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正岡子規の時代と現代(7)―― 司馬遼太郎の新聞観と『永遠の0(ゼロ)』の新聞観

正岡子規の時代と現代(7)―― 司馬遼太郎の新聞観と『永遠の0(ゼロ)』の新聞観

 「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

大正の青年と…、表紙(書影はアマゾンより)

正岡子規の時代と現代(7)―― 司馬遼太郎の新聞観と『永遠の0(ゼロ)』の新聞観

司馬氏の新聞観で注目したいのは、日露戦争中の新聞報道の問題を指摘していた司馬氏が、「ついでながら、この不幸は戦後にもつづく」と書き、「戦後も、日本の新聞は、――ロシアはなぜ負けたか。/という冷静な分析を一行たりとものせなかった。のせることを思いつきもしなかった」と指摘した後で、こう続けていたことです。

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「かえらぬことだが、もし日本の新聞が、日露戦争の戦後、その総決算をする意味で、/『ロシア帝国の敗因』/といったぐあいの続きものを連載するとすれば」、ロシア帝国は「みずからの悪体制にみずからが負けた」という結論になったであろう(五・「大諜報」)。

さらに司馬氏は「退却」の章で、「日本においては新聞は必ずしも叡智(えいち)と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽(あお)っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった」と分析しています。そして、日露戦争後にはルーズヴェルトが「日本の新聞の右傾化」という言葉を用いつつ「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」と述べたことに注意を向けた後で司馬氏はこう記していたのです(六・「退却」)。

「日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ」。

この記述に注意を促したジャーナリストの青木彰氏は、平成三年(一九九一)に京都で開かれた第四〇回新聞学会(現在の日本マス・コミュニケーション学会)で司馬氏が行った記念講演「私の日本論」の内容を紹介しています*39。

すなわち、司馬氏によれば「『「情報(知識)』には『インフォメーション(Information)』、『ナレッジ(Knowledge)』と『ウィズダム(Wisdom)』の三種類がある」のですが、「日本ではインフォメーションやナレッジの情報が氾濫し、知恵や英知を意味するウィズダムの情報がほとんどない」と日本の「新聞やテレビなどマスコミに対する危機感」を語っていたのです。(『新聞への思い』、187~188頁)。

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一方、小説『永遠の0(ゼロ)』の第九章「カミカゼアタック」では、新聞記者の高山に対して、「夜郎自大とはこのことだ――。貴様は正義の味方のつもりか。私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけた主要な登場人物の一人で元社長の武田は、話題を太平洋戦争から日露戦争の終了時へと一転して、こう続けていました。

以下、近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』、第二部第三章〈「巧みな『物語』制作者」徳富蘇峰と「忠君愛国」の思想〉より引用します。

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「講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った」ことから「国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった」。

そして、『国民新聞』が焼き討ちされたことを例に挙げて、「私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺(ぶんすいれい)だと思っている。この事件以降、国民の多くは戦争讃美へと進んでいった」と断言したのである。

徳富蘇峰の『国民新聞』だけが唯一、講和条件に賛成の立場を表明していたのはたしかだが、ここには戦時中と同じような「情報の隠蔽」がある。なぜならば、日本政治思想史の研究者・米原謙が指摘しているように、「戦争に際して、『国民新聞』は政府のスポークスマンの役割を果たし」ており、「具体的には、国内世論を戦争遂行に向けて誘導し、対外的には日本の戦争行為の正当性を宣伝」していたのである*8

つまり、思想家・徳富蘇峰の『国民新聞』が焼き討ちされたのは彼が「反戦を主張した」からではなく、最初は戦争を煽りながら戦争の厳しい状況を「政府の内部情報」で知った後では一転して「講和」を支持するという政府の「御用新聞」的な性格に対して民衆の怒りが爆発したためであった。

実際、弟の徳冨蘆花が、「そうなら国民に事情を知らせて諒解させれば、あんな騒ぎはなしにすんだでしょうに」と問い質していたが、蘇峰は「お前、そこが策戦(ママ)だよ。あのくらい騒がせておいて、平気な顔で談判するのも立派な方法じゃないか」と答えていた*9。

司馬は後に戦争の実態を「当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい」と書いているが、蘇峰の発言を考慮するならば、この批判が『国民新聞』に向けられていた可能性が強いと思われるのである*10。

しかも、元会社社長の武田がここで徳富蘇峰に言及したのは偶然ではない。なぜならば、今年は徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』(一九一六年)が発行されてから百年に当たるが、坂本多加雄「新しい歴史教科書を作る会」理事は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰がこの書で指摘し得ていたとして高く評価していた*11。

そして、「若い世代の知識人たち」からは冷遇されたこの書物の発行部数が百万部を越えていたことを指摘して、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調していたのである*12。

*   *   *

当時の政府の方針を代弁していた書物の部数に注目することで、その著作の内容があたかもすぐれているかのように強調するのは、今も変わっていないのが可笑しいのですが、提起されている問題は深刻だと思われます。

なぜならば、『永遠の0(ゼロ)』で多くの登場人物に戦時中の軍部の「徹底した人命軽視の思想」を批判させ、自らもこの小説で「特攻」を批判したと語り、安倍首相との対談では「百人が読んだら百人とも、高山のモデルは朝日新聞の記者だとわかります」と社名を挙げて非難した作者が、こう続けているからです。

「安倍総理も先ほどおしゃっていたように、この本を読んだことによって、若い人が日本の歴史にもう一度興味を持って触れてくれることが一番嬉しいですね」(『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』ワック株式会社)。

しかし、『大正の青年と帝国の前途』で「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」と書いた徳富蘇峰は前回のブログ記事で見たように、「大正の青年」たちに「白蟻」のように死ぬ勇気を求めていました。

このように見てくる時、司馬遼太郎氏が鋭く見抜いていたように、蘇峰の思想は軍部の「徹底した人命軽視の思想」の先駆けをなしており、そのような思想が多くの餓死者を出して「餓島」と呼ばれるようになったガダルカナル島での戦いなど、6割にものぼる日本兵が「餓死」や「戦病死」することになった「大東亜戦争」を生んだといえるでしょう。

つまり、名指しこそはしていませんが、「大正の青年」に「白蟻」となることを強いた徳富蘇峰への批判が、『坂の上の雲』における度重なる「自殺戦術」の批判となっていると思われます。このことに注目するならば、登場人物に徳富蘇峰が「反戦を主張した」と主張させることによって、日本軍の「徹底した人命軽視の思想」を批判する一方で、蘇峰の歴史認識を美化している『永遠の0(ゼロ)』は、日本の未来を担う青少年にとってきわめて危険な書物なのです。

それにもかかわらず、この小説や映画がヒットしたのは、「孫」を名乗る役だけでなく、警察官や関係者が何人も登場する劇場型の「オレオレ詐欺」と同じような構造をこの小説が持っているためでしょう。最初は距離を持って証言者たちに接していた主人公の若者・健太郎がいつの間にかこのグループの説得に取り込まれたように、読者をも引きずり込むような巧妙な仕組みをこの小説は持っているのです。

それゆえ、拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の第二部ではこのような『永遠の0(ゼロ)』を読み解くことによって隠された「日本会議」の思想の問題点を明らかにしようとしました。

(2016年11月4日、青い字の箇所を変更して加筆。11月28日、図版を追加)

 

 『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の目次

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