的な営みや教育の中で次第にその危険性が育まれるからである。

司馬遼太郎は大坂外国語学校での学生時代に「史記列伝」だけでなく「ロシア文学」にも傾倒していた*9。以下、本書では日本の「文明開化」において大きな役割を演じた福沢諭吉の教育観や歴史観と比較しながら、ロシア文学研究者の視点から司馬遼太郎の作風の変化に注意を払いつつ、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『菜の花の沖』の三つの長編小説における彼の戦争観の深化を考察したい。

この作業をとおして私たちは「欧化と国粋」の対立の危険性を痛切に実感しつつ、日本のよき伝統や文化を踏まえたうえで、「日本人」の価値だけでなく新しい世紀にふさわしい「普遍的」な価値を求め、文明間の共存を可能にしうるような新しい文明観を示した司馬遼太郎の意義を明らかにすることができるだろう。

(2016年8月13日『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』より一部訂正の上、再掲。註は省略した)

 

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(司馬遼太郎「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

   *   *   *

昭和16年に谷口雅春氏が書いた『生命の實相』には、「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という記述がありますが、この本を「ずっと生き方の根本に置いてきた」と語っていた稲田朋美氏が安倍首相によって防衛大臣に任命されました。

私が稲田氏の発言に関心を抱いたのは、この表現が『わが闘争』において、「闘争は種の健全さと抵抗力を促進する手段なのであり、したがってその種の進化の原因でありつづける」と主張していたヒトラーの言葉を思い起こさせたからです。

それは稲田氏ばかりではありません。麻生副総理も憲法改正論に関してナチス政権の「手口」を学んだらどうかと発言して問題になっていましたが、明治政府は新しい国家の建設に際しては、軍国主義をとって普仏戦争に勝利したプロイセンの政治手法にならって内務省を設置していました。

その内務省の伝統を受け継ぐ「総務省」の大臣となり「電波停止」発言をした高市早苗氏も、1994年には『ヒトラー選挙戦略現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていました。

   *   *   *

かつて、私は教養科目の一環として行っていた『罪と罰』の講義でヒトラーの「権力欲」と大衆の「服従欲」を考察した社会心理学者フロムの『自由からの逃走』にも言及しながら、高利貸しの老婆の殺害を正当化した主人公の「非凡人の理論」とヒトラーの「非凡民族の理論」との類似性と危険性を指摘していました。

10数年ほど前から授業でもヒトラーを讃美する学生のレポートが増えてきてことに驚いたのですが、それは『ヒトラー選挙戦略現代選挙必勝のバイブル』に推薦文載せた高市氏などが自民党で力を付け、その考えが徐々に若者にも浸透し始めていたからでしょう。

本間龍氏は『原発プロパガンダ』で「宣伝を正しく利用するとどれほど巨大な効果を収めうるかということを、人々は戦争の間にはじめて理解した」というヒトラーの言葉を引用しています。

ヒトラーが理解した宣伝の効果を「八紘一宇」「五族協和」などの美しい理念を謳い上げつつ厳しい情報統制を行っていた東条内閣の閣僚たちだけでなく、「景気回復、この道しかない」などのスローガンを掲げる安倍内閣もよく理解していると思われます。

安倍首相も「新しい歴史教科書をつくる会」などの主張と同じように「日露戦争」の勝利を讃美していましたが、それも自国民の優秀さを示すものとして普仏戦争の勝利を強調していたヒトラーの『わが闘争』の一節を思い起こさせるのです。

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ヒトラーは『わが闘争』において「社会ダーウィニズム」的な用語で、「闘争は種の健全さと抵抗力を促進する手段なのであり、したがってその種の進化の原因でありつづける」と記していました。

ダーウィンの「進化論」を人間社会にも応用した「社会ダーウィニズム」は、科学的な世界観として19世紀の西欧で受け入れられたのですが、「進化」の名の下に「弱肉強食の思想」や経済的な「適者生存」の考え方を受け入れ、奴隷制や農奴制をも正当化していたのです。 たとえば、ピーサレフとともにロシアでダーウィンの説を擁護したザイツェフは一八六四年に記事を発表し、そこで「自然界において生存競争は進歩の推進機関であるから、それは社会的にも有益なものであるにちがいない」と主張し、有色人種を白人種が支配する奴隷制を讃えていたのです。

クリミア戦争後の混乱した社会を背景に「弱肉強食の思想」を理論化した「非凡人の理論」を生み出した主人公が、高利貸しの老婆を「悪人」と規定して殺害するまでとその後の苦悩を描いたドストエフスキーの長編小説『罪と罰』は、ヒトラーの「非凡民族の理論」の危険性を予告していました。

すなわち、ヒトラーは『わが闘争』において「非凡人」の理論を民族にも当てはめ、「人種の価値に優劣の差異があることを認め、そしてこうした認識から、この宇宙を支配している永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と高らかに主張したのです。

社会心理学者のフロムはヒトラーが世界を「弱肉強食の戦い」と捉えたことが、ユダヤ人の虐殺にも繋がっていることを示唆していました。 考えさせられたのは、日本でも障害者の施設を襲って19人を殺害した植松容疑者のことを、自民党のネット応援部隊が擁護して「障がい者は死んだほうがいい」などとネットで書いたとの記述がツイッターに載っていたことです。

この記事を読んだときに連想したのが、ユダヤ人だけでなくスラヴ人への偏見も根強く持っていたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の考え方です。 すでにハフィントンポスト紙は2014年9月12日の記事で、「高市早苗総務相と自民党の稲田朋美政調会長と右翼団体『国家社会主義日本労働者党』代表の2ショット写真」が、「日本政府の国際的な評判を一気に落としてしまった」と指摘していました。

「内務省」を重視した戦前の日本は、過酷な戦争にも従順に従う国民を教育することを重視して国民の統制を強める一方で、外国に対して自国の考え方を発信して共感を得ようとするのではなく、考えを隠したことで外国からは疑われる事態を招き、国際的な緊張が高まり、ついに戦争にまでいたりました。

自分自身だけでなく、安倍内閣の重要な閣僚による「政治的公平性」が疑われるような発言が繰り返される中で、情報を外国にも発信すべき高市総務相が「電波停止」発言をしただけでなく、政権による報道への圧力の問題を調査した国連報道者のデビット・ケイ氏からの度重なる会見の要求を拒んだ高市氏が、一方で「国家神道」的な行事に出席することは国際社会からは「政治的公平性」を欠くように見えるでしょう。

最後に死後に起きた「司馬史観」論争において「新しい歴史教科書をつくる会」などの主張によって矮小化されてしまった作家・司馬遼太郎氏の言葉をもう一度引用しておきます。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

(2016年10月1日、一部訂正。2019年1月8日、改訂)

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日(三)、「オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の原爆観・歴史観」を掲載 

三、オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の原爆観・歴史観

オバマ大統領の広島訪問は、被爆者の方々との真摯な対話もあり、核廃絶に向けた一歩前進ではあったと思える。その一方で「菅直人が原子炉への海水注入をやめさせたというデマ」を安倍首相が「自身のメルマガに書き」込んでいた安倍首相とその周辺は、「トリチウム汚染水を除染しないまま薄めて海に流してしまうという」経産省の提案を同じ五月二七日に発表し、さらには大統領と同行の写真を選挙活動の広告として使っている。

この一連の流れを見ながら思い出したのは、二〇一三年の終戦記念日に安倍首相の式辞を聞いたあとで強い危機感を抱き、ブログ記事を書いた時のことであった。記念式典で安倍首相は「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切りひらいてまいります。世界の恒久平和に、あたうる限り貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります」と語った。しかし、そこではこれまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」や脱原発の文言もなかった*22。

一方、二〇一三年八月六日の「原爆の日」に広島市長は原爆を「絶対悪」と規定し、九日の平和宣言で長崎市長は、四月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える八〇カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待」を裏切り、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と厳しく批判していた。

つまり、安倍首相はこれらの痛切な願いを無視していたのである。それゆえ、初代のゴジラと同じ一九五四年生まれであるにもかかわらず安倍首相は、広島と長崎、「第五福竜丸」の三度の被爆や、「世界が破滅する」危機と直面していたキューバ危機、さらにはいまだに収束せずに汚染水など多くの問題を抱えている二〇一一年の福島第一原子力発電所の大事故のことをきちんと考えたことがあるのだろうかという強い危惧の念を抱いた。

事実、政府が「武器輸出三原則」の見直しを検討しているとの報道がなされたのは、二〇一四年二月一一日のことであったが、「特定秘密保護法」を強行採決して報道機関などに圧力をかけて、言論の自由を制限し、翌年には「戦争法」の疑いのある「安全保障関連法案」も強行採決した安倍政権は、「アベノミクス」という経済政策とともに「積極的平和主義」を掲げて、原発の輸出だけでなく武器の輸出にも積極的に乗り出したのである。

しかも、岸信介元首相は「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」との国会答弁をしていたが、このような方針も受け継いだ安倍首相も二〇〇二年二月に早稲田大学で行った講演会における質疑応答では、「小型であれば原子爆弾の保有や使用も問題ない」と発言して物議を醸していた*23。そして、ついに内閣法制局長官に抜擢された横畠裕介氏は二〇一六年三月一八日の参議院予算委員会で核兵器の使用についても「憲法上、禁止されているとは考えていない」という見解したのである。

最初にふれたように映画《ゴジラ》が封切られたのは「第五福竜丸」事件が起き無線長が亡くなった一九五四年のことであり、この映画が大ヒットした背景には、度重なる原水爆の悲劇を踏まえて核兵器の時代に武力によって問題を解決しようとすることへの強い批判や、軍拡につながりかねない強力な兵器を創造することを拒んだ科学者の芹沢への共感があったと思える。

安倍政権による一連の決定は、水爆実験により安住の地を奪われた「ゴジラ」に仮託して、「核のない世界」を願った日本国民の悲願をないがしろにし、再び世界を「軍拡の時代」へと引き戻すものであると言わねばならないだろう。

ただ、ゴジラが誕生したこの年の七月一日には警察の補完組織だった保安隊と警備隊を改組した自衛隊も誕生していた。予告編では「水爆が生んだ現代の恐怖」などの文字だけでなく、「挑む陸・海・空の精鋭」、という文字も「画面いっぱいに」広がって広告効果を上げていた*24。これら後半の文字は初代の映画《ゴジラ》やその後のゴジラの変貌を考えるうえできわめて重要だと思える。

なぜならば、映画《ゴジラ》が公開されたのは日本国憲法が公布されたのと同じ一一月三日のことであったが、創刊三一年を記念した二〇〇四年の『正論』一一月号に掲載された鼎談で、衆議院議員の安倍晋三氏は「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」と略す)第三代会長の高崎経済大学助教授・八木秀次氏(肩書きは当時)やジャーナリストの櫻井よしこ氏とともに「改憲」への意気込みを語ってもいたからである*25。

この号では石原慎太郎・八木秀次両氏による「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」という対談も行われており、ここで日露戦争の勝利を「白人支配のパラダイムを最初に痛撃した」と評価した石原氏は、「大東亜戦争」の正しさを教えられるような歴史教育の必要性を強調していた*26。

このような「憲法」の軽視と日露戦争の賛美の流れは、『坂の上の雲』では「健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」と描かれているとする一方で、科学的な歴史観を「自虐史観」と決めつけ、「司馬の小説と史論を組み合わせると」新しい歴史観をうち立てることができるとした藤岡信勝氏の論調を受け継いでいると思える*27。この論考が発表された翌年の一九九七年一月には「つくる会」が発足し、七月にはそれに連動して安倍晋三氏を事務局長とした「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられているのである。

しかし、作家の司馬遼太郎は『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促し*28、書き終えた後では「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いていた*29。

安倍政権の成り立ちと「日本会議」との関わりに注意を促した菅野完氏の著作に続いて『日本会議とは何か』(合同出版)、『日本会議の全貌』(花伝社)などが相次いで発行されたことで、反立憲主義的な「日本会議」と育鵬社との関わりが明らかになってきている。そのことに留意するならば「変な酩酊者」という用語で「歴史修正主義者」を批判した作家・司馬遼太郎の歴史観は、「事実」を軽視して自分のイデオロギーを正当化しようとする「つくる会」や「日本会議」の歴史認識とはむしろ正反対のものといわねばならない。

安倍首相が尊敬する岸元首相とも面識のあった憲法学者の小林節氏によれば、「彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は」、「普通の感覚で言えば、この時代こそがファシズム期」である、「国家が一丸となった、終戦までの一〇年ほどのあいだだった」のである*30。

政治学者の中島岳志氏との対談で「全体主義は昭和に突然生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたもの」で、「明治維新の国家デザインの延長上に生まれた」ことに注意を促した宗教学者の島薗進氏も、「戦前に起きた『立憲主義の死』」と「安倍政権が引き起こした『立憲主義の危機』」の関連を考察する必要性を提起し、「宗教ナショナリズム」の危険性を指摘している*31。

実際、安倍首相は今年の「施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した」が、それは「神道政治連盟」の主張と重なっており、神社本庁が包括する初詣でにぎわう神社の多くには、改憲の署名用紙が置かれていた*32。

この意味で注目したいのは、映画《風立ちぬ》を製作した宮崎駿監督が、孫が記す祖父の世代の戦争の記録の形で著した百田尚樹氏の映画《永遠の0(ゼロ)》を「神話の捏造をまだ続けようとしている」と厳しく批判していたことである*33。宮崎監督が前節で見た映画《モスラ》の脚本家の一人でもあった作家の堀田善衛と司馬遼太郎との鼎談を行っていたことを考えるならばこの批判は重要だろう*34。

『日本会議の研究』を著した菅野完氏は、作者の百田尚樹氏について「剽窃と欺瞞の多いこの人物について言及することは筆が汚れるので、あまり言及したくはない」と記している*35。そのことには同感だが、多くの読者が安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』もある百田氏の小説『永遠の0(ゼロ)』に感動してしまったのは、「事実」を直視することを忌避して、東条英機内閣の頃のように美しいが空疎なスローガンを掲げている安倍政権や「日本会議」の歴史認識にも遠因があると思われる。

最近は「テキスト」を「主観的に読む」ことが勧められ、「テキスト」という「事実」をきちんと読み解くことが下手になっていると思われるので、宮崎監督のアニメ映画や批判を視野に入れながら文学論的な手法でこの小説や映画をきちんと分析することが必要だろう。

 

*22 高橋誠一郎 ブログ記事「終戦記念日と『ゴジラ』の哀しみ」、二〇一三年八月一五日

*23 『サンデー毎日』(二〇〇二年六月二日号、参照。

*24 小野俊太郎『ゴジラの精神史』彩流社、二〇一四年、一一九頁。

*25 安倍晋三・八木秀次・櫻井よしこ「今こそ”呪縛”憲法と歴史”漂流”からの決別を」『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、八二~九五頁。

*26 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、前掲号、五八頁。

*27 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五一~六九頁。

*28 司馬遼太郎「歴史を動かすもの」『歴史の中の日本』中央公論社、一九七四年、一一四~一一五頁。

*29 司馬遼太郎「『坂の上の雲』を書き終えて」『司馬遼太郎全集』第六八巻、評論随筆集、文藝春秋、二〇〇〇年、四九頁。

*30 樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』集英社新書、二〇一六年、三二頁。

*31 島薗進・中島岳志著『愛国と信仰の構造』集英社新書、二〇一六年、一三二頁、二三七頁。

*32 「東京新聞」朝刊、特集〈忍び寄る「国家神道」の足音〉、二〇一六年一月二三日。

*33宮崎駿、雑誌『CUT』(ロッキング・オン/9月号)。引用はエンジョウトオル〈宮崎駿が百田尚樹『永遠の0』を「嘘八百」「神話捏造」と酷評〉『リテラ』二〇一四年六月二〇日より。

*34 堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』朝日文庫、二〇一三年参照。

*35 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、二〇一六年、一一七頁。

(2016年7月1日、加筆。2016年11月2日、タイトルを改題)

「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって」(5)

目次(最新版

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「国家神話をとりのけた露わな実体」への関心

7、司馬遼太郎の予感――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

このような「拓川居士」の章の主題は忠三郎の親友・タカジと、大正から昭和への変わり目に一年だけ存続した同人誌「驢馬」とのつながりや、詩人だったタカジが革命家へと変貌する過程を描いた「阿佐ヶ谷」の章へと直結している。

しかもそれは唐突なことではなく、すでに司馬は「伊丹の家」の章で、忠三郎が結婚をした一九三七年の七月に「ふたりで外出中、号外で戦争の勃発を知った。宣戦布告という形式こそとられていないが、北京南郊の蘆溝橋で日華両軍が衝突し、交戦がつづいているということは、このあとの段階をどのようにも深刻に予想することができた」として、主人公たちと時代との関わり注意を向けていた。

このような流れは、弟蘆花の厳しい指摘にもかかわらず、「要するに我が日本国民は、国家が剃刀の刃を渡るが如く、只だ帝国主義に由りて、此の国運を世界列強角遂の際に、支持せざる可からざる大道理」を、まだ徹底的には会得していないと主張して、さらなる「平和的膨張」、すなわち侵略を主張していた蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』とも深く関わっていただろう(*37)。

なぜならば、司馬はこのとき「歩いている忠三郎さんの表情が暗くなり、度のつよいめがねだけが、凍ったように光っているのをあや子さんは見た」とし、彼女が自分の夫を「ただの気のいい呑気坊主とは見ていなかった」と続けていたからである(「伊丹の家」)。ここで司馬が「呑気坊主」という少し文章の流れとは違和感のある単語を用いているが、実は蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』には「大正青年は、八方を見廻すも、未だ嘗て日本帝国の独立を心配す可く、何らの事実を見出さざる也」とし、「亦た呑気至極と云ふべし」という表現が用いられていたのである。

そして蘇峰は、このような精神のたるみは「全国皆兵の精神」が、「我が大正の青年に徹底」していないためだとし、『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」ものと評価しつつも(*38)、「尚武の気象を長養するには、各学校を通して、兵式操練も必要也」とし、さらに「必要なるは、学校をして兵営の気分を帯ばしめ、兵営をして学校の情趣を兼ねしむる事也」と記していた(*39)。

一方、小学校時代から「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」が、その意味が分かりにくかったとした司馬は(*40)、「太平洋戦争の戦時下にみじかい学生時代を送った」が、「そのころから軍人がきらいで」あったが、それは「どういう学校のいかなる学生生徒にも好意をもたれなかったはずの学校教練の教師というものが予備役将校で、たえず将校服をきていたことと無縁ではないかもしれない」と記していた(「律のこと」)。こうして、蘇峰が主張した「学校をして兵営」となすという教育方針は大正から昭和にかけて徐々に実現していったのである。

この意味で注目したいのはタカジを中心に描いた「阿佐ヶ谷」の章で、司馬が「大正がおわる一九二六年からその翌年の昭和二年にかけての一年余が、タカジにとって重要な青春であった」とし、「かれらの詩の同人雑誌である『驢馬』ができ、一年余で全十二冊を出し、いさぎよく終刊になった」と記していることである。そして司馬は、「『驢馬』とその同人たちは、「タカジの生涯にとって一塊の根株のようなもの」であり、「さらには、同人の中野重治を知り、これに傾倒することによって革命運動の徒」になり、「悪法とされる治安維持法違反」で逮捕されたと続けている。

そして司馬はこの前年の一九二五年(大正一四年)に制定された「治安維持法」を、「国体変革と私有財産制否認を目的とする結社と言論活動」に関係する者に対し、国家そのものが「投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」とし、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と鋭く批判した。

治安維持法と同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになったことに注意を促した立花隆の考察は、この法律が「革命家」や民主主義者だけではなく、「軍国主義」の批判者たちの取り締まりをも企てていたことを明らかにしているだろう(*41)。すなわち、軍事教練に対する反発から全国の高校や大学で反対同盟が生まれて「社研」へと発展すると、文部省は命令により高校の社研を解散させるとともに、「学問の自由」で守られていた京都大学の「社研」に対しては、治安維持法を最初に適用して一斉検挙を行ったが、後に著名な文化人類学者となる石田英一郎が、治安維持法への違反が咎められただけでなく、天長節で「教育勅語」を読み上げ最敬礼させることへの批判が中学時代の日記に書かれていたとして不敬罪にも問われていたのである。

そして立花隆は京都帝国大学法学部の教授全員だけでなく助教授から副手にいたる三九名も辞表を提出し抗議した「滝川事件」にふれて、滝川幸辰教授に文部大臣が辞任を要求した真の理由は滝川教授が治安維持法に対して「最も果敢に闘った法学者だった」ためではないかと推定している。

二・二六事件の頃に青年時代を過ごした若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の著者である堀田善衛などと一九九二年に行った対談では司馬も、同人雑誌『驢馬』にも寄稿していた芥川龍之介が一九二七年(昭和二)に自殺し、その後でこの雑誌に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」とていることを指摘して、「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けて、「国家」の名の下に青年から言論の自由を奪い、学校を兵営化することの危険性に注意を向けた(*42)。

しかし、大正の青年に「戦争への覚悟」を求めた蘇峰は、「忠君愛国は、宗教以上の宗教也、哲学以上の哲学也」として(*43)、「日本魂」育成の必要を説き、「然も若し已むを得ずんば、兵器を以て、人間の臆病を補はんよりも、人間の勇気を以て、兵器の不足に打克つ覚悟を専一と信ずる也」と記したのである(*44)。

そして蘇峰は『教育勅語』の徹底とともに、「錦旗の下に於て、一死を遂ぐるは、日本国民の本望たる覚悟を要す。吾人は此の忠君愛国的教育に就ては、日本歴史の教訓に、最も重きを措かんことを望まざるを得ず」と主張していた(*45)。

このような教育によって学徒出陣を強いられた若き司馬は、ノモンハン事件について「ソ連のBT戦車というのもたいした戦車ではなかったが、ただ八九式の日本戦車よりも装甲が厚く、砲身が長かった」ことに注意を促し、「戦車戦は精神力はなんの役にもたたない。戦車同士の戦闘は、装甲の厚さと砲の大きさだけで勝負のつくものだ」と書き、「ノモンハンで生きのこった日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して癈人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう」と結んでいたのである(*46)。

ここではこのような事態を生み出した「皇国史観」の担い手であった徳富蘇峰を直接的には批判していない。しかし、吉田松陰を主人公とした長編小説『世に棲む日々』(一九六九~七〇)のあとがきで司馬は、「日本の満州侵略のころ」、自分は「まだ飴玉をしゃぶる年頃だったが、そのころすでに松陰という名前を学校できかされ」、「国家が変になって」くると、「国家思想の思想的装飾として」、「松陰の名はいよいよ利用された」と続け、「いまでも松陰をかつぐ人があったりすれば、ぞっとする」と記していた(*47)。

一方、蘇峰は日露戦争後に改訂した『吉田松陰』(一九〇八)において、「松陰と国体論」、「松陰と帝国主義」、「松陰と武士道」などの章を書き加えていたのである(*48)。 司馬はここで、「松陰という名が毛虫のようなイメージできらいだった」ときわめて感情的な表現を用いていたが、自作では司馬が松陰を明るいすぐれた教育者として描いていることを想起するならば、「毛虫のようなイメージ」は、改訂版の『吉田松陰』において、松陰を「膨張的帝国論者の先駆者」と規定した徳富蘇峰とその歴史観に向けられていたと言っても過言ではないだろう。

実際、『大正の青年と帝国の前途』において蘇峰は、白蟻の穴の前に硫化銅塊を置いても、蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸で硫化銅塊を埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」とする一方で、「蟻や蜂の世界には、彼の非国家文学なきを、寧ろ幸福として、羨まずんばあらず」(*49)と記していたのである。

司馬は「尼僧」の章で、日本の修道女が「布教ということを看板に、親日感情をもたせよう」としてカトリック国のフィリピンに送られることになったときの修道女となった妹たえに対する忠三郎の思いやりを描くとともに、「統帥権という超憲法的な機能を握ることで満州、華北を占領し、やがて日本そのものを占領した軍人たちは、アジアを占領するというばかげたこと」を思いついたとして、「平和的膨張主義」を唱えて侵略を正当化した思想家や昭和初期の軍人たちを厳しく批判した。

こうして司馬は、『この国のかたち』では拓川と同じ様に「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)」と記して、「愛国心」を強調しつつ、「国家」のために「白蟻」のように勇敢に死ぬことを青少年に求めた蘇峰の教育観を鋭く批判したのである(*50)。

註(5)

*37 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二二一頁。

*38 同上、二一五頁。

*39 同上、二九三頁。

*40 司馬遼太郎「教育勅語と明治憲法」『司馬遼太郎が語る日本』第四巻、朝日新聞社、一九九八年、一六二~五頁

*41 立花隆『天皇と東大――大日本帝国の生と死』文藝春秋、二〇〇六年、下巻、四一~五一頁

*42 司馬遼太郎・堀田善衛・宮崎駿『時代の風音』朝日文芸文庫、一九九七年、四二~四四頁。昭和初期の日本とクリミア戦争前のロシアの類似性については、高橋「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」『ドストエーフスキイ広場』第一二号、二〇〇三年参照

*43 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二八四頁。

*44 同上、二九三頁。

*45 同上、三一九頁。

*46 司馬遼太郎「軍神・西住戦車長」『歴史と小説』、集英社。

*47 司馬遼太郎「あとがき」『世に棲む日々』第四巻、一九七五年、二九四頁。

*48 米原謙『徳富蘇峰――日本ナショナリズムの軌跡』、中公新書、二〇〇三年、一〇五頁、一〇八頁。 なお、徳富蘇峰の『吉田松陰』については、拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、二〇〇九年、二三八~二三九頁、三五四~三五七頁参照。

*49 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、三二〇頁。

*50 司馬遼太郎『この国のかたち』(第一巻)文春文庫。

*追記 このような「国民」に「白蟻」となることを強いた徳富蘇峰の歴史観への批判こそが、『坂の上の雲』における度重なる「自殺戦術」の批判となっていると私は考えている。(拙著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、二〇〇五年、第三章〈「三国干渉から旅順攻撃へ――「国民軍」がら「皇軍」への変貌〉および、『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、二〇一四年、第五章〈「君を送りて思うことあり」――子規の視線〉、第四節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉参照。