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「高橋誠一郎著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する」を転載

「高橋誠一郎著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する」を転載

たいへん遅くなりましたが、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」の『読書会通信』No.154に、作家でドストエフスキー研究者・長瀬隆氏の拙著の紹介が載りましたので転載します。

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高橋誠一郎著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する

                長瀬隆

十数年前のドストエーフスキイの会の例会だった。報告者6人全員が前方に一列に並んで座り、順に報告したことがあった。左端の人と右端の高橋氏とが論争となり、高橋氏が「(私は)ドストエフスキーだけをやっているのではありません」と応ずる一幕があった。氏は全国でも珍しい東海大の文明学科の出身で、ロシア文学研究もその立場からのもので、ドストエフスキーは重要だが、しかし一構成要素であることを言ったのだった。その基底にあるのは日本とロシアの比較文明論であり、それに豊饒な材料を提供しているのが黒澤明(映画「白痴」その他)と司馬遼太郎(日露戦争を主題とした長編小説『坂の上の雲』その他)なのである。ともにかなり以前から取り組んできた主題であり、何冊もの先行関連著書があるのだが、2011・3・11に福島で大規模な原発事故があってその論点が煮詰められることとなった。前作の『黒澤明と小林秀雄――『罪と罰』をめぐる静かなる決闘』と同様、最新のこの書もフクシマ以前のものよりはるかに深くかつ明快なものとなっている。

ドストエフスキーは一度死刑を宣告されて減刑・流刑となり、以後生涯検閲を意識しつつしばしば筆を抑えまた逆説的に執筆した。そのことを「二枚舌」といったひと聞きの悪い言葉でいう人もいるが、高橋氏は上品にイソップの言葉と言ってきた。どこがイソップの言葉でどこが衷心の言葉であるかを見極めるのが、ドストエフスキー読解の要諦である。

60年代に設置が始まり54基に達したウラン原発を、フクシマ後、満州事変から敗戦に至る昭和日本の歴史と酷似するとなす言説が現れた。過去の誤りから学ばずに繰り返された誤りであると指摘するもので、もっともだった。またそれを遡って、明治維新に端を発するとする見解もまた提出された。その一つに梅原猛のものがあり、明治元年の「廃仏毀釈」が端緒だったとされた。絶対主義的天皇制の富国強兵国家をつくるためには、仏教の平和主義は「外来思想」として排除されねばならなかったのであって、欧米帝国主義の後を追う国づくりがなされ、明治国家が成立した。日露戦争後鞏固になったこの国家は、司馬史観によれば、80年後の1945年に終息崩壊した。しかし反省不足の者たちが、秘かに日本国家の近い将来の核武装を想定しつつ、その原料であるプルトニウムを産する核エネルギーサイクルを導入し、安全を高唱しつつフクシマをもたらしたのである。

司馬遼太郎(1923~96)は徴兵された戦中世代に属し、いわゆる15年戦争の日本の否定面を知る人である。しかし戦国時代に題材をとった娯楽もの的な時代小説の作家として出発しており、私などは、第一次戦後派の作家とは共通点のない異質の直木賞作家と見てきた。明治維新に筆が及ぶように至って、関心をもつことになったのであり、高橋氏が学び評価しているのもこの時代以降を扱った作品群である。昭和時代の誤謬に至る道が奇兵隊出身の山県有朋によって用意されたことが特記されている。中野重治が戦時下に『鴎外その側面』で論じていた問題であるが、司馬作品で分かりやすく書かれることになった。司馬フアンであってもかなりの部分が見過ごしている箇所を高橋氏は丹念に取り上げ注意を喚起しており傾聴にあたいする。

必要があって1922年のアインシュタインの来日を調べたが、大正の開かれた明るい国際主義的歓迎は、そのすぐ後の昭和の日本人の暗さとは別人の観がある。明治憲法、教育勅語、「国体の本義」等々にがんじがらめに縛られて死への暴走を始め、1945・8・15に至った。この時代はあまりにも悪すぎて書けなかったと司馬氏は述べており、それに較べれば「戦後は良い時代だった」と告白される。苦難の体験を強いられて日本人の多くは目覚め、1955年の米水爆実験を期に原水爆禁止の国民運動が起こった。ある場所に書いたのであるが、これは日本人が史上初めて人類の名で己を語った運動であった。しかしほとんど同じ時期に原発建設をふくむ核エネルギーサイクルの導入が始まっている。推進者は朝鮮戦争によって戦犯を解除された内務官僚(後に新聞社社主)、旧憲法に郷愁を抱く保守政治家たちだった。彼らは反対者たち(湯川秀樹ら物理学者)を排除し、このサイクルを国策として決定、ムラと呼ばれたが実態は強力な集団を形成した。銀行が加わったこの政産官複合体が、それなりの「危機感」から安倍政権をつくり出したのである。

現行サイクルを温存し原発の再稼働を目論む現政権は、安全関連法を強行採決し、戦争犠牲者たちが残してくれた貴重な非戦の憲法を改悪しようとしている。かくて高橋氏は、司馬作品を踏まえてのことであるが、帝政ロシアにおける憲法問題にまで言及する。その体制にも「教育勅語」は在って、それは「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調するものだった。ドストエフスキー文学の背景を明らかにする指摘であり、これを閑却すると理解は「孤独感」(小林秀雄)やたんなる「父殺し」の強調といった具合に矮小化する。

「(今日)日本や世界が『文明の岐路』」に差し掛かっている」と著者は述べ、私もまた同感である。『坂の上の雲』が戦争を肯定しているかのような把握を斥け、著者の真意にそった正しい読解のために本書は執筆された。副題にあるように、三人の主要登場人物のうち正岡子規が新聞『日本』との係わりにおいて今回とくに重視された。『岐路』を過たずに生き抜こうとする人々にとって本書はおおきな励ましである。

明治という激動と革新の時代のなかで 山茶花に新聞遅き場末哉(子規、明治32年、日本新聞記者として)司馬遼太郎の代表的な歴史小説、史的文明論でもある『坂の上の雲』等を通して、近代化=欧化とは、文明化とは何であったのかを…問い直す。

→ 長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて

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